第十九話 三日後に死ぬ人を探していたら、その人は私の知らない誰かではありませんでした
三日。
正体不明の存在が残した期限は、たったそれだけだった。
管理領域の空中へ浮かんでいた『三日』という文字が消えてからも、ノルンはしばらく同じ場所を見つめ続けていた。そこにはもう何も残っていない。光も、世界外干渉の痕跡も、あの存在からの新しい言葉もない。それでも、先ほどまでそこにあった二文字だけが、妙にはっきりと目の奥へ焼きついている。
机の上では、主様が展開した無数の世界記録が淡い光を放っていた。管理領域の窓の向こうを流れる世界光と重なるように、一つ、また一つと小さな光が並び、そのそれぞれの中で今この瞬間も国が動き、町が息づき、人々がそれぞれの人生を生きている。
その中から、三日後に死ぬ一人を探し出さなければならない。
言葉にすれば簡単だったが、実際には途方もない話だった。
一つの世界だけを見ても、三日間のうちに命を終える者は決して少なくない。長く病を患っている者もいれば、老衰で静かに息を引き取る者もいる。事故、災害、戦争、魔物の襲撃。世界によっては魔力暴走や精霊災害、呪詛など、その土地固有の理由で命を落とす者までいる。
まして今回は、対象となる世界すら分からない。
日本なのか。
地球系世界なのか。
あるいは、これまでとは違い、最初から異世界で生きている誰かなのか。
年齢も、性別も、職業も、死因も何一つ示されていない。
「……主様」
「何?」
しばらく黙っていたノルンが、ようやく小さく口を開いた。
「無理ではありませんか?」
緊急捜索を開始すると宣言してから、まだ十分も経っていない。
机の反対側で世界記録を整理していた主様は顔を上げると、少しだけ眉を持ち上げた。
「さっき、絶対に見つけるって言ってなかった?」
「言いました」
「かなり力強く」
「言いました」
「もう無理?」
「無理とは申し上げておりません」
ノルンは真剣な顔のまま、目の前へ広がる膨大な世界記録を両手で示した。
「ただ、条件が少なすぎると申し上げております! 三日後に亡くなる方という条件だけでは、一世界に限定しても相当数いらっしゃいます。これを全世界から探すとなれば、私が一人ずつ訪ねて『三日後に異世界へ行くご予定はございますか』と聞いて回るわけにも参りません!」
「ああ、そっちね」
「もちろん、私もそのようなことはしたくありません」
ノルン自身、想像しただけで嫌だった。
見ず知らずの相手が突然現れ、三日後の予定を聞いてくる。それだけならまだ変わった人で済むかもしれないが、事情を説明すれば、ほとんど死の予告と変わらなくなる。
観察対象を見つけるためとはいえ、そんな方法を取るわけにはいかなかった。
ノルンは腕を組み、改めて机の上へ並ぶ世界光を見回した。
「正体不明の方は、私達なら見つけられると思っているのでしょうか」
「たぶんね」
「なぜです?」
「本当に何の手掛かりもなくて、どうやっても見つけられない相手を指定して『見つけてね』って言ってるなら、かなり性格が悪いから」
「……否定できません」
ここ数日のやり取りを思い返せば、十分あり得そうなのが困る。
ただ、主様は少し考えてから首を横へ振った。
「でも、これまでを見る限り、あの存在は意地悪ではあっても、完全に答えのない問題を出して困らせるタイプではないと思う」
ノルンは目を瞬いた。
「どういうことでしょう」
「遊び場の時もそうだったでしょ。最初から全部を教えたわけじゃない。でも、僕達が自分達で調べて、正しいところまで近づいたら反応してきた」
「……『正解』と仰っていましたね」
「うん。九人についても、僕達が六人まで見つけた段階で『全部で九人』って教えた。つまり、自分である程度までは考えてほしいんだと思う」
ノルンは唇へ指を当て、これまでの相手の言葉を思い返した。
確かに、手掛かりは毎回こちらが動いた後に与えられている。
『見つけられるかな?』
『六人、見つけた?』
『全部で九人』
『次の子を見つけたら会おうか』
どれも、何もないところから答えを求めるというより、こちらが見落としている何かへ気づけと言っているようにも思えた。
「つまり今回も、すでに手掛かりはあると?」
「僕はそう思ってる」
