第十七話 逆探知した先にあったのは、誰にも管理されていない「遊び場」でした
翌朝の管理領域は、普段と同じ静けさに包まれているはずなのに、ノルンにはどこか空気が張り詰めているように感じられた。
世界記録の頁が自動でめくられる微かな音も、窓の向こうを流れる世界光の低い共鳴も、いつもと変わらない。けれど昨日、正体不明の存在から『見つけられるかな?』という一文を直接投げ込まれたばかりだと思うと、その何気ない静寂さえ、何者かに見られている前触れのように思えてしまう。
机の上には、二つの世界外干渉記録が並べられていた。
一つは、タリウス王国で暮らすカイルのスマートフォンから採取したもの。もう一つは、ラフェルディアで暮らすミレイアの音楽再生端末からリベルが採取し、管理領域へ送ってくれたものだ。
実物そのものは、ここにはない。
カイルのスマートフォンはすでに本人へ返却しているし、ミレイアの音楽再生端末も二十五年間彼女が持ち続けてきた大切な品だ。危険性が確認されていない以上、調査のためだからと取り上げるつもりはなかった。
だから今回使うのは、二つの物品に残された“痕”だけである。
「主様」
ノルンは机の前へ立ったまま、何度目になるか分からない確認をした。
「何?」
向かい側で準備を進めていた主様が顔を上げる。
「本当に、今回は私が干渉痕へ直接触れる必要はないのですね」
「必要がないんじゃなくて、触らないでね」
「はい」
「昨日から何回聞いた?」
「五回ほどでしょうか」
「七回」
「そんなにですか?」
「朝からだけで三回」
ノルンは少しだけ肩を落とした。
「……申し訳ありません」
主様は苦笑したものの、責めるような声は出さなかった。
「心配なのは分かるよ。ただ今回は、相手がどういう存在なのか本当に分からない。しかも、僕達に見つけてほしいような動きまでしている」
「だからこそ、罠の可能性がある」
「そういうこと」
主様は机の上に並ぶ二つの干渉記録へ目を落とした。
「逆探知はする。でも、向こう側へ無理に入り込むことはしない。相手の姿が見えても、まず観察。逃げられそうになっても追わない」
「ですが」
「ノルン」
「はい」
「今回の目的は、捕まえることじゃないよ」
主様の声が少しだけ低くなる。
「相手が何者なのか。どこから僕達の世界へ干渉しているのか。それを知ることが最優先だ」
ノルンは一度目を伏せた。
言われていることは分かっている。
自分でも最近、少し感情的になっていることは自覚していた。
カイル。
ミレイア。
そして、まだ直接会ってはいない四人の候補者。
誰も、自分から異世界へ行きたいと願ったわけではない。少なくとも今判明している範囲では、何者かが勝手に魂の行き先を変えている。
『そっちじゃない』
『こっちの方が楽しそう』
そんな軽い言葉で。
「……承知致しました」
ノルンは改めて主様を見る。
「まず、知ることを優先致します」
「うん」
「そして事情を聞ける状況になったら、きちんと聞きます」
「それはいいよ」
「必要であれば」
「ほどほどにね」
まだ何も言っていなかった。
ノルンは少しだけ頬を膨らませる。
「主様」
「何?」
「先回りされました」
「最近、ノルンが言いそうなことが分かるようになってきたから」
「むう……」
その様子に主様が僅かに笑ったが、すぐに表情は真面目なものへ戻った。
「始めようか」
「はい」
◇◇◇
逆探知の準備は、通常の世界観測とはまったく異なっていた。
主様が机へ両手を置くと、その指先から淡い光が流れ落ち、床の上へ巨大な円形術式を描き始める。
見た目だけなら魔法陣に似ている。
けれど、刻まれているのは魔法文字ではなく、神域で用いられる神紋でもない。
