第百二十三話 使わないと決めた言葉は、消えたことにはなりません
朝の管理室へ入ったノルンが最初に気づいたのは、窓から差し込む光の強さだった。
昨日までの雨雲は完全に去ったらしく、空には薄い雲がわずかに残るだけで、庭を囲む低い石壁にも朝日が当たっている。職員たちの動きも雨の日よりどこか軽く、開けられた換気窓からは冷たい風と一緒に、湿った土の匂いが流れ込んでいた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
すでに席へ着いていた主様は、片手を上げてからノルンの机へ視線を向けた。
「今日は音のやつ?」
「まだ何も確認していません」
「昨日、次に読む資料まで見つけてたから」
「見つけただけです」
「気になってない?」
「気にはなっています」
否定する理由はなかった。
十三年目初期に作成された草案。
『音声様変動に関する初任者質問回答集・案』
そこには、後世の資料で使われる『名称様音列』に近い言葉が、一度だけ候補として現れている。
しかし採用されたわけではない。
むしろ、
『「名称様」という短縮表現も同様。採用非推奨。』
と止められていた。
(似た言葉が出た。それだけです)
後世に同じような表現があるからといって、この草案から直接つながったと決めることはできない。
同じ人が後で復活させたのか。
別の資料へ残ったのか。
独立してもう一度生まれたのか。
そもそも後世の『名称様音列』が、この草案を参照して作られたのか。
何も分かっていない。
だから、まず現在を確認する。
◇
低強度識別不能反応。
通知対象事象、三件。
新規通知なし。
新規の閾値未満変動なし。
観測密度、通常。
個人関連付け、なし。
分類、保留。
周期性、確認されず。
ノルンは必要な項目だけを順に確認し、画面を閉じた。
主様は何も言わなかった。
ノルンが顔を向ける。
「今日は言わないんですか?」
「何を?」
「三件、と」
「言ったら言ったで何か言うじゃん」
「確認しているだけなら構いませんよ」
「じゃあ三件」
「はい」
「新しいのなし」
「はい」
「終わったとは限らない」
「はい」
「今日一回目?」
「何を期待しているんですか」
主様が笑う。
昨日までと同じ状態だった。
それを確認することと、意味を増やすことは違う。
◇
ルークは朝食を終えると、昨日庭で見たリンガの木について本を開いていた。
同じ果物の本だ。
白い花の写真が載っている。
「これがあの木?」
担当職員が隣から覗く。
「そうだよ。花が咲けばだいたいこんな感じ」
「今と全然違う」
「今は葉も少ないからな」
「いつ咲く?」
「もう少し暖かくなってから」
「何日?」
「そこまでは分からない」
ルークは写真と窓の外を交互に見る。
庭の端にある二本のリンガは、室内からでは枝の形がかろうじて分かる程度だった。
「毎日見たら分かるかな」
「少しずつ変わるかもしれないね」
「じゃあ見る」
職員は「うん」とだけ答えた。
毎日見たい。
それは観測義務ではない。
記録する必要もない。
花が咲くのを楽しみにしている人が、自分で木を見るだけだ。
ルークは少しして本を閉じると、別の本を探し始めた。
紙の鳥は棚に置かれたまま。
過去の名前について尋ねることもなかった。
◇
ミレイアの薄緑の布にも、まだ鋏は入っていなかった。
朝の光が机へ当たり、畳まれた布の色を昨日より明るく見せている。
「これ、朝見ると違う」
ミレイアが言う。
エリスは扉のそばで洗濯物を仕分けながら振り返った。
「色?」
「うん。店ではもうちょっと濃く見えた」
「照明が違うからじゃない?」
「外で見たらまた違うかな」
「見てみる?」
ミレイアは布を持ち上げたものの、すぐに首を振った。
「あとで」
「分かった」
エリスは洗濯物へ視線を戻した。
以前なら、ミレイアが何かを『あとで』と言えば、その言葉が本当にあとで行う意思なのか、遠回しな拒否なのかを考える場面もあった。
