第十六話 管理領域まで覗かれたので、本気で探したら三人目どころではありませんでした
管理領域へ浮かんだ一行の文字が消えてからも、ノルンはしばらく同じ場所を見つめ続けていた。
『見つけられるかな?』
ほんの数秒だけ現れ、それだけを残して消えた文字だった。
大きな音が鳴ったわけでも、強大な力が押し寄せてきたわけでもない。管理領域を守る結界が揺らいだ様子もなく、目の前に残っているのは、いつもと何ら変わらない静かな空間だけだ。
それなのに、ノルンの胸の奥には、ミレイアの音楽再生端末が勝手に起動した時以上の不快感が残っていた。
ここはタリウス王国でも、ラフェルディアでもない。
主様が数多の世界を見守り、世界記録を整理し、ノルン達観察官が任務のために出入りする場所。通常の世界から切り離され、限られた存在しか立ち入ることのできない、世界管理者の領域だ。
そこへ何者かが、外側から触れた。
「主様」
ノルンは文字が消えた空間から視線を外さないまま、静かに呼びかけた。
「うん」
「念のため確認致します。今の方は……管理領域へ侵入されたのでしょうか」
主様はすぐには答えなかった。
机の前に座ったまま右手をゆっくり持ち上げると、その指先から淡い光が広がった。細い光の線は壁や床、天井だけでなく、窓や扉、机の下、長椅子の裏側にまで伸び、やがて巨大な格子となって管理領域全体を包み込んでいく。
ノルンは黙ってその様子を見守った。
普段なら、主様がこうして世界管理者としての力を使う姿を見ると、少しだけ胸が躍る。本人にはあまり言わないが、ノルンにとって主様は尊敬する上司であり、こういう時は素直に格好いいと思っていた。
けれど今は、そんなことを考える余裕すらなかった。
淡い光が部屋の隅々まで巡り、何度か明滅した後、ゆっくりと消えていく。
「侵入はされてないよ」
主様がようやく口を開いた。
その言葉を聞いた瞬間、ノルンの肩からほんの少しだけ力が抜けた。
「では、防壁も?」
「破られてない。管理領域の内部へ直接入ってきた痕跡もないよ」
「よかったです……」
「ただし」
続いた言葉に、緩みかけたノルンの表情がすぐに引き締まった。
「外側から文字を投射された形跡がある」
「投射、ですか?」
「管理領域へ直接入ってきたんじゃない。外側から、こちらに見える形で情報だけを置いていった……窓の外から紙に書いた文字を見せられた、と考えると近いかな」
ノルンは先ほど文字が浮かんでいた場所を振り返った。
「では、相手が管理領域そのものへ侵入する力を持っているとは限らない?」
「そうだね。少なくとも、今の時点ではそう判断していいと思う」
「ですが、ここがどこなのかは分かっている」
「うん」
そこが一番気持ち悪かった。
入れないから安全。
それだけなら、まだいい。
しかし相手は、管理領域という場所の存在を知っている。それどころか、ノルンがそこにいることまで把握したうえで、わざわざ目の前へ文字を浮かべてみせたのだ。
主様は机の上へ世界記録を開き、先ほどの干渉が起きた時刻を確認していく。
「しかも、ただ闇雲に干渉したわけじゃない」
「どういうことでしょう?」
「ノルンがここにいる時を狙ってる」
その指摘に、ノルンの眉が僅かに動いた。
「私が……記録を書いている時に?」
「そう。それも、ミレイアの件について記録している最中だ」
「そして昨日は、ミレイアさんの端末を通して私の名前を呼んだ」
「うん」
ミレイアの音楽再生端末へ現れた言葉を、ノルンは嫌でも思い出す。
『今日からよろしくね、ノルン』
そして今度は。
『見つけられるかな?』
偶然ではない。
相手は明らかにこちらの反応を見ている。
「主様」
「何?」
「やはり、私達を遊び相手だと思っておられるのではありませんか?」
ノルンは少しだけ拳を握った。
「可能性は高いね」
「腹立たしくなってまいりました」
「分かるけど、怒りすぎないようにね」
「努力致します」
「その返事、最近あんまり信用できないんだよなあ」
「主様!」
