第二十一話 助けるか見守るかを決める前に、その人は今日も普通に朝を迎えていました
事故が起こると告げられた朝、地球の空は驚くほど穏やかだった。
東京都内には薄い雲が広がっていたものの、雨の気配はなく、雲の切れ間から差す朝日が高層ビルの窓を白く光らせている。午前七時を過ぎる頃には、駅へ向かう通勤客や学生の流れが目に見えて増え、交差点では信号が変わるたびに何十人もの足音が重なった。コンビニの前では配送車から商品が運び込まれ、道路脇では制服姿の学生達が眠そうな顔で話しながら歩いている。
昨日までと何も変わらない朝だった。
誰も、今日が特別な日だとは思っていない。
もちろん、高橋美咲自身も、自分が今日死ぬ可能性が極めて高いなど知るはずがなかった。
管理領域の大きな観測窓を前に、ノルンはその事実を何度も胸の中で反芻していた。
目の前には、地球を示す青白い世界光が静かに浮かんでいる。ただし、昨日までのように美咲個人の生活を映像として細かく開いてはいない。表示されているのは現在位置、生命反応、世界外干渉の有無、それから必要最低限の未来分岐だけだった。
観察できるからといって、何でも見てよいわけではない。
それはこの数日で、ノルン自身が強く意識するようになったことだった。
「主様」
「うん」
「現在時刻、午前七時十二分です。美咲さんの生命状態に異常はありません」
「確認したよ」
「世界外干渉反応も、今のところはありません」
「そっちも同じ」
ノルンは手帳へ簡潔に記録を書き込んだ。
生命状態正常。
世界外干渉なし。
それだけを書いたところで、筆先が止まる。
昨夜は、思っていたほど眠れなかった。
主様から六時間以上休むよう厳しく言われ、観察記録も持ち込まず、自室の寝台へ入った。身体だけなら十分に休めたはずなのに、何度か意識が浮かび、そのたびに高橋美咲の言葉が頭へ戻ってきた。
『旅行なら行ってみたいです』
『帰れないなら、それは嫌かな』
『お母さんいるし』
『友達もいるし、仕事は辞めたい日もあるけど、全部捨てたいわけじゃないし』
『積んでる小説まだいっぱいある』
どれも、大げさな言葉ではない。
生きたい、と泣きながら訴えたわけでもない。
絶対に死にたくない、と叫んだわけでもない。
けれど、だからこそ重かった。
美咲は、今日の先にある明日を、ごく普通に自分の人生の続きだと思っている。
「ノルン」
主様から呼ばれ、ノルンは顔を上げた。
「はい」
「今、何考えてた?」
「美咲さんのことです」
「うん」
そこで一度、言葉が止まる。
ノルンは胸の奥にある感情を、できるだけ正確に言葉へ直した。
「今日亡くなるかもしれない方が、今も普通に朝を過ごしておられるのだと思っておりました」
主様は何も急かさなかった。
観測窓の向こうで地球の時間だけが進み、遠くで世界記録の頁が静かにめくられていく。
「怖い?」
やがて聞かれ、ノルンは少し迷った後、頷いた。
「……はい」
自分でも意外なほど、素直に言えた。
「昨日までは、事故が起きた時に私がどう判断すればよいのか、そればかり考えておりました。観察官として手を伸ばすべきなのか。それとも、世界本来の流れへ過度に干渉せず見守るべきなのか」
「うん」
「ですが今は」
ノルンは手帳の上へ両手を重ねた。
「事故そのものが来てほしくないと思っております」
主様の視線が少し柔らかくなる。
「美咲さんが今日も普通にお仕事へ行って、普通に帰って、明日の朝も起きればよいのにと……そう思います」
「それは自然なことだと思うよ」
「ですが」
ノルンの眉が僅かに下がった。
「観察官が、そのように願っていてもよいのでしょうか」
主様が少しだけ首を傾ける。
「観察官は、人の死を望まないといけないの?」
「いいえ」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「……」
「世界の流れを守ることと、誰かが生きていてほしいと思うことは同じじゃないよ」
穏やかな声だった。
諭すというより、当たり前のことを確認するような声。
「願うことまで止める必要はない。ただ、願いだけで世界へ手を入れない。それが今日、ノルンが気をつけることだと思う」
ノルンはゆっくり頷いた。
「承知致しました」
「それから、もう一つ」
「はい」
「事故が起きると決めつけない」
昨日も言われたことだった。
それでも、今日は昨日以上に重要に感じる。
「未来は確定していない。今見えている分岐では、美咲が今日を越えられない可能性が異常に高い。でも」
主様は観測窓へ指先を向けた。
「まだ生きてる」
「はい」
「なら、今は『今日死ぬ人』じゃなくて、生きている人として見る」
ノルンは胸元へ手を置いた。
「昨日と同じですね」
「うん」
「高橋美咲さんとして」
「そう」
その一言で、少しだけ呼吸が楽になった。
◇◇◇
午前七時四十六分。
美咲が自宅を出た。
詳細な生活映像は開かない。
代わりに、ノルン自身が現地へ向かうことになった。
目的は尾行ではない。
美咲本人の生命状態と、その周囲で発生する異常だけを確認する。そのために必要な距離を保ちながら、ノルン自身の目で地球の一日を見る。
