第百二十六話 同じ特徴があることと、同じ誰かであること
雨は夜のうちに上がっていた。
朝の管理室へ入ったノルンが窓の外へ目を向けると、雲の切れ間から差し込んだ淡い光が、まだ濡れている庭の石畳を白く照らしていた。軒先からは残った雨水がときおり落ち、庭木の葉も雫を抱えているが、昨日のような冷たさは薄れている。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
先に来ていた主様は、窓の近くから庭を眺めていた。机にはまだ端末も資料も広げておらず、仕事を始める前のわずかな時間を外を見ることに使っていたらしい。
「晴れそうだよ」
「そうですね」
「ルーク、今日はリンガ見に行けそう」
「昨日も雨が止めば行くかもしれないと言っていましたからね。ただ、本当に行くかどうかは本人次第です」
「分かってるって」
主様は苦笑して席へ戻った。
ノルンも上着を掛けてから自分の机へ向かい、端末を起動する。昨夜まで読んでいた十四年目の研究資料はまだ開かない。
先に現在を確認する。
歴史がどれだけ気になっても、彼女の仕事は過去を読むことだけではなかった。
◇
低強度識別不能反応の通知対象事象は、三件のままだった。
新規通知なし。
新規の閾値未満変動なし。
観測密度は通常。
同一源、未確認。
対象、未確認。
意味・意図、未確認。
音声性・言語性、未確認。
既知分類への所属、未確認。
画面の内容を最後まで確認したノルンは、昨日から管理判断に変更がないことも確かめた。
「変化ありません」
「三件のまま?」
「はい。ただし、『三件で止まった』とは記録しません」
主様は席へ座りながら、少しだけ首を傾げた。
「増えてないのと、止まったのは違うから?」
「そうです。今後発生しないと確認されたわけではありませんから」
「じゃあ、今は増えてない」
「それなら問題ありません」
「最近、言い方の試験されてる気がする」
「日頃の成果が出ていますね」
「褒められた?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
主様が笑う。
ノルンもわずかに口元を緩めたところで、現在反応の画面を閉じた。
今朝は、それ以上見る必要がない。
◇
ルークは朝食を終えると、本当に庭へ出ていた。
昨日の雨で土はまだ湿っていたが、石敷きの通路には大きな水たまりもなく、歩くことに問題はない。担当職員と一緒に庭の奥へ進み、石垣の近くまで来たところで、ルークは二本のリンガを見上げた。
「増えてる?」
「葉っぱ?」
「うん」
担当職員も枝先を見るものの、昨日は窓越しに眺めただけで、葉の枚数を覚えているわけではなかった。
「分からないな」
「僕も」
ルークは笑い、低い枝へ少し近づいた。雨粒の残る葉は朝の光を受けて細かく輝いており、その先にはまだ花らしいものは見当たらない。
「春になったら白い花なんだよね」
「そう聞いてるよ」
「どのくらい咲くの?」
「それは俺も知らない」
「じゃあ一緒に初めて見るね」
何気なく言ったルークに、担当職員は一瞬だけ目を細めた。
彼がこの施設で迎える季節の中には、まだ知らないものがいくつもある。けれど、それを特別な意味のある出来事へ変える必要はなかった。
「見逃さないといいな」
「忘れてたら教えてって言ってあるから大丈夫」
「俺が忘れたら?」
「二人とも見逃す」
「それは困るな」
ルークは声を立てて笑った。
その直後、上の枝から雨粒が落ちてきて額に当たり、驚いた顔で一歩下がる。
「冷たっ」
「木に嫌われた?」
「違うよ。雨だから」
即座に反論すると、ルークは袖で額を拭った。
しばらく木を眺めた後は、昨日読んでいた本に載っていた別の黄色い果物の話をしながら建物へ戻っていった。
◇
午前の通常業務を一通り終える頃、セレナが試験表示の結果を持ってきた。
「昨日の二案、もう少し人数増やしました」
ノルンの隣へ椅子を寄せると、セレナは端末上に二つの表示を並べた。
『音声・言語性:確認できない』
