第百九話 『待っている』と答えた日にも、リディアは誰かの返事を要求していませんでした
翌朝には雨が上がっていた。
雲の切れ間から淡い光が差し、昨夜まで濡れていた石畳にはところどころ小さな水たまりが残っている。管理室の窓を少し開けると、湿った空気に混じって冷たい風が入り込み、机の上に置かれていた申し送り用紙の端を揺らした。
「おはようございます」
「おはようございます」
ノルンが席へ着くと、セレナは昨日の一覧表示案をすでに開いていた。
ただし、今日は新しい案を作っていない。
画面に表示されているのは、試験協力者八名の回答結果だった。
「今日は直さないんですか?」
「直しますけど、その前にもう一回見てました」
「何をです?」
「間違えた二人が、どこから間違えたのか」
セレナが画面を少し傾ける。
『現在:面談予定なし』
『面談が必要になった場合:本人確認』
この表示を、
『本人が現在面談を希望していない』
と解釈した二人。
「本人の発言、詳細欄にはあるんですよ」
『必要なら面談してもいい』
「でも二人とも詳細欄を開いていませんでした」
「一覧だけで判断したんですね」
「はい」
ノルンは回答記録を見る。
一人は時間がなかったと答えている。
もう一人は、
『一覧で十分だと思った』
と記載していた。
「一覧を作る以上、当然起こりますね」
「ですよね」
「一覧は詳細を読む入口のつもりでも、読む側が一覧を結論として扱う可能性がある」
「だからって全部一覧に入れると長くなる」
「昨日に戻りましたね」
「戻りました」
二人で少し黙る。
主様が近くから覗き込んだ。
「一覧をなくす?」
「極端ですね」
「だって難しいんでしょ?」
「難しいからなくす、ではありません」
「じゃあ残す」
「それもまだ決めていません」
「難しい」
「そうなんです」
セレナが深く頷いた。
ノルンは椅子へ座り直す。
「今日すぐ新しい形にしなくてもいいでしょう」
「またそれ」
「試験結果が一つ増えました。まず残してください」
「はい」
「本人の状態が変わったわけではないことも」
「分かってます」
セレナは評価欄へ入力を始めた。
完成しないままでも、試験は進んでいる。
少なくとも今は、それでよかった。
◇
九名の朝を確認する。
ルークは朝食後、共有区域の窓辺にいた。
雨上がりの庭を眺めていたらしく、職員に外へ出るか尋ねられて、
『まだ濡れてるからいい』
と答えている。
紙の鳥は棚の上。
過去名についての新しい質問なし。
接続についての新しい希望なし。
全九名との将来的な面会希望にも変更なし。
ミレイア。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
変化なし。
昨日は接続について一度も話していない。
今日はエリスと買い物へ行く予定がある。居住区域内の食料品店で、夕食に使うものを選ぶだけの外出だった。
エリオ。
『次回外出:未定』
盤上遊戯の勝敗は、昨日から記録が複雑になっていた。
『エリオ三勝三敗。途中参加者を含む三人対局二回。個人成績集計なし。』
主様が画面を見て眉を寄せる。
「分からなくなった」
「何がです?」
「勝ち越してるか」
「もう追わなくていいのでは?」
「ここまで見たのに」
「本人たちは楽しんでいるようです」
「それは分かる」
「なら十分でしょう」
エリオの記録には、
『本人、三人対局について「これ別のゲームみたいになるな」と笑う。翌日も希望。』
とあった。
外出についての話はない。
フローラ。
来週火曜日午後二時、南区でマリエと会う予定。
変更なし。
今日は外出に持っていく小さな財布について母と相談している。
公爵家の使用人がすべて支払う形ではなく、自分で菓子代を払いたいらしい。
『本人:「マリエと食べに行くのに、後ろの人が全部払ったら変な感じがする」』
母は反対していない。
ただし、金額感覚を確認するため、南区の一般的な菓子店の価格帯を一緒に調べることになっている。
「いいですね」
ノルンが呟く。
「何が?」
「本人が気になるところを準備できています」
「護衛は?」
「予定通りです」
「普通の町の子にはならない」
「なる必要がありませんから」
アーノルドからの接触なし。
残る管理対象にも重大な変化なし。
新規転生兆候なし。
世界側異常なし。
神々からの新しい報告もない。
最初に知らされた『一人』と、現在管理している九名の食い違いについても、新しい情報はなかった。
ノルンは画面を閉じる。
「今日も九人」
主様が言った。
「はい」
「一人じゃない」
「はい」
「神様たち、いつ分かるんだろ」
「それをこちらに聞かれても困ります」
「気になる」
「私もです」
ただし、古い接続記録とその問題を結びつける根拠はない。
気になるものが二つあるからといって、同じ答えへ続くとは限らなかった。
◇
午前の通常業務を終えたあと、ノルンは古い保管層を開いた。
昨日確認したのは、リディアの五年目の生活。
日当たりのいい部屋への転居。
修繕工房での仕事。
エマとニーナという友人。
川辺への外出。