けれど今は布の話だ。
あとで見たければ見る。
忘れたなら、それでもいい。
「エリス」
「ん?」
「小さい巾着なら、これ一枚で何個作れるかな」
「大きさによると思う」
「それはそうなんだけど」
「紙で型を作ってみる?」
ミレイアは少し考えてから頷いた。
「それやる」
何を作るか決めていなかった布に、初めて具体的な候補が生まれた。
それでも、まだ切らない。
◇
管理室では、セレナの表示試験が二日目に入っていた。
昨日、新表示から詳細画面へ進んだ職員が一人いたが、最終判断に問題はなかった。
今朝は別の解析担当者から短い意見が届いている。
『「確認できないこと」が多く並ぶため、一見すると何も分かっていないように感じる。ただし、誤って分類するよりはよい。』
セレナがその意見を読み上げた。
「これ、どう思います?」
「感想としては自然では?」
「表示として」
ノルンは画面を見る。
『現時点で確認できること』
その下に数項目。
『現時点で確認できないこと』
こちらは八項目。
確かに、下半分の方が長い。
「分からないことが多いなら、多く見えるのは仕方ありません」
「ですよね」
「見栄えを揃えるために確認済み項目を増やすのは駄目です」
「しませんよ」
「未確認項目をまとめるのも慎重に」
「昨日の資料を読んだ後でそれをやったら、ノルンに怒られそう」
「私ではなく、表示を使う人の問題です」
セレナは椅子の背にもたれた。
「でも、ちょっと分かるんですよ。『確認できません』が八個並ぶと、仕事が進んでない感じがする」
「進んでいないのでは?」
「そう言われるとそうなんだけど」
「新しい証拠がないのに、進んだように見せる必要はありません」
「容赦ないなぁ」
近くにいた解析担当者の一人が、端末から顔を上げた。
「私は今の方が安心します」
セレナとノルンがそちらを見る。
職員は少しだけ姿勢を正した。
「前の表示だと、類似率が最初に目に入ったので。七十二、六十九、六十七って並ぶと、どれかに近いんだろうと思ってから詳細を読むんです。今は先に分類できないと分かるので、その後で数字を見ても印象が違います」
「なるほど」
セレナが頷く。
「数字を消さなくても、順番で変わる」
「私はそう感じました」
「記録していい?」
「もちろんです」
職員は再び仕事へ戻った。
ノルンはその背中を見ながら、昨日まで読んでいた古い資料を思い出した。
情報そのものだけではない。
順番。
見出し。
隣に置くもの。
先に聞いた言葉。
同じ事実でも、それらによって受け取り方は変わる。
だからといって、現在の表示と過去の研修を同じものとして扱う必要はない。
ただ、気をつける理由にはなる。
◇
午前の通常業務が一段落してから、ノルンは十三年目初期の草案を開いた。
『音声様変動に関する初任者質問回答集・案』
作成目的。
『接続史十五分概要において、外在反応の音声変換に関する質問が反復しているため、講師回答のばらつきを減らす。』
対象質問。
『何と聞こえたのか。』
『名前だったのか。』
『第一接続者を呼んでいたのか。』
『同じ音が繰り返されたのか。』
『相手が自分の名前を言った可能性はあるのか。』
主様が眉を上げる。
「質問の方が、もうかなり先まで行ってる」
「はい」
正式な研修資料では、名称も言語も呼びかけも確定していないと説明されている。
それでも質問する側は、その先を知りたがる。
何と聞こえたのか。
名前ではなかったのか。
呼んでいたのではないか。
自分の名前だった可能性は。
「みんな気になるんだね」
「音のように聞こえた、と知れば自然な疑問ではあります」
「ノルンも気になる?」
「気になることと、答えがあることは別です」
「そこはいつもの」
「はい」
質問回答集の最初には、回答原則が書かれていた。
『初任者の関心を否定しない。』
『一方、未確認事項へ具体的意味を与えない。』
『候補音の紹介は、教育目的上必要な場合を除き行わない。』
