第十八話 九人いるのに椅子が六つしかない理由を調べたら、三人は最初から扱いが違いました
翌朝、ノルンが目を覚ました時、管理領域の窓の向こうには無数の世界光が静かに流れていた。
昨夜は主様から半ば強制的に休むよう言われたため、珍しく観察記録を抱えたまま寝落ちすることもなく、きちんと自室の寝台で眠っている。身体だけを考えれば十分に休めたはずなのだが、目を開けた瞬間に頭へ浮かんだのは、やはり昨日発見した記録外閉鎖空間――仮称『遊び場』のことだった。
白い床に、大きな円形の机。その周囲に並べられた六脚の椅子と、壁際の棚を埋める二十を超える世界模型。さらに、カイルとミレイアがそれぞれの世界で成長していく姿を収めた記録映像まで残されていた。
そして何より、あの正体不明の存在が残した言葉が、昨夜からずっと頭の片隅に引っかかっている。
『全部で九人』
現在確認できている世界外干渉対象者は六人。相手の言葉が正しいのなら、残る対象者は三人ということになる。
人数だけなら、それほど複雑な話ではない。これまで調べた範囲を広げ、同じ条件で探していけば、いずれ残りの三人も見つけられる可能性が高い。
けれど、ノルンにはどうしても気になることがあった。
遊び場の円形机を囲んでいた椅子は、六脚しかなかったのだ。
九人の魂が一度同じ場所へ集められたのなら、最初から九脚あってもいいはずだった。もちろん、魂に椅子など必要ない可能性もあるし、単純に家具として六脚置かれていただけという可能性も捨てきれない。
それでも、昨日の夜に一度気づいてしまってからは、どうにも頭から離れなかった。
「主様!」
身支度を済ませたノルンが管理室へ入ると、すでに主様は机の前で世界記録を開いていた。窓から流れ込む淡い世界光を背にして、幾つもの記録板を空中へ並べている。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます!」
「ちゃんと寝た?」
「はい!」
「何時間?」
「……」
勢いよく返事をしたノルンだったが、その質問には一瞬だけ言葉が詰まった。
「ノルン」
「六時間ほどです」
「合格」
「ありがとうございます!」
「褒めるところかな」
「主様に認めていただけることは何でも嬉しいです!」
主様は一瞬だけ黙り、それから困ったような、それでいて少し嬉しそうな笑みを浮かべた。
「朝から元気だね」
「昨日、しっかり休ませていただきましたので!」
「それならよかった」
ノルンは机へ近づくと、そこに並べられた記録の中から、真っ先に遊び場の観測記録へ目を向けた。
「今日は残り三名の捜索でしょうか」
「その前に、昨日ノルンが最後に書いた疑問を確認しようと思ってた」
「椅子ですか?」
「うん」
主様が指先を動かすと、昨日観測した遊び場の映像が机の上へ浮かび上がった。半透明の白い床と円形机、その周囲を取り囲む椅子まで、昨日見た状態のまま再現されている。
「一、二、三……やはり六脚ですね」
「増えてはいないね」
「昨夜のうちに、相手がこっそり三脚追加していたりは」
「してないよ」
「少し期待しました」
「何を期待してるの」
冗談半分で口にしたノルンだったが、主様は苦笑しながらもすぐに調査へ戻った。円形机周辺の残留情報を抽出し、椅子そのものがいつから存在しているのかを調べ始める。
「椅子が作られた時期まで分かりますか?」
「正確には難しいけど、空間そのものが作られた時期とほぼ同じだと思う」
「二十五年前より前ですか?」
「かなり前だね。少なくともカイル達がここを通った時には、もう六脚とも存在していた」
主様が映像をゆっくり回転させる。ノルンも机へ身を寄せ、椅子の周囲や床に残された古い痕跡を注意深く確認した。
「後から椅子を追加した形跡は?」
「ない」
「反対に、三脚を片づけた痕跡は?」
「今のところ見つからない」
「では……」
ノルンは腕を組んだまま、六脚の椅子を順番に眺めた。
「最初に六人。その後、別に三人という可能性がありますね」
「僕も同じことを考えてた」
主様が別の記録板を開く。
そこには昨日までに判明している六人について、世界外干渉が発生した時刻が並べられていた。
「カイルさんは?」
「一日目」
「ミレイアさん」
「三日目」
「レオンさんは二日目……セラさんが四日目」
「そう」
「名前がまだ確認できていないお二人は?」
「五日目と六日目」
ノルンはそこで目を見開いた。
並べ直してみれば、あまりにも分かりやすかった。
「一日目から六日目まで、全員が連続しています」
「うん」
多少の時刻差こそあるものの、現在発見されている六人は、最初の六日間へ綺麗に収まっている。
ノルンはその横に表示されている十一日間の記録へ視線を移した。
「でしたら、残る三人は七日目以降に集中している可能性が高い?」
「まずはそれを疑ってみるつもり」
「なるほど……」
昨日までの調査では、カイルが転生した時期を基準として近隣百世界を調べていた。しかし、その時点では十一日間という正確な期間も、対象者が全部で九人という情報も分かっていなかった。
条件そのものが不完全だったのだ。
「主様」
「何?」
「かなり単純な理由だった可能性がありますね」