「ですが、昨日いただいた情報は『三日』だけでした」
「昨日だけを見るから分からないんじゃない?」
その言葉で、ノルンの視線が止まった。
「昨日だけ?」
「うん」
主様が手を動かすと、新たな九つの記録板が机の上へ並んだ。
カイル。
ミレイア。
レオン。
セラ。
まだ直接確認していない二人。
ユウト。
アヤ。
そして精霊として転生していたリュミ。
二十五年前、十一日間に分かれて世界外干渉を受け、それぞれ異なる世界へ送られた九人。
「次の子を探すための手掛かりがあるなら」
主様は九つの記録を見ながら静かに続けた。
「この九人の中じゃないかな」
ノルンの目が細くなる。
「共通点を探すのですね」
「そういうこと」
「全員、日本人です」
「うん」
「事故による突然死」
「今分かっている九人は全員そうだね」
「年齢も比較的若い」
「そこも共通してる」
「そして何より」
ノルンは九人の魂記録を順番に見た。
「正体不明の方に選ばれた」
「たぶん、一番大きいのはそれだと思う」
言われてみれば、今まで考える順番が一つ抜けていた。
これまでノルン達は、正体不明の存在が九人へ何をしたのかを追ってきた。
転生先を変えた。
前世の物品を持たせる者と持たせない者を分けた。
物語知識を持ったまま転生した者もいた。
後半の三人に至っては、人間以外の器まで試そうとしていた可能性がある。
けれど、それより前にある疑問。
「なぜ、この九人だったのでしょう」
ノルンの声が少し低くなる。
「日本では、あの十一日間にも他に亡くなった方が大勢いらっしゃったはずです」
「かなりの人数がいるね」
「事故死に限定しても?」
「九人だけじゃない」
「若年者まで絞っても?」
「まだ相当数残る」
そこでノルンの表情が変わった。
「つまり、正体不明の方には選別基準がある」
「ある可能性が高い」
「そして、今度の方も同じ基準へ当てはまっているかもしれない」
「うん」
それなら、少なくとも全世界を無作為に探し回る必要はなくなる。
まだ途方もなく広いが、何もないところから一人を探すよりはずっとましだった。
「九人の共通項を洗い出しましょう」
「そうしよう」
ノルンは椅子を引き寄せると、主様の隣へ腰を下ろした。
「今夜はどこまで調べますか?」
「その前に」
主様がちらりとノルンを見る。
「さっきの約束、覚えてる?」
「もちろんです」
「一日で全部見つけようとしない」
「はい」
「ちゃんと休む」
「はい。ただし」
「何?」
「寝る時間になるまで調べないとは約束しておりません」
「……抜け道を探さないで」
主様の呆れた声が、静かな管理領域へ小さく響いた。
◇◇◇
九人の前世記録を並べ直す作業から調査は始まった。
死亡時の年齢、性別、居住地域、家族構成、職業、学歴、事故の種類、事故発生時刻、死亡直前の魂状態、そして正規の死後処理へ入るまでの経路。
世界記録には、調べようと思えば個人の生活のかなり深い部分まで残っている。
けれどノルンは、必要のない項目を開こうとはしなかった。
見られるからといって、何でも見てよいわけではない。
それは、ここ数日で特に強く感じるようになったことだった。
自分が管理領域を外から覗かれた時、ノルンはひどく落ち着かなかった。フローラが王太子府から知らないうちに監視されていたことを怖がった理由も、以前よりずっと分かる。
観察官として必要な観察はする。
けれど、興味だけで相手の人生を覗き込まない。
それは忘れてはいけない。
「まず年齢ですが、二十一歳から三十二歳までですね」
「少し幅はあるけど、全員かなり若い」
「性別は男性五名、女性四名」
「ほぼ半々」
「居住地域は……」
ノルンが当時の日本地図を開き、すぐに首を傾げた。
「完全にばらばらです。北海道から九州までいらっしゃいます」
「同じ町でもないね」
「学校も職場も一致なし。親族関係も……ありません」
「知人関係は?」
「今のところ確認できません」
同じ学校ではない。
同じ会社でもない。
同じ土地でもない。
親族でもなければ、友人関係でもない。
事故の種類も統一されていなかった。交通事故、転落事故、水難、落下物による事故など、発生時刻も朝昼夜に分散している。
「分かりません」
しばらく調べ続けた後、ノルンは頬へ指を当てながら呟いた。