『音声変換結果は変換条件により変動し、人間の聴取結果も一致しない。』
『「何と聞こえたか」と「何を意味したか」を分ける。』
ノルンは小さく頷いた。
ここまでは、過去の研究記録と一致している。
◇
質問一。
『何と聞こえたのか。』
回答案A。
『複数の変換結果があり、一定した音として確定していません。人によって聞こえ方も異なりました。』
推奨。
回答案B。
『一部では短い音節のように聞こえましたが、変換条件により異なります。』
条件付き使用可。
回答案C。
『「ナ」「ア」等に近いとする聴取例がありました。』
初任者研修では非推奨。
「ちゃんとナもある」
主様が言う。
「研究記録にある情報ですから」
「でも教えない」
「初任者には原則として、ですね」
理由。
『具体音を提示すると、その後の説明で当該音を基準に聞こうとする傾向がある。』
『過去の聴取試験でも、事前情報の有無が印象へ影響する可能性が指摘されている。』
『音節候補を知ること自体が、名称・語彙・人物との結び付けを促す恐れがある。』
ここにも期待による偏りへの警戒が残っている。
質問二。
『名前だったのか。』
推奨回答。
『確認されていません。名称として扱う根拠はありません。』
補足可能。
『研究段階でも名称と確定せず、複数の音声様変動を連結して名称を作ることは避けられました。』
「連結しないも残ってる」
「はい」
質問三。
『第一接続者を呼んでいたのか。』
推奨回答。
『確認されていません。外在反応の対象自体が確定していません。』
補足。
『第一接続者本人が一部反応について「呼んでいるように感じる」趣旨の印象を述べた記録はありますが、本人も意味を確定しておらず、研究上も呼びかけとは扱われていません。』
ノルンの目が止まった。
主様も気づく。
「これ、リディアの『呼んでる?』?」
「おそらく関連記録を指していると思われます。ただし、この回答案には反応分類までは書かれていません」
後の整理では、リディアが『……呼んでる?』と感じた反応はCに分類され、ref7に関連付けられた反応とは別だった。
そして現在の識別不能反応でC七十二%という数字に寄与した三つの短時間反応にも含まれていない。
そこを混ぜてはいけない。
「初任者にこれ言うの?」
「補足可能、とあります」
「言ったら絶対気になると思う」
「私もそう思います」
その懸念は当時も出ていた。
欄外意見。
『本人の主観語「呼んでいる」を紹介することで、回答冒頭の「確認されていない」が弱くなる可能性。初任者向けでは削除推奨。』
別の意見。
『歴史的に本人の受け止めも重要であり、完全削除すると本人経験を消す。研究事実と本人印象を明確に分ければ残してよい。』
「どっちも分かる」
主様が言った。
「はい」
本人がそう感じた事実は消してはいけない。
けれど、その感想だけが独り歩きすれば、『呼んでいた』という事実に変わる。
残すことにも危険がある。
消すことにも危険がある。
◇
質問四。
『同じ音が繰り返されたのか。』
推奨回答。
『類似した変動が複数観測されていますが、同一主体による同一音の反復とは確認されていません。』
補足。
『内部参照番号は反応の連続性検討のため使用されましたが、人物識別番号ではありません。』
ref7の扱いにもつながる。
質問五。
『相手が自分の名前を言った可能性はあるのか。』
回答案A。
『そのように確認された記録はありません。音声様変動から外在主体の名称を特定した事例でもありません。』
推奨。
回答案B。
『名称のように聞こえる音列が観測されたことはありますが、名称とは確認されていません。』
非推奨。
その下に、昨日確認した修正意見がある。
『「名称のように聞こえる」は、名称候補が存在したとの理解を強化する恐れあり。』
『「名称様」という短縮表現も同様。採用非推奨。』
ノルンは改訂履歴を開いた。
草案第一版。
回答案Bあり。
第二版。
回答案B削除。
第三版。
名称に関する質問そのものは残るが、回答はAへ統一。
