第百十三話 友達と食べるお菓子の代金は、どちらが払うのが正解ですか
火曜日の朝、フローラが目を覚まして最初にしたのは、枕元の時計を見ることではなかった。
カーテンを開けることだった。
窓の向こうには薄い雲が残っていたものの、夜の間に雨が降った形跡はない。庭の石畳は乾いており、東の空では灰色の雲の切れ間から淡い朝日が差し込み始めていた。
「……降ってない」
まだ出発までは何時間もある。
正午の最終判断も残っている。
それでも胸が大きく鳴り、フローラは寝間着のまま窓へ近づいた。
今日だ。
手紙の中で何度も言葉を交わしてきたマリエと、今度は同じ道を歩く。南区の雑貨店で待ち合わせて、そこから一緒に蜂蜜の焼き菓子を食べに行く。
護衛でも家族でもない。
公爵家が決めた相手でもない。
自分が会いたいと思った友人と出かける日だった。
(行きたいじゃない)
昨日まで何度も確かめていた気持ちを思い出しながら、フローラは窓枠へそっと指を置いた。
(今日、行くんだ)
◇
同じ頃、南区の小さな雑貨店では、マリエが店先の看板を布で拭いていた。
「お父さん、二時だからね。忘れないでよ」
「忘れないって。朝から三回目だぞ」
「だって、フローラが来るんだから」
「分かってる。だから昨日、入口の箱も片づけただろ」
父親が指した先には、普段なら仕入れた商品を一時的に置いている木箱の場所がある。
今日は何もない。
「……別に、そこまでしなくてもよかったのに」
「護衛の人も来るんだろ?」
「二人と侍女さん一人」
「じゃあ狭いだろ」
「お店に全員入るわけじゃないと思う」
「それでもだ」
父親はそう言ってから、娘の手元を見る。
「同じところ何回拭くんだ?」
マリエが手を止めた。
看板の右下だけ、妙に綺麗になっている。
「……汚れてたから」
「そうか」
「何、その顔」
「別に」
「笑ってるじゃん」
父親は答えず、店の奥へ逃げた。
「もう!」
マリエは布を持ったまま頬を膨らませたが、すぐに通りの空を見上げた。
雲の向こうに青い空が少しずつ広がっている。
「晴れるかな」
昨日まではフローラが来られるかどうか、天気次第だった。
延期になっても、また約束すればいい。
それは分かっている。
けれど、できれば今日会いたかった。
◇
朝食の席でも、フローラは何度か窓へ視線を向けた。
そのたびに母が気づいている気配はあったが、何も言わない。
父もいつも通り新聞を読んでいる。
先に口を開いたのはフローラだった。
「今日、行けそう?」
「まだ朝よ」
「分かってるけど」
「今のところ中止にする理由はないわね」
「じゃあ行ける?」
「正午に護衛担当ともう一度確認する予定でしょう?」
「……そうだった」
フローラはパンをちぎった。
口へ運び、噛む。
味は分かる。
けれど、いつもより食事が長く感じる。
「二時まで長い」
思わず漏れた言葉に、父が新聞を少し下げた。
「まだ朝食中だぞ」
「分かってる」
「昼食もある」
「それも分かってる」
「家庭教師の授業もあるわよ」
母まで加わる。
「それは忘れてた」
「フローラ」
「冗談」
三人の間に笑いが落ちた。
以前なら、出かける予定がある日に授業など集中できないと思ったかもしれない。
実際、今日はいつもより時計を見る回数が増える気がする。
それでも授業をなくしてほしいとは思わなかった。
二時まで何もせずに待つ方が、たぶん落ち着かない。
◇
管理室では、ノルンが九名の朝の確認を進めていた。
ルークは朝食後、棚に置いていた紙の鳥を一度手に取ってから、また元の位置へ戻している。
職員から理由を尋ねられたわけではない。
本人も何も説明していない。
接続関連の新規希望なし。
過去名に関する質問なし。
庭へ出る予定も、今朝の時点ではない。
ミレイアは昨日市場で買った糸を使い、衣服のほつれを直している。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
状態に変更はない。
