第百四十五話 正式な名前にならなかった言葉
朝の管理室には、紙をめくる音と、遠くで誰かが交わす挨拶の声が穏やかに響いていた。窓の外には薄い雲が広がっているものの、雨が降りそうな気配はなく、建物の間を抜ける風が街路樹の枝をゆっくり揺らしている。
ノルンは自席へ着くと、鞄から私用端末を取り出し、予定表を一度だけ確認した。
その次の週の木曜日。
予定名は『ミサキさん』。
晴れていれば湖の町へ行き、天気が悪ければ焼き菓子を食べに行く。まだ天候も交通手段も確認していないため、予定は仮のままだが、二人で会うことについては話がまとまっていた。
(……予定名は、やっぱり少し恥ずかしいですね)
自分で入力したのだから、誰に見せるわけでもない。それでも画面を開くたびに意識してしまうのは、単に予定が楽しみだからなのか、それとも別の理由があるのか。
ノルンはその問いに答えを出さず、私用端末を鞄へ戻した。
業務を始める時間である。
「おはよう、ノルン」
主様がいつもの飲み物を持って近づいてきた。
「おはようございます」
「今日は何を確認してたの?」
「予定です」
「湖の町?」
「天候次第です。まだ確定ではありません」
「そういう意味じゃなくて、ミサキちゃんと会う予定のこと」
ノルンは飲み物を受け取りながら、主様を見た。
「……はい」
「楽しみ?」
「楽しみです」
以前なら、もう少し説明を付け加えていたかもしれない。
けれど、今回はそれだけで十分だった。
主様は一瞬だけ意外そうな顔をした後、嬉しそうに笑った。
「そっか。いいね」
「何か言いたそうですね」
「言わない方がいいこともあるって、最近学んだから」
「本当に学んでくださったなら助かります」
「信用ないなあ」
主様は笑いながら自席へ戻っていった。
ノルンは温かい飲み物を一口飲み、業務端末を起動した。
◇
現在の観測状況に変化はなかった。
低強度識別不能反応は三件のままであり、新しい通知対象事象も、閾値未満の追加変動も確認されていない。観測密度は通常のまま維持され、発生源や対象、同一源性、意味、意図、音声・言語性、既知分類との関係、特定人物との関係についても、新たに判断できる情報は増えていなかった。
ノルンは変更表示を確認し、必要な範囲だけを開いてから閉じた。
続いて生活記録へ移る。
ルークは朝から共有室で絵を描いていた。
昨日の果物の絵へ色を加えた後、鳥類図鑑を開き、以前見かけた茶色い鳥に似た種類を探していたらしい。ただし、尾や腹部の特徴を十分に確認できていないため、本人も一種類へ決めようとはしていなかった。
『本人、「これかもしれないけど、こっちも似てる」と発言。職員が「次に見えたら分かるかな」と尋ねると、「しっぽ見えたら」と回答。』
その後、ルークは図鑑を閉じ、リンガの木の絵を描き始めている。
過去の名前や接続についての状態変化はない。
本人が望んでいる『九人ともいつか会いたい』という気持ちも、現在の接続予定とは切り離されたままだった。
ノルンは記録を閉じた。
次に確認したミレイアは、完成した袋を普段の裁縫道具入れとして使っている。灰緑の紐は今の長さで問題なく、余り布で次に何を作るかについては、まだ決めていないらしい。
エリスとの会話には、
『小さい針山なら作れるかな』
という言葉が残っていた。
しかし実際に作り始めたわけではない。
接続管理欄にも変更はなく、次回接続は未決定、現時点で接続予定なし、本人が希望した場合に再検討可能という状態が維持されている。
フローラは母親と買い物へ出かける予定を立てており、マリーとの次の外出はまだ決まっていない。アーノルドからの接触もなく、本人が望んでいない再会を準備する動きは確認されていなかった。
エリオはラウルと盤上遊戯の試作を続けている。
中央領域へ入った場合の選択肢を増やす案は、以前より面白くなったものの、今度は終盤に中央へ集まりすぎるという問題が出ていた。
『本人、「真ん中が人気すぎる」と発言。ラウル、「前は誰も来なかった」と返答。本人笑う。』
ノルンも少しだけ笑った。
遊びの調整に正解は一つではない。
本人が楽しみながら試せているなら、それでよいのだろう。
◇
午前の通常業務を終えると、ノルンは歴史調査画面を開いた。
