第二十二話 未来を知ってしまった人が、一人で全部を変えようとしていました
午後四時三十四分。
喫茶店の大きな窓から差し込む西日は、店内の木製テーブルを斜めに照らしていた。夕方にはまだ少し早い時間だったが、仕事の合間に休憩している会社員や、ノートパソコンを開いて作業をしている学生、買い物帰りらしい女性達が何組か席を埋めている。
低く流れる音楽に、カップや皿が触れ合う小さな音、店の奥で回るコーヒーミルの駆動音が重なっていた。そんなごく普通の日常の中で、佐倉七海だけが周囲とは違う時間を過ごしているように見えた。
七海は両手で紙製のカップを包み込み、指先へ伝わる温度を確かめるように何度も持ち直している。それでも飲もうとはせず、視線もずっとテーブルの木目へ落とされたままだった。
「……私、三日前から美咲が死ぬ夢を見てるんです。何度も」
ようやく出てきた声は掠れていた。
ノルンは驚いたふりも、すぐに質問を重ねることもしなかった。世界記録を通して、七海が三日前から予知夢らしきものを見ていること自体はすでに知っている。けれど、記録で知ることと、本人の口から聞くことは違う。
だから今は、七海が自分の言葉で続きを話せるまで待った。
「……信じます?」
しばらくして、七海が恐る恐る顔を上げた。
眼鏡の奥の目には疲労が滲み、目の下には薄い隈ができている。三日前から親しい相手が死ぬ夢を繰り返し見て、その理由も分からないまま一人で抱え込んでいたのなら、眠れていなくても不思議ではなかった。
「信じます」
ノルンは迷わず答えた。
あまりにも即答だったからか、七海の指がカップの側面で止まった。
「……え?」
「佐倉さんが、わざわざそのような嘘をついているとは思っておりません」
「いや、そうじゃなくて……普通、そんなこと言われたら、夢でしょとか、疲れてるんじゃないとか言いません?」
「そう言われたのですか?」
「言ってません。誰にも」
最後の一言だけが少し小さくなる。
ノルンは一拍置いてから尋ねた。
「美咲さんにも?」
「言えるわけないじゃないですか。『あなたが今日死ぬ夢を見たから気をつけて』なんて」
「……そうですね」
「しかも、一回じゃないんですよ」
七海の指へ力が入った。
「最初は三日前でした」
そこから、止まっていたものが少しずつ崩れるように、七海は話し始めた。
◇◇◇
三日前の夜、七海が最初に見た夢の舞台は駅だった。
「いつも使ってる駅です。会社から一番近いところで、改札へ下りる階段があるんです。美咲も私も、毎日のようにそこを使ってて」
七海はテーブルの上へ指を置き、そこに見えない地図でも描くようにゆっくり動かした。駅の入口、階段の位置、その先にある改札。記憶の中の風景を確かめながら説明しているのだろう。
「夢の中で、私は美咲の少し後ろを歩いてました。そうしたら、美咲の前にいた男の人が急に倒れたんです」
「急に?」
「はい。本当に突然でした。何かにつまずいたとかじゃなくて、力が抜けたみたいに」
七海の声が微かに震えた。
ノルンはその続きを知っている。
知っているからこそ、口を挟まないようにしていた。
それなのに。
「それを、美咲さんが避けようとされたのですね」
言葉が出た瞬間、七海の目が大きくなった。
しまった、とノルンもすぐに気づく。
「……どうして」
「申し訳ありません」
「今の、まだ私言ってませんよね」
「はい」
誤魔化すこともできた。
けれど、それでは昨日、美咲を不用意に警戒させた時と何も変わらない。
「私も、美咲さんに今日複数の危険が発生する可能性があることは把握しております。ただし、佐倉さんが見た夢を、そのまま見たわけではありません」
「複数……?」
「はい」
七海の表情に警戒が戻った。
「あなた、本当に何者なんですか」
「それについては……すべてをご説明することはできません」
異世界。
管理領域。
世界管理者。
転生者観察官。
神域。
世界外干渉。
それらを一度に説明したところで、今の七海へ余計な混乱を与えるだけだろう。
