第百二十四話 三件の誤表示から、どこまで広がったのかは分かりません
朝からよく晴れていた。
管理室の窓から見える庭には昨夜の冷え込みで薄い霜が残っていたが、東から差し込む光が当たる場所から少しずつ消え始めている。廊下を行き交う職員の靴音に混じって、どこかの部屋で窓を開ける音が聞こえ、冷えた空気が室内へ細く流れ込んできた。
ノルンは上着を掛け、自分の席へ向かう途中で主様を見た。
「おはようございます」
「おはよう。今日は三件から?」
「現在の反応のことなら、まず確認します」
「そっちじゃなくて、昔の誤表示」
「まだ読んでいない部分を知っているような言い方をしないでください」
「昨日の続きなら三件でしょ?」
「……そうでしたね」
主様が少し得意そうに笑った。
昨日の最後に確認したのは、十四年目初期に条件付きで採用された内部検索別名『名称様音列』が、旧式索引の不具合によって正式項目名欄へ表示された記録だった。
誤表示を含む出力は十一件。
そのうち『名称様音列』を含んでいたものは三件。
不具合自体は修正済み。
問題は、その誤った出力をもとに二次資料が作成されていた可能性があることだった。
(でも、三件から広がったとはまだ決まっていません)
ここは間違えてはいけない。
後世に『名称様音列』という表現が存在することを、ノルンたちはすでに知っている。
だからこそ、見つけた三件をその起点にしたくなる。
しかし、似た言葉は以前から非公式な検索語として存在していた。
『名前らしい音』
『名称候補音』
『呼称らしい反応』
それらとは別に、初任者質問回答集の草案でも『名称様』という短縮案が一度出ている。
道は一つではない。
「ノルン?」
「はい?」
「もう昔に行ってた」
「まだ端末も開いていません」
「顔が」
「主様は最近、顔から何でも読み取ろうとしすぎです」
「当たってる?」
「答えません」
ノルンは席へ着いた。
最初に確認するのは、今だ。
◇
低強度識別不能反応。
通知対象事象、三件。
新規通知なし。
閾値未満変動、新規記録なし。
観測密度、通常。
分類、保留。
同一源、未確認。
既知反応との関係、部分的特徴類似のみ。
対象、意味、意図、音声性、言語性、すべて未確認。
ノルンは表示を一通り確認した。
昨日と同じ。
そのこと自体に問題はない。
「三件」
主様が言った。
「はい」
「増えてない」
「はい」
「終わったとも言えない」
「はい」
「慣れてきた」
「何にですか」
「余計な意味をつけないの」
ノルンは少しだけ主様を見た。
「それはいいことです」
「褒められた」
「事実を言っただけです」
「それも慣れた」
主様は笑いながら自分の席へ戻った。
◇
その頃、ルークは庭へ出る準備をしていた。
昨日見つけた二本のリンガを今日も見たいらしい。
厚手の上着を着てから外へ出ると、日差しはあるものの空気はまだ冷たく、吐いた息がかすかに白くなった。
「昨日と変わった?」
ルークは石垣の向こうへ枝を伸ばす木を見上げる。
担当職員も隣に立った。
「一日じゃ分かりにくいな」
「葉っぱ増えてない?」
「どうだろう」
「一枚くらい」
「昨日数えてないから分からない」
ルークは少し考え、それから笑った。
「じゃあ分かんないね」
「そうだね」
そこで職員が「今日から数える?」とは言わなかった。
ルークも数え始めなかった。
木を見るために毎朝葉の枚数を記録する必要はない。
枝先を眺めていたルークは、少し離れたところで小鳥が地面をつついているのを見つけ、すぐにそちらへ関心を移した。
「何食べてるんだろ」
「虫じゃないかな」
「寒いのにいる?」
「いるんじゃない?」
今度は二人で鳥を見る。
リンガの開花を楽しみにしている気持ちは、鳥を見たから消えるものでもなかった。
◇
ミレイアは薄緑の布へ型紙を置いていた。
昨日作った小さな巾着用の型紙。
机の上には裁縫道具も並んでいる。
エリスは少し離れた棚で備品を確認していたが、鋏を持ったミレイアがしばらく動かないことには気づいていた。
「曲がりそう」
ミレイアが言った。
「何が?」
「切るの」
「線を引いてから切れば?」
「線が曲がったら?」
「定規使う?」
「それでも曲がったら?」
エリスは手を止め、少しだけ笑った。
「布だから、多少曲がっても縫えるよ」
