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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第百四十六話 誰も決めなかった呼び名

 朝の管理室には、いつもより少しだけ慌ただしい空気が流れていた。窓の外には薄い雲が広がり、夜の間に降ったらしい雨が建物の庇から時折滴り落ちている。廊下では書類を抱えた職員が足早に行き交い、離れた席からは端末の表示について相談する声が聞こえていた。


 ノルンが自席へ着くと、机の上には主様からの短い伝言が置かれていた。


『午前中、別件の確認あり。歴史資料は先に読んでいていいよ。お茶はいつもの場所。』


 丸みのある文字を眺め、ノルンは小さく笑った。


 最近、主様は歴史調査へ同席することが増えている。最初はノルンの仕事を面白がっているだけかと思っていたが、今では資料の読み方そのものを楽しんでいるらしい。


 もっとも、昨日のように重要な表記が見つかったときには、先に結論を知りたがることもある。


(今日は、最初から一人で読んでみましょうか)


 ノルンは伝言を机の端へ寄せ、業務端末を起動した。


 最初に確認したのは、現在の観測状況だった。


 低強度識別不能反応は、引き続き三件のままである。新たな通知対象事象も、閾値未満の追加変動もなく、観測密度は通常のまま維持されていた。


 既存の三件についても、発生源、同一源性、意図、意味、音声・言語性、特定人物との関係を判断できる新情報はない。


 ノルンは必要な更新項目だけを確認し、詳細画面を閉じた。


 続いて生活記録へ移る。


 ルークは朝食後、鳥類図鑑を開いていた。昨日見かけた鳥について、腹部が白い二種類の候補を比べていたが、尾の形を確認できなかったため、まだどちらとも決めていないらしい。


『本人、「次に見えたら、こっちか分かるかも」と発言。職員が「今日は雨だから来ないかもしれない」と伝えると、「じゃあ絵を描く」と回答。』


 その後、ルークは図鑑を閉じ、二本のリンガの木を描き始めている。


 ノルンはその記録を読み、少しだけ表情を緩めた。


 鳥が来るかどうかで、一日の価値が決まるわけではない。来なければ別のことをして過ごし、また見かけたときに観察すればいい。


 ルークは、誰かに待ち続けることを求められていなかった。


 それは、これまで守ってきた生活の一部だった。


     ◇


 ミレイアは、余り布を使った小さな針山の制作を始めていた。


 完成した袋を机の横へ置き、布を二枚重ねて大きさを確認している。エリスから中へ詰める材料について尋ねられると、以前使ったものの残りを確認してから決めると答えていた。