昨日と同じ黒髪。
白いブラウスに薄手のカーディガン。
紺色のスカート。
まだ完全に慣れたとは言えないものの、少なくとも昨日よりは鏡の中の自分を不自然だと思わなくなっていた。
「では、行ってまいります」
「うん。連絡はずっと繋いでおく」
「はい」
「それから」
「魔法は人前で使わない。転移は緊急時のみ。荷物を片手で持ち上げすぎない。大声で主様と呼ばない」
「覚えてるね」
「昨日から何度もご注意いただきましたので」
「最後の一つが一番心配」
「失礼です!」
「声」
「……行ってまいります」
最後だけ小さく言い直し、ノルンは地球へ移動した。
駅へ続く道から一本離れた通りへ出ると、朝の空気にはコーヒーと排気ガス、それから近くのパン屋から流れてくる焼きたての小麦の匂いが混ざっていた。コンビニから出てきた会社員が片手でおにぎりを食べながら駅へ急ぎ、自転車に乗った高校生がその横を勢いよく通り過ぎていく。
昨日見た景色と大きくは変わらない。
それなのに、今日は一つ一つが妙に鮮明に感じられた。
「主様」
イヤホン型へ偽装した連絡具へ、ノルンは小さく呼びかけた。
『聞こえてるよ』
「今日は昨日より自然に歩けている気が致します」
『そうだね』
「人の流れも少し理解してまいりました」
『昨日、信号が変わったのに一人だけ立ってたからね』
「それはもう克服致しました」
ちょうど目の前の信号が青へ変わる。
ノルンは周囲の人達と同時に歩き出した。
「ほら」
『うん。成長したね』
「ありがとうございます」
素直に喜びながら交差点を渡る。
その途中で、反対側の歩道に見覚えのある姿を見つけた。
高橋美咲だった。
昨日より少しだけ眠そうな顔をしている。片手にはコンビニの袋、もう一方の手にはスマートフォン。歩きながら画面を確認していたが、前から歩いてきた男性に気づくと顔を上げた。
「おはようございます」
「高橋さん、おはよう。今日は早いね」
「昨日よりは」
「昨日、遅刻しかけてたじゃん」
「それは言わないでください」
美咲が笑う。
男性も笑い、二人はそのまま同じ方向へ歩き始めた。
たったそれだけのやり取りだった。
普通の朝。
普通の会社員。
普通の一日。
ノルンは自然と歩みを緩めたが、すぐに別の道へ入った。
昨日、美咲から「ついて来ないでください」と言われている。
今日の観察は生命保護上必要な最低限だと主様と確認していた。それでも、美咲の後ろを同じ距離で歩き続けるようなことはしたくなかった。
直接見えなくなっても、生命反応は確認できる。
「主様」
『何?』
「美咲さんが今朝、ご自宅を出られました」
『うん』
「それだけで」
ノルンは少し困ったように笑った。
「安心してしまいました」
『昨日の夜は、今日の朝を迎えられない可能性も考えてた?』
「はい」
正体不明の存在が告げた期限は今日。
具体的な時刻は聞いていない。
そのためノルンは、午前零時を越えた頃から何度も美咲の生命反応が気になっていた。
「まだ、一日は始まったばかりですのに」
『それでいいんじゃない?』
「はい」
ノルンは小さく頷き、朝の人波へ戻っていった。
◇◇◇
午前九時。
美咲は何事もなく会社へ入った。
そこから先、ノルンは近くの公園へ移動した。
会社の中まで観察する必要はない。
ベンチへ腰掛け、手元の小型端末に偽装した観察具で、美咲の生命反応と会社周辺の世界外干渉だけを確認する。
九時十五分。
異常なし。
九時四十分。
異常なし。
十時。
異常なし。
十時十八分。
やはり異常なし。
ノルンは観察具を見つめたまま、僅かに眉を寄せた。
「主様」
『異常なし』
「まだ何も申し上げておりません」
『十五分くらいすると聞いてくるから』
「……申し訳ありません」
先回りされてしまった。
ノルンは観察具を膝へ置き、意識的に周囲へ視線を向けた。
公園では、小さな子供を連れた母親が遊具の近くにいる。少し離れたベンチでは、老人が鳩へ餌をやろうとして、そのたびに禁止看板を見て手を止めていた。
道路の向こうでは配送車が停まり、作業員が荷物を運び込んでいる。
さらに少し離れた場所には、昨日世界外干渉痕を確認した工事中の建物も見えていた。
「昨日の工事現場は」
『今日も普通に作業中』
「干渉反応は?」
『ない』
「昨日だけだったのでしょうか」
『美咲が近くを通った時、観測者がその場所を見ていた可能性が高い』
ノルンは無意識に空を見上げた。
ビル。
薄い雲。
木の枝。
行き交う人々。
どこにも、あの正体不明の存在らしい気配はない。
「今日はまだ来ませんね」
『文字も干渉もないね』
「昨日は、ちゃんと見ていてと仰っていたのに」
『どこかから見てるんじゃない?』
「……あまり嬉しくありません」
ノルンは周囲をもう一度見回す。
『ノルン』
「はい」
『探さなくていい』
「探しておりません」
『顔が探してる』
「……少しだけです」
自分が観察されているかもしれない。
それがこんなにも落ち着かないことを、以前のノルンは知らなかった。
だからこそ。
観察する側に戻った時も、この感覚を忘れない。