「そうだね」
「昨日の私達、かなり長時間調べましたよね」
「調べたね」
「……」
「ノルン?」
「少し悔しいです」
もっと早く椅子の数に気づいていれば。六人が最初の六日間へ集中していることまで並べ直していれば。
そんな考えが顔へ出ていたのだろう。
主様は責めるでも笑うでもなく、穏やかな声で言った。
「調査ってそういうものだよ。全部を最初から見抜く必要はない」
「ですが」
「分からなかったことに気づいたら、その時に調べればいい。昨日まで分からなかったことが、今日は一つ分かる。それで十分」
昨日も似たようなことを言われた。
分からないものを前にした時、想像だけで怖がったり、焦って答えを決めたりするのではなく、一つずつ分かることを増やしていく。
ノルンは六脚の椅子をもう一度見つめ、それから素直に頷いた。
「はい」
◇◇◇
残り三人を探すため、検索条件を改めて設定した。
二十五年前に発生した十一日間の異常。
前世世界は地球系世界の日本。事故による突発死を中心とし、正規転生記録が存在しない、あるいは転生処理の途中で魂が消失している者。
さらに、世界外干渉痕が残されていること。
今回は、その中でも七日目から十一日目までへ重点を置く。
「対象世界数は?」
「昨日の百世界に加えて、さらに周辺百五十世界まで広げる」
「合計二百五十世界ですね」
「でも、全部を一件ずつ見る必要はないよ。今日は条件がかなり絞れてるから、自動照合を強くする」
「昨日もそうしていただければ」
「ノルン」
「はい」
「昨日は条件そのものが確定してなかったでしょう」
「……そうでした」
反論できなかった。
「では、始めましょう!」
「うん」
主様が両手を広げると、管理領域の空中へ無数の光が浮かび上がった。
二百五十の世界光。
それぞれ大きさも色も僅かに異なり、ゆっくりと明滅しながら管理室を満たしていく。その光景は何度見ても壮観で、ノルンは調査中だというのに一瞬だけ息を呑んだ。
小さな光一つ一つに国があり、町があり、村がある。
誰かが生まれ。
誰かが笑い。
誰かが泣き。
誰かが死んでいく。
その膨大な人生の中から、たった十一日間に起きた九人の異常を探している。
「七日目から始めるよ」
「はい」
主様が条件を重ねると、空中を満たしていた世界光の大半が静かに消えていった。
残ったのは十二件。
「十二件ですか」
「まだ大まかな候補。ここへ世界外干渉痕を重ねる」
再び光が減った。
十二から三へ。
ノルンは手帳を開き直す。
「三件。順番に確認致します」
一件目は正規神務による転生だった。本人が死亡後に説明を受け、明確な意思を示した上で別世界への転生を希望している。
今回の案件とは異なる。
二件目も地球系世界からの転生者だったが、前世の出身国が日本ではなかった。干渉痕も、今回追っているものとは僅かに性質が違う。
そして三件目。
記録を開いた主様の指が止まった。
「……ある」
その短い言葉だけで、ノルンの背筋が伸びた。
「世界は?」
「ヴァルメリア」
「聞いたことがありません」
「僕も普段はあまり直接見ない世界だね」
記録が展開される。
人間と魔族を中心に複数の種族が暮らし、幾つもの国家が存在する魔法文明世界。魔術だけでなく、それを生活へ利用する技術も発達しており、文明水準はタリウス王国より少し高い。
「対象者は?」
「男性。現在二十五歳」
「名前は?」
「ユウト。現地では姓を持っていない」
ノルンの筆が動き始める。
「前世記録をお願いします」
「今、逆引きする」
主様が魂記録へ接続する。
数秒後。
空中へ文字が現れた。
『前世名:相沢悠斗』
『死亡時年齢:二十二歳』
『死亡原因:建物外壁落下事故』
ノルンの表情が引き締まった。
「日本人。事故死」
「条件一致」
「正規転生予定先は?」
「……ない」
「ない?」
ノルンが顔を上げる。
「転生先が未定という意味でしょうか」
「違う。神域の転生受付へ到達する前に、魂の記録そのものが正規経路から消えてる」
カイルよりも早い。
カイルは少なくとも、アストレアという正規転生予定先が決まっていた。その移動途中で魂が消失し、タリウス王国へ送られている。
だが、ユウトは違う。
死後、正規の転生手続きへ入るより前に抜き取られている。
「では、相手は魂路の途中だけではなく」
「もっと手前にも干渉できる」
「……範囲が広がりましたね」
「広がったね」
あまり嬉しくない情報だった。
「現地で前世知識を使用した形跡は?」
「確認するよ」
主様がユウトの人生記録を遡る。
三歳。
四歳。
五歳。
幼少期には目立った異常がない。言語習得や運動能力にも、現地の子供と比べて極端な差は見られなかった。
「普通ですね」
「待って。九歳」
「何かありましたか?」
「現地に存在しない歌を歌ってる。照合すると地球系世界の楽曲に近い」
「前世記憶がある可能性は高そうですね」
「十歳では、石と木材を組み合わせて遊具を作ってる」
「遊具?」
補助記録へ構造が表示される。
四つの小さな車輪らしきものと、その上へ置かれた細長い板。
「……スケートボードでしょうか」
「かなり簡素だけど、発想は近いね」
「他には?」
「十五歳で火薬に近い物を作ろうとして失敗」
