第百三十話 番号が一人を指すまでには、まだ距離がありました
翌朝、管理室の窓には細かな雨粒が付いていた。
強い雨ではないものの、庭の石畳はすっかり濡れており、軒先から落ちる雫が一定ではない間隔で地面を叩いている。換気のために窓を開けるには少し肌寒く、ノルンは室内の空気を入れ替える設備だけを動かしてから、自分の席へ着いた。
「今日は庭、無理そうだね」
主様が窓の外を見ながら言う。
「散歩のことですか?」
「ルーク。昨日、鳥見てたでしょ」
「本人が今日も庭へ出たがっているとは限りませんよ」
「そうだった」
主様は素直に頷き、すぐに自分の端末へ視線を戻した。
昨日見た行動が今日も続くとは限らない。
そんな当たり前のことを、観察する側ほど忘れやすい。
ノルンも現在の観測画面を開き、昨日までの状態をそのまま今日へ持ち込まないよう、一つずつ確認していった。
低強度識別不能反応について、新しい通知対象事象はない。
閾値未満の新規変動もない。
確認済みの三件について、再解析による状態変更もなかった。
発生源、対象、意味、意図、同一源性、音声・言語性、既知分類との関係はいずれも未確認。観測密度は通常のままで、人物への通知や聞き取りを行う理由も生じていない。
「変化なしです」
「了解」
主様はそれ以上尋ねなかった。
ノルンも画面を閉じる。
昨日見つけた三つの歴史文書が頭の隅には残っていたが、朝からそこへ飛び込むつもりはなかった。
◇
セレナの表示試験は、予定されていた限定期間の最終日を迎えていた。
試験対象となった分析担当者たちから最後の回答が集まり始めている。
第三案では、左右や上下の箱へ明確に分割せず、最初に、
『以下は、同じ観測事象について現在確認できている情報と、まだ確認できていない情報です。』
と説明し、その後へ二つの見出しを続ける。
昨日までの結果では、左右項目の一対一対応という誤読も、下段を重要度の低い情報だと見る誤読も減っていた。一方で、『確認できている情報』だけを読んで判断し、後半を流し読みする者が一人いた。
セレナは、その一人への追加確認を終えたところだった。
「判断理由、返ってきた」
「どうでしたか?」
「三件あることと、観測密度を増やす必要がないってところを見て、今まで通りでいいって判断したんだって。あと、意味とか発生源が分からないことは前の日までに読んでたから、今回は後ろをちゃんと読まなかったって」
「必要情報へ到達できなかったわけではなさそうですね」
「うん。でも、毎回読んでないのは大丈夫?」
ノルンは回答記録を開いた。
対象者は、『未確認事項に変更があった場合はどうするか』という追加質問には正しく答えている。
『変更表示があれば確認する。意味・対象・同一源性等が新たに確認された場合、管理判断が変わる可能性があるため。』
「現在の状態を以前に確認していて、変更がないと分かったうえで省略したのであれば、必ずしも問題ではないと思います」
「全部読ませる画面じゃなくて、必要なとき読める画面?」
「その方が近いですね。ただし、何が変更されたか分からない表示では困ります」
「じゃあ変更部分が分かるようにした方がいい?」
「それは別の試験が必要になります」
「ああ……また増えた」
セレナは苦笑したが、以前のように『全部直さなければならない』という顔ではなかった。
表示を一度作れば終わるわけではない。
だからといって、すべての可能性を同時に解決する必要もない。
「今回の試験では、どこまで決めますか?」
ノルンが尋ねると、セレナは手元の記録を見直した。
「『音声・言語性:確認できない』はやめて、『現時点で音声・言語として扱える根拠なし』の方を採用候補にする。配置は第三案を候補にする。でも正式採用の前に、変更表示の見せ方だけ小さく試す」
「よいと思います」
「正式採用候補、で止める?」
「はい。今回の試験だけで完成形と決める必要はありません」
セレナは頷き、試験結果へそのまま入力した。
◇
雨のため庭へ出なかったルークは、午前中を共有室で過ごしていた。
窓の近くには座っているものの、外を見続けているわけではない。先日から読んでいる果物の本を開き、昨日見つけた赤紫色の実とは別の頁を眺めている。
やがて雨脚が少しだけ強くなると、本から顔を上げた。
「今日、鳥来ないかな」
近くで記録整理をしていた担当職員が窓を見る。