「何を基準に選んだのでしょう」
偶然という可能性も、完全には消せなかった。
事故で死んだ魂を適当に九人選んだだけ。
だが、今度の対象者について、相手はすでに「次の子」と呼んでいる。
しかも三日後に死ぬことまで知っていた。
つまり、その人物はまだ生きているのに、すでに選ばれている。
そこまで考えた瞬間、ノルンの指が止まった。
「……死亡後ではありません」
「何が?」
「相手が人を選ぶ時期です」
主様がノルンを見る。
「二十五年前の九人は、事故死した後に魂を見つけ、その中から選んだのだと思っておりました」
「うん」
「ですが、今回の方はまだ亡くなっていない。それなのに、正体不明の方はすでにその方を『次の子』と呼んでいます」
主様の表情から、僅かに柔らかさが消えた。
「……なるほど」
「つまり、九人についても」
ノルンは並んだ前世記録へ視線を戻した。
「死亡事故が起きたから選ばれたのではなく、以前から見ていた人間が偶然亡くなったから連れていった可能性があります」
順番が逆。
そう考えた途端、調べるべきものも変わった。
死因ではない。
死ぬ前。
九人がまだ普通に日本で暮らしていた頃。
そこに共通点があったのではないか。
「死亡前一年間へ範囲を広げましょう」
「生活記録まで見る?」
「必要最低限にします」
「分かった」
九人の死亡前一年間に、大きな出来事がなかったかを追っていく。
就職した者。
進学した者。
転職した者。
失恋した者。
恋人ができた者。
旅行へ行った者。
家族との別れを経験した者。
趣味を始めた者。
逆に、何かを諦めた者。
どの人生も違った。
当然だった。
同じ二十代の人間だからといって、同じ道を歩くはずがない。
調べても、調べても、九人全員へ共通する大きな出来事は見つからなかった。
「ありませんね」
「僕も見つけられない」
「もっと小さな共通点でしょうか」
「その可能性はある」
時間だけが過ぎていく。
管理領域には地上のような昼夜はない。それでもノルンの身体は時間を覚えており、長時間記録を追い続けた目には少しずつ疲労が溜まり始めていた。
何度目かの欠伸を噛み殺したところで、主様が世界記録を閉じた。
「今日はここまで」
「まだ調べられます」
「約束」
「……」
「ノルン」
「はい」
「明日もある。三日全部を使っていいんだから」
「分かっております」
「じゃあ休もう」
「あと十分だけ」
「駄目」
「五分」
「駄目」
「三分なら」
「交渉しない」
ノルンは名残惜しそうに九人の記録を見つめた。
「主様」
「何?」
「調査ではないのですが、一つだけお願いがあります」
「何?」
「明日、洗濯場へ一時間だけ行ってもよろしいでしょうか」
主様が黙った。
「三日しかないんだよ?」
「だからこそです。ずっと管理領域で記録だけを見ていると、考え方まで記録の数字へ寄ってしまう気がします」
これは単なる言い訳ではなかった。
今日もフローラと話したことで、本人の意思について別の角度から考えられた。
世界記録には何でも残る。
でも、そこに生きる人の声を、完全に代わりにしてくれるわけではない。
「一時間だけ」
しばらくして、主様が言った。
「はい!」
「延長なし」
「承知致しました!」
「それから六時間寝る」
「五時間半では?」
「六時間」
「……はい」
ノルンは少し肩を落とした。
「主様は厳しいです」
「昨日までなら、休めって言われたら喜んでたと思うよ」
「今も尊敬しております!」
「じゃあ寝ようね」
◇◇◇
翌朝。
残された期限は、あと二日。
ノルンは約束通り六時間以上眠り、管理室へ戻ってきた。
「おはようございます!」
「おはよう。何時間寝た?」
「六時間と十二分です!」
「偉い」
「ありがとうございます!」
今度は素直に褒められたため、ノルンも嬉しそうに胸を張った。
机の上には、主様がすでに九人分の前世記録を並べ直している。
「主様」
「僕もちゃんと休んだから安心して」
「まだ何も申しておりません」
「顔に書いてあった」
「それなら安心致しました」
「さて」
主様が新しい記録板を開いた。
「昨日の続きを少し見ていて、一つだけ気になる共通点を見つけた」
「本当ですか?」
「まだ決定的とは言えないけどね」