ノルンの表情がすぐ険しくなった。
「危険ではありませんか?」
「爆発自体は小規模。本人もかなり怖かったみたいで、それ以降はやってない」
「それならよいのですが……現在は?」
「楽器職人」
「楽器ですか?」
「うん。現地にはなかった構造の弦楽器を作ってる。前世の楽器をそのまま再現したというより、現地の素材で作れるように改良してるみたい」
ノルンは少し考えた。
前世知識を持っていること自体は問題ではない。それを使って今の世界で暮らし、自分の仕事を作っているだけなら、観察官が止める理由はない。
「危険行動も現在は確認できませんね」
「そうだね」
「では、世界外干渉対象者として確認。通常観察へ移行でよろしいでしょうか」
「うん」
主様がユウトの記録へ仮の観察印を付けた。
七人目。
残りは二人となった。
◇◇◇
八日目には該当者がいなかった。
九日目には一件だけ条件へ近い対象が見つかったものの、調べてみれば別の神域案件であり、今回の正体不明存在とは無関係だった。
そして十日目。
「主様、あります」
今度はノルンが先に気づいた。
「ここです」
「うん。僕も見えてる」
世界名はメルシア。
広大な海が世界の大半を占め、大小無数の島国が点在している。航海技術と漁業が発達し、人々の生活も海と深く結びついている世界だった。
「対象者は女性。現在二十五歳」
「名前は?」
「アヤ」
前世記録を逆引きする。
『前世名:藤宮彩』
『死亡時年齢:二十六歳』
『死亡原因:高速道路上の多重事故』
ノルンは静かに息を吐いた。
「また日本。そして事故死」
「正規転生記録なし」
「世界外干渉痕は?」
「一致してる」
これで八人目。
相手が言った九人という人数が、ますます現実味を帯びてくる。
「前世記憶を示す行動はありますか?」
「五歳の時に、かなり分かりやすいのがある」
主様が少しだけ笑った。
「米に近い穀物を食べて泣いてる」
「……泣いて?」
「母親が炊いたものを出したら、食べながら『しょうゆ』って何度も言ってる」
ノルンも思わず口元を緩めた。
「それは、かなり分かりやすいですね」
「十歳頃から料理を色々試してる。十二歳で発酵調味料を作り始めた」
「まさか」
「完全に同じではないけど、しょうゆにかなり近いもの」
「……執念ですね」
「好きだったんだろうね」
その言葉に、ノルンは少しだけ黙った。
転生者だからといって、全員が特別な使命を持っているわけではない。
世界を救いたいわけでも。
王になりたいわけでも。
圧倒的な力を手に入れたいわけでもない。
ただ、昔食べていた味が恋しかった。
もう一度食べたかった。
だから、自分で作った。
そんな人生もある。
「現在は港町で食堂を経営していますね」
「かなり繁盛してるみたい」
「世界への危険度は低いと判断します」
「僕も同意」
「では観察継続ですね」
「うん」
八人目。
残り一人。
十一日目の検索へ移る時には、ノルンの手帳を握る指にも自然と力が入っていた。
最初の候補は五件。
世界外干渉痕を重ねて二件。
一件は正式な転生処理だったため除外。
そして最後に、一件だけが残った。
「主様」
「うん」
「九人目ですね」
「たぶん」
ノルンが少し身を乗り出す。
世界名はオルフェリア。
人間だけでなく精霊が生活圏のすぐ近くに存在し、魔法と自然が密接に結びついた世界だった。森や湖、山そのものに近い性質を持つ上位精霊も存在し、人間側も彼らを単なる魔法生物として扱ってはいない。
「対象者は?」
主様が記録を開いた。
だが。
そこで指が止まった。
「……少し変だ」
「何がでしょう」
「出生記録がない」
ノルンの筆が止まった。
「出生していない?」
「うん」
「では、転生していないということでしょうか」
「違う」
主様がさらに深い記録層を開く。
「魂はオルフェリアに入ってる」
「どこへ?」
返事が僅かに遅れた。
「精霊核」
ノルンは目を見開いた。
「人間ではないのですか?」
「そうみたい」
これまで見つかった者達は、少なくとも現地では全員が人間として生まれていた。
だが九人目は違う。
そもそも、人間として出生していない。
「対象名は?」
「現地で呼ばれている名前はリュミ」
「性別は?」
「精霊だから人間みたいに固定されていない。発生からは二十五年」
「前世記録をお願いします」
主様が逆引きを始める。
これまでより時間がかかった。
人間として生きている者と違い、現在の魂構造が精霊核へ適応しているため、前世側との照合が難しいらしい。
やがて。
記録が表示された。
『前世名:宮原凛』
『死亡時年齢:二十一歳』
『死亡原因:河川増水による水難事故』
「日本人。事故死」
「一致だね」
「正規転生予定は?」
「ある」
ノルンは顔を上げた。
「どちらへ?」
「別世界へ人間として転生する予定だった」
「ですが途中で魂が消失し」
「オルフェリアの精霊核へ入れられた」
ノルンは記録を見つめたまま眉を寄せた。
今までとは明らかに違う。
転生先を変更しただけではない。
人間として生きるはずだった魂を。
精霊として。
別の世界へ送り込んでいる。
「魂構造への悪影響は?」
「調べる」