今日の資料は、
『統合索引語から正式管理語への昇格基準』
である。
昨日確認した『外在側識別呼称・教育利用可否』では、複数の管理体系を横断する補助呼称の正式採用が見送られていた。
それでも現場では『第七』『七番側』『第七対象』『第七関連資料』といった言葉が使われ、統合索引でも検索互換のために一部が残されていた。
正式名称ではない言葉が、実務の中で使われ続ける。
では、どのような条件を満たせば正式管理語へ昇格できるのか。
その判断基準を定める資料だった。
「今日は言葉を正式にする条件?」
主様が椅子を運んできた。
「はい。ただし、特定の言葉が正式になったと決まったわけではありません」
「分かってる。まず基準を見るんだよね」
「その通りです」
「今日は先回りしないよ」
「助かります」
主様は少し得意そうな顔をした。
ノルンは資料を開いた。
◇
冒頭には、制度上の問題が整理されていた。
『統合索引へ登録された非正式語は、正式資料への到達性を確保するために保持される。しかし、検索結果へ安定して到達できることにより、利用者が当該語を正式な管理概念として理解する事例が確認されている。』
続いて、
『検索語としての有用性と、正式管理語としての妥当性は別に評価しなければならない。』
と明記されていた。
「検索できるから正式、ではない」
「はい」
主様は頷いた。
資料には、正式管理語へ昇格するための条件が六つ示されていた。
第一に、指示範囲が明確であること。
第二に、既存の正式管理語と重複しないこと。
第三に、利用者間で意味が一致すること。
第四に、対象の存在や同一性について、確認されていない前提を含まないこと。
第五に、管理上の必要性があり、既存の表現では代替できないこと。
第六に、誤解が生じた場合に訂正できる構造を持つこと。
ノルンは六つ目で指を止めた。
「訂正できる構造……」
「どういうこと?」
「例えば、後から一つの記録群が二つの発生源へ分かれたと分かった場合、名前を修正しても過去の記録が誤ったまま残らないようにする、という意味だと思います」
「名前を変えたら全部終わり、じゃないんだ」
「はい。古い資料や検索語、教育記録に残る影響も考えなければなりません」
主様はしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
◇
基準の試験には、実際に使用されていた非正式語が用いられていた。
『七番関連』
指示範囲は不明確。
利用者によって意味が異なる。
対象の同一性を暗示する場合がある。
既存の正式識別子で代替可能。
結果は、
『正式管理語への昇格不可』
だった。
次に、
『第七対象』
が評価されていた。
こちらも不採用である。
理由はさらに明確だった。
『対象という語が、単一の外在発生源・主体・個体を想起させる。現時点でそれらの同一性は確認されていない。』
ノルンは結果を確認してから、次の項目へ進んだ。
『第七外在対象』
主様が小さく息を呑んだ。
「これも評価されたんだ」
「はい」
統合索引の聞き取りで確認された非正式表現である。
評価結果は、
『正式管理語への昇格不可』
だった。
理由は、
『「第七」が何の順序を示すか定義されていない。外在対象の存在・単一性を前提とする。既存の複数識別体系との対応範囲が一致しない。』
と記されている。
「やっぱりだめだった」
「この時点では、そうです」
ノルンは画面を見つめた。
正式管理語への昇格基準を作ったことで、曖昧な呼称が正式になったわけではない。
むしろ、正式にできない理由が整理された。
◇
次の項目には、
『第七外在個体』
という言葉があった。
ノルンの指が止まった。
主様も画面へ顔を近づける。
「……出た」
「はい」
後世の資料で見かけた呼称と、同じ表記だった。
しかしノルンはすぐに判断せず、評価欄を開いた。
『提案経路:非正式呼称の正式管理語化に関する仮想評価。』
『使用実態:当該時点の正式文書における採用例なし。』
『評価目的:「対象」を「個体」へ置換した場合、曖昧性が解消するかを検討する。』
主様は少し肩の力を抜いた。
「正式に使われてたわけじゃないんだ」