体調不良。
食事。
別れ。
そして、一度だけ自分から反応について尋ねたこと。
『前の人かもしれないの?』
管理側は、
『分からない』
と答えた。
リディアは詳細を聞くか考え、
『じゃあ今はいい』
と決めた。
通知条件は変えなかった。
『前の人だって分かるようになったら教えて』
そのまま。
「今日はどっち?」
主様が隣へ来る。
「どっちとは?」
「リディアさんの生活か、反応の研究」
「両方を少しずつ確認します」
「並べないんじゃなかった?」
「必要な比較まで禁止したわけではありません。昨日やめたのは、すべての日付を常に対にして読むことです」
「今日は必要?」
「六年目へ進む前に、五年目末の本人面談があります」
「接続の?」
「生活全般の定期面談です」
ノルンは該当記録を開いた。
◇
五年目の終わり。
定期生活面談。
面談項目は多かった。
住居。
仕事。
体調。
人間関係。
今後やってみたいこと。
生活上の困りごと。
管理支援への要望。
接続に関する項目は、その中の一つだった。
最初に住居。
『担当者:「今の部屋で困っていることはありますか」』
『リディア:「冬、窓の近くが寒い」』
『担当者:「暖房設備の調整を申請しますか」』
『リディア:「隙間埋める方が先でいいと思う」』
仕事。
『担当者:「工房は続けたいですか」』
『リディア:「今は続ける」』
『担当者:「勤務日数は?」』
『リディア:「三日でいい。四日にするとたぶん嫌になる」』
友人関係。
『担当者:「生活上、頼れる相手はいますか」』
『リディア:「エマとニーナ。あと工房の人」』
『担当者:「困った時に相談できますか」』
『リディア:「内容による」』
主様が笑う。
「内容による」
「普通の答えでは?」
「リディアさん、何でも『はい』って言わない」
「それはそうですね」
健康。
大きな問題なし。
頭痛が時折ある。
睡眠は概ね安定。
食欲も問題なし。
そして接続関連。
『担当者:「接続について、現在の希望に変更はありますか」』
ノルンの視線が止まった。
この質問が、どのような経緯で置かれているか確認する。
毎月の確認ではない。
生活全般の年次面談項目。
リディアが以前嫌がった『毎回、まだ続けたいか聞かれる』形式とは異なり、年一回の生活支援全体の見直しとして実施されていた。
『リディア:「今のままでいい」』
『担当者:「現在は、初回接続対象と高い確度で同一と判断できる反応、または直接接続可能性が生じた場合に通知する設定です」』
『リディア:「うん」』
『担当者:「変更なしでよいですか」』
『リディア:「うん」』
そこまでなら、既知の内容だった。
だが担当者は、もう一つ尋ねている。
『担当者:「初回接続の相手について、現在どのように考えていますか。回答したくなければ回答不要です」』
リディアの返答まで、十二秒。
『リディア:「どうって?」』
『担当者:「今も再接続を望んでいるか、今は望んでいないか、分からないか。記録上、あなた自身の現在の希望として残す必要があるかを確認しています」』
さらに沈黙。
二十八秒。
『リディア:「……待ってる、でいいと思う」』
主様が息を止めたように黙った。
ノルンも次へ進まず、まず前後を確認した。
『担当者:「『待っている』と記録してよいですか」』
『リディア:「うん」』
『担当者:「どういう意味で使っていますか。必要なら、そのまま言葉だけ残すこともできます」』
『リディア:「前の人だったって分かったら、聞きたい。つながれるなら、その時に考える。今はそれで待ってる」』
担当者。
『「相手からの反応を継続的に期待している、という意味ですか」』
リディア。
『「ずっと考えてるって意味なら違う」』
ノルンの指が止まる。
主様が小さく、
「書いてある」
と言った。
『リディア:「仕事してる時は仕事してるし、エマといる時は普通に話してるし。毎日来ないかなって見てるわけじゃない」』
『担当者:「では、『待っている』という表現が誤解される可能性があります。別の表現にしますか」』
『リディア:「でも、来たら知りたいんだから、待ってるでいいんじゃない?」』
『担当者:「あなたにとっては、日常生活を送りながら、条件を満たす反応があれば知りたい状態ですか」』
『リディア:「うん」』
そして。
『担当者:「相手にも応答や再接続を求めていますか」』
リディアの返答。
『「それは向こうが決めるんじゃないの?」』
管理室が静かになった。
窓の外で、屋根から残った雨水が一滴落ちる。
『担当者:「相手が再接続を望まない場合は?」』
『リディア:「嫌だけど、しょうがない」』
『担当者:「相手が反応できない場合は?」』
『リディア:「分かんない。できないのか、したくないのかも分かんないんでしょ?」』
『担当者:「現状では区別できません」』
『リディア:「じゃあ、勝手に決めない」』
その後に正式記録。
『本人現在表現:「待っている」』
『本人定義:初回接続対象との高確度同一反応または直接接続可能性が生じた場合に知り、その時点で自身の対応を検討したい。日常的・継続的な反応監視を本人が行う意図なし。』