世界同士の位置関係、接続、因果、時間、魂路、記録。そうした通常なら一つの図へ落とし込めない情報を重ね合わせ、視覚的に表示した管理者用の座標式だった。
ノルンは術式の外側へ立ち、手帳を開いた。
術式中央には、二つの小さな光が浮かんでいる。
青い光はカイルのスマートフォンから採取した干渉痕。
緑の光はミレイアの音楽再生端末から採取した干渉痕だ。
「ノルン、記録をお願い」
「承知致しました」
「開始時刻は管理標準時、第八刻三十二分」
ノルンはすぐに書き留める。
「対象痕跡、カイルのスマートフォン。ミレイアの携帯型音楽再生端末」
「はい」
「照合率を上げるよ」
主様の指先がゆっくり動いた。
青と緑。
二つの光から、それぞれ細い線が伸びていく。
最初は別々の方向を向いていた。
しかし術式中央へ近づくにつれ、二本の線は徐々に互いを引き寄せるように傾き、やがて触れ合った。
その瞬間、二つの光が同時に震えた。
ノルンの筆が止まる。
「主様」
「見えてる」
二本の線は、完全に重なったわけではなかった。
けれど途中から、ほぼ同じ方向へ伸び始めている。
「一致率は?」
「八十七パーセント」
「高いですね」
「かなり高い。少なくとも、同一存在か、非常に近い力を持つ存在が関わった可能性は高いね」
主様の表情が真剣になる。
「経路を逆算する」
「はい」
床の術式が一段階大きく広がった。
青と緑の線が、それぞれの痕跡を逆方向へ辿り始める。
本来なら、過去へ遡るほど干渉痕は薄れていく。
魔力であれ、神力であれ、世界そのものへの干渉であれ、時間と共に痕跡が摩耗していくのが普通だ。
ましてや二十五年前。
ほとんど何も残っていなくても不思議ではない。
それなのに。
「……消えません」
ノルンが呟いた。
「うん」
「二十五年前ですよね」
「間違いなく」
「それなのに、昨日とほとんど強さが変わっていない」
「残りすぎてるね」
ノルンは術式へ目を凝らした。
古い痕跡を見ているというより、いまも何かへ繋がっている糸を見ている感覚に近い。
「主様」
「何?」
「相手は痕跡を消していないのではなく、意図的に残しているのでしょうか」
主様の目が僅かに細くなる。
「僕もそう思い始めてる」
「わざと」
「たぶんね」
昨日届いた言葉が頭へ戻る。
『見つけられるかな?』
ノルンの眉がゆっくり寄っていく。
「ノルン」
「はい」
「怒らない」
「まだ怒っておりません」
「今、“まだ”って言ったよね」
「……」
ノルンは黙って手帳へ視線を落とした。
◇◇◇
逆算は、最初の数分間だけは順調だった。
カイルの干渉痕は、タリウス王国での出生地点から世界の外側へ伸びている。通常の魂路とは明らかに異なる細い経路で、正規転生の記録とは重ならない。
ミレイアも同じだった。
ラフェルディアでの出生地点から、通常の魂路とは別方向へ細い干渉経路が延びている。
二本の経路はそれぞれの世界を抜け、世界と世界の境界を越えたところで徐々に近づいていった。
「ここまでは予想通りだね」
「はい」
ノルンも経路を記録していく。
問題は、その先だった。
二本の線は既存の世界へ向かわない。
神域にも。
管理領域にも。
どの観察官が使用する中継領域にも。
世界と世界の狭間、本来なら何も存在しないはずの場所へ伸びていく。
そして。
突然。
止まった。
「主様?」
「……変だ」
「何がでしょう」
「座標が取れない」
主様が術式を操作する。
しかし、二本の線はそれ以上動かなかった。
「存在していない場所なのでしょうか」
「本当に存在していないなら、ここで痕跡そのものが途切れるはずだよ」
「では」
「ある」
主様の声が少し低くなる。
「あるけど、記録されていない」
その一言で、管理領域の空気が再び重くなった。
「世界記録にも?」
「ない」
「神域記録は?」