正式採用版。
『名称として確認された音列はありません。具体的な候補音については初任者研修では扱いません。』
「消えてる」
主様が言う。
「正式版からは」
「じゃあ『名称様』もここで終わり?」
ノルンはすぐに首を振らなかった。
「この資料の正式版では終わっています」
「この資料では」
「はい」
それ以上は言えない。
後世に同じ言葉が現れることは、すでに知っている。
だからこそ、この時点で『ここから復活した』とも、『完全に消えた後で別に生まれた』とも決められない。
◇
ノルンは作成者情報を確認した。
質問回答集の編集担当は四名。
教育部門二名。
記録部門一名。
観察研究部門一名。
名前が記載されているのは責任編集者だけだった。
イレーネ・ヴァルク。
当時の教育資料主任。
この先の資料にも関わる可能性があるため、ノルンは名前を記録欄へ残した。
「この人が『名称様』って書いたの?」
主様が尋ねる。
「分かりません。責任編集者というだけです。各案の起草者までは記録されていません」
「じゃあイレーネが作ったってことにはしない」
「はい」
添付された編集会議記録を開く。
参加者七名。
議題。
『具体音をどこまで初任者へ開示するか。』
『本人主観記録の扱い。』
『名称質問への回答統一。』
会議記録は要点のみで、発言者名は一部しか残っていない。
『具体音を示さないことで、後の上級研修時に「隠していた」と感じられる危険がある。』
『一方、初期段階で音を示せば、その音を中心に歴史全体を読む可能性がある。』
『「ナ」等を提示した後に「名前ではない」と説明しても、受講者の記憶には具体音の方が残る可能性。』
主様が小さく唸る。
「これ、昨日の『お互い』と同じ?」
「似た問題ではあります」
最初に強い言葉や具体的な形を与える。
後から注意を足す。
注意まで正確に覚えてもらえるとは限らない。
だから具体音を出さない。
その判断だった。
◇
しかし、会議記録の後半に別の問題が出ていた。
『具体音を全て非開示とすると、上級研修以前の職員が非公式説明から候補音を知った場合、正式資料より非公式情報の方が具体的で信頼できるとの逆転が起こり得る。』
ノルンの視線が止まる。
「非公式の方が詳しい」
主様が言った。
「はい」
正式資料。
『名称ではありません。具体音は扱いません。』
非公式な先輩職員。
『昔、“ナ”みたいな音があったらしいよ』
どちらが人の記憶へ残りやすいか。
答えは簡単ではない。
正式資料が慎重であればあるほど、断定を避ける。
断定を避ければ、具体性が減る。
具体性のある噂が隣にあれば、そちらが『本当はこうだった』という裏話に見えることもある。
「正しく隠してるわけじゃないのに、隠してるみたいになる」
「教育段階を分けているだけですからね」
「でも聞く人は、その理由知らない」
「はい」
また同じ構造だった。
作る側が知っている理由は、読む側へ自動的には渡らない。
◇
会議では最終的に折衷案が採用された。
『初任者には具体音を提示しない。』
『上級研修では変換条件差、聴取試験結果、本人主観を含めて扱う。』
『初任者から具体音を直接質問された場合、講師が記憶のみで候補音を回答しない。上級資料を参照するか、後日回答とする。』
『「名称らしい音があった」「名前を呼んでいた」等への言い換え禁止。』
『名称質問に対しては、名称確認なしとの事実を先に回答する。』
「かなり気をつけてる」
「はい」
「それでも後で『名称様音列』になるんだよね」
ノルンは主様を見る。
「後世の資料では、その表現が確認されています」
「ここからどう行くんだろ」
「それをこれから調べるんです」
「楽しそう」
「楽しんでいません」
「ちょっとだけ?」
「気になるとは言いました」
主様が笑った。
◇
昼過ぎ。
フローラは母親と庭を歩いていた。
金曜日の外出を明日に控えているが、そのために特別な準備をしているわけではない。
服もすでにある。
