第百十話 六年目の記録には、『互いに待っている』とはまだ書かれていませんでした
翌朝、ノルンが管理室へ入った時、窓の向こうには久しぶりに青空が広がっていた。
雨で洗われた屋根や石畳が朝の光を反射し、開けた窓から入ってくる空気にはまだわずかな湿り気が残っている。遠くでは荷車の車輪が石畳を転がる音がしており、数日前まで続いていた雨の気配は、道路脇に残った水たまりくらいにしか見当たらなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
返事をしたセレナは、今日は紙を掲げていなかった。
代わりに机の上へ三枚の試験用表示を並べ、その横に回答用紙を重ねている。
「増えましたね」
「昨日の案も試すので」
「三案ですか?」
「はい。今度は同じ人に全部見せるんじゃなくて、別々の人に一案ずつ見せます」
「比較条件を揃えるんですね」
「同じ人に全部見せると、前に見た表示から意味を補っちゃうかもしれないので」
ノルンは少し目を見開いた。
「いいと思います」
「お」
「何です?」
「すぐ褒めた」
「よいと思ったので」
「今日は何かいい日かもしれない」
「そこまで珍しいことではありません」
「昨日、主様は覚えてただけで褒められてたのに」
「私も褒められた」
少し離れた場所から主様が得意そうに言う。
「張り合わないでください」
「張り合ってません」
「私も」
二人の返事が重なった。
ノルンは小さく息を吐き、自分の席へ座った。
◇
九名の現在確認から始める。
ルークは朝食を終えたあと、屋外へ出ていた。
昨日まで雨で濡れていた庭も歩ける程度には乾いており、職員と一緒に短い散歩をしている。
『本人、雨後の水たまりを避けながら歩行。途中で小鳥を見つけ、しばらく観察。』
紙の鳥は棚の上。
過去名についての新しい質問なし。
接続についての新しい希望なし。
全九名との将来的な面会希望にも変更なし。
ミレイア。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
変化なし。
昨日はエリスと買い物へ行き、夕食には玉ねぎを使わないスープを作った。
「本当に玉ねぎ入れなかった」
主様が言う。
「本人がそう希望していましたから」
「美味しかった?」
「生活記録には『本人、おかわり一回』とあります」
「美味しかったんだ」
「そう推測することはできますが、本人の発言は残っていません」
「そこまで厳密にしなくても」
「今から古い記録を読むので、ちょうどいい練習です」
「練習にされた」
エリオ。
『次回外出:未定』
盤上遊戯は三人対局が定着しつつある。
『本人、勝敗集計について「もう数えなくていいだろ」と発言。』
主様が固まった。
「本人が言った」
「はい」
「じゃあ終わり?」
「何がです?」
「勝敗」
「本人が数えなくていいと言っています」
「……分かった」
妙に残念そうだった。
フローラ。
来週火曜日午後二時。
南区。
マリエの家の雑貨店で合流。
そこから蜂蜜の焼き菓子を扱う店へ行く予定。
護衛二名。
侍女一名。
大通り付近まで馬車。
本人用の小さな財布も準備済み。
外出時の服装も決まっている。
現時点の天気予報では大きな崩れは見込まれていないが、前日に再確認予定。
アーノルドからの接触なし。
他の管理対象にも重大な変化なし。
新規転生兆候なし。
世界側異常なし。
神々からの追加報告なし。
「九人、安定」
主様が言う。
「はい」
「今日は六年目?」
「通常業務が終わってからです」
「分かってた」
「なら聞かなくてもよかったのでは?」
「確認」
「毎日確認されると、そのたびに考えなければならなくなるかもしれませんよ」
ノルンが言うと、主様は一瞬黙った。
「リディアさんのやつ」
「覚えていましたか」
「うん」
「では、明日は聞かないでください」
「明日だけ?」
「まずは明日から」
セレナが横で笑っていた。
◇
午前の通常業務では、一覧表示の三案を別々の職員へ提示する試験が始まった。
対象となる本人発言は変えない。
『必要なら面談してもいい』
一案目。
