第二十話 まだ生きている人へ「異世界に行きたいですか」と聞くのは、とても難しい仕事でした
地球へ降りる準備を始めてから、ノルンは同じ朝のうちに三度も服を着替えることになった。
最初に選んだのは、管理領域で普段から身につけている白いワンピースだった。柔らかな布地も、身体の動きを妨げない作りもノルンにはよく馴染んでいるし、何より主様の前で仕事をする時には、この姿が一番落ち着く。
ところが、鏡の前で一回転して見せたところ、長椅子に座っていた主様が少し困ったような顔をした。
「ノルン、その格好で行くの?」
「はい。何か問題がございますか?」
「問題というほどではないけど、現代日本の街中だと結構目立つと思うよ」
そこでノルンは素直に着替えた。
二着目は、タリウス王国のスカーレット公爵邸で洗濯場の臨時雇いとして働く時に使っている灰色のワンピースだった。茶髪とそばかすまで再現し、かなり人間らしい町娘の姿になったつもりだったのだが、今度はノルン自身が鏡を見ながら首を傾げた。
「主様」
「うん?」
「これはこれで、かなり浮いておりませんか?」
「うん」
「先ほど止めてくださってもよかったのでは?」
「自分で気づいた方が勉強になるかなって」
「むう……」
管理領域の大きな鏡の前で、ノルンはほんの少しだけ頬を膨らませた。日本へ行くこと自体に緊張しているせいもあるのだろう。普段なら笑って流せるような主様の言葉にも、今日は妙に真剣に反応してしまう。
最終的に選んだのは、白いブラウスに薄い色のカーディガン、膝より少し下まである紺色のスカートだった。腰まで伸びる本来の白髪は肩を少し越える程度の黒髪へ変え、瞳も淡い茶色へ調整する。靴も現地で浮かないよう歩きやすい白いスニーカーへ替えた。
鏡の中には、少なくとも外見だけなら、現代日本の駅前を歩いていても不自然ではなさそうな若い女性が立っている。
「どうでしょう?」
「いいと思うよ」
「本当に?」
「うん。あとは街中で突然、大声で『主様!』って叫ばなければ大丈夫」
「そこまで私は不用意ではありません!」
「昨日、銀鹿亭で連絡石に普通の声量で返事してたよね」
「……本日は気をつけます」
「それと魔法。人前では必要以上に使わないこと」
「承知しております」
「転移も緊急時以外は禁止。人間が持てない重さの物を片手で持ち上げない。それから――」
「主様」
「何?」
「私は幼い子供ではございません」
「知ってるよ。でもノルンの場合、悪気なくやるから確認してる」
反論しようとして、ノルンは口を閉じた。
タリウス王国の洗濯場で、巨大な桶を片手で持ち上げかけたことがある。普通の町娘らしく振る舞うつもりだったのに、力加減を忘れていた。思い返せば主様の心配にも十分な根拠がある。
「……承知致しました。人間らしく行動致します」
「うん。それなら大丈夫」
ノルンは一つずつ確認するように頷いたものの、表情から緊張が完全に消えることはなかった。
現代日本へ降りた経験がまったくないわけではない。観察官として世界記録に生じた異常を短時間確認するため、地球系世界へ足を運んだことは何度かある。
ただし、今回は意味が違う。
記録の乱れを見るためでも、転生後の誰かを遠くから観察するためでもない。まだこの世界で生きている一人の人間へ、自分から近づいて話をしなければならない。
しかもノルンは知っている。
その女性――高橋美咲が、明日死亡する可能性が極めて高いことを。
机の上には、美咲について必要最低限だけ抜き出した記録が置かれていた。二十四歳。東京都内の小さなデザイン会社へ勤務し、実家を離れて一人暮らしをしている。
母親の高橋美香は、二十五年前にラフェルディアへ転生したミレイア――前世名、水瀬美玲の実妹だった。
美咲に兄弟はいない。大きな病歴はなく、犯罪や深刻な金銭問題も確認されていない。仕事上の悩みは多少あるものの、現在の人生を投げ捨てようとしているような兆候もない。
そして、そのごく普通に見える人生にだけ、明日を境として異常なほど高い突発死の可能性が現れている。
死因は、まだ分からない。
「主様」
「何?」
資料を閉じたノルンは、机の向こうへ座っている主様へ視線を向けた。
「本当に、何も知らないふりをしてお会いするのでしょうか」
「最初はそのつもりだよ」
「ですが、私は美咲さんが亡くなる可能性を知っています。それを隠したまま普通にお話しするのは……」
ノルンは言葉を探し、少し迷ってから胸元で指を重ねた。
「騙しているような気が致します」
主様はすぐに否定しなかった。
「じゃあ、会ってすぐ全部言う?」
「全部、ですか?」
「『こんにちは。あなたは明日死ぬ可能性があります。それから異世界へ永住する気はありますか』って」
「……」
ノルンは想像した。
駅前で突然知らない女性が現れ、自分の名前を呼び、明日死ぬと宣告する。その直後に異世界へ行きたいか聞かれる。
