第百四十三話 対象という言葉の置き場所
翌朝、ノルンが管理室へ入った頃には、昨日まで空を覆っていた雲が東へ流れ始めていた。窓から差し込む朝の光はまだ淡く、雨を含んだ石畳や建物の縁には湿り気が残っているものの、遠くの空には久しぶりに薄い青が覗いている。
外套を掛け、自席へ着いたノルンは、端末を起動する前に私用端末を鞄へしまった。昨夜ミサキと交わした『次は一人一個ずつ』という短いやり取りが頭の片隅に残っているが、今のところ次に会う日を決める連絡は来ていない。
(急いで決める必要はありませんね)
湖の町へ行く約束も同じだった。
行くことそのものは、以前より確かなものになっている。それでも日付まで急いで埋めなければならない理由はなく、天気の良い日に行こうという二人の希望も変わっていない。
ノルンは業務端末を起動し、最初に通常の観測状況を確認した。
低強度の識別不能反応は三件のままである。
新たな通知対象事象はなく、閾値未満の追加変動も確認されていない。観測密度は通常のまま維持され、発生源、対象、同一源性、意味、意図、音声・言語性、既知分類との関係、特定人物との関係についても、新しい判断材料は増えていなかった。
ノルンは必要な項目だけを確認して画面を閉じた。
「増えてない?」
主様が少し遅れて管理室へ入り、いつものようにノルンの机へ温かい飲み物を置いた。
「はい。変更ありません」
「よし。じゃあ今日は昨日の続き?」
「その予定です」
「対象単位のやつ?」
「はい。『長期接続可能性評価における対象単位再検討』です」
主様は自分の席へ向かいかけたところで足を止め、少しだけ首を傾げた。
「前にも個体単位とか対象候補とか、だめになってたよね」
「ありました。だからこそ、今回の『再検討』が何を意味するのかを確認する必要があります」
「新しい証拠が出たのか、それとも管理上また必要になっただけなのか」
「そこを混ぜないように読みます」
主様は満足そうに頷いたものの、すぐには椅子を運んでこなかった。午前中は別の確認作業があるらしく、「昼前くらいにそっち行く」とだけ言って自席へ戻っていく。
ノルンも歴史資料へ飛びつくことはせず、先に現在の生活記録を開いた。
◇
ルークは朝食後、共有室で鳥類図鑑を開いていた。
昨日と同じ三種類の候補を見比べていたが、窓の外に鳥が来ていないかを何度も確認するような様子はない。職員が「昨日の鳥、今日も来るかな」と声をかけると、ルークは窓を一度見てから、
『来たら、しっぽ見る』
と答え、そのまま図鑑へ視線を戻している。
少し後には果物の本へ移り、リンガとは違う実の断面図を眺めていた。
『本人、図鑑内の黄色い果実を指して「これ食べられる?」と質問。職員が「この地域では見ない」と答えると、「じゃあ本だけ」と発言。』
ノルンは記録を最後まで確認した。
過去名についての質問はない。
接続についての希望変化もない。
ただし、昨日から運用が変わったため、『質問なし』を毎日記録する定型文もない。
変化がないことを、毎日強調し続けない。
その方針が実際の記録へ反映され始めている。
◇
ミレイアは完成した袋を早速使っていた。
裁縫道具のうち、よく使う針入れ、小型の糸切り鋏、糸巻きを袋へ移し、残りはこれまでの箱へ置いている。灰緑の紐を絞った状態でも道具が取り出しにくくならないか何度か確認し、エリスから「紐、少し長くない?」と聞かれると、
『今はこれでいい。使って邪魔だったら短くする』
と答えていた。
完成したから、もう変えてはいけないわけではない。
使ってから決める。
ノルンはその記録を読んでも、接続の判断と重ねなかった。
接続管理欄には、
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
という状態が維持されている。
エリスから接続についての再確認も行われていない。
◇
フローラには大きな変化がなかった。