「はい。少なくともこの資料では、仮想評価用の名称です」
続く評価結果は、
『昇格不可』
だった。
理由は簡潔だった。
『「個体」は「対象」よりも強く、単一の存在単位を示す。単一発生源・単一主体・単一個体のいずれも確認されていない状態で使用できない。』
ノルンはその一文を二度読んだ。
ここで初めて、『第七外在個体』という完全な表記が、正式管理語への昇格を検討する資料へ現れた。
しかし採用されたのではない。
むしろ、使用できない名称の例として挙げられていた。
「これ、重要ですね」
ノルンが言う。
「うん。言葉そのものはあった」
「ただし、当時すでに一般的に使われていたかどうかは分かりません。仮想評価用として作られた可能性があります」
「後の呼び方の元になったかも分からない」
「はい」
主様は頷いた。
ノルンは記録欄へ、
『表記初確認。ただし仮想評価・不採用』
と入力した。
◇
資料の後半では、正式管理語へ昇格させない言葉をどう扱うかが議論されていた。
不採用にしたからといって、検索語をすべて削除するわけにはいかない。
古い資料にその言葉が残っている場合、検索不能にすると過去の記録へ辿り着けなくなる。
しかし検索語として残せば、正式名称だと誤解される可能性がある。
そこで三種類の状態が定義された。
『正式管理語』
『検索互換語』
『使用非推奨語』
正式管理語は、定義と指示範囲が確定しているもの。
検索互換語は、過去資料へ到達するために残すが、正式概念として使用しないもの。
使用非推奨語は、検索上必要な場合を除き、新規文書や教育資料で使用しないもの。
『第七関連』
『第七対象』
『第七外在対象』
は、使用非推奨語へ分類された。
そして、
『第七外在個体』
は、
『仮想評価語・正式使用不可』
として別に記録されていた。
「検索互換語とも違う?」
「この時点で過去資料に実使用例が確認されていないためでしょう。検索互換の必要性がないのだと思います」
「じゃあ、言葉は資料の中にあるけど、使うための名前じゃない」
「はい」
◇
さらに資料には、重要な注意があった。
『正式管理語として不採用となった語が、後年の資料に出現した場合、その出現をもって過去の不採用判断が覆されたと推定してはならない。』
ノルンは思わず目を細めた。
まるで今の調査へ向けて書かれたような一文だった。
しかし当然、当時の作成者がノルンの調査を知っていたわけではない。
彼ら自身も、過去の言葉が後の資料へ残る問題を経験していたのだろう。
『後年の正式採用を判断する場合は、採用決定文書、定義、対象範囲、根拠、施行時期を確認すること。』
続けて、
『単なる使用例、検索語登録、講師の口頭表現、余白メモ、非正式な呼称の普及は、正式採用の証拠としない。』
とある。
「ちゃんと確認しろってことだね」
「はい。私たちが今していることと同じです」
「でも、ここまで書いてあるってことは、当時も間違える人がいたんだろうなあ」
「そうかもしれません。ただ、この一文だけで具体的な誤用事例があったとは断定できません」
主様は苦笑した。
「本当に徹底してる」
「必要ですから」
◇
資料の末尾には、関連する議事録が添付されていた。
正式管理語への昇格基準を承認する会議の記録である。
議長は記録管理部門の責任者。
研究部門、安全管理部門、接続管理部門、生活支援部門、教育部門の代表が参加していた。
議事録の中で、一人の参加者が質問している。
『現場で「第七外在個体」という呼称が将来広まった場合、正式な個体確認がないままでも便宜上採用する可能性はあるか。』
回答は、
『ない。』
だった。
『個体確認のない状態で「個体」を正式管理語へ含めることは、制度上の事実認定と誤解されるため認められない。』
さらに、
『便宜上の呼称が必要なら、対象・主体・個体を示さない別名称を検討する。』
と続く。
主様が静かに息を吐いた。
「ここまで明確に否定してたんだ」
「はい」
「なのに後の資料では……」
「まだ、その後に何があったか分かりません」
ノルンは議事録を閉じた。
ここまで確認した限り、当時の制度は一貫している。
『第七外在個体』という表記は存在した。
しかし正式採用されなかった。
