第百四十四話 呼びやすい名前ほど、遠くへ行く
翌朝、ノルンが目を覚ましたとき、最初に意識へ浮かんだのは歴史資料ではなかった。
枕元へ置いていた私用端末には、昨夜ミサキと交わしたやり取りがそのまま残っている。
『そういうところ、好き』
『ありがとうございます。私も、ミサキさんと一緒にいる時間は好きです』
『それ、ちょっと嬉しい』
寝る前にも一度読み返した。朝になれば少し冷静に見られると思っていたのに、結果はあまり変わらず、胸の奥へ昨夜と同じむず痒さが戻ってくる。
(……私、自分で送ったんですよね)
当然である。
誰かに端末を奪われたわけでも、誤送信したわけでもない。
送信前には消そうかとも考え、それでも自分の気持ちから逃げたくないと思って送った。だから後悔しているわけではないのだが、文字として残った自分の言葉を改めて見ると、昨夜より恥ずかしい。
ノルンは端末を伏せて寝台から起きた。
湖の町へ行く日はまだ決まっていない。
ミサキが一日空けられるかもしれないのは、その次の週。
ノルンも予定を確認することになっている。
今のところ確定しているのは、それだけである。
それだけなのに、朝から何度も同じ文面を眺めている自分については、あまり深く考えないことにした。
◇
管理室へ着く頃には、空はよく晴れていた。
雨上がりの湿り気は残っているものの、昨日までの灰色の空とは違い、窓から入る光が机の端をはっきり照らしている。朝のうちはまだ空気が冷たく、換気のため少し開けられた窓から細い風が入っていた。
「おはよう」
先に来ていた主様が顔を上げる。
「おはようございます」
「今日は普通だ」
「何がですか?」
「顔」
ノルンは外套を掛ける手を止めた。
「昨日の帰りは赤かったから」
「忘れてください」
「無理かなあ」
「では、業務に関係のない情報として参照しないでください」
「そういう言い方すると余計覚えるよ」
主様は笑いながら飲み物を差し出した。
ノルンは受け取り、自席へ座る。
「湖の町、決まった?」
「まだです。その次の週ならミサキさんが一日空けられるかもしれないそうなので、私も予定を確認します」
「へえ」
「何ですか?」
「ちゃんと進んでるなと思って」
「予定の話ですよ」
「うん。予定の話」
主様が妙に素直に引き下がったため、かえって落ち着かない。
ノルンは追及するのをやめ、業務端末を起動した。
◇
最初に確認するのは、現在の観測状況である。
低強度の識別不能反応は三件のまま。
新たな通知対象事象はなく、閾値未満の追加変動も確認されていない。観測密度も通常のまま維持され、発生源、対象、同一源性、意味、意図、音声・言語性、既知分類との関係、特定人物との関係に新しい情報はなかった。
ノルンは詳細画面を必要以上に開かず、更新の有無だけを確認して閉じた。
次に生活記録へ移る。
ルークは朝食後、鳥類図鑑ではなく果物の本を読んでいた。
昨日気にしていた黄色い果実について、別の頁にも似たものが載っていることに気づき、職員へ、
『こっちは同じ?』
と尋ねている。
職員が別種だと説明すると、ルークは二つの頁を行き来しながら形の違いを見比べ、その後、自分で紙へ丸い実を二つ描いていた。
『本人、片方へ小さな点を多く描き、「こっちはこれ」と区別。名称を書こうとはせず、絵で見分ける。』
鳥については、窓辺に一羽が短時間来たらしい。
ただし、ルークが気づいたときには飛び去る直前で、
『しっぽ見えなかった』
と残念そうに言っただけだった。
職員が「また来るかも」と言うと、
『じゃあ今度』
と答え、果物の絵へ戻っている。
ノルンは記録を読み終え、少しだけ肩の力を抜いた。
過去名についての質問も、接続状態の変更もない。
今日も生活は生活として続いている。
◇
ミレイアは完成した袋を二日目も使用していた。
灰緑の紐は切らずにそのまま使うことにしたらしく、余った部分を軽く結んで邪魔にならない位置へ寄せている。エリスから「やっぱり長かった?」と尋ねられると、
