第百十二話 晴れるかどうかは決められなくても、出かけたい気持ちは決められました
朝から空が暗かった。
雨が降っているわけではない。けれど管理室の窓の向こうには薄い灰色の雲が広がり、いつもなら床まで届く朝の光も、今日は窓際をぼんやり明るくする程度だった。
ノルンは端末を起動すると、最初に九名の状態一覧を開いた。
昨日の七年目の記録は開かない。
八年目にも進まない。
調べたい気持ちが消えたわけではなかったが、古い接続史は今日もそこにある。急いで読まなければ消える資料ではないし、昨日確認したばかりの情報を頭の中で整理する時間も必要だった。
「今日は読まないんだ」
隣で主様が言った。
「まだ何も言っていません」
「でも古い保管層を開いてない」
「朝の確認が先です」
「そのあと?」
「決めていません」
ノルンは九名の一覧から最初の記録を選ぶ。
主様が少し身を乗り出した。
「じゃあ、読まない可能性もある?」
「あります」
「気になってるのに?」
「気になっているものを毎日調べなければならない決まりはありません」
「……昨日のリディアみたい」
ノルンの指が止まった。
主様もすぐに気づいたらしい。
「あ、違う。今のは似てるって決めたんじゃなくて――」
「分かっています」
「よかった」
「ただ、何でも過去の記録へ結びつけるのはやめてください」
「はい」
主様は素直に引き下がった。
その横でセレナが肩を揺らしている。
「何ですか?」
「主様、最近ノルンに怒られない言い方を考えてから喋るようになりましたね」
「成長した?」
「それを私に聞くんですか?」
「セレナなら褒めてくれるかなって」
「今回は保留で」
「保留ばっかりだ」
「便利な言葉ではありませんよ」
ノルンはそう言いながら、ルークの記録を開いた。
◇
ルークの机にあった落ち葉は、朝にはなくなっていた。
昨夜のうちに本人が捨てたらしい。
『本人、就寝前に落ち葉を廃棄。「もういい」と発言。』
紙の鳥は棚に残っている。
接続関連の新規希望なし。
過去名についての質問なし。
朝食後は室内で本を読んでおり、庭へ出る予定についても本人から申し出はない。
「昨日だけだった」
主様が言う。
「本人がそう言っていましたからね」
「紙の鳥は残ってる」
「はい」
「違いは?」
「本人に聞かなければ分かりません」
「聞く?」
「必要がありますか?」
主様は棚の紙の鳥を映す小さな記録画像を見た。
「……ないか」
「今のところは」
昨日まで置いていた物を今日捨てる。
何日も残している物がある。
そこに意味がある可能性はある。
ただし、観察する側が意味を欲しがることと、本人にとって意味があることは同じではない。
ノルンは状態欄だけを確認して閉じた。
ミレイア。
昨日完成した布袋は棚に置かれたまま。
中身はまだ空だった。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
変更なし。
今朝は母親と市場へ行く予定があり、エリスも同行する。
接続についての話題なし。
エリオ。
『次回外出:未定』
共有室の盤上遊戯は、昨日試した三人用の配置を今日も使う予定らしい。ただし正式な規則として固定したわけではなく、参加者の一人から別案も出ている。
「ゲームの方が会議してる」
主様が言った。
「楽しそうですね」
「どっち採用するんだろう」
「それは本人たちに任せましょう」
他の管理対象にも緊急性のある変化はない。
アーノルドからフローラへの接触なし。
新規転生兆候なし。
世界側の異常なし。
そして、神々からも相変わらず追加の説明は届いていなかった。
最初に渡された『一人』という報告と、現実に存在する九名。
その食い違いは残ったままだ。
主様が一覧の人数表示を眺める。
「九人」
「はい」
「増えてない」
「はい」
「減ってもない」
「はい」
「神様たちから連絡もない」
「ありません」
「……逃げてない?」
「確認できないことを言わないでください」
「可能性として」
「候補にも入れません」
「厳しい」
ノルンは一覧を閉じた。
◇
フローラの家では、朝食の席で明日の天気が話題になっていた。