「今照合する」
術式が何度か明滅する。
数秒。
十数秒。
やがて主様は僅かに眉を寄せた。
「神域にもない」
「では……誰にも管理されていない場所?」
「可能性が高い」
主様は二本の線が消えている先をじっと見つめた。
「しかも、自然発生した空間じゃないと思う」
「なぜですか?」
「形が綺麗すぎる」
解析精度が一段階上げられる。
今まで黒く塗り潰されていた場所に、少しずつ輪郭が浮かび上がった。
円。
いや。
球体に近い。
けれど一つの世界と呼べるほど大きくはない。
「……部屋?」
ノルンが思わず呟いた。
「僕も、近いと思う」
主様の指がさらに動く。
「世界じゃない。閉じた空間だ」
「誰かが作った?」
「そう見える」
「二十五年前に?」
「少なくとも、それ以前から存在していた可能性が高いね」
その時。
術式の端が、もう一度震えた。
二本しかなかったはずの線の横に、別の細い痕跡が浮かび上がる。
「主様」
「見えてる」
三本目。
続いて四本目。
五本目。
六本目。
ノルンは何も言えなくなった。
昨日見つけた、世界外干渉が疑われる六人。
それぞれ違う世界にいる。
それなのに。
六本全ての痕跡が、同じ閉鎖空間へ繋がっていた。
「六本……」
「うん」
「昨日確認した人数と一致します」
「そうだね」
ノルンはゆっくり息を吐いた。
「では、ここが中継地点だった?」
「可能性はかなり高い。魂を一度ここへ集めて、それぞれ別の世界へ送り直したんだと思う」
「一人ずつ?」
「たぶん」
「その人が、面白そうだと思った世界へ」
主様は否定しなかった。
ノルンの表情が僅かに険しくなる。
◇◇◇
さらに解析を進めると、閉鎖空間の内部まで僅かに観測できるようになった。
広さは、一つの世界と比べればあまりにも小さい。
町一つ分もない。
せいぜい、大きな屋敷が数軒建つ程度の規模だ。
「主様」
「何?」
「中へ入れますか?」
「今は入らないよ」
「見るだけなら?」
「それなら外側から試してみる」
ノルンも少し緊張しながら頷いた。
「はい」
術式中央に浮かぶ黒い球体が、ゆっくりと透明になっていく。
やがて。
内部の像が映った。
「……」
ノルンは一度瞬きをした。
もう一度。
想像していたものとは、あまりにも違った。
牢獄ではない。
研究施設でもない。
薄暗い儀式場でもなかった。
むしろ明るい。
白い床。
広々とした一室。
中央には大きな円形机が置かれ、その周りには六脚の椅子が並んでいる。
壁には本棚があり、棚には玩具、積み木、絵、地図、地球系世界の品、異世界由来と思われる品が無秩序に並べられていた。
子供部屋にも見える。
けれど、そこに子供らしい生活感はなかった。
「……遊び場」
ノルンが小さく呟いた。
「そう見えるね」
棚の上には、小さな球体が幾つも並んでいた。
色も、大きさも少しずつ違う。
「主様、あれは世界の模型でしょうか」
「たぶん」
「かなりあります」
二人で数える。
一つ。
二つ。
三つ。
十。
二十。
それ以上。
六つどころではない。
どの模型にも小さな札が付けられているが、文字らしきものは世界記録の補助を使っても読み取れなかった。
「管理系文字ではないですね」
「相手独自の記号みたいだ」
主様が観測範囲をさらに広げる。
円形机の上にも、何かが散らばっている。
一見すると紙のように見えた。
けれど拡大すると、それらは薄い映像記録板のようなものだった。
その一枚に。
赤ん坊のカイルが映っていた。
寝籠の中。
隣には、スマートフォン。
別の一枚には、三歳ほどのミレイアが音楽再生端末を抱えて泣いている姿が映っている。
ノルンの表情が変わった。
「……記録しています」
「そうだね」
「二十五年前から、ずっと?」
「たぶん」
さらに像を追う。
