第百三十一話 長く似ていたことと、一人だったことは同じではありません
雨の翌朝、管理施設の庭にはまだ水の匂いが残っていた。夜のうちに雲は抜けたらしく、窓から差し込む朝の光が濡れた石畳へ反射し、普段より少しだけ明るく室内の天井を照らしている。
ノルンは自席へ着くと、いつものように現在の観測状態から確認した。昨日までに記録されている三件の低強度識別不能反応について、新たな通知対象事象はなく、閾値未満の追加変動も確認されていない。観測密度も通常のままで、誰かへ確認を求めたり、九人の生活へ新しい介入を加えたりする理由は生じていなかった。
「今日も増えてない?」
少し離れた席から主様が尋ねてくる。
「増えていません。再解析による分類変更もありません」
「じゃあ三つのまま」
「はい。ただし、『同じものが三回来た』ではありませんよ」
「分かってるよ。三件あるだけ」
主様は少し得意そうに答えた。
以前なら、その言い直しにもう一つ注意を重ねていたかもしれない。しかし今日は必要ないと判断し、ノルンは観測画面を閉じた。理解している相手へ何度も同じ説明を繰り返すことも、情報を正しく扱う方法とは限らない。
机の隅には、昨日閉じたままにした歴史資料の題名が残っている。
『外在反応長期追跡対象・個体単位整理案』
題名だけを見れば、ようやく『個体』という言葉が正式な管理へ入ってくる資料にも見える。
だが、その読み方こそ危ない。
概要にはすでに、
『追跡仮説群運用後、一部群で長期間にわたり共通特徴が維持されたことを受け、管理単位再整理を検討する。』
とある一方で、
『共通特徴の維持のみをもって単一主体・単一個体とは確定しない。』
とも記されている。
ノルンは題名と概要をもう一度見比べた。
(個体単位を採用した記録ではなく、個体単位で整理してよいかを検討した記録かもしれません)
昨日までに読んだ資料でも、『検討』『案』『可能性』という言葉が、後世では結果だけを示すように扱われている例があった。
「開く?」
「今日は開きます」
「おお」
「なぜ主様が嬉しそうなんですか」
「昨日から気になってたから」
「私も気になっています。ただし、先に答えを決めないでくださいね」
「第七外在個体になった資料だって決めない」
「それだけではなく、単一の何かが確認された資料だとも決めません」
「分かった」
主様が椅子を寄せる。ノルンは画面の共有範囲を調整してから、資料を開いた。
◇
文書は、想像していたよりも長かった。
作成時期は、前日に確認した番号体系の統合検討から一年余り後。最初に表示されたのは結論ではなく、長期追跡業務で生じている実務上の問題だった。
『追跡仮説群は、同一性未確認の複数記録を検討上まとめる手段として有効である。一方、追跡期間の長期化に伴い、群内記録の追加・除外・再比較履歴が増加し、群名のみでは現在の構成根拠を把握しにくい事例が生じている。』
その下には、三つの例が挙げられていた。
一つ目は、数か月の間に似た強度推移を示した複数反応をまとめたものの、後から一件だけ異なる発生条件だったと判明し、群から外された例。
二つ目は、当初は別々の追跡仮説群だった二群に一部共通特徴が見つかり、比較のため一時的に重複登録された例。
三つ目は、長期間にわたりいくつかの共通特徴が維持されながらも、同一発生源と判断できるだけの情報が得られず、群としての追跡だけが続いている例だった。
「三つ目が、概要にあったやつ?」
「可能性はあります。ただ、まだ特定できません」
「名前ないね」
「この頁ではありませんね」
各例は『例A』『例B』『例C』とだけ記され、ref番号も比較集合番号も伏せられている。
どうやら、この資料自体が特定事例の結論を出すためではなく、管理方法を検討する目的で作られたものらしい。
ノルンは次の頁へ進んだ。
◇
検討の中心にあったのは、『何を追跡単位と呼ぶか』だった。
当時使われていた『追跡仮説群』は、あくまで研究上のまとまりであり、構成記録が変化する。新しい比較結果が出れば記録が加わることもあり、逆に以前は似ていると思われていた記録が外されることもある。
