第百二十二話 口で伝えた注意書きは、記録の中には残りません
翌朝の管理室には、前日までの雨が嘘だったような光が差し込んでいた。窓硝子には乾ききらなかった水滴がわずかに残っているものの、雲の切れ間から射す朝日は明るく、濡れた庭の植え込みを普段より濃い緑色に見せている。
ノルンは上着を掛けると、机へ向かう前に窓の外を一度だけ見た。
(今日は晴れそうですね)
それ以上の意味はない。
昨日が雨で、今日は晴れた。
ただそれだけのことだった。
「おはよう」
背後から主様の声がした。
「おはようございます」
「今日は何から?」
「いつもどおりです」
「九人、反応、それから昔?」
「業務状況次第ですが」
「そこまで決めてないのね」
「一日の最初から、最後まで全部予定どおりになると思っている方がおかしいです」
「ノルンが言うと説得力ある」
「どういう意味ですか」
主様は答えず、自分の席へ向かった。
ノルンも端末を起動する。
昨夜最後に確認した資料の一文が、まだ頭に残っていた。
『互いの存在を直接確認できない状態で経過した長期事例』
その直後には、
『「互い」は心理的相互性・同一対象指向・双方の再接続意思を意味しない』
という注意が続いている。
文章として読めば、まだ区別できる。
けれど、これは講師用だ。
受講者へ配られたものではない。
実際に講師が何を口にしたのかは、別の問題になる。
ノルンはその続きを開く前に、現在の記録へ切り替えた。
◇
低強度識別不能反応。
通知対象事象、三件。
新規通知なし。
夜間の閾値未満変動、新規記録なし。
観測密度、通常。
発生源、対象、意味、意図、同一源、既知分類との関係、いずれも未確認。
周期性、確認されず。
「三件」
隣から声がした。
ノルンは主様を見る。
「はい」
「今日はそれだけ」
「何がですか」
「増えてないから、増えてないって言っただけ」
「成長しましたね」
「今日一回目」
「それは数えるんですね」
主様は満足そうだった。
現在反応については、本当にそれ以上することがない。
新しい証拠がないのだから、新しい結論もない。
昨日まで三件だったものは今日も三件。
静かだからといって終了ではなく、続いているからといって何かが近づいているわけでもない。
ノルンは画面を閉じた。
◇
セレナの試験表示は、この朝から解析担当の一部で運用が始まった。
対象者は六名。
通常画面と新表示の両方へアクセスできる状態にし、業務中にどちらを参照したか、判断へどのような影響があったかを後で確認する。
「説明しすぎないでくださいね」
ノルンが言うと、セレナは少し不満そうに眉を上げた。
「私、そこまで過保護ですか?」
「試験前に『ここはこう読んでください』と説明したら、表示そのものの試験になりません」
「分かってます」
「ならいいんです」
「でも今、絶対に私が説明すると思ってたでしょう」
「少し」
「ひどい」
近くで準備をしていた解析担当の職員が笑いを堪えている。
セレナがそちらを見る。
「今のは記録しなくていいですからね」
「表示試験の記録には入れません」
「それ以外にも入れなくていいです」
職員が今度は声を出して笑った。
張りつめた試験ではない。
表示を変えたからといって、現場全体が特別な一日になるわけでもない。
六名はそれぞれ通常業務へ戻っていった。
◇
フローラは朝食後、自室の机でマリエから届いた最後の手紙を読み直していた。
約束は金曜日、午後二時。
焼き果物の店。
日時はもう決まっているため、返事を重ねる必要はない。
それでも手紙を箱へ戻す前に、フローラは最後の一文をもう一度見る。
『今度はあの変な噴水の前を通らない道にしようね。私はやっぱり、あれは可愛くないと思います。』
フローラの口元が緩んだ。
(私は少し可愛いと思うのだけれど)
最初に一緒に出かけた日、二人はそのことで意見が分かれた。
大した話ではない。
だからこそ、思い出すと楽しい。
机の棚には木の鳥がある。