主様の声から、先ほどまで僅かに残っていた軽さが消えた。
管理領域に静かな時間が流れる。
ノルンも急かさない。
精霊核。
人間とはまったく違う器。
そこへ人間の魂を入れたのなら、たとえ二十五年間問題なく存在していたとしても、それだけで安全だったと決めつけることはできない。
しばらくして、主様が息を吐いた。
「少なくとも、現在の魂と精霊核は安定してる」
ノルンの肩から僅かに力が抜ける。
「重大な問題はない?」
「今確認できる範囲ではね。ただし、前世記憶については分からない」
「失われた可能性がありますか?」
「それもある。でも精霊は、人間と記憶の保存方法そのものが違う。遠隔記録だけでは判断できない」
「では、必要であれば直接接触を」
「うん。慎重にね」
九人目。
これで。
相手が言った人数は揃った。
けれど、ノルンの中では達成感よりも新しい疑問の方が大きかった。
「主様」
「何?」
「九人を並べてください」
「うん」
空中へ九人分の記録が並ぶ。
前半六人。
後半三人。
七日目のユウトは人間。
十日目のアヤも人間。
十一日目のリュミだけが精霊。
ノルンはしばらく記録を眺めた後、昨日の遊び場の映像を隣へ表示した。
「最後の三人は、時期だけが違うのではない気がします」
「どういうこと?」
「最初の六人が、この六脚の椅子を使ったのだとすれば」
「うん」
「後の三人は?」
主様の表情が変わった。
「別の場所を使った?」
「昨日見つけた扉です」
遊び場の壁奥。
最近になって使用された形跡まで残されていた、小さな扉。
二人の視線が同じ場所へ向かう。
「調べましょう」
「うん」
◇◇◇
遊び場への観測を再開すると、昨日と変わらない白い空間が浮かび上がった。
円形机。
六脚の椅子。
棚に並んだ世界模型。
対象者達の成長を記録した映像資料。
その奥。
壁へ溶け込むように作られた小さな扉だけが、改めて見ると妙に存在感を持っている。
「開けられますか?」
「外側から実際に開くのは危険だね」
「中を見るだけなら?」
「やってみる」
主様が観測層を細く伸ばした。
扉の向こうは最初、黒く塗り潰されたように何も見えなかった。しかし、今日見つけた三人を含む九人全員の世界外干渉痕を重ねると、変化が起きた。
九本の線が伸びる。
そのうち六本は、昨日と同じように円形机のある部屋へ繋がった。
だが。
残る三本は。
そこで曲がった。
「……主様」
「うん」
「分かれました」
「完全に別経路だね」
後半三本の痕跡は、円形机へ向かっていない。
壁奥の扉を通り。
その向こうへ。
主様が観測を慎重に進める。
少しずつ。
扉の先にあった空間が浮かび上がった。
最初の部屋よりも狭い。
同じ白を基調としているものの、円形机も棚もない。
代わりに。
三脚の椅子が。
まっすぐ横一列に並べられていた。
「三つ……」
「うん」
ノルンは息を呑んだ。
六脚と三脚。
合計九脚。
偶然と考えるには、あまりにも出来すぎている。
しかも、三脚の椅子の前には、それぞれ一つずつ小さな台座が置かれていた。
一つ目には、人間の姿を模した模型。
二つ目には、人間に近い姿ながら、頭部に獣の耳を持つ模型。
三つ目には、淡く光る小さな球体。
「最後のものは」
「精霊核に似てる」
ノルンの表情が変わった。
「これは……転生先の身体を示しているのでしょうか」
「可能性は高い」
「人間、獣人、精霊」
「うん」
「つまり後半の三人は」
ノルンはゆっくりと息を吸った。
「種族まで変更する対象だった?」
主様はすぐには答えなかった。
けれど、その表情が答えの代わりになっていた。
「ユウトさんとアヤさんは人間として転生しています」
「うん」
「リュミさんだけが精霊」
「そう」
「ですが、この台座を見る限り」
「獣人という選択肢もあったのかもしれない」
ノルンは三つの模型を見つめた。
胸の奥に、昨日とは違う種類の不快感が広がっていく。
「遊び方を変えたのですね」
「……そう見える」
「最初の六人では転生する世界や、前世物品を持たせるかどうか、前世知識をどの程度残すかといった条件を変えた」
「そして後半の三人では」
「器そのものまで」
ノルンの指先に力が入った。
「変え始めた」
最初は世界。
次は持ち物。
そして身体。
種族。
まるで。
一つ試して飽きたから、次の遊び方を考えたように。
「主様」
「何?」
「もし九人で終わっていなかったら」
その先を口にすることに、一瞬だけ躊躇した。
「相手は次に、もっと大きな条件を変えていたのでしょうか」
時代。
能力。
記憶。
人格。
あるいは。
世界そのもの。
主様は少し黙ってから、静かに答えた。
「分からない。でも、可能性は否定できない」
「……」
「ただ、相手は九人と言った」
「はい」
「少なくとも、この遊び場で二十五年前に扱った対象は九人だった。今はそう考えていいと思う」
その言葉に、ノルンは僅かに息を吐いた。
けれど。
安心した直後。
もっと嫌な考えが浮かぶ。
「では、別の遊び場があった場合は?」
「……」
主様が黙った。
「申し訳ありません」
「いや。謝らなくていい」
主様は額へ指を当て、小さく息を吐いた。
「嫌な可能性だけど、確認項目には入れておこう」
「はい」
