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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第百二十一話 十五分に収めるために削ったものは、十五分では取り戻せません

 翌朝、ノルンが管理室へ入ると、窓の向こうには細かな雨が降っていた。強く地面を叩くほどではなく、灰色の空から途切れず落ち続ける雨粒が窓硝子を薄く濡らし、外を歩く職員たちは傘を少し前へ傾けながら足早に建物へ入ってくる。


 室内には温かい飲み物の匂いが漂っていた。夜勤を終える職員と朝から勤務する職員が入れ替わる時間帯で、普段より人の声が多い。


「おはようございます」


「おはよー」


 主様はすでに席にいたが、昨日とは違って端末ではなく湯気の立つカップを両手で持っていた。


「今日は仕事をしているふりもしないんですね」


「来たばっかり」


「昨日も早かったでしょう」


「昨日頑張ったから今日は普通でいいの」


「一日単位で帳尻を合わせないでください」


 主様は気にした様子もなく飲み物へ口をつけた。


 ノルンも上着を掛け、自席へ座る。


 昨夜見つけた十五分の研修教材が頭の片隅に残っている。しかし、それを最初に開くつもりはなかった。


 過去は逃げない。


 現在の人たちは、今を生きている。


 まず九名。


 それから現在の反応。


 いつもの順序を変えない。


     ◇


 低強度識別不能反応。


 通知対象事象、三件。


 新規通知なし。


 夜間に新たな閾値未満変動として記録されたものもない。


 盲検比較の追加結果なし。


 観測密度、通常。


 個人関連付け、なし。


 対象候補、抽出不能。


 周期性、確認されず。


「三件」


 主様がカップを置きながら言った。


「はい」


「増えてない」


「はい」


「終わったとも書いてない」


 ノルンは画面から顔を上げた。


「よくできました」


「今日一回目」


「また数えるんですか」


「昨日三回だったから」


「競技ではありません」


 主様が楽しそうに笑う。


 ノルンは表示を閉じる前に、現在の解析欄を確認した。


 昨日追加された時間間隔評価もそのまま残っている。


『周期性を示す根拠なし』


『事象数不足』


『次回発生時刻予測不可』


 閾値未満の変動を後から足して都合のいい間隔を作らない、という注意も維持されていた。


 何も増えていない。


 だから何もする必要がない。


 それも立派な現在の状態だった。


     ◇


 ルークは朝から窓の外を見ていた。


 昨日読んでいた果物の本は机の端に置かれ、その隣には紙の鳥がある。


「雨」


「雨だね」


 朝の担当職員が答える。


 庭へ出る予定があったわけではない。それでもルークはしばらく濡れた庭を眺め、やがて窓から少し離れた。


「リンガの木、どれ?」


「ここからだと見えにくいな」


「二本あるって言ってた」


「昨日聞いた?」


「うん」


 職員は窓の右側を指す。


「あの低い石垣の向こう。今は葉が少ないから、たぶん見ても分かりにくいよ」


 ルークは目を細めたが、雨で遠くが霞んでいる。


「分かんない」


「春になったら白い花が咲くから、その時なら分かる」


「じゃあ、その時見る」


 あっさり諦めて椅子へ戻る。


 紙の鳥には触れなかった。


 過去の名前の話もしない。


 接続についても何も言わない。


 春の花を見たいという昨日の希望も、今すぐ確認しなければならないものではなかった。


 忘れないよう記録は残っている。


 それで十分だった。


     ◇


 ミレイアは朝食を早めに終え、部屋で小さな布袋の中身を確認していた。


 糸巻きが二つ。


 針入れ。


 小さな布切れ。


 今日買う予定なのは糸だ。


 昨日のうちに用意した財布もある。


 窓の外を見て、ミレイアは少し眉を寄せた。


「雨かぁ」


 扉の近くで外出用の上着を確認していたエリスが振り返る。


「弱いから行けるよ。嫌なら別の日でもいいけど」


「行く」


 返事は早かった。


「布屋、屋根あるよね?」


「お店だからね」


「そこじゃなくて、途中」


「ああ」


 エリスが笑う。


「大通りを通れば軒下が多い。市場の中も半分くらい屋根があるよ」


「じゃあ大丈夫」


 ミレイアは布袋を閉じてから、少し考え、別の小さな袋も棚から取り出した。


「それは?」


「買った布を入れる」


「糸を買いに行くんじゃなかった?」


「見るだけって言った」


「もう買う前提になってるけど」


「気に入ったら」


「はいはい」


 エリスはそれ以上からかわなかった。


 外出先は施設から徒歩で行ける生活市場。その一角にある布屋へ向かう。


 接続とは何の関係もない。


 だからエリスも、その話を持ち出さない。


     ◇


 午前九時を少し過ぎた頃、ミレイアとエリスは施設を出た。


 雨はまだ細く降っていたが、風はほとんどない。石畳は濡れて暗くなり、道沿いの建物から伸びる軒先では、雨粒が一定の間隔で落ちている。


 ミレイアは傘を持ちながら、久しぶりに歩く濡れた街を見回した。


 晴れの日より人は少ない。


 それでもパン屋からは焼きたての香りが流れ、荷車を押す商人が濡れないよう荷物へ厚い布を掛けている。市場の入口では、雨の日だけ少し内側へ店を寄せた野菜売りが客と値段の話をしていた。