「そうなの?」
「縫い代もあるし」
ミレイアは布へ視線を戻した。
(切ったら戻せない。でも、切らなかったらずっと布のまま)
昨日までは、そのままでもよかった。
今日も、そのままにしておいて構わない。
それでもミレイアは型紙の端へ定規を当てた。
「線だけ引く」
「うん」
薄い印が一本。
続いてもう一本。
まだ切らない。
けれど、布には初めて形になるための線がついた。
エリスはそれを見ても何も急かさず、棚の確認へ戻った。
◇
午前中、セレナの表示試験では新たに二件の意見が届いていた。
一つ目。
『「確認できないこと」を先に見たことで、詳細画面を開く必要性を感じなかった。』
二つ目。
『分類不能と分かった上で詳細を見たため、類似率を分類候補ではなく比較結果として読めた。』
「方向が逆ですね」
ノルンが言う。
「そうなんですよ」
セレナは二件を並べた。
「一人は詳細を見なくて済んだ。一人は詳細を読む時の受け取り方が変わった」
「どちらも実務上の問題はありません」
「今のところは」
六名の試験対象者に重大な判断ミスはない。
ただし、試験期間はまだ短い。
現在の反応自体にも変化がないため、別の状況で同じ表示がどう働くかは分からない。
「このまま採用?」
主様が横から尋ねた。
セレナが首を振る。
「まだです。今の反応で使いやすかったからって、別の反応でも使いやすいとは限りません」
「ノルンみたいになってきた」
「どういう意味ですか、それ」
「すぐ決めない」
「それは仕事です」
セレナは呆れたように言ったが、少し笑っていた。
ノルンは二人の会話を聞きながら、表示の試験記録へ一つだけ追記する。
『詳細参照の増減自体を成功・失敗指標としない。判断精度・誤解発生・必要情報への到達性を別々に確認する。』
見る回数が減れば成功、増えれば失敗。
そんな単純な話ではない。
◇
通常業務が落ち着いたところで、ノルンは十四年目の不具合報告を開いた。
『旧式索引出力時、検索別名が正式項目名欄へ表示される事象』
発見経緯。
教育部門の職員が、研修資料作成用に旧式索引を出力。
正式項目名欄に見覚えのない語が含まれていたため、記録部門へ照会。
調査の結果、検索別名を持つ十一項目で同様の不具合を確認。
原因は、新旧形式間の項目対応不備。
修正まで四日。
不具合が存在した可能性のある期間。
五か月。
「七か月後に見つかったんじゃなかった?」
主様が尋ねる。
「検索別名の運用開始から七か月後に発見されています。不具合が実際に発生する旧式出力機能への更新が、その二か月後だったようです」
「じゃあ誤表示できたのは五か月」
「はい」
ここは時間を分ける必要がある。
『名称様音列』という検索別名が登録されていた期間。
旧式索引で誤表示される可能性があった期間。
実際に誤表示された出力が確認された時期。
全部同じではない。
ノルンは管理メモへその区別を残した。
◇
確認された十一件の出力先一覧。
教育部門、四件。
記録部門、二件。
観察研究部門、二件。
生活支援部門、一件。
安全支援部門、一件。
医療支援部門、一件。
そのうち『名称様音列』を含む三件。
一件目。
教育部門。
『上級研修資料改訂用・接続史索引抜粋』
二件目。
記録部門。
『長期保存対象選定補助一覧』
三件目。
生活支援部門。
『過去事例参照候補一覧』
「三つとも用途が違う」
「はい」
同じ誤表示でも、その後の使われ方は異なる可能性がある。
ノルンは一件目から開いた。
◇
『上級研修資料改訂用・接続史索引抜粋』
作成者。
教育資料主任、イレーネ・ヴァルク。
主様がすぐ反応した。
「昨日の人」
「はい」
初任者質問回答集の責任編集者でもある。
ただし、今回も一人で資料を作ったとは限らない。
改訂班は四名。
索引抜粋は改訂対象を探すための内部作業資料だった。
一覧には、
『音声様変動』
『名称様音列』
『反応参照番号』
『第一接続者通知管理経過』
などが並んでいる。
ノルンは該当箇所を拡大した。
『名称様音列』の横には手書き注記があった。
『この名称は正式? 旧資料では非推奨だったはず。確認。』
「気づいてる」
主様が言う。
「イレーネ本人の筆跡かどうかは記録上確定していませんが、改訂班の誰かは気づいています」
その三日後。
記録部門への照会。