「本当に増えるね」
「何がでしょう」
「仕事」
「……」
ノルンは少し遠い目になった。
「私の苦労も増えております」
「終わらないね」
「主様」
「何?」
「今日は笑えません」
「ごめん」
◇◇◇
その時だった。
後半三人用と思われる部屋の中央に、淡い光が灯った。
何もなかった空間へ。
ゆっくりと。
文字が浮かび上がる。
「主様」
「見えてる」
正体不明の存在。
また。
こちらを見ている。
『正解』
ノルンの眉が僅かに動いた。
続いて、二つの短い文章が現れる。
『六人は第一組』
『三人は第二組』
「……組」
ノルンの声が自然と低くなった。
次の文字。
『最初は世界を変えるだけ』
そして。
『次は器も変えてみた』
ノルンの顔から、完全に笑みが消えた。
「器」
「身体のことだろうね」
主様も険しい顔で文字を見ている。
さらに。
『でも精霊はちょっと難しかった』
ノルンの拳が静かに握られた。
「難しかった……?」
「ノルン」
「それは」
声が僅かに震えた。
「リュミさんの人生です」
「うん」
「試して、難しかったで済ませてよいことではありません」
「ノルン」
主様の声で、ノルンは一度目を閉じた。
感情のまま返事をしてはいけない。
相手の正体も。
目的も。
まだ分からない。
「……申し訳ありません。落ち着きます」
「怒ること自体は悪くないよ」
「はい」
「ただ、今は相手が話してる。聞こう」
「承知致しました」
次の文字が浮かぶ。
『ちゃんと馴染んだから大丈夫』
ノルンの目が僅かに細くなった。
今度は声を荒らげなかった。
「大丈夫かどうかを決めるのは」
一度だけ息を整える。
「リュミさんご本人です」
文字が止まった。
主様も何も言わない。
やがて。
『怒った?』
ノルンは答えなかった。
『怒ったね』
さらに。
『でも、君なら分かると思うよ』
「……」
『見てみたいって気持ち』
そこで。
ノルンの表情が変わった。
相手は。
自分が観察官だから。
この言葉を選んだのだ。
『違う世界』
『違う条件』
『同じ記憶を持つ人間』
『どう生きるのか』
『気にならない?』
管理領域が静まり返った。
ノルンは浮かんだ文字を見つめる。
確かに。
観察官は見る。
転生者がどのような人生を歩むのか。
前世の記憶をどう受け止めるのか。
何を選び。
誰と出会い。
世界へどんな影響を与えるのか。
それを記録する。
だから。
相手は。
自分と同じだと。
言いたいのだろう。
「違います」
ノルンは静かに答えた。
怒鳴らない。
けれど。
声には迷いがなかった。
「私は、その方の人生を変えてから観察することは致しません」
文字が止まる。
「世界へ危険がないか。ご本人が困っていないか。その世界で、自分の意思で生きていらっしゃるか」
ノルンは一度だけ主様を見た。
主様は何も言わず、続きを促すように小さく頷いた。
「それを見守るのが私の仕事です」
そして。
もう一度。
文字へ向き直る。
「見てみたいからという理由で、その方の人生を作り変えることは致しません」
長い沈黙が落ちた。
相手が怒るかもしれない。
笑うかもしれない。
また挑発してくるかもしれない。
ノルンはそう思っていた。
けれど。
返ってきたのは。
『そっか』
たった一言だった。
続いて。
『君はそうなんだね』
ノルンは僅かに眉を寄せた。
反論ではない。
怒りでもない。
むしろ。
本当にノルンという存在を知ろうとしているような。
そんな奇妙な返事だった。
そして。
『じゃあ』
『次は本人に聞いてみようかな』
ノルンの表情が変わった。
「何を、でしょうか」
反射的に問いかける。
今度は主様も止めなかった。
『行きたい?って』
ノルンは息を止めた。
「どなたに?」
『次の子』
管理領域の空気が、一瞬で冷えたように感じられた。
ノルンは主様を見る。
「九人で終わっていない?」
「少なくとも、何か次を考えてる」
『今度はちゃんと聞くよ』
「お待ちください」
ノルンは一歩前へ出た。
「どなたに聞くおつもりですか」
少しの間。
そして。
『ひみつ』
「……」
ノルンの眉が大きく動いた。
「主様」
「うん」
「やはりこの方、遊んでおります」
「間違いないね」
『また見つけてね』
それを最後に。
文字が消えた。
後半部屋へ浮かんでいた光も消え、再び何事もなかったような静寂が戻ってくる。
「主様」
「うん」
「次の子ということは」
「新しい転生候補がいる可能性が高い」
「まだ転生していない?」
「その可能性もある」
「日本でしょうか」
「分からない」
「事故死予定?」
「それも分からない。そもそも、まだ死んでいない可能性だってある」
ノルンの表情が強張った。
もし。
生きている人間に。
『別の世界へ行きたい?』
そう問いかけるのなら。
それはもう。
二十五年前のように、死亡した魂の行き先を勝手に変更する話とは違う。
「主様」
「何?」
「急いで探しましょう」
今度は主様も止めなかった。
「うん。ただし」
「分かっております」
ノルンは自分から続けた。
「相手を捕まえるためではありません」
「うん」
「まず、その方が本当に存在するのか。そして、ご本人が何を望んでいるのかを確認する」
「そう」