昨日問題になった『接続関連発言:あり/なし/不明』の入力欄については、生活記録全般への表示を一時停止する前に、記録担当者への聞き取りが始まっていた。
「三人から返事来てます」
セレナが別画面を開く。
「どうでした?」
「一人は『欄があるから毎回入れていた』。一人は『状態変化を見落とさないため必要だと思っていた』。もう一人は『なしが続いていることにも意味があると思っていた』」
ノルンは最後の回答を見る。
「何の意味だと考えていたのでしょう」
「そこも聞いてます。返事待ち」
「では、それまでは保留ですね」
「はい。ただ、必須入力ではないので、担当者には『日常記録で無理に埋めなくてよい』と暫定周知だけ出しました」
「いいと思います」
主様が横から画面を見る。
「ミレイアが市場に行っただけの日に、接続の話をしなかったって毎回書かれなくなる?」
「そうなるかもしれません」
「よかった」
「まだ最終決定ではありません」
「セレナまでノルンみたいになってきた」
「主様」
「はい」
「それは褒めています?」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
セレナが笑う。
エリオは共有室で三人用の盤上遊戯を続けていた。
昨日まで試していた配置に、別の参加者が修整を加えている。
『本人、「そっちの方が面白そう」と発言。本人案への固執なし。』
「負けた?」
主様が聞く。
「まだ始まっていません」
「じゃあ、面白そうってだけか」
「はい」
「勝敗数えなくなってから記録が平和だね」
「勝敗を数えていた時も争っていたわけではありませんよ」
他の管理対象にも重大な変化はない。
アーノルドからフローラへの接触なし。
新規転生兆候なし。
世界側異常なし。
神々からの追加報告なし。
「今日は八年目読む?」
主様が尋ねた。
ノルンは時計を見る。
「少なくとも午前中は読みません」
「午後は?」
「決めていません」
「フローラのお出かけ見る?」
「監視するような言い方をしないでください」
「観察?」
「通常の安全確認範囲です」
「難しい」
主様は首を傾げた。
◇
フローラの午前の授業は、思っていたより普通に終わった。
途中で一度だけ時計を見た。
家庭教師に気づかれた。
何も言われなかったが、フローラは少し恥ずかしくなり、その後は授業へ意識を戻した。
終了したのは十一時半。
「ありがとうございました」
「今日は随分と機嫌がよろしいですね」
家庭教師が教材を片づけながら言う。
「分かる?」
「ええ」
「今日、友達と出かけるの」
「それは楽しみですね」
「うん」
答えてから、フローラは少しだけ口元を緩めた。
以前なら、『公爵令嬢が平民の友人と町へ出る』ことを説明する時、相手がどう思うかを先に考えたかもしれない。
今日は普通に『友達と出かける』と言えた。
家庭教師も、それ以上身分について尋ねなかった。
◇
正午。
家令と護衛担当が両親のもとを訪れた。
フローラも呼ばれる。
窓の外は朝より明るい。
雲は残っているが、雨の気配はない。
「現時点で降雨の可能性は低いとのことです」
護衛担当が説明する。
「夕方以降に一時的に崩れる可能性はありますが、予定されている時間帯への影響は小さいと判断します」
フローラは無意識に膝の上で手を握った。
「では?」
父が尋ねる。
「予定通りで問題ありません」
胸の奥で何かが跳ねた。
「行ける?」
確認する必要などなかったのに、フローラは聞いてしまった。
母が微笑む。
「ええ」
フローラは一度唇を結んだ。
大きく喜ぶのが少し恥ずかしい。
それでも頬が緩むのを止められなかった。
「よかった」
小さく漏れた声に、護衛担当までわずかに表情を和らげた。
◇
昼食は軽めにした。
蜂蜜の焼き菓子を食べる予定だからだ。
フローラ自身がそう言うと、母から「食べなさすぎても駄目よ」と注意された。
「ちゃんと食べてる」
「パンを半分残しているわ」
「お菓子入らなくなる」
「二時に会って、そこから歩くのでしょう? すぐ食べるわけではないわよ」
「……そうだった」