しかし、何も話さないまま信用だけを求めるのも違う。
「ただ、少なくとも美咲さんを傷つけるために来た者ではありません」
「それはさっきも聞きました」
「はい」
「じゃあ、何のために?」
七海の問いは鋭かった。
ノルンはその目を避けなかった。
「美咲さんが、明日も生きていられる可能性を探すためです」
七海の表情が変わった。
驚きと疑い。その奥から、本人も隠しきれない期待が一瞬だけ滲む。
「……助けられるんですか」
その質問に、ノルンは反射的に「はい」と答えたくなった。
安心させたい。
大丈夫だと言いたい。
けれど、それは今の時点では嘘になる。
「分かりません」
七海の顔から期待が少しだけ薄れる。
「ただし、助かる可能性は残っております」
「どれくらい?」
ノルンは答えなかった。
今朝の時点では十四パーセント。
そして、美咲が七海から届いた「話したいことがある」というメッセージへ、自分の意思で「いいですよ」と返したことで十七パーセントへ上昇している。
けれど、その変化を主様から正式に告げられたわけではないし、何より数字だけを七海へ渡せば、それに縛られてしまう可能性もある。
「低いです」
ノルンは正直に答えた。
「ですが、ありませんとは申しません」
七海はゆっくりと息を吐いた。
「……そうですか」
その声には絶望より、僅かな安堵が混じっていた。
「ゼロじゃないんですね」
「はい」
「なら」
七海は顔を上げた。
「何をすればいいですか」
あまりにも早かった。
自分が何をできるのか、それしか考えていない目だった。
「駅には行かせません。最初の夢が駅なんです。だから今日は駅に行かせないようにします。私が車で送るとか、それが駄目ならタクシーでもいいですし」
「佐倉さん、お待ちください」
「でも、時間がないんですよね?」
「はい。だからこそ、まず続きを聞かせてください」
「続きを?」
「夢は一度ではないのでしょう?」
七海の表情が固まった。
それだけで答えは分かった。
「……はい」
彼女は視線を落とした。
「何度も見ました」
◇◇◇
最初の夢から目覚めたのは午前三時過ぎだったという。
心臓は激しく鳴り、汗で寝間着が背中へ張りついていた。
「最初は本当にただの夢だと思いました。嫌な夢見たなって、それだけで」
翌朝、いつものように会社へ行けば、美咲は普通に出勤していた。
『おはようございます』
いつもと変わらない声で挨拶され、それを聞いた瞬間、七海は心の底から安心したという。
「生きてる。当たり前なんですけどね」
七海は自嘲するように笑った。
「夢なんだから、当たり前なんですよ」
「その時は、そう思われたのですね」
「はい」
しかし、その夜。
また同じ夢を見た。
同じ駅。
同じ階段。
同じ場所で倒れる男性。
それを避けようとして足を滑らせる美咲。
「今度は時計まで見えました」
「十九時十二分」
今度もノルンの口から先に出てしまった。
ただ、もう七海は先ほどほど驚かなかった。
「……やっぱり知ってるんですね」
「はい」
「何で」
「今すぐすべてをお答えすることはできません。申し訳ありません」
七海は納得していない顔をしたが、それでも話を止めなかった。
「二回目は少し違いました」
「何がでしょう」
「私が、美咲に声を掛けたんです」
「夢の中で?」
「はい」
駅へ行かないで。
七海は夢の中でそう言った。
今度こそ救おうと思った。
階段を避け、美咲を別の道へ連れていった。
「それで……」
七海の喉が動く。
声が出ない。
ノルンは待った。
「車に、轢かれました」
店内では、別の席に座った客が楽しそうに笑っていた。
カップがソーサーへ置かれる音がし、店員が注文番号を呼んでいる。
そんな当たり前の日常の中で、七海だけが三日前から何度も見続けてきた美咲の死を話していた。
「私の目の前で」
七海はカップを握ったまま俯いた。
「だから今度は、車が通る道も避けようと思いました」
「それも夢の中で?」
「違います。起きてからです」
七海は首を横へ振った。
「夢なのに」