思わず声が大きくなる。
自分でも気づいて、ノルンは少しだけ頬を赤くした。張り詰めていた空気が僅かに緩み、主様も小さく笑ったが、それもほんの短い間だけだった。
「ノルン。今から管理領域の外部接続履歴を全部調べるよ」
「全部ですか?」
「まずは直近三日分。相手がここを知っているなら、今回以外にも何らかの痕跡が残っている可能性がある」
「それでもかなりの量になりますね」
「かなりね」
主様は世界記録の隣へ、さらに大きな記録板を開いた。透明な板の中に無数の文字列が現れ、それぞれが淡い光の線で結ばれていく。
「転移門の起動記録、観察官用の連絡、神域との通信、世界記録への接続。それから……」
そこで主様が、少しだけ嫌そうな顔をした。
「神様達からの緊急連絡」
ノルンは一瞬だけ黙った。
「それは……頻繁なのでしょうか?」
「最近はね」
短い返事だった。
けれど、そこに少しだけ本物の疲労が混じっていることに気づき、ノルンはそっと頭を下げた。
「……お疲れ様です」
「ありがとう」
◇◇◇
始めてみると、調査は予想以上に地味だった。
そして、予想以上に大変だった。
何か特別な魔法を使えば一瞬で答えが出てくるようなものではない。主様が表示した膨大な接続履歴を、発生時刻、接続元、接続先、使用された経路、残留する力の種類まで含め、一件ずつ確認していかなければならなかった。
ノルンは机の右側へ座り、主様は左側で記録を操作する。
「転移門、正常」
「はい」
「リベルとの連絡も正常。次は神域第三管理区からの問い合わせ」
「内容は?」
「誤転生報告書の訂正依頼」
ノルンの筆が一瞬止まった。
「ジジ様達ですか?」
「そう」
「……正常なのでしょうか」
「内容はあんまり正常じゃないけど、接続そのものは正常」
「なるほど」
妙に納得してしまった自分が少し悲しい。
「次。観察官ミアから北部世界群の報告」
「正常ですね」
「タリウス王国の世界記録閲覧」
「それは私です」
「正常。次、ラフェルディア」
「リベルさんですね」
「これも正常。それから……」
そこで、主様の指が止まった。
それまで淡々と続いていた確認作業が途切れ、管理領域に僅かな沈黙が落ちる。ノルンはすぐに顔を上げた。
「主様?」
「変なのがある」
椅子を引き、ノルンは主様の隣へ回った。
「どちらですか?」
「ここ」
主様が指した記録を拡大する。
表示されていた時刻は昨夜。ミレイアの音楽再生端末が異常反応を示した直後だった。
『接続元:不明』
『接続先:管理領域外周観測層』
『接続時間:0.7秒』
ノルンは何度か文字を読み返した。
「……ありましたね」
「うん」
「接続元、不明」
「うん」
「不明で接続できるのですか?」
「本来はできない」
「ですよね」
主様は記録をさらに拡大し、接続先の情報を開いた。
「しかも妙なのはこっちだよ」
「管理領域外周観測層……?」
「管理領域そのものじゃない。僕達がそれぞれの世界を観測する時に使う、外側の窓みたいな場所なんだ」
ノルンも知っている。
世界記録や観察術式を通して数多の世界を見るため、管理領域には外部へ向けて開かれた観測層が存在する。
もちろん、本当に窓があるわけではない。
あくまでこちら側から世界を見るための接続点だ。
ノルンはそこまで考えたところで、嫌なことに気づいた。
「まさか……そこからこちらを覗いたのですか?」
「そういうことになる」
「でも、外周観測層は私達が外を見るためのものですよね?」
「普通はね」
「外から内を見るためのものではない」
「ないよ」
「では……」
ノルンはゆっくりと息を吐いた。
「逆向きに使われた」
「そう」
二人揃ってしばらく黙った。
外を見るために開けた窓から、いつの間にか誰かがこちらを覗いていた。
言葉にしてしまえば単純だが、実際に自分達がされたと考えると、とても気持ちのいいものではない。
「主様」
「何?」
「これ、かなり嫌ですね」
「かなりね」
昨日、自分で観察記録へ書いた言葉が脳裏をよぎった。