『本人、「袋より小さいから早くできるかも」と発言。ただし、完成予定日は設定せず。』


 接続管理欄には変化がない。


『次回接続:まだ決めていない』

『現時点で接続予定なし』

『本人希望時、再検討可能』


 ノルンは記録を閉じた。


 フローラは母親との買い物を終え、購入した布の色について相談していた。マリーとの次の外出はまだ決まっておらず、アーノルドからの接触もない。


 エリオは盤上遊戯の中央領域について、新しい調整案を考えていた。


 中央へ入ることで次の手番の選択肢が増える仕組みは残しつつ、終盤に全員が集まりすぎないよう、使用できる回数を制限する案らしい。


『本人、「一回だけなら、いつ使うか考えることになる」と発言。ラウル、「それなら面白そう」と回答。』


 ノルンは頷いた。


 問題を解決しようとして別の問題が出ることはある。


 けれど、それは必ずしも失敗ではない。


 試して、考えて、また変える。


 エリオにとって、その過程そのものが楽しみになっているようだった。


     ◇


 通常業務を終えると、ノルンは歴史調査画面を開いた。


 今日確認する資料は、


『外在反応識別呼称の非公式定着状況調査』


 である。


 昨日の資料では、『第七外在個体』という完全な表記が確認された。


 しかし、それは正式管理語ではなかった。


 むしろ、正式管理語へ昇格できない理由を検討するための仮想評価語として使用されていた。


 個体の存在が確認されたわけでも、特定の外在反応群が一つの個体へ対応すると判断されたわけでもない。


 それでも、後世の資料には同じ表記が残っている。


 その間に何が起きたのか。


 今日の資料は、制度が正式採用しなかった言葉が現場でどの程度使われていたのかを調べたものだった。


 ノルンは作成時期と調査対象を確認し、本文を開いた。


     ◇


 調査の目的は明確だった。


『正式管理語として採用されていない識別呼称について、現場での使用頻度、使用目的、理解内容、誤認の有無を確認する。』


 調査対象は、記録管理、研究支援、接続安全、教育、生活支援の五部門。


 対象職員は六十四人。


 回答者は五十八人だった。


 最初に調べられたのは、非正式な呼称を使用した経験の有無である。


 五十八人中、三十七人が、


『正式識別子以外の短縮表現を使用したことがある』


 と回答していた。


 そのうち二十九人は口頭でのみ使用。


 六人は個人用メモでも使用。


 二人は非正式な作業用資料へ記載した経験があった。


 ただし、正式管理文書へ独自の呼称を書き込んだと回答した者はいない。


 ノルンは数字を確認した。


(思っていたより多いですね)