「もし異世界へ行くことを望んでいなければ」
「止める」
「はい」
逆に。
本当に本人が望んでいたら。
それは。
また別の問題になる。
「ノルン」
「はい」
「今回から、僕達の仕事は少し変わるかもしれない」
主様の表情は真剣だった。
「相手がこれから新しく誰かの人生へ触れようとしているなら、もう過去の転生者を観察するだけじゃ足りない」
「はい」
「必要なら」
一度。
主様は言葉を区切った。
「転生者になる前の人を守る」
ノルンは胸元へ手を置いた。
これまでは。
転生者を見守ることが仕事だった。
転生者が世界を壊しかねないなら止める。
困っているなら、必要な範囲で助ける。
けれど今度は違う。
世界の外側から。
誰かの人生そのものへ手を伸ばそうとしている存在を。
止める必要があるかもしれない。
「承知致しました」
「うん」
「絶対に見つけます」
主様が少しだけ笑った。
「うん」
「そして今度は先に、ご本人へ聞きます」
「それがいい」
「異世界へ行きたいのか。本当にそれをご自身で選んだのか」
主様は静かに頷いた。
ノルンの仕事は。
ほんの少しだけ。
形を変え始めていた。
◇◇◇
昼になり、調査を一度止めた。
主様が用意してくれた温かいスープとパンを前にしても、ノルンはいつもより口数が少なかった。パンを小さくちぎっては食べ、スープへ視線を落としたまま考え込んでいる。
「ノルン」
「はい」
「考えすぎ」
「……分かりますか」
「分かるよ」
ノルンは少し迷った末、素直に口を開いた。
「主様」
「何?」
「あの方は、悪い方なのでしょうか」
主様が少し意外そうな顔をした。
「さっきまでかなり怒ってたのに?」
「怒ってはおります」
「うん」
「ですが……」
ノルンは言葉を探した。
「本人なりに、転生者の方々を楽しませたいと思っている可能性もあるのではないでしょうか」
「あると思う」
「カイルさんへスマートフォンを持たせたことも、ミレイアさんへ音楽再生端末を持たせたことも、苦しませるためではなかった」
「たぶんね」
「それに、今回は私が本人の意思を無視することを指摘したら」
「次は聞くって言った」
「はい」
相手は。
ノルンの言葉を。
少なくとも無視はしなかった。
「では、完全な悪意で動いているわけでは」
「ないと思う」
主様はパンを少しちぎりながら、静かに続けた。
「でもね、ノルン」
「はい」
「善意でも、本人の意思を無視したら傷つけることはあるよ」
その言葉で。
ノルンは一人の人物を思い出した。
「……アルノルド殿下」
「僕も少し思った」
「規模はまったく違いますが」
「違いすぎるけどね」
思わず二人で少し笑った。
アルノルドはフローラを傷つけたかったわけではない。
守りたかった。
愛していた。
失いたくなかった。
けれど。
だからこそ。
フローラが望んでいないところまで踏み込んでしまった。
「本人のためと思うことと」
ノルンはスープへ視線を落とした。
「本人が望んでいることは、同じとは限りませんね」
「そうだね」
「……覚えておきます」
観察官として。
また一つ。
大切なことを学んだ気がした。
◇◇◇
午後、ノルンはスカーレット公爵邸へ向かった。
今日は朝のうちに、マーサへ「昼からなら行けるかもしれません」と連絡を入れてある。
昨日。
学んだのだ。
だから今日は、裏門を通って洗濯場へ入っても、いきなり怒鳴り声は飛んでこなかった。
「今日はちゃんと連絡したね」
マーサが腕を組んでノルンを見る。
「はい!」
「成長した」
「ありがとうございます!」
「そこまで胸張ることじゃないけどね」
横でリナが笑った。
「それで、今日は何人?」
「九人で確定致しました」
「昨日のまま?」
「はい」
「増えなかったんだ」
「ですが」
ノルンは少しだけ言葉に詰まった。
「次の方がいるかもしれません」
「結局増えるんじゃない」
「……はい」
リナは少し黙ってから、同情するような目でノルンを見た。
「頑張れ」
「ありがとうございます」
「でも今は洗濯」
「はい!」
布を水へ沈める。
石鹸をつける。
擦る。
濯ぐ。
絞る。
いつもの作業を始めると、朝から張り詰めていた頭が少しずつ日常へ戻っていく。
正体不明の存在。
九人の転生者。
次の子。
考えなければならないことは山ほどある。
それでも。
今、目の前にあるのは一枚のシーツだ。
まずはこれを綺麗にする。
「ノルンさん」
聞き慣れた声に顔を上げると、中庭側の入口にフローラが立っていた。
「フローラ様」
「今日は昨日より早いですね」
「はい!」
「昨日が遅すぎたのでは?」
「……その通りです」
フローラがくすりと笑う。
「今日はクラリス様とのお茶の準備でしょうか」
「はい」
「明日でしたか?」
「三日後です」
「あ」
ノルンは目を瞬いた。
フローラが少し心配そうな顔になる。
「ノルンさん」
「はい?」
「最近、かなりお疲れなのではありませんか?」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
フローラは柔らかな声で続けた。
「それより、ちゃんと休んでください」
「主様にも言われました」
「でしたら、私からも言います」