『観察される側というのは、思っていたより落ち着きませんね』
その直後にこれである。
「……わざとでしょうか」
「たぶん」
「私に観察される側の気持ちを経験させるために?」
「それもありそうだね」
ノルンの眉がぴくりと動いた。
「やはり腹が立ってまいりました」
「さっきより増えてない?」
「増えております」
「まあ……気持ちは分かるよ」
主様も困ったように笑った。
◇◇◇
さらに履歴を追っていくうち、もう一つ奇妙な事実が判明した。
「主様。この接続、入口がありません」
「そうなんだよね」
通常、どこかから管理領域へ情報が届けば必ず接続元が残る。
神域からなら神域。
観察官からなら観察官の連絡具。
世界記録からなら対象世界。
転移門からなら出発地点。
どのような方法を使ったとしても、「どこから来たのか」という記録だけは残るはずだった。
ところが今回の記録には、それがない。
『接続元:不明』
ただ、その一言だけだった。
「記録を消されたのでしょうか?」
「それなら消した跡が残る。これは最初から、管理領域側が接続元として認識できない場所から来てる」
ノルンの表情が僅かに強張った。
「世界の外側より……さらに外?」
「可能性はある」
「そんな場所があるのですか?」
「あるとは言い切れない」
「では、ないとも?」
「言えない」
主様は椅子へ深く腰掛け、窓の向こうへ視線を向けた。
そこには無数の光が浮かんでいる。
一つ一つが世界だ。
それぞれの場所で人が生まれ、暮らし、笑い、泣き、死んでいく。ノルン達観察官はその営みを見守り、必要な時だけ手を伸ばす。
「ノルン。世界がある」
「はい」
「世界を管理する領域がある。神々が暮らし、転生なんかを扱う神域もある」
「はい」
「でもね」
主様の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「それら全部を包んでいるものが何なのか。僕も全部知ってるわけじゃない」
ノルンは主様を見た。
初めて聞いた気がした。
世界管理者である主様なら、世界に関することは何でも知っている。
いつの間にか、どこかでそう思っていた。
「主様にも、分からないことがあるのですか?」
「あるよ」
あまりにも普通に返され、ノルンは目を瞬いた。
「怖くは……」
そこまで聞いて、少しだけ後悔した。
けれど主様は気を悪くした様子もなく、しばらく窓の外を見つめた後、静かに答えた。
「あるよ。僕だって、全部分かるわけじゃないからね」
「主様でも?」
「うん。だから調べるんだ」
主様はノルンへ視線を戻した。
「分からないものを、分からないまま怖がっているより、一つずつ分かることを増やしていく。その方がいいだろ?」
その言葉を聞いているうちに、胸の奥に溜まっていた不安が少しだけ薄くなった。
「はい」
「ノルンも同じだよ」
「私もですか?」
「怒って突っ込まない。まず調べる」
「……承知しております」
「本当に?」
「主様!」
また声が大きくなった。
けれど今度は、ノルン自身も少しだけ笑っていた。
◇◇◇
昼前になり、一度調査を中断した。
主様が用意してくれたパンと温かなスープを前に、ノルンは昨日までにまとめた転生者の記録を机へ並べ直していく。
フローラ。
カイル。
ミレイア。
現在、ノルンが直接関わっている三人の転生者だ。
しかし改めて比較すると、三人の事情は明確に異なっていた。
フローラは神々による誤転生だ。正規の転生処理そのものは存在しており、その途中で転生先を間違えられている。十二歳になってから前世の記憶を取り戻し、前世物品は所持しておらず、世界外干渉の痕跡もない。
一方、カイルは本来アストレアへ転生する予定だった。しかし転生処理の途中で魂が行方不明となり、実際にはタリウス王国で生まれている。生まれた時から前世記憶を持ち、前世で使用していたスマートフォンまで一緒に持ち込まれていた。
そしてミレイア。
彼女には、そもそも正規の転生記録がない。