「雨だから、どこかで濡れないようにしてるかもな」
「鳥って雨の日どこにいるの?」
「木の中とか、軒下とかじゃないか?」
「本当に?」
「……詳しくないから、たぶん」
ルークは少し笑った。
「知らないこと多いね」
「俺が?」
「僕も」
「じゃあ鳥の本も借りるか?」
「果物の本まだ終わってない」
「終わらなくても別の本読んでいいんだぞ」
「そうなの?」
「誰も一冊ずつ終わらせろとは言ってない」
ルークはしばらく考えた後、果物の本を閉じずに言った。
「じゃあ鳥の本も見たい」
「分かった。午後に探しておくよ」
「でも果物も見る」
「好きにしな」
窓の外では雨が続いている。
リンガの花を見に行けなくても、その日が何もない日になるわけではない。
ルークは再び本へ視線を落とし、今度は焼くと香りが強くなるという橙色の果実の説明を読み始めた。
◇
午前の通常業務が落ち着いたところで、ノルンは歴史資料へ戻った。
昨日残した関連文書は三つ。
『外在反応識別番号体系・統合可否検討』
『比較集合番号と参照番号の混同防止指針』
『外在反応長期追跡対象・個体単位整理案』
時系列では最初の文書から読むのが自然だった。
「今日は統合可否から?」
「はい」
「統合したかどうかを見る?」
「それを先に決めつけないでください」
「『可否』だもんね」
主様は昨日より慎重になっていた。
ノルンは文書を開く。
作成時期は、『第七比較系列・呼称整理案』の翌年度初め。
参加部門は観測研究、記録管理、安全管理、教育。
目的は冒頭にはっきり記されている。
『外在反応関連記録に複数の番号体系が併存し、研究部門外で番号一致を同一対象性と誤認する事例が確認されたため、番号体系の統合可否を検討する。』
対象となった番号は三種類。
参照番号。
比較集合番号。
分類補助番号。
それぞれ役割が違う。
◇
参照番号は、特定の記録や記録群を検索・参照するために付けられる。
ref7もここに属する。
番号自体に人物順や発見順の意味は保証されない。
比較集合番号は、αからηへ対応する検索補助番号。
集合7はη。
比較目的に応じて構成記録が変化する。
分類補助番号は、同一分類内の資料整理に使われる内部番号で、これも主体番号ではない。
「七が三種類あることもある?」
「理論上はありますね」
「嫌だなあ」
「当時の人もそう思ったのでしょう」
実際、検討資料には番号衝突の例が複数記録されている。
『ref3/集合3/分類補助3』
『ref7/集合7』
『ref2/分類補助2』
数字が同じだから同じ対象。
そう読む者が少数ながら存在した。
◇
統合案は三つあった。
第一案。
すべての番号体系を一つの通し番号へ置き換える。
第二案。
番号体系ごとに接頭記号を必須化する。
第三案。
既存番号を維持し、画面上で番号種別を明示する。
第一案は早い段階で却下されていた。
「なんで?」
「過去記録との対応が複雑になるからですね」
既存のref番号を新番号へ振り直せば、古い文書、紙資料、引用記録、教育資料との照合が必要になる。
さらに、比較集合は構成が変わるため、固定された対象番号と同じ体系へ統合すること自体が不適切だという意見も強かった。
第二案は一部採用。
表示上、
『REF-7』
『SET-7』
のように種別を付ける。
ただし古い資料そのものを書き換えるわけではない。
第三案も採用され、画面上では、
『参照番号』
『比較集合番号』
『分類補助番号』
を明示することになった。
「統合しなかった」
「はい」
「分けたまま、分かるようにした」
「そういう結論です」
◇
しかし、検討記録の途中に一つ気になる議論があった。
『長期追跡対象については、既存番号体系とは別に対象単位識別子を設けるべきではないか。』
提案理由。
同じ外在反応候補を長期間追跡する際、参照番号や比較集合だけでは経過をまとめにくい。
ただし、ここで問題になる。
『何をもって同じ対象とするのか。』
反応特徴が似ている。
発生時期が連続している。
同じ参照群に含まれている。
同じ比較集合へ頻繁に入る。
それらだけでは、同一発生源を確定できない。
まして『個体』と呼べる存在がいるかどうかも、反応によっては未確認。
「じゃあ番号付けられない?」
「少なくとも、この段階では簡単ではなかったようです」
議事記録には、研究担当者の反対意見が残っていた。