マリーとの次の外出予定はまだ決まっておらず、アーノルドからの接触もない。木製の鳥は以前と同じ場所に飾られ、慈善活動についても具体的な予定へは進んでいない。
エリオは四人用盤上遊戯の中央領域に関する試作を続けている。
中央へ近づく価値を上げすぎると序盤から全員が中央へ集まり、逆に下げすぎると誰も使わない。そのため、中央へ入ることで即座に利益を得るのではなく、次の手番で選択肢が増える案を試しているらしい。
『ラウル、試作用紙三枚追加。本人から「今日は五枚じゃないの?」と聞かれ、「前回の反省」と回答。本人笑う。』
ノルンも少しだけ笑った。
以前の五枚から四枚半を使った件を、ラウルなりに覚えているらしい。
生活記録を閉じると、管理室の空気が少しだけ静かになった。
誰も、歴史の答えを待つためだけに暮らしているわけではない。
その当たり前を確認してから、ノルンは調査画面へ移った。
◇
昼前、主様が椅子を持ってきた。
「終わった」
「お疲れさまです」
「こっちは?」
「まだ開いていません」
「待ってた?」
「私一人でも読めます」
「そこは『待ってました』って言ってくれてもいいのに」
「では、来てくださったので始めます」
「ちょっと違う」
主様は不満そうな顔をしながらも、ノルンの隣へ座った。
ノルンは資料名を確認し、作成時期と版情報を開く。
『長期接続可能性評価における対象単位再検討』
統合索引試行の後。
『外在側識別呼称・教育利用可否』より前。
作成部門は接続安全、記録管理、研究支援、生活支援の合同班だった。
冒頭には、この文書が作られた理由が記されている。
『長期追跡される外在反応群について、将来の接続可能性を検討する際、何を一単位として説明・比較・記録するかが部門間で一致していない。』
続く一文を、ノルンはゆっくり読んだ。
『本検討は、外在側の単一主体または単一個体が確認されたことを前提としない。』
「最初に書いてあるね」
「はい」
さらに、
『長期追跡単位、発生源モデル、接続安全案件、将来接続対象は同義ではない。』
とも記されている。
ノルンは姿勢を整えた。
ここまでは慎重だった。
◇
問題の起点は、生活支援部門からの質問だった。
仮に将来、ある外在反応群との接続が技術的に可能になった場合、本人へ何を説明すべきなのか。
『長年追跡してきた反応があります』
と言うのか。
『あなたと関係する可能性のある外在側の対象があります』
と言うのか。
『同一発生源の可能性を検討している記録群があります』
と言うのか。
どれも同じではない。
研究上の追跡単位をそのまま本人向け説明へ使えば、管理上のまとまりを実在する相手のように聞かせる危険がある。
一方で、
『複数の記録があり、それぞれ関係があるかもしれず、ないかもしれず、同じ発生源かもしれず、違うかもしれません』
とすべて列挙すれば、本人へ判断材料を渡すというより、不確実性の負担を丸ごと渡すことになる。
「難しいね」
主様が呟いた。
「はい。研究者が扱える不確実性の量と、接続を考える本人へ必要な情報量は同じではありません」
「でも減らしたら、相手が一人いるみたいになるかもしれない」
「その危険があります」
資料では、この問題を、
『研究単位』
『管理単位』
『説明単位』
『接続判断単位』
へ分けていた。
そして明確に、
『四単位は一致する場合もあるが、一致を前提としない。』
と記している。
◇
最初の案は、
『長期接続候補対象』
だった。
一定期間以上追跡され、接続可能性評価の対象になった記録群へ付ける管理名称である。
しかし、生活支援部門からすぐに反対が出た。
『「接続候補対象」は、本人へ接続可能な一つの相手が存在するとの印象を与える。』
研究側も、
『同一発生源評価を通過していない記録群へ「対象」を付けるのは不適切。』
と反対した。
案は採用されなかった。
「また『対象』で止まった」
「以前から同じ問題が繰り返されていますね。ただし今回は、接続説明へ使う単位という別の実務上の必要があります」