本人だって分かっている。
普通なら夢で終わる話だ。
それなのに、二度も同じ人が違う形で死ぬ夢を見た。
「気持ち悪いじゃないですか。だから昨日、美咲に聞いたんです。明日、何時に帰るのって」
「美咲さんは?」
「たぶん六時半くらいって。それから駅を使うって言ってました」
七海は唇を噛んだ。
「それで、違う道で帰ろうって言いました」
昨日、美咲の未来が最初に揺れた瞬間。
七海が夢を見て、その夢を信じきれないまま、それでも美咲を守ろうとして行動を変えた。
けれど。
「その夜、また見たんです」
三回目の夢では駅を使わなかった。
階段も避けた。
七海と美咲は道路沿いを歩いていた。
これなら大丈夫だと思った、その瞬間だった。
曲がり角から車が飛び出してきた。
「音まで覚えてます」
七海は目を閉じた。
「ブレーキの音」
呼吸が少し乱れる。
「美咲が私を押したんです」
「佐倉さんを?」
「はい。私を助けて、それで美咲が……」
続きは声にならなかった。
ノルンは急がせない。
しばらく、二人の間へ喫茶店の日常音だけが流れた。
「……すみません」
「謝る必要はございません」
「でも」
「ゆっくりで構いません」
ノルンがそう言うと、七海は目元を押さえた。
「怖かった」
初めて、感情そのものを言葉にした。
「夢なのに。何回起きても、また寝たら、また美咲が死ぬんじゃないかって思って……だから昨日から寝てないんです」
七海の目から涙が一滴落ちた。
ノルンは何も言えなかった。
観察官としてなら記録できる。
三日前より予知夢発生。
睡眠不足。
未来変更行動。
死亡分岐増加。
だが、今目の前で震えている一人の人間へ、それらの情報は何の慰めにもならない。
「佐倉さん」
「はい」
「三日間、お一人だったのですね」
七海の顔が歪んだ。
「……はい」
「誰にも話せず」
「はい」
「美咲さんにも」
「言ったら怖がらせると思って。それに、私が変な人だと思われたら……」
一度、七海は言葉を詰まらせた。
「美咲が、言うこと聞いてくれなくなるじゃないですか」
その言葉が、ノルンの胸へ引っかかった。
美咲が言うことを聞かなくなる。
つまり七海は、美咲を守るために、美咲を自分の考える安全な場所へ動かそうとしている。
悪意などない。
むしろ、その逆だった。
大切だから。
死んでほしくないから。
だから自分一人で答えを決めようとしている。
それは。
ノルンがここ最近、何度も見てきたものに似ていた。
「佐倉さん。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
「美咲さんは今日、ご自分がどの道で帰るのか決めておられますか」
七海が止まった。
「それは……駅を使うって」
「佐倉さんは、それを変えようとしている」
「だって死ぬんですよ!」
思わず七海の声が大きくなり、近くの客が一瞬だけこちらを見た。
彼女はすぐに口元を押さえる。
「……すみません」
「大丈夫です。そのお気持ちは分かります」
「なら」
「私も同じだからです」
七海の目が動く。
「私も、美咲さんを助けたい。できることなら危険な場所から遠ざけて、安全だと思える場所へ連れていきたいです」
ノルンは自分自身へ言い聞かせるように言葉を続けた。
「でも、美咲さんに何も知らせないまま、『あなたのためだから』と私達だけで行き先を全部決めてしまったら」
一度言葉を切る。
「それは本当に、美咲さんを助けたことになるのでしょうか」
七海は答えなかった。
簡単に答えられる問いではない。
ノルン自身もまだ完全な答えを持っていなかった。
「じゃあ」
やがて七海が小さく口を開く。
「何もせずに、駅に行かせろって言うんですか」
「いいえ」
「だったら」
「一緒に考えていただきたいのです」
七海が顔を上げる。
「私と?」
ノルンはゆっくり首を横へ振った。
「美咲さんとです」
七海の目が見開かれた。
◇◇◇
午後四時四十八分。
管理領域では、主様が世界記録へ広がる未来分岐を見つめていた。