「必要なものだけ見ます」
『うん』
ノルンは改めて観察具へ視線を戻した。
◇◇◇
午前十一時三十二分。
最初の異常が出た。
「主様」
『見えてる』
ノルンはベンチから静かに立ち上がった。
反応が出たのは美咲本人ではない。
会社から二百メートルほど離れた交差点。
そこへ、ごく薄い世界外干渉の痕跡が現れている。
昨日の工事現場で確認したものと近い。
正体不明の存在――便宜上、観測者と呼んでいる相手の干渉痕だった。
ただし。
何かへ直接力を加えている様子はない。
「現地を確認します」
『近づきすぎないで』
「はい」
ノルンは人通りへ混じりながら交差点へ向かった。
車。
自転車。
歩行者。
信号。
店。
目に入るものはどれも日常の範囲を出ない。
道路脇には大型トラックが一台停車しており、運転手が荷下ろしの準備をしていた。
「事故候補でしょうか」
『まだ分からない』
主様の声も慎重だった。
『干渉位置はトラックそのものじゃない』
「では?」
『交差点全体』
ノルンは足を止めないまま、周囲を一度だけ広く見渡した。
信号機。
ガードレール。
路面。
横断歩道。
建物。
異常はない。
その時、歩行者用信号が赤へ変わった。
周囲の人達が自然に止まり、ノルンも同じように足を止める。
隣では、小学生くらいの男の子が母親の手を引いていた。
「早く行こうよ。車いないよ」
「赤だから待つの」
「でも誰も来てないじゃん」
「来てても来てなくても、赤なら待つ」
男の子は不満そうに頬を膨らませたが、それでも母親の横へ戻った。
間もなく青に変わる。
人々が歩き出す。
大型トラックも動かない。
転倒する者もいない。
事故は起こらなかった。
「……」
それでも。
ノルンの心臓は少し速かった。
『今の場所も記録しておこう』
「承知致しました」
交差点を離れながら、ノルンは考える。
観測者は何を見ていたのか。
事故が起こる可能性のある場所を順番に確認している?
それとも。
ノルンがどの危険へ反応するのかを見ている?
「主様」
『うん』
「事故候補を複数見せて、どれが本当のものか分からなくしている可能性はありますか?」
『可能性はある』
「私が焦る様子を見たい?」
主様はすぐには答えなかった。
『それも否定できない。でも、観測者が意図的に見せてる証拠はまだない』
「……はい」
『決めつけない』
「分かっております」
今日は。
何度も。
その言葉へ戻らなければならない。
◇◇◇
正午過ぎ。
美咲が会社から出てきた。
昨日と違い、一人だった。
近くのコンビニへ入り、サンドイッチと飲み物を買うと、そのまま会社へ戻らず、小さな広場のベンチへ向かう。
ノルンは少し離れた位置にある別のベンチへ座った。
木陰。
十分に距離がある。
美咲の会話を聞く必要もない。
ただ、今日という一日の中で本人がどう過ごしているかを、必要以上にならない程度に確認する。
美咲はサンドイッチを一口食べた後、スマートフォンの画面を見た。
表情が少し柔らかくなる。
「もしもし、お母さん?」
電話だった。
ノルンは視線を外そうとした。
だが。
「うん、仕事中。今、昼休み」
聞こえた声が。
次の一言で。
ノルンの手を止めた。
「明日帰るって言ったじゃん」
美咲は飲み物の蓋を開けながら、少し楽しそうに笑っている。
「うん。夕方には着くと思う。大丈夫だって」
母親と。
明日。
会う。
「何食べたいって……別に何でもいいよ」
電話の向こうから何か言われたらしい。
美咲が少し考える。
「じゃあ唐揚げ」
また何か返ってくる。
「え、また? いいじゃん。久しぶりなんだから」
その笑い声を聞いたところで。
ノルンは視線を落とした。
もう、これ以上は聞かない。
「主様」
『うん』
「美咲さん」
一度。
喉が詰まった。
「明日、お母様と夕食を召し上がるそうです」
『聞こえた』
「唐揚げを」
『うん』
ノルンは膝の上で両手を重ねた。
「今日亡くなったら」
続きは言えなかった。
言う必要もなかった。
主様は分かっている。
『うん』
それだけ返ってきた。
「私は観察官です」
『うん』
「世界の流れを、自分の感情だけで変えてはいけません」
『うん』
「でも」
ノルンは顔を上げた。
木々の向こうでは、美咲がまだ母親と話している。
「明日」
一度、息を吸う。
「唐揚げを食べていただきたいと思いました」
主様の返事は、ほんの少し遅れた。
『僕も』
ノルンの目が僅かに見開かれる。
『そう思うよ』
その言葉はとても小さかった。
けれど。
ノルンの胸の中へ、温かく残った。
◇◇◇
午後一時。
美咲が会社へ戻った直後、連絡具から主様の声が届いた。
『ノルン』
「はい」
今までより少し低い声だった。
『死の確率が上がった』
ノルンの背筋が自然に伸びる。
「どの程度でしょう」
『今朝七十二パーセント』
「はい」
『今は八十六』
膝の上に置いていたノルンの手が、僅かに握られる。
「理由は?」
『まだ分からない』
「未来分岐は?」
『減ってる』
美咲が今日を越える未来が、少しずつ消えている。
それでも。
十四パーセント。
残っている。