それどころか、個体確認のない状態では正式管理語にできないと明確に判断されていた。
◇
昼食後、ノルンは関連資料一覧を確認した。
次に作成されたのは、
『外在反応識別呼称の非公式定着状況調査』
である。
その後に、
『長期追跡対象における主体・個体評価再検討』
が続く。
さらに、その先に新しい資料名が現れていた。
『外在側長期管理呼称の運用整理』
概要は短い。
『非公式呼称の使用状況および主体・個体評価の再検討結果を踏まえ、長期管理上の呼称運用を整理する。』
主様が画面を見て言った。
「これ、だんだん近づいてる気がする」
「はい。ただし、資料名だけでは判断できません」
「分かってる。次は非公式定着状況だね」
「その予定です」
ノルンは関連資料を保存し、歴史調査を一度中断した。
◇
午後の通常業務では、セレナから表示試験の準備状況が届いた。
来週実施予定の小試験について、参加者六人の予定が確定したらしい。
分析担当四人、記録担当二人。
変更あり・変更なし・確認時刻のみ更新の三種類を区別できるか、必要な情報へ自分で戻れるかを確認する。
セレナは案内文を少し短くしていた。
『必要な情報は各項目から確認できます。』
以前の、
『必要な項目を確認してください。詳細は各項目から開けます。』
より簡潔になっている。
ノルンは、
『こちらの方が自然に読めそうです。試験では、案内文を読んだかどうかだけでなく、必要な判断ができたかを中心に確認しましょう』
と返した。
『了解。読むこと自体を目的にしない』
セレナから返ってきた。
ノルンはその文章を見て、小さく頷いた。
歴史資料で確認してきた問題と、現在の表示試験には似たところがある。
言葉を置くこと。
読ませること。
理解させること。
判断できること。
それぞれは同じではない。
しかし、現在の試験を歴史上の失敗の再現として扱う必要はない。
セレナたちは、今の利用者が今の情報を正しく扱えるかを確認している。
それで十分だった。
◇
夕方近く、ルークの生活記録に短い追記が入った。
午後、庭へ出た際に、二本のリンガの木のうち片方へ小さな鳥が止まっていたらしい。
ルークは職員へ声をかけ、しばらく動かずに観察した。
『本人、「おなか白い」と発言。尾の形は枝葉に隠れて確認できず。鳥は短時間で飛び去る。』
その後、ルークは室内へ戻り、鳥類図鑑の三候補を見比べていた。
『本人、「一つ減るかな」と発言するも、職員と確認した結果、腹部が白い候補が複数あるため確定せず。「じゃあまだ二つ」と回答。』
ノルンは思わず微笑んだ。
見えた部分だけで判断する。
見えなかった部分を勝手に補わない。
ルークが自然にそうしていることが、少し嬉しかった。
ただし、それを観察官としての教訓に変えて本人へ伝えるつもりはない。
ルークは鳥を見ていただけなのだから。
◇
終業前、ノルンは今日の歴史調査を正式な管理記録へ整理した。
『「統合索引語から正式管理語への昇格基準」を確認。検索語としての有用性と正式管理語としての妥当性を分離。正式昇格条件は、指示範囲明確、既存語との非重複、利用者間の意味一致、未確認の対象実在性・同一性を前提としないこと、管理上の必要性、訂正可能性の六項目。』
『「七番関連」「第七対象」「第七外在対象」は正式管理語への昇格不可。意味範囲不明確、利用者間の解釈不一致、単一外在対象を暗示する危険等による。』
『「第七外在個体」という完全表記を初確認。ただし、当該資料では非正式呼称の正式管理語化を検討するための仮想評価語であり、当時の正式文書での採用例なし。評価結果は「昇格不可」。単一発生源・単一主体・単一個体が未確認の状態で「個体」を使用できないと判断。』
『会議記録でも、将来「第七外在個体」という呼称が現場で普及した場合であっても、個体確認なしに便宜上正式採用することは認められないと明言。』
『不採用語のうち過去資料検索に必要なものは検索互換語・使用非推奨語として管理。「第七外在個体」は当時の実使用例が確認されず、仮想評価語・正式使用不可として扱われる。』
『後年資料に同語が出現しても、それだけで過去の不採用判断が覆ったとは推定しない。正式採用の有無は、採用決定文書、定義、対象範囲、根拠、施行時期を別途確認する必要あり。』