『対象単位識別子という名称自体が、単一主体の存在を先に確定する危険がある。』
別の担当者。
『しかし長期追跡上、同じ仮説対象に属する可能性のある記録を毎回個別に列挙するのは実務負担が大きい。』
さらに別の意見。
『仮説対象番号とし、同一性未確認を明記してはどうか。』
◇
ノルンはそこを読み返した。
これまでの資料では、言葉が人の理解を先へ進めてしまう事例を何度も見てきた。
今度は逆に、研究者自身がそれを警戒している。
「ちゃんと分かってたんだね」
主様が言う。
「少なくとも、この会議の参加者は問題を認識しています」
「でも後では『第七外在個体』になる」
「後で何が起きたかは、まだ分かりません」
「うん」
主様はそこで止まった。
◇
最終結論。
『既存番号体系の全面統合は行わない。』
『長期追跡対象用の新規主体番号も現時点では導入しない。』
『同一性未確認の反応群を便宜的にまとめる必要がある場合、「追跡仮説群」を使用する。』
番号ではなく、仮説群。
しかも注意書きが付く。
『追跡仮説群は、同一発生源・同一主体・同一個体を意味しない。』
「まだ個体じゃない」
「はい」
この段階では、明確に避けている。
ノルンは次の『比較集合番号と参照番号の混同防止指針』も開いた。
内容は今読んだ検討結果を実務へ落としたもので、大きな新事実はなかった。
REFとSETの接頭表示。
紙資料では『参照7』『比較集合7』と省略せず書く。
口頭でも可能な限り『ref7』『集合7』と区別する。
『七番』『第七』だけで呼ばない。
「『第七系列』は?」
「非推奨表現として載っています」
「やっぱり」
さらに、
『過去資料検索のため「第七系列」は検索別名として維持するが、検索結果上部へ「比較集合ηの旧非正式呼称」と表示する。』
とあった。
◇
ノルンは午前の調査をそこで区切った。
三つ目の『外在反応長期追跡対象・個体単位整理案』へ進めば、明らかに次の段階へ入る。
急ぐ必要はない。
「午後?」
主様が聞く。
「今日は開かないかもしれません」
「えっ」
「午前だけでも十分進みました」
「題名に『個体』ってあるのに」
「だからです」
主様は残念そうにしたものの、すぐに諦めた。
◇
昼過ぎ、フローラは母親と同じ部屋で別々のことをしていた。
母親は届いた手紙を読み、フローラは窓際で本を開いている。
雨音が一定に続く中、しばらく誰も話さなかった。
やがてフローラが頁をめくる手を止める。
「この前の焼き果物、家のも美味しかったです」
「そうね。私は少し甘い方が好きだったわ」
「マリエと行った店のは、もう少し香ばしかったです」
母親が手紙から顔を上げた。
「お店によって違うのね」
「はい」
「また食べたい?」
フローラは少し考える。
「食べたいです。でも、同じ店じゃなくてもいいかもしれません」
「そう」
「別のところもあるでしょうし」
母親は穏やかに頷いた。
誰と行くのか。
いつ行くのか。
そこまでは尋ねなかった。
フローラ自身も、次の予定を決めようとしているわけではない。ただ、外へ出たことで、自分の知らない店や味がまだあると知った。
「マリエ、甘いもの好きだった?」
「好きだと思います。たぶん」
「今度聞いてみたら?」
「そうします」
会話はそれだけで、母親は再び手紙へ戻った。
フローラも本を開き直したが、少しだけ口元が緩んでいた。
◇
午後の管理室では、セレナが試験結果をまとめていた。
五日間の限定試験。
最終的な記録には、正答率だけではなく、誤読の種類、詳細画面への到達、判断理由、自由記述が分けて保存される。
「これで終わり?」
「限定試験は終わりです」
「正式採用はまだ」
「はい」
セレナは自分で答えた。
今回の結果から、第三案を正式採用候補として残す。
『現時点で音声・言語として扱える根拠なし』
という表現も採用候補。
ただし変更箇所の視認性について小規模確認を行ってから、運用責任者へ提出する。
「前だったら、今日決めたくなってたかも」
セレナがぽつりと言った。
「今は違うんですか?」
「決めてもいいところと、まだ試すところを分けた方が楽」
彼女は保存した結果を見ながら肩を回した。
「全部未完成って思うと嫌になるけど、ここまでは決められる、ここだけ残ってるって分けると、そんなに嫌じゃない」
「それはよかったです」
「ノルンも歴史資料でやってるでしょ?」
「何をですか?」