次の案は、
『接続評価記録単位』
だった。
こちらは存在を示す言葉を避け、記録上のまとまりだと明確にする意図があった。
ところが安全部門から、
『一つの接続判断へ複数記録単位が関与する場合があり、「単位」という語が判断の最小単位と誤解される。』
という指摘が出ている。
さらに生活支援側からは、
『本人説明で使用できない名称を増やしても、部門間翻訳が一段増えるだけではないか』
という意見が付いていた。
「どれを選んでも別の問題が出る」
「言葉だけで解決できる問題ではないのでしょう」
◇
議論は、名称より先に『何を一つとして扱えるのか』を定義する方向へ移った。
資料には七つの層が再掲されている。
『記録上同一』
『比較上同一』
『特徴上の継続性』
『発生条件上の継続性』
『発生源上の同一性』
『主体上の同一性』
『個体上の同一性』
ノルンには見覚えがあった。
以前の対象・個体単位整理案で明確化された区別である。
今回の文書では、その右側へ新たな列が追加されていた。
『接続上の同一性』
「増えた」
主様が身を乗り出す。
説明欄には、
『複数の反応記録について、単一の接続工程で扱うことが技術・安全・本人意思の観点から妥当である状態。発生源・主体・個体の同一性とは別に評価する。』
とある。
「同じ人だから一回で接続する、じゃないんだ」
「はい。逆もあります」
同一個体だと確認できたとしても、異なる時期・状態・危険条件の記録を一つの接続工程へまとめてよいとは限らない。
反対に、同一個体か確認できなくても、技術的には同じ安全条件で扱う複数記録が存在し得る。
接続上の一単位は、存在上の一個体ではない。
この区別は後世の誤読を防ぐため、かなり強く書かれていた。
◇
具体例として、R-7が出てきた。
ノルンと主様は同時に画面へ目を寄せた。
『例:長期特徴追跡群R-7』
『R-7は複数時期の反応記録を含み、構成記録は固定されない。REF-7関連記録の一部を含み、SET-ηへの選択履歴を持つ記録を複数含む。発生源モデルS1と整合する記録も一部存在する。』
ここまでは既知の範囲だった。
続いて、
『主体仮説評価では一部条件で比較対象となるが、主体存在・単一主体・単一個体はいずれも未確認。』
ともある。
ノルンはその一文を読み直した。
直近で確認してきた流れと一致する。
主体仮説を比較候補へ入れられることと、主体が確認されたことは別である。
さらに、
『接続上の同一性:未評価』
と記されていた。
「未評価?」
「はい。この時点では、R-7全体を一つの接続工程として扱えるかどうか自体、まだ評価していません」
「じゃあ接続候補でもない?」
「少なくともR-7全体を一つの接続対象として扱う根拠はありません」
◇
その下には、R-7の一部記録を用いた仮想評価が載っていた。
実際に接続を行うためではない。
制度設計上、何を区別しなければならないかを確認する机上試験である。
反応A。
反応B。
反応C。
三つには一部の共通特徴がある。
AとBは発生条件が近い。
BとCは時間的な応答候補構造を一部持つ。
AとCは変換前低次特徴の一部が似ている。
しかし、持続時間、強度推移、終了部、変換後知覚印象には差異がある。
資料は問いを置いていた。
『三記録を、一つの「接続相手候補」として本人へ説明してよいか。』
回答は、
『不可。』
理由は一つではない。
同一発生源が確認されていない。
主体存在が確認されていない。
仮に主体が存在しても同一主体とは限らない。
仮に同一主体でも単一個体であるとは限らない。
さらに、三記録すべてが本人と関係するとも確認されていない。
「ここまで分けるんだ」
「分けないと、一つずつ違う推論が全部つながってしまいますから」
◇
次の問いは少し違った。
『三記録を、一つの「接続可能性検討群」として管理してよいか。』
回答は、
『条件付きで可。』