その横へ手紙の箱を戻し、フローラは立ち上がった。
母親が部屋へ入ってきたのはその直後だった。
「お出かけ、明後日だったかしら?」
「はい。午後二時です」
「楽しみ?」
フローラは以前なら少し考えてから答えたかもしれない。
何をどこまで口にしていいのか、自分の気持ちをどう表現すればいいのかを選んだだろう。
けれど今日は、自然に頷いた。
「楽しみです」
母親の表情が柔らかくなる。
「そう」
それ以上は聞かなかった。
誰と何を話すのか。
何時までいるのか。
次も会うのか。
細かく確認しようと思えば、いくらでも質問できる。
しかし娘が楽しみにしている外出について、すべてを事前に言葉へさせる必要はない。
「帰ったら、焼き果物がどうだったかだけ教えてね」
「お母様も食べたいのですか?」
「美味しかったら」
「では、味見役ですね」
「大切なお役目です」
二人は顔を見合わせて笑った。
アーノルドの名前は出なかった。
出す必要がなかった。
◇
エリオの部屋では、昨日まで続いていた四人用盤上遊戯の調整が再開されていた。
中央位置が有利すぎる。
その問題を解決するため、今日は最初の配置を変えて試すことになった。
「中央を弱くする?」
一人が言う。
「弱くしたら誰も取りたくなくなるだろ」
「じゃあ中央だけ最初の手番を最後にする」
「それだと端が強くならない?」
紙の上へ矢印や数字が増えていく。
エリオは盤を見ながら腕を組んでいた。
「最初から全部直そうとすると、また終わらなくなる」
「前もそれで紙三枚使ったからな」
「四枚」
「増えてるじゃん」
笑い声が上がる。
少し離れたところにいたラウルは、口を挟まずにその様子を見ていた。
以前なら、エリオが誰かとこれほど長く一つのことを相談している姿を見れば、何か意味を付けたくなったかもしれない。
交流が増えた。
前向きになった。
外へ向かう準備になっている。
けれど今、目の前にあるのは盤上遊戯の調整だ。
本人たちはただ面白くしたいから話している。
「ラウル」
呼ばれて顔を上げる。
「紙ある?」
「ありますよ」
「二枚」
「三枚持ってきます」
「二枚でいいって」
「たぶん足りません」
周囲から笑いが起きた。
エリオは少し悔しそうな顔をしたが、結局三枚受け取った。
◇
昼前。
ノルンは通常業務を終えたところで、昨日保留にした資料を開いた。
『十五分概要・講師用説明補助』
初版。
全六項目に対応して、講師が補足すべき内容が短く書かれている。
冒頭には注意があった。
『本補助資料は受講者配布不可。』
『記載文をそのまま読み上げることを目的とせず、説明時に失ってはならない前提条件を講師間で共有するためのもの。』
ノルンはその文を二度読んだ。
「読み上げ原稿じゃない」
主様が言う。
「はい。つまり、実際の表現は講師ごとに変わる可能性があります」
「記録に残らないところが増える」
「そうなります」
第一接続者と外在反応を扱う箇所。
『第一接続者と外在反応の直接関係は未確認。』
『外在反応について、単一主体・初回接続対象・第一接続者への指向・再接続意思を前提としない。』
『本人側の希望も時期により変化しており、継続的な心理待機として説明しない。』
ここまでは明確だ。
その下。
『説明上、第一接続者と外在反応を別々に扱うと理解が難しい場合は、「互いの存在を直接確認できない状態で経過した長期事例」と説明してよい。』
さらに注意。
『ただし、「互い」は心理的相互性・同一対象指向・双方の再接続意思を意味しない。』
主様が机へ肘をつきそうになり、途中でやめた。
「これ、難しくない?」
「何がです?」
「『互い』って言ってから、『でも互いって意味じゃない』って説明するの」
ノルンは少し考える。
「厳密には『互いの存在を直接確認できない』の『互い』は、二つの記録領域を対置するための表現なのでしょう」
「うん。今の説明でもう難しい」
「……そうですね」
作成者には意図がある。
第一接続者側。
外在反応側。