「午後から少し崩れるかもしれないそうよ」
母の言葉に、フローラはパンへ伸ばしていた手を止めた。
「雨?」
「可能性がある、という程度ね。朝の予報では、降らない可能性の方が少し高いそうだけれど」
「少しなんだ」
「天気ですもの」
父は新聞から目を上げた。
「明日の朝にもう一度確認しよう。大雨や強風でなければ、馬車も出せる」
「少しくらいの雨なら?」
「それも明日決める」
また、明日。
フローラは小さく息を吐いた。
嫌なのではない。
ただ、ここ数日は明日の外出について考えるたびに、まだ決められないことが一つずつ出てくる。
護衛が何人店へ入るのか。
侍女はどうするのか。
馬車をどこへ停めるのか。
菓子代を誰が払うのか。
雨ならどうするのか。
(出かけるだけなのに、決めることってこんなにあるんだ)
けれど、以前の外出とは違った。
公爵家の予定として用意され、決められた時間に決められた服を着て、決められた相手と会うのではない。
自分がマリエに会いたいと思った。
自分で火曜日を選んだ。
家族と相談し、護衛の条件を決め、マリエにも事情を伝えた。
その結果として、決めることが増えている。
面倒だと思う部分がないわけではなかった。
それでも、やめたいとは思わない。
「フローラ?」
母に呼ばれ、顔を上げる。
「どうしたの?」
「ううん。明日、雨でも行けるかなって考えてた」
「雨の程度によるわね」
「中止になったら、別の日にできる?」
「もちろん」
すぐに返ってきた答えに、フローラは少し驚いた。
「いいの?」
「どうして駄目だと思ったの?」
「だって、護衛の予定とか、マリエの予定とか、また全部決め直しになるし」
「必要なら決め直せばいいでしょう」
母は当たり前のように言う。
「一度決めた日に行けなかったからといって、もう会えなくなるわけではないわ」
フローラはカップへ視線を落とした。
温かい湯気が頬の近くを通り過ぎる。
(そうだよね)
分かっていたはずなのに、予定が決まってからは、その日にきちんと行かなければならないような気がしていた。
「でも」
フローラは顔を上げる。
「できれば明日行きたい」
「ええ」
「雨、降らないでほしい」
「それは私にも決められないわ」
母が笑い、父も新聞の向こうで少し口元を緩めた。
◇
午前の授業を終えたあと、フローラは明日着る予定の淡い緑のワンピースをもう一度確認した。
ベッドの上へ広げるほどではない。
衣装棚の扉を開け、掛けられている服を眺める。
装飾は少なく、歩きやすい。
町娘に見せるための服ではない。
公爵令嬢としてはかなり簡素だが、仕立ての良さまで隠す必要はないと母に言われている。
自分では気に入っていた。
「明日はこちらでよろしいですか?」
侍女が尋ねる。
「うん。雨なら?」
「上着と傘をご用意します。足元が悪いようでしたら、靴は変更した方がよろしいかもしれません」
「どれ?」
「こちらか、こちらですね」
二足を見せられる。
一方は見た目がすっきりしている。
もう一方は底が少し厚く、濡れた石畳でも滑りにくい。
「こっち」
フローラは厚い方を指した。
「晴れても?」
「はい」
「じゃあ、それにする」
侍女が頷く。
「かしこまりました」
「……変じゃない?」
「何がでしょう?」
「この服に、その靴」
侍女は少し離れ、組み合わせを見た。
「問題ないと思います」
「本当に?」
「はい。歩きやすさを優先なさるのでしたら、こちらの方がよろしいかと」
フローラはもう一度見る。
完璧に美しく合わせる必要はない。
明日は服を見せに行くのではなく、マリエと歩いて菓子を食べに行くのだ。
「じゃあ決まり」
衣装棚の扉を閉じる。
その直後、少しだけ胸が弾んだ。
明日の服が決まった。
たったそれだけなのに、予定が一歩近づいた気がした。
◇
昼過ぎ。
管理室ではセレナが昨日の一覧表示試験を続けていた。
ただし、今日は新しい文章を増やしていない。
「増やさないんですか?」
ノルンが尋ねる。
「増やす前に整理します」
セレナの机には、これまで試した表示案と誤読例が並んでいた。
『本人発言:必要なら面談してもいい』