「主様」
『何?』
「生存する未来は」
『ある』
「なら」
ノルンは一度深く息を吸った。
「まだ決まっておりません」
『そう』
その時だった。
視界の端へ、誰にも見えない小さな光が浮かんだ。
ノルンの表情が変わる。
『緊張してる?』
観測者。
ようやく現れた。
「しております」
ノルンは隠さなかった。
『何パーセント?』
「お教えする必要はございません」
少し間があり。
『けち』
「必要のない情報はお伝え致しません」
『観察官っぽい』
「観察官ですので」
光が僅かに揺れる。
笑っているようにも見えた。
ノルンはその反応へ付き合わず、静かに問いを投げた。
「あなたは、美咲さんに何が起こるのかご存じなのですね」
『うん』
「教えてください」
『ひみつ』
「美咲さんが亡くなることを楽しみにしておられますか」
文字が止まった。
いつもなら、すぐに返ってくる。
けれど今回は少し長い。
『それは違う』
「では」
『死ぬのは楽しくないよ』
ノルンの目が僅かに細くなる。
『でも』
『ノルンがどうするかは気になる』
「……」
やはり。
「美咲さんの人生は、私を見るための材料ではありません」
声が少し硬くなる。
けれど、怒鳴らない。
「その点だけは、忘れないでください」
また。
少し。
間ができる。
『うん』
意外なほど素直な返事だった。
『それは昨日より分かってる』
「昨日より?」
『ノルンが怒るから』
「私が怒るからではなく、ご本人がどう感じるかを考えていただきたいです」
『分かってる』
今度は少し早い。
『まだ全部は分からないけど』
ノルンは返す言葉を探した。
相手は、変わろうとしている。
少なくとも。
ノルンの言葉をただ笑って流しているだけではない。
「……そうですか」
『うん』
「では、美咲さんの死を本当に望んでいないのであれば、事故の内容を教えてください」
『それは教えない』
「なぜですか!」
『ノルンが先に全部知ったら』
一拍。
『それはノルンの選択じゃなくなるから』
ノルンの眉が寄る。
「やはり、私を試しておられるのですね」
『試すっていうのとは、ちょっと違う』
「何が違うのでしょう」
『僕も知りたいから』
文字が続く。
『世界を守る人が』
『目の前の一人をどう見るのか』
『一人を助けるために世界を変えるのか』
『世界を守るために一人を諦めるのか』
そして。
『それとも』
少し間が空いた。
『主様が言ったみたいに、別のものを見つけるのか』
ノルンの目が少し大きくなる。
昨日。
主様が言った。
助ける。
助けない。
最初からその二択へしない。
別の方法を探す。
「あなたも」
ノルンは慎重に尋ねた。
「答えをご存じないのですか」
『知らないよ』
「未来をご覧になれるのでは?」
『全部じゃない』
新しい情報だった。
「では、美咲さんの死も」
『かなり濃い』
「確定では」
『ないよ』
ノルンは息を止めた。
主様から何度も言われている。
未来は確定していない。
それでも。
観測者自身が、その言葉を認めた意味は大きい。
「ありがとうございます」
『何で?』
「確定ではないと、あなたご自身から確認できましたので」
光が少し揺れる。
『そういうところ好き』
「褒め言葉として受け取っておきます」
『うん』
そして。
光が少し薄くなる。
『午後は気をつけて』
「何をでしょう」
『全部』
「それでは何も分かりません!」
『がんばって』
「お待ちください!」
消えた。
ノルンはしばらく空中を見つめていた。
『ノルン』
今度は主様だ。
「はい」
『今の会話、結構大きい』
「未来が確定ではないことですか」
『それもある』
「他には?」
『観測者も全部の未来を見られるわけじゃない』
「はい」
『それから、美咲が生き残る未来を否定してない』
ノルンはゆっくり息を吐いた。
「なら」
『うん』
「探します」
『何を?』
「十四パーセントです」
ノルンは顔を上げた。
「美咲さんが今日を越える未来が、何によって残っているのか」
少し間があり。
『いいね』
「事故そのものを無理やり止めるのではなく、すでに存在している生存未来の条件を探す」
『それなら、管理側の都合だけで世界を書き換えることとは違う』
ノルンの胸へ、少しだけ熱が戻る。
「主様」
『何?』
「第三の選択肢です」
『まだ見つかったわけじゃないよ』
「はい」
それでも。
ようやく一つ。
進む方向が見えた。
◇◇◇
午後二時を過ぎると、主様は管理領域で生存未来と死亡未来の比較を始めた。
ノルンは地球側に残り、美咲の会社周辺で必要最低限の待機を続ける。
二人のいる場所は違うが、連絡具は途切れない。
『一つ分かった』
「はい!」
思わずベンチから立ち上がりかける。
『立たなくていいよ』
「……はい」
ノルンは座り直した。
『生存未来と死亡未来で、午後四時まではほとんど差がない』
「では、事故はそれ以降」
『可能性が高い』
「美咲さんの定時は十八時でしたね」
『うん。ただ、業務上は少し残る可能性もある』
「本人の私生活は」
『開いてない。会社側の業務記録だけ』
「ありがとうございます」
必要な情報だけ。