表示されたのは、二十五年前の日本に存在していたインターネットサービスの利用記録だった。
「これは?」
「個人が文章や作品を投稿したり、それを読んだり、感想を書いたりできる交流サイトらしい」
「九人全員が?」
「利用頻度はかなり違う。でも、九人全員にアクセス記録がある」
九つの前世記録へ、同じ印が一斉に浮かんだ。
北海道から九州まで離れて暮らしていた九人。
学校も会社も違う。
けれど。
インターネットなら、遠く離れていても同じ場所へ集まることができる。
「偶然でしょうか」
「当時かなり利用者が多かったみたいだから、この一点だけなら偶然もあり得る」
「ですが、次の方を探す条件にはできます」
「そういうこと」
ノルンはすぐに新しい捜索条件を整理した。
日本。
比較的若い年齢。
三日以内に突発的な死を迎える可能性。
そして、その交流サイトの利用歴。
「現在もこの場所はあるのですか?」
「形は変わってるけど、似たサービスとして続いてる」
「利用者は?」
「かなり多い」
「どれくらいでしょう」
「知りたい?」
「一応」
主様が数字を表示した。
ノルンはしばらく無言で見つめた。
「……見なかったことにしてよろしいでしょうか」
「駄目」
「多すぎます!」
「だから、もう少し絞る」
二十五年前の九人は全員、予測の難しい突発事故で亡くなっていた。
なら、次の対象者についても同じ傾向がある可能性は高い。
「ですが、未来は確定していませんよね」
「うん。『三日後に死ぬ人』として検索することはできない」
未来は一つではない。
家を出る時刻が一分ずれるだけで事故を避けるかもしれない。
雨が降っただけで予定そのものが変わるかもしれない。
絶対の未来など、世界記録には存在しない。
「では、三日以内に突発死へ至る可能性が急激に上昇している方を探す?」
「それならできる」
「先に仰ってください!」
「昨日の段階では条件が広すぎたんだって。全世界の生者へそれをやったら、管理領域の処理が止まるよ」
「あ……申し訳ありません」
「素直でよろしい」
さらに条件を重ねる。
対象交流サイトの現利用者。
日本在住。
九人の魂傾向とある程度近い。
三日以内に突発死確率が急上昇している。
そして最後に。
正体不明存在の世界外干渉痕に似た、ごく微弱な接触痕。
「すでに触れられている可能性を見るのですね」
「そう。連れていっていなくても、選んでいるなら何らかの跡があるかもしれない」
条件検索が始まった。
数万。
数千。
数百。
光が次々と消え。
やがて。
「二十三名」
ノルンが小さく呟いた。
昨日は全世界から探すしかなかった一人。
それが、一晩で二十三人まで絞られた。
「主様」
「うん」
「見えてきました」
「まだ決めつけない」
「はい」
二十三人。
男女も違えば、職業も暮らす場所も違う。
この中に本当に対象者がいるのか。
あるいは、そもそもの条件が間違っているのか。
「一人ずつ確認しましょう」
「うん」
◇◇◇
二十三人の私生活を最初から覗き見ることはしなかった。
まず確認したのは、それぞれの魂周辺に残る干渉痕だった。
一人目、なし。
二人目もなし。
三人目には微弱な反応があったが、詳しく調べれば別世界由来の守護加護であり、今回とは無関係だった。
七人目で、少し似た反応が出た。
「正体不明の方と同じでしょうか」
「一致率は三割程度かな」
「低いですね」
「でも完全除外はまだしない。保留」
「承知しました」
その後も一人ずつ確認を続け、昼前になる頃には二十三人が七人まで減っていた。
「七名」
「かなり絞れたね」
「はい」
ノルンは一度時計へ目を向けた。
「では」
「洗濯場?」
「一時間です」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「もちろんです!」
「行っておいで」
「はい!」
勢いよく立ち上がり、管理室を出ようとしたところで、背後から声が飛んだ。
「ノルン」
「はい?」
「走って転ばない」
「私は子供ではありません!」
「昨日、管理室の段差で躓いてたけど」
「……行って参ります!」
「逃げた」
◇◇◇
スカーレット公爵邸の洗濯場は、今日も変わらず忙しかった。