「通報されそうです」
「たぶんね」
「それ以前に、とても怖いです」
「そういうこと」
主様は穏やかに続けた。
「だから、まず会うんだよ。記録に書かれている『高橋美咲』じゃなくて、本人に」
「本人に……」
「どんな人なのか。今の生活をどう思っているのか。何を大切にしているのか。それを見て、話せそうなら話す。何を伝えるかは、それから考えればいい」
ノルンはしばらく黙っていた。
フローラの時もそうだった。
最初から「転生者だから」と決めつけて拘束しなかった。話をし、怖いという本人の感情を聞き、自分の人生を選びたいという意思を知った。
カイルも、ミレイアも同じだった。
ならば、美咲だけを「明日死ぬ予定の人」として扱ってはいけない。
「分かりました」
ノルンは胸元へ手を添え、今度は迷いなく頷いた。
「まず、高橋美咲さんにお会いします。そして可能な限り自然に、異世界についてお聞きします」
「その『自然に』が一番難しそうだけどね」
「……私も、そう思っております」
◇◇◇
午前十時十三分。
東京都内の駅前へ降り立ったノルンが最初にしたことは、歩くことではなかった。
立ち止まった。
正確には、あまりの人の多さに立ち止まってしまった。
広い交差点の向こう側まで、人の流れが途切れない。信号が変わるたびに数十人、あるいはそれ以上の人々が一斉に動き、その合間を自転車や車が抜けていく。
高い建物には大小さまざまな看板が掲げられ、耳を澄ませば車の走行音だけでなく、駅から流れる案内放送、店舗の音楽、横断歩道の電子音、誰かの話し声が幾重にも重なって聞こえた。
タリウス王国の王都にも人は多い。
市場へ行けば肩が触れ合うほど人が集まる場所もある。
けれど、東京の人々は多いだけではない。
速い。
「主様」
ノルンはイヤホンに偽装した連絡具へ小声で呼びかけた。
『聞こえてるよ』
「皆様、歩くのが速いです」
『東京だからね』
「前を見ておられない方も多いのに、なぜほとんどぶつからないのでしょうか」
『慣れてるからじゃないかな』
「高度な集団移動技術でしょうか」
『そこまで大げさなものじゃないよ』
信号が赤へ変わった。
周囲の人々が自然に止まったため、ノルンも同じ場所で足を止める。
目の前には横断歩道。
向こう側にも大勢が待っている。
「馬車が一台もありません」
『車があるからね』
「あちらが自動車ですね」
『そう』
「カイルさんが持っている前世物品と同じ技術体系の世界……」
ノルンは改めて辺りを見渡した。
手に持たれたスマートフォン。
自動販売機。
コンビニエンスストア。
駅。
電車。
高層建築。
それらはノルンにとって世界記録を通して知る異世界の技術に過ぎない。
でも。
フローラにとって。
カイルにとって。
ミレイアにとって。
これはかつての日常だった。
「ミレイアさんも、このような場所を歩いておられたのですね」
『そうだね』
ノルンが少しだけ遠い目をしていた時、周囲の人々が一斉に動き始めた。
『ノルン』
「はい?」
『信号』
「あっ」
青になっていた。
後ろの人の邪魔にならないよう、ノルンは慌てて歩き出した。
「危うく流れを止めるところでした」
『観光は後でね』
「はい……」
高橋美咲は現在、勤務中。
ノルンは最初、美咲の勤め先へ直接訪ねようと考えていた。
けれど、何の関係もない女性が仕事中の相手を突然訪問し、「異世界へ行きたいですか」と尋ねる。
怪しい。
自分でも分かるほど怪しい。
そこで昼休み頃まで会社の近くで待つことにした。
世界記録を細かく読めば、美咲が昼にどの店へ入り、どの道を歩くかまで事前に確認することはできる。
だがノルンは、それをしなかった。
必要だから見られる。
それと。
見ていい。
は同じではない。
ミレイアの音楽再生端末を通して正体不明の存在からこちらを観察された時、ノルン自身が強く感じた不快感を思い出していた。
だから会社周辺の公共スペースで待つ。
それだけにした。
十五分。
三十分。
さらに時間が経った。
「主様」
『何?』
「美咲さんが出てきません」
『まだ昼休みじゃないよ』
「……」
『十一時二十五分』
「早く来すぎました」
『うん』
「では、私は何をしていれば自然でしょうか」
『近くの喫茶店にでも入ってみたら?』
ノルンの表情が一気に明るくなった。
「それです!」
◇◇◇
「いらっしゃいませー」
ノルンが入った店は、タリウス王国で言えば茶屋に近いのだろう。
ただ、雰囲気はまるで違っていた。
一人用の席がいくつもあり、客の多くは誰とも話していない。端末を見ている者、書類を広げている者、本を読んでいる者。賑わってはいるのに、妙に静かな空間だった。
「ご注文は?」
「おすすめをお願いします!」
店員の女性が一瞬だけ目を瞬いた。