『現時点で音声・言語として扱える根拠なし』
追加で八名。
これまでの四名を合わせて十二名。
「後者を見た人の方が、『音声かもしれないものを保留している』じゃなくて、『現在の材料では音声という扱い自体を置いていない』って答える割合が高かったです」
「判断行動は?」
「全員、人物通知なし。観測密度変更なし。既知人物との関連付けなし」
セレナが別の欄を開く。
「ただ、一人だけ『根拠なし』を『音声ではないことが確定』に近く読んでます」
ノルンはその回答を確認した。
『根拠なしなら、音声候補から除外してよいと理解した。』
「除外まではしていませんね」
「ですよね。だから、こっちも完全じゃない」
「どちらの表現にも別方向の読み過ぎが起きる可能性があります」
「じゃあ三案目?」
セレナはそう言いながらも、すぐに新しい文を入力しようとはしなかった。
ノルンも考える。
(表現を変えるたびに、新しい誤解の形が出る可能性があります。なら、言葉だけを延々と増やしても仕方ありませんね)
表示の目的は、全員にまったく同じ印象を持たせることではない。
必要な管理判断を誤らせず、事実と推測を区別できること。
「今の二案を残したまま、詳細画面へ移ったときの判断も比較しませんか」
「表示だけじゃなくて?」
「はい。短い表示だけで完結させようとすると、全部を書かなければならなくなります」
セレナは少し考えた後、頷いた。
「入口と詳細をセットで見る」
「その方がいいと思います」
「じゃあ、明日からそうします」
正式採用ではない。
試験を一段進めるだけ。
セレナはその区別も記録してから席へ戻った。
◇
昼前になり、ノルンはようやく十四年目末の資料を開いた。
『発生源識別特徴候補・第二次比較』
昨日確認した概要では、前回比較後に取得された新規低強度反応二件が追加され、そのうち一件に既存比較群の一部と共通する開始部構造が確認されていた。
しかし、概要だけでは分からないことが多い。
なぜ二件が比較対象へ入ったのか。
なぜこの時期に『主体固有性評価』という欄が作られたのか。
そして、その欄がすべて『未判定』だったにもかかわらず、なぜ後世では『自己名』という言葉にまで近づいていったのか。
「開く?」
主様が隣から尋ねた。
「もう開いています」
「心の準備の話」
「主様は何の準備をしているんですか」
「難しい言葉を読む準備」
「では、昨日の指紋を忘れないでください」
「特徴があるのと、名乗ってるのは別」
「それで十分です」
二人は資料へ目を戻した。
◇
第二次比較の冒頭には、追加対象二件の選定理由が記載されていた。
一件目。
仮番号N14-L1。
低強度。
継続時間二・七秒。
人間聴取用変換では明瞭な音節印象なし。
既存分類への所属未定。
二件目。
仮番号N14-L2。
低強度。
継続時間五・一秒。
変換条件によって断続的な音声様印象を持つ評価者がいたものの、聴取候補は一致せず。
既存分類への所属未定。
「L1とL2って、人?」
「違います」
ノルンはすぐに答えた。
「十四年目の低強度追加対象を管理するための仮番号です。資料にも『主体数を示さない』とあります」
「危ないなあ、番号」
「便利だからこそ、意味を増やしやすいんでしょうね」
ref7も同じだった。
追跡するために必要な記号が、長く使われるうちに『誰か』のように読まれることがある。
だから第二次比較では、仮番号の直下にわざわざ、
『仮番号は観測事象の参照用であり、発生主体・個体・人物の識別番号ではない』
と書かれていた。
◇
L1が比較対象へ入った理由は、開始後〇・四秒までの強度推移だった。
ref7関連記録の一部。
過去に分類変更を受けた短時間反応一件。
分類不能の反復候補一件。
その三つと、開始部の変化率に部分的な共通が見られた。
ただし、共通するのは開始部のみ。
中盤以降の推移は一致しない。
終了部の減衰も異なる。
反復間隔は比較不能。
発生条件も完全には一致しない。
「似てるの、最初だけ?」
「そうですね」
「じゃあ、同じって言えない」