幼いカイル。
少年になったカイル。
冒険者となったカイル。
赤ん坊のミレイア。
村を走る少女。
作業場で働く現在の姿。
何十枚も。
何年分も。
ずっと。
「観察」
ノルンが小さく呟いた。
「相手も、していたみたいだね」
その言葉が胸へ重く落ちる。
転生者観察官であるノルンも、転生者を観察する。
けれど主様から何度も教えられている。
本人の人生を奪わない。
必要以上に介入しない。
世界を壊すような行動がない限り、本人の選択を尊重する。
この空間の主は違う。
最初に行き先を勝手に変えた。
条件を与えた。
そして、その後を見て楽しんでいる。
「主様」
「何?」
「この方、私達の真似をしているのでしょうか」
「分からない。ただ、似ている部分は確かにある」
主様は映像記録を見ながら続けた。
「転生者を選ぶ。世界へ送る。その後を見る」
「はい」
「でも、目的が違う」
「私達は世界を守るために見る」
「そう」
主様の眉が僅かに寄る。
「相手は、楽しむために見ているように見える」
ノルンの拳がまた少し握られた。
「……やはり腹が立ちます」
「分かるよ」
◇◇◇
観測範囲を広げると、円形机の端に六つの小箱が置かれているのが見えた。
二つは空。
残り四つには、何かが入っている。
「主様、箱を」
「見てる」
像を拡大する。
一つ目。
古い腕時計。
二つ目。
小さなキーホルダー。
三つ目。
一本のペン。
四つ目。
写真。
どれも、地球系世界由来と思われる品だった。
「前世物品……」
「可能性は高いね」
「では、レオンさん、セラさん、他二名も」
「持っている、とは限らない」
主様が目を細くする。
「逆かもしれない」
「逆?」
「本人へ渡さなかった物が、ここに残されている可能性」
ノルンは少し驚いた。
「カイルさんとミレイアさんには前世物品を持たせて、他の方々は持たせなかった?」
「そういうことかもしれない」
「なぜでしょう」
「そこは分からない」
ノルンは円形机へ視線を戻す。
全員へ同じ条件を与えていない。
一人には前世物品を持たせる。
一人には持たせない。
ある者は物語の世界へ送る。
ある者は前世で知らない世界へ。
記憶も。
能力も。
持ち物も。
「主様」
「うん」
「“遊び方”を変えていたのではありませんか」
主様がノルンを見る。
「どういう意味?」
「全員へ同じ条件を与えるのではなく、一人ごとに少しずつ条件を変える。その結果がどうなるかを見ていた」
主様の表情が明確に険しくなった。
「……実験」
その言葉を聞いて、ノルンは僅かに顔を曇らせた。
「嫌な言葉です」
「僕も」
主様は少し考え、さらに続ける。
「ただ、相手自身にとっては実験より“遊び”に近いのかもしれない」
その方が、ノルンには余計に嫌だった。
本人達にとっては人生だ。
親がいる。
友人がいる。
泣く。
笑う。
傷つく。
死ぬことだってある。
それを。
条件を変えて眺める。
「主様」
「何?」
「この空間、二十五年前から使われていないのでしょうか」
主様が反応を調べ始める。
室内の大半に残っている痕跡は古い。
しかし。
「待って」
「はい」
主様が術式を操作する。
壁の奥。
小さな扉。
そこだけ。
痕跡が新しい。
「……最近使われてる」
ノルンの目が大きくなる。
「どのくらい最近ですか?」
「数日以内」
「私達が調べ始めてから?」
「時期は重なる」
空気がまた変わった。
二十五年前に使われた遊び場。
その主が。
最近。
戻っている。
「では、今も近くにいる可能性が?」
「ある」
ノルンは反射的に口を開いた。
「入りますか?」
「まだ」
主様は即答した。
「でも」
「今は外から見えているだけだ。相手が戻ってくる可能性があるなら、中へ入る前に出口と逃げ道を全部調べる」