「緊張してる?」
「少し」
フローラは残していたパンをもう一口食べた。
楽しみと緊張は、相変わらず一緒にある。
どちらかを消さなければならないとは、もう思わなかった。
◇
一時前。
淡い緑のワンピースへ着替える。
靴は昨日選んだ、底が少し厚いもの。
侍女が髪を整えようとすると、フローラは鏡を見ながら尋ねた。
「いつもより簡単にできる?」
「どの程度でしょう?」
「舞踏会みたいじゃなければいい」
「舞踏会へ行く髪型にはしておりません」
「分かってるけど」
侍女が少し笑う。
「では、飾りを一つ減らしましょうか」
「うん」
小さな髪飾りを一つだけ残す。
鏡に映った自分は、公爵令嬢にしか見えない。
それでいい。
町娘のふりをしに行くのではない。
マリエに会いに行く。
机の上の財布を取る。
中身は数えない。
ハンカチも入れる。
「準備できた」
「はい」
侍女が答える。
その声を聞いた途端、胸がまた速くなった。
◇
一時二十八分。
玄関前には馬車が用意されていた。
護衛二名。
侍女一名。
予定通り。
父は仕事で外出していたが、母が見送りに出ている。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「……それだけ?」
「何か言ってほしい?」
「ううん」
フローラは首を振った。
母は少しだけ考えてから、
「楽しんできて」
と付け加えた。
「うん」
馬車へ乗る。
扉が閉まる。
ゆっくりと動き始める。
公爵家の門が遠ざかっていった。
(本当に行くんだ)
何度も考えていたことなのに、屋敷を出て初めて実感が追いついてきた。
◇
南区へ近づくにつれ、通りの様子が変わっていった。
貴族街の広い道路とは違い、店先の商品が通りから見える。
パン屋。
布屋。
金物屋。
小さな食堂。
行き交う人の声も多い。
馬車の窓から見ているだけなのに、フローラは視線を忙しく動かした。
「以前もこちらへ?」
侍女が尋ねる。
「馬車では通ったことあると思う。でも、歩いたことはあんまりない」
「本日は大通り付近で降車します」
「うん」
予定通りだった。
馬車が停まる。
護衛が先に降り、周囲を確認する。
「問題ありません」
フローラも降りた。
石畳へ靴底が触れる。
少しだけ風が強い。
けれど雨の匂いはしなかった。
馬車は待機場所へ移動する。
ここからは歩く。
護衛二名と侍女一名。
フローラはその真ん中に閉じ込められるような配置を想像していたが、実際には一人が少し前、一人が後ろへ距離を取り、侍女だけが近くを歩いた。
「もっと囲まれると思ってた」
思わず言う。
侍女が小声で答える。
「それではかえって目立ちますので」
「もう目立ってない?」
通りすがりの人が何人かこちらを見ている。
「多少は」
「やっぱり」
「お気になさいますか?」
フローラは少し考えた。
「……ちょっと。でも、帰りたいほどじゃない」
「では参りましょう」
「うん」
◇
マリエ家の雑貨店は、大通りから一本入った道にあった。
事前に聞いていなければ、フローラ一人では通り過ぎたかもしれない。
入口の上に小さな看板。
窓辺には日用品や瓶詰めの商品が並んでいる。
店先には誰もいない。
「ここ?」
「住所はこちらで間違いありません」
侍女が答える。
フローラの心臓が急に速くなる。
手紙では何度も話した。
慈善行事でも会っている。
初対面ではない。
それなのに、自分から友人の家を訪ねるというだけで妙に緊張する。
「入る?」
「待ち合わせは店内とのことです」
「……うん」
扉へ近づく。
小さな鈴が鳴った。
店内から声がする。
「いらっしゃいませ――」
奥から出てきたマリエが、途中で言葉を止めた。
目が合う。
一瞬だけ、二人とも何も言わなかった。
「フローラ!」
先に笑ったのはマリエだった。
「来た!」
「来たよ」
フローラも笑う。
「雨、降らなかった」
「朝からずっと空見てた」
「私も」
「本当に?」
「うん」
それだけで、さっきまでの緊張が少しほどけた。
◇