それでは、長期経過を管理する担当者が『同じ仮説についての記録なのか』『似た別仮説なのか』を毎回確認しなければならない。
そこで出されたのが、『個体単位整理』だった。
「ここだ」
主様の声が少し小さくなる。
ノルンも視線を止めた。
『案一:長期追跡個体番号を新設し、一定期間以上共通特徴が維持された追跡仮説群へ付与する。』
条件案として挙げられているのは、継続期間、複数回の特徴一致、異なる観測条件下での共通性、明確な反証の不存在などだった。
しかし、その直後から反対意見が続く。
『「個体番号」は、観測対象が単一個体として確認されたとの誤認を招く。』
『特徴維持は発生源固有性を支持しうるが、観測系固有、環境条件固有、複数源に共通する生成機構等を除外しない。』
『同一特徴を保持する反応が長期間観測されたことと、同一主体が長期間反応したことを区別すべきである。』
主様が画面を見たまま眉を寄せた。
「これ、今の三件にも似てる?」
「考え方は似ていますが、同じ事例ではありません。今の三件は長期追跡群ですらありませんから、そこを混ぜないでください」
「うん。似てるってだけ」
「はい」
現在の三件では、二件目と三件目に反復構造候補があり、形状の部分的類似も確認されている。しかし、それだけで同一源とは判断していない。
昔の研究者たちも、より長い期間、より多くの反応を扱いながら、同じ種類の境界に悩んでいた。
◇
次の頁には、『特徴が維持される』という表現そのものへの注意が記されていた。
ある反応群では、強度推移の一部、開始部の立ち上がり方、終了部の減衰傾向など、複数の観測項目に似た特徴が繰り返し現れていたらしい。
しかし、すべての特徴が毎回一致するわけではない。
ある記録では強度推移が似ていても、持続時間が異なる。
別の記録では開始部が似ていても、終了部が異なる。
さらに別の記録では、観測条件を補正すると一致度が下がる。
そのため資料では、『共通特徴』と『同一パターン』を区別するよう求めていた。
「同じ模様がずっと出てたわけじゃないんだ」
「そうですね。少なくとも、この説明ではそうです」
「じゃあ『長期間共通特徴が維持』って、思ってたより弱い?」
ノルンは少し考えた。
「弱いというより、意味が限定されています。複数の記録に、比較上共通して扱える特徴が長期間見つかっていた、ということですね。それがどの程度強い証拠になるかは、比較対象や観測条件を見ないと判断できません」
「『ずっと同じ声だった』とかじゃない」
「そのような記述はありません」
主様は納得したように頷いた。
ノルンは、その反応を見て少し安心した。
資料の短い要約だけを読めば、『長期間共通特徴が維持』という言葉は、同じ何者かが同じ特徴を出し続けたように聞こえる。しかし本文では、その解釈を明確に避けている。
(要約は間違っていなくても、本文より強く見えることがある)
そのこと自体は、これまで何度も見てきた。
だからこそ、今回は要約の言葉だけを後世の『第七外在個体』へつなげてはいけない。
◇
資料の中ほどに、具体的な追跡仮説群一覧があった。
すべてではない。
個体単位整理の検討対象になった、長期追跡中の群だけが抜粋されている。
群名は記号化されており、横に追跡期間と主な共通特徴、異論、現在状態が並ぶ。
ノルンは一行ずつ確認していった。
最初の二群には見覚えがない。
三つ目も、過去に読んだ資料との直接対応は見つからない。
そして四つ目。
『追跡仮説群R-7』
主様が息を吸った。
ノルンは何も言わず、その行を最後まで読んだ。
『主要参照記録:REF-7関連記録を含む』
『比較履歴:SET-ηへの複数回選定あり』
『追跡期間:長期』
『共通特徴:反応開始部の一部構造、反復間隔偏り候補、複数変換条件下で保持される低次特徴の一部』
『不一致・留保:持続時間差、強度差、変換後知覚差、同一源性未確認、主体性未確認』
『状態:追跡継続』
「……七が増えた」
主様が困ったような声を出した。
「増えましたね」
「R-7って、七番目の人じゃないよね?」
「この資料上は違います。追跡仮説群の識別記号です」
「REF-7も入ってて、SET-ηにも何回か入ってて、R-7?」
「はい」
「後から見ると、すごく一人っぽい」