ノルンは一度目を閉じ、呼吸を整えた。
勢いで入る。
それは駄目。
昨日も。
今日も。
何度も言われている。
「……承知致しました」
◇◇◇
その時だった。
遊び場の円形机。
何も置かれていなかった場所に、小さな光が浮かんだ。
「主様」
「見えてる」
光はゆっくりと文字へ変わっていく。
今回は日本語ではない。
管理領域で使用している共通文字。
だからノルンもそのまま読むことができた。
『ここまで来たね』
ノルンの目が僅かに細くなる。
「見ていますね」
「そうみたいだ」
文字が変わる。
『六人、見つけた?』
ノルンの背筋に冷たいものが走った。
「六人という数を知っています」
「うん」
「私達が見つけた候補者を」
「見ていた証拠がまた増えたね」
次の文字。
『でも、まだ足りないよ』
管理領域に沈黙が落ちる。
そして。
『全部で九人』
「九人……」
ノルンが思わず声に出した。
現在確認しているのは六人。
なら。
あと三人。
次の文字が浮かぶ。
『見つけられたら、次に進んでいいよ』
ノルンの眉がぴくりと動いた。
「主様」
「うん」
「完全に遊ばれております」
「そうだね」
最後。
『がんばって、ノルン』
文字が消えた。
遊び場の映像だけが残る。
ノルンは黙って拳を握った。
「ノルン」
「はい」
「落ち着いて」
「落ち着いております」
「声が少し低いよ」
「落ち着いております」
二度言った。
主様が少し苦笑する。
「九人か」
「はい。ただし、本当に九人なのかどうかは確認が必要です」
ノルンはすぐに続けた。
「相手が言ったことを、そのまま事実として扱うべきではありません」
「その判断は正しい」
「ですが、六人という現在の調査数は知っていました」
「外周観測層から僕達の調査状況を見ていた可能性はさらに高くなったね」
ノルンは遊び場へ視線を戻す。
「もし九人全員が、この空間を通ったのであれば」
「痕跡が残っている可能性はある」
「はい。相手が答えを教えたつもりでも、こちらで確認できます」
少しだけ表情が明るくなる。
「あと三人、見つけましょう」
主様が笑った。
「元気戻ったね」
「遊ばれたままでは終われません」
「やっぱり負けず嫌いだなあ」
「主様もです!」
◇◇◇
逆探知は、そこで一度停止することになった。
主様が術式を閉じると、遊び場の映像がゆっくり薄れていく。
完全な座標はまだ取れていない。
けれど、存在そのものの痕跡は保存できた。
正式な記録名はない。
だから、ひとまず仮称を付ける必要がある。
「名称、どうする?」
主様に聞かれ、ノルンは少し考えた。
「遊び場」
「そのままだね」
「相手の性質を考えると、一番分かりやすいと思います」
「まあ、仮称ならいいか」
ノルンは記録へ書き込む。
『仮称:遊び場』
さらに、その下へ現在判明している情報を整理した。
『二十五年前、少なくとも六名の魂の中継地点として使用された可能性あり』
『内部に六脚の椅子、複数世界の模型、対象者の成長記録と思われる映像資料を確認』
『前世物品と思われる物品四点を確認』
『数日以内の新しい使用痕あり』
『正体不明存在より直接メッセージを受信』
『世界外干渉対象者は全九名との発言あり』
そこまで書いたところで、ノルンの筆が止まった。
「主様」
「何?」
「九人の中に、フローラ様は?」
「含まれないと思う」
「ですよね」
フローラには世界外干渉痕がない。
誤転生原因も神々の処理ミスと確認されている。
今回の九人とは別件だ。
「では、あと三人」
「そうなる」
条件はかなり絞れている。
二十五年前。
十一日間。
日本。
事故死。
正規転生記録なし、あるいは転生途中に魂が消失。
世界外干渉痕あり。
「今日、このまま探しますか?」