「ええと……コーヒーでよろしいですか?」
「はい!」
「ホットとアイス、どちらになさいます?」
「どちらがおすすめでしょう」
「今日は暑いので……アイスですかね」
「では、それでお願い致します!」
注文を終え、席へ座ったところで、ノルンはそっと連絡具へ手を添えた。
「主様」
『何?』
「緊張致しました」
『何が?』
「選択肢が多いです」
『まだコーヒーしか選んでないよ』
「タリウス王国でしたら、紅茶を頼めば紅茶が出て参ります」
『日本でも紅茶を頼めば紅茶が出てくるけどね』
「なるほど」
やがて透明な容器へ入れられた黒い飲み物が運ばれてきた。中にはいくつも氷が浮かび、細長いストローが刺さっている。
ノルンはしばらく見つめた。
「主様」
『うん』
「黒いです」
『コーヒーだからね』
「飲んでも?」
『注文したんだから飲もうよ』
恐る恐る一口。
その瞬間。
ノルンの眉が僅かに下がった。
「……」
『どう?』
「主様」
『うん』
「大人の味です」
『苦手なんだね』
「お砂糖を入れてもよいでしょうか」
『もちろん』
シロップを一つ。
二つ。
三つ。
『ノルン』
「はい」
『その辺にしようか』
「まだ苦いです」
『ミルクもあるよ』
ノルンは本気で目を輝かせた。
「素晴らしい世界です」
その時、店の入口が開いた。
数人の女性が笑いながら入ってくる。
ノルンは何気なく顔を向け――そのまま視線を止めた。
肩ほどまで伸びた黒髪。
淡いベージュのブラウス。
黒いパンツ。
首から社員証を下げ、小さな鞄を肩へ掛けている。
記録で見た顔。
けれど。
記録より。
ずっと生きている顔。
「美咲、今日も外で食べるの?」
「うん。朝パンだけだったから、お腹減っちゃって」
「また寝坊?」
「昨日ちょっと夜更かしした」
「何してたの」
「面白い小説見つけちゃって」
「また異世界?」
「今回は悪役令嬢」
「結局そっちじゃん」
三人が笑う。
高橋美咲。
二十四歳。
ノルンが探し続けた緊急観察対象。
明日、死亡する可能性が高い女性。
けれど、実際に目の前にいる彼女は、そんな肩書きを何一つ背負っているようには見えなかった。
友人と笑い。
メニューを見ながら何を食べようか迷い。
お腹が空いたと言っている。
『ノルン』
「はい」
『見つけたね』
「……はい」
ノルンはすぐに席を立たなかった。
主様に言われたからではない。
立てなかった。
記録の中では何度も見た。
でも。
実際に笑っている美咲を見ると。
「明日死ぬ人」という言葉が、急に重くなった。
美咲達はノルンから少し離れた席へ座った。
こちらの存在には気づいていない。
「ねえ美咲、土曜どうする?」
「土曜?」
「映画。先週言ってたじゃん」
「あ……ごめん。土曜は実家帰ろうかなと思って」
「急だね」
「昨日、お母さんから電話あったんだよね。別に何かあったわけじゃないみたいだけど、顔見たいって」
「寂しくなったんじゃない?」
「かも。一人っ子だから心配なのかな」
「親からしたら二十四でも子供でしょ」
「そんなものかなあ」
ノルンは手元のコーヒーへ目を落とした。
母親。
高橋美香。
ミレイアの前世である水瀬美玲の実妹。
美咲はその母親へ会うため、週末に実家へ帰るつもりでいる。
明日。
死ぬ可能性が高い。
ならば、その予定は果たされないかもしれない。
そう考えた瞬間、ノルンの思考が急に先へ走りそうになった。
実家へ向かう途中か。
駅か。
車か。
事故か。
けれど、すぐに止めた。
未来は一つではない。
予定も変わる。
今見えている死の可能性が、そのまま現実になると決まったわけではない。
「最近、顔疲れてるよ」
「仕事がね。今月の案件が終われば少し楽になる」
「終わったら何する?」
「有給取る」
「いいじゃん」
「温泉行きたい」
「私も行く」
「一人で」
「えー」
「一人で何も考えずにぼーっとしたいんだって」
また。
笑う。
明日の先の話をしている。
仕事が終わる未来。
休暇を取る未来。
温泉へ行く未来。
本人は、そこへ自分がいることを疑っていない。
「主様」
ノルンは本当に小さな声で呼びかけた。
『うん』
「美咲さんは」
一度だけ、息を整える。
「普通です」
『そうだね』
「とても」
当たり前の言葉。
でも。
ノルンには重要だった。
彼女は「明日死ぬ対象」ではない。
高橋美咲という一人の人間だ。
『ノルン』
「はい」
『見るのはそこまでにしよう』
ノルンは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「はい」
必要なことは分かった。
これ以上会話を聞き続ければ、それは観察ではなく覗き見になってしまう。
ノルンは視線を外し、自分のコーヒーへ戻した。
氷は少し溶けていた。
苦味も。
最初より。
少しだけ薄くなっていた。
◇◇◇
午後十二時五十七分。