『未確定:誰が「必要」と判断するか』
『現時点で面談実施への包括同意なし』
別案。
『本人発言:必要なら面談してもいい』
『この発言だけでは面談を開始しない』
『面談実施が必要になった時点で、本人へ確認する』
さらに、最近もっとも誤読が少なかった案。
『本人発言のみでは面談開始判断を行わない』
『具体的必要性発生時に本人確認』
しかし、それも、
『必要性発生→本人確認→面談開始』
という自動手順のように読んだ者がいた。
「全部、間違ってはいないんですよね」
セレナが言う。
「文章自体は」
「でも、読んだ人が足す」
「はい」
「『本人確認』の後に『同意なら』を足せばいい?」
「足すことはできます」
「また長くなる」
「はい」
「昨日からこればっかり」
セレナは紙の端を指で押さえた。
「ノルン。そもそも、これを一行で見せる必要あります?」
「用途によります」
「現場の一覧なら、今すぐ面談を始めていいかだけ分かればいい」
「そうですね」
「だったら」
セレナは新しい紙へ書く。
『現在:面談開始不可』
ノルンは黙って読む。
「これだけなら?」
「本人が面談自体を拒否しているように読まれる可能性があります」
「ですよね」
セレナはその下に書き足す。
『理由:具体的実施条件未確認』
「本人が条件を出したみたいに見える?」
「その可能性はあります」
「もう嫌です」
机に伏せる。
主様が近づいてきた。
「『今は勝手に始めちゃ駄目』は?」
「主様」
「はい」
「一覧へ『勝手に』は書けません」
「分かりやすいのに」
「誰が勝手かという問題が増えます」
「ああ……」
主様まで悩み始めた。
ノルンは二人を見てから、元の本人発言を開いた。
『必要なら面談してもいい』
短い。
曖昧。
誰が必要と判断するのかも、どの程度の必要性なのかも、面談の具体的条件も分からない。
だから、分からない部分を表示側が埋めない。
「一つにまとめなくてもいいのでは?」
セレナが顔を上げる。
「昨日も言ってましたね」
「はい。現場一覧には現在可能な行動だけを置いて、理由を知りたい時は詳細へ戻れるようにする」
「でも『面談開始不可』だけだと拒否に見える」
「では、行動の主体を管理側にします」
「管理側?」
ノルンは紙へ書いた。
『管理側判断のみでの面談開始:不可』
セレナが読む。
もう一度読む。
「……これなら、本人が面談拒否って意味にはなりにくい?」
「試さなければ分かりません」
「ですよね」
「それに、長いです」
「でも前より短い」
主様が横から見る。
「僕なら、『管理側だけで決めちゃ駄目』って読む」
「それなら意図に近いです」
「本人に聞けばいい?」
「具体的必要性が生じた場合に、本人へ改めて確認することになります。ただし、その確認結果が同意とは限りません」
「うん」
セレナがそのやり取りを書き留める。
「次、これ試してみます」
「まだ候補ですよ」
「分かってます」
セレナは少し笑った。
「最近、候補を候補のまま置いておくの上手くなった気がする」
主様がすぐ反応する。
「成長?」
「主様が言うと急に怪しく聞こえるのでやめてください」
「ひどい」
◇
午後三時を過ぎても、ノルンは古い保管層を開かなかった。
代わりに、九名の午後の記録を確認する。
ミレイアは市場から戻っていた。
買ったのは野菜と糸、それから小さな木製の留め具。
布袋へ付けるのかと思ったが、本人は別の衣服に使うつもりらしい。
『本人、接続関連の発言なし。』
その一文を見て、ノルンは少し眉を寄せた。
記録自体に問題があるわけではない。
現在の管理上、接続状態の変化があったか確認するために必要な情報ではある。
ただ、日常記録のたびに『接続の話をしなかった』と残し続ければ、接続を話さないこと自体が特別な状態のようにも見えてくる。
「セレナさん」
「はい?」
「これを見てもらえますか」
記録を共有する。
セレナが読む。
「接続関連の発言なし?」
「必要でしょうか」
「状態変化確認なら……でも、毎日書く必要はないですね」
「私もそう思います」
「何か聞いた結果、話さなかったわけじゃないですよね?」
「市場へ行っただけです」