二つを短く説明するために『互い』を使った。
しかし、その単語は一般的には関係性を表す。
双方。
二人。
向き合うもの。
そこから心理的相互性を完全に排除したまま聞くには、受講者側にも相応の注意が必要になる。
◇
補助資料の改訂履歴には、講師から寄せられた意見が残っていた。
『「互い」の意味を毎回補足する必要があり、かえって説明が長くなる。』
『受講者から「では何が互いなのか」と質問される。』
『「双方」と言い換えたが、双方の意思があるように聞こえるとの指摘あり。』
『「二つの側」と表現すると、外在反応に主体性があるように聞こえる。』
主様が額へ手を当てる。
「何言っても駄目じゃない?」
「短く言おうとすると難しいんでしょうね」
「長く説明したら十五分じゃない」
「それが元の問題です」
別の講師意見。
『第一接続者本人の意思と外在反応研究を同じ時間帯の出来事として説明する必要はあるが、関係性を想起させない短い表現が難しい。』
さらに、
『実施時は「本人側では通知条件を維持する時期があり、別途、外在領域では反応研究が続いていた」と説明している。』
これは比較的安全だ。
ノルンは講師識別番号を見る。
研修担当者B-14。
実名は不要な資料のため番号のみ。
別の講師。
『「お互いに相手を確認できない状態が長く続いた」と説明後、「ただし外在反応が本人を相手としていたかは未確認」と補足。』
ノルンの視線が止まる。
「お互いに相手を確認できない」
主様がゆっくり読む。
「これ、もう相手って言ってる」
「はい」
補助資料の原文より一段進んでいる。
原文は『互いの存在を直接確認できない』。
講師の口頭説明では『お互いに相手を確認できない』。
外在反応側に『相手』が生まれている。
その後で未確認だと補足しているが、最初の一文を聞いた時点で、受講者の頭には関係が成立する可能性がある。
「この講師、間違ってるって分かってた?」
「後半では『外在反応が本人を相手としていたか未確認』と説明しています。少なくとも未確認なのは理解していたようです」
「じゃあ、嘘ついたわけじゃない」
「短く分かりやすく言おうとして、前半の言葉が強くなった可能性があります」
口頭説明。
その場では消える言葉。
資料へ残らない。
後から検証するには、講師自身の記録や受講者の記憶が必要になる。
◇
さらに進めると、研修後アンケートの自由記述があった。
全受講者ではない。
任意回答。
十二年目後半、三回分。
第一回、受講者二十一名。自由記述九名。
第二回、十九名。自由記述七名。
第三回、二十三名。自由記述十一名。
大半は制度原則への感想だった。
『本人意思確認が途中でも必要だと分かった。』
『接続成功だけを目的にしないことが重要。』
『反応があっても本人へすぐ伝えない場合がある理由を理解した。』
問題は少数の記述にあった。
『最初の人と相手が長くお互いを確認できなかった事例が制度改善につながった。』
別の回。
『第一接続者と外在側が長期間すれ違っていたことが印象に残った。』
さらに、
『二人が直接確認できない間も管理側が支援と観測を続けた。』
ノルンは画面を止めた。
「二人」
主様の声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「はい」
「資料には二人ってない」
「ありません」
第一接続者は一人。
しかし外在反応側は主体数不明。
それなのに受講者の記憶では『二人』になっている。
「これが最初?」
「分かりません」
ノルンはすぐ答えた。
「以前の非公式理解記録にも似た表現があります。どちらが先か、相互に影響したか、独立して生まれたかはまだ判断できません」
「そっか」
「このアンケートも全員ではありません。三回分だけです」
「でも、少なくともこう受け取った人はいた」
「それは言えます」
記録に残ったのは、受講者の理解だ。
講師が実際に『二人』と言った証拠ではない。
