第百二十七話 まとめるための名前は、誰かの名前ではありません
朝の管理室へ入ったノルンは、机へ向かう前に窓の外を見た。
昨日の雨は完全に上がり、庭には朝から穏やかな光が差している。濡れていた石畳もほとんど乾き、植え込みの葉に残ったわずかな雫だけが、ときおり光を反射していた。
「おはよう」
すでに席へ着いていた主様が声をかけてくる。
「おはようございます」
「今日はリンガに水滴落とされないね」
「ルークが今日も見に行くとは限りませんよ」
「分かってるって」
昨日と似たやり取りになりかけたところで、主様は苦笑しながら端末へ視線を戻した。ノルンもそれ以上続けず、自分の席で現在の観測状況を確認する。
低強度識別不能反応について、新しい通知はない。
通知対象事象は三件のまま。
新規の閾値未満変動もなく、観測密度は通常。発生源、対象、意味、意図、音声性、言語性、既知分類との関係についても、新たに確認されたものはなかった。
ノルンは表示を最後まで確認してから閉じた。
昨日と同じ状態ではある。
けれど、『昨日と同じだから今日は確認しなくていい』とはならない。それと同時に、『何も起きていないことに意味がある』とも考えない。
今朝、新しい観測事実がない。
それだけだった。
◇
セレナが新しい表示試験を始めたのは、午前の通常確認が一段落してからだった。
昨日決めた通り、短い表示だけではなく、その先の詳細画面まで含めて利用者がどう判断するかを見る。
入口表示には二案を残している。
『音声・言語性:確認できない』
『現時点で音声・言語として扱える根拠なし』
詳細画面では、現在確認できていることと確認できないことを分けたうえで、末尾に新しい一文を追加した。
『新しい証拠が得られた場合は再評価する。』
「これなら未来予測じゃないですよね」
セレナがノルンの隣で画面を見ながら言った。
「はい。確認されると予告しているのではなく、管理上の手続きを示しています」
「でも、『新しい証拠が出る予定』みたいに読む人がいたら?」
「その可能性までゼロにはできません」
「やっぱり?」
「ただ、そこまで避けようとして『現在の判断は永久に変更されないわけではないが、変更される予定があることを意味せず――』と書き始めたら、詳細画面が注意書きだけで埋まります」
セレナは想像したのか、露骨に嫌そうな顔をした。
「読みたくない」
「私もです」
「ノルンでも?」
「長ければ正確になるとは限りませんから」
正確さを求めて条件を足し続けると、読む側が途中で理解を諦めることもある。だから短くすればよいわけではないが、情報量そのものも管理しなければならない。
セレナは試験対象者へ表示を送る準備を整えた。
「今日はまず六人。判断だけじゃなくて、詳細をどこまで開いたかも見ます」
「それでいいと思います」
「結果は午後ですね」
試験を開始したセレナは、自分の席へ戻っていった。
◇
午前のルークは、リンガの木を見に行かなかった。
昨日すでに見たから、というほど大げさな理由でもない。
朝食後、担当職員から「今日は庭に行く?」と尋ねられたルークは、窓から外を見た後で首を横に振った。
「今日は本読む」
「分かった」
「花咲いたら教えてね」
「忘れてなかったら」
「忘れないでよ」
ルークは笑いながら棚へ向かい、昨日とは別の本を手に取った。
リンガが気にならなくなったわけではない。
気になっているからといって、毎日見に行かなければならないわけでもない。
読みたい本があれば、今日は本を読む。
それだけの選択が、今のルークには自然にできていた。
◇
ノルンが歴史資料を開いたのは、その少し後だった。
昨日の最後に見つけた文書。
『外在反応長期比較・識別単位設定案』
十四年目末の第二次比較から、およそ三か月後。
冒頭には目的が明記されている。
『長期間蓄積した外在反応記録について、反応一件単位および既存分類単位のみでは比較作業が煩雑化している。』
『分類を越えて共通特徴を持つ記録を継続比較するため、研究作業上の仮識別単位導入を検討する。』
『本単位は同一発生源、同一主体、同一個体、同一人物を確定するものではない。』
主様がノルンの隣へ椅子を寄せた。
「最初からいっぱい否定してる」
「誤解されやすいと分かっていたのでしょうね」
「でも、まとめないと研究できない?」
「記録が増えていますから」