その原則。
主様も守っている。
『それから、十九時を越えると分岐が一気に増える』
「事故時刻は?」
『十九時から二十一時のどこかに集中してる』
ノルンは時計を確認する。
午後二時十二分。
「場所は?」
『そこが変なんだ』
「何がでしょう」
『複数ある』
「複数?」
『駅、道路、階段、自宅近く』
ノルンの表情が強張る。
「同じ事故ではないのですか」
『違う形で死ぬ未来が複数ある』
「それは」
一度、息を止める。
「何をしても亡くなるということでしょうか」
『まだ決めつけない』
主様がすぐに止める。
『事故の形じゃなくて、共通点を探す』
「はい」
ノルンは自分へ言い聞かせるように頷いた。
少し待つ。
『一つある』
「何でしょう」
『人』
「誰かが?」
『まだ特定できない。ただ、どの死亡未来にも同じ人物が美咲の近くにいる』
ノルンの目が鋭くなった。
「美咲さんへ危害を加える人物?」
『分からない』
「故意かどうかも?」
『まだ』
「でも」
『その人物が近くにいない未来では、美咲の死亡率がかなり下がる』
ノルンはすぐに手帳を開いた。
最初に浮かんだ疑いを、そのまま事実として扱わないようにする。
『十九時〜二十一時、死亡未来集中』
『事故形態複数』
『死亡未来共通要素:同一人物が周辺に存在』
『意図・関係性未確認』
そこまで書き、一度読み返す。
「主様」
『何?』
「事故を止めるかどうか以前に」
『うん』
「事故が、本当に単純な事故なのかを確認する必要がありますね」
『そういうこと』
ノルンは筆を置いた。
今分かっているのは。
それだけ。
まだ誰も。
悪者ではない。
◇◇◇
午後三時二十八分。
会社の周囲に、二度目の世界外干渉反応が現れた。
今度は美咲本人の近く。
「主様」
『見えてる』
「観測者ですね」
『強さはかなり弱い』
ノルンは会社の建物を見上げた。
「美咲さんを見ているのでしょうか」
『可能性はある』
「あるいは」
ノルンは少し考える。
「死亡未来へ必ず現れる人物を?」
『それもある』
「観測者なら、その方をご存じなのでは」
言った直後。
空中へ小さな光が浮かんだ。
『知ってるよ』
「……聞いておられましたね」
『うん』
「その方は誰なのですか」
『教えない』
「なぜです」
『もう見つけかけてるから』
「では、その方が美咲さんを殺すのですか」
『殺そうとはしてない』
ノルンの表情が僅かに変わった。
「では」
『でも』
一拍。
『あの子がいるから、美咲は死ぬ』
今度こそノルンは息を止めた。
「どういう意味ですか」
『言ったらつまらない』
「美咲さんの命がかかっております!」
『うん』
あまりにも軽い返事。
ノルンの中で、朝から押さえていた苛立ちが一瞬だけ強くなる。
それでも、声を荒げなかった。
「なら」
一度。
息を整える。
「今は遊びではありません」
文字が止まる。
「あなたが私を観察したいということは、もう理解しております。私が何を選ぶのか知りたいことも」
『うん』
「ですが」
ノルンは、誰にも見えない光を真っ直ぐ見た。
「美咲さんが亡くなるかもしれない場面で、情報を隠すことまで遊びにしないでください」
長い沈黙。
主様も口を挟まない。
やがて。
『……分かった』
ノルンの目が少し大きくなった。
『一つだけ』
「はい」
『その子』
一拍。
『美咲を助けようとするよ』
「……助ける?」
『うん』
「では、なぜ」
『だから死ぬ』
意味が分からない。
美咲を救おうとする人がいる。
なのに。
その人がいるから死ぬ。
「その方が助けようとすることで」
『事故が変わる』
「事故が」
『一つ避ける』
『別のが起きる』
ノルンの背筋を冷たい感覚が走った。
主様が見つけた複数の死亡未来。
どの未来にも同じ人物がいる理由。
「その方は、未来を知っているのですか」
『少し』
「転生者?」
『違う』
「では」
『今はそこまで』
ノルンが言葉を返そうとする前に、文字が続く。
『その子も悪くないよ』
『美咲を死なせたいわけじゃない』
『むしろ』
『死なせたくない』
そこまで残し、光が消えた。
「お待ちください!」
返事はない。
ノルンはしばらく空を見つめ、それからゆっくり連絡具へ触れた。
「主様」
『全部聞いてた』
「未来を少しだけ知っている方が、美咲さんを助けようとしている」
『うん』
「ですが、その助け方によって別の死亡未来が発生する」
『そうみたいだね』
ノルンの胸がざわつく。
「主様」
『何?』
「これ」
一度。
言葉を選ぶ。
「私達と似ておりませんか」
『どういう意味?』
「美咲さんが死ぬと知って」
「うん」
「助けようとする」
「うん」
「でも、助け方を間違えれば」
ノルンは手を握った。
「別の未来を壊す」
主様はしばらく黙っていた。
『そうかもね』
その返事を聞き。
ノルンはようやく。
一つ別の見方をした。
「でしたら」
『うん』
「美咲さんだけではなく」
一度息を整える。
「その方も、助ける必要があるのかもしれません」
主様の声が少しだけ柔らかくなった。
『第三の選択肢』
「はい」
事故を止めるだけではない。
見守るだけでもない。