店の奥からマリエの父親が出てきた。
「いらっしゃいませ」
フローラを見て一瞬姿勢を正す。
マリエがすぐに言った。
「お父さん、固い」
「お前な」
フローラは少し迷った。
公爵令嬢としてどう挨拶するべきか。
友人の父親としてどう接するべきか。
考えかけて、昨日母に言われたことを思い出す。
全部を先に決めなくていい。
「今日はお邪魔します」
普通に頭を下げた。
マリエの父親も少し驚いたあと、笑った。
「どうぞ。狭い店ですが」
「お父さん、それ言わなくていいって」
「本当だろ」
「もう」
店内は確かに広くない。
護衛二名が入れば商品棚の間がかなり狭くなる。
一人は入口外。
もう一人は店内から位置を確認し、焼き菓子店までの経路を先に見に行くことになった。
侍女はフローラと一緒に残る。
昨日まで決め切れなかったことが、その場を見れば数分で決まった。
「本当に来てから決めた」
フローラが呟く。
「何を?」
マリエが聞く。
「護衛の人」
「ああ。狭いでしょ?」
「うん」
「お父さんが箱どけたんだよ」
「言うなって」
「箱?」
「いつも入口に荷物置いてるの」
「私が来るから?」
「護衛の人も来るって言ったから」
フローラは父親を見る。
「ありがとうございます」
「いや、仕事の邪魔にならないようにしただけです」
「お父さん照れてる」
「マリエ」
フローラは小さく笑った。
公爵家では見ないやり取りだった。
◇
「じゃあ行こっか」
マリエが小さな鞄を肩へ掛ける。
「うん」
「歩いて十分くらい」
「近いんだ」
「途中に変な形の噴水あるよ」
「変な形?」
「見たら分かる」
「何の形?」
「分かんないから変なの」
店を出る。
護衛の一人が少し前へ。
もう一人が後方。
侍女はフローラの近く。
マリエは最初、護衛を気にしていた。
何度か後ろを見る。
「気になる?」
フローラが尋ねた。
「ちょっと」
「ごめん」
「何でフローラが謝るの?」
「だって」
「必要なんでしょ?」
「うん」
「じゃあいいよ」
マリエは前を向く。
「私も最初、お店に護衛の人が三人くらい並ぶのかなって思ってたけど」
「私も」
「フローラも?」
「昨日までどうなるか分かんなかった」
二人で笑う。
護衛たちは何も言わない。
侍女だけが、少し口元を緩めていた。
◇
南区の道は、馬車から見るよりずっと賑やかだった。
店先から焼いた肉の匂いが流れてくる。
向かいの八百屋では店主が大きな声で客を呼び込んでいる。
子どもが二人、狭い路地を走り抜けた。
フローラは反射的に避ける。
「あ、ごめんなさい!」
子どもの一人が振り返って叫ぶ。
「大丈夫!」
フローラが答える。
子どもたちはそのまま走っていった。
「今の子、フローラが誰か知らないね」
「たぶん」
「知ってたらどうするんだろ」
「分かんない」
「私も最初知らなかった」
「うん」
「知った時、びっくりしたけど」
マリエが少しだけフローラを見る。
「今は?」
「フローラはフローラ」
あまりにも普通に言われた。
フローラはすぐに返事ができなかった。
「……何?」
マリエが首を傾げる。
「ううん」
「変だった?」
「違う。嬉しかった」
マリエは一瞬目を丸くし、それから少し照れたように前を向いた。
「そういうの急に言うのずるい」
「何で?」
「何か恥ずかしいから」
「マリエが先に言ったのに」
「そうだけど」
二人の間に、気まずくない沈黙が落ちた。
歩く音。
店から聞こえる声。
荷車の車輪が石畳を転がる音。
その全部の中で、フローラは少しだけ歩幅を緩めた。
急ぐ必要はなかった。
◇
「これ」
マリエが指を差した。
小さな広場の中央に噴水がある。
確かに変だった。
石像らしいものが中央に立っているのだが、魚にも鳥にも見える。
「……何?」
「分かんないでしょ?」
「魚?」
「羽あるよ」
「鳥?」
「口が魚」
二人で噴水へ近づく。
台座に文字が刻まれている。
マリエが読む。
「『豊穣を運ぶ水翼獣』」
「水翼獣?」
「知ってる?」
「知らない」
「私も」
「実在するの?」