ノルンも同じことを感じていた。
参照番号の七。
比較集合の七。
追跡仮説群のR-7。
それぞれ別の管理目的から付いた番号であり、少なくとも前の二つは番号一致に対象同一性の意味がない。
しかし、同じ資料群を長く扱ううちに、それらが近い場所へ集まり始めている。
「R-7の七は、REF-7から取ったんでしょうか」
主様が尋ねる。
「確認します」
ノルンは名称付与規則を探した。
数頁後に、追跡仮説群の識別記号についての注記がある。
『既存運用との照合負担を軽減するため、主要参照記録番号を仮説群識別記号へ転用した事例あり。番号は主体順・個体順を意味しない。』
「取ってる」
「はい。ただし、理由は照合しやすくするためです」
「REF-7が中心にあるからR-7」
「主要参照記録番号を使った、というところまでですね。REF-7が何を一件としてまとめているのかは、別途確認が必要です」
「また一個止まった」
「止めるべきところです」
主様は苦笑した。
◇
さらに重要な注意書きがあった。
『追跡仮説群R-7は、REF-7関連記録のすべてを含まない。』
『SET-η選定記録のすべてを含まない。』
『R-7構成記録の一部は、他の比較集合にも選定されている。』
『R-7内部でも同一発生源性は未確認。』
つまり、三つの『七』は重なっているが、一致していない。
円を三つ描けば、中央に重なる部分はあるものの、それぞれ外側へはみ出す部分が残る。
「これ、昨日紙に書いてた四つより、もっと危ないね」
「どうしてですか?」
「だって、今度は本当に関係ある七が三つあるから」
ノルンは主様を見た。
少し驚いた。
主様は画面の一覧を指さしながら続ける。
「昨日のは、同じ七でも別の番号だったでしょ。でもR-7はREF-7を使って付けたんだから、関係はある。でも関係あるからって、全部同じってことじゃない」
「……その通りです」
「合ってる?」
「はい」
主様は満足そうに笑った。
「僕、成長してる」
「自分で言わなければ、もう少し感心できたんですが」
「言わないと褒めてくれないかもしれないし」
「褒めるために観察しているわけではありません」
「でも今ちょっと褒めようとしたでしょ」
ノルンは答えず、次の頁へ進んだ。
◇
午前の調査はそこで一度止めた。
資料の後半には、個体単位整理案に対する試験運用が収録されているらしい。だが、そこへ入る前に、現在の業務を確認する必要があった。
管理室の外では雨上がりの庭へ職員が出始めている。濡れたベンチを布で拭き、通路に溜まった小さな水たまりを避けるための案内札を置いていた。
ルークの生活記録には、朝食後の希望として、
『昨日借りる予定だった鳥の本を見たい』
とある。
昨日の担当職員が忘れずに用意してくれたらしく、共有室の机には果物の本と鳥の本が並んでいた。
◇
ルークは最初、鳥の本だけを読むつもりだった。
ところが頁を開いて間もなく、昨日窓の外で気にしていた鳥らしい絵を見つけたものの、説明文には似た色の別種が三種類載っていた。
「どれだろ」
担当職員も隣から覗き込む。
「昨日見たの、もう少し尾が長くなかったか?」
「分かんない」
「俺も分からん」
「写真撮ってない?」
「撮ってないな」
ルークは少し残念そうに本を見たが、すぐに三種類の絵を順番に見比べ始めた。
「次に来たら見る」
「何を見る?」
「尾っぽ。あと、お腹の色」
「覚えてたらな」
「忘れたらまた見る」
その返事に、担当職員は小さく笑った。
見分けられなければ困るわけではない。次に来た鳥が昨日と同じ鳥である必要もないし、鳥の名前を覚える義務もない。
ルークはしばらく鳥の本を読んだ後、隣に置いていた果物の本も開いた。二冊を同時に広げたため机が狭くなり、少し考えてから鳥の本を縦向きにずらす。
「本、二冊読んでもいいんだね」
「昨日言っただろ」
「やったことなかったから」
「三冊でもいいぞ」
「置けない」
「そこが問題か」
担当職員が笑うと、ルークも笑った。
その後、彼は鳥の頁と果物の頁を行き来しながら、どちらも最後まで読もうとはしなかった。
◇
昼休みの前、セレナがノルンの席へ来た。