『索引上「名称様音列」と表示される項目について、正式分類名への変更時期を確認したい。』
返答。
『正式分類名ではありません。内部検索別名です。索引表示不具合の可能性を確認します。』
「これが発見のきっかけ?」
「そうですね」
誤表示を見た人が、そのまま信じなかった。
過去の非推奨を覚えていた誰かが疑問を持ち、問い合わせた。
その結果、不具合全体が見つかった。
「ちゃんと止まってる」
「この一件では」
ノルンは強調した。
上級研修改訂資料には、『名称様音列』は採用されていない。
索引抜粋にも後から訂正線が入り、
『検索別名。正式項目名ではない』
と追記されている。
一件目。
少なくとも確認できる範囲では、ここで止まっている。
◇
二件目。
『長期保存対象選定補助一覧』
記録部門内部資料。
保存価値を判断するため、関連記録を一覧化したものだった。
『名称様音列』は一項目名として表示されている。
その横に対象記録数。
二十七。
「二十七件も名称みたいな音があったの?」
主様が言いかけて、すぐに口を閉じた。
「違うね」
「はい」
「今の、危なかった」
「二十七は検索別名に紐づけられた関連記録数です。二十七回の名称様音列が観測された、ではありません」
「自分で引っかかった」
「表示だけ見れば、そう読める余地はあります」
実際、二十七件の中身はばらばらだった。
変換方式の比較記録。
人間聴取試験。
A分類の一部。
B分類の一部。
非分類反応。
第一接続者本人の主観記録。
教育上の名称誤認リスクに関する資料。
名称・呼称を否定する研究メモまで含まれている。
「名前じゃないって説明してる資料まで、『名称様音列』の二十七件に入るんだ」
「検索用ですからね」
検索語は、その言葉が正しいと証明するために付けられたのではない。
その言葉で探す人を、関連する正しい記録へ導くために付けられている。
だが、索引だけを見ればそこまでは分からない。
◇
保存選定会議の記録も残っていた。
参加者六名。
該当項目への発言。
『名称様音列について、研究上の重要度は高いのか。』
別の参加者。
『名称推定まで進んだ記録ではないはず。索引名が変わったのか。』
記録担当。
『確認する。現時点では名称関連記録群として扱わないこと。』
その後、不具合修正通知を受けて一覧訂正。
『名称様音列』削除。
正式表現へ置換。
『音声様変動関連記録・変換/聴取/教育上の名称誤認を含む』
保存判断。
二十七件すべてを一括保存対象とはせず、個別評価。
「二件目も止まった」
「確認できる範囲では」
「今日は慎重だね」
「いつもです」
「いつも以上」
ノルンは否定しなかった。
後世の言葉を知っているからこそ、つなげたくなる。
今日は特に、その誘惑が強い。
◇
三件目。
『過去事例参照候補一覧』
生活支援部門。
作成目的。
『本人支援研修で使用可能な過去事例を探すための候補抽出。』
作成者は二名。
生活支援部門の研修担当、ソフィア・レム。
補助担当、デイン・クロフト。
どちらもこれまでの主要記録には登場していない。
この一覧自体は内部作業用。
該当箇所。
『第一接続者通知管理経過』
『名称様音列』
『長期接続不成立時の本人負担』
『接続希望変更例』
主様が眉を寄せる。
「並びが嫌な感じ」
「そうですね」
『名称様音列』の前後に、第一接続者本人の支援記録がある。
一覧上では別項目。
しかし、同じページ。
同じ研修候補。
しかも生活支援部門が見る資料だ。
ノルンは次の記録を開いた。
候補一覧から、実際の研修素材案へ移された項目。
三つ。
一つ目。
『本人希望は固定ではない――通知停止と再開』
二つ目。
『不確実な外在反応を本人へどこまで知らせるか』
三つ目。
『長期未接続状態での支援』
『名称様音列』という項目名そのものは、研修素材案の見出しには使われていない。
「じゃあ三件目も止まった?」
主様が尋ねる。
「待ってください」
素材案の参考資料欄。
『名称様音列 関連記録27件中、本人主観記録3件、教育記録2件を参照』
残っている。
見出しではない。
参考資料名として。
さらに作成メモ。
ソフィア・レム。
『名称様音列という名称は研究上の正式語か確認必要。本人が「ナ」に近いと聞いた記録と、後の名称推定記録の関係を整理したい。』