『少し。でも切るほどじゃない』
と答えた。
今日は余り布を整理し、使える大きさのものだけを別に分けている。
『本人、「次に小さいもの作るかも」と発言。具体的な制作物は未定。』
接続についての話題は出ていない。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
という状態も変わっていなかった。
ノルンは生活記録と接続管理欄を別々に確認して保存した。
◇
フローラは午前中、マリーの店で買ったものとは別の菓子について母親と話していた。
次にマリーと会う予定が決まったわけではないが、
『今度あのお店の別のも食べてみたい』
と口にしている。
母親が「マリーさんも誘うの?」と尋ねると、
『予定が合えば』
と答えただけで、それ以上具体的な話には進まなかった。
アーノルドからの接触はない。
エリオの盤上遊戯は中央領域の試作が続き、ラウルが追加した三枚の紙のうち二枚目まで使ったところで一度中断している。
大きな変化はない。
だからこそ、ノルンはそれぞれの記録を必要以上に意味づけず閉じることができた。
◇
午前の通常業務を終えると、ノルンは歴史調査画面を開いた。
今日読む予定の資料は、
『外在側識別呼称・教育利用可否』
である。
主様は題名を確認すると、いつもの椅子を持ってきた。
「今日は呼称」
「はい」
「昨日の資料だと、対象単位そのものは結局作らなかったよね」
「恒久的な対象単位は導入されませんでした。接続条件を比較するための参照群は作られましたが、それを外在側の一個体とは扱っていません」
「なのに現場では『第七対象』って言う人がいた」
「複数の経路から似た表現が生じていました。ただし、同じ理解を共有していたわけではありません」
「じゃあ今日の呼称も、誰か一人に名前を付ける話とは限らない」
「むしろ、そこを最初に疑うべきだと思います」
ノルンは資料を開いた。
◇
作成目的は、冒頭に明記されていた。
『長期外在反応に関する管理識別子・比較集合・追跡群・接続条件参照群が増加し、教育・引継ぎ時の説明負担が高まっている。各識別子を正確に説明することを前提としつつ、理解補助のための識別呼称を導入可能か検討する。』
さらに、
『本検討における「呼称」は、人名・個体名・発生源名・主体名を意味しない。』
と続く。
主様が苦笑した。
「最初からものすごく否定してる」
「これまでの誤解を考えれば必要だったのでしょう」
候補として挙げられていたのは、個体へ付ける名前ではない。
資料群や研究上のまとまりを、人間が会話の中で扱いやすくするための補助語だった。
たとえば、
『長期追跡群R-7』
を毎回正式名称で呼ぶのは長い。
しかし『R-7』だけでは、参照記録REF-7や旧端末上のSET-7と混同される。
そこで、
『長期七系』
『R系七』
『七系追跡』
『第七追跡群』
などの候補が挙げられていた。
ノルンは眉を寄せる。
「危ない」
「どれ?」
「ほぼ全部です」
「だよね」
◇
教育部門も同じ懸念を持っていた。
『「七系」は、共通の系統・発生源・主体が存在する印象を与える。』
『「第七追跡群」は、七番目に確認された対象を追跡しているとの誤読が生じる。』
『「R系七」は意味が分かりにくく、結局現場で「七番」と省略される可能性が高い。』
そのため、番号を含む呼称案はすべて保留となった。
代わりに、
『長期特徴群』
『継続比較群』
『長期参照群』
といった番号を外した呼称が検討された。
しかし、これでは複数存在する追跡群を区別できない。
記録管理側から、
『区別できない補助呼称は、識別呼称として機能しない。』
という当然の指摘が出ている。
「難しいなあ」
「便利さと誤解防止が衝突しています」
「正式名称をそのまま言えばいいんじゃない?」
「少人数なら可能かもしれませんが、教育や引継ぎで毎回すべての正式名称と定義を使うと、別の情報が入らなくなるという問題もあるようです」