「じゃあ、日常記録にはいらないか」
セレナが記録担当の分類を確認する。
「自動入力候補に入ってる」
「自動?」
「接続対象者の生活記録を作る時、状態確認欄が出るようになってます」
ノルンは画面を見る。
必須項目ではない。
しかし入力画面の下部に、
『接続関連発言:あり/なし/不明』
が表示されている。
「いつからです?」
「確認します」
セレナが履歴を開く。
「直接接触の前後に追加されてます。状態変化を拾いやすくするため」
「今も必要でしょうか」
「……毎日の生活記録全部には、いらないと思います」
主様が覗き込む。
「『なし』がいっぱい並ぶと、ミレイアがずっと接続のこと話してない人に見える?」
「そういう読み方もできます」
ノルンは答えた。
「本人は市場へ行って野菜と糸を買っただけです」
「そこに接続の話してないって付けると、急に接続の話になる」
「はい」
セレナは入力設定を閉じずに考える。
「消します?」
「すぐ全体から削除するのではなく、何の記録に必要か確認しましょう」
「接続判断に関係する面談とか、本人から関連話題が出た時とか?」
「その方が自然かもしれません」
「担当者にも聞きます」
「お願いします」
現在の制度も完成してはいない。
昔の資料を読んでいる時だけ、記録の問題が存在するわけではなかった。
◇
夕方。
フローラは窓際に立っていた。
空は朝より少し明るくなっている。
雲の切れ間から淡い光が落ち、庭の木々を照らしていた。
「晴れてきた」
後ろで侍女が答える。
「明日の天候とは別だそうですよ」
「分かってる」
フローラは苦笑する。
「ちょっと期待しただけ」
机の上には、小さな財布。
ハンカチ。
明日持っていく予定のものが並んでいる。
荷物は多くない。
財布を手に取り、中を確認する。
硬貨の枚数は昨日確認した。
今日もう一度数える必要はない。
そう思ったのに、指が動きかける。
フローラは財布を閉じた。
(足りるって確認したんだから、大丈夫)
もし予想より高ければ、その時考えればいい。
全部を先に知っておくことはできない。
それでも明日、行きたい気持ちは変わらなかった。
扉が叩かれる。
「フローラ」
母だった。
「明日の護衛担当から確認が来たわ」
「何?」
「雨の場合について。小雨なら予定通り、大雨なら延期を提案するそうよ。最終判断は明日の正午までに」
「正午?」
「午後一時半出発だから、それまでには決めないとね」
フローラは窓の外を見る。
「マリエにも伝えた方がいい?」
「明日の朝、天気を確認してからでいいでしょう。今夜のうちに不確かな連絡を増やす必要はないわ」
「そっか」
母が隣へ来る。
「心配?」
「少し」
「雨が?」
「雨も。でも……」
フローラは言葉を探した。
「ちゃんと楽しくできるかなって」
「何を?」
「マリエと出かけるの」
母はすぐには答えなかった。
フローラも窓の外を見たまま待つ。
「楽しくしなければいけないの?」
「え?」
「あなたはマリエに会いたくて出かけるのでしょう?」
「うん」
「それなら、会ってから考えればいいんじゃない?」
「……またそれ」
「またね」
母が笑う。
フローラもつられて笑った。
「お母様、最近そればっかり」
「あなたが先のことを全部決めようとするからでしょう」
「だって失敗したくないし」
口にしてから、胸の奥が少しだけ固くなった。
失敗。
その言葉には、以前ならもっと重いものがついてきた。
間違えれば怒られる。
期待された振る舞いから外れれば、誰かの顔色が変わる。
人と会うなら、相手が望む自分でいなければならない。
そんな感覚が完全に消えたわけではない。
母はフローラの表情を見ていたが、急いで言葉を挟まなかった。
少しして、フローラは自分から口を開く。
「……マリエは、私が何か失敗したら嫌いになるかな」
「それは私には分からないわ」
予想していなかった答えだった。
フローラが母を見る。
「大丈夫って言わないの?」
「マリエの気持ちを私が決めることはできないもの」
「そうだけど」
「でも、あなたが少し道を間違えたり、お菓子を落としたり、話が途切れたりしたくらいで、これまでの手紙まで全部なくなるとは私は思っていないわ」