持ち物も多くない。
「明日は晴れるそうよ」
母親が言う。
「それなら歩きやすいですね」
「焼き果物のお店、川向こうだったかしら」
「はい。マリエが教えてくれました」
「帰りが遅くなりそうなら連絡だけしてね」
「分かりました」
それだけだった。
母親はアーノルドについて尋ねなかった。
マリエとの外出へ、別の関係を重ねる必要はない。
少し先で庭師が冬の間に傷んだ枝を切っている。乾いた枝が落ちる音にフローラが目を向けると、母親も同じ方を見た。
「春の準備ね」
「まだ少し寒いですけれど」
「準備は寒いうちからするものもあるのよ」
フローラは頷いた。
その言葉にも、別の意味を探さなかった。
明日は友人と焼き果物を食べに行く。
今はそれで十分だった。
◇
ミレイアは午後、薄緑の布を机へ広げ、その上に紙で作った型を並べていた。
「三個」
「何が?」
エリスが覗く。
「この大きさなら巾着三個作れる」
「三個も必要?」
「いらない」
「じゃあどうするの」
「一個作って、残りは残す」
「いいんじゃない?」
ミレイアは型紙を少しずらす。
「もうちょっと大きくしても二個分残るかな」
「布に印つける前に試したら?」
「うん」
まだ鋏は入らない。
けれど昨日より少し進んでいる。
それをエリスは『決断できるようになった』とも、『心境の変化』とも記録しなかった。
裁縫の進み具合としては、型紙を作った。
それだけだ。
◇
夕方近くになって、セレナが二日目の試験状況を持ってきた。
「今のところ判断ミスなし。詳細画面を開いたのは六人中三人です」
「理由は?」
「一人は昨日の人。もう一人は類似特徴の内訳確認。もう一人は『周期性なし』の根拠確認」
「問題は?」
「まだないです」
セレナは資料を机へ置き、少し迷ってから言った。
「ただ、一人から追加意見がありました」
「何でしょう」
「『確認できないこと』に『音声・言語性』ってあるでしょう?」
「はい」
「それを見て、そもそも音声の可能性が検討されてるんだって初めて意識したって」
ノルンは表示へ目を向けた。
『現時点で確認できないこと』
『音声・言語性』
否定するために書いた項目が、その可能性を提示している。
主様も画面を覗く。
「書かなかったら?」
「音声かもしれないと勝手に思う人を止められない可能性があります」
セレナが答える。
「書いたら?」
「音声っていう発想自体を持ってなかった人に、候補を教える」
「難しい」
「本当に」
セレナは椅子へ腰を下ろした。
「消す?」
ノルンはすぐに答えなかった。
「その職員は、表示を見た後にどう判断しました?」
「『音声かどうかも分からないなら、意味推定はできない』です」
「では、現時点で実務上の誤りはありません」
「残して試験継続?」
「私はそれでいいと思います。ただし、その反応は記録しておきましょう」
「了解」
セレナが入力する。
否定項目は、可能性の存在を知らせる。
それでも、書かない方が安全とは限らない。
十三年目の人々も、似た問題に向き合っていた。
◇
ノルンは歴史資料へ戻り、質問回答集の採用後記録を確認した。
正式版配布。
講師向け説明会実施。
初任者へ具体音は原則提示しない。
名称確認なしを先に回答。
最初の三か月。
重大な誤答報告なし。
受講者アンケート。
『音の内容が分からないのは少し気になった。』
『名前ではないと分かった。』
『音声のように変換できても言葉とは限らないことを初めて知った。』
少なくとも、すぐに問題が起きた記録はない。
「止まった?」
主様が尋ねる。
「この資料の範囲では」
ノルンは次の関連資料一覧を見る。
上級研修資料。
研究記録索引。
教育用質問回答集改訂版。
そして一つ、見慣れない名称があった。
『接続史用語整理・教育部門内部参照表』
作成時期。
十三年目中期。
用途。
『教材間で異なる用語の対応確認。受講者非配布。』
「用語整理」
主様が読む。
「開きますか?」
「ノルンが聞くの?」