「こっち」


 エリスが大通りから屋根付きの市場通りへ入る。


 雨音が少し遠くなった。


「ここなら傘いらないね」


「閉じようか」


 二人は入口脇の水切り場で傘を畳んだ。


 布屋は市場の中ほどにあった。


 木製の看板には、糸巻きと針を組み合わせた絵が描かれている。


『針糸店フィルネ』


 古くからこの市場で営業している小さな店で、衣服の修繕用糸から普段着向けの布まで扱っている。


 扉を開けると、小さな鈴が鳴った。


「いらっしゃい」


 奥から店主の女性が顔を出す。


 店内は外より暖かく、乾いた布と木棚の匂いがした。壁一面に糸が並び、反対側には色ごとに巻かれた布が積まれている。


 ミレイアの足が自然にそちらへ向いた。


 エリスは何も言わず後ろから見ている。


「……糸から」


 ミレイアが自分で言った。


「私は何も言ってないよ」


「顔が言ってた」


「どんな顔?」


「絶対布から見ると思った、って顔」


 店主が二人のやり取りを聞いて笑う。


「布は逃げないから、先に糸を選んでも大丈夫だよ」


「ほら」


「店の人まで」


 ミレイアも笑った。


 必要な糸は、普段使っている生成りに近い色。


 しかし同じように見える糸だけでも何種類もある。


 店主が太さの違いを説明してくれた。


「こっちは丈夫だけど少し目立つ。服の表側なら、こっちの細い方が馴染みやすいね」


 ミレイアは手持ちの小さな布切れを取り出す。


「これに使うなら?」


「この色かな」


 店主が三つ並べる。


 ミレイアは布へ一本ずつ当て、少し離して見る。


「これ」


「いいと思うよ」


 二巻選んだ。


 目的は達成した。


 そこで帰ってもいい。


 けれどミレイアの視線はすでに布棚へ戻っていた。


「見ていい?」


「もちろん」


 誰へ向けた質問なのか分からず、店主とエリスが同時に答えた。


「どうぞ」


「好きなだけ」


 三人とも一瞬黙り、ミレイアが吹き出す。


「二人とも返事した」


「聞かれたから」


「私も」


 店の中に穏やかな笑い声が広がった。


     ◇


 ミレイアが布を見ている間、エリスは少し離れた場所に立っていた。


 必要なら相談に乗る。


 けれど、選ぶところまで手を出すつもりはない。


 淡い色。


 濃い色。


 細かな模様。


 無地。


 ミレイアは一枚を手に取っては戻し、別の布を引き出している。


 以前なら、エリスはこういう時間にも別のことを考えていた。


 体調はどうか。


 不安はないか。


 接続について何か変化はないか。


 何か聞くべきではないか。


 聞かない方がいいのではないか。


 支援する側として、見逃してはいけないものがあるのではないか。


 けれど今は、布を選んでいるミレイアを見ながら、そんな確認を始めようとは思わなかった。


 必要なことは記録されている。


 本人がまだ決めていないなら、まだ決めていない。


 今日ここで布を楽しそうに見ていることを、何かの答えに変える必要はない。


「エリス」


「ん?」


「これどう思う?」


 ミレイアが持っていたのは、落ち着いた薄緑の布だった。


「いいと思う」


「ほんと?」


「うん。何作るの?」


「まだ決めてない」


「決めてないのに買うの?」


「布ってそういうものじゃないの?」


 店主が奥から、


「そういうものだよ」


 と即答した。


 エリスは笑った。


「店主さんは売る側だから」


「でも本当だよ。何を作るか決めてから買う布もあれば、布を見てから作りたいものが決まることもある」


 ミレイアは薄緑の布をもう一度見る。


「じゃあ、少しだけ」


「どれくらい?」


 店主が尋ねる。


 ミレイアは両手を広げかけ、途中で困った顔になった。


「……少し」


「じゃあ、使いやすい分だけ切ろうか」


「お願いします」


 何を作るかはまだ決まっていない。


 それでも布は買える。


 エリスはそのことへ別の意味を重ねそうになり、すぐにやめた。


 布は布だ。


 今日のミレイアは、気に入った薄緑の布を買った。


 それだけ覚えておけばいい。


     ◇


 管理室では、セレナが表示試験の最終集計を持ってきていた。


「全員返りました」


 ノルンは資料を受け取る。


 試験対象は十二名。


 表示案。


『現時点で確認できること』


『現時点で確認できないこと』


 事実と未確認事項を分ける方式。


 理解試験では大きな誤りなし。


 二名が将来についてやや悲観的な読み方をしたものの、実際に取るべき管理行動を尋ねると、二名とも現行観測維持、個人通知なし、分類保留、新証拠があれば再評価という適切な回答を選んだ。