『現在地点では「第七外在個体」という表記の存在を確認したが、正式管理語としての成立・外在個体の実在・R-7等との同一性は確認していない。』
『次の作成順資料:「外在反応識別呼称の非公式定着状況調査」。後続に「長期追跡対象における主体・個体評価再検討」「外在側長期管理呼称の運用整理」。』
ノルンは記録を読み返し、保存した。
今日の進展は大きい。
『第七外在個体』という言葉が、歴史資料の中へ明確に現れた。
しかし、その意味は後世の記録で見たものとは違う。
当時の制度は、使用を認めなかった。
ならば、どこで変わったのか。
あるいは、正式には変わらないまま、後世の誰かが使うようになったのか。
答えはまだない。
◇
業務を終えて帰り支度をしていると、私用端末が震えた。
ミサキからだった。
『湖の町の古本屋、木曜は四軒とも営業予定みたい』
ノルンは少し驚いた。
以前もらった手描き地図には営業時間が書かれていたが、定休日については店ごとに違っていたはずである。
『確認してくださったんですか?』
『うん。せっかく行くなら全部見たいし』
その言葉を読んだ瞬間、ノルンの胸が少し温かくなった。
ミサキも楽しみにしている。
ただ約束を受け入れたのではなく、自分から店の営業予定を調べてくれている。
『ありがとうございます。私も交通手段と帰りの時間を確認しておきます』
『助かる。あと、晴れるといいね』
『はい。晴れるといいですね』
送信すると、少しして、
『でも雨でも会えるから、そこまで困らないかも』
と返ってきた。
ノルンは画面を見つめた。
湖の町へ行くことが目的ではない。
もちろん行きたい。
四軒の古書店も、北側の道も、夕日も楽しみだ。
けれど、ミサキにとっては雨で予定が変わっても、会えること自体が嬉しいらしい。
ノルンも同じだった。
『私も、ミサキさんと会えるなら楽しみです』
今度は以前ほど迷わず送れた。
返事は少し遅れて届いた。
『……そういうの、さらっと言うようになったね』
ノルンは思わず固まった。
(さらっと、でしょうか)
実際には、送信する前に少しだけ勇気が必要だった。
ただ、以前ほど言葉を引っ込めなくなっただけである。
『本当のことなので』
そう返すと、
『知ってる。だから嬉しい』
と届いた。
ノルンはしばらく端末を閉じられなかった。
◇
管理室を出ると、夕方の空は穏やかだった。
西の端には淡い橙色が残り、街路樹の影が石畳へ長く伸びている。風は少し冷たいものの、歩いていると心地よく、通り沿いの店からは夕食の支度をする香りが漂っていた。
ノルンは歩きながら、今日読んだ歴史資料を思い返した。
『第七外在個体』。
その言葉は、確かに資料の中にあった。
けれど正式な名前ではなかった。
存在が確認された個体の名前でもない。
むしろ、使ってはいけない理由を説明するための仮想評価語だった。
それでも、後世の資料では同じ表記が現れる。
名前が先にあり、後から意味が付いたのか。
別の経路で同じ名前が生まれたのか。
あるいは、何か新しい証拠が出て正式な評価が変わったのか。
今のところ、どれも確定できない。
(次は、実際にどの程度使われていたかですね)
非公式定着状況調査。
そこでは、制度が認めなかった言葉が現場でどう扱われていたのかを確認できるはずだ。
そして、その先には主体・個体評価の再検討がある。
もし新しい証拠が出ていたなら、そこで初めて判断が変わる可能性もある。
しかし、まだ読んでいない資料の結論を先に決める必要はない。
ノルンはそこで考えるのをやめた。
私用端末には、ミサキとのやり取りが残っている。
『本当のことなので』
『知ってる。だから嬉しい』
ノルンは小さく笑った。
歴史資料の中では、名前があることと、その名前に対応する存在が確認されていることは違う。
けれど、自分の胸にある気持ちは、名前を付けなくても確かにそこにある。
ミサキと会いたい。
一緒に湖の町へ行きたい。
雨なら焼き菓子を食べながら話したい。
その気持ちを、急いで別の言葉へ変える必要はなかった。
ノルンは夕暮れの街を歩きながら、次の木曜日が晴れることを、少しだけ強く願った。