「お父さんに聞いたら『昔の人が考えたんじゃないか』って」
「適当」
「でしょ?」
フローラは像を見上げた。
少し不格好で、けれど見ていると妙に可愛い。
「私、これ好きかも」
「ええ?」
「何か可愛い」
「フローラ、変なの好きなんだ」
「マリエが見せたんでしょ」
「面白いから見せただけ」
「じゃあマリエも好きじゃない?」
「好きじゃない」
即答されて、フローラは笑った。
◇
蜂蜜の焼き菓子店は、噴水からさらに少し歩いた路地にあった。
マリエが言っていた通り、小さい。
入口横には二人掛けの椅子が二つ。
中を覗くと、小さな卓が三つしかない。
甘い匂いが外まで流れている。
「ここ」
「いい匂い」
「でしょ?」
マリエが得意そうに笑う。
護衛が店内を確認する。
混雑はしていない。
客は一組だけ。
護衛一名が外。
一名は店内入口近く。
侍女は少し離れた席。
フローラとマリエは窓際の小さな卓へ座った。
「本当に一緒に来た」
フローラが言う。
「何それ」
「何か、まだちょっと変な感じ」
「私も」
「マリエも?」
「だって公爵令嬢がうちの店に来て、いつものお菓子屋に座ってるんだよ」
「やっぱり公爵令嬢って気にしてるじゃん」
「少しはするよ!」
マリエが声を抑えながら笑う。
店員が来る。
「いらっしゃいませ」
マリエは慣れた様子で注文表を指した。
「これが蜂蜜焼き。こっちは木の実入り。季節の果物が入ってるのもあるよ」
「どれが好き?」
「私は木の実」
「じゃあ私も」
「同じのでいいの?」
「食べてみたい」
「じゃあ二つ?」
店員が待っている。
フローラは頷いた。
「木の実入りを二つお願いします」
「お飲み物は?」
「私は果実水」
マリエが答える。
フローラも同じにしようとして、止まった。
選べる。
「温かいお茶にする」
「かしこまりました」
店員が去る。
マリエが笑った。
「同じにしなかった」
「何で笑うの?」
「お菓子同じにしたから、飲み物も同じにするのかなって」
「別に全部同じじゃなくていいでしょ」
「うん」
フローラも笑った。
◇
焼き菓子が運ばれてくる。
丸く焼かれた生地の表面に蜂蜜が薄く塗られ、細かく砕いた木の実が散らされている。
まだ温かい。
「いただきます」
マリエが先に一口食べる。
フローラも続いた。
表面は少しだけ硬い。
中は柔らかい。
蜂蜜の甘さのあとに木の実の香ばしさが来る。
「……おいしい」
「でしょ?」
「うん」
「よかった」
マリエが本当に嬉しそうに言う。
「何でマリエがそんなに嬉しいの?」
「私が好きなの勧めたから」
「まずかったら?」
「困る」
「どうするの?」
「別の食べてもらう」
「また?」
「おいしいって言うまで」
「それはずるい」
二人で笑った。
フローラはもう一口食べる。
朝からずっと気にしていた。
ちゃんと楽しくできるだろうか。
失敗しないだろうか。
何を話せばいいのだろう。
今は、そんなことを考える余裕が少しずつなくなっていた。
目の前の菓子がおいしい。
マリエが笑っている。
それだけで話は続いた。
◇
半分ほど食べたところで、フローラは机の端に置いた財布へ視線を落とした。
来た。
昨日から少し気になっていた問題。
代金。
まだ会計ではない。
けれど、食べ終われば必ず来る。
(どうしよう)
自分とマリエの分を払えるだけの金額は持ってきた。
母からは、マリエが自分で払いたいかもしれないから、その場で相談すればいいと言われている。
相談。
どう聞けばいい。
「フローラ?」
「え?」
「止まってる」
「何が?」
「お菓子」
手に持ったままになっていた。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「……マリエ」
「うん?」
今聞いてしまおう。
「これ、お金どうする?」
マリエが瞬きをした。
「お金?」
「お菓子の」
「ああ」
「私、二人分持ってきたんだけど」
「え?」
マリエの眉が少し上がる。
フローラの胸がきゅっと縮んだ。
(変だった?)