ただし、その条件は、
『同一相手である可能性が高いから』
ではなかった。
『同一の技術評価項目を参照する必要があり、相互比較によって安全判断の精度が上がる場合。』
つまり、同じ相手だから一緒に管理するのではなく、一緒に比べる必要があるから同じ検討群へ入れる。
「また、まとまりと存在が別だ」
「はい」
「でも利用者から見たら、やっぱり一つに見えそう」
「その懸念も書かれています」
ノルンが少し下へ送ると、
『管理上の群形成が対象実在性を示すように見える問題』
という小見出しが現れた。
◇
ここで合同班は、実際の職員を使った説明試験を行っていた。
参加者は十八人。
まず、
『長期接続可能性検討群R7-A』
という仮名称を見せる。
定義文には、
『R-7内の一部記録を、接続安全条件比較のため暫定的にまとめたもの。単一発生源・主体・個体を意味しない。』
と書かれている。
それでも十八人中五人が、
『一つの外在対象へ接続できるか検討している群』
と回答した。
名称を、
『接続条件比較資料R7-A』
へ変更すると、同じ誤読は二人へ減った。
しかし今度は三人が、
『接続実施が既に予定されている資料』
と理解した。
「言葉を変えるたびに、別の誤解が出るね」
「はい。『接続』という語そのものが、実施予定を連想させる場合があるようです」
最終試験では、
『外在反応・接続条件参照群R7-A』
となった。
その上で、
『接続予定なし/対象同一性未確認』
を名称とは別欄へ表示する。
十八人中十七人が、
『安全条件を比較するための記録群』
と理解した。
残る一人も単一個体とは答えず、
『何らかの関連がある反応群』
とだけ回答している。
完全ではないが、かなり改善していた。
◇
ここでノルンは一度画面から目を離した。
窓の外では、午前中より青空が広がっている。濡れていた屋根の端が乾き始め、通りを歩く人の中には外套を脱いで腕へ掛けている者もいた。
「これ、今までと少し違いますね」
「どこが?」
「以前は『個体と呼ばないために何と呼ぶか』という議論が中心でした。でも今回は、接続を検討する実務が入ったことで、『本人へ何を一つとして提示するか』まで問題になっています」
「研究室の中だけじゃなくなってきた?」
「はい。ただし、実際の接続が決まったわけではありません」
「そこ大事」
「とても大事です」
◇
資料の後半には、さらに厄介な問題があった。
本人向け説明の試作である。
仮想事例として、
『長期間にわたり関連可能性を検討している複数の外在反応記録が存在する。本人との関係は未確認。単一発生源・単一主体・単一個体も未確認。将来、技術条件が整った場合に接続可否を検討する可能性がある。』
という状態が設定されていた。
これを本人へ説明する案として、三種類が比較されている。
案A。
『あなたに関係する可能性のある相手について、長期間の記録があります。』
これは却下。
『相手』が単一主体を前提にし、『あなたに関係する』も確度を上げすぎる。
案B。
『あなたに関係する可能性を含む、複数の外在反応記録があります。』
こちらは比較的正確だが、本人が『複数人いる』と受け取る可能性がある。
案C。
『あなたとの関係が確認されていない外在反応記録の中に、将来の接続判断で参照する可能性のある記録があります。』
最も慎重だが、何を伝えたいのか分かりにくい。
「本人からしたら、『で、何?』ってなるかも」
主様の感想に、ノルンも否定できなかった。
「正確さだけでは説明として成立しない場合があります」
「でも分かりやすくすると相手が生える」
「生やさないでください」
「言い方」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ口元を緩めた。
◇
この試験から、合同班は一つの原則を作っていた。
『本人説明では、管理上の一単位を先に提示するのではなく、本人が判断するために必要な事実を先に提示する。』