ノルンが少し立ち上がりかける。
主様は管理領域の時計へ視線を向けた。
「ノルン」
「はい」
「朝から何時間やってると思う?」
「……」
「食事以外、ほぼずっとだよ」
「ですが、あと三人です」
「休憩」
「……はい」
渋々座る。
主様は少し笑った。
「それから、今日は洗濯場へ行く予定じゃなかった?」
ノルンの目が大きく開いた。
「……」
「忘れてた?」
「……」
「ノルン」
「忘れておりました!」
素直に認めた。
そして、次の瞬間。
「マーサさんに怒られます!」
「だろうね」
ノルンは慌てて鞄を掴む。
「主様、一度行ってまいります!」
「もうかなり遅いよ」
「ご挨拶だけでも!」
「走らなくていいからね」
「転移します!」
「それもやめようね!」
◇◇◇
結局、ノルンは普通にスカーレット公爵邸の裏門から入った。
夕方。
洗濯場の仕事は、ほとんど終わりかけている。
桶は洗われ、最後の布が干され、一日の片づけへ入っていた。
そして。
その中央に。
腕を組んだマーサが立っていた。
「……」
「……」
ノルンはその前へ立つ。
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる。
「今日は来ないのかと思ったよ」
「その……本来の仕事が」
「長引いた?」
「はい」
「人探し?」
「はい」
横からリナが顔を出した。
「また増えた?」
ノルンは顔を上げる。
「……九人になりました」
「何が?」
「候補の方です」
「昨日六人って言ってなかった?」
「はい」
「一日で三人増えたの?」
「はい」
リナがしばらく黙った。
「……大変だね」
「はい」
今のノルンには、その一言が妙に身に染みた。
マーサも呆れたように息を吐く。
「明日は?」
「まだ分かりません」
「なら最初からそう言いな。ここは臨時雇いなんだから、毎日来なきゃならない契約じゃない」
「はい」
「無理して来る必要もない」
ノルンは少しだけ目を伏せる。
けれど、マーサはそこで言葉を終えなかった。
「でも、来るなら働け」
ノルンの顔が上がる。
「はい!」
「今日はもう片づけだけだよ」
「お手伝い致します!」
「声」
「……お手伝い致します」
リナが横で笑った。
ノルンも少しだけ安心する。
世界の外側。
正体不明の存在。
遊び場。
九人。
頭の中には知らないことが山ほど積み重なっている。
でもここには、昨日と同じ洗濯物があり、同じ桶があり、同じように誰かが笑っている。
その変わらない日常が、今はありがたかった。
「ノルンさん」
聞き慣れた声に振り返る。
中庭の入口に、フローラが立っていた。
「今日は遅かったのですね」
「はい」
「大丈夫ですか?」
少し心配そうな顔をしている。
「大丈夫です!」
ノルンは反射的に元気よく答えた。
けれどフローラは、それだけでは納得しなかった。
「……本当に?」
「……」
ノルンは少し止まった。
自分は観察する側だ。
相手の表情や声色を見て、異変がないか確かめる。
でも今は。
逆に、自分の表情を見られている。
「少しだけ、仕事が増えました」
正直に言う。
「人探しですか?」
「はい」
「見つかったのですね」
「……見つかりすぎました」
フローラが目を瞬く。
「それは……お疲れ様です」
「ありがとうございます」
たった一言。
それだけなのに、少し楽になる。
「ノルンさん」
「はい」
「私、お手伝いはできませんけれど」
「はい」
「お話を聞くことならできます」
ノルンは少し目を見開いた。
「話せないことばかりかもしれません」
「それでもいいです。疲れた、と言うだけでも」
ノルンはしばらく何も言えなかった。
主様はいつも自分を支えてくれる。
それは当然のように感じていた。