ラフェルディアで生まれ、生まれた時から前世の記憶を持ち、出生翌朝には寝籠の中へ音楽再生端末が置かれていた。
カイルとミレイア。
二人の持ち物には、同種の世界外干渉痕が残っている。
「主様」
「うん?」
「やはり、フローラ様だけ違いますね」
「僕もそう思う」
ノルンはパンを一口食べ、きちんと飲み込んでから記録を二つに分けた。
「最初は、神様達の誤転生が原因で全て繋がっているのではないかと思っておりました」
「うん」
「ですが、フローラ様は神様達の失敗。カイルさんとミレイアさんは、それとは別件である可能性が高い」
「そうだね」
神々の失敗を調べていたはずなのに、途中からまったく別の何者かによる転生介入まで出てきたことになる。
ノルンは少し複雑な顔になった。
「主様」
「何?」
「神様達を疑ってしまったことについて、少しだけ申し訳なくなってまいりました」
「本人達に言ってあげたら? たぶん喜ぶよ」
「そう致します」
そこで一度頷いたものの、ノルンはすぐ真顔へ戻った。
「ですが、最初の誤転生は間違いなく神様達の失敗です」
「うん」
「そこは別です」
「厳しいなあ」
主様が笑う。
少し穏やかになった空気の中で食事を続けていたが、やがて主様がカイルとミレイアの記録へ目を落とした。
「ところでノルン」
「はい?」
「二十五年前、カイルとミレイア。この二人だけだと思う?」
パンを持っていたノルンの手が止まった。
数秒。
考える。
考えたくない。
しかし、答えは最初から分かっていた。
「……思いません」
「だよね」
「昨日、近隣二十世界を調査しただけでミレイアさんが見つかりました」
「うん」
「範囲を広げれば……」
「増えるかもしれない」
急にパンの味が少し分からなくなった。
「主様」
「何?」
「何世界まで調べるおつもりですか?」
「まず百」
「……」
「ノルン?」
「はい」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
そう答えながら、ノルンの視線は少しだけ遠くなっていた。
「……食べ終えてからに致しましょう」
「それがいいね」
◇◇◇
午後から始めた調査では、条件をかなり細かく絞った。
二十五年前。
カイルが転生した日を中心とした前後七日間。
正規の神域記録と一致しない転生。
地球系世界から消失した魂。
転生先で確認された不自然な出生。
さらに、世界外干渉痕が残っている可能性。
主様が百の世界を順番に開き、ノルンが照合結果を記録していく。
最初の十世界には該当なし。
二十世界目まで進んでも見つからない。
二十一番目では小さな干渉痕が確認されたものの、正式な神域処理によるものだったため除外された。
三十を越えた頃には、ノルンも少しだけ安心しかけていた。
もしかすると、カイルとミレイアだけだったのではないか。
そんな期待が浮かび始めた三十五番目。
「……ありました」
主様の声が変わった。
ノルンの背筋が伸びる。
「世界名は?」
「エルガディス。大陸南部で、二十五年前に正規記録のない出生が一件」
「干渉時刻は?」
「カイルの一日前」
ノルンの筆先が紙へ触れた。
「対象は?」
「男児。名前はレオン。現在二十五歳」
「正規転生記録は?」
「ない」
そこからさらに現在までの行動記録を追っていく。
五歳までは特に目立った異常なし。
六歳、七歳も同様。
しかし十二歳の記録で、現地に存在しない数字表記を使っていたことが確認された。
十五歳では村の祭りに使用するため、地球系世界の楽器に酷似した構造の楽器を製作。
十九歳では農具の改良まで行っている。
「……かなり怪しいですね」
「うん」
「現在所持している物品は確認できますか?」
「遠隔記録だけじゃ無理だね」
「担当観察官は?」
「いる。あとで連絡しておこう」
ノルンは名前を記録した。
レオン。
世界外干渉案件としては、カイルとミレイアに続く三人目の候補。
「続けるよ」
「はい」
四十。
五十。