 しかし、ここで重要なのは使用人数だけではない。


 同じ言葉を使っていても、同じ意味で理解しているとは限らない。


 ノルンは次の項目へ進んだ。


     ◇


 最も多く使われていたのは、


『七番関連』


 だった。


 使用経験者は二十一人。


 次いで、


『第七』

『七系』

『七番側』

『第七対象』


 という表現が並んでいた。


 しかし、各表現が何を指すかを尋ねた結果は大きく分かれている。


『REF-7を含む検索結果』


『R-7を中心とした長期追跡資料』


『旧SET-7を含む特徴比較資料』


『接続検討に関連する資料群』


『複数体系をまとめて探すための便宜的な言葉』


『一つの外在発生源に関係する可能性のある資料』


『外在側に存在する一つの対象』


 ノルンは回答一覧をゆっくり読み進めた。


 前半の回答は、資料を探すための言葉として理解している。


 後半になるほど、資料のまとまりが外在側の何かへ置き換わっている。


 しかも、同じ『第七』という言葉を使った者の間でも、理解は一致していなかった。


『同一の対象を意味すると回答した者の割合は、使用語によって異なる。ただし、どの語についても単一対象理解が全回答者の多数を占める結果は確認されなかった。』


 ノルンはその一文を管理メモへ記録した。


 呼称は広がっていた。


 しかし、一つの存在について共通理解が成立していたわけではない。


     ◇


 次の項目には、少し意外な調査結果があった。


 正式識別子を正確に理解している職員ほど、非正式呼称を使わないとは限らなかったのである。


 むしろ、複数体系を横断して仕事をする経験豊富な職員の中に、短縮表現を使う者が多かった。


 理由として挙げられていたのは、


『毎回正式名称を列挙すると会話が長くなる』


『相手も同じ資料群を知っている場合は短く言った方が早い』


『検索語として使うと必要な資料へすぐ到達できる』


 といったものだった。


 ノルンは少し考え込んだ。


 正式な意味を理解している者が、便利さのために短い言葉を使う。


 その言葉を、別の者が聞く。


 聞いた者は、元の複雑な識別体系を十分に理解していないかもしれない。


 すると、話し手にとっては単なる省略だった言葉が、聞き手にとっては正式な対象名のように聞こえる。


 資料には、その問題を示す聞き取り記録があった。


『質問:あなたが「第七」と言う場合、何を指していますか。』


『回答:その場で扱っている資料によります。R-7のこともあれば、検索結果全体のこともあります。』


『質問:相手も同じ意味で理解していると確認していますか。』


『回答:普段は確認していません。』


 ノルンは指を止めた。


 話し手自身は、一つの対象だと思っていない。


 しかし、その意味が相手へ正しく伝わっている保証もない。


     ◇


 午前の別件を終えた主様が、ノルンの席へやってきた。


「どこまで進んだ?」


「非正式呼称の使用状況です。五十八人の回答者のうち、三十七人が短縮表現を使った経験があるそうです」


「結構多いね」


「はい。ただし、使っている言葉の意味は一致していません」


 ノルンは調査結果を簡単に説明した。


 主様は隣の椅子へ座り、画面を見ながら腕を組んだ。


「詳しい人ほど短く言うことがあるんだ」


「そうです。正式名称を知っているからこそ、会話では省略しても問題ないと思う場合があるようです」


「でも聞いた人が同じだけ知ってるとは限らない」


「はい」


 主様は少し考えた後、苦笑した。


「僕もやりそう」


「主様は、すでに何度かやっています」


「えっ」


「『七番の相手』という表現を使いかけたことがあります」


「ああ……あったね」


「そのたびに確認しました」


「ちゃんと止めてくれて助かったよ」


 主様は素直にそう言った。


 ノルンは少し意外に思ったが、何も言わず次の資料へ進んだ。


     ◇


 調査では、非正式呼称がどのように広がるかについても聞き取りが行われていた。


 最も多かった回答は、


『先輩職員が使っていた』


 だった。


 次いで、


『検索画面で見た』

『会議で聞いた』

『個人メモで見た』

『自分で短くした』


 という回答が続く。


 しかし、最初に誰が使い始めたのかを特定できる記録はなかった。


 複数の職員が、別々の時期に同じような短縮表現を作っていた可能性がある。


『非正式呼称の起源を単一の発案者へ帰属させる根拠は確認されない。』


 ノルンは頷いた。


 これまで見てきた流れとも一致する。


 管理番号の一致。


 検索結果のまとまり。


 長期追跡。


 接続可能性の検討。


 それぞれ別の経路から、同じような呼称が生まれていた。


 だからこそ、誰か一人が『第七』という名前を作ったと考える必要はない。


     ◇


 資料の中盤で、ノルンは目的の表記を見つけた。


『第七外在個体』


 使用経験を尋ねる項目である。


 五十八人中、使用経験ありと回答した者は二人だった。


 主様が画面へ顔を近づけた。


「二人」


「はい」


 ノルンは続く説明を確認した。


 一人目は、教育資料の仮想評価語として見たことがあり、その表記を議論の中で引用したという。


 つまり、正式名称として使ったわけではない。


 二人目は、非正式な会話の中で一度使用した経験があった。


 その人物への聞き取りが残っていた。


『質問:「第七外在個体」という表現を使った理由は何ですか。』


『回答:第七対象という言い方だと曖昧だったので、外在側に個体がいる場合の話だと分かるようにしました。』


『質問:その個体の存在は確認されていますか。』


『回答:確認されていません。仮にいるなら、という意味です。』


『質問:単一個体であると判断していますか。』