「採用ですか?」


 主様が聞く。


 セレナはすぐには頷かなかった。


「正式採用候補です。まず一部画面で試験運用して、実際の業務中に誤読が増えないか確認します」


「慎重」


「表示は一度広く使い始めると、戻す方が大変ですから」


 ノルンも同意する。


「現在の識別不能反応から試しますか?」


「それが一番いいと思っています。ただ、本人関連画面にはまだ入れません」


「賛成です」


 セレナは端末を開き、試験表示を出した。


『現時点で確認できること』


『低強度反応三件』


『第二・第三事象間に一部形状類似』


『複数の過去短時間反応と部分的特徴類似』


『観測密度変更不要』


 その下。


『現時点で確認できないこと』


『発生源』


『対象』


『同一発生源か』


『意図・意味』


『音声・言語性』


『既知分類との同一性』


『特定人物との関連』


『周期性』


 主様が上から下まで読む。


「分かりやすい」


「その感想が少し怖いんですよね」


 セレナが苦笑する。


「え?」


「分かりやすいものほど、書かれていない条件を忘れやすいので」


「昨日までの資料みたいに?」


「そうです」


 セレナは下部の詳細ボタンを示した。


「だから詳細を消すわけではありません。最初に事実と未確認を分けて、その後で必要なら根拠を読めるようにする」


「十五分にしない」


 主様が言った。


 セレナは意味が分からずノルンを見る。


「過去資料の話です」


「ああ」


 それ以上は説明しなかった。


 セレナはリディアの歴史資料をノルンほど詳しく追っていない。ましてルークの『セレナ?』については何も知らない。


 必要のない情報を、話の流れだけで渡す理由はなかった。


     ◇


 昼前、ミレイアとエリスが施設へ戻った。


 雨は出発時より弱くなっている。


 ミレイアの手には紙包みが一つ増えていた。


「濡れなかった?」


 入口担当の職員が尋ねる。


「ほとんど」


 ミレイアは包みを少し持ち上げる。


「布も買った」


「糸じゃなかった?」


「糸も買った」


 エリスが横から、


「予定どおりです。半分くらい」


「半分?」


「糸を買うところまでは予定どおり」


「布は予定外」


 ミレイアが笑う。


 記録には、


『午前、生活市場の針糸店フィルネへ外出。予定していた修繕用糸二巻を購入。本人希望により薄緑色の布も購入。体調問題なし。』


 とだけ残された。


 接続関連発言なし、とは書かれない。


 外出中に接続の話をしなかったことは、今日の出来事の中心ではないからだ。


     ◇


 午後になって雨が止んだ。


 窓硝子に残った水滴の向こうから少しずつ光が差し込み、管理室の床へ淡い明るさが広がる。


 通常業務が一段落したところで、ノルンは昨日の資料一覧を開いた。


『初任者向け・接続史十五分概要』