たとえば、
『反応記録がある』
『本人との関係は確認されていない』
『複数記録間の関係も確定していない』
『接続を希望するかどうかを今決める必要はない』
といった事実を分けて伝える。
その後、本人が詳細を求めた場合に管理群や比較履歴を説明する。
管理側が便利だからという理由で、一つの名称へまとめて本人へ渡さない。
ノルンはその部分を長く見つめた。
今の九人の管理にも通じるものはある。
けれど、過去の制度をそのまま現在の判断へ移すことはしない。
現在は現在の同意と状態を見る。
それでも、
『管理側が便利だからという理由で、一つの名称へまとめて本人へ渡さない』
という考え方は、覚えておいてよいと思った。
◇
資料の終盤で、再び『第七』という語が現れた。
統合索引で曖昧検索語『第七』が使われ始めていることを受け、合同班は接続可能性検討の名称へ数字を使うこと自体を避けるべきか検討していた。
『R-7由来の資料であっても、接続条件参照群へ「7」を継承しないことを推奨。』
理由は、
『REF-7→R-7→接続検討群7』
という連続した番号継承が、
『一つの第七対象が記録・追跡・接続検討へ段階的に進んだ』
ように見えるためだった。
「昨日の一本の道、そのままだ」
「はい。管理側も認識しています」
したがって、接続条件参照群には独立した英字識別子を使用する案が採用されている。
R-7由来の一部記録を含む最初の試験群は、
『外在反応・接続条件参照群K』
とされた。
Kに意味はない。
順序も対象番号も表さない。
必要に応じて構成記録は変更できる。
R-7と同一範囲でもない。
「七を消した」
「接続検討側では、ですね」
しかし、その直後に注記があった。
『旧試行資料ではR7-A等の表記が残るため、検索互換を維持する。』
主様が天井を見上げた。
「また索引に残る」
「過去資料を消すわけにはいきませんから」
「消した名前が、検索では生きる」
「はい」
◇
さらに半年後の運用確認では、正式には『参照群K』と呼ばれているにもかかわらず、一部の職員が、
『第七系の接続資料』
『七番側の接続条件』
『第七対象の安全条件』
と口頭で表現していた。
ここでも意味は一致していない。
『第七系』は単にR-7関連資料という意味で使った者。
『七番側』はREF-7由来の記録が含まれるという意味で使った者。
『第七対象』と表現した者は、統合索引で確認された職員とは別人だった。
その人物への聞き取り記録が残っている。
『質問:「第七対象」とは単一の対象ですか。』
『回答:そこはまだ分からない。でも、接続するなら一つの対象として扱うことになるんじゃないですか。』
『質問:なぜそう考えますか。』
『回答:接続口は一つだから。』
ノルンは眉を寄せた。
「新しい理由です」
「番号じゃないね」
「はい」
この職員は、R-7の長期継続性だけを理由にしていない。
検索結果の近さだけでもない。
接続技術の構造から、『一回の接続には一つの相手がいるはずだ』と推論している。
資料側はすぐに、
『一接続工程=一外在個体、ではない。接続工程の技術単位から外在側の個体数を逆算しない。』
という注意を追加していた。
「違う道から、同じ一人に着くんだ」
主様が言う。
「はい」
ノルンは小さく頷いた。
管理番号。
検索索引。
長期追跡。
接続工程。
それぞれは別のものなのに、どこからでも『一つの対象』という理解へ向かう可能性がある。
◇
文書の最終結論は、意外なほど慎重だった。
『現段階で、長期外在反応群に対する恒久的な「対象単位」は導入しない。』
『接続可能性評価では、必要な記録を案件ごとに参照し、管理群の同一性を外在対象の同一性へ移行させない。』
『本人説明では、対象名を先行させず、確認済み事実・未確認事項・本人が現在決める必要のある範囲を分けて提示する。』
『R-7その他の長期追跡群について、主体・個体評価が変化した場合のみ再検討する。』