「当時の研究者もそう判断しています」
評価欄。
『開始部構造:部分類似』
『全体構造:不一致要素多数』
『発生源同一性:評価不能』
『主体固有性:未判定』
『意図的識別情報:支持なし』
主様は最後まで読んでから、少し安心したように息を吐いた。
「ちゃんと分けてる」
「はい」
◇
L2はさらに複雑だった。
人間聴取試験では八名中三名が何らかの音声様印象を報告した。
一人は『短い母音が二つ』。
一人は『息のような切れ目』。
一人は『何か言いかけたように聞こえる』。
残る五名は音声として認識していない。
音節候補の一致はゼロ。
言語推定もゼロ。
名称推定もゼロ。
「『何か言いかけた』は?」
「聴取者の印象です」
「記録は?」
「『音声様印象あり・内容特定不可』にまとめられています。発話未遂とは記録されていません」
「そこまで書いたら意味変わるもんね」
「はい」
構造比較では、L2に既存比較群との強い共通は見つかっていない。
ただし、一つだけ別の特徴があった。
観測条件を変更しても、反応内部の特定位置に現れる微小な偏りが維持された。
装置を変えて再処理しても消えない。
変換方式を変えても位置が大きくずれない。
それが、研究者たちの注意を引いていた。
◇
『当該偏りが発生源側の構造に由来する可能性あり。』
その直後には、
『ただし発生源固有であることを意味しない。共通環境条件、接続経路、未把握の処理特性等を除外できない』
と続いている。
「またすぐ止めてる」
「止めないと、次へ進みすぎますからね」
ノルンは研究会議の記録を開いた。
最初の議題は、L2そのものではなかった。
『「発生源固有」の評価を行うためには、何をもって固有とするか。』
ある研究者は、
『同じ特徴が繰り返されれば固有とみなせる』
と提案している。
別の研究者が反論。
『同一条件が繰り返されているだけかもしれない。』
さらに別の意見。
『発生源が複数で同一環境を共有する場合、共通特徴が生じ得る。』
そして、
『そもそも主体数が分からない状態で「主体固有」を先に評価すること自体が適切か』
という指摘が出た。
「それで全部未判定?」
「どうやら、そこにつながりそうです」
◇
会議は一度中断され、用語定義の作業へ移っていた。
『発生源』
観測された反応を生じさせる原因側を暫定的に指す。人格・生命・個体を前提としない。
『主体』
意図的行為能力を持つ存在を想定する場合の概念。存在未確認の段階では確定語として使用しない。
『固有特徴』
他の発生源または条件から区別するために利用でき、複数観測で一定程度保持される特徴。ただし原因帰属を別途検証する。
『識別情報』
受信側が識別に利用できる情報。
『意図的識別情報』
発生側が識別されることを目的として付与した情報。
主様が最後の二つを見比べた。
「また違う」
「はい。受け取った側が使えることと、送った側がそのために付けたことは別です」
「指紋と名札みたいな?」
ノルンは少し考えた。
「その例なら近いと思います。指紋は識別に使えても、名札のように相手へ読ませるため付けたものではありません」
「じゃあ、名前は名札?」
「人間の名前なら、識別に使われることは多いですね。ただし名前そのものが常に意図的識別情報として送られるわけでもありません」
「難しくなった」
「無理に全部例えなくていいですよ」
「うん」
主様は素直に諦めた。
◇
定義作業の後、『主体固有性評価』という欄の導入理由が出てきた。
『後続研究において、観測上の持続特徴と主体帰属の確度を混同しないため、別欄を設ける。』
ノルンはそこで手を止めた。
「逆ですね」
「何が?」
「主体だと判断するために作った欄ではありません。持続特徴が見つかっても、それを主体固有だと勝手に読まないために分けたんです」
「ああ……」
主様も画面へ顔を近づける。
続き。
『継続特徴候補が「あり」であっても、主体固有性が「未判定」である場合、人物・個体・同一発生主体の継続を示す資料として使用しない。』