『回答:いいえ。』


 ノルンは最後まで読んだ。


 この人物は、単一個体の存在を確認したと考えていたわけではない。


 仮定の話をするときに、分かりやすいと思って『個体』という言葉を使った。


 しかし、聞き手が『仮にいるなら』という前提を共有していたかどうかは、別の問題である。


「この人も、存在すると言ってるわけじゃないんだね」


「はい」


「じゃあ、まだ正式な第七外在個体はない」


「少なくとも、この調査で確認された二例からは成立しません」


     ◇


 続く聞き取りには、もう一つ重要な情報があった。


『質問:その表現を誰かから聞いて使いましたか。』


『回答:覚えていません。以前どこかの資料で見た気もしますが、自分で言い換えた可能性もあります。』


 ノルンは眉を寄せた。


 教育資料には、仮想評価語として同じ表記が存在する。


 そのため、そこから伝わった可能性はある。


 しかし本人は覚えていない。


 自分で言い換えた可能性も否定できない。


 つまり、表記が一致したからといって、直接の伝播経路まで確定できるわけではない。


 ノルンは管理メモへ、


『非正式会話での使用例一件確認。仮定表現であり、個体存在の主張ではない。教育資料からの伝播経路は未確認』


 と記録した。


     ◇


 調査の後半では、非正式呼称が誤解を生んだ事例が整理されていた。


 その中に、生活支援部門の職員が関わった例があった。


 ある職員が、引継ぎの場で、


『第七側の接続可能性については、まだ何も決まっていない』


 と説明した。


 話し手の意図は、


『R-7関連資料を含む接続条件検討について、実施予定はない』


 というものだった。


 しかし聞き手は、


『第七という外在側の相手が存在し、その相手との接続を検討している』


 と理解した。


 その後、聞き手は別の職員へ、


『第七の相手はまだ接続しないらしい』


 と伝えている。


 ノルンは静かに息を吐いた。


 最初の言葉には、単一の相手が確認されたという意味はなかった。


 しかし二人目の理解では『相手』が生まれ、三人目へ伝わる段階では、その存在が前提のようになっている。


 資料には、引継ぎの記録を確認した結果が記されていた。


『正式な接続対象の確認、接続実施決定、外在側個体確認はいずれも存在しない。』


 誤解は訂正されていた。


 ただし、訂正後も聞き手の一人が、


『でも何か一つのものがあるから、ずっと調べているのでは』


 と述べたことが残されている。


 ノルンはその言葉を見つめた。


 長く調べている。


 だから、何か一つのものがあるはずだ。


 その推論は、人間にとって自然なのかもしれない。


 けれど、長く調べている理由が『同じものかどうか分からないから』である場合、その推論は逆になってしまう。


     ◇


「これ、怖いね」


 主様が静かに言った。


「はい」


「誰も嘘をつこうとしてないのに、話が変わってる」


「そうですね」


 ノルンは画面から目を離し、窓の外を見た。


 雲の切れ間から日が差し込み、濡れていた石畳が少しずつ乾き始めている。


「最初の職員は、正式な接続予定がないことを伝えたかったのでしょう。けれど、そのために使った短い言葉が、相手の存在を前提にした説明として受け取られてしまいました」


「言葉を短くした分、聞いた人が自分で補っちゃったんだ」


「はい。ただし、補った内容が必ずしも正しいとは限りません」


 主様は頷いた。


「じゃあ、ちゃんと全部説明すればいいのかな」


「それも難しいと思います。すべての正式識別子を列挙すれば、今度は必要な情報が伝わりにくくなりますから」


「短すぎてもだめ。長すぎてもだめ」


「だからこそ、何を伝える必要があるのかを先に決めるべきなのでしょう」


 ノルンは少し考えた後、続けた。


「この場合、最も重要なのは『接続予定はない』『相手の存在も確認されていない』という二点だったはずです」


 主様はしばらく黙ってから、小さく笑った。


「ノルン、最近そういう説明が上手くなったね」


「そうでしょうか」


「うん。前はもっと全部説明しようとしてた」


 ノルンは否定しようとして、やめた。


 セレナにも似たことを言われたばかりだった。


 必要な情報へ届くこと。


 そのために、情報をどう整理するか。


 それは今の仕事でも、歴史調査でも、同じように大切なのかもしれない。


     ◇


 資料の結論では、非正式呼称を完全に禁止する案は採用されなかった。


 理由は、禁止しても現場で別の短縮表現が生まれる可能性が高く、むしろ隠れた使用によって誤解の訂正が難しくなるためだった。


 代わりに、三つの対応が決定されている。


 第一に、正式文書では正式識別子を使用する。


 第二に、口頭で短縮表現を使う場合は、その場で何を指しているか明示する。


 第三に、外在側の発生源、主体、個体が確認されていない段階では、それらが存在すると受け取られる呼称を避ける。


 さらに、教育資料へ次の注意文が追加された。


『呼びやすい言葉は、確認された事実の代わりにはならない。』


 ノルンはその一文を長く見つめた。


 簡潔だが、これまでの調査で何度も確認してきた問題をよく表している。


 呼びやすい。


 覚えやすい。


 検索しやすい。


 会話で使いやすい。


 それらは実務上の利点である。


 しかし、存在の証明ではない。


     ◇


 資料の最後には、次の調査へ向けた提言が残されていた。


『非正式呼称の定着状況のみをもって主体・個体評価を変更してはならない。』


『長期追跡群R-7を含む複数の関連記録について、主体・個体評価の再検討が予定されている場合、その判断は反応特徴、発生条件、時間的継続性、独立検証可能性等の証拠に基づいて行うこと。』