そして六十を越えたところで、再び主様の指が止まった。
「……またあった」
ノルンは嫌な予感を覚えながら顔を上げた。
「どこの世界ですか?」
「同じ世界」
「エルガディスですか?」
「違う」
主様は少しだけ眉を寄せた。
「タリウス王国」
今度こそ、ノルンの目が大きく開いた。
「カイルさんと同じ?」
「同じ世界だけど、かなり離れた地域だね」
「対象は?」
「女児として出生。現在二十五歳。名前はセラ」
「正規転生記録は?」
「ない」
さらに行動記録を追う。
十歳で、現地では知られていなかった縫製方法を家族へ教えている。
十三歳で保存食を改良。
十七歳では、既存品とは明らかに異なる構造の衛生用品を作っていた。
ノルンはしばらく記録を見つめた後、片手で額を押さえた。
「主様」
「何?」
「本当に増えております」
「増えてるね」
「私の苦労も」
「うん」
「やはり終わらな……」
そこまで言いかけて、ノルンは口を閉じた。
「……何でもありません」
「今、何か言おうとしなかった?」
「いいえ」
◇◇◇
調査はその後も続いた。
七十。
八十。
九十。
そして百。
全ての確認が終わった頃には、机の上へ新たな候補者四名の記録が並んでいた。
レオン。
セラ。
まだ名前まで確認できていない一名。
そして、世界記録上では出生記録そのものが不自然に曖昧な一名。
カイルとミレイアを加えれば、世界外干渉が疑われる対象は六名になる。
朝まで二人だった。
今は六人だ。
ノルンは机の上に並んだ記録を見渡し、しばらく何も言えなかった。
「まだ百世界だけだよ」
主様が静かに言った。
「……はい」
「全世界を調べたわけじゃない」
「はい」
「時期も前後七日間に限定してる」
「はい」
「条件を広げれば、さらに増える可能性がある」
ノルンはゆっくりと主様を見た。
「主様」
「何?」
「少し……洗濯場へ行きたいです」
「現実逃避?」
「違います!」
勢いよく否定した。
だが数秒後。
「……少しだけ、そうかもしれません」
認めた。
主様が吹き出す。
「今日は休んでもいいんだよ?」
「いえ、行きます。調査の続きは戻ってから致します」
「働きすぎじゃない?」
「洗濯場は……」
ノルンは真剣に考えた。
「息抜きです」
今度は主様が黙った。
「それ、マーサさんには言わない方がいいと思う」
「私もそう思います」
「賢い」
◇◇◇
午後遅く。
スカーレット公爵邸の洗濯場へ到着した瞬間、ノルンを待っていたのは世界外存在でも、正体不明の転生介入者でもなかった。
「遅い!」
マーサだった。
「申し訳ありません!」
ノルンは反射的に深く頭を下げた。
「来るなら昼って言ってただろ!」
「予想以上に本来の仕事が長引きまして!」
「こっちも仕事だよ!」
「はい!」
周囲で洗濯物を扱っていた女性達から笑い声が上がる。
リナも桶の向こうから手を振った。
「また人探し?」
「はい!」
「見つかった?」
ノルンは答えようとして、一瞬止まった。
「……増えました」
「何が?」
「候補の方が」
「へえ。大変そうだね」
「はい……」
リナには知る由もない。
二人だった候補が、半日で六人になったなど。
「なら、今日は無心で洗いな」
リナが桶を指した。
「手を動かしてると、案外頭の中も片付くよ」
ノルンは少しだけ目を丸くした後、素直に頷いた。
「はい!」
桶の前へ座り、布を水へ沈める。
石鹸を擦りつけ、汚れた部分を丁寧に揉み洗いする。泡を落とし、水を含んだ布をしっかり絞り、皺を伸ばして干す。
同じ作業を一枚ずつ繰り返す。
劇的なことなど何もない。
世界の秘密も分からないし、正体不明の存在の名前も浮かんでこない。
それでも、手を動かしているうちに不思議と頭の中が静かになっていった。
世界管理も、もしかすると似ているのかもしれない。
一度に全てを解決しようとするから途方もなく感じる。
一つ調べる。
一つ記録する。
一人と話す。
必要なことを、一つずつ積み重ねていく。
「ノルンさん」
柔らかな声に顔を上げると、中庭側の入口にフローラが立っていた。