美咲達が店を出た数分後、ノルンも会計を済ませて外へ出た。
「主様」
『どうする?』
「お声を掛けます」
『どうやって?』
「……」
そこまで。
考えていなかった。
ノルンは遠くを歩く美咲の背中を見つめた。
「道を聞きます」
『その後は?』
「教えていただきます」
『それで終わるね』
「……」
『そこから異世界の話には繋がらないと思うよ』
「では、落とし物を」
『わざと落とすの?』
「……騙すことになります」
『そうだね』
「アンケート」
『何の?』
「異世界について」
『かなり怪しい』
「むう……」
ノルンは本気で悩んだ。
美咲は会社へ戻ろうとしている。
時間も長くはない。
「主様」
『うん』
「今日は、話さなくてもよいでしょうか」
主様の返事は少しだけ遅れた。
『いいよ』
「本当に?」
『今日の目的は、まず本人に会うことだったから』
「ですが」
『無理に接触して美咲の日常を壊す方が良くない』
ノルンは少しだけ息を吐いた。
期限がある。
だから、焦っていた。
今日会ったら、今日聞かなければならない。
どこかでそう思い込んでいた。
「分かりました」
美咲が横断歩道を渡り、会社のある通りへ曲がっていく。
ノルンはその姿を追わなかった。
ただ。
その時だった。
空気へ。
細い異物が触れた。
人間には感じ取れないほど微かなもの。
けれどノルンには分かる。
「……主様」
『僕も感じた』
「世界外干渉です」
美咲からではない。
もっと上。
ノルンは視線を上げた。
高層ビル。
その外壁。
工事用足場。
クレーン。
吊り上げられた資材。
作業員達は普通に働いている。
風も特別強いわけではない。
異常。
見えない。
それでも。
工事現場上部に。
微かな。
世界外干渉痕。
「主様」
『見えてる』
「事故の原因でしょうか」
『まだ決めない』
数十秒前。
美咲は。
その建物の下を歩いていた。
ノルンの胸の奥が冷たくなる。
『僕が何もしなくても死ぬ』
正体不明の存在はそう言った。
『その世界で起きることだから』
なら。
なぜ。
ここに。
世界外干渉痕がある。
「記録致します」
『うん』
人の多い街中で手帳を取り出せば目立つため、ノルンはスマートフォンに偽装した記録端末へ情報を残した。
「工事中建造物上部。微弱な世界外干渉痕を確認。美咲さん本人へ付着している痕跡との照合をお願いします」
数秒。
『一致率四十二パーセント』
「低いですね」
『でも無関係とも言い切れない』
「事故候補としては?」
『保留』
ノルンはもう一度ビルを見上げた。
未来を知っている。
そのせいで。
何もかもが危険に見える。
走る車。
駅の階段。
横断歩道。
工事現場。
人混み。
一つ間違えば。
どれも事故へ繋がる。
「未来はまだ揺れていますね」
『うん。だから一つに決めつけないで』
「……はい」
分かっている。
分かっているのに。
明日死ぬ可能性が高い人間を前にすると。
知っていることが。
こんなにも。
怖い。
◇◇◇
午後。
一度管理領域へ戻ったノルンは、普段より少し小さな声で帰還を告げた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
主様は最初から視覚情報を共有していたため、地球で何が起きたのかは知っている。
それでも、長椅子から立ち上がり、いつものようにノルンへ聞いた。
「どうだった?」
ノルンは少し考えてから答えた。
「高橋美咲さんは、普通の方でした」
「うん」
「お仕事をされて、同僚の方と笑って、お母様へ会う約束をして、仕事が落ち着いた後には温泉へ行きたいと仰っていました」
言葉にすると。
また。
胸が重くなる。
「主様」
「何?」
「私は美咲さんご本人へ、『生きたいですか』とは聞いておりません」
「うん」
「ですが、美咲さんは明日より先のことを何度も話していました。それなら……」
ノルンは顔を上げた。
「生きたいと思っている、と考えてよいのでしょうか」
主様は簡単に肯定しなかった。
「本人がそう言ったわけじゃない」
「はい」
「でも、少なくとも美咲は、自分の人生が明日終わるものとして生きてはいない」
「……はい」
「そこは大事だと思うよ」
ノルンはゆっくり頷いた。
「それから工事現場の痕跡だけど」
「はい」
「詳しく見たよ。正体不明の存在と同系統ではある」
ノルンの表情が引き締まる。
「やはり」
「ただ、事故を起こすための干渉痕には見えない」
「では」
「観察していた可能性が高い」
「美咲さんを?」
「うん」
ノルンの表情が曇った。
しかし。
すぐに。
別の疑問が浮かぶ。
「主様」
「何?」
「私も、同じなのでしょうか」
「何が?」
「今日、美咲さんを遠くから見ておりました」
主様はしばらく黙っていた。
「目的は違うよ」
「でも」
「ノルンは必要以上に見ないようにした」