つまり、また導入されなかった。
対象単位は必要とされながら、正式には作られていない。
「ここでも第七はできなかった」
「はい」
「なのに、だんだん周りには第七って言う人が増えてる」
「少なくとも、複数の経路から似た表現が発生していることは確認できました」
ノルンは最後の関連資料欄を見る。
次の文書は予定通り、
『外在側識別呼称・教育利用可否』
だった。
概要には、
『長期追跡・接続検討に関する複雑な識別体系を教育・引継ぎで説明する際、個別番号ではなく補助的呼称を導入できるか検討。』
とある。
「補助的呼称」
主様が読み上げる。
「はい」
「名前?」
「まだそう決めないでください」
「呼称って書いてある」
「呼称は、人名とは限りません」
「分かってるよ」
主様は笑ったが、ノルンは画面から目を離さなかった。
ここまでの歴史では、正式な対象番号を作らない努力が何度も続いている。
それでも現場では『第七』『七番側』『第七対象』という言葉が生まれていた。
次に検討されるのは、補助的な識別呼称。
これが後の『第七外在個体』へつながるのか。
それとも、また別の誤解を防ぐための制度なのか。
まだ判断できない。
◇
午後、セレナから試験用画面の案が届いた。
変更された項目には、
『内容変更あり』
変更内容がなく確認時刻だけ更新された項目には、
『内容変更なし・確認時刻更新』
という表示が付く。
その下に短い案内文が置かれていた。
『必要な項目を確認してください。詳細は各項目から開けます。』
ノルンはしばらく見てから、
『前より分かりやすいと思います。ただ、「必要な項目」が利用者自身で判断できるかも試験で見たいです』
と返した。
セレナからは、
『うん。そこも見る。全部読め、にはしたくないから』
と返ってくる。
『私もそう思います』
送信すると、少し間を置いて、
『ノルン、前より「全部確認してください」って言わなくなったね』
と届いた。
ノルンは指を止めた。
(そうでしょうか)
以前なら、情報があるなら全部確認した方が安全だと考えたかもしれない。
けれど情報量そのものが負担になり、重要な部分を埋もれさせることもある。
何より、全部読ませることと、必要な判断が正しくできることは同じではない。
『必要な情報に届ける方が大事だと思うようになりました』
そう返す。
セレナから、
『それ、今の試験の目的そのもの』
と返ってきた。
ノルンは少しだけ笑った。
◇
夕方、ミレイアの生活記録に小さな追記が入った。
完成した袋を使ってみた結果、灰緑の紐は今の長さで問題ないらしい。
『本人、裁縫道具を取り出した後、袋を畳まず机横の籠へ置く。「明日も使うから」と発言。』
完成品が、作る対象から使う道具へ変わった。
それ以上の意味はない。
ルークの方では、庭へ短時間出た記録があった。
鳥は来なかった。
本人は二本のリンガの木を見た後、職員と一緒に雨で落ちた小枝を端へ寄せ、十分ほどで室内へ戻っている。
『本人、「今日は鳥いなかった」と発言。残念そうな様子はあるが、その後は別活動へ移行。』
待っているものが来ない日もある。
それでも一日は続く。
ノルンは記録を保存し、業務端末を閉じた。
◇
帰り支度をしていると、私用端末が震えた。
ミサキからだった。
『湖の町、来週は難しいけど、その次の週なら一日空けられるかも』
ノルンは画面を見つめた。
昨日まで日付のない約束だったものに、初めて具体的な範囲ができた。
まだ日付ではない。
天気も分からない。
ミサキも『空けられるかも』と言っている。
だから、決まったことにしてはいけない。
それでも胸の奥が少しだけ温かくなった。
『私も予定を確認してみます。晴れそうな日があるといいですね』
送る。
しばらくして、
『うん。雨なら無理して行かないで、また焼き菓子でもいいし』
と返ってきた。
ノルンは思わず昨日の会話を思い出した。
『その場合は一人一個ずつですね』