 使用期間。


 十二年目後半から十三年目初期。


 受講前提知識なし。


 全六項目。


 そして初版から三か月後、


『第一接続者支援』


『外在反応の継続』


 の二項目が時間短縮のため統合され、


『第一接続者と継続反応』


 へ変更された。


「読む?」


 主様が尋ねる。


「読みます」


「今日は聞いていいやつだった?」


「はい」


「二回目」


「何がですか」


「褒められた」


「褒めていません」


「昨日より厳しい」


 ノルンは初版から開いた。


     ◇


 冒頭。


『初任者向け・接続史十五分概要』


『目的:接続制度成立の背景および本人意思尊重原則の導入経緯を、初任者が短時間で把握する。』


『注意:本資料は導入用であり、技術詳細・分類史・個別事例の全経過を扱わない。』


 最初に省略を宣言している。


 悪い資料ではない。


 むしろ、十五分で全てを理解できるとは言っていない。


 第一項目。


『初回接続事故』


 初期接続技術の問題。


 本人意思確認が十分でなかったこと。


 接続後の心理負担。


 管理側が結果を優先し、本人の選択余地を狭めた反省。


 短いが、内容は大きく外れていない。


 第二項目。


『第一接続者支援』


 ノルンは速度を落とした。


『第一接続者は、初回接続後も長期にわたり支援対象となった。』


『本人は再接続の可能性を完全には閉じず、生活を継続しながら、一定条件下での情報提供を希望した。』


 主様が小さく頷く。


「ここはちゃんと生活ってある」


「はい」


『希望内容は時期により変化しており、通知停止を希望した期間も存在する。』


『後に本人希望で通知条件を再設定。』


「これもある」


「初版では残っています」


 さらに、


『本人が再接続を望む可能性を示していても、具体的接続実施にはその時点での再確認が必要。』


『長期希望を将来の包括的同意として扱わない。』


 ノルンはそこで一度止まった。


 大切な部分が残っている。


 リディアを『十三年待った人』へ単純化していない。


 通知停止もある。


 意思変化もある。


 将来の再確認も必要。


 第三項目。


『外在反応の継続』


『初回接続後、外在領域では複数種の反応が断続的に観測された。』


『一部には反復性・能動性候補が認められたが、主体数、対象、目的は確定していない。』


『第一接続者との直接関係も確認されていない。』


「はっきり書いてる」


「はい」


『音声様に変換可能な変動も存在したが、言語・名称・呼びかけとして確定されたものではない。』


 主様がノルンを見る。


「名前も否定してる」


「初版では」


 ノルンはその言葉を口にしてから、自分で少し引っかかった。


 初版では。


 まるで後で消えると決めているような言い方だった。


(まだ読んでいないのに)