今日は淡い黄色のドレスを身に着けており、以前よりも表情が穏やかに見える。
「フローラ様」
「お仕事中でしたね」
「はい。何かございましたか?」
「いいえ。何もありません」
予想していなかった返事に、ノルンは少し目を瞬いた。
「では……?」
「少しだけ、顔を見に来ました」
「私の、ですか?」
「はい」
フローラは小さく笑った。
「クラリスと、三日後にお茶をすることになったんです」
「それはよかったですね」
「はい。それで……クラリスには、殿下が来ない日にしたいと伝えました」
ノルンは何も挟まず、続きを待った。
「ちゃんと、自分から言えました」
フローラの声には、小さな達成感があった。
誰かに言われたからでもない。
逃げるためだけでもない。
自分が安心して過ごせる条件を、自分の言葉で相手へ伝えた。
ノルンは自然に笑顔になった。
「それは、とてもよかったと思います」
「はい」
フローラも嬉しそうに頷いた。
「それだけです」
「え?」
「ノルンさんに、それを伝えたかったんです」
少しだけ照れたように笑う。
ノルンは一瞬、何と返せばいいのか分からなくなった。
観察任務とは関係ない。
報告する義務もない。
それでも、フローラはわざわざ自分へ話しに来てくれた。
その事実が、今日一日ずっと重かった胸の奥を少しだけ軽くしてくれる。
「ありがとうございます、フローラ様」
「ノルン!」
直後、背後からマーサの声が飛んできた。
「はい!」
「手が止まってる!」
「あっ!」
フローラが思わず笑う。
「お仕事へ戻ってください」
「はい!」
「では、また」
「もちろんです!」
去っていくフローラを見送ってから、ノルンは再び桶へ向き直った。
さっきより少しだけ、手が軽く動いた。
◇◇◇
同じ頃。
王城の執務室では、アルノルドがセドリックから政務報告を受けていた。
「ローゼン伯爵家にて、三日後に小規模な私的茶会が予定されております」
アルノルドの筆が一瞬止まった。
「参加者は?」
口に出した直後。
セドリックが答える前に、アルノルド自身が目を閉じた。
「……いや。聞かない」
セドリックの視線が僅かに動いた。
「よろしいのですか?」
「フローラが誰とお茶を飲むのか、今の私には知る必要がない」
声にはまだ苦さが残っていた。
それでも、言葉そのものは以前よりずっと落ち着いている。
「安全上の問題は?」
「ローゼン伯爵家側で通常の警備が行われます。現時点で危険を示す情報もございません」
「なら、それでいい」
「承知致しました」
セドリックは何事もなかったように次の報告へ移った。
アルノルドも書類へ視線を戻す。
しかし、気にならないわけではなかった。
誰が来るのか。
何を話すのか。
男はいるのか。
自分の話は出るのか。
知りたいことはいくらでもある。
以前なら、その欲求を「心配だから」という言葉で包み、当然のように調べさせていただろう。
今は。
知らないままにしておく。
それを練習している。
簡単ではない。
むしろ、知ろうと思えば知れる立場にいるからこそ難しかった。
「セドリック」
「はい」
「私、かなり頑張ってると思うんだけど」
「はい」
アルノルドは書類から顔を上げた。
「そこは、もう少し褒めてもいいんじゃない?」
セドリックはしばらく真顔で考えた。
「以前よりは」
「それだけ?」
「大きな進歩です」
「……」
数秒の沈黙の後。
アルノルドは苦笑した。
「まあ、それでいいか」
再び書類へ視線を戻す。
フローラの知らない時間を受け入れる練習は、まだ始まったばかりだった。
◇◇◇
夜。
管理領域へ戻ったノルンを待っていたのは、主様と一枚の大きな記録板だった。
「ただいま戻りました!」
「おかえり」
「調査の続きを?」
「その前に、昼間見つけた六件の共通項を自動照合してみた」
ノルンはすぐに主様の隣へ向かった。
「結果は?」
「全員、二十五年前の同じ十一日間に集中してる」
ノルンの表情が変わった。
「十一日間……」