大きな桶には朝から使われた布類が積み上がり、女性達が慣れた手つきで洗い、絞り、干している。空には強い陽射しが戻っており、広げられた白いシーツが風を受けて何度も大きく膨らんだ。
「本当に一時間だけ?」
マーサが半信半疑の顔で尋ねる。
「はい」
「熱でもある?」
「ありません!」
「ノルンが自分から短くするなんて珍しいね」
「私にも本来のお仕事がございます!」
「今さら?」
「今までもございました!」
隣でリナが笑いながら洗濯物を渡してくる。
「今日は何人まで減ったの?」
「七名です」
「昨日、世界全部みたいな顔してなかった?」
「かなり進みました」
「じゃあ、その七人から一人を探すの?」
「はい」
ノルンは布を桶へ沈めながら頷いた。
「三日後――正確には、現在は二日後に亡くなる可能性が高い方です」
それまで笑っていたリナの手が止まった。
少し離れていたマーサも顔を上げる。
「……死ぬの?」
「まだ確定ではありません」
「助けるの?」
ノルンはすぐには答えなかった。
水に浸した布をゆっくり押し洗いしながら、言葉を選ぶ。
「分かりません」
「分からない?」
「亡くなること自体が、その世界で自然に起きる出来事なら、私達が勝手にすべてを変えてよいわけではありません。私達が誰かの生死を自由に決め始めれば、それは世界を見守る仕事とは違うものになってしまいます」
死を全部なくすことはできない。
生まれた者はいつか死ぬ。
事故を一つ防げば、そこから別の人生が続く。良い変化もあれば、誰にも予測できない変化も起きる。
管理する側が、それを自分達の判断だけで選別し始めることは危険だった。
「ただ」
ノルンは洗った布を持ち上げ、水を絞った。
「その方が、自分の知らないところで勝手に人生を決められることだけは避けたいと思っております」
マーサは少しの間ノルンを見つめ、それからぽつりと言った。
「あんた、難しい仕事してるねえ」
「はい」
「洗濯の方が簡単でしょう」
「はい!」
「じゃあ転職する?」
「それは主様に怒られます!」
周囲から笑いが起きた。
張り詰めかけた空気が少し和らいだ、その時だった。
「何のお話ですか?」
聞き慣れた声に振り返ると、フローラが洗濯場へ入ってくるところだった。
「フローラ様」
「ノルンさん、本当に今日も来られたのですね」
「一時間だけですが」
「珍しいですね」
「皆様、同じことを仰います」
フローラは小さく笑いながら近づいた。
「昨日のお話の続きですか?」
「少しだけ」
「別の世界へ行きたいか、という?」
「はい」
ノルンは答えながら、ふと思った。
今日見つけた共通項。
日本。
交流サイト。
物語。
「フローラ様」
「はい」
「前世では、小説などをよく読まれていましたか?」
「読んでいましたよ」
「インターネット上へ投稿されている作品も?」
「はい。学生の頃はよく読んでいました」
ノルンの手が止まりかけた。
「異世界へ行くお話も?」
「たくさん読みました」
フローラは少し懐かしそうに目を細めた。
フローラは二十五年前の九人とは別件だ。
神々の誤転生であり、正体不明存在による世界外干渉痕もない。
今回探している新しい対象者でもない。
それでも、少し気になる。
「異世界へ行く物語はお好きでしたか?」
「好きでした」
「では、もし読んでいた頃に誰かから『本当に異世界へ行けます』と言われたら?」
フローラは少し考えた後、昨日と同じように首を横へ振った。
「多分、断ったと思います」
「物語としてはお好きだったのに?」
「それと、自分が本当に行くことは別ですよ」
ノルンは目を瞬いた。
「別、ですか」
「はい。魔法を使ってみたいと思ったこともありますし、綺麗なお城で暮らしてみたいと想像したこともあります。でも、それは物語を読んでいる時の話です」
フローラは風に揺れるシーツの向こうへ視線を向けた。
洗濯場で働く人達。
庭を整える庭師達。
遠くから聞こえる馬の鳴き声。
日々の生活。
「本当に行くとなれば」
フローラは少しだけ寂しそうに笑った。
「帰れなくなることまで考えなくてはいけませんから」
ノルンの手が止まった。
帰れない。
その一言が、妙に胸へ残る。
二十五年前の九人も。
カイルも。
ミレイアも。
誰も、そこまで考えて選んだわけではない。
「ありがとうございます」