「変更表示の小さい試験、明日から二人だけでやっていいって」
「許可が出たんですね」
「うん。内容が変わったところだけ薄く印を付ける案と、『前回確認時から変更あり』って文字を出す案。どっちが先に気づくかじゃなくて、変更内容までちゃんと確認できるかを見る」
「よいと思います。印だけ見て内容を読まない可能性もありますから」
「それも見る」
セレナは手元の資料をめくりながら、少し迷うようにノルンの画面へ目を向けた。
「歴史の方、進んだ?」
「少しだけです」
「何か分かった?」
「番号が増えました」
「……嫌な言い方」
「私もそう思います」
セレナは笑ったが、詳しくは尋ねなかった。
ノルンも説明しない。
まだ途中である。
R-7という記号が出てきたことだけを話せば、かえって『第七』への連想を強くしてしまうかもしれない。共有する必要が生じたとき、背景ごと伝えればよい。
◇
午後、ノルンは再び『外在反応長期追跡対象・個体単位整理案』を開いた。
後半に収録されていたのは、三か月間の試験運用記録だった。
個体番号は正式導入しない。
代わりに、追跡仮説群のうち一定条件を満たすものへ『長期追跡単位』という表示を追加し、担当者が長期経過を追いやすくする。
ただし、画面上部には必ず、
『本単位は管理上の追跡まとまりであり、単一主体・単一個体の確認を意味しない。』
と表示する。
「個体って消えた」
「案の題名には残っていますが、試験運用では避けたようですね」
「じゃあR-7も長期追跡単位になった?」
対象一覧を見る。
R-7は含まれていた。
ほかにも複数の仮説群が対象となっている。
試験開始時点で、R-7の表示は、
『長期追跡単位R-7』
だった。
その横には注意表示。
『主体数:未確認』
『同一発生源性:未確認』
『意図性:未確認』
『言語性:未確認』
「かなり書いてあるね」
「誤認を警戒していたのでしょう」
試験参加者は観測研究だけではなく、記録管理、安全管理、教育補助から選ばれていた。
最初の理解確認では、多くが『長期追跡単位』を管理上のまとまりとして理解した一方、少数が『一つの対象を長く追跡している』と回答している。
追跡する『単位』という言葉だけでも、一つの存在を想像する者がいたらしい。
◇
その誤読を受けて、表示は修正された。
『長期追跡記録群R-7』
さらに注意書き。
『記録群内の反応が同一発生源・同一主体に由来するかは未確認。』
再試験では誤読が減った。
しかし、別の問題が出る。
『記録群という名称では、長期的に同じ特徴を追っていることが把握しにくい。』
担当者の一人は、
『毎回構成記録を開かないと、なぜ同じ群として追跡しているのか分からない。』
と記している。
「分かりやすくすると一人っぽくなるし、一人っぽくなくすると何を追ってるか分かりにくい」
「そうですね」
「これ、今の画面と似てない?」
主様が言った。
ノルンはすぐに肯定せず、少し考えた。
「似た問題はあります。ただ、扱っている情報は違います。今の表示試験は確認済みと未確認をどう見せるかで、この資料は追跡上のまとまりをどう名付けるかです」
「同じじゃないけど、困り方がちょっと似てる?」
「その表現ならよいと思います」
情報を短くするほど、関係が強く見えることがある。
細かく書くほど、必要な情報へ辿り着きにくくなることがある。
当時の管理者も、その間で調整していた。
◇
試験終了時の採用案は、
『長期特徴追跡群R-7』
だった。
定義は、
『複数時点の記録間に継続して比較対象となる共通特徴が存在するため、長期的な比較を行う記録群。群内記録の同一発生源性、主体数、個体性を保証しない。』
個体という言葉は、管理単位名から外された。
正式運用開始時の注意事項には、
『口頭説明において「R-7個体」「七番個体」「第七対象」等へ省略しないこと。』
とまで書かれている。
ノルンはそこを二度読んだ。
「『第七対象』まで禁止してる」
主様も気づいた。
「はい」
「後の名前に近いのに」
「だからといって、ここから直接変化したとはまだ言えません」
「でも、そう呼びそうな人がいたから禁止したのかな?」
「可能性はあります。ただ、実際に使われていたか、予防的に挙げただけかは、この文章だけでは分かりません」