母は穏やかに続けた。
「もし何か困ったことが起きたら、その時マリエと話せばいいでしょう」
「話す」
「ええ」
「謝るとか?」
「必要なら」
「必要じゃなかったら?」
「一緒に笑うこともあるかもしれないわね」
フローラは想像した。
菓子を落とす自分。
それを見たマリエ。
さすがに落としたくはない。
けれど、想像の中のマリエは怒っていなかった。
「……落とさないようにはする」
「それでいいと思うわ」
◇
管理室の終業時間が近づいた頃、ノルンは今日一度も古い保管層を開かなかったことに気づいた。
意識して我慢したわけではない。
現在の確認。
セレナの一覧試験。
ミレイアの生活記録欄。
それらを見ているうちに、一日が過ぎた。
「八年目、読まなかったね」
主様が言う。
「はい」
「後悔してる?」
ノルンは少し考えた。
「していません」
「明日は?」
「明日は明日です」
「フローラが出かける日だよね」
「予定通りなら」
「雨、どうかな」
「私に聞かれても分かりません」
「ノルン、天気にまで『分からない』って言うようになった」
「天気こそ分からないでしょう」
「確かに」
セレナが荷物をまとめながら振り返る。
「明日は私も一覧試験、少し休もうかな」
「なぜです?」
「今日、新しい案が一個できたから。すぐ次を重ねるより、結果待ってからにします」
「いいと思います」
「ノルンに言われる前に決めました」
「何も言っていません」
「それが大事なんです」
セレナは笑って帰っていった。
◇
夜。
フローラは寝る前に、もう一度だけ窓を開けた。
冷たい風が頬へ触れる。
雲はある。
星も少し見える。
これで明日の天気が分かるわけではない。
窓を閉める。
明日の服は決まっている。
靴も決まった。
財布もある。
護衛もいる。
マリエとの待ち合わせも決まっている。
雨がどうなるかだけは、まだ決まっていない。
それから、明日どんな話をするかも。
菓子がどんな味なのかも。
マリエとどれくらい笑うのかも。
何か失敗するのかも。
何も分からない。
(でも、行きたい)
その気持ちは、朝よりもはっきりしていた。
フローラはカーテンを閉め、ベッドへ入った。
◇
同じ頃。
ミレイアは棚に置いた空の布袋を手に取っていた。
今日買った木の留め具は、別の服へ付けるため机に置いてある。
だから袋へ入れるものはまだない。
紐を引く。
口が閉じる。
もう一度緩める。
「何か入れる?」
エリスが尋ねた。
「まだ」
「そっか」
それだけだった。
次回接続についても聞かない。
昨日と同じ『まだ決めていない』を、今日もう一度言わせる必要はなかった。
ミレイアは袋を棚へ戻し、明日使う糸を選び始めた。
◇
ルークの棚には、紙の鳥だけが残っていた。
昨日の落ち葉はもうない。
本人はその違いを説明していない。
誰も説明を求めなかった。
◇
古い保管層には、八年目の記録が残っている。
七年目の最後には、
『相互性:確認されず』
と書かれていた。
その先で何が変わるのか、まだノルンは知らない。
けれど今日は、それを知らないまま一日が終わった。
過去を調べなかったからといって、何も進まなかったわけではない。
現在の記録欄から、不要かもしれない確認項目が一つ見つかった。
セレナの一覧表示には、新しい候補が一つ生まれた。
フローラは明日の靴を決めた。
ミレイアは市場へ行った。
エリオは遊び方を変えた。
ルークは昨日だけ取っておくと言った葉を、本当に昨日だけで捨てた。
どれも大きな事件ではない。
だからといって、誰かの人生の外側にある出来事でもなかった。
明日の天気は、まだ分からない。
フローラの外出が予定通りできるかも、朝にならなければ決まらない。
八年目をいつ開くのかも、今は決めなくていい。
決まっていないことを、決まっていないまま残す。
その一方で、今決められることは、自分で決める。
明日の服。
歩きやすい靴。
会いたい友人。
そして、
(明日、行きたい)
フローラが眠る前に自分で確かめたその気持ちだけは、天気予報のどこにも書かれていなかった。