美咲が今日を越えて生きる可能性は、先ほどの時点で十七パーセント。
そこから数字そのものはまだ変化していない。
ノルンと七海の会話は、連絡具を通して主様にも届いていた。
しかし、主様は口を挟まない。
今ノルンが考えている。
七海も、自分がしてきたことを振り返り始めている。
そこへ管理者が答えを与えてしまえば、この二人が自分で選ぶ意味が薄くなる。
その時。
「……ん?」
無数の未来分岐の中、一つが小さく揺れた。
主様はその枝だけを拡大する。
まだ新しい未来として形を持ったわけではない。
事故そのものも残っている。
駅。
道路。
工事現場。
どれも完全には消えていない。
それでも。
今までには存在しなかった枝が、一つだけ生まれ始めていた。
高橋美咲本人が、危険を知らされた上で、自分の意思で選択する未来。
「……なるほど」
主様は小さく呟いた。
まだノルンには伝えない。
ここから先。
本当にその枝が伸びるかどうか。
それは美咲自身が何を選ぶかにかかっていた。
◇◇◇
「美咲に話すって……夢のことを?」
七海は信じられないものを見るようにノルンを見ていた。
「はい」
「無理です」
「なぜでしょう」
「怖がらせます」
「そうですね」
「信じてもらえないかもしれない」
「その可能性もあります」
「だったら」
「それでも、美咲さんの人生です」
穏やかだが、はっきりとした声だった。
「今日どこへ行くのか。誰と帰るのか。危険を知って、それでも何を選ぶのか。それは美咲さんご自身が決めるべきことだと、私は思います」
昨日、美咲は言った。
『帰れないなら、それは嫌かな』
異世界という突拍子もない話だった。
それでも美咲は、自分で考えて答えた。
「でも」
七海の声が震える。
「もし話して、美咲が駅を選んだら?」
ノルンは答えられなかった。
「駅で死ぬって分かってるのに、それでも本人が選んだからって行かせるんですか」
鋭い問いだった。
ノルンの胸へそのまま刺さる。
「私には」
少し迷った末、ノルンは正直に答えた。
「まだ分かりません」
「分からない?」
「はい」
「そんな……」
「ですが、分からないからこそ、私一人で決めないようにしたいのです」
七海の言葉が止まる。
「佐倉さん一人でも決めないでいただきたい」
七海の視線が下がった。
「美咲さんも含めて、三人で考えませんか」
しばらく沈黙が続いた。
七海はやがてスマートフォンを取り出し、画面を開いた。
そこには、美咲からの返信が表示されている。
『いいですよ。どうしました?』
「……返事来てる」
「はい」
「さっき、帰りに話したいことがあるって送ったんです」
「本当は、何とお話しする予定だったのですか」
「駅を使わないように説得するつもりでした。夢のことは言わないで、適当な理由を作って」
そこまで言って。
七海自身が止まった。
「……それじゃ」
小さな声。
「また私が決めるだけなんですね」
ノルンは何も言わなかった。
七海が自分で気づいたのなら、その言葉を奪う必要はない。
「怖いです」
七海はスマートフォンを握ったまま言った。
「美咲に話すの」
「はい」
「馬鹿にされるかもしれない」
「はい」
「気持ち悪いって思われるかもしれない」
「その可能性もございます」
「そこは否定してくださいよ」
七海が少しだけ睨んだ。
ノルンは困ったように眉を下げる。
「申し訳ありません。嘘を申し上げるのは」
「……ふふ」
七海の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「変な人」
「よく言われます」
『言われてないよ』
耳元から主様の声が入る。
「今は黙っていてください」
「え?」
七海が顔を上げる。
ノルンは一瞬固まった。
「……独り言です」
「本当に変な人ですね」
「否定できません」
七海が今度こそ少し笑った。
本当に短い笑みだった。
それでも、三日前から何度も美咲の死を見て、一人で抱え続けてきた七海の顔に、恐怖以外の感情が戻った瞬間だった。
◇◇◇