『現在:面談予定なし』
『必要時:本人確認』
二案目。
『本人意思:条件詳細未確認』
『現在対応:面談予定なし』
三案目。
『本人発言のみでは面談開始判断を行わない』
『具体的必要性発生時に本人確認』
「三つ目、やっぱり長い」
セレナが言う。
「はい」
「でも一番誤読しにくそう」
「それも、試さなければ分かりません」
「ノルンさん、最近そればっかり」
「試験中ですから」
回答は午後まで待つ。
その場で正解を決めない。
本人の記録そのものにも変更を加えない。
試験表示は、あくまで表示側の問題として扱う。
そこまで確認して、午前の作業を終えた。
◇
昼前。
フローラは南区へ持っていく財布をもう一度開いていた。
昨日、母と一緒に一般的な菓子店の価格を確認した。
必要以上の金額は入れない。
けれど、自分の分と、場合によってはマリエの分を支払える程度は持つ。
硬貨を数えていると、向かいに座っていた母が微笑んだ。
「昨日も確認していたでしょう?」
「分かってるけど」
「不安?」
「ちょっと」
「何が?」
フローラは硬貨を一枚つまんだまま考える。
「お金を払う時」
「ええ」
「私、変なことしないかな」
「たとえば?」
「分かんないから不安なの」
母はすぐに笑わなかった。
「では、分からない時はマリエさんに聞けばいいんじゃない?」
「マリエに?」
「彼女は南区のお店に慣れているでしょう」
「でも、私が知らないって分かる」
「もう分かっていると思うけれど」
「……そっか」
公爵令嬢であることを隠して友人になったわけではない。
マリエはフローラがどんな家の娘なのか知っている。
護衛が二人ついてくることも、侍女が同行することも伝えてある。
(普通に見せなきゃって思わなくていいんだ)
少し肩の力が抜けた。
「分からなかったら聞く」
「それでいいと思うわ」
「お母様も一緒に来たことある?」
「南区へ?」
「うん」
「あるわよ」
「お菓子食べに?」
「それはないわね」
「じゃあ私の方が先だ」
フローラが少し得意そうに言う。
母は笑った。
「そうなるわね」
財布を閉じる。
火曜日まで、まだ数日ある。
今日これ以上準備しなければならないことはなかった。
◇
午後。
ノルンは古い保管層を開いた。
五年目末。
リディア本人が、
『待ってる、でいいと思う』
と答えた。
ただし、その意味も本人の言葉で残っている。
『ずっと考えてるって意味なら違う』
『前の人だったって分かったら、聞きたい。つながれるなら、その時に考える』
『それは向こうが決めるんじゃないの?』
同じ頃。
研究側では参照7について、
『特定対象探索信号仮説』
が検討され始めた。
ただし、リディアには伝えられていない。
参照7が一人かも分からない。
初回接続対象と同一かも分からない。
探索しているのかも分からない。
探索対象がリディアかも分からない。
五年目の年次要約では、
『初回接続対象との再接続希望を維持』
『参照7関連反応継続。能動反応可能性上昇』
が同じ文書に並んだ。
だが、
『互いに待っている』
とは書かれていない。
「六年目」
主様が隣へ座る。
今日は先に聞かなかった。
ノルンはそれに気づいたが、あえて触れなかった。
検索条件。
第一接続者。
六年目。
参照7。
待機。
探索。
再接続。
教育資料。
年次記録。
結果は二十一件。
「増えた」
主様が小さく言う。
「一年分ですから」
ノルンは最初の資料を開いた。
◇
六年目の春。
最初に出てきたのは研究資料ではなかった。
生活支援側の短い面談記録。
『本人、修繕工房の勤務を週三日から週四日へ変更するか相談。』
五年目末には、
『四日にするとたぶん嫌になる』
と言っていた。
半年も経たないうちに、自分から検討している。
「変わった」
主様が言う。
「はい」
『担当者:「以前は週三日を希望していました」』
『リディア:「前はね」』
『担当者:「今は四日にしたい?」』
『リディア:「試してみたい。嫌だったら三日に戻す」』
試験的に一か月。
結果。
『本人、週四日勤務を継続希望。』
理由。
『リディア:「慣れたから」』