でも今は、この世界で暮らしているフローラが、自分を心配してくれている。
観察対象としてではなく。
ノルンという一人の相手として。
「ありがとうございます」
ノルンは少し笑った。
「今日は、少し疲れました」
「はい」
「でも、まだ頑張れます」
フローラも柔らかく笑う。
「でしたら、頑張りすぎないでください」
ノルンは思わず笑った。
「皆さん、同じことを仰います」
「それだけ、ノルンさんが心配されているのではありませんか?」
「……そうでしょうか」
「そうだと思います」
その時。
「ノルン!」
遠くからマーサの声が飛ぶ。
「はい!」
「片づけ!」
「あっ!」
フローラが笑った。
「ほら」
「はい!」
◇◇◇
夜。
管理領域へ戻ったノルンは、少し疲れた顔をしていた。
それでも帰還の声だけは、いつもと変わらない。
「ただいま戻りました!」
「おかえり」
主様は長椅子に座っていた。
「マーサさんは?」
「怒られました」
「やっぱり」
「ですが、明日来られるか分からないなら、最初からそう言えと」
「優しいね」
「はい」
「フローラは?」
ノルンは少し驚いた。
「なぜ分かるのですか」
「顔」
「……」
主様が笑う。
「何か言われた?」
「疲れたと言うだけでもよい、と」
「へえ」
「それから、頑張りすぎないでくださいと」
主様は少しだけ嬉しそうに笑った。
「僕と同じだ」
「はい」
「じゃあ、今日はもう休もうか」
ノルンはすぐに反応した。
「九人目まで」
「明日」
「あと三人だけです」
「明日」
「主様」
「今日は休む」
「……はい」
少し不満そうではある。
それでも素直に手帳を閉じた。
主様が紅茶を用意し、ノルンの前へ置く。
温かな湯気。
甘い香り。
一口飲むと、張り詰めていたものが少しずつ緩んでいく。
「主様」
「何?」
「今日、遊び場を見つけました」
「そうだね」
「相手は九人いると言いました」
「うん」
「そして、九人全員を見つけたら次に進んでいい、と」
「言ったね」
ノルンは少し嫌そうな顔をする。
「次とは、何でしょう」
「分からない」
主様は紅茶を飲みながら答えた。
「でも、たぶん相手はまだ終わらせる気がないよ」
ノルンは深くため息を吐いた。
「主様」
「何?」
「私の苦労、本当に終わらない気がしてまいりました」
「今さら?」
「主様!」
その日最後の大きな声が、管理領域へ響いた。
その後。
ノルンはきちんと休むことにした。
けれど眠る前。
遊び場の映像が、どうしても頭から離れなかった。
六脚の椅子。
棚に並ぶ世界模型。
カイルとミレイアの成長記録。
そして、正体不明の存在が告げた九人という人数。
六人が既に見つかっている。
残り三人。
そこまでは分かる。
でも。
もっと気になることがあった。
円形机の周囲には、椅子が六脚しかなかった。
もし九人全員が同じ場所を通ったのであれば。
なぜ。
椅子は六つなのか。
途中で増やさなかっただけ。
偶然。
単なる家具。
そういう可能性もある。
けれど、相手が一人ごとに条件を変えて遊んでいたのだとすれば。
その数にも。
意味があるかもしれない。
ノルンは再び手帳を開き、余白へ一文だけ追記した。
『遊び場の椅子は六脚。正体不明存在の発言では対象者は九名。この数の差に意味がある可能性あり』
そして今度こそ、手帳を閉じた。
その夜。
遊び場から新しい干渉が届くことはなかった。
けれどノルンが最後に気づいた六脚の椅子と九人という人数の食い違いが、単なる家具の数ではないことを。
二十五年前の十一日間。
正体不明の存在が、一度だけ九人の魂を集めたのではなく。
複数回に分けて。
別々の条件で。
何度も“遊び”を行っていた痕跡であることを。
ノルン達が知るのは。
残る三人を探し始める、次の調査でのことだった。