午後五時三分。
美咲の会社では、一つの案件が予定より早く片づいていた。
「終わったー……」
椅子の背へ身体を預けた美咲が、小さく背伸びをする。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
定時まではまだ時間があるため、帰ることはできない。それでも、今日中に終わらないかもしれないと思っていた作業が片づいただけで、気持ちはかなり軽くなった。
美咲は机の上に置いていたスマートフォンを手に取る。
七海からはまだ続きの返信がない。
「七海さん、何だろ」
独り言に、隣の席にいた同僚がすぐ反応した。
「告白?」
「何でそうなるんですか」
「帰りに二人で話したいことがある、でしょ?」
「七海さん女性ですよ」
「別に女性でも」
「そういう話じゃありません」
「高橋さん、顔赤い」
「赤くないです」
二人の間に小さな笑いが起こる。
何でもない会社の夕方だった。
少しして、美咲はふと窓の外へ目を向けた。
空は夕暮れの淡い橙色へ変わり始めている。
「明日、何時に出ようかな」
実家へ帰る。
母が唐揚げを作る。
まだ読んでいない小説もある。
案件が終われば休みも取りたい。
全部。
今日の先に明日があることを前提に考えていた。
◇◇◇
「一つ、聞いてもいいですか」
七海が言った。
「はい」
「あなたは、美咲が死ぬところを見たんですか」
「いいえ」
「じゃあ、何で危険だって分かるんですか」
ノルンはすぐに答えられなかった。
「全部話せって言ってるわけじゃないです」
七海は少しだけ声を強くする。
「でも、私には美咲へ本当のことを言えって言うのに、あなたが何も言わないのは……ずるくないですか」
「……」
ノルンは完全に黙った。
言われてみれば、その通りだった。
『ノルン』
耳元から主様の声がする。
「……はい」
『決めるのはノルン』
「分かっております」
「誰と話してるんですか」
七海が不思議そうにこちらを見る。
ノルンは少し考えた。
すべてを説明する必要はない。
でも、何も話さないのも違う。
「佐倉さん」
「はい」
「私は、この世界の人間ではありません」
七海の表情が止まった。
「……はい?」
「申し訳ありません」
「いや、ちょっと待ってください」
七海は眼鏡を押し上げた。
「外国人とか、そういう意味ですか?」
「いいえ」
「じゃあ……宇宙人?」
「それとも少し違います」
「……」
「私は、世界の外側から異常を確認する仕事をしております」
七海が完全に固まった。
「待ってください」
「はい」
「予知夢だけでも頭おかしくなりそうなのに」
「申し訳ありません」
「異世界?」
「近いです」
「神様?」
「私は違います」
「じゃあ誰なんですか」
「観察官です」
「何の?」
「転生者の」
「……」
長い沈黙が落ちた。
さすがに説明の仕方を失敗したかもしれない。
そう思った時だった。
「じゃあ」
七海が突然顔を上げた。
「美咲、転生するんですか?」
「いいえ」
「……え?」
「少なくとも、美咲さんご本人は転生を望んでおられません」
「本人?」
しまった。
ノルンはまた気づく。
「あなた、美咲と会ったんですか」
「……はい」
「いつ」
「昨日です」
「何を話したんですか」
「それは」
「転生の話したんですよね?」
「はい」
「何してるんですか!」
七海の声が大きくなり、周囲の客がまたこちらを見る。
彼女はすぐに声を落とした。
「何してるんですか。美咲にそんな話したんですか?」
「はい」
「信じたんですか」
「かなり警戒されました」
「当たり前でしょう!」
「はい」
ノルンは少し小さくなった。
『怒られてる』
「主様は黙っていてください」
「主様?」
七海がすぐ反応した。
ノルンが固まる。
「今、主様って言いました?」
「はい」
「誰ですか」
「私の上司です」
「聞いてるんですか?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
七海は天井を見上げた。