「うん。偶然で片付けるには狭すぎる」
主様が記録を切り替える。
六人の情報が横一列に並んだ。
「さらに、確認できた範囲では全員の前世死亡地点が同じ」
ノルンは表示された文字を読む。
「日本……」
「そう。地域はバラバラだよ。東京、大阪、北海道、福岡。他にもある」
「年齢は?」
「二十代が中心」
「性別は?」
「男女両方」
「死因は?」
そこで主様が少しだけ間を置いた。
「全員、事故」
ノルンの目が止まった。
「全員ですか?」
「今確認できる範囲ではね」
交通事故。
転落事故。
水難事故。
落下物。
列車事故。
種類は違う。
しかし共通しているのは、どれも本人が事前に死を予測できなかった、突発的な事故だということだった。
「主様」
「うん」
「この方達……選ばれたのでしょうか」
「その可能性はかなり上がったと思う」
「ですが、何を基準に?」
「そこまではまだ分からない」
若い。
日本人。
事故死。
そして二十五年前の短い期間。
ノルンはさらに別の共通点を思い出した。
「前世物品」
「うん」
「カイルさんはスマートフォン。ミレイアさんは音楽再生端末。もしかすると他の方々も、亡くなった時に持っていた何かを一緒に送られているのでしょうか」
「あり得るね」
主様も少し考え込む。
「もしそうなら、物そのものが目的じゃないのかもしれない」
「本人にとって大切な物……」
カイルにとってスマートフォンは、前世の記憶を確認するものだった。
ミレイアにとって音楽再生端末は、水瀬美玲という人間が確かに存在したのだと思わせてくれたものだった。
勝手に人生の行き先を変えている。
その一方で、前世との繋がりを完全には奪わず、むしろ何かを持たせている。
単純な悪意だけでは説明しづらい。
「主様」
「何?」
「相手の目的は、人を苦しめることではないのかもしれません」
「僕もそう思う」
「ですが、本人の意思を確認せず勝手に転生先を変えたことは別問題です」
「うん。それは変わらない」
ノルンはしっかり頷いた。
善意だったから許される。
楽しませるつもりだったから問題ない。
そんな話ではない。
「それから、もう一つ」
主様が記録を切り替えた。
「こっちは、あまり嬉しくない情報」
「……何でしょう?」
「六件全部、今も世界外干渉痕が残ってる」
ノルンの目が細くなった。
「前世物品にですか?」
「カイルとミレイアはそう。他の四人は、まだ物品を直接確認できていないから分からない。でも、本人か、その周辺の何かには残ってる」
「では……二十五年前から今まで、完全には切れていない?」
「可能性が高い」
二十五年。
それだけの間、目に見えない細い糸が繋がったままだったとしたら。
ノルンは昼間確認した外周観測層を思い出した。
相手はこちらを見ている。
こちらへ触れることもできる。
なら。
「主様」
「うん?」
「こちらから、逆に辿れませんか?」
今度は主様が僅かに目を見開いた。
「干渉痕を?」
「はい。相手がこちらへ糸を伸ばしているのであれば、その糸を逆方向へ辿れば……」
主様はすぐに否定しなかった。
むしろ記録へ視線を戻し、しばらく考え込む。
「できるかもしれない」
ノルンの表情が明るくなった。
「では!」
「ただし危険だよ」
すぐに釘を刺された。
「相手が、わざと痕跡を残してる可能性もある」
「罠でしょうか」
「それもある。少なくとも『見つけられるかな?』なんて言ってきた以上、追跡されることを予想してると思った方がいい」
ノルンも表情を引き締める。
「それでも、何もしなければ相手の思う通りですね」
「うん」
主様は少し考えた後、頷いた。
「明日やろう」
「はい」
「カイルのスマートフォンと、ミレイアの音楽再生端末。両方に残っている干渉痕を照合して、共通する経路を逆探知する」
「お任せください!」
「ノルンは触らないよ」
「……」
「ノルン?」
「はい」
「今、何しようと思った?」
「干渉の糸を掴んで引っ張れば、相手がこちらへ出てくるのではないかと」