「参考になりました?」
「とても」
「ならよかったです」
「ノルン!」
「はい!」
マーサの声に、ノルンは跳ねるように振り向いた。
「完全に手が止まってる!」
「申し訳ありません!」
慌てて作業へ戻ると、リナが隣で楽しそうに笑った。
「七人探す前に、まずそのシーツ一枚終わらせな」
「はい!」
ノルンは今度こそ手を動かし始めた。
けれど頭の片隅には、フローラの言葉が残り続けていた。
物語として異世界へ憧れること。
本当に帰れない場所へ行くこと。
その二つは。
同じではない。
◇◇◇
約束通り一時間で管理領域へ戻ったノルンは、すぐに七人の候補者の確認へ戻った。
「主様」
「おかえり」
「新しい確認項目を追加したいです」
「何?」
「九人が利用していた投稿交流サイトで、実際に何を読んでいたのか確認したいです」
主様の指が止まった。
「なるほど。サイトそのものじゃなく、閲覧内容」
「はい。九人全員がそこを使っていたとしても、それだけなら利用者の多い場所だったという可能性があります。ですが、同じ傾向の作品を読んでいたなら」
「選ばれた理由へ近づけるかもしれない」
「お願いします」
九人の過去記録から、必要な範囲に限定して閲覧傾向を抽出した。
結果はすぐに出た。
「……全員です」
「うん」
ノルンの表情が変わった。
「九人全員、異世界を題材にした作品を読んでいます」
「転生、転移、召喚。割合や好みは違うけど、全員に閲覧履歴があるね」
「自分で作品を書いていた方は?」
「二人」
「感想を書いていた方」
「六人」
「残り一人は?」
「読むだけ」
全員が熱心な愛好者だったわけではない。
それでも、異世界という題材に触れた経験はあった。
ノルンは現在の候補七人へ同じ条件を重ねる。
七人から。
五人。
「減りました」
「うん。でもまだ五人」
「もう一つ必要ですね」
「だったら」
主様が少し考えながら言った。
「九人全員が、同じ作品を読んだことはないかな」
ノルンが一瞬動きを止めた。
「まさか」
「人気サイトなら、人気作品が重なること自体は珍しくない。でも調べる価値はあるよ」
「お願いします」
九人の閲覧作品を照合する。
数百。
重複。
数十。
さらに条件を重ね。
九人全員が一度以上開いた作品。
一件。
残った。
「……あります」
ノルンの声が小さくなる。
「作品名は?」
主様が表示した。
そこに浮かんだ題名を見た瞬間、ノルンは何とも言えない顔になった。
『神様の手違いで異世界へ行くことになりました』
「……主様」
「うん」
「題名からして、とても嫌な予感がします」
「僕も」
だが、問題は題名だけではなかった。
作品ページの周辺記録へ、微かな世界外干渉痕が残っている。
あの存在と。
同じ性質のもの。
「あります」
「うん」
「正体不明の方が、この作品を見ていた?」
「それだけじゃないかもしれない」
主様が投稿者情報を開いた。
作者名。
活動時期。
二十五年以上前。
そして。
登録元。
そこで主様の表情が変わる。
「……人間側の記録がない」
「どういうことでしょう」
「匿名とか偽名って意味じゃない。この作者名に対応する実在人物そのものが存在しない」
ノルンの背筋へ、冷たいものが走った。
作者欄には。
ただ一つ。
『観測者』
という名前だけが残されている。
「主様」
「うん」
「この方」
「たぶん」
「二十五年前から地球へ直接干渉していた」
「そう見える」
九人は。
その作品を読んでいた。
ただ異世界ものが好きだったから選ばれたのではない。
正体不明の存在が、自分で置いた作品へ触れた者を見ていた可能性がある。
「現在残っている五人へ、この作品の閲覧履歴を重ねます」
「やろう」
五人。
三人。
二人。
そして。
一人。
最後の光だけが残った。
ノルンは思わず息を止めた。
「……見つけました」
「まだ確定じゃない」
「ですが」
「うん。かなり濃い」
主様も、今度は否定しなかった。
対象者は日本在住の女性。
二十四歳。
現在も投稿サイトを利用している。
異世界を題材にした作品の閲覧歴がある。
そして数年前、偶然『観測者』が残した古い作品へ辿り着き、最後まで読んでいた。
さらに。
三日以内――現在から見れば二日以内の突発死確率が、通常では考えにくいほど上昇している。