「前の希望が嘘だったわけじゃない」
主様が言う。
「そうですね」
「その時は三日がよかった」
「はい」
「今は四日」
「はい」
「接続もこういうことある?」
「あるでしょうね」
「前の希望が残ってても、今は違うかもしれない」
「だから具体的な実施時には確認が必要です」
主様が頷く。
ノルンは次の記録へ進んだ。
春の終わり。
エマが結婚することになった。
生活記録には、リディアが祝いの衣服修繕を手伝ったことが残っている。
『本人、袖の刺繍を担当。二度やり直す。』
『エマ本人より「最初のでよかったのに」と言われ、「私が嫌」と返答。』
式当日。
『本人、式後の会食で泣く。』
『理由を尋ねられ「嬉しいから」と回答。』
翌日。
『本人、二日酔い。』
「果実酒?」
「量までは分かりません」
「前も飲んでた」
「川辺で少量飲んだ記録はありましたね」
接続の記述なし。
参照7の記述なし。
六年目も、まず生活から始まっていた。
◇
二件目。
研究側。
『参照7・反応構造再分類案』
A系列の反復は継続。
B系列も散発。
C系列は少ない。
さらに、既存のA系列内部に二種類の反復間隔がある可能性が指摘されている。
『A1仮区分』
『A2仮区分』
「また増えた」
「解析が進めば、分類が細かくなることはあります」
「後の人、絶対ややこしい」
「当時の人もややこしかったと思います」
資料には、
『細分化は主体数増加を意味しない』
と明記されている。
同一主体が複数の信号を使う可能性。
複数主体が類似信号を使う可能性。
変換処理上、一つの系列が分裂して見える可能性。
どれも残る。
そして、
『特定対象探索信号仮説』
は、
『継続検討』
だった。
確度は上がっていない。
「一年経っても?」
「数か月程度ですね」
「変わってない」
「観測が増えれば必ず答えが出るわけではありません」
新しい反応がある。
情報量は増える。
しかし、候補も増える。
分からないことが細かくなるだけの場合もある。
資料末尾。
『現段階で「探索」「呼びかけ」「自己識別」等の機能語を対外説明に用いない。』
「まだ駄目」
「はい」
◇
三件目。
教育担当から研究班への問い合わせ。
『前年度研修で、参照7の可聴化例が名称と誤解された件について、今後の教材掲載方針を確認したい。』
研究班回答。
『原則として可聴化文字表記を外し、波形図のみとする案を推奨。』
「消すの?」
「文字を、ですね」
『理由:人間言語に近似した表記は、音価・意味・主体の確定を過剰に印象づける。』
教育担当側の返答。
『波形図のみでは非専門職員の理解が困難。音声様反応が存在すること自体を伝える教育目的が損なわれる。』
「揉めてる」
「目的が違いますから」
研究側は誤解を避けたい。
教育側は理解できる形にしたい。
どちらかが雑なのではない。
守ろうとしているものが違う。
合同協議。
『案一:文字表記廃止』
『案二:文字表記継続+警告強化』
『案三:文字表記を「音節近似例」から「聴取印象例」へ名称変更』
最終採用。
『案三』
理由。
『専門外職員への説明可能性を維持しつつ、原音の文字起こしとの誤解を低減するため。』
新しい表記。
『聴取印象例:「ナ」』
『聴取印象例:「ラ」』
その上に大きく、
『言語・名称・呼称を示さない』
とある。
「名前じゃないって、まだ大きい」
「はい」
「でもナとラは残った」
「教育上、音声様反応があることを伝えるためですね」
「消した方が安全だった?」
ノルンはすぐに答えなかった。
「分かりません」
「珍しい」
「文字を消せば誤解は減るかもしれません。しかし、実際に音声様の特徴が観測されていたことも伝わりにくくなる。どちらが正しいかは、教育目的によります」
「安全だけなら?」
「何に対する安全かを決めないと答えられません」
「名前だって思い込む危険」
「それだけなら文字を出さない方が有利かもしれません」
「でも情報が減る」
「はい」
何を見せるか。
何を見せないか。
それ自体が、後の理解を変える。
◇
昼休憩に入る直前、セレナから試験の途中結果が届いた。
三案のうち、一案目と二案目はすでに回答が揃っている。