資料には実際、十五分の教育枠で識別体系の説明に時間を使いすぎ、肝心の、
『何が未確認なのか』
を説明する時間が不足した例が載っていた。
正確な名称をすべて言うことが、正確な理解へ直結するとは限らない。
◇
合同試験では、名称を覚えさせるのではなく、識別体系を三段階へ分けて教える方式が試された。
第一段階。
『記録を探す番号』
第二段階。
『特徴を比べるまとまり』
第三段階。
『長く追跡するためのまとまり』
ここではREF、SET、Rという略号すら最初には出さない。
その後、実際の業務で必要な者だけ正式識別子を学ぶ。
理解率は上がった。
ところが、自由記述で、
『七番の記録が、比較されて、そのまま長期追跡になった』
と書いた参加者がいた。
「段階で教えたから、流れに見えた?」
「そうです」
別々の管理目的を分かりやすく並べた結果、一つの対象が、
記録される。
比較される。
追跡される。
という順番で進んだように理解された。
実際にはREF-7、SET-η、R-7は範囲が異なり、単純な段階移行ではない。
教育担当は試験を中止し、
『三段階』
ではなく、
『三種類の道具』
として説明する方式へ変更した。
「順番に並べるだけでも物語になるんですね」
「人は順番があると、前から後ろに進んだと思うからかな」
「おそらく」
◇
次の試験では、机の上に三種類の道具を置く比喩が使われた。
『記録参照は棚番号』
『特徴比較集合は比較用の籠』
『長期追跡群は継続して見直すための帳面』
同じ記録が複数の道具へ関係しても、それらが一つの対象を示すとは限らない。
説明としては分かりやすくなった。
参加者十二人中十一人が、三体系を別の目的として理解した。
しかし一人が、
『棚番号七の相手を、籠七で比べて、帳面七で追っている』
と答えた。
主様が額へ手を当てた。
「全部別って説明したのに」
「しかもSET-ηを『籠七』へ置き換えています」
「七が強すぎる」
ノルンは画面を下へ送った。
教育側の分析も同じだった。
『数値一致は、比喩による概念分離より強く同一対象推論を誘発する場合がある。』
対策として、教育初期には数字を使わない例を用いることになった。
REF-3。
SET-η。
R-5。
異なる識別子を例にする。
まず体系の違いを理解させ、その後で同じ数字が偶然または管理上の継承によって現れる実例を説明する。
これで理解は改善した。
◇
資料の中盤から、議論の方向が変わった。
『呼称を作ることで理解を助けるのではなく、呼称を作らないこと自体を教育方針とするべきではないか。』
研究部門からの提案だった。
長期追跡群R-7を、便利だからという理由で『第七系』などと呼ばない。
REF-7、SET-η、R-7、S1、接続条件参照群Kを、一つの総称へまとめない。
必要な場面で必要な正式名称を使い、関係を説明する。
教育担当の一部は賛成した。
だが、現場側から強い反対が出た。
『呼称を制度側が用意しなくても、利用者は自分で呼びやすい語を作る。』
その例として、
『七番』
『第七』
『七番側』
『第七対象』
『R七の向こう』
『七系』
が挙げられていた。
いずれも正式名称ではない。
「作らなくても作られる」
「はい」
「だったら、間違いにくい呼び方を正式に作った方がいいってこと?」
「その意見が出ています。ただ、それにも危険があります」
制度が呼称を用意すれば、利用者が勝手に作る言葉を減らせるかもしれない。
しかし制度が呼称を与えた瞬間、その呼称は『何か一つのものに付けられた名前』として強く見える。
どちらを選んでも完全には安全ではない。
◇
ここで初めて、
『識別呼称』
の定義案が示された。
『複数の管理記録・比較単位・追跡単位を、関係検討上まとめて参照する際に使用する補助ラベル。対象同一性を表さず、構成範囲は固定しない。』
つまり、一つの存在へ付ける名前ではない。
複数の資料を横断して参照するためのラベルである。