「ありがとうございます」
ノルンは少し笑った。
それから。
ふと。
聞いてみたくなった。
「フローラ様」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ノルンは手を止めないまま、慎重に言葉を選んだ。
「もし転生する前に、誰かから『別の世界へ行ってみませんか』と聞かれていたら、フローラ様はどうされたと思いますか」
フローラは目を瞬いた。
「前世で生きていた時に、ですか?」
「はい」
「……難しいですね」
すぐには答えなかった。
ノルンも急かさない。
洗濯場では、別の使用人達が布を絞る音や、桶へ水を注ぐ音が続いている。そんな日常の音に囲まれながら、フローラはしばらく考えていた。
「多分」
やがて。
ゆっくりと答える。
「断ったと思います」
「なぜでしょう」
「家族がいましたから」
「はい」
「友人もいましたし、自分の生活もありました。嫌なことだって、もちろんありましたけれど」
フローラは少しだけ苦笑した。
「全部捨てて、何も知らない世界へ行きたいとは思わなかったと思います」
ノルンは静かに頷いた。
「ですが」
フローラが続ける。
「もし前世で、本当に何もなくなっていたら……分かりません」
「行ったかもしれない?」
「はい。そういう人もいると思います」
「では」
ノルンは少し考えた。
「聞くことは、大切でしょうか」
フローラは迷わず頷いた。
「とても大切だと思います」
「……はい」
「ノルンさん」
「何でしょう」
「また誰かを助けようとしているのですか?」
ノルンの手が僅かに止まった。
「まだ、分かりません」
「そうですか」
「ですが」
少しだけ。
笑う。
「できれば、その方が自分で選べるようにしたいと思っています」
フローラの表情が柔らかくなった。
「ノルンさんらしいですね」
「そうでしょうか」
「はい」
ノルンが少し照れた、その瞬間。
「ノルン!」
「はい!」
マーサの声が飛んできた。
「また手が止まってる!」
「あっ!」
慌てて洗濯へ戻るノルンを見て、フローラが楽しそうに笑った。
「やはり、ノルンさんらしいです」
「どちらの意味でしょう!?」
◇◇◇
その夜。
管理領域へ戻ったノルンは、今日の調査結果を正式な観察記録へまとめていた。
『世界外干渉対象者――九名確認』
既知の六名に加え、今日新たに三名が確定した。
『ユウト』
『現世界:ヴァルメリア』
『前世名:相沢悠斗』
『日本人。事故死』
『正規転生記録なし』
『人間として転生』
『現在まで重大な危険行動なし』
『アヤ』
『現世界:メルシア』
『前世名:藤宮彩』
『日本人。事故死』
『正規転生記録なし』
『人間として転生』
『前世知識を主に料理へ利用』
『現在まで重大な危険行動なし』
『リュミ』
『現世界:オルフェリア』
『前世名:宮原凛』
『日本人。水難事故死』
『本来は別世界へ人間として転生予定』
『転生途中に魂記録消失』
『オルフェリアにて精霊核へ定着』
『現在まで魂構造上の重大異常なし』
続いて。
遊び場についての新情報を記録する。
『第一組:六名』
『主に転生世界、前世物品、前世記憶・知識等の条件差を設定した可能性』
『第二組:三名』
『遊び場奥の別室を使用』
『身体・種族を含む転生条件変更を行った可能性』
『第二組用と思われる椅子三脚を確認』
『人間・獣人・精霊を示す可能性がある三種の模型を確認』
『正体不明存在より「最初は世界を変えるだけ」「次は器も変えてみた」と発言あり』
そこで。
ノルンの筆が止まった。
少し考えてから。
一文を強く書き加える。
『対象者本人の同意は確認されていない』
横から記録を読んでいた主様が、ノルンを見る。
「そこ、大事?」
「はい」
「うん」
「絶対に忘れないようにしておきます」
「そうだね」
さらに記録を続ける。
『正体不明存在より、新たな候補者の存在を示唆』
『「次は本人に聞く」と発言』
『対象者未特定』
『未転生、あるいは現在も生存中である可能性あり』
書き終えたところで、ノルンは大きく息を吐いた。
「主様」
「何?」
「明日からは、新しい対象者探しですね」
「うん。それと九人の観察も継続」
「リュミさんについては、オルフェリア担当観察官へ詳細確認を依頼」
「ユウトとアヤも担当へ引き継ぎ」
「フローラ様は引き続き見守り」
「カイルも継続」
「ミレイアはリベルと連携」
ノルンは指を折りながら確認した。
一つ。
二つ。
三つ。
途中で。
指が止まる。
「主様」
「何?」
「仕事が多いです」
「増えたね」
「かなり」
「うん」
ノルンは少し遠い目になった。
「洗濯場は?」
「行きます」
「そこは減らさないんだ」
「大切ですので」
主様が笑う。
「本当にノルンらしい」
「ありがとうございます!」
元気よく返したものの。
すぐにノルンの表情が真面目なものへ戻った。
「主様」
「何?」
「もし、次の方がまだ生きていて」
「うん」
「正体不明の方から異世界へ行きたいかと聞かれ」
「うん」
「行きたい、と答えた場合は?」
主様はすぐには答えなかった。
「本人の意思が本物なら、それは尊重する必要がある」
「はい」