「はい」
「本人の生活を面白がるためでもない」
「はい」
「それから何より」
主様は少しだけ穏やかな表情になった。
「自分が観察される側になった時、嫌だったことを覚えてる」
「……はい」
「その感覚を忘れない限り、同じにはならないと思う」
ノルンの肩から少しだけ力が抜けた。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「観察することに慣れすぎないでね」
主様の声が少しだけ真面目になる。
「観察官だから見ていい。必要だから全部知っていい。そう思い始めたら、たぶん危ない」
ノルンは今度こそ迷わず頷いた。
「はい。覚えておきます」
◇◇◇
その日の夕方。
ノルンは、もう一度だけ地球へ降りた。
美咲の退勤時刻そのものを世界記録で確認することは避けたため、会社周辺の公共スペースで待つ。
尾行はしない。
自宅も見ない。
声を掛ける機会がなければ、今日は諦める。
そう決めていた。
「主様」
『何?』
「やはり、異世界に関する簡単なアンケートという方法は」
『やめよう』
「ですよね」
「誰と話してるんですか?」
「はい?」
突然、すぐ横から声がした。
ノルンの肩が跳ねる。
振り向いた先に。
高橋美咲がいた。
二人の視線がぶつかる。
「あ……すみません」
美咲の方が先に少し笑った。
「イヤホン見えてなくて。独り言言ってるのかと思いました」
ノルンは反射的に耳元の連絡具へ触れた。
「こちらで話しておりました」
「ああ、電話」
「はい!」
「びっくりした」
「申し訳ありません!」
「いや、私が勝手に声掛けただけなんで」
美咲は軽く笑った。
昼。
遠くから見ていた。
でも。
今。
近い。
普通に。
声が届く距離。
『ノルン』
「はい」
「え?」
美咲が首を傾げる。
「……電話の相手です」
「ああ」
危ない。
ノルンは内心で自分へ注意する。
「では、失礼します」
美咲が軽く会釈して去ろうとした。
「お待ちください!」
反射だった。
美咲が振り返る。
「はい?」
止めた。
でも。
何を言う。
頭の中で。
様々な言葉が。
一気に浮かぶ。
「その……異世界に」
『ノルン』
主様の声。
そこで。
止まる。
「異世界?」
美咲が目を瞬いた。
もう。
出てしまった。
ノルンは必死に言葉を繋いだ。
「……異世界ものは、お好きですか?」
美咲は数秒ぽかんとしていた。
やがて。
小さく吹き出した。
「何ですか、急に」
「申し訳ありません!」
「いや、さっきから面白い人ですね」
面白い。
その言葉へ。
ノルンは一瞬だけ複雑な顔になる。
正体不明の存在にも言われた。
『君、おもしろいね』
最近。
多い。
「異世界ものは好きですよ。小説とか漫画とか」
「本当ですか?」
「はい」
ようやく。
聞ける。
ノルンは緊張を悟られないよう、慎重に続けた。
「では、もし本当に異世界へ行けるとしたら、行ってみたいと思われますか?」
「本当に?」
「はい」
美咲は最初、冗談だと思ったらしい。
「魔法が使えるなら、ちょっと行ってみたいかも」
ノルンの胸が一瞬強く鳴る。
だが。
美咲はすぐに続けた。
「旅行なら」
「旅行?」
「一週間くらいですよ。観光して、魔法見て、美味しいもの食べて、それで帰ってこられるなら」
ノルンは思い出す。
フローラが言っていた。
物語の中で憧れることと。
本当に帰れない場所へ行くことは。
違う。
「では」
ノルンは慎重に尋ねた。
「帰れないとしたら?」
美咲の笑顔が少し薄くなった。
「帰れない?」
「はい。ずっとです」
「それは……」
美咲は流れていく人々を見ながら少し考えた。
答えは。
それほど長くかからなかった。
「嫌かな」
「なぜでしょう」
思わず聞く。
美咲は少し不思議そうにしたものの、普通に答えてくれた。
「だって、お母さんいるし」
ノルンの胸が痛んだ。
「友達もいるし、仕事は辞めたい日もありますけど、だからって全部捨てたいわけじゃないし」
「……はい」
「あと」
「はい」
「積んでる小説、まだいっぱいあるので」
ノルンは思わず真面目に頷いた。
「それは大切ですね」
「ですよね」
二人。
少し。
笑った。
美咲は自分のスマートフォンで時間を確認した。
「ところで、何でこんな話を?」
「私は……」
ノルンは迷った。
嘘はつきたくない。
けれど。
真実を全部話すこともできない。
「人が今いる場所を離れ、まったく違う場所へ行くことをどう考えるのか、少し調べております」
「研究か何か?」
「……近いです」
『近くないよ』
主様の声が聞こえた。
ノルンは聞かなかったことにした。
「へえ。面白いですね」
「ご協力ありがとうございます」
「いえ。あ、すみません。電車あるので」
「はい」
「じゃあ」
美咲が離れる。
ノルンは。
最後。
もう一つだけ。