反応一件ごとに比較するだけなら、数が少ないうちは対応できる。
ところが長期間にわたって記録が蓄積し、分類そのものも変更され、分類不能の反応まで増えてくれば、『以前似た特徴があったもの』を毎回一から探す作業は重くなる。
そのための仮識別単位。
誰かを作るためではない。
比較対象を管理するための道具だった。
◇
名称候補は三つ。
『比較群』
『特徴系列』
『暫定識別系列』
欄外には昨日確認した手書きの注意。
『人物と誤認されない名称にすること。』
会議記録では、三案それぞれに意見が付いていた。
『比較群』
利点。
作業上の集まりであることが分かりやすい。
問題。
一時的な比較のため集めただけの対象と、長期継続して追跡する対象を区別しにくい。
『特徴系列』
利点。
人物・主体を直接想起しにくい。
問題。
同一特徴が一貫して存在すると誤認される可能性。実際には部分一致や欠損を含む。
『暫定識別系列』
利点。
仮の追跡単位であることを表現しやすい。
問題。
『識別』が主体識別・人物識別と読まれる危険。
「全部、ちょっとずつ駄目」
主様が言った。
「だから会議をしているんでしょう」
「ノルンならどれにする?」
「私は当時の担当者ではありません」
「今なら?」
ノルンは三つを見比べた。
「……比較群でしょうか」
「一番普通」
「余計な意味を持たせにくいので。ただ、長期追跡には使いにくいという意見も理解できます」
「名前一個決めるのも大変だね」
「一度付けると、その言葉で考えるようになることがありますから」
それは今の管理でも同じだった。
分類名。
状態名。
人物の希望を要約する言葉。
短い言葉は便利だが、便利だからこそ長く残る。
◇
最初の会議では決まらなかった。
翌週の第二回協議で、新しい案が出ている。
『参照系列』
提案理由。
『観測事象を比較・参照するための系列であり、主体・人物・発生源の確定を含まないことを名称上でも示す。』
反対意見。
『ref番号との混同が生じる。』
実際、ref7を含む既存参照番号はすでに運用されている。
ref7は一つの追跡参照であり、必ずしも一主体を意味しない。
そこへ『参照系列』という別の仕組みを加えれば、番号と系列の関係がかえって分かりにくくなる。
別案。
『特徴参照群』
提案理由。
『特徴を手掛かりに比較する作業群であることを示す。』
これには比較的反対が少なかった。
ただし、
『「特徴」が単一固定特徴を意味すると誤認されない説明が必要』
という条件が付く。
「決まった?」
「まだ案です」
「また?」
「急いで名前を付けて、それが何年も残る方が困るでしょう」
「それはそうだけど」
主様は頬杖をついた。
ノルンは会議記録の続きを開く。
◇
名称を決める前に、そもそも何を一つの群へ入れるかが問題になっていた。
当初案では、
『三項目以上の比較特徴に部分一致があり、複数時期に観測された記録』
を仮識別単位へ入れる案が出ている。
しかし、すぐに反論された。
『三項目という数値根拠が薄い。』
『観測条件によって比較可能項目数が異なる。』
『一致項目数が多くても一般的特徴なら識別力が低い。』
『二項目でも希少特徴なら比較価値が高い可能性。』
その結果、単純な一致数ではなく、
『特徴の希少性』
『観測条件依存性』
『時間を隔てた保持』
『他群への出現頻度』
『不一致特徴の数と種類』
を合わせて評価する方式へ変更された。
「一致だけじゃなくて、不一致も見るんだ」
「同じものだと考えたいなら、一致だけ探すのが一番危険ですからね」
「今の三件も?」
「もちろんです」
現在の三件に部分的な類似がある。
それを調べるとき、一致した特徴だけを抜き出せば、何かにつながっているように見える。
しかし一致しない部分、比較できない部分、他の反応にも普通に現れる特徴を同時に見なければならない。
◇
試験的な特徴参照群が三つ作られていた。
正式名称ではなく、研究作業用の仮置き。
『特徴参照群α』
『特徴参照群β』
『特徴参照群γ』
ノルンは一覧を開いた。
α。
ref7関連記録の一部、分類変更を受けた短時間反応二件、分類不能反応一件。
共通候補。
開始部の急峻な立ち上がり。
中盤での一度の低下。
ただし終了部は不一致。
観測年代も広い。
同一発生源評価は行わない。
β。
反復間隔比に特徴を持つ複数反応。
ただし発生条件の共通性が高く、環境・観測系由来を除外できない。