「私の分も?」
「うん。でも、マリエが自分で払いたいなら――」
「払うよ」
「……そっか」
即答だった。
フローラは少しだけ肩を落とした。
それに気づいたマリエが慌てる。
「あ、違う! フローラに払ってほしくないとかじゃなくて」
「うん」
「いつも自分で払ってるから」
「うん」
「だから、その……」
今度はマリエが困った顔になる。
二人とも黙った。
侍女は少し離れた場所にいる。
助けを求めようと思えば求められる。
けれど、これは自分たちで話していいことだと思った。
「私ね」
フローラが先に口を開いた。
「友達とこういうお店来るの、初めてなの」
「うん」
「だから、どうするのが普通か分かんなくて」
「普通?」
「どっちが払うとか」
「自分の分は自分じゃない?」
「やっぱり?」
「でも、おごることもあるよ。誕生日とか、誘った方が払うとか……その時による」
「その時による」
「うん」
また、それだ。
決まった正解はない。
「マリエは今日は自分で払いたい?」
「うん。だって私が食べた分だし」
「分かった」
「フローラは?」
「私は自分で払いたい」
「じゃあそうしよ」
「……簡単」
「何が?」
「もっと難しいと思ってた」
「お金?」
「うん」
「聞けばいいじゃん」
マリエが言う。
あまりにも簡単だった。
フローラは少し笑った。
「昨日、お母様にも似たこと言われた」
「じゃあお母様正しかったね」
「うん」
胸の奥に残っていた小さな緊張がほどける。
自分が公爵令嬢だから、払うべきなのか。
相手が誘ったから、払ってもらうべきなのか。
身分差があるから、自分が出した方がいいのか。
そんな答えを先に決める必要はなかった。
マリエは自分で払いたい。
フローラも自分で払いたい。
今日はそれでいい。
◇
食べ終わり、会計へ向かう。
マリエが先に硬貨を出した。
フローラも財布を開く。
母と確認した通りの金額だった。
硬貨を数え、店員へ渡す。
お釣りを受け取る。
ただそれだけ。
なのに、財布を閉じた瞬間、妙な達成感があった。
「払えた」
思わず口にする。
マリエが吹き出した。
「何それ!」
「だって、自分で払った」
「いつも払わないの?」
「家だと侍女が払うこと多いし」
「そうなんだ」
「だから今日、自分で払いたかった」
「じゃあよかったじゃん」
「うん」
フローラは財布を鞄へ戻した。
少しだけ誇らしかった。
◇
店を出ると、空はさらに明るくなっていた。
雨は降っていない。
予定では、菓子を食べたあと少し周辺を歩き、時間を見て雑貨店へ戻ることになっている。
「どうする?」
マリエが尋ねる。
「どうするって?」
「もうちょっと歩く? それとも戻る?」
フローラは時計を見る。
まだ余裕がある。
「歩きたい」
「じゃあ、川の方行く?」
「遠い?」
「十分くらい」
護衛へ確認する。
予定範囲内で問題ない。
「行く」
「こっち」
マリエが歩き出す。
フローラも隣へ並んだ。
◇
川へ向かう途中、小さな露店が並んでいた。
布小物。
木工品。
安価な髪飾り。
焼き菓子を食べたばかりなので食べ物には手を出さない。
フローラは一軒の店で足を止めた。
木製の小さな鳥。
翼を広げたもの。
丸く座ったもの。
首を傾げたもの。
「可愛い」
「鳥好き?」
「別に特別好きってわけじゃないけど」
手に取る。
掌に乗るほど小さい。
「買う?」
「……どうしよう」
「欲しいなら買えば?」
「でも、何に使うの?」
「飾る?」
「それだけ?」
「飾りってそういうものでしょ」
フローラは鳥を見る。
使い道はない。
必要でもない。
それでも少し欲しい。
(欲しいだけで買っていいのかな)
財布にはまだ十分残っている。
母からも、決めた範囲内なら自分で使っていいと言われている。
「買う」
フローラは決めた。
店主へ代金を払う。
今度はさっきより自然に硬貨を出せた。
「それ、何て鳥?」
マリエが尋ねる。
店主が答える。
「特に決めてないよ。鳥っぽく彫っただけ」
「決まってないんだ」
フローラは笑った。
「じゃあ鳥でいい」
小さな木の鳥を鞄へ入れる。
◇
川沿いには低い石壁が続いていた。
水面が午後の光を反射している。
風は少し冷たい。