ノルンの手が止まった。
「後の名称推定記録?」
主様も声を低くした。
「この時点で、ソフィアはそう認識していたようです」
「本当にそんな記録ある?」
「分かりません」
少なくとも、これまで確認した十三年目以前の記録にはない。
名称は確認されていない。
自己名も確認されていない。
複数音の連結も否定されている。
それなのに、十四年目の生活支援担当者は『後の名称推定記録』と書いている。
◇
補助担当デインの返信メモ。
『索引から探したが、「名称推定」を明示する研究記録は見つけられなかった。上級教育資料にある可能性。教育部門へ確認する。』
数日後。
教育部門回答。
『現行上級教育資料に、外在主体名称を推定したとの記述なし。』
観察研究部門回答。
『名称推定を正式結論とした記録なし。音節様知覚・本人主観・自己識別可能性に関する検討記録は存在するが、名称推定とは区別される。』
「自己識別可能性」
主様が読む。
「それ、初めて?」
ノルンは検索した。
関連資料。
十四年目初期。
研究補助記録。
『反復音声様変動における自己識別信号可能性の再検討』
ノルンは画面を見つめた。
ここで初めて、後世の『自己名と推定される断片的音声』へ近づく別の言葉が現れた。
ただし、
『自己識別信号』
と、
『自己名』
は同じではない。
「開く?」
主様が尋ねる。
ノルンは首を振った。
「今は三件目を最後まで確認します」
「えらい」
「普通です」
◇
生活支援部門と研究部門のやり取りは続いていた。
ソフィア。
『自己識別信号可能性とは、名前を名乗っている可能性という意味ではないのか。』
研究部門回答。
『限定しない。反応源が自身を他反応源と区別するための構造を含む可能性を検討する仮説。人間言語上の名前・自己紹介を意味しない。』
『現時点で主体数自体が未確定であり、自己識別主体の存在も確認されていない。』
『教育用途で「名前を名乗る」と言い換えないこと。』
ノルンはその文章をゆっくり読んだ。
「また翻訳が起きてる」
主様が言う。
「技術用語から日常語への、ですね」
自己識別。
人間が聞けば、自分を示すもの。
自分を示すものなら、名前。
名前なら、名乗る。
一段ずつなら自然に見える。
けれど、最初と最後では意味が違う。
研究側は明確に止めている。
ソフィアの返信。
『了解。研修素材では名称・自己紹介として扱わない。』
実際の素材案から、
『後の名称推定記録』
というメモは削除されていた。
代わりに、
『後年、反応構造の識別機能について研究上の再検討あり。本人支援上の意味付けとは分離する。』
へ修正。
「ここでも直ってる」
「はい」
ソフィアは誤解した。
問い合わせた。
訂正を受けた。
修正した。
それが記録として残っている。
誤解があったからといって、その人が誤った話を広めたと決めてはいけない。
◇
不具合発覚後、三件の出力先には再確認依頼が送られていた。
一件目、教育部門。
関連二次資料、二点。
いずれも正式化前。
誤表示削除済み。
二件目、記録部門。
関連二次資料、一点。
内部会議資料。
訂正版保存。
三件目、生活支援部門。
関連二次資料、三点。
候補一覧。
研修素材案。
担当者作業メモ。
正式研修資料へ『名称様音列』の語は移行していない。
確認できる範囲では、三件とも訂正されている。
主様は椅子の背へもたれた。
「じゃあ、ここじゃない?」
「何がです?」
「後の『名称様音列』」
「この三件が直接の起点だったとは、現時点では確認できません」
「でも内部検索語としては残ってるんだよね」
「不具合修正後も、検索別名自体を廃止したとは書かれていません」
ノルンは不具合対策を見る。
『旧式索引への誤表示修正。』
『検索別名は検索誘導機能上必要なため維持。』
『検索結果画面で「検索別名」の表示区分を明確化。』
『出力機能では正式項目名のみ使用。』
「残したんだ」
「はい」
「間違った言葉で探す人を正しい資料に連れていくため」
「その目的は変わっていません」
つまり『名称様音列』は消えていない。
正式研究語でもない。
教材語でもない。
ただ、内部検索の入口として存在し続けている。
◇
昼を過ぎる頃、フローラは外出の準備をしていた。
マリエと焼き果物の店へ行く日だ。
約束は午後二時。