『主体固有性が将来「支持あり」と評価された場合も、人格・氏名・意図・接続希望等は別評価とする。』
「かなり先まで注意してる」
「後で起きそうな誤解を予想していたのでしょう」
「でも、起きた?」
「それを今から調べるんです」
ノルンは自分へ言い聞かせるように答えた。
後世の資料を知っている。
だから、この注意が破られたと考えたくなる。
しかし、ここから先で新しい観測結果が出る可能性もある。
(順番です。まず、この時点で何が分かっていたか)
先を知っているからこそ、途中を飛ばしてはいけない。
◇
昼休みを挟み、午後の管理室には柔らかな日差しが入るようになった。
朝の雲はかなり薄くなり、濡れていた窓も乾き始めている。
ノルンが資料から目を離したところで、ミレイアの生活記録が更新された。
『薄緑布の巾着、側面縫合開始。片側完了。本人希望により残りは後日。』
主様がちらりと見る。
「今日は半分」
「そうですね」
「接続は?」
「変更ありません」
「聞いただけ」
「分かっています」
ミレイアは袋を作っている。
第二接続を決めているわけではない。
その二つを結び付ける理由は、今のところ何もない。
◇
実際、ミレイアは接続のことを考えずに縫っていた。
窓から入る午後の光が机の上へ斜めに落ち、薄緑の布を明るく見せている。エリスは向かい側で別の繕い物をしており、二人の間には糸切り鋏と糸巻きが置かれていた。
「ここ、ちょっと曲がった」
ミレイアが縫い目を指でなぞる。
「使う分には問題ないよ」
「見たら分かる?」
「私は分かる」
「やっぱり」
「一緒に見てたからね。知らない人なら気づかないかも」
ミレイアは少し悩んだ後、糸をほどかなかった。
「このままにする」
「うん」
「次はもうちょっと真っ直ぐにする」
失敗したから全部やり直すのでもなく、曲がったことを気にしないふりをするのでもない。残して、次を少し変える。
エリスはそれを見ながら、自分の繕い物へ針を戻した。
以前なら、ミレイアが何かを選ぶたび、その選択が接続への気持ちと関係しているのではないかと考えていた時期もある。
今は違う。
(これは裁縫の話)
必要なら、本人が別の話を始める。
始めないなら、今日ここにあるのは布と針と少し曲がった縫い目だけでいい。
◇
午後の歴史資料では、第二次比較の評価結果へ進んだ。
L1。
『継続特徴候補:弱』
『主体固有性:未判定』
L2。
『継続特徴候補:中』
『主体固有性:未判定』
ref7関連比較群。
『継続特徴候補:中~強。ただし対象記録間の不一致あり』
『主体固有性:未判定』
短時間分類変更群。
『継続特徴候補:弱~中』
『主体固有性:未判定』
第一接続者本人聴取関連群。
『継続特徴候補:評価対象限定』
『主体固有性:未判定』
ノルンは最後の項目を開いた。
『本人聴取記録を含む反応群は、音節印象が比較判断へ影響する危険があるため、構造比較時には聴取情報を伏せた盲検評価を継続する。』
「音を知らない人に比べてもらった?」
「そうですね」
「結果は?」
盲検比較。
リディアが『ナみたい』と表現した反応を含む対象と、別時期の『レ/ラ/エ』候補を含む対象。
構造一致。
『同一系列支持に足る一致なし。』
ref7関連反応の一部との比較。
『部分類似あり。ただし類似特徴は他群にも存在。固有性なし。』
「つながらない」
「この時点では、少なくとも」
リディアの耳に『ナ』と聞こえたもの。
別の時期に『レ』『ラ』『エ』と聞かれたもの。
ref7としてまとめて追跡された一部反応。
それらを一つの名前へ連結する根拠は、十四年目末でも見つかっていない。
◇
その後に、教育利用に関する注意があった。
『第二次比較結果を初任者教育へ直接使用しない。』
理由。
『継続特徴候補・主体固有性・意図的識別情報の区別には前提知識を要し、短時間教育では意味圧縮の危険が高い。』
「分かってるんだ」
主様が言った。
「過去にも短時間教育で似た問題が起きていますからね」
『上級教育で使用する場合も、「同じ誰かが繰り返し送信している可能性」との言い換えを禁止する。』