「たまには」
「開く」
「即答ですね」
ノルンは資料を開いた。
◇
表形式だった。
左列。
『研究記録上の表現』
中央。
『教育資料上の推奨表現』
右列。
『避ける表現/注意』
最初のいくつかは問題ない。
『外在低強度変動』
教育表現。
『外在反応』
注意。
『主体性を前提としない。』
『音声変換可能変動』
教育表現。
『音声様変動』
注意。
『実音声・言語としない。』
『内部参照番号』
教育表現。
『反応参照番号』
注意。
『人物番号と説明しない。』
その下。
『複数変換条件下で短音節様に知覚された変動群』
教育資料上の推奨表現。
空欄。
右列。
『名称候補/名称様音列/呼称反応――使用非推奨。』
主様が指を差す。
「ここにもある」
「はい」
『名称様音列』。
ただし、まだ禁止側だ。
ノルンは行の注記を開いた。
『研究上、統一名称なし。教育上も固有の短縮名称を与える必要性が低い。』
『一つの群として名称を与えることで、別時期・別分類・異なる変換条件の反応を同一系列と誤認させる恐れ。』
「一つの群ですらない」
「そうですね」
Aのナ/ア。
別のBに近いレ/ラ/エ。
他にも短い音節のように聞こえた反応はある。
それらをまとめて『名称様音列』と呼べば、最初から一つの連続した謎の名前が存在したように見えてしまう。
当時の担当者は、その危険まで認識していた。
◇
ところが、その表の下部には更新履歴があった。
十三年目中期、初版。
十三年目後期、第二版。
十四年目初期、第三版。
ノルンの指が止まる。
「十四年目」
主様が言う。
「はい」
これまで追っていたのは、十三年目までの資料が中心だった。
後世の確定的な記述へ近づく時期が、少しずつ見えてきている。
第二版の変更点。
『教育資料検索性向上のため、研究記録に統一名称のない項目へ仮参照語を設定。』
「仮参照語」
主様の声が小さくなる。
ノルンは変更箇所を開いた。
例。
『初回接続後の複数低強度反応群』
仮参照語。
『初期外在反応群』
例。
『本人通知停止・再開を含む支援経過』
仮参照語。
『第一接続者通知管理経過』
そして、
『複数変換条件下で短音節様に知覚された変動群』
仮参照語欄。
そこには文字が入力されていた。
『音節様変動群』
ノルンは息を吐いた。
「まだ名称様じゃない」
「はい」
さらに注意。
『検索・索引用の便宜的集合名。単一系列・同一主体・言語性を意味しない。』
「ちゃんと注意もある」
「あります」
十三年目後期。
まだ『音節様変動群』。
名称ではない。
名前でもない。
呼びかけでもない。
◇
第三版。
十四年目初期。
変更理由。
『教材検索時、「音節様変動群」が音声学的分類名称と誤解される事例あり。』
『上級研修受講者から「何の音節か」「既知言語との照合結果は」との質問が増加。』
変更案が二つ並んでいる。
案一。
『名称未確定音列群』
案二。
『名称様音列』
主様が黙った。
ノルンもすぐには先を読まなかった。
ついに、禁止欄ではなく、候補欄へ移っている。
ただし候補だ。
採用とは限らない。
「なんで名称が入ったの?」
主様が尋ねる。
「理由を読みます」
案一の説明。
『当該反応群が名称として確定していないことを語内で示せる。』
反対意見。
『「名称未確定」は名称である可能性を前提とするように読める。』
案二の説明。
『人間聴取上、一部が名称らしい短音列として受け取られた歴史的経緯を簡潔に示せる。』
反対意見。
『過去に使用非推奨とされた「名称様」を再導入することになる。』
『別時期・別分類の変動を一系列化する危険が残る。』
『本人主観および非研究職員の名称連想を、研究上の性質へ転換する恐れ。』
ノルンの目が細くなる。
「反対されてる」
「はい」
「しかも前に禁止したことも分かってる」
「そうです」
誰かが昔の禁止を忘れて、偶然同じ言葉を作ったわけではない。
少なくとも、この第三版の検討者は『名称様』が過去に非推奨だったことを知っている。