γ。
変換前の微細偏りが複数時期に残る反応。
N14-L2を含む。
主体固有性未判定。
「ナは?」
主様が尋ねた。
「人間聴取音で群分けしていません」
「じゃなくて、リディアが聞いたやつ」
ノルンは一覧を確認する。
「αの比較対象には一部含まれています。ただし『ナ』だからではありません」
「構造がちょっと似てるから?」
「はい」
そして『レ/ラ/エ』候補を含む別反応は、αには入っていない。
人間の耳に音節らしく聞こえたという共通点より、変換前構造の差が優先されている。
「やっぱり分かれてる」
「少なくとも、この試験では」
◇
ここで一つ、ノルンの目を引く注記があった。
『同一観測事象が複数の特徴参照群に所属することを許容する。』
「一個が二つのグループに入っていいの?」
「はい。分類ではないからでしょう」
特徴Aを比較するときはα。
特徴Bを比較するときはγ。
同じ観測記録が複数の比較目的に利用されることがある。
そのため、
『群所属=同一発生源候補との理解を禁止する。』
と明記されている。
主様が少し考えてから言った。
「人を分けてるんじゃなくて、特徴ごとに箱を作ってる感じ?」
「その理解なら近いと思います」
「同じ紙を二つの箱に入れることもある」
「原本を二つにするわけではありませんが、考え方としては」
そこでノルンは、後世の資料を思い出した。
Seventh External Individual。
G。
ref7。
それらがどのように一人の存在を指すような語りへ近づいたのかは、まだ調査中だ。
もしこの特徴参照群が後に人物単位へ読み替えられたなら、大きな変化になる。
しかし、その証拠はまだない。
(先に結論を置かない)
ノルンは資料へ意識を戻した。
◇
昼休み前、セレナから試験の途中結果が届いた。
六名のうち、入口表示だけで判断したのは二名。
四名は詳細画面まで開いた。
管理判断は全員同じ。
人物通知なし。
観測密度変更なし。
既知人物との関連付けなし。
ただし詳細画面を開いた一名が、
『新しい証拠が得られた場合は再評価する』
について、
『何か追加観測を予定しているのかと思った』
と回答していた。
「出ましたね」
セレナが苦笑する。
「一名ですが」
「でも、やっぱり読めるんだ」
「追加観測予定があるとは書いていませんから、誤読ではあります。ただ、管理判断には影響していません」
「じゃあ消す?」
ノルンはすぐには答えなかった。
その一文には意味がある。
現在の『未確認』が永久固定ではなく、新証拠があれば再評価するという運用原則を示すためだ。
「質問を追加しませんか」
「どんな?」
「『再評価のために追加観測を予定していると理解したか』です。今の一名だけで文言を変えるより、同じ読み方がどの程度起きるか確認したいです」
「分かった」
セレナは質問項目を追加した。
「昔の資料だったら、こういう一人の読み方も残ってるのかな」
「残っているものもあります」
「残ってないものも?」
「当然あるでしょうね」
口頭のやり取り。
記録されなかった質問。
残さなくてもよいと判断された小さな誤解。
すべてが保存されるわけではない。
だから残っている一件を、全体の代表にしてはいけない。
◇
昼食後、ノルンは特徴参照群の試験運用記録へ進んだ。
研究担当者十一名。
試験期間六週間。
目的は比較作業時間の短縮と、過去記録の見落とし低減。
開始二週間後の評価では、類似記録の探索時間が平均で約三割短縮されている。
一方で、問題も起きた。
『αの反応』
『β由来』
『γ側』
研究者同士の口頭会話で、群がまるで発生源のように使われ始めた。
会議記録。
『「αからまた来た」という表現を確認。正確には「αに含まれる特徴と類似する新規反応」。』
主様が顔を上げた。
「来た」
「はい」
「誰かが?」
「違います」
「分かってる。言い方が」
ノルンも頷く。
比較群だったものが、文法の上では送り手になっている。
『αから来た』
この一言だけなら、αという何かが存在し、そこから反応が届いたように聞こえる。
◇
発言した研究者への確認記録も残っていた。
『群を発生源と認識しているか』
回答。
『していない。会話上の省略。』
『α内記録と類似する新規反応という意味で使用した。』
『主体が存在すると判断していない。』
悪意も、認識上の重大な誤りもなかった。