『お互いに相手を確認できない』から受講者自身が二人を想像したのかもしれない。
別の職員から聞いた話が混ざった可能性もある。
すでに存在していた非公式理解を持ち込んだ可能性もある。
ここで一本の経路を作ってはいけない。
◇
研修担当部署も、その自由記述に気づいていた。
『「二人」「すれ違い」等の表現が受講者記述に出現。』
『正式教材および講師補助資料では、外在側の単一主体性を確定していない。』
『講師説明の実態確認が必要。』
その後、担当講師五名への聞き取りが行われている。
一人目。
『本人側と外在反応側を分けて説明した。「互い」は使用していないと思う。』
二人目。
『補助資料に従い「互いの存在を確認できない」と説明した。直後に関係未確認を補足した。』
三人目。
『「お互いに相手を確認できない」と言った可能性がある。意味としては接続成立していないというつもりだった。』
四人目。
『「すれ違い」という言葉を使った記憶がある。ただし恋愛的・心理的意味ではなく、接続条件が一致しない状態の比喩。』
主様が顔を上げた。
「すれ違い」
「はい」
「また強い言葉」
「話した本人の意図より、聞く側が持つ意味が広いですね」
五人目。
『正確な表現は覚えていない。質問への回答で「向こうも反応は続いていた」と説明した可能性がある。』
五名とも、外在側が第一接続者本人を探していたと確定した認識は持っていない。
五名とも、双方の再接続意思が確認されていたとは答えていない。
つまり、講師自身の理解は正式資料から大きく外れていない。
それでも口頭表現は揺れていた。
◇
調査担当者の結論は慎重だった。
『受講者の「二人」「すれ違い」理解が、特定講師の特定表現のみを起点としたとは確認できない。』
『複数講師が、正式には未確認である関係性を、短時間で説明するため関係語・心理語に近い一般語へ置換していた可能性がある。』
『補足説明により未確認性を回復しようとしているが、先行する簡略表現の印象が残る可能性は否定できない。』
『また、受講者が研修前から非公式理解を有していた可能性を排除できない。』
『原因を単一化せず、教材見出し・本文省略・講師補助表現・口頭言い換え・既存非公式理解を別要因として扱うこと。』
ノルンは静かに息を吐いた。
「一個じゃない」
主様が言う。
「はい」
「誰か一人が間違えたんじゃない」
「少なくとも、この調査ではそう結論づけています」
項目名。
省略。
『互い』。
『相手』。
『すれ違い』。
すでに持っていた理解。
小さなものがいくつもある。
一つだけなら、訂正できる。
けれど別々の場所で似た方向へ補われていけば、いつかそれが『みんなが知っている話』になる可能性がある。
ただし、まだそこまでは確認されていない。
◇
昼食後、セレナが試験表示の最初の利用記録を持ってきた。
「面白いことがありました」
「問題ですか?」
「問題かどうか判断中です」
六名のうち一名が、新表示を見た後で詳細を開いていた。
理由。
『「複数の過去短時間反応と部分的特徴類似」だけでは、何が似ているのか分からなかったため。』
詳細では、C系統七十二%、G系統六十九%、非分類低強度反復型六十七%、ただし寄与特徴は異なることを確認。
その後の判断。
『分類不能を維持。』
「正しいですね」
「はい。でも本人は『最初の画面だけだと、過去の何かとかなり似ているように感じた』と言っています」
ノルンは新表示を見る。
『複数の過去短時間反応と部分的特徴類似』
事実ではある。
だが『複数』が、証拠の厚みのように読める可能性がある。
「消します?」
セレナが尋ねる。
「まだ一人です」
「ですよね」
「しかも、その人は詳細を開いて正しい判断をしています」
「じゃあ行動としては問題なし」
「はい」
セレナは少し考えた。
「印象が少しずれても、自分で確認して修正できるなら、それも表示の役割なのかな」
「可能性はあります」
「全部を最初の一画面で誤読不能にしようとしたら、結局全部書くことになる」