候補には色、記号、植物名、方角、無意味綴りなどが検討されていた。
番号を避けるためだった。
「植物名?」
「例えば『楡群』のような呼び方でしょうか」
「それはそれで人の名前っぽくならない?」
「同じ指摘があります」
植物名や色名は覚えやすいが、長期使用すると固有名詞化しやすい。
方角は実際の方向性と誤認される。
記号は口頭で扱いにくい。
無意味綴りは覚えにくく、利用者が勝手な意味を付ける可能性がある。
完全に中立な呼称は存在しなかった。
◇
試験では、意味を持たない二音節の仮ラベルが使用された。
『ネラ』
『フォス』
『ティム』
それぞれ別の横断参照集合を示す。
ノルンは表示された名称を見てから、すぐ下の注意書きを確認した。
『試験用人工呼称。既存の人物名・地名・分類語との一致を避けるため、実運用時には別途確認を行う。』
「ちゃんと重複確認までしてる」
「呼称が人物名と重なれば、さらに誤解が増えますから」
参加者二十人に対し、
『ネラ関連資料を確認してください』
と指示すると、十九人が必要な複数体系の資料へ到達できた。
作業効率は高い。
ところが試験終了後、
『ネラとは何ですか』
と尋ねると、回答が分かれた。
九人は、
『複数資料をまとめて探すためのラベル』
と正答。
五人は、
『関連反応群』
四人は、
『外在側の発生源候補』
一人は、
『外在側の存在』
一人は、
『分からないが一つの対象だと思う』
と答えた。
「便利すぎたんだ」
主様が言った。
「そうですね。ラベル一つで必要資料へ到達できるため、その裏側に一つの対象があると推測されています」
作業上の成功率は高い。
概念理解は崩れている。
以前にも見た構造だった。
間違った理解でも、正しい資料へ到達できてしまう。
◇
教育部門は試験結果を受け、
『識別呼称を単独で使用しない』
という案を出した。
『資料参照ラベル・ネラ』
『資料参照ラベル・フォス』
のように、必ず用途を前置きする。
さらに画面上では、
『対象名ではありません』
と表示する。
二回目の試験では誤認が減った。
それでも二十四人中三人が、
『対象そのものに仮名を付けている』
と理解した。
理由を聞くと、
『名前がないと呼びにくいから仮名を付けたのだと思った』
という。
「『対象名じゃない』って書いてあるのに」
「注意文が、その人の既存理解に合わせて再解釈されています」
「昨日と同じだ」
「はい」
否定文だけでは、必ずしも認知を止められない。
◇
そこで合同班は、識別呼称の正式導入を見送った。
『現段階では、複数体系横断の補助呼称を正式管理語として採用しない。』
理由は、
『作業効率改善より、対象実在性・同一性の誤認固定化リスクが大きい。』
だった。
ノルンは少し意外に感じた。
題名からは、何らかの呼称が採用された可能性も考えていた。
しかし、この時点でも制度側は踏みとどまっている。
「また採用されなかった」
「はい」
「ずっと止めてるのに、後では『第七外在個体』があるんだよね」
「だから、その間に何が起きたのかを確認する必要があります」
◇
ただし、資料はそこで終わらなかった。
正式導入を見送った後、教育現場向けに暫定的な説明補助が作られている。
『長期外在反応の識別体系を説明する際、正式識別子の全列挙を避けるため、「七関連資料」のような総称を使用してよいか。』
答えは、
『原則不可。』
しかし例外として、
『検索方法の説明時に限り、「七を含む複数識別子の関連資料」のように、数値が対象名ではなく検索上の共通要素であることを明示した表現は可。』
とされた。
ところが半年後の教育記録には、
『第七関連資料』
という表現が現れていた。
正式教材本文ではない。
講師用の余白メモだった。
『第七関連資料は、REF・R・旧SET・接続検討をまとめて見せる。最初に同一対象ではないと説明。』
ノルンは画面を止めた。
「『七を含む複数識別子の関連資料』が、『第七関連資料』になった」
「短くなったね」
「はい」