必要以上に早く出るつもりはなかったが、鏡の前で髪を整えているうちに、予定より少しだけ時間がかかった。
「これでいいかな」
侍女が後ろから髪を確認する。
「よくお似合いです」
「前もそう言ってくれたでしょう?」
「前も似合っておりましたから」
フローラは鏡越しに侍女を見る。
「本当に?」
「本当です」
侍女の口元にも小さな笑みがあった。
最初の外出のとき、フローラは服装一つにもどこか緊張していた。
今日は違う。
相手が自分をどう見るかより、何を食べようか、何を話そうかという楽しみの方が先にあるように見える。
侍女はその変化を口にしなかった。
本人が自然に出かけようとしているのなら、それを『成長』と名付けて意識させる必要もない。
「では、行ってきます」
「お気をつけて」
フローラは部屋を出た。
◇
待ち合わせ場所へ着くと、マリエはすでにいた。
「フローラ!」
大きく手を振る。
フローラも自然に手を上げた。
「待たせました?」
「全然。私も今来たところ」
「本当に?」
「……ちょっとだけ前」
「どのくらいですか?」
「十分くらい」
「それは今ではありません」
「細かいなぁ」
二人は笑いながら歩き出した。
川向こうの焼き果物店までは、ゆっくり歩いて二十分ほど。
今日は前回通った奇妙な噴水を避ける道を選んだ。
「こっちなら、あの怖い魚見なくて済むから」
「私は少し可愛いと思います」
「まだ言ってる!」
「目が丸いところとか」
「あれは丸いんじゃなくて飛び出てるの」
「そこが」
「可愛くない!」
通りを歩く人が、楽しそうに言い合う二人へ一瞬だけ視線を向ける。
けれど誰も足を止めない。
フローラも気にしなかった。
今日は友人と焼き果物を食べる日だった。
◇
店は川沿いの小さな建物だった。
扉を開けると、焼いた果物と蜂蜜、それに香辛料の甘い匂いが温かな空気と一緒に流れてくる。
「これこれ」
マリエが嬉しそうに言った。
「すごく甘い匂いですね」
「でも食べるとそこまで重くないよ」
二人は窓際の席へ案内された。
注文したのは、焼いたリンガに蜂蜜と砕いた木の実を添えたもの。
運ばれてきた皿を見て、フローラが少し目を丸くする。
「思っていたより大きいです」
「半分にする?」
「いえ、食べます」
「強い」
「食べ物の大きさで強さを決めないでください」
今度はマリエが笑った。
最初の一口。
熱い果肉から甘酸っぱい香りが広がる。
「美味しい」
「でしょ?」
「これは、お母様にも教えたいです」
「持ち帰りもできるよ」
「では帰りに買います」
その後の会話は学校のことでも、家のことでも、将来の大きな話でもなかった。
最近見つけた変な形の雲。
マリエの店へ来た客が商品名を盛大に言い間違えた話。
フローラが庭で見た鳥。
前回の噴水が可愛いかどうか。
話題は何度も変わり、そのたびに二人は笑った。
アーノルドの名前は、一度も出なかった。
◇
管理室では午後の通常業務が続いていた。
ノルンはフローラの外出開始報告だけを確認し、それ以上追わなかった。
予定どおり出発。
同行管理上の問題なし。
それで十分だ。
歴史資料へ戻る前に、ミレイアの生活記録が更新される。
『薄緑布へ巾着用裁断線を記入。裁断未実施。』
ノルンは一瞬だけ画面を見た。
「本当にそこまで記録するの?」
主様が聞く。
「生活支援側の簡易記録です。細かな日常活動を本人の状態変化として解釈するものではありません」
「布に線引いた」
「はい」
「以上」
「以上です」
主様が満足そうに頷いた。
◇
午後遅く。
ノルンは不具合修正から半年後の検索利用統計を確認した。
『名称様音列』での検索。
月平均、十一・三回。
「意外と使われてる」
主様が言う。
「内部職員全体の母数が分からない状態で、多い少ないは判断できません」
「はい」
検索後の遷移先。
最も多いのは、
『音声様変動・変換条件比較』
次に、
『人間聴取試験』
その次が、
『名称・言語性を確定しないための研究上の注意』
「目的どおり?」
「少なくとも検索先としては、正しい資料へ誘導されています」
しかし、その下に別の記録があった。
『検索別名の表示について、職員から「これは旧名称か」との問い合わせ三件。』
回答。
『旧名称ではなく検索用別名。正式分類名として使用しない。』
さらに、