「名前を確認します」
ノルンが言う。
主様が対象者記録を開いた。
『高橋美咲 二十四歳』
その名前自体に、ノルンは見覚えがなかった。
会ったこともない。
観察対象として登録したこともない。
ただ。
家族情報を確認するため、近縁魂照合を開いた瞬間だった。
「……え?」
ノルンの表情が変わった。
主様も黙る。
魂の近縁記録。
その中へ。
ノルンがよく知る名前が表示された。
『関連魂:水瀬美玲』
『現転生名:ミレイア』
ノルンは椅子から勢いよく立ち上がった。
「ミレイアさんのご家族!?」
「待って。自動照合だから、続柄を確認する」
ノルンはもう一度記録へ顔を近づけた。
ミレイアの前世、水瀬美玲は二十五年前に二十四歳で亡くなっている。
対して高橋美咲は現在二十四歳。
当然ながら、直接の姉妹では年齢が合わない。
詳しい家系記録を開く。
そこに表示されたのは。
『水瀬美玲――前世死亡二十五年前』
『実妹:水瀬美香――現在四十四歳』
『水瀬美香、婚姻後姓:高橋』
『娘:高橋美咲 二十四歳』
ノルンは数秒間、言葉を失った。
「……姪」
「そうなるね」
「ミレイアさんの前世の」
「姪だ」
今度こそ間違いなかった。
二十五年前。
正体不明の存在によって別世界へ送られたミレイア。
その前世の妹。
そして、妹の娘。
高橋美咲。
完全に無関係な誰かではなかった。
相手は。
二十五年前に選んだ一人の家族を。
今度、再び選ぼうとしている。
「偶然でしょうか」
ノルンが聞いた。
主様は答えなかった。
答えられなかったのではない。
その前に。
机の端へ。
見覚えのある光が浮かんだからだ。
『見つけた』
ノルンの目が細くなる。
「あなたが選んだのですか」
『うん』
今回は返事が早かった。
「なぜ美咲さんを?」
少しの間が空いた。
『だって』
『あの子の家族だから』
ノルンの胸の奥へ、嫌な感覚が広がった。
「ミレイアさんのご家族だから?」
『そう』
「では」
一度だけ呼吸を整える。
「美咲さんのことも、以前から知っていたのですか」
返事は少し遅れた。
『知ってたよ』
主様の表情が変わる。
ノルンもすぐに気づいた。
二十五年前。
ミレイアが亡くなった時。
美咲はまだ生まれていない。
「主様」
「うん」
ノルンは光から目を離さなかった。
「この方」
「未来を見てるね」
三日後の死を知っているだけではない。
二十五年前の時点で。
まだ生まれてすらいなかった美咲の存在を。
知っていた。
『次は』
新しい文字が浮かぶ。
『ちゃんと選んでもらう』
ノルンの拳が僅かに握られた。
「美咲さんに?」
『うん』
「いつ聞くのですか」
『死んだあと』
その一文を見た瞬間。
ノルンの表情が変わった。
「それでは遅いです」
思わず一歩前へ出る。
光の文字が止まった。
「生きている間に選ぶことと、亡くなって元の人生へ戻れなくなってから『別の世界へ行きますか』と聞くことは同じではありません」
返事はない。
それでもノルンは続けた。
「あなたは昨日、次からは本人へ聞くと仰いました」
『言ったよ』
「でしたら」
ノルンはまっすぐ光を見る。
「今、生きている美咲さんへ聞いてください」
長い沈黙があった。
主様も口を挟まない。
やがて。
『それは』
一度文字が途切れ。
『ちょっと難しい』
「なぜです?」
今度の返事はさらに遅かった。
『生きてる人には』
『直接話せないから』
ノルンは目を見開いた。
隣では主様も僅かに身を乗り出している。
初めて知った。
正体不明の存在にも。
できないことがある。
「でしたら」
ノルンはすぐに言った。
「私ならどうでしょう」
『え?』
「私が美咲さんへ聞きます」
今度は明らかに。
相手の反応が止まった。
「私は生きている方へ接触できます。あなたが直接話せないのでしたら、私が代わりに美咲さん本人へ確認します」
「ノルン」
主様が声を掛ける。
「はい。分かっております」
もちろん。
突然現れて。
『あなたは二日後に死ぬ可能性があります。異世界へ行きますか』
などと聞くわけにはいかない。
それでは選ばせるどころか、ただ相手を怯えさせるだけだ。
接触方法も。
聞き方も。
何を伝えるかも。
慎重に考えなければならない。
『本当に?』
「はい」