「そして十五分が二十五分になる」
セレナが笑った。
「過去から刺してきますね」
「刺してはいません」
「刺さりました」
ノルンもわずかに笑った。
◇
午後。
ルークは庭へ出ていた。
雨上がりの空気は冷たかったが、日差しがあるため歩くにはちょうどいい。
「リンガどれ?」
昨日、雨越しには見つけられなかった木を探している。
担当職員が石垣の向こうを指した。
「あれ」
「どれ?」
「枝が横に広がってる方」
「二本ある」
「両方リンガ」
「両方?」
「そう」
ルークは石垣の近くまで歩いた。
まだ花はない。
葉も少ない。
今の姿だけなら、昨日の本に載っていた白い花の木とはあまり似ていない。
「春になったら両方白くなる?」
「たぶんね」
「いっぱい?」
「年によるかな」
「じゃあいっぱい咲いたらいいな」
職員は「そうだね」と答えた。
ルークはしばらく木を見上げ、それから別の場所へ歩いていく。
紙の鳥。
過去の名前。
接続。
そのどれとも関係ない時間だった。
◇
午後遅く。
ミレイアは昨日買った薄緑の布をまだ切っていなかった。
机に広げたり、畳んだりしている。
エリスが横を通りかかる。
「決まった?」
「まだ」
「何日でも悩めばいいよ」
「でも、切らないと何も作れない」
「切ったら戻せないからね」
「そうなんだよね」
ミレイアは布を持ち上げ、光に透かす。
少しだけ色が薄く見えた。
「袋にするには大きいし」
「大きい袋でもいい」
「そんなに入れるものない」
「じゃあ敷物?」
「それも考えた」
「他は?」
「まだ」
エリスは椅子へ座らず、棚の整理を続けた。
決めるまで付き合う必要もない。
ミレイアは自分で考えている。
しばらくして、
「今日は切らない」
と決めた。
「うん」
エリスの返事はそれだけだった。
今日切らないことが、明日も切らないという意味にはならない。
布はそのまま畳まれ、裁縫道具の横へ戻された。
◇
夕方、ノルンは歴史資料の続きへ戻った。
講師聞き取り後、補助資料は改訂されている。
削除。
『互いの存在を直接確認できない状態で経過した長期事例』
代わりに、
『第一接続者本人の支援記録と、外在反応の研究記録が同時期に継続した事例。両記録の対象関係は未確認。』
さらに、
『「互い」「双方」「相手」「すれ違い」「待つ」「探す」等、主体・対象・心理状態を補う一般語への置換を避ける。』
と明記された。
「かなり厳しくなった」
主様が言う。
「過去にも似た注意はありましたが、初任者研修の口頭説明へまで具体的に広げたのは大きいですね」
「これで直った?」
「そこまではまだ分かりません」
改訂後研修のアンケート。
『本人支援と反応研究が別だと理解できた。』
『なぜ同じ事例で扱うのか少し分かりにくい。』
『外在反応が誰のものか分からないなら、第一接続者の説明と一緒にする必要があるのか疑問。』
誤解は減った。
代わりに分かりにくさが増えた。
「難しいね」
「はい」
分かりやすくすると、関係を作りやすい。
関係を切り離すと、なぜ一緒に学ぶのか分かりにくい。
研修担当者は最終的に、
『導入段階では理解の容易さより誤った関係固定を避けることを優先する』
と判断している。
ノルンはその結論を記録した。
◇
さらに資料の末尾。
十三年目初期。
十五分概要の次回改訂候補一覧。
そこに新しい項目があった。
『外在反応・音声様変動について、初任者から「何と聞こえたのか」と質問が集中する。』
『現行回答では「名称・言語として未確認」とのみ説明しているため、過去に名称候補として検討された音列が存在したとの誤認が一部で発生。』
ノルンの手が止まった。
「名称候補として検討された?」
主様が読む。
「誤認です」
「うん」
その下。
『質問対応統一案を作成する。』
資料名。
『音声様変動に関する初任者質問回答集・案』
作成日。
十五分概要改訂の約一か月後。
状態。
『草案』
ノルンは開かなかった。
「明日?」
主様が尋ねる。
「業務次第です」