『呼称の使用頻度、検索回数、教育上の便宜、管理番号の継承は、主体・個体確認の証拠として扱わない。』


 ノルンは関連資料一覧を開いた。


 次の文書は、


『長期追跡対象における主体・個体評価再検討』


 である。


 その後には、


『外在側長期管理呼称の運用整理』


 が続く。


 主様が画面を見ながら言った。


「次は、いよいよ本当に個体がいるかどうかの評価なんだね」


「そうです。ただし、確認されるとは限りません」


「うん。そこは分かってる」


 主様は少し笑った。


「でも、今度は言葉の話じゃなくて、証拠の話になるんだ」


「はい」


 ノルンは頷いた。


 ここまでの資料は、主に名称や管理上のまとまりが誤解を生む過程を示していた。


 次は、そもそも外在側に一つの主体や個体が存在すると判断できるのか。


 その根拠を改めて検討する資料である。


 調査は、ようやく別の段階へ進もうとしていた。


     ◇


 午後、セレナから表示試験の準備について連絡が届いた。


 参加者六人への事前説明が終わり、試験用画面も最終版へ近づいているらしい。


 セレナは、


『案内文を短くしたら、試験前確認では前より読みやすいって言われた。ただ、短くしたことで何を確認すればいいか分からなくなる人がいないか、当日ちゃんと見る』


 と送ってきた。


 ノルンは少し考えてから返した。


『必要な判断ができるかを確認するなら、案内文を読んだかどうかだけでなく、実際にどの項目を開いたかも見るとよさそうです』


『それも記録する予定。あと、全部開かなかった人を失敗扱いしないようにする』


『賛成です』


 セレナから、


『前のノルンなら、全部開いた方が安全って言ってたかもね』


 と返ってきた。


 ノルンは少し笑った。


『そうかもしれません』


『変わったね』


 その言葉に、ノルンはすぐには返事をしなかった。


 変わった。


 自分では大きく変わったつもりはない。


 ただ、九人の生活を見守り、接続について考え、過去の記録を調べるうちに、何かを知ることと、その知識を誰かへ渡すことは別だと感じるようになった。


 必要な情報を、必要な相手へ、必要な形で届ける。


 それは、すべてを隠さず話すこととも、すべてを一度に話すこととも違う。


『少しずつ、考え方が変わっているのかもしれません』


 そう返すと、


『いい変化だと思う』


 と届いた。


 ノルンは端末を閉じ、しばらく静かに座っていた。


     ◇


 夕方、ミレイアの生活記録に小さな更新が入った。


 針山の外側を縫い終え、中へ詰める材料を選んだらしい。


 エリスが「今日中に完成する?」と尋ねると、ミレイアは、


『急がなくていい。明日でもいいし』


 と答えていた。


 ノルンはその記録を読み、少しだけ安心した。


 何かを始めたからといって、すぐに完成させる必要はない。


 それは裁縫でも、接続でも、同じように見える。


 けれど、ミレイア自身がその二つを結びつけて考えているわけではない。


 ノルンは余計な意味を付けず、生活記録を保存した。


 ルークの方では、午後に鳥が一羽来たものの、昨日と同じ鳥かどうかは確認できなかった。


 本人は、


『今日はちがうかも』


 と話し、図鑑を開いて別の候補を探している。


 鳥を一種類へ決めることより、違いを見つけること自体を楽しんでいるようだった。


     ◇


 終業前、ノルンは歴史調査の管理記録を更新した。


『「外在反応識別呼称の非公式定着状況調査」を確認。五部門六十四人を対象とし、五十八人が回答。三十七人が正式識別子以外の短縮表現を使用した経験あり。主に口頭使用であり、正式管理文書への独自呼称記載は回答上確認されず。』


『「七番関連」「第七」「七系」「七番側」「第七対象」等が使用されていたが、指示範囲と理解内容は一致していない。資料検索上の省略として使う者と、外在側の一対象を想定する者が混在。単一対象理解が全回答者の多数を占める結果は確認されない。』


『経験豊富な職員も短縮表現を使用。話し手が正式体系を理解していても、聞き手が同じ意味で理解するとは限らない。非正式呼称の起源を単一発案者へ帰属させる根拠なし。』


『「第七外在個体」の使用経験者は二人。一人は教育資料の仮想評価語を引用したのみ。もう一人は非正式会話で一度使用したが、「仮に外在側に個体がいるなら」という条件付き表現であり、個体の存在や単一性を確認したとの主張ではない。教育資料からの伝播経路は未確認。』


『「第七側の接続可能性」という口頭説明が、聞き手により「第七という相手との接続」と理解され、さらに別の職員へ伝わる際に「第七の相手」と変化した事例を確認。正式な接続対象確認・接続実施決定・外在側個体確認はいずれも存在せず、誤解は訂正された。』


『非正式呼称の完全禁止は不採用。正式文書では正式識別子を使用し、口頭で短縮する場合は指示範囲を明示し、未確認の主体・個体が存在すると受け取られる表現を避ける方針。』