『「発生源固有かもしれない音」との言い換えも禁止。』
『「自己識別」との旧称を説明する場合、旧称のみを見出し化しない。』
ノルンは三つ目で止まった。
「旧称」
「最初の『自己識別信号』?」
「そうでしょうね」
つまり、研究側ではすでに強すぎるとして捨てた言葉だった。
それでも資料の改訂履歴には残る。
古い文書を探せば見つかる。
検索すれば出てくる。
後から歴史を学ぶ人は、最終的な用語だけでなく、途中で捨てられた言葉にも触れることがある。
◇
教育部門への共有記録。
担当は昨日確認したユリア・ノイス。
『第二次比較結果受領。初任者教材への反映なし。上級者向け参照資料として保留。』
その下。
『検索補助語「自己識別特徴」は継続使用するか再検討。研究側では当該語を現行用語として使用していない。』
会議記録へ進む。
ユリア。
『検索利用者の一部が「自己識別特徴」を氏名送信と誤解している。補助語としての利点より誤読負担が上回る可能性がある。』
別の教育担当者。
『削除すると旧資料から到達できなくなる。』
記録担当。
『旧語検索から現行資料へ転送する方式はどうか。』
結果。
『自己識別特徴』を現行索引の主要関連語から外し、旧語検索時のみ注意付きで現行資料へ誘導する。
「一回離した」
「はい」
『名称様音列』についても同様の提案が出たが、こちらは検索件数が多く、名称・名前等の語で誤って探す利用者を注意資料へ誘導する目的から維持された。
その違いが、ノルンには気になった。
自己識別特徴は表から下がる。
名称様音列は残る。
どちらも正式研究語ではない。
しかし、検索画面での寿命が変わった。
◇
「ノルン」
「はい」
「これって、『名称様音列』だけが生き残ったってこと?」
「検索補助語としては、この時点ではそう見えます」
「じゃあ、それが後で正式っぽくなった?」
「まだ分かりません」
「うん、聞くと思った」
主様は先に自分で止めた。
ノルンは少し笑った。
「でも、重要な違いではあります。使われ続けた言葉と、検索の表側から外された言葉では、後から触れる機会が変わりますから」
「正しい方が消えて、間違いやすい方が残った?」
「『自己識別特徴』も正しい正式語ではありません。どちらも補助的な言葉です」
「ああ、そっか」
「研究上の正式表現はもっと長いです」
「長すぎて誰も言わなそうなやつ」
「……否定しにくいですね」
正式には慎重。
日常的には不便。
だから補助語が生まれる。
補助語が短ければ、そこから条件が落ちる。
それはこれまで何度も見てきた流れだった。
◇
さらに資料を進めると、十四年目末の研修質問記録が出てきた。
上級研修。
参加者十九名。
第二次比較そのものは教材化されていないが、過去の用語変遷について質問があった。
『旧資料にある「自己識別信号」は、現在の「名称様音列」と同じ意味か。』
講師回答。
『違う。前者は初期研究仮説の旧称であり、後に用語が強すぎるとして変更された。後者は検索別名で、研究分類名ではない。』
別の質問。
『どちらも自分を示す音ではないのか。』
講師回答。
『そう確認された記録はない。観測上の特徴、意図的識別、名称性は別に評価する。』
ここまでは問題ない。
しかし、研修後アンケートの自由記述に一つだけ、ノルンの視線を止める文章があった。
『昔は外在者の自己識別音を「名称様音列」と呼んでいたが、今は確定していないため正式には使わない、と理解した。』
主様が眉を寄せる。
「逆になってる」
「はい」
講師はそう説明していない。
旧称と検索別名は別だと説明した。
名称性も否定した。
それでも一人の受講者は、
『外在者の自己識別音』
『昔は名称様音列と呼んでいた』
『今は確定していないから正式には使わない』
という一つの物語へまとめている。
◇
教育部門のアンケート確認欄には、赤字で注記があった。
『誤理解。個別フォロー済み。』
フォロー記録。