「分かったことと、分からないことを分けるやつ」
「そうですね」
「じゃあ真似した」
「どうぞ」
ノルンが笑うと、セレナも笑った。
◇
午後の生活記録には、ミレイアの巾着について小さな更新があった。
雨で外へ出る予定もなかったため、エリスと一緒に施設内の裁縫用品を見たらしい。
練習用の細い紐を実際に通してみたところ、ミレイアが作った折り返し部分にも問題なく通った。
『本人、「これならフィルネで同じくらいの太さを見る」と発言。完成用の紐は本人希望により後日購入予定。』
接続についての希望確認は行われていない。
状態変更もない。
ノルンはそれだけ確認して閉じた。
◇
エリオたちの盤上遊戯では、初期配置変更案を再試行していた。
前回より後手側の選択肢が増えた一方、今度は中央へ進む価値が少し下がりすぎたらしい。
『もう少しだけ戻す』
というエリオの意見に対し、ラウルは、
『今日は紙を五枚用意した。四枚半使用。』
と記録している。
「主様、当たりましたね」
「何が?」
「昨日、次は五枚渡すかもしれないと」
「あ、本当だ」
主様が嬉しそうにする。
「でも偶然ですよ」
「分かってる。でも当たったのは嬉しい」
「それなら構いません」
予測と証拠は違う。
けれど、日常の紙の枚数まで厳密な観測理論へ持ち込む必要はなかった。
◇
夕方になり、ノルンは午前に読んだ資料の記録を整理した。
『外在反応識別番号体系・統合可否検討を確認。』
『参照番号、比較集合番号、分類補助番号は異なる管理体系。ref7と集合7の番号一致に対象同一性の意味はない。』
『全面統合案は過去記録との対応負担および比較集合の性質上不適切として却下。表示上の種別明示を採用。』
『ref7は参照番号。集合7は特徴比較集合ηの検索補助番号。』
『長期追跡における対象単位識別子の提案あり。ただし「対象」「主体」「個体」と呼ぶこと自体が単一発生源・主体存在を先取りする危険が指摘された。』
『この時点では新規主体番号を導入せず、「追跡仮説群」を採用。同一発生源・同一主体・同一個体を意味しないことを明記。』
『比較集合番号と参照番号の混同防止指針では、REF/SET接頭表示、紙資料での種別明記、「第七」「七番」のみでの呼称回避を採用。』
『「第七系列」は比較集合ηの旧非正式呼称として検索別名に残るが、正式名称・主体番号ではない。』
ここまで入力してから、ノルンは少し考えた。
昨日までに確認した内容も合わせれば、『七』という数字の経路が少し見えてきている。
ref7。
集合7。
非正式呼称の第七系列。
そして後世の第七外在個体。
最初の三つまでは、この時代ですでに存在している。
最後の一つだけが、まだここにはない。
『現段階で、「第七」という番号が単一外在個体の正式識別番号へ転化した事実は確認されない。』
『むしろ当時の正式検討では、主体番号化を見送り、番号混同を防止する方向へ修正されている。』
保存した。
◇
そこまで終えたところで、主様が珍しく少し真面目な声を出した。
「ねえ、ノルン」
「はい」
「ちゃんと直してるのに、後で変わっちゃうんだね」
ノルンはすぐには答えなかった。
古い資料を見ていると、過去の管理者たちが何も考えていなかったようには見えない。
誤解が起きれば調査している。
表示を直している。
用語を変えている。
番号を分けている。
講師へ注意している。
検索別名には警告を付けている。
それでも後世には、『十三年待った第一接続者』『名前を呼び続けた外在者』『第七外在個体』のような、当時の資料だけでは支えられないほど整理された物語が残っている。
「一度直したから、その後ずっと正しく伝わるとは限らないのでしょうね」
「失敗したってこと?」
「それも、まだ簡単には言えません」
ノルンは椅子へ深く座り直した。
「当時の業務では十分に機能した修正もあります。誤解した人が説明を受けて正しく理解した記録もありますし、正式資料が改善されたことで誤読が減った例もあります」
「でも全部は残らなかった」
「はい」
「なんか難しいね」
「難しいです」
正しく記録すること。
正しく教えること。
正しく受け取られること。
正しく記憶されること。
そして何年も後まで、同じ意味で使われ続けること。
それらは同じではない。
◇
ノルンは机の端に置いていた紙へ、四つの言葉だけを書いた。
『ref7』
『集合7』