「どうしたの?」


「いえ。先を決めないようにしようと思っただけです」


「消えるかもしれないし、残るかもしれない」


「はい」


 主様もそれ以上言わなかった。


     ◇


 第四項目。


『再接続技術研究』


 第五項目。


『本人意思確認制度の成立』


 第六項目。


『現在の基本原則』


 初版全体を読んだ限り、十五分用としてはかなり慎重だった。


 省略はある。


 だが、本人と外在反応を同じものとしていない。


 リディアの意思を固定していない。


 外在反応を単一人物にしていない。


 音声様変動を名前にしていない。


「普通にいい資料」


 主様が言った。


「少なくとも初版は」


「今度は言っていい?」


「何をです?」


「三か月後が気になる」


「それは私もです」


 ノルンは改訂履歴を開いた。


     ◇


『改訂理由:初任者研修全体の時間超過。』


『接続史概要について、十五分枠内での完結率が低い。』


 実施記録を見る。


 予定十五分。


 平均所要時間、二十一分四十秒。


 質疑を含めると二十五分を超える例もある。


「長い」


「資料が悪いというより、質問が多かったようですね」


 質問例。


『第一接続者はなぜ通知を一度止めたのか。』


『外在反応は初回相手ではないのか。』


『音声様反応は何と言っていたのか。』


『本人は最終的に再接続したかったのか。』


『外在反応が続いているなら本人へ全部知らせなかったのはなぜか。』


 どれも説明しようとすれば時間がかかる。


 研修担当者からの報告。


『第二項目と第三項目を別々に説明すると、受講者から両者の関係について質問が集中する。』


『関係未確認である旨を回答するため、説明時間が増加。』


 主様が眉を寄せた。


「質問されるから長くなる」


「はい」


『導入研修では制度原則の理解を優先し、個別経過の詳細は上級研修へ移すことを提案。』


 ここまでも合理的だ。


 ノルンは改訂案を開いた。


 第二項目と第三項目を統合。


 新項目名。


『第一接続者と継続反応』


 本文。


『初回接続後、第一接続者への長期支援と、外在領域で観測される反応の研究が並行して継続された。』


 最初の一文。


 まだ区別されている。


『第一接続者は生活を継続しながら、条件付きで再接続関連情報の通知を希望した。』


『同時期、外在領域では複数の反応が断続的に観測され、一部に能動性候補が認められた。』


『これらを受け、管理側は本人意思確認と外在反応研究を並行して進めた。』


「まだ大丈夫」


 主様が呟く。


 ノルンもそう思う。


 次。


『本人の希望と外在反応の関係は当時確定されておらず、接続実施には都度本人意思の確認が必要とされた。』


「関係未確認もある」


「はい」


 では、何が削られたのか。


 初版と改訂版の差分を表示する。


 消えた文。


『希望内容は時期により変化しており、通知停止を希望した期間も存在する。』


『後に本人希望で通知条件を再設定。』


『一部には反復性・能動性候補が認められたが、主体数、対象、目的は確定していない。』


『第一接続者との直接関係も確認されていない。』


『音声様に変換可能な変動も存在したが、言語・名称・呼びかけとして確定されたものではない。』


 完全に同じ情報が消えたわけではない。


 『本人の希望と外在反応の関係は当時確定されておらず』


 という一文へまとめられている。


 しかし、主体数。


 対象。


 目的。


 音声様変動の非言語性。


 リディアの通知停止と再開。


 それぞれの具体的な不確実性は落ちた。


「嘘にはなってない」


 主様が言った。


「はい」


「でも、知らないものが増えた」


 ノルンは主様を見る。


「どういう意味ですか?」


「この短い方しか読んでない人は、本人と反応の関係が分からないってことは知る。でも、反応が何人かも分からないとか、名前じゃないとか、本人が途中で通知止めてたとかは知らない」