「何これ……私、夢見てます?」
「今は起きておられます」
「そういうことじゃないです」
「申し訳ありません」
七海は両手で額を押さえた。
ただ、不思議なことに空気は少しだけ変わっていた。
恐怖しかなかった七海の中に、理解不能への呆れや困惑が混ざり始めている。
「……もういいです」
「はい」
「全部信じたわけじゃないです」
「もちろんです」
「でも、あなたが普通じゃないのは分かりました」
「それは褒め言葉でしょうか」
「違います」
「そうですか」
少し残念そうにしたノルンを見て、七海は小さく息を吐いた。
「ただ」
表情が真面目へ戻る。
「美咲を助けたいのは、本当なんですね」
ノルンは迷わなかった。
「はい」
七海はその返事をしばらく見つめ、それから小さく頷いた。
「なら、話します」
「美咲さんへ?」
「はい。夢のこと」
「どこまで?」
「全部は、怖がらせるだけかもしれないから……でも、駅で美咲が落ちる夢を何度も見たこと。別の道でも事故に遭う夢を見たこと。それで、私が一人で何とかしようとしていたこと」
七海は一度深く息を吸った。
「それを話します」
「はい」
その瞬間だった。
『ノルン』
主様の声に、ノルンの表情が変わる。
「はい」
『変わった』
「何がですか」
『生存率。二十一パーセント』
ノルンは息を止めた。
十四。
十七。
そして二十一。
「どうしました?」
七海が訝しげにこちらを見る。
ノルンはすぐには答えず、それでも少しだけ笑った。
「いえ。ただ、今の選択は間違っていないと思います」
「根拠は?」
「ございます」
「何ですか」
「それは、もう少し後で」
「また隠す」
「申し訳ありません」
七海は呆れたように息を吐いたものの、今度は怒らなかった。
◇◇◇
午後五時二十一分。
二人が喫茶店を出ると、夕方の街は店へ入った時より人が増えていた。
仕事を終えた会社員。
買い物へ向かう人。
学校帰りの学生。
道路を流れる車も増え、駅へ向かう歩道には人の列ができている。
今のノルンには、その全部が危険に見えた。
道路。
階段。
工事現場。
信号。
自転車。
誰かが転ぶ可能性。
車が急に曲がる可能性。
どこにでも事故の種はある。
けれど、それを一つずつ消して回ることなどできない。
そして、してはいけない。
「佐倉さん。美咲さんは何時頃出てこられますか」
「定時は六時です。ただ、今日は少し残るかもしれません」
「では」
「待ちます」
七海は即答した。
「ここで、美咲さんを?」
「はい」
会社の入口を見ながら、七海は小さく続ける。
「今度は、ちゃんと話します」
ノルンは頷いた。
その時、入口から数人の社員が出てきた。
美咲ではない。
七海の肩が僅かに落ちた。
「まだですね」
「はい」
二人は会社から少し離れた場所で待つ。
そして午後五時三十七分。
『ノルン』
「はい」
『因果固定が少し弱くなった』
ノルンは思わず会社の方を見る。
「本当ですか」
七海が横からこちらを見たため、ノルンは少し距離を取った。
「どの程度でしょう」
『解除にはまだ遠い。でも今まで、事故を一つ避けるたびに強くなっていた固定が、初めて弱くなった』
「選択が原因でしょうか」
『たぶんね』
「美咲さんが七海さんの話を聞くことを選んだ」
『うん』
「佐倉さんが、隠さず話すことを選んだ」
『うん』
「それが新しい因果として世界へ入っている」
『そう見える』
ノルンは会社の入口を見つめた。
「なら」
『まだだよ』
「はい」
『一番大事なのは、ここから美咲が何を知って、何を選ぶか』
「承知しております」
◇◇◇
午後五時五十八分。
会社の自動扉が開いた。
美咲が出てくる。
肩には鞄。
片手にはスマートフォン。
辺りを見回し、七海を見つけると表情が明るくなった。
「あ、七海さん」
「美咲」
美咲はそのまま近づき。
七海の隣にいるノルンへ気づいた。
笑顔が止まる。
「……」
ノルンも少し気まずい。
「こんばんは」
「……七海さん」
「うん」
「この人」
「うん」
「昨日の」