二人は並んで歩く。
「今日どう?」
マリエが突然聞いた。
「何が?」
「楽しい?」
フローラは足を止めそうになった。
昨日、自分でも考えていたことだ。
ちゃんと楽しくできるだろうか。
マリエが同じ言葉を使った。
「うん」
今度は迷わなかった。
「楽しい」
「よかった」
「マリエは?」
「楽しいよ」
「本当?」
「何で疑うの?」
「確認」
「じゃあ本当」
二人とも笑う。
フローラは川を見る。
「私、昨日までずっと考えてた」
「何を?」
「失敗したらどうしようって」
「何の失敗?」
「分かんない。話が続かなかったり、お金の払い方間違えたり」
「お金はさっき聞いたじゃん」
「うん」
「話も続いてる」
「うん」
「じゃあ今のところ成功?」
フローラは少し考える。
「成功って言うと、何か違う」
「じゃあ?」
「普通に楽しい」
「それでいいじゃん」
「うん」
フローラは頷いた。
その言葉が一番しっくりきた。
◇
三時半を少し過ぎた頃、二人は雑貨店へ戻った。
予定より少し早い。
マリエの父親が店番をしている。
「おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
「おいしかった」
マリエが答える。
父親はフローラを見る。
「お口に合いましたか?」
「はい。すごくおいしかったです」
「それはよかった」
「木の実のやつ食べた」
「いつものだな」
「フローラも同じの」
「そうか」
フローラは少し迷ってから言う。
「また食べたいです」
父親が笑った。
「店の人に言ってやってください。喜びますよ」
「次に行ったら言います」
次。
口にしてから気づいた。
また来ることを、自分で自然に想像していた。
マリエも気づいたのか、こちらを見る。
「また来る?」
フローラの胸が小さく跳ねる。
「来てもいい?」
「もちろん」
即答だった。
「じゃあ、また来たい」
「今度は別のお店でもいいよ」
「他にもあるの?」
「いっぱい」
「行きたい」
「じゃあ今度ね」
「うん」
日付は決めない。
今日のうちに次の約束まで固めなくていい。
けれど、『また』が自然に出たことが嬉しかった。
◇
帰りの馬車。
フローラは座席へ背を預けた。
疲れている。
たくさん歩いたわけではない。
それでも朝から緊張していたせいか、身体が少し重い。
「お疲れですか?」
侍女が尋ねる。
「ちょっと」
「楽しまれました?」
「うん」
即答できた。
鞄を開く。
小さな木の鳥が入っている。
取り出して掌へ乗せた。
「それ、お買いになったのですか?」
「うん。何に使うか分かんないけど」
「飾られてはいかがでしょう」
「マリエも同じこと言った」
フローラは笑った。
「じゃあ、飾る」
窓の外を南区の通りが流れていく。
今日一日で何か大きく変わったわけではない。
怖いものが全部なくなったわけでもない。
人と会う前に考えすぎる癖も、たぶんすぐには消えない。
それでも今日は、自分で友人に会いに行った。
自分で菓子を選んだ。
自分で代金を払った。
欲しいと思った飾りを、自分のお金で買った。
そして次も会いたいと言えた。
(楽しかった)
今は、その言葉だけで十分だった。
◇
夕方、管理室にフローラの外出終了記録が届いた。
『予定通り実施。』
『本人、マリエと雑貨店で合流後、焼き菓子店へ移動。周辺散策後、雑貨店へ帰還。』
『安全上の問題なし。』
『本人希望により小型木製装飾品一点購入。』
『本人、帰宅時に「楽しかった」と発言。』
主様が読む。
「成功?」
ノルンは首を横に振った。
「安全上の問題なく予定を終えました」
「それを成功って」
「本人の友人関係を管理側の成功事例にしないでください」
「じゃあ、楽しかった?」
「本人はそう言っています」
「それならいい?」
「はい」
主様は満足そうに頷いた。
ノルンは記録を閉じようとして、最後の補足に気づいた。
『本人、マリエと「また会いたい」「別の店にも行きたい」旨の会話あり。具体的日程未定。』
予定ではない。
約束を実施するための同意でもない。
ただ、二人がまた会いたいと話した。
それだけを、そのまま残す。
◇
「今日は八年目、読まなかったね」
主様が言う。