『一部職員が口頭で「名称様音列の記録」と呼称していることを確認。正式用語への修正を周知。』
主様の表情が変わる。
「出てる」
「口頭では、ですね」
「検索語を見た人が、そのまま呼んでる?」
「誰がどこから知ったかまでは、この記録では分かりません」
内部検索画面には『検索別名』と表示されている。
それでも、人は短い言葉を使う。
『複数変換条件下で短音節様に知覚された変動記録』
より、
『名称様音列』
の方が短い。
覚えやすい。
言いやすい。
そして、意味が強い。
◇
半年後の教育部門から記録部門への要望。
『検索別名そのものが口頭用語として定着する可能性がある。誤解を含む検索別名を維持すべきか再検討を求める。』
記録部門回答。
『削除した場合、「名前」「名称」等で検索する職員が適切な注意資料へ到達しにくくなる。検索別名の目的上、完全削除には別の危険がある。』
代替案。
『検索時に警告文を表示する。』
実装案。
『「名称様音列」は正式名称・分類名ではありません。名称性は確認されていません。検索結果には名称性を否定・保留する資料も含まれます。』
「検索するたびに怒られる」
主様が言った。
「怒ってはいません」
「毎回『違います』って出る」
「必要だったのでしょう」
警告表示は採用された。
それでも検索別名は残った。
◇
そして十四年目後期。
内部連絡記録に、短い一文がある。
『用語「名称様音列」について、正式用語との混同が複数部署で継続。次年度用語整理時に再検討。』
具体件数。
不明。
対象部署。
教育、生活支援、記録。
観察研究部門については、
『研究者間では原則使用せず』
とある。
「研究では使ってない」
「この時点では」
「でも教育とか生活支援では口で使う人がいる」
「確認された範囲では、そうです」
言葉は研究から生まれたのではなかった。
少なくとも、ここまでの記録では。
検索する人を正しい資料へ案内するための入口。
誤解を訂正するための言葉。
その短さと覚えやすさによって、今度はそれ自体が口頭で使われ始めている。
◇
夕方、フローラが戻った。
手には小さな包みがある。
母親への焼き果物だった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
母親が包みへ目を向ける。
「もしかして?」
「はい。味見役のお仕事です」
「あら、大変」
「かなり重要です」
フローラは笑いながら包みを渡した。
「楽しかった?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「また行きたいです」
「そう」
「次の約束はまだしていませんけれど」
「決まったら教えて」
「はい」
母親はそれ以上聞かなかった。
フローラも今日話した内容を一つずつ説明しなかった。
友人と過ごした時間のすべてを報告する必要はない。
部屋へ戻る途中、フローラはふと思い出して笑った。
(やっぱり、あの噴水は少し可愛いと思うのだけれど)
マリエとは最後まで意見が一致しなかった。
それも楽しかった。
◇
終業前。
現在反応は三件のまま。
新規通知なし。
セレナの表示試験、重大な判断ミスなし。
フローラの外出は予定どおり終了。
マリエとの関係は友人として継続。次回予定は未定。
アーノルドからの接触なし。
ミレイアの第二接続判断、変更なし。
ルークの接続希望にも変更なし。
ノルンは今日の歴史調査をまとめた。
『十四年目初期、旧式索引不具合により内部検索別名が正式項目名欄へ表示。誤表示対象十一件中、「名称様音列」を含む出力は三件。』
『不具合発生可能期間は約五か月。検索別名運用開始から不具合発見までは約七か月。両期間を混同しない。』
『三件の出力先は教育部門、記録部門、生活支援部門。』
『教育部門では過去の非推奨表現との矛盾に気づいた改訂班が照会し、不具合発見につながった。上級研修本文への採用なし。』
『記録部門では「名称様音列」項目下に二十七件と表示されたが、これは名称様反応二十七件を意味しない。変換比較、聴取試験、複数分類、非分類、本人主観、名称誤認防止資料等を含む検索関連記録数。』