一案目。
『現在:面談予定なし』
『必要時:本人確認』
五人中。
正確理解三。
『本人が面談を望んでいない』と誤読二。
二案目。
『本人意思:条件詳細未確認』
『現在対応:面談予定なし』
五人中。
正確理解四。
一人は、
『本人意思が未確認なら、面談してから確認すればよい』
と回答している。
「面談して確認……」
ノルンが呟く。
「面談していいか確認するために面談する」
セレナが額を押さえる。
「循環しましたね」
「どうすればいいんですか、これ」
「三案目を待ちましょう」
「三案目が全員正解だったら?」
「それでも、別の条件では誤読するかもしれません」
「終わらない」
「人が読むものですから」
「それ言ったら全部終わらないですよ」
「だから、誤読が起きた時に直せる仕組みも必要なのでは?」
セレナの手が止まる。
「表示だけで完全に防ぐんじゃなくて?」
「完全に防げるなら理想ですが」
「無理だった時に、本人の意思まで変わったことにならないようにする」
「はい」
セレナはしばらく考えていた。
「それ、試験項目に入れます」
「何をです?」
「誤読された時に、どこまで戻れば元の本人発言にたどり着けるか」
ノルンは頷いた。
「いいと思います」
「今日二回目」
「何がです?」
「すぐ褒めた」
「数えなくていいですよ」
「エリオみたいに?」
「そうです」
◇
午後。
六年目の四件目。
リディア本人からの接続関連質問だった。
時期は夏。
前回、自分から状況を聞いてからおよそ九か月。
『リディア:「最近、何か変わった?」』
担当者。
『「反応観測は続いています。初回接続対象と高い確度で同一と判断できる段階には至っていません」』
『リディア:「つながれる?」』
『担当者:「現時点では直接接続可能性なし」』
『リディア:「じゃあ前と同じ?」』
『担当者:「あなたへの通知条件という意味なら、該当する変化はありません」』
リディアは、
『「分かった」』
と答えた。
だが今回は、そこで終わらない。
『リディア:「向こうから来てるのは増えた?」』
担当者が確認する。
『「『向こう』を初回接続対象という意味で使っていますか」』
『リディア:「うん」』
『担当者:「初回接続対象からの反応と確認できていないため、増えたかは答えられません」』
沈黙。
『リディア:「あ、そっか」』
主様が小さく声を漏らした。
「リディアさんもつなげた」
「一瞬、そういう前提で尋ねていますね」
『リディア:「反応は増えてるけど、前の人かは分かんない?」』
『担当者:「はい」』
『リディア:「じゃあそれでいい」』
さらに。
『担当者:「反応の詳細を聞きますか」』
『リディア:「聞かない」』
『担当者:「理由を記録しますか」』
『リディア:「聞いても前の人か分かんないなら、今はいい」』
本人の通知条件変更なし。
詳細聴取なし。
「間違えたままじゃなかった」
主様が言う。
「担当者が確認しましたから」
「もし確認しなかったら?」
「『向こうから来ている反応が増えた』という前提で会話が進んだかもしれません」
「怖い」
「日常会話なら流してしまいそうな部分ですね」
リディア自身も、説明を受ければすぐ修正している。
彼女が何かを強く信じ込んでいた証拠ではない。
むしろ、人が自然に省略して話した時に生じる小さな飛躍だった。
反応がある。
前の相手を待っている。
だから、
『向こうから来てる』
と言ってしまう。
担当者は、そこを止めた。
「こういうのも後に残る?」
主様が尋ねる。
「記録自体は残っています」
「要約では?」
「確認します」
◇
同じ面談の要約。
『本人より反応状況について自主確認あり。』
『高確度同一性・直接接続可能性ともに未成立と説明。』
『本人、詳細聴取を希望せず。通知条件変更なし。』
そこには、
『向こうから来てるのは増えた?』
も、
『初回接続対象とは未確認』
という会話上の修正も残っていない。
「消えた」
主様が言う。
「要約ですから」
「大事じゃない?」
「何を目的とした要約かによります」
「通知条件の確認なら、これで足りる?」