単純に長いから縮めた。
「またこれだ」
主様が苦笑した。
「はい」
「分かってる人が、分かってる同士で短く言った」
「そうですね」
「それを知らない人が聞いたら?」
「αという発生源があると受け取る可能性はあります」
「でも実際に聞いた人がそう思った記録は?」
ノルンは続きを探す。
「この時点ではありません」
「じゃあ、まだ可能性だけ」
「はい」
そこを混同してはいけない。
◇
研究部門は口頭省略を完全禁止にはしなかった。
代わりに、正式記録では、
『αに属する』
『αから発生』
『αが送信』
を使用禁止。
推奨表現は、
『α参照特徴と部分一致』
『α比較対象に追加』
『αとの比較を実施』
とされた。
さらに、試験運用開始時の名称『特徴参照群』にも修正案が出る。
『群』という語が固定された集団を想起させるという意見。
候補。
『特徴参照集合』
『比較参照集合』
『特徴比較集合』
「また名前会議」
「それだけ名称の影響を気にしていたんでしょう」
最終的に、試験期間中は『特徴参照群』を維持し、正式運用前に再検討することになった。
◇
その頃、ミレイアは昨日の続きに取りかかっていた。
薄緑の布はすでに片側が縫われている。今日は反対側を縫い始め、昨日より少しだけ真っ直ぐな縫い目が続いていた。
「昨日より上手い」
自分で言うと、向かい側にいたエリスが布から目を上げた。
「本当だね」
「昨日のところ、やっぱり曲がってる」
「比べると分かりやすいね」
「ほどかなくてよかったかも」
「どうして?」
「上手くなったの分かるから」
ミレイアは昨日の縫い目を指先でなぞり、それから今日縫った部分へ視線を移した。
完全に真っ直ぐではない。
けれど、自分では違いが分かる。
「次、紐通すところ?」
「その前に上を折って縫う」
「あ、そっか」
ミレイアは手順を確認し、今日はそこまで進めることにした。
接続の話は出なかった。
エリスも持ち出さない。
部屋には布を擦る小さな音と、ときおり交わされる裁縫の相談だけが続いていた。
◇
午後遅く、特徴参照群の六週間試験結果が出てきた。
比較作業効率。
改善。
過去記録見落とし。
減少。
研究者の理解。
十一名全員が『群所属は同一発生源を意味しない』と回答。
ところが、研究部門外の閲覧者七名を対象にした確認では、二名が、
『αは同じ発生源から来た反応群』
と理解していた。
「二人」
主様が言う。
「七名中二名です」
「研究してない人?」
「研究部門外の閲覧者ですね」
理由回答。
一人。
『同じ記号でまとめられていたため。』
もう一人。
『時系列一覧でαが一本の線として表示されていたため。』
ノルンは後者で画面を止めた。
「一本の線?」
表示例を開く。
横軸が時間。
その上にα、β、γの記録が、それぞれ一つの横列として配置されていた。
αの列には複数時期の反応。
βの列にも複数。
γも同じ。
視覚的には、一本の存在が時間を越えて反応を繰り返しているようにも見える。
「文章じゃない」
主様が呟いた。
「はい」
これまで追ってきたのは言葉の問題が多かった。
見出し。
短縮表現。
口頭説明。
検索語。
けれど今回は、配置そのものだった。
◇
表示作成者への確認。
『同一発生源を表現する意図はなかった。』
『比較対象の時間分布を一覧するため、群ごとに一列へ配置した。』
『研究担当者には群の定義が共有されていたため誤解は発生しなかった。』
改善案。
一本の横列をやめ、各反応を独立点として表示。
群は色や線ではなく、参照記号のみ付与。
同一記録が複数群に所属する場合、複数記号を併記。
さらに画面上部へ、
『群は発生源・主体・人物を表さない』
を固定表示。
「直してる」
「はい」
「でも、最初の画面を見た人はいる」
「少なくとも七名の確認対象者は見ています」
「他にも?」
「運用範囲を調べないと分かりません」
ノルンはそこを保留にした。
七名中二名が誤解した。
それ以上はまだ言えない。
◇
試験終了後、名称の正式決定が行われた。
採用。
『特徴比較集合』
理由。
『人物・主体・発生源を示す印象を可能な限り避け、比較作業上の集合であることを明示するため。』
略記。
『FC-set』
主様が目を細めた。
「急に違う感じ」
「内部略記ですね」
「これ、後で人みたいにならない?」
「まだ何も分かりません」
「はい」