『生活支援部門では研修候補一覧および作業メモへ検索別名が残った。担当ソフィア・レムが「後の名称推定記録」と理解した形跡あり。ただし研究部門へ確認し、正式な名称推定記録はないとの回答を受け、研修素材では修正。誤解の拡散を確認する証拠とはしない。補助担当デイン・クロフト。』
『同照会過程で、十四年目初期「反復音声様変動における自己識別信号可能性の再検討」の存在を確認。内容未確認。「自己識別信号」と「自己名」は同義ではない。』
『不具合修正後も「名称様音列」は検索誘導用別名として維持。正式項目名への誤表示のみ修正。』
『半年後、検索別名が一部職員の口頭用語として使用されていることを確認。正式用語ではない旨を周知。』
『検索別名削除は、名称・名前等の誤った理解で検索する職員を正しい注意資料へ誘導できなくなる危険があるため見送り。検索時警告を追加。』
『十四年目後期、教育・生活支援・記録の複数部署で正式用語との混同が継続。観察研究者間では原則不使用。』
『後世の正式記録に現れる「名称様音列」への直接移行は、なお未確認。』
保存する。
主様が横から覗いた。
「今日は結局、三件から広がったって分かった?」
「分かっていません」
「でも言葉自体は広がり始めた」
「内部検索別名が一部職員の口頭用語として使われたことまでは確認できました」
「三件の紙からじゃなくて?」
「検索画面からかもしれませんし、三件の出力を見た人からかもしれません。別の口頭経路かもしれません」
「まだ線は引けない」
「はい」
主様は少し考えた後、笑った。
「最近、点ばっかり増えるね」
「無理につなげなければ、そうなります」
「いつかつながる?」
「つながるものは」
「つながらないのもある?」
「当然です」
全部の点に一本の線があるとは限らない。
◇
帰り支度をしていると、セレナがノルンの机へやってきた。
「一個だけ」
「何です?」
「試験表示の『音声・言語性』、今日はそのままにしました」
「はい」
「でも明日、表現だけ二案試してみたいです」
「どんな?」
「一つは今のまま。もう一つは『音声・言語として扱える根拠なし』」
ノルンは少し考える。
「後者は、現在ないという意味と、今後も根拠が出ないという意味が混ざりませんか?」
「やっぱり?」
「『現時点で』を付ければ少し違います」
「じゃあ、『現時点で音声・言語として扱える根拠なし』」
「試験案としてなら」
「決まり」
セレナは端末へ入力する。
その横顔を見ながら、ノルンは思った。
言葉を短くする。
分かりやすくする。
誤解を減らす。
必要な情報へ届きやすくする。
どれも悪い目的ではない。
それでも、言葉は使われた場所から少しずつ離れていくことがある。
「ノルン?」
「はい」
「また昔に行ってた?」
「少しだけです」
「認めた」
「今日は認めます」
セレナが笑った。
◇
その夜。
まだ開かれていない十四年目初期の研究補助記録には、表紙のすぐ後に注意書きが置かれていた。
『反復音声様変動における自己識別信号可能性の再検討』
『本検討における「自己識別」は、人間言語における氏名・呼称・自己紹介を意味しない。』
『反応群間で異なる特徴が、発生源または発生条件を区別する機能を持つ可能性を検討するための技術仮説である。』
『主体の存在、主体数、意図的送信、言語性、名称性はいずれも前提としない。』
そこまでは、明確だった。
しかし、その検討を始めるきっかけとして挙げられていたのは、過去のref7関連反応だけではなかった。
複数の古い低強度反応。
分類変更を受けた短時間反応。
そして、第一接続者リディア・フェルンが一度だけ『ナみたい』と表現し、自ら『名前とは書かないで』と求めたあの記録も、比較対象の一つとして再び一覧へ戻されていた。
一覧へ入ったからといって、同じ発生源になったわけではない。
名前になったわけでもない。
それでも、長い間別々に扱われてきた記録が、十四年目になって初めて『識別機能の可能性を検討する比較対象』という一つの表の上へ並べられていた。
そして、その表の末尾には、まだ結論ではない一行があった。
『一部反応に、発生源固有特徴を保持する反復構造が存在する可能性を排除できない。』
名前ではない。
自己紹介でもない。
誰か一人だとも分からない。
けれど後世の人間が『自分を示す音』と読み替えるための材料になり得る言葉が、そこに初めて現れ始めていた。