声を掛けた。
「高橋さん」
美咲の足が。
止まる。
そして。
ゆっくり。
振り返った。
「……何で、私の名前知ってるんですか?」
ノルンの血の気が。
一瞬。
引いた。
社員証。
ない。
昼は付けていた。
でも。
今は。
鞄の中。
そして。
美咲は。
自分の名前を。
名乗っていない。
『ノルン』
主様の声も低くなる。
『ごまかさない』
「……はい」
美咲は一歩。
ノルンから距離を取った。
先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。
「誰なんですか」
当然だ。
知らない女性が。
名前を知っている。
それだけでも。
十分。
怖い。
フローラの顔が。
ノルンの脳裏へ浮かんだ。
自分の知らないところで。
自分のことを。
知っている人。
怖い。
「申し訳ありません」
ノルンは深く頭を下げた。
「驚かせました」
「答えてください」
美咲の手はスマートフォンへ添えられている。
何かあれば。
すぐ。
助けを呼べる。
「私の名前は、ノルンと申します」
「ノルン?」
「はい」
「日本人じゃないですよね?」
「はい」
即答。
さらに。
怪しい。
美咲の警戒が強まるのを。
ノルンにも。
分かった。
「何の用なんですか」
「高橋美咲さんへ、確認したいことがありました」
「だから異世界?」
「はい」
「じゃあ、どうして私の名前を知ってるんですか」
逃げられない。
ノルンは一度だけ唇を閉じた。
「それを今ここで説明しても、恐らく信じていただけません」
「……」
「それに」
ノルンは美咲の目から逃げなかった。
「これ以上、怖がらせる可能性があります」
「もう十分怖いです」
その言葉は。
強かった。
でも。
怒鳴ってはいない。
だから。
余計。
胸へ。
刺さる。
「……申し訳ありません」
ノルンはもう一度頭を下げた。
「今日は、これ以上近づきません」
美咲が少し驚く。
ノルンは一歩。
自分から下がった。
「ただ、一つだけお願いがあります」
「何ですか」
「先ほど、帰れないのであれば異世界へ行きたくないと仰ったこと」
「……」
「そのお気持ちは、覚えておいてください」
「どういう意味ですか」
「今は……それ以上申し上げられません」
美咲の顔には。
完全な困惑。
そして。
警戒。
「意味分からないです」
「はい」
「宗教とかじゃないですよね」
「違います」
「勧誘?」
「違います」
「詐欺?」
「違います!」
声が大きくなった。
通行人が何人か振り返る。
ノルンは慌てて声を落とした。
「……違います」
美咲は。
一瞬。
その様子を見た。
そして。
ほんの少しだけ。
表情の強張りが緩む。
「……変な人」
「よく言われます」
「そこは認めるんですね」
「最近、よく言われるようになりました」
美咲の口元が僅かに動いた。
それでも。
警戒が消えたわけではない。
「もう行きます」
「はい」
「ついて来ないでください」
胸。
痛い。
でも。
ノルンは。
すぐに。
頷いた。
「承知致しました」
「本当に?」
「はい」
美咲は数秒ノルンを見た。
やがて。
駅へ向かって歩き始める。
途中。
一度。
二度。
振り返る。
ノルンは。
動かない。
その場所で。
立っていた。
そして。
人混みの中へ。
美咲が消えた。
「……」
『ノルン』
「はい」
『大丈夫?』
「はい」
返事。
でも。
少し。
弱い。
「失敗致しました」
『うん』
「主様」
『何?』
「そこは否定していただきたいところでした」
『でも名前を呼んだのは失敗だったでしょ』
「……はい」
正しい。
ノルンは肩を落とした。
『でも』
「はい」
『聞きたかったことは聞けた』
「帰れないのであれば」
『行きたくない』
「はい」
『今の生活を全部捨てたいわけでもない』
「はい」
『それは、美咲本人の言葉だよ』
ノルンはゆっくり頷いた。
「分かりました」
『それから』
「はい」
『美咲が怖がったことも忘れない』
「はい」
『明日は、無理に接触しない』
ノルンは少しだけ目を伏せた。
「ですが」
『必要になったら別の方法を考える』
「……はい」
美咲が消えた駅前を。
もう一度。
見る。
知らないところから。
見られている。
知らないことまで。
知られている。
それは。
どれほど。
怖いのか。
「主様」
『何?』
「フローラ様の気持ちが、また少し分かりました」
『うん』
「知らないところから見られているというのは」
一度、息を吐く。
「本当に嫌なものですね」
◇◇◇
その夜。
管理領域へ戻ったノルンは、いつものような大声で帰還を告げなかった。
「ただいま戻りました」
静かに転移門を抜け、地球用の服から白いワンピースへ戻る。本来の白髪も腰まで流れ落ち、鏡に映る姿は、朝ここを出ていった時と同じ転生者観察官ノルンへ戻っていた。
でも。