それでも候補へ戻した。
なぜか。
まだ、その理由は十分ではない。
◇
検討記録は次ページへ続いていた。
『検索用語としての必要性と、教育上の誤読リスクを分離して検討する。』
『内部検索語は受講者へ直接提示されない。』
主様がすぐ反応した。
「それ、前にもあった」
「内部用なら大丈夫、ですね」
「うん」
内部参照番号。
内部分類。
講師補助。
作る側だけが意味を知っている言葉。
それが後で外へ出れば、意味は変わる。
『内部検索語として「名称様音列」を設定し、教材本文では使用しない案。』
ノルンは読み進める。
『利点:既存の非公式検索語「名前らしい音」「名称候補音」「呼称らしい反応」等を一つの正式検索先へ誘導できる。』
主様が目を見開いた。
「非公式検索語?」
「職員が資料を探す時に使っていたようですね」
正式資料では名称を否定している。
しかし検索する職員は、
『名前らしい音』
『名称候補音』
『呼称らしい反応』
と入力していた。
正式用語がないため、検索結果が散らばる。
そこで検索の入口を一つ作ろうとした。
「間違った言葉で探してくる人を、正しい資料に連れていくため?」
「その目的が含まれているようです」
「それで『名称様音列』を正式な検索語にする」
「まだ案です」
「……難しいね」
主様の声に、いつもの軽さはなかった。
ノルンも同じだった。
間違った理解を正すために、その間違った理解に近い言葉を入口として登録する。
利用者は見つけやすくなる。
しかし、その入口自体が正式な言葉として残る。
◇
検討会の意見。
『検索者が使用する語と正式記録語が乖離しすぎると、必要資料へ到達できない。誤った検索語から正しい資料へ誘導する仕組みは必要。』
別の意見。
『検索別名として登録するだけなら、本文へ表示しなければよい。』
さらに別の意見。
『内部検索別名であっても、索引出力・資料移行・自動要約等で表面化する可能性がある。正式語と誤認される危険があるため、誤解を含む語を正式登録すべきではない。』
ノルンの指が止まった。
「自動要約」
主様が読む。
「後で出てくるかもしれないって分かってる」
「はい」
当時の人々も危険を見ていた。
未来を完全に予測していたわけではない。
けれど、内部用の言葉が外へ出る可能性は認識している。
「採用された?」
「今日はここまでにしましょう」
「えっ」
主様が本気で驚いた顔をした。
「業務時間です」
「あとちょっとじゃん」
「その『あとちょっと』で一時間になることがあります」
「気になる」
「私もです」
「じゃあ読もうよ」
「気になるから読む、を毎回やっていたら、私たちが過去資料の待機者になります」
「その使い方合ってる?」
「たぶん違います」
二人とも少し笑った。
ノルンは資料を閉じた。
採用されたかどうかは、まだ見ない。
候補へ戻った理由の一部は分かった。
それで今日は十分だった。
◇
終業前、現在反応を最後に確認する。
三件。
新規通知なし。
セレナの表示試験、重大な判断ミスなし。
ミレイアは薄緑の布用に巾着の型紙を作ったが、まだ裁断していない。
ルークはリンガの開花を楽しみにしている。
エリオの盤上遊戯調整は継続。
フローラは明日、マリエと焼き果物の店へ行く予定。
アーノルドからの接触なし。
ミレイアの第二接続について変更なし。
九名の状態に、接続を急がせる変化はない。
ノルンは歴史調査記録をまとめた。
『十三年目初期「音声様変動に関する初任者質問回答集」を確認。』
『初任者から名称・呼びかけ・自己名等を推測する質問が継続していたが、正式回答は名称確認なし、対象未確認、言語性未確認を維持。』
『具体音「ナ」「ア」等は研究記録に存在するが、期待偏りを避けるため初任者への提示は原則非推奨。』
『第一接続者の「呼んでいるように感じる」主観記録を教育上残すか議論あり。本人経験を消さない必要と、主観が事実化する危険の双方が指摘された。』