「いつもの」
「いつものです」
主様は笑った。
◇
終業前。
セレナの試験表示で重大な判断ミスはなかった。
現在反応も三件のまま。
第四件なし。
観測密度変更なし。
九名への通知なし。
フローラの外出予定変更なし。
ミレイアの第二接続判断にも変化なし。
ルークはリンガの木を実際に確認したが、それ以上の意味はない。
エリオは盤上遊戯の調整を続けている。
ノルンは今日の調査結果をまとめた。
『十五分概要・講師用説明補助を確認。』
『講師用資料では第一接続者と外在反応の直接関係、単一主体性、第一接続者への指向、双方の再接続意思をいずれも未確認と明記。』
『一方、短時間説明用に「互いの存在を直接確認できない状態で経過した長期事例」との表現を許容。直後に心理的相互性等を意味しないとの注意あり。』
『実際の講師聞き取りでは「お互いに相手を確認できない」「すれ違い」「向こうも反応は続いていた」等への口頭言い換えが確認された。』
『講師本人はいずれも、外在側が第一接続者を対象としていたことや双方の再接続意思が確認済みとは認識していない。意図的な虚偽説明は確認されず。』
『受講者自由記述に「二人」「すれ違い」「お互い」等が出現。ただし特定講師表現のみを起点とする因果は確認不能。既存非公式理解の持ち込みも排除できない。』
『教材見出し・本文省略・講師補助表現・口頭言い換え・受講者の既存理解を別要因として扱う。単一起点へ統合しない。』
『改訂後、心理・関係語の使用を避け、本人支援記録と外在反応研究記録を明示的に分離。誤認は減少したが、理解しにくいとの反応が増加。』
『十三年目初期、「音声様変動に関する初任者質問回答集・案」作成。内容未確認。』
最後に、
『この時点でも「互いに待った」「二人が再会を望んだ」「外在側が第一接続者を探していた」は確認事実ではない。』
と残した。
◇
帰り際、ノルンの端末へミサキから短い連絡が入った。
『昨日言ってた旅行本、今日ちょっと見てきた。ほんとに小さい町ばっかりだった』
その下にもう一文。
『一個、ノルンが好きそうなところあったよ』
ノルンは立ち止まった。
(私が好きそうなところ、ですか)
どこなのかは書かれていない。
『どんなところですか?』
送る。
すぐには返事が来なかった。
仕事中かもしれない。
移動しているのかもしれない。
後で返そうと思っているだけかもしれない。
ノルンは端末をしまった。
返事がない時間に、理由を一つ選ぶ必要はない。
「帰る?」
主様が声をかける。
「はい」
「ミサキ?」
ノルンは一瞬だけ主様を見る。
「なぜ分かるんですか」
「顔」
「どんな顔ですか」
「返事待ってる顔」
「待っていません」
「じゃあ何?」
「質問を送っただけです」
「返事来たら見る?」
「それは見ます」
「待ってるじゃん」
「その『待ってる』を今日使いますか?」
「あ」
主様が口を閉じた。
数秒後、二人とも笑った。
◇
その日の夜。
ノルンがまだ開いていない十三年目初期の草案には、音声様変動への質問へ答えるため、三段階の説明案が記録されていた。
第一案。
『過去に音声のように変換された反応は存在するが、言語・名称・呼びかけとして確認されたものはない。』
第二案。
『複数の変換結果の一部が、人の耳には短い音節のように聞こえた例がある。ただし変換方式により候補音が変化し、意味は確認されていない。』
そして第三案。
『説明上必要な場合、「名称のように聞こえる音列が観測されたことはあるが、名称とは確認されていない」と補足する。』
欄外には、別の担当者による修正意見が付いていた。
『「名称のように聞こえる」は、名称候補が存在したとの理解を強化する恐れあり。』
『「名称様」という短縮表現も同様。採用非推奨。』
十三年目初期。
後世の記録に現れる『名称様音列』とよく似た言葉は、確かに一度、草案の近くまで来ていた。
けれど、この時点ではまだ――使わない方がいい言葉として、止められていた。