気持ちは。
少し。
違っていた。
机へ座り、観察記録を開く。
『緊急観察対象:高橋美咲』
その下へ。
一つずつ。
書く。
『本人と接触』
『現在の生活を放棄したい意思は確認されず』
『母親、友人、仕事など、現世界に複数の生活上の繋がりあり』
『将来予定として、実家訪問、業務終了後の休暇希望等あり』
『異世界について「短期間の旅行なら興味あり」「帰れないのであれば行きたくない」と本人が発言』
そこで。
ノルンの筆が止まった。
次。
書きたくない。
でも。
書く。
『観察官ノルンが対象者の氏名を不用意に口にし、警戒を招く』
自分で書くと。
さらに。
失敗。
見える。
『対象より接触停止を求められたため、その場で離脱。尾行なし』
横から主様が記録を見る。
「ちゃんと書くんだね」
「失敗も残しておかなければ、また同じことを致します」
「うん。いいと思う」
ノルンは少しだけ肩を落とした。
「主様」
「何?」
「私」
一度。
迷う。
「観察官失格でしょうか」
主様は。
今度。
迷わなかった。
「違うよ」
ノルンが顔を上げる。
「失敗したら失格なら、観察官なんて誰も続けられない」
「……」
「大事なのは、美咲が怖がった時に、任務を優先して追わなかったこと」
「はい」
「『ついて来ないで』と言われて、ノルンは止まった」
「……はい」
「それでいい」
ノルンの胸へ。
少しだけ。
温かいものが戻る。
「ありがとうございます」
「明日は?」
「無理に接触致しません」
「うん」
「ただし事故の確認に必要な範囲で、最小限の観察は続けます」
「それでいこう」
残された時間。
およそ一日。
美咲は明日仕事へ行く。
その後。
週末には。
母親へ会う予定。
けれど。
事故の場所。
時刻。
原因。
まだ。
分からない。
その時。
管理領域の机の端へ。
小さな光が浮かんだ。
「……」
ノルンの目が細くなる。
主様も。
すぐに。
そちらを見る。
『会えたね』
正体不明の存在。
やはり。
見ていた。
「はい」
『どうだった?』
「美咲さんご本人へ確認致しました」
ノルンは少し硬い声で答えた。
「帰れないのであれば、異世界へ行きたくないと」
光が。
一度。
止まる。
普段なら。
すぐ。
返事。
来る。
でも。
今回は。
少し。
間。
『そっか』
「はい」
『じゃあ、行かないんだね』
ノルンは少しだけ目を見開いた。
もっと。
説得する。
もっと。
理由を探す。
そう思っていた。
でも。
相手は。
あっさり。
受け入れた。
「はい」
『分かった』
その一文に。
ノルンの肩から。
僅かに。
力。
抜ける。
もしかしたら。
自分の言葉を。
本当に。
聞いてくれた。
本人の意思を。
尊重する。
ように。
変わった。
そう思いかけた。
その直後。
『じゃあ、死んだら普通に行くところへ戻すね』
ノルンの表情が止まった。
「……普通に?」
『うん』
「正規の死後処理へ戻されるという意味でしょうか」
『そう』
主様の表情も変わる。
正体不明の存在は。
正式な魂路の存在を知っている。
さらに。
そこへ魂を戻せる。
かなり重要な情報だ。
「では」
ノルンは慎重に聞く。
「あなたは、美咲さんの死へ干渉されない?」
『しないよ』
「本当に?」
『約束』
約束。
以前。
相手は。
ノルンと会う約束もした。
今のところ。
明確な嘘。
ついている。
ようには。
見えない。
「分かりました」
それでも。
一つ。
残る。
「では、なぜ以前、美咲さんの死を止めないでほしいと仰ったのですか?」
光が。
止まった。
少し。
長く。
その後。
『それは』
文字。
出る。
『ノルンが決めることじゃないから』
ノルンの呼吸が止まる。
『僕もだけど』
「……」
『あの子の世界で起きること』
『管理者でも』
『観察官でも』
『僕でも』
『全部助けることはできないでしょ?』
ノルンは。
何も。
言えなかった。
主様も。
否定しない。
相手。
続ける。
『でも』
『見たら』
『ノルンは助けたくなると思う』
「当然です」
ノルンの拳へ。
少し。
力。
入る。
『うん』
『だから見てみたい』
ノルンの表情が変わった。
「……何をですか?」
『ノルンがどうするのか』
管理領域の空気が。
冷える。
美咲を。
見ている。
だけ。
ではない。
相手。
今。
ノルンを。
観察。
している。
『助けたら世界の流れを変える』
『助けなかったら目の前で人が死ぬ』
『観察官は、どっちを選ぶのかなって』
ノルンの目が。
静かに。
細くなる。
「あなたは」
一度。
言葉を切る。
「美咲さんを、そのために選んだのですか」
『違うよ』
今までにないほど。
返事。
早い。
『美咲が死ぬことは僕が決めたんじゃない』
『そこは本当』
「では」
『ただ』
一度。
間。
『ノルンがそれを知ったら』
『どうするのか気になった』