『聞いてくれる?』
「ただし」
ノルンの声が少し強くなる。
「あなたの代わりに異世界へ行くよう勧めるつもりはありません」
『かんゆう?』
「異世界へ行くことを勧めたり、逆に残ることを押しつけたりもしません」
『うん』
「美咲さん自身が考え、自分で選べるようにします」
光はしばらく何も返さなかった。
やがて。
『やっぱり』
『君、おもしろいね』
「褒められているのでしょうか」
『褒めてる』
「ありがとうございます」
「そこで普通にお礼を言うんだ」
隣で主様が小さく呟く。
『じゃあお願い』
「承りました」
ノルンは真面目に頷いた。
けれど。
その直後。
新しい文字が浮かぶ。
『でも』
『死ぬのは止めないでね』
ノルンの表情が凍った。
「……なぜです?」
すぐには返事がない。
「あなたが美咲さんを殺すのですか」
隣の主様の表情も険しくなる。
数秒後。
『違うよ』
「では?」
『僕が何もしなくても死ぬ』
ノルンは息を止めた。
『それは』
『あの子の世界の出来事だから』
その文章を最後に、光が少しずつ薄くなり始める。
「お待ちください!」
『あと二日』
「事故が起こる場所を教えてください!」
返事はない。
「何が起こるのですか!」
最後に一つだけ。
『会えば分かるよ』
そして光は消えた。
静寂が戻る。
ノルンはしばらく何も言わず、文字が消えた場所を見つめ続けていた。
あの存在は。
美咲を殺すつもりではない。
少なくとも本人はそう言っている。
何もしなくても死ぬ。
世界で自然に起こる出来事。
だから止めないでほしい。
けれど。
だからといって。
目の前で起こる死を知りながら、何もしなくていいのか。
「主様」
「うん」
「地球へ行きます」
「そうなるね」
「美咲さんへ会います」
「うん」
そこまで言ってから。
ノルンは少し迷った。
机へ表示された記録を見る。
高橋美咲。
二十四歳。
仕事をしている。
家族がいる。
友人もいる。
今日も普通に起きて。
普通に食事をし。
普通に一日を過ごしている。
自分があと二日で死ぬ可能性など。
きっと知らない。
「何とお話しすればよいのでしょう」
主様も、すぐには答えなかった。
死を知らせるのか。
知らせないのか。
異世界という選択肢について話すのか。
そもそも、なぜそんな話をするのか説明するのか。
そして。
『死ぬのは止めないでね』
あの存在の言葉へ従う理由はない。
けれど、世界で自然に起こる死へ管理側がどこまで介入してよいのかという問題も、確かに残っている。
しばらく考えた後。
主様が静かに言った。
「まず、会おう」
「はい」
「記録の中にいる高橋美咲じゃなくて」
一度。
「今、生きている本人に」
ノルンはゆっくり頷いた。
これまで追ってきたのは。
二十五年前の記録だった。
すでに転生した九人。
それぞれが別世界で築いた人生。
遊び場。
六脚と三脚の椅子。
世界模型。
残された前世物品。
そして正体不明の存在。
けれど。
今度は違う。
まだ何も起きていない。
まだ生きている。
高橋美咲。
二十四歳。
ミレイアの前世の姪。
二十五年前から正体不明の存在に知られていた人物。
そして。
二日後に。
命を失う可能性が高い人。
ノルンは手帳を閉じた。
「転生者観察官ノルン」
胸元へ手を置き、自分自身へ言い聞かせるように静かに告げる。
「緊急観察対象、高橋美咲さんへの現地接触を開始致します」
主様が頷いた。
「うん」
その言葉と同時に。
管理領域の窓の向こうで流れていた無数の世界光の中から、一つの青い光がゆっくりと前へ出てくる。
地球。
日本。
ノルンにとって、これまで何度も記録の中で見てきた場所。
フローラがかつて生きていた。
カイルが生きていた。
ミレイアが生きていた。
転生者達にとっては、失った前世として何度も名前が出てきた世界。
けれど。
ノルン自身がそこへ。
まだ生きている人間へ会うために降りるのは。
今回が初めてだった。
残り二日。
その短い時間の中で。
ノルンは美咲へ何を伝えるのか。
何を伝えないのか。
そして。
もし。
本当に彼女が命を失う瞬間が訪れた時。
観察官として見守るのか。
それとも。
目の前へ手を伸ばすのか。
その答えを。
今のノルンは。
まだ持っていなかった。