「でも、それだけで勝手に世界間移動させていいわけじゃない。世界間移動には手続きが必要だし、受け入れる世界側の問題もある」
「つまり、相手が勝手に連れていくことは認められない」
「そう」
「ですが」
「本人が本当に望んでいるなら、別の方法を考える余地はある」
ノルンは少し目を見開いた。
「止めるだけではない?」
「うん」
主様は穏やかに笑った。
「観察官の仕事は、何でも禁止することじゃないよ」
「……はい」
「本人が選んだ結果、その人も世界も壊れないようにする。それも管理する側の仕事だから」
ノルンは胸元へ手を置いた。
「覚えておきます」
正体不明の存在は。
自由で。
勝手で。
人の人生を遊びのように扱っている。
腹が立つ。
それは変わらない。
けれど。
ノルンが本人の意思を無視することを指摘した後、相手は『次は聞く』と言った。
もし。
本当に。
ノルンの言葉が少しでも届いたのなら。
最初から敵だと決めつけることも。
また違うのかもしれない。
「主様」
「うん」
「私、正体不明の方と」
一度。
言葉を選ぶ。
「きちんとお話ししてみたいです」
「説教じゃなく?」
「必要であれば、それも致します」
「やっぱり」
「ですが」
ノルンは少し笑った。
「まずは、お話です」
「うん」
「なぜ九人を選んだのか。何を見たかったのか。そして、どうして今まで誰にも言わなかったのか」
主様は僅かに目を細めた。
「聞けるといいね」
「はい」
その時だった。
管理領域の机の端。
昨日も文字が現れた場所に。
小さな光が灯った。
ノルンと主様が同時に顔を上げる。
光は。
ゆっくりと。
一つの文章へ変わった。
『話したい?』
ノルンは目を見開いた。
「……また見ていたのですね」
返事はない。
けれど。
ノルンは今度、迷わなかった。
「はい」
文字へ向かって。
はっきりと言う。
「お話ししたいです」
少しの間。
新しい文字が浮かんだ。
『じゃあ』
『次の子を見つけたら会おうか』
ノルンの胸が強く鳴った。
怒りではない。
緊張。
ようやく。
相手と直接会えるかもしれない。
「約束ですか?」
『約束』
短い返事。
そして。
すぐに。
次の文章が浮かんだ。
『でも早くしないと』
ノルンの表情が変わる。
『あの子、もうすぐ死ぬよ』
管理領域の空気が。
一瞬で凍りついた。
「主様」
「見えてる」
ノルンは立ち上がった。
今度は主様も止めない。
「対象者を特定できますか?」
「今の情報だけじゃ無理」
「日本でしょうか」
「分からない」
「事故ですか?」
「それも分からない」
「では、いつ」
その問いに答えるように。
最初の文字が消えた。
代わりに。
最後の一言だけが残る。
『三日』
ノルンは息を止めた。
「三日……」
「うん」
「三日後に、その方が亡くなる?」
「相手の言葉を信じるなら」
「そして、その後」
ノルンの声が低くなる。
「異世界へ行くかどうかを聞く」
「可能性は高い」
三日。
今までのように、二十五年前の記録をゆっくり調べる話ではない。
今も。
どこかで。
生きている人がいる。
その人が。
三日後に。
死ぬ。
「主様」
「うん」
「探します」
「今から?」
「はい」
主様はしばらくノルンを見た。
朝から調査を続け。
午後は洗濯場へ行き。
戻ってきたばかり。
疲れていないはずがない。
それでも。
今回は止めなかった。
「僕もやる」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「焦って雑に探さない」
ノルンは口を閉じた。
「三日ある」
「はい」
「一日で全部見つけようとしない」
「努力致します」
「そこは努力じゃなくて、約束して」
ノルンは主様を見つめた。
すぐに返事をせず。
一度。
深く息を吸う。
「……約束致します」
「うん」
主様が頷いた。
そして。
世界記録を開く。
管理領域いっぱいに。
無数の世界光が広がっていく。
三日。
対象者は未特定。
これまでの九人とは違う。
今度は。
まだ転生者ではない。
誰かの娘かもしれない。
誰かの息子かもしれない。
友人。
恋人。
同僚。
家族。
今、この瞬間も。
どこかの世界で。
何も知らずに。
普通に生きている。
その人を。
死ぬ前に見つける。
そして。
聞く。
本当に別の世界へ行きたいのか。
それを。
自分自身で選びたいのか。
ノルンは胸元へ手を置いた。
「転生者観察官ノルン」
静かに。
けれど。
今まで以上にはっきりと告げる。
「新規緊急観察対象の捜索を開始致します」
隣で主様が小さく笑った。
「うん」
窓の外を。
無数の世界光が流れている。
そのどこかに。
三日後。
人生の分岐点を迎える者がいる。
正体不明の存在が。
次の転生者として目をつけた誰か。
そして。
その人物を探し当てた時。
ノルンは初めて。
文字越しではなく。
正体不明の存在そのものと向き合うことになる。
ただ。
この時のノルンは。
まだ知らなかった。
これから探す『次の子』が。
たまたま選ばれただけの。
まったく無関係な誰かではないことを。
そして。
その人物へ辿り着くことが。
二十五年前から続いてきたこの奇妙な『遊び』の正体を知るための。
最初の扉になることを。