「掴まない」
「ですが」
「引っ張らない」
「もしかしたら」
「出てこない」
「……承知致しました」
ノルンは少しだけ残念そうに答えた。
主様はそんな彼女を見ながら、苦笑する。
「本当に、見つけた後の方が大変そうだなあ」
「主様?」
「何でもないよ」
◇◇◇
その夜、ノルンは新しい観察記録の頁を開いた。
『世界外干渉関連候補――現時点六名』
その下へ、現在判明している名前を書き込んでいく。
カイル。
ミレイア。
レオン。
セラ。
名前未確認二名。
『共通点:二十五年前の十一日間に転生事象が集中』
『前世世界:地球系世界・日本』
『前世死亡:事故による突発死が中心』
『正規転生記録なし、または転生途中に記録上消失』
『世界外干渉痕あり』
『前世物品同行の可能性あり』
『世界外干渉痕は現在も継続している可能性が高い』
そこまで書いたところで、ノルンの筆が止まった。
少し迷った後、さらに一文を加える。
『正体不明存在は、悪意よりも好奇心を優先して行動している可能性あり』
そして、そのすぐ下へもう一文。
『ただし、対象者本人の意思を確認せず人生の行き先を変更した事実は変わらない』
横から記録を読んでいた主様が、小さく笑った。
「そこは絶対に譲らないね」
「はい」
「いいと思うよ」
「ありがとうございます」
ノルンも少しだけ笑った。
さらに今日判明した管理領域への干渉について追記する。
『正体不明存在は、管理領域外周観測層を逆方向から利用している可能性あり』
『管理領域本体への侵入痕なし』
『防壁破損なし』
『外周観測層への接続元は特定不能』
最後の一文を書き終え、ノルンは筆を置いた。
管理領域は静かだった。
昨日のように突然文字が浮かぶこともない。
窓の外には無数の世界が、いつもと変わらない光を放っている。
「主様」
「何?」
「明日、見つけられるでしょうか」
主様はすぐには答えなかった。
少しの間だけ窓の外を眺め、それからノルンへ視線を戻す。
「分からない」
「はい」
「でも、相手も見つけてほしいんだと思う」
「なぜでしょう?」
「本気で隠れたいなら、『見つけられるかな?』なんて言わないだろ?」
ノルンは数秒考えた。
「……確かに」
「だから明日は」
主様の表情が少しだけ真剣になる。
「こっちから、その遊びに付き合ってみよう」
ノルンの目が僅かに大きくなった。
「主様」
「何?」
「意外と負けず嫌いでいらっしゃいますね」
主様が止まった。
「ノルンにだけは言われたくないなあ」
「なぜですか!」
いつものように、ノルンの声が管理領域へ響く。
その後もしばらく二人は記録を整理していたが、その夜、正体不明の存在から新しい文字が届くことはなかった。
昨日までなら、その沈黙に少し安心していたかもしれない。
けれど今は違う。
何も起こらないことすら、相手がどこかでこちらの動きを眺めながら、次に何をするのか楽しみに待っているように思えてしまう。
ノルンは最後にもう一度、明日の逆探知に必要な記録を確認してから頁を閉じた。
カイル。
ミレイア。
そして、新たに見つかった四人の候補者。
二十五年前の短い期間に、少なくとも六人。
これが全てなのか。
なぜ日本人ばかりなのか。
なぜ事故死した者を選んだのか。
なぜ前世の持ち物まで一緒に送り込んだのか。
そして何より。
何者が、何のためにそんなことをしたのか。
答えはまだ一つも出ていない。
けれど、糸は見つかった。
ならば。
あとは辿るだけだ。
ノルンは知らなかった。
翌日、カイルのスマートフォンとミレイアの音楽再生端末に残された二本の糸を逆に辿った先で見つかるものが、正体不明の存在そのものではないことを。
二十五年前。
六人の転生者が送り込まれた、そのさらに向こう側。
世界記録にも。
神域の記録にも。
管理領域の記録にすら存在しない場所。
何者かが残した、巨大な「遊び場」の痕跡が。
ノルン達に見つけられるのを待つように、今も世界と世界の狭間に残されていることを。