「おそらく」
「でも後からリディアさんが何を思ってたか調べるなら足りない」
「はい」
原記録が残っている限り、戻ることはできる。
しかし、要約だけを読み続ければ見えない。
それは改竄ではない。
必要な情報を短くした結果だった。
◇
六年目の秋。
五件目は研究側の記録だった。
参照7のA1仮区分で、これまでより長い反応が観測されている。
『連続時間四十二秒』
『反復要素七回』
『無刺激状態で発生』
『一部に初回接続時反応との特徴類似』
類似度は、過去最高。
ただし高確度同一判定の基準には届かない。
「近づいた?」
主様が聞く。
「数値上は、これまでより類似しています」
「リディアさんに知らせる?」
ノルンは通知判断記録を開いた。
『検討事項:本人通知条件「初回接続対象と高い確度で同一と判断できる反応」に該当するか。』
研究班。
『高確度基準未達。』
生活支援側。
『本人は過去、低確度反応の逐次通知を望まず。本人からの直近確認時にも詳細聴取を希望していない。』
判断。
『現時点では通知条件未達。通知しない。』
「知らせない」
「はい」
だが、反対意見も残っていた。
『過去最高類似であること自体を本人へ伝えるべきではないか。本人が聴取を選択する機会を失う可能性。』
それに対する意見。
『「過去最高」という相対評価は、高確度同一性を意味しないにもかかわらず、本人に「前の相手へ近づいた」と期待させる可能性がある。』
別の意見。
『本人が「前の人だと分かるようになったら」と条件設定したのは、専門判定負担を管理側へ委ねる意図を含む。低確度段階ごとに選択を返すことは、過去に本人が避けた負担を再導入する。』
主様がゆっくり読む。
「教えないのも選択肢を減らす」
「はい」
「教えるのも負担になる」
「はい」
「どっちが正しい?」
「当時の判断は通知しない、でした」
「ノルンは?」
「今の私が結果を知った状態で簡単に判定するべきではありません」
「結果、まだ知らないじゃん」
「後世で何らかの物語になったことは知っています。それだけでも影響します」
ノルンは会議記録の結論を見る。
『本人設定を優先し、通知見送り。高確度基準到達または直接接続可能性発生時に通知。』
そのまま採用されている。
◇
六年目の冬。
リディアの生活には、また別の変化があった。
友人のエマが居住区域を離れることになった。
結婚相手の仕事の都合で、隣接地域へ移る。
完全に会えなくなる距離ではない。
ただ、これまでのように仕事帰りに気軽に会える距離でもない。
『本人、送別の食事会を企画。』
『参加者六名。』
『本人、エマへ修繕用の小さな裁縫箱を贈る。』
別れの日。
『本人、見送り後に泣く。』
担当者との短い面談。
『担当者:「寂しい?」』
『リディア:「寂しい」』
『担当者:「会いに行けます」』
『リディア:「分かってる。でも今までと同じじゃないから」』
その言葉に、ノルンは少しだけ目を止めた。
『今までと同じじゃない』
それは接続の話ではない。
友人の話だ。
誰かとの距離が変わること。
会えなくなるわけではないのに、以前と同じではなくなること。
リディアはその寂しさを、接続へ結びつけてはいない。
「ここから昔の相手を思い出した、とかない?」
主様が尋ねる。
「ありません」
「物語ならありそう」
「だから作りません」
「はい」
翌週。
リディアは普通に工房へ行っている。
エマから手紙が届く。
返事を書く。
ニーナと食事をする。
週四日の仕事も続ける。
寂しさは、生活の中に残った。
しかし、それがすべてにはならなかった。
◇
夕方。
セレナの三案目の試験結果が届いた。
『本人発言のみでは面談開始判断を行わない』
『具体的必要性発生時に本人確認』
五人中。
正確理解五。
「全員」
セレナが少し嬉しそうに言う。
「今回は、ですね」
「言うと思った」
「ですが、結果はよいと思います」
「長いけど」
「長いですね」
「一覧なのに」
「はい」
二人で画面を見る。
「短くして間違われるより、少し長くてもこっち?」
セレナが尋ねる。
「今回の一例だけで全項目へ適用するのは早いと思います」