書いた人物は不明。
講師が実際にそのまま口頭で使ったかも不明。
どれほど広がったかも分からない。
ただし、言葉の圧縮が起きたこと自体は確認できる。
◇
さらに後の講師報告には、
『「第七関連」と言うと単一対象と誤解する受講者がいるため使用しないこと。』
という注意がある。
つまり、少なくとも一部では『第七関連』という短縮表現が実際に使われていた可能性が高い。
しかし報告は、誰が最初に使ったかを記録していない。
ノルンは管理メモへ、
『起源不明』
と入れた。
ここで無理に一人の発案者を探すべきではない。
これまで確認してきた歴史でも、同じような圧縮表現が複数の場所から独立して生じている。
番号が同じ。
検索すると同じ周辺資料が出る。
長期追跡される。
接続可能性も検討される。
それらを毎回正確に説明するのは長い。
だから人は短くする。
その短縮が、意味まで一緒に圧縮してしまう。
◇
資料の最後に、次の検討事項が並んでいた。
『統合索引語から正式管理語への昇格基準』
『長期追跡対象における主体・個体評価再検討』
『外在反応識別呼称の非公式定着状況調査』
最後の資料名は、昨日の関連一覧にはなかった。
「非公式定着状況」
主様が読む。
「はい。どうやら正式呼称を作らないと決めた後も、現場で何らかの呼び方が残ったため、別途調査されたようです」
「次はどれ?」
ノルンは作成日時を確認した。
最も早いのは、
『統合索引語から正式管理語への昇格基準』
その次が、
『外在反応識別呼称の非公式定着状況調査』
最後に、
『長期追跡対象における主体・個体評価再検討』
だった。
「順番に読みます」
「まだ個体評価まで行かない?」
「はい」
「焦らすなあ」
「歴史資料は焦らしているわけではありません」
「ノルンは?」
「焦っていません」
「本当に?」
主様が少し笑う。
ノルンは答えず、資料を閉じた。
◇
午後、セレナから来週の表示試験について参加者構成が送られてきた。
分析担当四人、記録担当二人。
これまでの試験へ参加した者と初参加者が混ざっている。
今回の目的は、
『内容変更あり』
『内容変更なし・確認時刻更新』
の区別が正しく理解されるか。
案内文によって、必要な情報へ到達しやすくなるか。
案内文が逆に邪魔となり、表示そのものを読まなくなる者がいないか。
詳細を開く人数ではなく、必要な判断が正しくできるか。
ノルンは確認し、
『問題ありません。初参加者がいるので、以前の表示に慣れていることを前提にしない評価もできそうです』
と返した。
『そこ狙った』
セレナから返事が来る。
『あと、試験後に「全部読まなきゃいけないと思ったか」も聞く』
『お願いします』
そこで会話は終わった。
ルークの過去の『セレナ?』について、ノルンは何も送らない。
歴史調査の『第七』についても共有していない。
現在の表示試験に必要のない情報だからである。
◇
夕方近く、ミサキから連絡が届いた。
『予定見れそう?』
ノルンは自分の予定表を開いた。
その次の週には二日、比較的余裕のある日がある。
ただし片方は午後に用事が入り得るため、一日使える可能性が高いのはもう片方だった。
『確認しました。木曜日なら一日空けられそうです』
少しして、
『私も木曜いける』
と返ってくる。
ノルンの指が止まる。
日付を確認する。
まだ天気は分からない。
湖の町へ行くには晴れた日がいいと二人で話している。
『では、木曜日を候補にしますか? 天気が悪そうなら無理せず別の日に』
返事はすぐだった。
『そうしよう。晴れたら湖の町』
続けて、
『雨なら焼き菓子一人一個』
と届く。
ノルンは笑った。
『どちらでも楽しそうですね』
送ってから、自分の言葉を読み返す。
湖の町へ行けても。
行けなくても。
ミサキと会うこと自体を楽しみにしている。
昨夜よりも、それを素直に認められる気がした。
ミサキから、
『私も』
と返ってきた。
短い二文字だったが、ノルンはしばらく画面を閉じられなかった。