悪意。
では。
ない。
だからこそ。
やっぱり。
理解。
難しい。
人の人生。
人の死。
そこへ。
好奇心。
「主様」
ノルンは横を見る。
「私は、どうすればよいのでしょう」
主様は。
すぐには。
答えなかった。
そして。
「まだ決めなくていい」
「ですが」
「事故が何なのかも分かってない」
「はい」
「美咲が本当に死ぬことだって、未来として完全に確定したわけじゃない」
「はい」
「だから今は」
主様は。
ノルンの目を見る。
「選択肢を二つにしない」
「二つ?」
「助けるか、助けないか」
ノルンの目が少し大きくなる。
「それ以外を探す?」
「うん」
ノルンは。
ゆっくり。
息。
吐く。
「……はい」
正体不明の存在から。
新しい文字。
『なるほど』
『管理者もおもしろいね』
主様が僅かに眉を上げた。
「褒められてるのかな」
「恐らく」
ノルンは少し真顔になる。
「私と同じですね」
「そこ喜ぶところ?」
さらに。
文字。
変わる。
『じゃあ』
『明日』
『ちゃんと見ててね』
ノルンの表情が引き締まる。
「事故は明日なのですね」
『うん』
「時刻は?」
『ひみつ』
眉。
ぴく。
「場所は?」
『ひみつ』
「せめて、どのような事故かだけでも」
『会えば分かるよ』
「またそれですか!」
思わず声が大きくなった。
光が小さく揺れる。
笑っている。
ように。
見えた。
『おやすみ、ノルン』
「まだお話が――」
消えた。
完全に。
「……」
ノルンはしばらく。
何もない空間を見つめた。
やがて。
ゆっくり。
主様を見る。
「主様」
「何?」
「この方と直接お会いしたら、最初に」
「ほどほどにね」
「まだ何も申し上げておりません!」
「顔に書いてある」
「むう……」
頬。
少し。
膨らむ。
でも。
すぐ。
真面目。
戻る。
「明日、美咲さんに何が起きるのかを観察致します」
「必要最低限でね」
「はい」
「それと」
「はい」
「事故が起きるまで、助けるか助けないかを決めない」
ノルンは。
少し。
迷った。
自分なら。
助ける。
そう。
言いたい。
でも。
主様。
言った。
二択。
しない。
「承知致しました」
机へ。
新しい。
記録。
残す。
『高橋美咲――本人意思確認済み』
『異世界への恒久移住を希望せず』
『正体不明存在は本人意思を受け入れる意向を表明』
『美咲死亡時は正規死後処理へ戻すと発言』
『正体不明存在による死亡事故への直接干渉は否定』
『事故発生予定:明日』
『場所・時刻・事故内容:非開示』
そして。
最後。
一文。
『正体不明存在は、美咲の死そのものだけでなく、それを知った観察官ノルンが何を選択するのかを観察対象としている可能性あり』
ノルンはその一文を、しばらく見つめた。
転生者観察官。
自分は。
見る側だった。
転生者が。
何を。
選ぶ。
どんな。
人生。
歩む。
それ。
見守る。
でも。
いつの間にか。
自分自身が。
見られる側へ。
回っている。
そして。
明日。
試される。
けれど。
ノルンは。
その言葉を。
使いたくなかった。
試験。
では。
ない。
美咲の人生は。
誰かが答えを比べるための。
問題ではない。
「主様」
「うん」
「明日」
一度。
言葉。
止める。
助けます。
とは。
言わない。
見殺しにしません。
とも。
まだ。
言わない。
「美咲さんを、ちゃんと見ます」
主様が少しだけ笑った。
「うん」
「明日死ぬ予定の方としてではなく」
「うん」
「高橋美咲さんとして」
「それがいいと思う」
ノルンは手帳を閉じた。
明日。
高橋美咲へ。
何かが。
起こる。
正体不明の存在は、自分が何もしなくても生じる出来事だと言った。
事故なのか。
災害なのか。
誰かの過失なのか。
まだ。
分からない。
そして。
その瞬間。
ノルンが手を伸ばせば。
本当に。
世界の流れが。
変わる。
のか。
それも。
分からない。
ただ。
一つ。
今日。
本人から。
聞いた。
美咲は。
帰れない異世界へ。
行きたくない。
母親がいる。
友人がいる。
仕事がある。
まだ読んでいない小説がある。
仕事が終わったら。
休みを取って。
温泉へ。
行きたい。
そんな。
普通。
未来。
話した。
ノルンは自室へ戻る前に、窓の向こうへ浮かぶ青い世界光を見た。
地球。
今日。
美咲。
笑っていた。
「……明日も」
ノルンは本当に小さな声で呟いた。
「普通に帰っていただければ、よいのですが」
主様は答えなかった。
答えられなかった。
未来は一つではない。
今この瞬間にも、ほんの小さな選択によって無数に枝分かれしている。
それでも。
管理領域から観測できる数多の可能性の中で。
高橋美咲が明日の夜を迎えられない未来だけが。
まるで。
何かに引かれているように。
不自然なほど濃く。
残り続けていた。