主様は素直に引き下がった。
正式運用規則。
『一つの観測記録が複数集合へ所属可能。』
『集合への追加・除外は比較目的に応じて変更可能。』
『集合の継続は発生源の継続を意味しない。』
『集合記号を主体呼称として使用しない。』
『集合単位で意思・目的・名称を推定しない。』
これほど明確に書かれている。
少なくとも導入時点では、人物化を避ける意図がはっきりしていた。
◇
ところが正式運用から四か月後。
検索索引の更新記録に、新しい問題があった。
利用者が過去のref7関連反応を探す際、
『ref7』
『G』
『名称様音列』
『自己識別』
『FC-set α』
を同時に入力する検索例が増えていた。
検索担当の分析。
『これらが同義と理解されていることを示すものではない。関連資料を横断的に探索するため複数語を併用している可能性が高い。』
その直後。
『ただし、検索結果画面上で複数語が同一の関連語欄へ表示されるため、相互に同義または新旧名称と誤認される可能性あり。』
ノルンは静かに息を吐いた。
「また近くに並んだ」
「はい」
「でも、検索してる人が同じだと思ってるかは分からない」
「その通りです」
検索することは、同一視ではない。
関連があるか調べるために、あえて複数の語を入れることもある。
しかし画面側がそれらを『関連語』として横一列に並べれば、見る人は関係の種類まで同じだと思うかもしれない。
◇
検索画面改訂案。
関連語を種類別に分離。
『旧研究語』
『検索補助語』
『分類記号』
『比較集合』
『参照番号』
ref7は参照番号。
Gは分類記号。
名称様音列は検索補助語。
自己識別は旧研究語。
FC-set αは比較集合。
五つは同じ階層ではない。
「こうやって見ると全然違う」
主様が言う。
「そうですね」
「でも一列だったら、仲間っぽい」
「視覚的な近さは、意味の近さとして受け取られやすいのかもしれません」
ノルンは現在の表示試験を思い出した。
言葉だけではない。
何を上に置くか。
何を隣へ置くか。
何を同じ枠で囲むか。
それも、管理情報の一部なのだ。
◇
夕方、セレナから試験結果の続報が来た。
追加質問を含めた六名。
『新しい証拠が得られた場合は再評価する』
を、
『追加観測が予定されている』
と理解したのは一名だけ。
残る五名は、
『新情報があれば判断を更新する一般原則』
と理解した。
「一人のために消すほどではない?」
セレナが尋ねる。
「人数だけで決めるのは早いですが、少なくとも管理判断への影響は出ていません」
「じゃあ明日も続ける」
「はい」
「あと、詳細画面の配置も見てみようかな」
ノルンは顔を上げた。
「配置?」
「確認できることと、確認できないことを左右に並べてるでしょ。上下にした場合と読み方変わるかなって」
ノルンは今日見た歴史資料の一本線を思い出した。
「試す価値はあると思います」
「じゃあ作ってみる」
セレナは何も知らない。
十四年目の特徴比較集合が、表示の仕方だけで一部閲覧者から『一つの発生源』のように読まれたことを。
それでも現在の彼女は、自分たちの画面で同じ種類の問題が起きないかを考え始めている。
ノルンはそのことを、歴史の再現や運命のようには考えなかった。
似た問題に向き合えば、似た注意点へ行き着くことはある。
◇
終業前。
ノルンは今日の調査内容をまとめた。
『十四年目末以降「外在反応長期比較・識別単位設定案」を確認。』
『長期蓄積記録の比較効率向上を目的に、分類を越えて共通特徴を持つ記録を仮の比較単位へまとめる案が検討された。導入目的は人物・主体の認定ではない。』
『名称候補「比較群」「特徴系列」「暫定識別系列」「参照系列」「特徴参照群」等を検討。名称が主体・人物を想起させる危険を当初から議論。』
『試験運用では「特徴参照群α/β/γ」を使用。同一観測記録の複数群所属を許容。群所属=同一発生源ではない。』
『αにはref7関連記録の一部等を含むが、人間聴取音を基準に群分けしていない。リディアの「ナみたい」関連反応が一部比較対象に含まれても、名称性とは無関係。「レ/ラ/エ」候補を含む別反応はαに含まれない。』
『研究者間の口頭省略として「αからまた来た」を確認。発言者は群を発生源とは認識せず、「α参照特徴と類似する新規反応」の意味で使用。正式記録では主体化する表現を禁止。』