「知ってる」
美咲は数秒、七海とノルンを交互に見た。
「何で?」
当然の疑問だった。
七海は少し緊張した顔をしたが、逃げなかった。
「美咲」
「はい」
「話したいことがある」
「それはメッセージで見ましたけど」
「うん」
七海は一度、深く息を吸う。
「たぶん、信じてもらえないと思う」
美咲の笑顔が少し消えた。
「何ですか」
「でも、聞いてほしい」
「……はい」
七海の手が僅かに震える。
「私、三日前から、美咲が死ぬ夢を見てる」
美咲が完全に止まった。
「……はい?」
「何度も」
「七海さん?」
「駅の階段から落ちる夢。道路で車に轢かれる夢。工事現場で――」
「ちょっと待ってください」
美咲の声が強くなる。
「何の話ですか」
七海は一度言葉を止めた。
ノルンも口を挟まない。
ここは七海が、自分の言葉で話す場所だった。
「夢です」
七海は言った。
「ただの夢かもしれない。私が疲れてるだけかもしれない。でも」
美咲は黙っている。
「怖かった」
その一言で、美咲の表情が僅かに変わった。
「美咲が何回も死ぬから」
七海の目が赤くなる。
「だから今日、駅に行かせないようにしようと思ってた。違う道に連れていって、それでも駄目だったら家までついていこうと思ってた」
美咲は何も言わない。
「でも、この人と話して」
七海が一瞬ノルンを見る。
「私、美咲に何も言ってなかったって気づいた」
夕方の街を人々が流れていく。
会社員。
学生。
自転車。
車。
信号。
誰も、この三人が今何を話しているのか知らない。
「ごめん」
七海は頭を下げた。
「勝手に、美咲を助けようとしてた」
美咲は七海を長く見た。
そして。
「……七海さん」
「うん」
「最近、寝てます?」
「え?」
「寝てないですよね」
七海が止まる。
美咲は眉を寄せた。
「顔、ひどいですよ」
「そこ?」
七海が思わず言い返す。
美咲は一瞬だけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに消える。
「怖いです」
今度は美咲が言った。
「今の話」
「……うん」
「信じてるかって聞かれたら、分かりません」
「うん」
「でも、七海さんが嘘ついてるとは思いません」
七海の目が潤んだ。
「美咲」
「だから、ちゃんと聞きます」
そして。
美咲はノルンへ向き直った。
「あなたも知ってるんですよね」
昨日の警戒がまだ目に残っている。
けれど。
今度は逃げようとはしなかった。
「はい」
ノルンは答えた。
「私にも、美咲さんが今日、危険な目に遭う可能性が高いという情報があります」
「……死ぬ?」
ノルンは一瞬息を止めた。
それでも誤魔化さない。
「その可能性は、高いです」
七海が目を閉じる。
美咲の顔から血の気が少し引いた。
「……どれくらい」
「数字としては、お伝えしない方がよいと思います」
「高いんですね」
「はい」
美咲は黙った。
鞄を持つ手へ力が入る。
「でも」
ノルンは続けた。
「確定ではありません」
美咲が顔を上げる。
「生きる未来もあります」
「……」
「だから今日は、美咲さんご自身にも選んでいただきたいのです」
「何を?」
ノルンは七海を見た。
それから、もう一度美咲を見る。
「今日、どう帰るかを」
その瞬間。
『ノルン』
主様の声が入る。
『二十六』
生存率がまた上がった。
『因果固定も、さらに弱くなってる』
ノルンの胸が強く鳴る。
美咲は今、危険を知った。
怖いと感じている。
それでも。
ここにいる。
「どう帰るかって……駅は駄目なんですよね」
美咲が困ったように言う。
「駄目」
七海がすぐ答えた。
「佐倉さん」
「……ごめん」
七海は口を閉じた。
美咲はそんな彼女を見て、少しだけ考える。
「道路も駄目?」
「夢では」
「工事現場も?」
「……うん」
「じゃあ、どこなら安全なんですか」
誰も答えなかった。
それが答えだった。
「分からないんですね」
美咲が小さく言う。
「はい」
ノルンは正直に答えた。