『本人へ、自己識別信号は旧研究仮説名、名称様音列は検索別名であり、同一用語の新旧関係ではないと説明。名称性未確認も再説明。』
受講者返答。
『理解した。検索で隣に出たので同じ系列の旧称と新称だと思っていた。』
「検索画面」
「はい」
ノルンは昨日確認した記録を思い出す。
『自己識別特徴』と『名称様音列』が関連語として近接していた時期。
その後、表示区分は改善された。
それでも記憶は残る。
「この人は直った?」
「少なくともフォロー記録上は」
「じゃあ、この人が広めたとは言えない」
「言えません」
むしろ、誤解が発生し、それを訂正した記録だ。
けれど同時に、どういう誤解が生まれ得たのかを具体的に示している。
◇
ノルンは資料を閉じず、そのまましばらく考えた。
主様も急かさなかった。
窓の外では、庭を歩く職員が濡れた石畳を避けながら荷物を運んでいる。朝より空は明るくなり、建物の影もはっきりしていた。
(正式な説明が正しくても、受け取った人が同じ構造で覚えるとは限らない)
それはすでに知っていた。
けれど今回の誤解は、単なる省略とは少し違う。
二つの別々の補助語が、検索上で近くに置かれた。
一方には『自己』。
一方には『名称』。
それを見た人が、二つをつないだ。
正式本文の誤りではない。
講師の虚偽でもない。
検索索引だけが原因とも言い切れない。
人間の側が、意味の近そうなものを一つの系列として整理した。
「ノルン?」
「はい」
「今度はどこまで言える?」
主様の問いに、ノルンは少し考えてから答えた。
「十四年目末までに、『自己識別』と『名称様音列』を同じ系統の言葉だと誤解した例が、少なくとも一件確認できました」
「それだけ?」
「それだけです」
「後の自己名につながったとは?」
「まだ言えません」
「分かった」
◇
終業時刻が近づく前に、エリオの盤上遊戯について短い報告が届いた。
新配置で二試合目。
中央位置の有利は前より減ったものの、今度は後手側の一人が序盤に選べる行動が少なすぎる可能性が出たらしい。
エリオ本人のコメント。
『直すところ増えた。でも前よりゲームっぽい。』
ノルンはそれを読み、詳細な心理評価を付けずに閉じた。
遊びを作っている。
問題を見つけて直している。
今はそれでいい。
◇
フローラの記録にも大きな変化はない。
マリエとの次回予定は未定。
アーノルドからの接触なし。
慈善活動への参加判断も未定。
昨日母親と話した焼き果物について、厨房で作れるか尋ねた記録が一つ増えていた。
接続とも婚約とも関係のない、小さな生活の続きだった。
◇
終業前、ノルンは今日の歴史調査をまとめた。
『十四年目末「発生源識別特徴候補・第二次比較」を確認。』
『新規低強度反応二件、仮番号N14-L1/N14-L2を比較対象へ追加。仮番号は観測事象参照用であり、主体・個体・人物番号ではない。』
『L1は既存比較群の一部と開始部強度推移に部分類似。ただし中盤・終了部等に不一致多数。発生源同一性評価不能。主体固有性未判定。意図的識別情報支持なし。』
『L2は人間聴取八名中三名に音声様印象あり。ただし内容・音節候補一致なし。名称推定なし。構造上、観測条件変更後も特定位置の微小偏りが維持されたが、発生源固有とは判定されず。』
『第二次比較に際し、発生源/主体/固有特徴/識別情報/意図的識別情報を分離して定義。発生源は人格・生命・個体を前提としない。』
『「主体固有性評価」欄は主体性を積極的に認定するためではなく、継続特徴候補と主体帰属を混同しないため導入。全対象未判定。』
『継続特徴候補あり=同一人物・同一主体ではない。将来主体固有性が支持されても、人格・氏名・意図・接続希望は別評価。』
『リディアの「ナみたい」関連反応と「レ/ラ/エ」候補間に、同一系列を支持する構造一致なし。ref7関連の一部とは部分類似するが、その特徴は他群にも存在し固有性なし。』
『第二次比較は初任者教材へ直接使用しない方針。「同じ誰かが繰り返し送信」「発生源固有かもしれない音」等への言い換え禁止。』