『試験表示では群ごとの時系列一本線が、研究部門外閲覧者七名中二名に「同一発生源からの反応群」と誤読された。表示作成者に同一発生源表現の意図なし。表示は各反応独立点方式へ修正。』
『正式名称「特徴比較集合」を採用。内部略記FC-set。集合の継続は発生源継続を意味せず、主体呼称・意思・目的・名称推定への使用禁止。』
『後の検索索引でref7/G/名称様音列/自己識別/FC-set α等が関連語として近接。検索併用=同一視とは判断しない。ただし同義・新旧名称と誤認される危険から、参照番号/分類記号/検索補助語/旧研究語/比較集合へ区分表示する改訂案が作成された。』
最後に、
『比較のためにまとめられた記録群が、表示・口頭省略・検索配置によって一つの発生源のように見える事例は確認された。ただし、この時点で特定の一人・外在者・人物へ固定された証拠はない。』
と記録する。
◇
保存を終えると、主様が大きく伸びをした。
「今日は名前を決める話だったのに、名前じゃないって話ばっかりだった」
「比較集合の名称を決める話ですから」
「でもFC-set αって、ちょっと名前っぽい」
「だから主体呼称に使わないと明記されています」
「分かってるよ」
主様は笑った後、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、ずっとαって呼んでたら、いつか『αはこういうやつ』って思う人もいそう」
「可能性はあります」
「ノルンは思わない?」
ノルンは少し考えた。
「私は、そう思い始めていないかを確認する側です」
「自分のことも?」
「もちろんです」
観察する側だから、思い込みを持たないわけではない。
むしろ長く見続けるほど、点と点の間に線を引きたくなる。
同じ記号を何度も見れば、その向こうに同じ何かがいるような感覚も生まれるかもしれない。
だから記録が必要になる。
何を確認したのか。
何を確認していないのか。
その境界を、自分の感覚だけに任せないために。
◇
帰り支度を始めたノルンの端末へ、ミサキから短い連絡が届いた。
『湖の町の四軒目の本屋、店主が地図を手書きしてくれるらしい』
ノルンは鞄へ伸ばしかけていた手を止めた。
『何の地図ですか?』
返事はすぐに来た。
『町の本屋全部』
続けて、
『自分の店だけじゃなくて、他の三軒も書くんだって』
ノルンは少しだけ目を丸くした。
『変わった店主ですね』
『でしょ?』
『少し見てみたいです』
送ってから、ノルンは画面を見つめた。
昨日は『少し気になります』だった。
今日は『少し見てみたい』。
(……本屋の地図を、です)
誰に説明しているわけでもないのに、頭の中で補足した自分が少し可笑しい。
そこへミサキから、
『私も』
とだけ返ってきた。
日程の話は出ない。
一緒に行こうとも言わない。
けれど同じものを面白いと思ったことだけは、短いやり取りの中に残った。
◇
夜。
特徴比較集合の正式運用開始からさらに半年後の資料が、未読一覧に追加された。
『FC-set運用評価・第一回』
ノルンは帰る前に概要だけを確認する。
比較集合は七つまで増えていた。
αからηまで。
所属記録は固定されず、追加・除外も複数回行われている。
その中で、αだけが他の集合より突出して多く参照されていた。
理由欄。
『第一接続事例関連記録、ref7関連記録、短時間分類変更記録等、歴史的参照頻度の高い記録を複数含むため。』
まだ人物ではない。
まだ一主体でもない。
ただ、αを開けば、後世の人々が関心を持ちやすい古い記録がいくつも出てくるようになっていた。
そして利用状況欄には、正式表現ではない短縮検索が一つ記録されている。
『第一接続者 α』
検索回数、十一。
誰が、何を知りたくてその二語を並べたのかは、概要だけでは分からない。
リディアに関係する反応がαへ含まれているから探しただけかもしれない。
第一接続者とαを同じ相手同士だと考えた者がいたのかもしれない。
あるいは、その関係がないことを確認するために検索した可能性もある。
検索語だけでは、検索した人の結論までは分からない。
ノルンは詳細を開かなかった。
今日確認した事実だけでも十分だった。
比較のために作られた箱へ、人の名前が近づき始めている。
それでも、その箱の中身が一人の誰かになったわけではない。
そこを忘れないまま、次の資料を読む必要があった。