未来を知って。
一人で。
必死に誰かを助けようとしている人がいる。
その人が何を知っているのか。
なぜ知っているのか。
どれほど怖い思いをしているのか。
それを。
知らなければならない。
「今から特定する」
「はい」
『世界記録も必要な範囲だけ開く』
「承知致しました」
ノルンは頷き。
少ししてから、自分でも気づいたことを口にした。
「私も、美咲さんだけを見るのはやめます」
『うん』
「事故に関わる方も」
一度。
「一人の人として見ます」
連絡具の向こうで。
主様が少し笑った。
『それがいい』
◇◇◇
午後四時十一分。
主様から声が届いた。
『見つけた』
ノルンは今度こそ立ち上がった。
「どなたですか」
『女性。二十七歳』
「美咲さんとの関係は?」
少し間があり。
『会社の先輩』
ノルンの目が少し大きくなる。
「昨日、一緒にお昼を食べていた方ですか」
『二人いたうちの一人』
「お名前は?」
『佐倉七海』
ノルンはすぐ手帳へ記録する。
「未来を知る理由は?」
『そこがちょっと変なんだ』
「世界外干渉?」
『ない』
「転生者?」
『違う』
「前世記憶も?」
『ない』
「では、なぜ」
『本人の能力』
ノルンの筆が止まる。
「能力?」
『地球人としてはかなり珍しいけど』
一拍。
『予知夢』
ノルンは息を呑んだ。
「美咲さんの死を?」
『三日前から何度も見てる』
三日前。
正体不明の存在が、ノルン達へ期限を告げたのと同じ時期。
「だから、美咲さんを助けようとしている」
『そう』
「ご本人には?」
『言ってない』
「なぜでしょう」
『本人自身も、まだ夢だと思おうとしてる』
「……」
ノルンの胸が少し痛んだ。
夢。
そう思いたい。
でも。
何度眠っても。
同じ人が死ぬ。
同じ顔が。
目の前で。
何度も。
「死亡未来は」
『全部、七海が行動を変えた後に分岐してる』
ノルンの唇が僅かに開く。
「元々の事故は?」
主様からの返事に少し時間がかかった。
『見つけた』
「何ですか」
『十九時十二分』
「はい」
『駅の階段』
ノルンの呼吸が浅くなる。
『美咲が階段から転落する』
「原因は?」
『前を歩いていた人が突然倒れる』
「……」
『美咲が避けようとして足を踏み外す。そのまま落ちる』
「七海さんは」
『その場面を夢で見た』
「だから」
『今日は美咲を駅へ行かせないつもり』
ノルンはすぐに考える。
「それなら助かるのでは?」
『最初の分岐ではね』
「最初?」
『七海が美咲を別ルートへ連れていく』
「はい」
『その未来では車』
「……」
『さらに、それを避けようとした分岐では工事現場』
昨日。
ノルンが世界外干渉痕を見つけた場所。
「次は」
『自宅近くの交差点』
全部。
七海が美咲を救おうとした結果。
別の事故へ。
形を変えている。
「主様」
『うん』
「これは」
ノルンは口元へ手を当てた。
「事故が美咲さんを追いかけているようです」
『僕もそう見えてる』
「自然な未来として?」
『そこが問題なんだ』
主様は再び解析へ入った。
ノルンは公園の時計を見る。
午後四時十六分。
事故予定時刻まで、三時間を切っている。
「主様」
『ノルン』
「はい」
『一つ見つけた』
声が明確に変わった。
「何をでしょう」
『美咲本人』
「美咲さん?」
『魂の外側に、ごく薄い因果固定痕がある』
ノルンの顔が強張る。
「世界外干渉ですか」
『違う』
「神力?」
『それも違う』
「では」
『地球世界そのものが行っている因果処理』
聞いたことのある概念ではあった。
ただ、実際に観察対象へ発生しているのを見るのは初めてだった。
「どういう状態なのでしょう」
『美咲は今日、何らかの理由で死亡可能性が一つの結果へ固定されかけてる』
「なぜですか」
『そこはまだ分からない』
「自然に起こるのですか?」
『極めて稀だけど、ある』
「死の運命のようなもの?」
『そこまで大げさじゃない』
主様が言葉を選ぶ。
『複数の偶然が同じ一点へ集まりすぎた結果、世界側が因果を一つへ収束させることがある』
「それが美咲さんに」
『起きてる』
ノルンの理解が少しずつ追いつく。
「だから事故を一つ避けても」
『別の経路で、死亡という結果へ戻ろうとする』
「……」
七海は悪くない。
七海が美咲を助けるたび。
死ぬ場所だけが変わる。
「では」
ノルンは慎重に尋ねた。
「私が美咲さんを直接引っ張って救っても」
『また別の事故が発生する可能性が高い』
「因果固定そのものを解かなければならない」
『そう』
「できますか」
『できる』
希望が見えた。
しかし。
主様はすぐ続けた。
『ただし、管理側が力ずくで解除すれば、それはかなり強い世界干渉になる』
ノルンの表情が曇る。
「世界本来の処理を、管理者側が書き換えることになる?」
『そう』
「では」
少し考え。
「第三の選択肢は」
『あるかもしれない』
ノルンが顔を上げる。
『固定を壊すんじゃなくて、世界自身に再計算させる』
「どのように?」
『因果の中へ、新しい本物の選択を入れる』
「本物の?」
『管理者や観察官が作った選択じゃない』
ノルンはすぐには理解できなかった。