「私達にも分かりません。だからこそ、美咲さんが何をしたいのか、それを聞きたいです」
夕方の風が通り抜け、美咲の黒髪を揺らした。
しばらく。
彼女は何も言わなかった。
駅を見る。
道路を見る。
七海を見る。
ノルンを見る。
そして最後に、自分のスマートフォンへ視線を落とした。
昼。
母との通話履歴が残っている。
「……明日」
美咲が小さく言った。
「実家に帰るんです」
「はい」
「お母さん、唐揚げ作るって」
少し笑った。
でも。
その笑顔は泣き出す直前のように揺れている。
七海が唇を噛む。
ノルンの胸も痛んだ。
「だから」
美咲は顔を上げた。
「死にたくないです」
初めて。
はっきりと言った。
昨日は、全部を捨てたいわけではないと言った。
帰れないなら異世界へ行きたくないとも。
でも今は。
「怖いです。めちゃくちゃ怖い」
呼吸が震えていた。
七海が手を伸ばしかける。
けれど、途中で止めた。
勝手に触れない。
それに気づいた美咲が、自分から七海の手を取った。
「でも、帰ります」
七海が顔を上げる。
「美咲」
「家に。でも、一人じゃなくて」
美咲は七海を見る。
「七海さん」
「……うん」
「一緒に帰ってくれます?」
七海の目が大きくなる。
「私でいいの?」
「何でですか」
「私が行動変えると……事故が変わるかもしれないんでしょ?」
美咲は少し考えた。
そして。
「じゃあ」
七海の手を握ったまま言う。
「七海さんが私を連れて帰るんじゃなくて」
一度。
自分で言葉を選ぶ。
「私が、七海さんと一緒に帰るって決めます」
その瞬間。
『ノルン』
主様が息を呑んだ。
声が今までと違う。
『四十二』
「……!」
ノルンの目が大きくなる。
『一気に上がった。因果固定も半分近く剥がれた』
十四。
十七。
二十一。
二十六。
そして。
四十二。
美咲本人は何も知らない。
ただ、自分で選んだだけ。
誰かに運ばれるのではなく。
誰かに安全な場所を決められるのでもなく。
自分が七海と一緒に帰りたいと決めた。
その違いが。
世界へ確かな変化を起こしている。
「どうしました?」
美咲が訝しげに聞いた。
ノルンは少しだけ笑った。
「いえ。今の選択、とても大切だったようです」
「ようです?」
「はい」
「相変わらず怪しいですね」
「申し訳ありません」
美咲も少しだけ笑った。
昨日より。
ほんの僅かに。
ノルンを見る目から警戒が減っている。
けれど。
まだ終わりではない。
時計は午後六時七分を示していた。
本来最初の事故が起きる時刻。
十九時十二分。
残り一時間五分。
そして。
『ノルン』
主様の声が低くなる。
「はい」
『まだ一つ残ってる』
「何がでしょう」
『因果固定の中心』
ノルンの表情がすぐに引き締まる。
『美咲が自分で選んだことでかなり剥がれた。でも、完全には解けない』
「では」
『もう一つある』
管理領域で世界記録を見つめながら、主様が続けた。
『今日、美咲が死ぬ原因になった最初の偶然』
「最初の偶然?」
『それを見つけないと、収束そのものは止まらない』
ノルンは街を見た。
駅。
道路。
人。
工事現場。
信号。
車。
いくつもの死亡未来。
それらは別々に見えて。
どこか一つ。
最初の原因から枝分かれしている。
「主様」
『うん』
「見つけましょう」
『もちろん』
ノルンは美咲と七海を見る。
二人はもう歩き始めていた。
ただし。
七海が美咲を引っ張っているわけではない。
美咲自身が、七海の隣を歩いている。
ほんの小さな違い。
それでも。
世界は確かに変わった。
午後六時八分。
最初の事故予定時刻まで、残り一時間四分。
高橋美咲は今日、自分が死ぬかもしれないことを初めて知った。
恐怖を知らなかったから歩けたのではない。
危険を知らずに誰かへ運ばれているのでもない。
怖いと認めた上で、自分が誰と帰るのかを自分で決めた。
その選択によって、一本へ固まりかけていた未来は初めて大きく枝分かれし始めている。
けれど。
まだ世界は、高橋美咲の死を完全には手放していなかった。