「はい」
「二日連続」
「数えなくていいです」
「気にならない?」
「気になります」
「でも読まない」
「今日は現在の方に動きがありましたから」
「フローラ?」
「それだけではありません」
ミレイアの記録入力欄。
セレナの表示試験。
九名の日常。
全部が現在だ。
過去の謎を調べることだけが観察官の仕事ではない。
主様はしばらく黙っていたが、やがて端末の隅を指した。
「これ何?」
新着表示。
古い保管層ではない。
現在の観察システムから届いた自動通知だった。
『外在反応監視・低優先度』
ノルンは眉を寄せる。
「新規転生兆候ではありません」
「じゃあ何?」
「確認します」
開く。
『既存管理対象関連領域において、短時間の識別不能反応を検出。』
発生時刻。
午後三時四十七分。
継続時間。
二・一秒。
強度。
低。
反復なし。
位置参照。
なし。
対象識別。
不能。
既知接続反応との一致。
判定不能。
「誰の?」
主様が尋ねる。
「分かりません」
「九人の誰か?」
「『既存管理対象関連領域』というだけです。個人へ結びつけられる情報はありません」
「今まであった?」
「低強度の識別不能反応自体はあります」
「じゃあ普通?」
「それもまだ判断できません」
ノルンは詳細を開いた。
自動通知が上がった理由。
『既存ノイズ閾値を僅かに上回ったため。』
それだけ。
主様が画面を覗き込む。
「音は?」
「ありません」
「名前みたいなのも?」
「ありません」
「参照7と似てる?」
「まだ比較していません」
「比較する?」
ノルンの指が止まる。
古い記録。
参照7。
継続反応。
能動性仮説。
探索仮説。
そして現在。
似ているものを探し始めれば、いくらでも見つかるかもしれない。
だからといって、比較しない理由にもならない。
「まず現在の反応として処理します」
「古いのとつなげない?」
「先に現在側の条件を確認します」
セレナも席を立ち、こちらへ来た。
「何かありました?」
「低優先度の識別不能反応です」
「対象は?」
「不明」
「継続?」
「二・一秒。一回だけです」
「じゃあ今のところ、誰にも通知しない?」
「はい。少なくとも本人へ伝える条件はありません」
セレナが頷く。
「監視だけ継続?」
「通常範囲で」
観測密度は上げない。
誰かの反応を期待して、見る回数を増やさない。
新しい意味を欲しがって、短い揺らぎへ名前を付けない。
ノルンは記録へ追記する。
『現時点で対象識別不能。既知事象との関連付けを行わず、通常監視内で経過確認。本人通知なし。』
保存。
「これで終わり?」
主様が尋ねる。
「今日のところは」
「明日また出たら?」
「その時に確認します」
「強くなったら?」
「その時の情報で判断します」
「誰か分かったら?」
「本人への通知条件も含めて確認します」
主様は少し黙り、やがて頷いた。
「分かった」
◇
その夜。
フローラは自室の棚へ、小さな木の鳥を置いた。
高価なものではない。
職人の名前も知らない。
何の鳥なのかさえ決まっていない。
それでも見るたび、少し口元が緩む。
机にはマリエへ送る手紙用の紙がある。
今日会ったばかりなのだから、すぐ手紙を書く必要はない。
それでも、
『今日はありがとう。楽しかった』
くらいなら書きたいと思った。
(明日にしようかな)
今日はもう、十分たくさん話した。
フローラは木の鳥を指先で少しだけ動かし、窓の外を見た。
朝から心配していた雨は、結局一度も降らなかった。
◇
管理室では、最後の職員が帰ったあとも、自動監視だけが静かに動き続けていた。
午後三時四十七分。
二・一秒。
一度だけ。
対象不明。
意味不明。
それ以上の情報はない。
ノルンはその短い記録へ意味を与えず、端末を閉じて帰った。
だから、その日の深夜に同じ監視領域で二度目の反応が記録された時、ノルンはまだ眠っていた。
午前二時十三分。
継続時間、三・八秒。
強度、低。
対象識別、不能。
一度目との同一発生源――判定不能。
ただし自動解析は、一つだけ前回と違う項目を追加していた。
『反応内部に、反復構造候補あり。』
それが何を意味するのかは、まだ誰にも分からなかった。