『第七系列』
『第七外在個体』
主様が覗き込む。
「並べるとすごく怪しい」
「だから並べ方にも注意が必要なんです」
「書いたのノルンなのに」
「比較するためです」
「後の人がその紙だけ見たら?」
ノルンは手を止めた。
「……捨てます」
「えっ」
「正式記録には区別を書きましたから、この紙は要りません」
ノルンは四つの言葉を並べただけの紙を破棄箱へ入れた。
主様が笑う。
「昨日の検索履歴と同じだね」
「はい。途中の作業だけ見れば、考えていたことと違う意味になる場合があります」
「じゃあ僕の落書きも危ない?」
「内容によります」
「ノルンが怒ってる絵」
「今すぐ捨ててください」
「まだ描いてないよ」
「なら描かないでください」
◇
終業時刻が近づいた頃、雨はほとんど止んでいた。
窓の外はまだ曇っているものの、庭の石畳に落ちる雫は軒先からのものだけになっている。
ノルンが帰り支度をしていると、ミサキから連絡が届いた。
『今日こっち雨だった』
添えられていたのは、窓越しに撮ったらしい一枚の写真だった。
濡れた道と、小さな水たまり。
特別な景色ではない。
『こちらもです』
ノルンは返した。
『湖の町、雨だと石畳すべるって書いてあったの思い出した』
『昨日の地図ですね』
『そう』
少し間が空いてから、
『晴れてる日に行きたい』
と届く。
ノルンは指を止めた。
昨日、自分は『行ってみたいですね』と送った。
ミサキも『私も』と返した。
今日の文章も、まだ日程の提案ではない。
誰と行くとも書かれていない。
(でも、私はどうしたいんでしょう)
考えてみる。
本屋が四軒。
湖。
焼き菓子。
手書き地図。
そして、それを見つけるたびに送ってきたミサキ。
ノルンは少し迷ってから入力した。
『晴れている方が歩きやすそうですね』
送ろうとして、止める。
それだけなら間違ってはいない。
けれど、自分が思っていることを少し避けている気がした。
一度消す。
『いつか一緒に行けたら楽しそうです』
今度は送信した。
送った直後、胸のあたりが少し落ち着かなくなる。
(約束ではありません。日程も決めていません。ただ、行けたらと言っただけです)
自分に説明している時点で、少し気にしているのだろう。
しばらくして返事が来た。
『うん。私もそう思ってた』
その下に、少し遅れてもう一通。
『晴れた日にね』
ノルンは画面を見ながら、自然に頬が緩むのを止められなかった。
『はい』
それだけ返した。
まだ約束ではない。
日程もない。
けれど、一人で『行ってみたい』と思っていた場所が、二人で『行けたら』と思う場所へ少しだけ変わった。
今は、それで十分だった。
◇
帰る前、ノルンは未読資料の一覧を一度だけ開いた。
『外在反応長期追跡対象・個体単位整理案』
今日も開かなかった文書。
作成時期は、番号体系統合可否検討からさらに後。
概要欄には短い説明があった。
『追跡仮説群運用後、一部群で長期間にわたり共通特徴が維持されたことを受け、管理単位再整理を検討する。』
ノルンの視線がそこで止まる。
一部群で、長期間にわたり共通特徴が維持された。
それは新しい情報だった。
ただし概要は続いている。
『共通特徴の維持のみをもって単一主体・単一個体とは確定しない。』
「ノルン」
主様が後ろから呼んだ。
「今日は開きません」
「まだ何も言ってないよ」
「主様の声で分かりました」
「僕、そんなに分かりやすい?」
「かなり」
ノルンは文書を閉じた。
新しい証拠が出たのかもしれない。
それでも、まだ単一個体とは確定していない。
ならば、その時代の人々がどこまでを見て、どこから先を保留したのかを、次にきちんと読めばいい。
急いで後世の答えへ合わせる必要はなかった。
◇
夜。
誰もいなくなった管理室では、歴史資料の画面も閉じられていた。
そこに表示されていない過去の記録の中で、ref7はまだref7であり、集合7はまだ比較集合ηであり、第七系列はその非正式な呼び方にすぎなかった。
少なくとも、ノルンが今日までに確認した時点では。
その後、どこかで何かが変わる。
長期追跡される反応群。
維持される共通特徴。
主体番号化を一度は見送った管理者たち。
そして後世に残った、『第七外在個体』という言葉。
間にはまだ距離がある。
その距離を飛び越えず、一つずつ確かめることこそ、今のノルンにできる観察だった。