◇
その日の業務終了前、ノルンは歴史調査の管理記録を更新した。
『「外在側識別呼称・教育利用可否」を確認。目的は、REF・SET・R・S・接続条件参照群等の複雑化に伴う教育・引継ぎ負担軽減。ここでいう識別呼称は人名・個体名・発生源名・主体名を意味しない。』
『番号を含む補助呼称案「長期七系」「R系七」「七系追跡」「第七追跡群」等は、共通系統・七番目の対象等を示す誤読リスクから保留。番号を外した呼称は識別力不足。』
『教育上、REF・SET・Rを段階として説明すると「一対象が記録→比較→追跡へ進んだ」と誤読されるため、異なる目的の道具として説明する方式へ変更。数値一致は概念分離より強く同一対象推論を誘発する例あり。』
『制度側が補助呼称を作らなくても、「七番」「第七」「七番側」「第七対象」「R七の向こう」「七系」等の非正式表現が現場で自然発生。正式呼称導入による誤解抑制案と、呼称自体が対象実在性を固定する危険が対立。』
『人工補助ラベル試験では資料到達効率が向上する一方、ラベルを外在発生源候補・存在・一対象の仮名と誤認する例が発生。用途表示・否定文追加後も一部誤認が残る。』
『結論:複数体系横断の補助識別呼称を正式管理語として採用しない。作業効率改善より、対象実在性・同一性の誤認固定化リスクを重視。』
『教育上「七を含む複数識別子の関連資料」という限定的説明は許容されたが、後の講師用余白メモで「第七関連資料」へ圧縮された例を確認。さらに講師報告で「第七関連」の使用による単一対象誤認への注意あり。短縮表現の起源・使用範囲・共有度は未確認。』
『現時点でも「第七外在個体」の正式成立なし。制度側はむしろ統合呼称の正式導入を見送っている。ただし、複雑な正式名称を短縮する過程で「第七」という語が管理体系横断の非正式ラベルとして残りやすい構造を確認。』
『次の作成順資料:「統合索引語から正式管理語への昇格基準」。後続に「外在反応識別呼称の非公式定着状況調査」「長期追跡対象における主体・個体評価再検討」。』
保存した後、ノルンは画面を閉じた。
制度は呼称を作らなかった。
だから呼称が生まれなかったわけではない。
むしろ空白があるからこそ、現場が自分たちで呼びやすい言葉を作ることもある。
そして一度便利な言葉ができれば、その言葉は作られた目的より遠くまで歩いていく。
◇
管理室を出ると、夕方になっても空は晴れていた。
ノルンは歩きながら、私用端末の予定表を開く。
その次の週の木曜日。
まだ確定予定ではなく、候補として印を付ける。
予定名を入力する欄で、指が止まった。
『湖の町』
と書けばいい。
実際、晴れればそうする予定なのだから。
けれど雨なら焼き菓子になる。
少し考えた末、ノルンは、
『ミサキさん』
と入力した。
入力してから、自分で少し恥ずかしくなる。
(これでは、目的ではなく人の名前ですね)
消そうかと思ったが、やめた。
湖の町でも焼き菓子でも、会う相手は同じなのだから、予定としては間違っていない。
歴史資料では、名前のようなものが対象を勝手に一つへまとめてしまう危険を読んだばかりだった。
けれど、自分の予定表に書いた『ミサキさん』は、それとはまったく違う。
ミサキは確認されている一人の人であり、ノルン自身が会いたいと思っている相手だ。
似た形の言葉でも、置かれている事実が違えば意味も違う。
ノルンは予定表を閉じた。
次に読む歴史資料では、検索に使われていた言葉が正式管理語へ昇格できる条件を検討するらしい。
『第七』という言葉が、そこで正式になるのか。
別の言葉が選ばれるのか。
そもそも何も昇格しないのか。
まだ分からない。
分からないものを、先に名前だけで完成させない。
それは今日まで何度も確認してきた。
けれど予定表の中にある一人の名前については、ノルンはもう一度だけ画面を開いて確認した。
『ミサキさん』
その文字を見ると、胸の奥が少し温かくなる。
今度は消そうとは思わなかった。