「ですよね」
「ただ、本人意思と管理側の行動条件を一つの短い状態語に圧縮しない方がよい、という材料にはなります」
「『面談予定なし』だけだと、本人が嫌がってるように見えた」
「はい」
「昔の『再接続希望を維持』も、短くすると色々落ちた」
ノルンはセレナを見る。
「古い記録と今の試験を同じ問題だと決める必要はありません」
「分かってます。ただ、似た危険はある?」
「それなら、そうですね」
セレナは試験評価へ書き込む。
『短い状態表示のみでは、状態の理由を本人意思として補完される誤読を確認。』
『行動条件を文章で明示した案では今回誤読なし。ただし可読性低下あり。別条件で継続試験。』
『誤読発生時に原発言・詳細条件へ戻れる構造も評価対象とする。』
「保存」
「はい」
完成ではない。
だが、今までより一つ先へ進んだ。
◇
業務終了前。
ノルンは六年目の年次要約を開いた。
「もう一年終わる?」
主様が聞く。
「記録を全部読んだわけではありません。今日は全体要約を確認するだけです」
「飛ばしたことある?」
「あります。必要なら後で戻ります」
六年目年次要約。
『生活:就労週四日へ変更。本人希望により継続。友人一名転居。交流継続。生活状態概ね安定。』
『接続:本人から一度、自主的状況確認あり。高確度同一性・直接接続可能性未成立を説明。本人、詳細聴取希望なし。通知条件変更なし。』
『本人再接続希望:維持。』
『参照7:反応継続。A系列内細分化仮説。初回接続時反応との類似度上昇例あり。ただし高確度同一判定未達。』
『探索信号仮説:継続検討。証拠不足。本人通知対象外。』
ここまでは、今日確認した内容と大きく違わない。
その下。
『教育:参照7可聴化例について「聴取印象例」表記へ変更。名称・言語との誤認防止注記を強化。』
さらに。
『次年度検討事項:第一接続者の長期希望状態と、外在側能動反応仮説の関係を研究上整理する必要あり。』
ノルンの指が止まった。
「関係」
主様が読む。
「はい」
その下には補足がある。
『現時点で両者の因果・相互性を示す証拠なし。』
「まだ止めてる」
「はい」
『本人が再接続可能性を保持していることと、参照7が能動的反応を継続している可能性は、それぞれ独立して記録された事象である。』
『後者の主体・対象未確定につき、「相互待機」「相互探索」等の表現は使用しない。』
主様が声を出さなくなった。
ノルンも、その一文を二度読んだ。
『「相互待機」「相互探索」等の表現は使用しない。』
「言葉が出た」
主様がようやく言う。
「禁止するために、ですね」
「誰かが考えた?」
「少なくとも、そう表現される可能性を認識していたのでしょう」
「でも使うなって」
「はい」
「六年目でも、まだ」
「はい」
ここまで明確に書かれている。
リディアは『待っている』と自分を表現した。
参照7には能動反応の可能性がある。
探索信号仮説もある。
しかし、それらをつないで、
『互いに待っている』
とは呼ばない。
当時の管理側自身が、そう線を引いていた。
◇
「じゃあ、いつ消えるんだろ」
主様が言った。
「何がです?」
「その注意」
ノルンは年次要約を見る。
『相互待機』『相互探索』等の表現は使用しない。
「注意が消えたから後の表現になったとは限りません」
「別の証拠が出たかもしれない?」
「はい」
「本当に互いだって分かったとか」
「可能性としてはあります」
「逆に、短くされただけかもしれない」
「それも候補です」
「誰かが間違えた?」
「それも現時点では否定できません」
「いっぱいある」
「だから、先に決めません」
ノルンは調査メモを開いた。
『六年目:リディアの生活継続。就労週四日へ本人希望で変更。過去の週三日希望は当時の意思として有効だったが、後に本人自身が変更。友人エマ転居。生活上の喪失・寂しさを接続問題へ自動関連づけしない。』
『本人から約九か月ぶりに反応状況を自主確認。「向こうから来てるのは増えた?」と初回接続対象由来を一時的に前提とした発言あり。担当者が「初回接続対象とは未確認」と修正し、本人も理解。詳細聴取は希望せず、通知条件維持。』