 ノルンはもう一度差分を見る。


「その通りです」


 間違った情報が増えたわけではない。


 正しい情報が減った。


 その結果、残った空白を受講者が自分で埋められる余地が増えた。


     ◇


 改訂版の試験研修記録も残っていた。


 平均所要時間。


 十五分五十二秒。


「ほぼ十五分」


「目的は達成していますね」


 質問数も減っている。


 初版平均六・二件。


 改訂版平均二・八件。


 研修担当者評価。


『導入として扱いやすい。』


『制度原則へ時間を配分できる。』


『詳細質問は上級研修へ誘導可能。』


 そして受講者理解試験。


『第一接続者は長期間、再接続を無条件に希望し続けていた。』


 正答。


『誤り』


 正答率、九十二%。


『外在反応が初回接続相手によるものと確認されていた。』


 正答。


『誤り』


 正答率、八十八%。


「高い」


「はい」


 主様が少し安心したように息を吐く。


 ノルンも同じだった。


 短縮したから即座に誤解が広がった、という単純な話ではない。


 だが三問目。


『外在反応は単一主体によるものと確認されていた。』


 正答。


『誤り』


 正答率、六十一%。


「下がった」


「改訂版では主体数不明の文が削られていますから」


 誤答の内訳。


『正しい』二十四%。


『分からない』十五%。


 自由記述。


『第一接続者と継続反応という項目だったので、一人の相手から続いていたと思った。』


 別の回答。


『関係は確定していないと説明されたが、反応側は一人だと思っていた。』


 さらに、


『「本人の希望と外在反応の関係は未確定」という説明から、誰の反応かは分かっているが、本人への意図だけ不明なのだと思った。』


 主様が長く息を吐いた。


「書いてないところを埋めた」


「はい」


 『関係未確認』という言葉だけでは、何が未確認なのか人によって違う。


 同一人物か。


 本人を対象としているか。


 目的は何か。


 意図があるのか。


 そもそも主体が一人なのか。


 全部違う。


 それを一つの『関係未確認』へまとめた結果、受講者は自分なりの『確認済み部分』を作った。


     ◇


 ノルンは研修担当者の振り返り記録を開いた。


『単一主体との誤認が想定以上。』


『「第一接続者と継続反応」の項目名が、一対一関係を暗示している可能性。』


 改訂担当者の意見。


『項目名は二つの歴史要素を同一項目で扱うことを示したものであり、両者の直接関係を意味しない。』


 別の担当者。


『しかし初任者は、その編集意図を知らない。』


 ノルンの指が止まる。


 短い一文だった。


 だが今日読んだ中で、一番重要に思えた。


 編集した側には分かっている。


 なぜ一つにしたか。


 何を省いたか。


 何を意味していないか。


 しかし読む側は知らない。


「作った人の頭の中にある注意書きは、読んでる人には見えない」


 主様が言う。


「はい」


 昨日の口頭説明と同じだ。


 話者は比喩だと思っている。


 聞く側は事実だと思う。


 作成者は単なる項目統合だと思っている。


 読む側は一つの関係を扱う項目だと思う。


 誰も嘘をついていない。


 それでも意味は動く。


     ◇


 改訂版にはさらに修正案が出ていた。


 項目名。


『第一接続者と継続反応』


 から、


『第一接続者支援/外在反応研究』


 へ変更。


 斜線で二つを明確に分ける。


 本文にも、


『両記録は同時期に存在するが、同一主体間の対応関係を示すものではない。』


 を追加。


 主様が言う。


「また戻した」


「完全に元へ戻したわけではありません。同じ項目には残しています」


「十五分だから?」


「おそらく」


 修正版の平均所要時間。


 十六分三十秒。


 許容範囲として採用。


 単一主体誤認も減少。


 だが資料の末尾に、小さな注記があった。


『口頭説明例については別紙参照。』


「別紙」


 主様とノルンの声が重なった。


 ノルンはすぐには開かなかった。


「今日はそこまで?」


「いえ」


「読む?」


「概要だけ確認します」


 別紙の名称。


『十五分概要・講師用説明補助』


 受講者には配布されない。


 講師が各項目をどう説明するかを短くまとめたもの。


 作成時期。


 十二年目後半。


 改訂。


 十三年目初期。


「受講者に見えない資料」


 主様が言う。


「はい」


 ノルンは少し考えた。


 昨日まで、受講者向け資料の圧縮を追ってきた。


 だが実際の研修では、紙だけが情報源ではない。


 講師が話す。


 質問に答える。


 例を出す。


 その言葉は、受講者の手元には残らない。


(ここも確認する必要がありますね)