主様が続ける。
『美咲自身か』
一拍。
『美咲と強く関わっている人間自身の、予定されていなかった意思決定』
ノルンの頭へ浮かんだのは。
七海。
だった。
「でも、七海さんはすでに予定を変えております」
『一人でね』
「……」
『美咲本人へ何も話してない』
ノルンの目が少し大きくなる。
『美咲には選択肢が渡されていない』
その瞬間。
ノルンの中で。
いくつもの出来事が繋がった。
アルノルド。
フローラを守りたい。
でも。
本人へ聞かない。
観測者。
楽しませたい。
でも。
本人へ聞かない。
七海。
美咲を死なせたくない。
でも。
本人へ何も言わず。
一人で未来を変えようとしている。
善意でも。
愛情でも。
心配でも。
本人を置き去りにすれば。
その人自身の選択はなくなる。
「主様」
『うん』
「美咲さんへ話す必要があります」
『全部を説明する必要はないよ』
「はい」
「でも」
一度。
「七海さんが何かを怖がっていること」
『うん』
「そして、美咲さん自身が今日をどう過ごすか」
一度。
ノルンはしっかり言葉にする。
「自分で決められるようにする」
『それが第三案になるかもしれない』
ノルンの胸が強く鳴った。
ただ。
すぐに問題へ気づく。
「美咲さんは、昨日私を警戒しました」
『うん』
「私がもう一度突然現れれば」
『よくない』
「でしたら」
答えは一つ。
「佐倉七海さん」
『そう』
「まず七海さんへお会いします」
『うん』
「予知夢のことを本人から聞き」
『うん』
「美咲さんへ何を伝えるかも、一緒に考える』
主様の声が少し柔らかくなった。
『今度は、ノルンだけで決めない』
「はい」
ノルンも。
少しだけ。
笑った。
「その方の世界ですから」
◇◇◇
午後四時二十五分。
高橋美咲の勤務先から少し離れた建物の出入口から、一人の女性が出てきた。
肩より少し長い黒髪。
細身。
眼鏡。
昨日、美咲と同僚二人で昼食へ来ていた女性の一人だった。
佐倉七海。
二十七歳。
顔には明確な疲労が浮かんでいる。
スマートフォンを確認しては時間を見て、会社の入口を振り返る。それを一度ではなく、何度も繰り返していた。
「主様」
『本人で間違いない』
「はい」
ノルンは少しだけ息を整えた。
昨日。
美咲へ接触した時と同じ失敗をしない。
いきなり名前を呼ばない。
こちらが知りすぎていることを見せない。
まず。
普通の人間として。
「すみません」
ノルンが声を掛ける。
七海が振り向いた。
「はい?」
疲れてはいる。
でも、突然知らない人間から声を掛けられたことで、僅かな警戒が顔に出る。
「少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
「何でしょう」
ノルンは一度だけ言葉を選んだ。
「高橋美咲さんのことで」
その瞬間。
七海の反応が明らかに変わった。
先ほどまでの単なる警戒ではない。
肩が僅かに強張り、スマートフォンを握る指へ力が入る。
「……誰ですか」
「私は」
「美咲に何かあったんですか?」
先に聞かれた。
声には恐怖が滲んでいる。
ノルンはすぐ首を横へ振った。
「いいえ。今は何も起きておりません」
「今は?」
七海の目が鋭くなる。
ノルンは自分の言葉の選び方をすぐ修正した。
「申し訳ありません。危害を加えるつもりは一切ございません」
「じゃあ、何なんですか」
周囲を会社員達が通り過ぎていく。
七海はその視線も気にしている。
ノルンは声を少し落とした。
「あなたが」
一度。
「美咲さんのことで、とても困っているように見えました」
七海の表情が固まった。
「……」
「もし」
ノルンは胸元へ手を置く。
「誰にも言えないことを、一人で抱えておられるのであれば」
一度。
「少しだけ、お話を聞かせていただけませんか」
七海はノルンをじっと見た。
警戒。
恐怖。
疑問。
それらが混ざる。
「あなた」
一度。
声が低くなる。
「誰なんですか」
「ノルンと申します」
「そうじゃなくて」
七海の手が僅かに震えた。
「何で」
一度。
声が掠れる。
「私が美咲のことで困ってるって分かるんですか」
ノルンはすぐには答えなかった。
昨日。
美咲を怖がらせた。
今回。
同じように。
全部を隠して近づけば。
七海も。
同じになる。
「私も」
ノルンは七海の目を見た。
「美咲さんに今日、何か危険がある可能性を知っております」
七海の目が大きく見開かれた。
「……え」
「ただ」
ノルンは急がず続ける。
「私は未来を完全に知っているわけではありません」
「……」
「あなたも」
一度。
慎重に。
「そうではありませんか」
七海の顔から血の気が引いた。
「どうして」
声が小さい。
「どうして、それを知ってるの」
ノルンはそこで追い込まなかった。
人通りのある会社前。
七海の呼吸。
震えている指。
ここで問い詰めれば。
ただ怖がらせる。
「まず」
ノルンは少しだけ距離を取った。
「場所を変えませんか」
「……」
「近くの喫茶店で。人目のある場所で構いません」
七海は何も言わない。
「もし嫌でしたら」
一度。