『教育部門では検索補助語「自己識別特徴」を現行主要索引から外し、旧語検索時のみ注意付きで現行資料へ誘導。「名称様音列」は検索誘導目的から維持。』
『上級研修参加者十九名中、自由記述一件で「自己識別信号」と「名称様音列」を同一系列の旧称・新称として誤解した例あり。個別訂正済み。本人は検索上の近接表示から同系列と理解したと回答。』
『この一件を後世の「自己名」表現の起源とはしない。拡散も未確認。』
ノルンは最後に少し間を置き、もう一行追加した。
『十四年目末時点でも、名称・自己名・自己紹介・単一主体の継続はいずれも確認されていない。』
保存する。
◇
「今日もつながらなかったね」
主様が言った。
ノルンは端末から顔を上げた。
「何がですか?」
「名前」
「むしろ、つなげてはいけない部分が増えました」
「ナとレとか?」
「それもですし、継続特徴と主体、主体と人物、識別情報と意図的識別情報、意図的識別情報と名前もです」
「いっぱいある」
「一つずつ違います」
主様はしばらく指を折っていたが、途中で諦めた。
「でもさ」
「はい」
「後の人が全部まとめたくなる気持ちは、ちょっと分かる」
ノルンはすぐには返事をしなかった。
間違っているからといって、なぜ間違えたのかまで理解不能とは限らない。
同じような資料。
似た言葉。
近い索引。
長く続く反応。
人の耳には音のように聞こえるもの。
そして、『誰かがいるのではないか』という問い。
「分かることと、採用することは別です」
「うん」
「なぜそう読んだのかは調べます。でも、その読み方を事実にはしません」
「それが観察官?」
ノルンは少し考え、首を傾げた。
「少なくとも、私の仕事ではそうですね」
◇
帰り支度を始めた頃、セレナがもう一度やってきた。
「明日の試験、詳細画面側にも一個追加していいですか?」
「何をです?」
「『将来確認される可能性』みたいなのを……って思ったんですけど」
言いながら、セレナ自身が止まった。
「いや、駄目か」
「なぜです?」
「可能性があるって書いたら、確認される方向に進んでるみたいに見えるかもしれない」
「そうですね。それに、将来何が確認されるかは分かりません」
「じゃあ書かない」
「ただ、『新しい証拠が得られた場合は再評価』という管理方針なら事実です」
セレナは目を瞬いた。
「あ、それなら現在の状態じゃなくて、判断ルールですね」
「はい」
「入れて試してみます」
端末へ記録しながら、セレナは小さく笑った。
「なんか最近、書かない方がいいことと、書いた方がいいことの境目ばっかり考えてます」
「私もです」
「昔の人も?」
ノルンは少しだけ間を置いた。
「かなり考えていたようです」
それ以上は言わなかった。
◇
夜。
十四年目末の第二次比較から三か月後に作成された関連文書が、未読資料一覧の上位へ移動していた。
『外在反応長期比較・識別単位設定案』
題名だけなら、これまでの研究の続きに見える。
概要にも、慎重な言葉が並んでいた。
『同一発生源を確定するものではない。』
『人物単位を設定するものではない。』
『観測記録の比較効率向上を目的とする。』
しかし、その文書では初めて、複数の反応を継続的に比較するための仮識別単位を設ける案が検討されていた。
ref7のような過去の参照番号とは異なる。
分類とも異なる。
反応一件ごとの番号でもない。
一定の特徴を共有する記録群を、比較作業の間だけ一つの単位として扱うための仕組み。
案の段階では、その名称すらまだ決まっていなかった。
候補欄には、
『比較群』
『特徴系列』
『暫定識別系列』
という三つの案が並んでいる。
そして欄外には、誰かが手書きで残した短い注記があった。
『人物と誤認されない名称にすること。』
まだ、研究者たちは止めようとしていた。
同じ特徴を持つ記録が増えても、それを同じ誰かにしないように。
比較のためにまとめても、それを一人の存在へ変えないように。
けれど、比較するためにはまとめなければならない。
その矛盾を抱えたまま、研究は次の段階へ進もうとしていた。