 ただし、今すぐ全部開く必要はない。


 今日はすでに一つ重要なことが分かった。


 十五分にするために削られたのは、嘘ではない。


 不確実性の細部だった。


     ◇


 夕方、セレナが試験表示の仮導入を終えた。


「明日から解析担当の一部だけで使います」


「期間は?」


「まず五日。問題があれば途中で止めます」


「本人関連画面は?」


「触りません」


「了解です」


 セレナはノルンの端末に開かれた古い資料へ視線を向けた。


「そっちは何かありました?」


「短時間研修で、情報を削ることの難しさが出てきました」


「今ちょうど私がやってることですね」


「そうですね」


 セレナは少し苦笑した。


「嫌なタイミングで過去から教材が来るなぁ」


「使えるなら使いましょう」


「何を削って失敗したんです?」


 ノルンは答えを急がなかった。


 セレナに共有して問題ない範囲を選ぶ。


「未確認事項を一つの『関係未確認』へまとめた結果、人によって『何が確認済みなのか』の解釈が変わりました」


「ああ……」


 セレナの表情が変わった。


 自分の試験表示を見る。


『現時点で確認できないこと』


 発生源。


 対象。


 同一発生源か。


 意図・意味。


 音声・言語性。


 既知分類との同一性。


 特定人物との関連。


 周期性。


「まとめない方がいいところは、残した方がいいですね」


「少なくとも今回の過去資料では」


「じゃあ、この八個はしばらく削らない」


「現在の試験結果を見てから判断してください」


「はい」


 セレナは頷いた。


 過去を読んだから、現在を機械的に同じにするのではない。


 似ている失敗から注意点を借りる。


 それでいい。


     ◇


 終業前。


 ミレイアは買ってきた薄緑の布を机に広げていた。


 まだ何を作るか決めていない。


 布袋。


 小さな敷物。


 何かの覆い。


 いくつか考えては、どれも決め手がない。


 エリスが部屋へ入ると、ミレイアは布の端を指でなぞりながら言った。


「やっぱり、決めてから買えばよかったかな」


「後悔した?」


「してない」


「じゃあいいんじゃない?」


「でも何作るか決まらない」


「今日決めなきゃいけないの?」


 ミレイアは手を止めた。


「……別に」


「なら、そのうち決まるよ」


 エリスはそれだけ言い、洗濯済みの衣類を棚へ置く。


 ミレイアは布を畳み直した。


 何を作るか決まっていない。


 それでも買ったことを取り消す必要はない。


 決めていないものは、決めていないままで置いておける。


 ミレイア自身は、そのことを接続と結びつけなかった。


 エリスも結びつけなかった。


 ただ薄緑の布が、裁縫道具の隣へ新しく置かれた。


     ◇


 ルークは夕食前、もう一度果物の本を開いていた。


 リンガのページではなく、今度は別の黄色い実を見ている。


「これ食べたことある?」


 職員に尋ねる。


「あるよ。酸っぱい」


「どのくらい?」


「顔がこうなるくらい」


 職員がわざと顔をしかめると、ルークが笑った。


「食べてみたい」


「好きかもしれないよ」


「じゃあ今度」


 春の花とは別に、また一つ小さな『今度』が増えた。


 日時は決まっていない。


 約束ですらない。


 それでも日常には、そういう曖昧な未来がいくつもある。


     ◇


 管理室へ戻ったノルンは、最後に現在の反応を確認した。


 三件。


 変化なし。


 新規通知なし。