『結論:呼称の普及、検索回数、教育上の便宜、番号継承は主体・個体確認の証拠ではない。「第七外在個体」の正式成立は依然未確認。』


『次の資料:「長期追跡対象における主体・個体評価再検討」。後続に「外在側長期管理呼称の運用整理」。』


 ノルンは記録を読み返し、保存した。


 今日の資料で、少なくとも一つのことははっきりした。


 『第七外在個体』という呼称は、誰かが正式に決めたから広がったわけではない。


 少なくとも、この時点の記録ではそうだった。


 複雑な管理体系を短く呼ぶために、似た言葉が複数の場所で使われた。


 その一部が、外在側に一つの相手がいるという理解へ変わっていった。


 けれど、それは確認された事実ではなかった。


     ◇


 帰り支度をしていると、私用端末が震えた。


 ミサキからだった。


『湖の町の地図、もう一回見てたんだけど、四軒目の近くに小さい喫茶店があるみたい』


 ノルンは思わず笑った。


 古書店四軒を回るだけでも楽しそうだと思っていたが、ミサキはその周辺まで調べているらしい。


『喫茶店ですか。休憩によさそうですね』


『うん。歩き疲れたら寄れるかなって』


『いいですね。私も調べてみます』


 少しして、


『ノルン、こういう予定立てるの好き?』


 と届いた。


 ノルンは考えた。


 予定を立てること自体は嫌いではない。


 仕事ではむしろ、予定を細かく確認することが多い。


 けれど、今回の楽しさは少し違う。


 ミサキが見つけた店を一緒に見て、どこへ寄ろうかと考える。


 晴れれば湖の町。


 雨なら焼き菓子。


 どちらでもいいと思えるのは、予定そのものより、一緒に過ごす時間が楽しみだからだ。


『好きです。でも今回は、ミサキさんと一緒に考えるのが楽しいです』


 送信した後、ノルンは少しだけ照れた。


 以前なら、もう少し控えめな言い方を選んでいたかもしれない。


 しかし、今は自分の気持ちを必要以上に隠す理由もない。


 返事は少し遅れて届いた。


『私も。だから、まだ行ってないのにもう楽しい』


 ノルンは画面を見つめ、自然と笑みを浮かべた。


『私も同じです』


 送信すると、


『じゃあ、当日も楽しもうね』


 と返ってきた。


『はい。楽しみにしています』


 その後、ミサキから小さな笑顔の印が届き、会話はそこで終わった。


     ◇


 管理室を出ると、雨上がりの空には淡い夕焼けが広がっていた。


 建物の間を抜ける風は少し冷たかったが、昼間の湿り気は薄れ、石畳には乾いた部分が増えている。通り沿いの店では夕食の準備が始まり、窓から漏れる明かりが帰宅する人々の足元を柔らかく照らしていた。


 ノルンは歩きながら、今日の歴史資料を思い返した。


 誰も正式に決めなかった呼び名。


 それでも、便利だから使われた。


 使われるうちに意味が変わり、聞く人によって違うものを指すようになった。


 そして、いつの間にか一つの存在を示す言葉のように扱われることがあった。


 けれど、言葉が広がったことと、そこに一つの存在が確認されたことは違う。


(次は、証拠そのものを確認しましょう)


 『長期追跡対象における主体・個体評価再検討』。


 その資料では、呼称ではなく、外在反応の特徴や継続性、発生条件などが改めて検討されるはずだ。


 もし何か新しい事実が判明していたなら、それを確認する。


 判明していなかったなら、そのまま受け止める。


 どちらであっても、先に結論を決める必要はない。


 ノルンはそこで歴史調査について考えるのをやめ、私用端末の予定表を開いた。


 その次の週の木曜日。


 予定名は、まだ『ミサキさん』のままである。


 晴れたら湖の町。


 雨なら焼き菓子。


 四軒の古書店に加え、小さな喫茶店という候補も増えた。


 予定は少しずつ具体的になっている。


 それでも、すべてを決める必要はなかった。


 当日、二人で歩きながら決めることがあってもいい。


 ノルンは予定表を閉じ、夕暮れの街を歩き続けた。


 歴史の中では、名前だけが先に歩いていった。


 けれど今、自分が楽しみにしているのは、名前ではなく、その人と過ごす時間だった。


 その違いを、ノルンは以前より少しだけ自然に受け止められるようになっていた。

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