「私はここで離れます」
それも。
本心。
ノルンは無理やり連れていかない。
七海には断る権利がある。
数秒。
七海はノルンを見続けていた。
それから、ゆっくり視線を落とす。
スマートフォンの画面を見る。
時刻。
午後四時二十八分。
その次。
美咲のいる会社を見る。
また。
ノルンを見る。
「……十分だけ」
「はい」
「十分だけなら」
ノルンは深く頷いた。
「ありがとうございます」
「それ以上は話しません」
「分かりました」
「変なことしたら帰ります」
「もちろんです」
七海はまだ警戒している。
当然だった。
それでも。
歩き始める。
ノルンは横へ並ばず、一歩ほど距離を空けてついていった。
午後四時二十九分。
元々の事故予定時刻まで。
二時間四十三分。
美咲を救おうとしていたのは、ノルンだけではなかった。
世界の外から来た観察官ではなく。
同じ会社で働き。
昨日まで同じ昼食の席へ座っていた。
一人の先輩。
佐倉七海。
彼女は三日前から。
何度眠っても。
高橋美咲が死ぬ夢を見続けていた。
そして。
それが夢だと思いたいまま。
誰にも言えないまま。
一人で未来を変えようとしていた。
ノルンは横を歩く七海の疲れた横顔を見て、ようやく今日一番大切なことへ気づき始めていた。
高橋美咲の死を避けるために必要なのは。
観察官が世界の外から正解を持ち込み、美咲を勝手に安全な場所へ運ぶことではない。
未来を知ってしまった七海が、一人だけで全てを背負い、必死に美咲の行き先を変え続けることでもない。
まず。
同じ世界で生きている人達が。
何を知るのか。
何を伝えるのか。
そして。
高橋美咲自身が。
今日という一日を。
どう選ぶのか。
その権利を。
本人へ返すこと。
そこから。
始めなければならない。
◇◇◇
ノルンと七海が近くの喫茶店へ入った頃。
高橋美咲はまだ会社にいた。
午後の仕事は、予定していたより少しだけ長引いている。
パソコンの画面には修正途中のデザインデータが開かれ、隣の席では同僚が小さな欠伸を噛み殺していた。
「高橋さん、これ今日中いけそう?」
「あと三十分くらいです」
「無理なら月曜でもいいよ」
「大丈夫です。ここまで来たら終わらせたいので」
「真面目だねえ」
「明日実家帰るので、残したくないんですよ」
「ああ、言ってたね」
美咲は笑いながらマウスを動かす。
その時。
机の上に置いていたスマートフォンが小さく震えた。
「ん?」
画面を見る。
佐倉七海から。
『今日、帰りに少し話したいことがある』
美咲は少し首を傾げた。
七海とは昨日も昼食を一緒に取った。
今日も朝、一度顔を合わせている。
それなのに。
わざわざ。
帰りに。
話したいこと。
「……何だろ」
隣の同僚が覗こうとする。
「彼氏?」
「違います」
「即答」
「七海さんです」
「ああ」
それなら同僚も興味を失ったらしく、すぐ自分の画面へ戻った。
美咲は少し考えた。
七海は今日。
確かに。
少し変だった。
昨日から何度も。
「今日は駅じゃなくて違う道で帰らない?」
そんなことを言っていた。
何か用事でもあるのかと思っていたが。
もしかすると。
本当に。
何かあったのかもしれない。
美咲は指を動かす。
『いいですよ。どうしました?』
送信。
たった一行。
それだけ。
美咲本人にとっては、会社の先輩へ返しただけの何でもないメッセージだった。
けれど。
その瞬間。
管理領域では。
主様が開いていた未来分岐の一つが。
はっきりと。
揺れた。
「……」
主様は机の上へ広がった世界記録を見つめる。
昨日まで。
美咲本人の意思とは関係なく。
七海が一人で行動を変えることで分かれていた未来。
そこへ。
初めて。
美咲自身の意思による選択が入った。
七海と話す。
美咲自身が。
そう決めた。
まだ。
それだけ。
事故は消えていない。
因果固定も残っている。
十九時十二分という時刻も。
まだ。
濃い。
それでも。
生存未来。
十四パーセント。
だった数値が。
一瞬。
十五。
十六。
そして。
十七へ。
僅かに。
上がった。
主様はその変化を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……そういうことか」
ノルンには。
まだ伝えない。
今は。
七海と話している。
でも。
ようやく。
一つだけ。
はっきりした。
世界が再計算するために必要なのは。
誰かが。
美咲のために。
正しい道を決めてあげることではない。
美咲自身が。
知らされ。
考え。
選ぶこと。
その積み重ねだった。
ただし。
まだ。
足りない。
十七パーセント。
それだけでは。
今日を越えられるとは言えない。
そして。
午後四時三十四分。
喫茶店の小さな二人掛け席で。
佐倉七海は。
向かいに座ったノルンへ。
震える声で。
最初の一言を口にした。
「……私」
一度。
唇を強く結ぶ。
「三日前から」
テーブルの下。
両手を握りしめる。
「美咲が死ぬ夢を、何度も見てるんです」
その目には。
もう。
一人で隠し続けるには大きすぎる恐怖が。
はっきりと。
滲んでいた。