『「名称のように聞こえる音列」「名称様」は草案段階で使用案が出たが、名称候補の存在を前提化する危険から正式版では不採用。』
『教育資料主任イレーネ・ヴァルク。責任編集者であり、「名称様」案そのものの起草者とは確認できない。』
『十三年目中期の教育部門内部参照表でも「名称様音列」は使用非推奨。別時期・別分類・異なる変換条件の反応を一系列化する危険が明記。』
『十三年目後期、検索性向上のため便宜的集合名「音節様変動群」を内部仮参照語として設定。単一系列・同一主体・言語性を意味しないとの注意あり。』
『十四年目初期、「音節様変動群」の誤解を受け、内部検索語候補として「名称未確定音列群」「名称様音列」が再検討される。』
『再検討理由の一つは、職員が「名前らしい音」「名称候補音」「呼称らしい反応」等の非公式語で検索しており、正式資料へ到達しにくいこと。誤った検索語から正しい資料へ誘導する目的がある。』
『一方、内部検索語が索引・資料移行・自動要約等で表面化し、正式研究語と誤認される危険も当時から指摘。』
『「名称様音列」の採否は未確認。』
最後の一行は短くした。
『後世の同語との直接継承関係は、まだ確定しない。』
保存する。
◇
外へ出る頃には、朝より少し風が強くなっていた。
雲は増えているが、雨の気配はない。
主様が隣を歩きながら言う。
「今日、途中で止められた」
「何の話ですか」
「資料」
「毎日止めています」
「でも今日は採用されたかどうかの直前だった」
「直前かどうかも分かりませんよ」
「絶対次に書いてある」
「そういう期待が確認偏りを生むんです」
「資料読むだけでも?」
「自分が見たい答えが次にあると思えば、途中の情報をその答えへ寄せて読む可能性はあります」
「じゃあ明日は忘れて読む」
「無理でしょう」
「無理」
主様は即答した。
ノルンは呆れながらも笑った。
そのとき端末が短く震えた。
ミサキからの返信だった。
『昨日の返事遅くなった。湖のそばの町。古い本屋が三軒あるんだって』
続けて、
『あと甘い焼き菓子が有名。こっちは主様が好きそう』
ノルンは思わず立ち止まった。
「なんで私じゃなくて主様の好みまで知られてるんですか」
「え、何?」
主様が寄ってくる。
「見ないでください」
「絶対私の話じゃん」
「違います」
「今、主様って言った」
「聞かなかったことにしてください」
「無理」
今度は主様が先ほどと同じ言葉を返した。
ノルンは端末を胸元へ引き寄せながら歩き出す。
湖の町。
古い本屋が三軒。
甘い焼き菓子。
それだけの話だ。
行く予定はない。
約束もない。
けれど、少しだけ気になった。
◇
その夜。
十四年目初期の『接続史用語整理・教育部門内部参照表』第三版、その検討記録の続きには、内部検索語の採否が残されていた。
『「名称様音列」――検索別名としてのみ条件付き採用。』
『教材本文、受講者配布資料、研究分類名には使用しない。』
『検索結果表示時は正式表現「複数変換条件下で短音節様に知覚された変動記録」へ自動置換する。』
『単一系列・同一主体・名称性を示さない。』
採用はされていた。
けれど、それは『名称のような音が確認された』からではなかった。
むしろ、名前だと思って検索する職員を、名前ではないと説明する資料へ連れていくためだった。
そして、その運用開始から七か月後。
資料管理部門から一件の不具合報告が提出されている。
『旧式索引出力時、検索別名が正式項目名欄へ表示される事象を確認。』
対象件数。
十一件。
そのうち、『名称様音列』を含む出力。
三件。
原因。
新旧索引形式間の項目対応不備。
修正済み。
再出力推奨。
そして備考欄。
『当該出力を用いて作成済みの二次資料については、各部署で確認を要する。』
内部でしか使わないはずだった言葉は、一度だけ、正式な項目名のような顔をして外へ出ていた。
それがどこまで残ったのか。
誰が見たのか。
どの二次資料へ移ったのか。
まだ、何も分かっていなかった。