『参照7:A系列細分化仮説。過去最高の初回接続時類似例が出るが、高確度同一性基準未達。通知するか議論されたものの、本人が低確度逐次通知を望まないこと、専門判定負担を管理側へ委ねた経緯を踏まえ通知見送り。』
『研究上の「特定対象探索信号仮説」は継続するが、証拠不足。主体・対象・意味未確定。』
『教育側では音声様反応の文字表記を廃止する案も検討されたが、非専門職への説明可能性との両立から「聴取印象例」として「ナ」「ラ」を維持。名称・言語ではない旨の警告を強化。』
『六年目年次要約で初めて「相互待機」「相互探索」という語が、使用禁止表現として確認される。本人の長期希望状態と参照7能動反応仮説は独立事象であり、因果・相互性を示す証拠なしと明記。』
最後に、
『「相互待機」という後世表現が成立するには、この明示的な非連結原則がどのように変化・省略・再解釈されたかを確認する必要あり。』
保存した。
「明日は七年目?」
主様が尋ねかけて、途中で口を閉じた。
ノルンは主様を見る。
「何です?」
「毎日聞かない」
「覚えていましたね」
「褒めて」
「よくできました」
「やった」
セレナが少し離れた席から笑っていた。
◇
夕方。
ミレイアは窓辺で小さな布袋を縫っていた。
何か特別な用途があるわけではない。
余っていた布を使って、エリスから教わりながら作っているだけだった。
「曲がった」
「少しね」
「やり直した方がいい?」
「ミレイアが気になるなら」
針を止める。
縫い目を見る。
少し曲がっている。
でも袋として使えないほどではない。
(どうしよう)
しばらく考えてから、ミレイアは首を振った。
「このままでいい」
「分かった」
エリスは直さなかった。
ミレイアも縫い目をほどかなかった。
その後、接続の話は出なかった。
◇
ルークは夕食前、棚の上の紙の鳥を一度手に取った。
職員が、
「捨てる?」
とは聞かなかった。
以前、本人が『まだ置いとく』と答えているからだ。
ルークは翼の折れ目を指でなぞり、少し潰れていた部分を直した。
「飛ばすの?」
近くにいた職員が尋ねる。
「飛ばないよ、これ」
「そうだね」
「置いとく」
元の棚へ戻す。
それだけだった。
紙の鳥に誰かの意味を重ねる者はいない。
少なくとも、今は。
◇
古い六年目の記録にも、まだ答えはなかった。
リディアは生活している。
働く日を増やした。
友人の結婚を祝い、別れを寂しがった。
九か月ぶりに、自分から接続の状況を尋ねた。
ほんの一瞬、
『向こうから来てるのは増えた?』
と、観測されている反応を前の相手のものとして話した。
けれど担当者が、
『初回接続対象からの反応とは確認できていない』
と伝えると、リディアは理解した。
そのまま物語にはしなかった。
一方で参照7の反応は、少しだけ初回接続時の特徴へ近づいた。
過去最高の類似。
それでも、高確度ではない。
管理側はリディアへ知らせなかった。
研究者は探索信号の可能性を考えた。
それでも、探索だとは決めなかった。
教育担当者は『ナ』と『ラ』を残した。
それでも、名前ではないと大きく書いた。
そして六年目の終わり。
誰かが、後に使われることになる言葉をすでに思いついていた。
『相互待機』
『相互探索』
ただし、その言葉は結論として書かれたのではない。
『使わない』
と書くために記録された。
リディアが待っていることと。
参照7が何らかの能動反応を続けているかもしれないこと。
その二つを一つの物語にしてはいけない。
六年目の人々は、まだそう判断していた。
だからノルンは、その先を急がない。
いつか新しい証拠が現れ、本当に線を引けるようになったのかもしれない。
注意書きだけが短くなり、いつの間にか線が引かれたように見えるようになったのかもしれない。
あるいは、まったく別の経緯があるのかもしれない。
今はまだ、どれでもない。
六年目の最後の頁には、はっきりと残っている。
『本人の長期希望状態と参照7能動反応仮説は独立事象。』
その一文を消さないまま、次の年へ進まなければならなかった。