「そっか」
ノルンは注記欄を確認した。
そこには、
『試験中、口頭で「R-7対象」と略した例二件あり。いずれも担当者本人は単一主体確定の意図なし。聞き手側の理解は未確認。』
と記されていた。
「使ってた」
「『R-7対象』は使われていますね。ただし『第七対象』ではありません」
「またちょっとだけ近づいた」
「距離を勝手に縮めないでください」
「ちょっとだけも駄目?」
「事実としては、管理記号が口頭で対象のように呼ばれた例が確認された、までです」
主様は口を尖らせたが、反論はしなかった。
◇
さらに一年後の追記が付いていた。
長期特徴追跡群R-7は、その後も継続している。
共通特徴の一部は維持。
いくつかの記録は除外。
新しい記録が追加。
そして、主体数については依然として未確認。
ただし、研究上の記述が少し変化していた。
『R-7内で長期維持される特徴群について、単一発生条件または限定された発生条件群に由来する可能性を継続検討する。』
「単一発生源じゃなくて、単一発生条件?」
「はい」
「違うの?」
「かなり違います」
同じ装置条件。
同じ環境条件。
同じ種類の現象。
同じ発生源。
同じ主体。
同じ個体。
それらは一致する場合もあるが、最初から同じ意味ではない。
この時点の研究者は、まだ『誰か一人』へ進んでいない。
◇
ところが、その追記の末尾に関連資料が三件示されていた。
『長期特徴追跡群R-7・発生条件比較』
『外在反応主体仮説の適用条件』
『長期特徴追跡群に対する識別呼称導入検討』
ノルンの視線が最後の題名で止まる。
「識別呼称」
主様も読む。
「番号じゃない?」
「分かりません」
「名前?」
「それも分かりません」
「呼称って何?」
「区別して呼ぶための表現全般です。人物名とは限りません」
「開く?」
ノルンは関連資料の作成年を確認した。
今読んでいる資料の追記から、さらに少し後。
「今日は開きません」
「やっぱり」
「今読んだ内容を先に整理します」
主様は机へ突っ伏すような姿勢になった。
「ノルン、最近すごく止まれるようになったね」
「褒めていますか?」
「半分」
「残り半分は?」
「気になる」
「私もです」
ノルン自身、続きを開きたい気持ちはある。
それでも、今まで何度も見てきた。
次の資料の題名を見つけた瞬間、それが答えに見えることがある。
だから今日は、そこまでにした。
◇
夕方、ミレイアは裁縫机の前で、昨日試した細い紐を指先で転がしていた。
エリスは向かい側で別の布のほつれを直している。
「これくらいなら通る」
「そうね」
「フィルネに同じくらいのあるかな」
「たぶんあると思うけど、色もいろいろあるでしょうね」
ミレイアは自分の布を見る。
「薄い緑だから……」
少し考えた後、練習用の紐を布の上へ置いた。
「同じ色じゃない方がいいかも」
「どうして?」
「同じだと見えないから」
「なるほど」
エリスはそれ以上、色の意味を尋ねなかった。
ミレイアも接続のことを話さない。
今考えているのは、作りかけの巾着にどんな紐を通すかだけだった。
「濃い緑?」
「いいと思う」
「茶色もあるかな」
「フィルネならありそうね」
「見てから決める」
「そうしましょう」
ミレイアは少し楽しそうに、二色を想像するように布を持ち上げた。
◇
管理室へ戻ったノルンは、今日の歴史調査を記録へまとめた。
『「外在反応長期追跡対象・個体単位整理案」を確認。』
『追跡仮説群の長期化に伴う管理負担から、個体番号・対象単位識別子の再検討が行われた。』
『一定期間の共通特徴維持は確認される事例があったが、特徴維持は単一発生源・単一主体・単一個体を確定しない。観測系、環境条件、複数源共通機構等の可能性を除外しない。』
『追跡仮説群R-7を確認。主要参照記録としてREF-7関連記録を含み、SET-ηへ複数回選定された記録を含む。ただし三者の構成範囲は一致しない。』
『R-7の番号は、主要参照記録番号を照合負担軽減のため転用したもの。主体順・個体順を意味しない。』
『R-7内部でも同一発生源性・主体性は未確認。』