『覚えてた』
『約束しましたから』
送信した直後、ノルンは少しだけ固まった。
約束。
大げさな意味ではない。
焼き菓子を次は一人一個ずつ食べようという、それだけの話だ。
けれどミサキから返ってきたのは、
『そういうところ、好き』
だった。
ノルンの指が完全に止まった。
管理室には、すでに主様しか残っていない。離れた席で書類を片づけていたはずなのに、なぜかこちらを見た。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「顔赤いよ」
「室温です」
「さっき窓開けたけど」
「では、歩いてきたからです」
「ずっと座ってたよね?」
「主様」
「はい」
主様は笑いを堪えながら視線を逸らした。
ノルンは端末へ戻る。
『そういうところ、好き』
それが恋愛の告白なのか、性格の一部を好ましく思っているという意味なのか。
文面だけでは決められない。
今までの二人の関係を考えれば、何も感じない方が不自然ではある。
けれど、ここで意味を確定させる必要もない。
(……何と返せばいいんでしょう)
歴史資料なら、確認できることと確認できないことを分ければいい。
だがこれは、そういう問題ではなかった。
少し考えた末、ノルンは、
『ありがとうございます。私も、ミサキさんと一緒にいる時間は好きです』
と打った。
送信ボタンの上で指が止まる。
消そうかと思った。
別の言い方へ変えようとも思った。
けれど、それは嘘ではない。
むしろ『楽しいです』だけへ逃げる方が、自分の気持ちから少し離れるように感じた。
ノルンは送信した。
返事はすぐには来なかった。
その数十秒が、妙に長い。
やがて端末が震える。
『それ、ちょっと嬉しい』
その後に、
『じゃあ晴れるといいね』
と続いた。
ノルンは画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
『はい。晴れるといいですね』
今度は迷わず返した。
◇
管理室を出ると、夕方の空には薄い雲が残っていたが、西の端は明るかった。雨上がりの空気は少し冷たく、濡れた土の匂いの中へ、どこかの家から夕食を作る香りが混じっている。
ノルンは歩きながら、今日読んだ資料を思い返した。
記録上の一つ。
比較上の一つ。
特徴上の一つ。
発生条件上の一つ。
発生源としての一つ。
主体としての一つ。
個体としての一つ。
そして、接続上の一つ。
『一つ』という言葉だけでも、中身はこれほど違う。
管理の都合で一つにまとめたからといって、世界の向こう側に一人がいるとは限らない。
反対に、別々に管理しているからといって、別々の存在だとも限らない。
だから制度は何度も立ち止まった。
『対象』という言葉を置く場所を探しながら、その言葉が事実より先へ進まないようにしていた。
それでも現場では、便利さや説明の必要性や技術上の形から、『第七』という一つの何かが少しずつ想像され始めている。
次に読むのは、
『外在側識別呼称・教育利用可否』
である。
そこで呼称が導入されたとしても、それだけで個体が生まれるわけではない。
採用されたとしても、何を指すための呼称なのかを確認しなければならない。
(名前が付いたから存在が確定するわけではありません)
今日までの資料が、それを何度も教えている。
その一方で、私用端末にはミサキとのやり取りが残っていた。
『そういうところ、好き』
『私も、ミサキさんと一緒にいる時間は好きです』
こちらは、意味を分類表へ入れる必要などない。
少なくとも、自分がそう返したかったことだけは確かだった。
ノルンは少し冷たい夕方の空気を吸い込み、歩幅を緩めることなく帰路を進んだ。
湖の町へ行ける日は、まだ決まっていない。
次に焼き菓子を食べる日も決まっていない。
歴史資料の『第七』が何へ変わっていくのかも、まだ分からない。
けれど、決まっていないことと、何も進んでいないことは同じではなかった。