 観測条件変更なし。


 九名への通知なし。


 セレナの新表示は明日から限定試験。


 フローラとマリエの外出は金曜日午後二時のまま。


 ミレイアの布屋外出は問題なく終了。


 エリオの盤上遊戯も継続。


 ルークにも異常なし。


 ノルンは今日の歴史調査メモを残した。


『十二年目後半・初任者向け接続史十五分概要を確認。』


『初版では第一接続者支援と外在反応研究を別項目とし、本人希望の変化、通知停止・再設定、外在反応の主体数・対象・目的未確定、音声様変動の非名称性等を明示。』


『研修時間超過および関係質問集中を理由に、三か月後の改訂で二項目を「第一接続者と継続反応」へ統合。』


『改訂版も直接関係未確認・都度本人意思確認を明記しており、虚偽記載ではない。』


『ただし、通知条件変更履歴、外在反応の主体数・対象・目的、音声様変動の非言語・非名称性等の具体的不確実性が削除。』


『結果、一部受講者が外在反応を単一主体と誤認。』


『「関係未確認」という包括表現から、何が未確認で何が確認済みかを受講者側が補完する現象を確認。』


『項目名自体も一対一関係を暗示する可能性が指摘され、「第一接続者支援/外在反応研究」へ再修正。』


『重要:作成者が理解している編集意図・省略理由は、受講者には自動的に共有されない。』


『講師用説明補助資料が別途存在。受講者非配布。内容未確認。』


 最後に一行。


『十二年目時点でも、第一接続者と外在反応が同一相手同士で待っていたとの事実確認なし。』


 保存した。


     ◇


 外へ出ると、雨は完全に止んでいた。


 濡れた道に夜の灯りが反射し、建物の屋根から遅れて落ちる雫の音が時々聞こえる。


 主様が隣を歩きながら、両手を後ろで組んだ。


「今日の資料、嘘はなかったね」


「はい」


「でも短くしたら、知らないことが増えた」


「正確には、受講者が知らないままになる不確実性が増えました」


「それで空いてるところに、自分で答え入れちゃう」


「全員ではありませんが」


「うん」


 少し歩いてから、主様が足元の水たまりを避ける。


「十五分って難しいね」


「十五分が悪いわけではありません。初任者へ最初から全資料を渡す方が危険な場合もあります」


「じゃあ、何残すか」


「そうですね」


 全部伝えることはできない。


 だから選ぶ。


 選べば落ちる。


 落ちたものが重要だったかどうかは、その場では分からないこともある。


(今の私たちも同じですね)


 セレナの表示。


 九名の一覧。


 観察記録。


 どれも全てを一画面へ置くことはできない。


 だからこそ、過去の失敗を笑うことはできなかった。


     ◇


 その夜。


 低強度識別不能反応に第四件目の通知は入らなかった。


 三件のまま、静かな状態が続く。


 一方、十二年目後半に作られた『十五分概要・講師用説明補助』には、受講者へ配布された資料には存在しない一文が記載されていた。


『説明上、第一接続者と外在反応を別々に扱うと理解が難しい場合は、「互いの存在を直接確認できない状態で経過した長期事例」と説明してよい。』


 その直後には注意書きもある。


『ただし、「互い」は心理的相互性・同一対象指向・双方の再接続意思を意味しない。』


 作った側には、違いが分かっていた。


 けれど口頭で最初の一文だけを聞いた受講者が、二つ目の注意書きまで同じ重さで覚えていたかどうか。


 その答えは、まだ確認されていなかった。

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