『個体番号の正式導入は見送り。試験上「長期追跡単位R-7」→誤読対策で「長期追跡記録群R-7」→正式運用時「長期特徴追跡群R-7」へ調整。』
『定義:複数時点の記録間に継続して比較対象となる共通特徴が存在するため長期比較する記録群。群内記録の同一発生源性、主体数、個体性を保証しない。』
『口頭で「R-7対象」と略した例二件あり。担当者に単一主体確定の意図なし。聞き手側理解は未確認。「R-7個体」「七番個体」「第七対象」等への省略は禁止。』
『後年追記でも主体数未確認。研究表現は「単一発生条件または限定された発生条件群に由来する可能性」の継続検討に留まる。』
『関連資料として「長期特徴追跡群に対する識別呼称導入検討」を確認。未読。呼称の内容・目的・後世の「第七外在個体」との関係は未確認。』
保存する。
そして最後に、もう一行だけ加えた。
『現段階では、「第七外在個体」の成立を示す証拠なし。REF-7、SET-η、R-7は相互に一部関係するが、同一範囲・同一対象を意味しない。』
◇
記録を閉じる前に、ノルンは少しだけ椅子から離れて画面を見た。
昨日までは、七という数字が偶然に重なっている部分が大きかった。
今日、そこへR-7が加わった。
R-7の七は、REF-7を意図的に引き継いでいる。
初めて、『七』が別の管理単位へ明確に受け渡されたことになる。
けれど、その受け渡しは人物を示すためではない。
照合を楽にするためだった。
(ここは、かなり大事ですね)
数字は引き継がれた。
意味まで同じように引き継がれたわけではない。
むしろ当時の文書は、その数字が個体番号へ見えないよう何度も注意している。
それでも後世では、『第七外在個体』という言葉が成立している。
ならば、問題は『七がどこから来たか』だけではない。
七が残り続ける間に、何を指す数字だと理解されるようになったのか。
そこを見なければならない。
◇
帰り支度を始めた頃、主様がふと思い出したように言った。
「昨日の紙、捨ててよかったね」
「何の話ですか?」
「ref7、集合7、第七系列、第七外在個体って書いたやつ」
「はい」
「今日だったらR-7も追加してたでしょ」
「追加していたかもしれません」
「五個並んでたら、もっと同じものっぽい」
「そうですね」
ノルンは鞄の留め具を閉じながら、少しだけ笑った。
「だから、正式記録には関係と違いの両方を書きました」
「明日、六個目出たりして」
「縁起でもないことを言わないでください」
「番号増えるだけなら縁起悪くないよ」
「管理する側には十分悪いです」
主様が声を立てて笑った。
◇
施設を出る頃には、朝の水たまりもほとんど消えていた。
西の空には細長い雲が残っているものの、その隙間から夕方の淡い光が差し込み、濡れていた屋根を薄く照らしている。
ノルンは歩きながら端末を確認した。
ミサキから新しい連絡はない。
昨日、『いつか一緒に行けたら楽しそうです』と送ったことを思い出すと、まだ少しだけ胸の奥がむず痒い。
けれど、今日は自分から何か送ろうとは思わなかった。
行きたい気持ちは伝えた。
ミサキも同じだと返してくれた。
次に話したくなったとき、また話せばいい。
ノルンは端末をしまい、雨上がりの道を歩いた。
◇
同じ頃、記録庫では今日閲覧された歴史資料の参照履歴だけが静かに追加されていた。
REF-7。
SET-η。
R-7。
三つは同じではない。
けれど、完全に無関係でもない。
参照記録が比較へ入り、比較された記録の一部が長期追跡され、その追跡群へ主要参照番号由来の記号が与えられた。
管理上の利便性によって、一つの数字が別の場所へ運ばれていく。
それでも、この時代の資料はまだ慎重だった。
主体数は未確認。
同一発生源性も未確認。
個体性も未確認。
言語性も未確認。
そして『第七対象』と呼ぶことさえ避けようとしていた。
その慎重さが、いつまで保たれたのか。
次に残されている『識別呼称』という言葉が、何を区別するためのものだったのか。
答えはまだ開かれていない資料の中にある。
少なくとも今は、長く似た特徴が続いたという事実と、一人の誰かがそこにいたという結論の間には、まだ越えてはいけない境界が残っていた。