『相手側への応答義務・再接続要求を本人は表明せず。「それは向こうが決める」と回答。』
『相手側無反応について、拒否・不能その他の理由を推定しない意向。』
ノルンはしばらく画面を動かさなかった。
◇
「これが『待っている』なんだ」
主様がようやく言った。
「五年目末のリディアさんが使った意味は、そう記録されています」
「後の『十三年間待ち続けた』と同じ?」
「同じとは言えません」
「でも元になったかもしれない?」
「可能性はあります。ただし、まだ確認していません」
「待ってるって本人が言ったのは本当」
「はい」
「でも毎日ずっと考えてる意味じゃないって、自分で言ってる」
「はい」
「相手にも来てって言ってない」
「少なくともこの面談では」
「向こうが決める」
「はい」
主様は少し黙った。
「後の話、嘘じゃないんだね」
ノルンはすぐには答えなかった。
「どの後世資料を指しているかによります」
「十三年間待った人」
「『待っている』という本人発言は実在しました」
「うん」
「ただ、それを十三年間途切れない一つの心理状態として描いたなら、少なくともこの記録だけでは支えられません」
「待ってるの意味も違うかもしれない」
「そうですね」
「嘘じゃないけど、そのままでもない」
「そういう可能性があります」
ノルンは面談記録を保存候補へ入れた。
これは重要だった。
後世が完全に作った言葉ではない。
本人が言っている。
『待ってる』
だからこそ、危うい。
本人の言葉であることが、後の解釈まで正しいことを保証してしまいそうになる。
(同じ言葉でも、意味まで同じとは限りません)
ノルンは心の中でそう整理し、次の資料を開く前に一度席を立った。
◇
昼前、フローラは母と一緒に南区の菓子店の価格を調べていた。
使用人に聞けばすぐ分かることではあったが、母はあえて簡単な一覧を用意させ、フローラ自身に見せた。
「一つでこのくらい?」
「店によるけれど、おおよそね」
「思ってたより安い」
「あなたが普段屋敷で口にしている菓子とは、材料も作り方も違うでしょうから」
フローラは小さな財布を開く。
母から渡された硬貨を一枚ずつ確かめた。
「これなら、私とマリエの分を払っても大丈夫?」
「金額としては十分よ」
「私が誘われたんだから、マリエが払うって言ったらどうする?」
「その時に二人で決めればいいでしょう」
「でも、私の方がお金持ってる」
「それだけで必ずあなたが払うことにすると、マリエさんが自分で払いたいと思っていた時に困るかもしれないわね」
フローラは財布を見つめた。
(じゃあ、先に全部決めない方がいいのかな)
「お店で聞けばいい?」
「そうね」
「私が払いたいって言うのは変じゃない?」
「変ではないわ。ただ、相手がどうしたいかも聞けばいいでしょう」
「分かった」
フローラは硬貨を財布へ戻した。
その後、少し考えてから別のことを尋ねる。
「護衛の人たちの分は?」
「勤務中だから、必要ならこちらで用意します」
「侍女は?」
「同じよ」
「じゃあ私が気にするのは、私とマリエだけ?」
「まずはそれでいいでしょう」
フローラは頷いた。
公爵家の外へ出ること自体は初めてではない。
けれど、同年代の友人と菓子を食べに行くために、自分で財布の中身を確認するのは初めてだった。
それが少しだけ嬉しかった。
◇
昼休憩のあと、ノルンは五年目末の研究側記録へ移った。
リディア本人の『待っている』という言葉を読んだ直後だからこそ、先に研究資料の作成日を確認する。
面談より十七日前。
「前だ」
主様が言う。
「はい」
「じゃあ研究側は『待ってる』ってまだ知らない」
「少なくともこの資料作成時点では、後の本人発言を知りようがありません」
資料名。
『参照7・能動反応仮説再評価』
A系列の反復頻度。
出現位置。
時間間隔。
環境要因との相関。
既知の接続刺激との比較。
解析結果は、前年より少し進んでいた。
『自然環境由来のみで説明する可能性は低下。』
『何らかの能動的または周期的構造を持つ可能性、中程度。』
ただし、
『主体数不明』
『意味不明』
『送信対象不明』
『初回接続対象との同一性不明』
は変わらない。
さらに新しい検討項目。
『特定対象探索信号仮説』
「探索」
主様が画面へ近づく。
「はい」
仮説内容。
『反復構造が接続成立後の対象探索または接続先確認を目的とする可能性。』
すぐ下。
『支持根拠:初回接続記録の一部波形特徴との弱い類似、複数時点での反復、無刺激時の自発発生。』
反対根拠。
『初回接続対象との同一性未確認。』
『探索対象が第一接続者である証拠なし。』
『反復構造が探索機能を持つ証拠なし。』
『複数主体混在可能性。』
『人間側の「探している」という概念を外在反応へ過剰投影する危険。』
「ちゃんと反対もある」
「はい」
会議結論。
『研究仮説として保留。本人通知に用いない。教育資料への掲載見送り。』
「見せなかった」
「そうですね」
「リディアさんが『待ってる』って言う前に、向こうは『探してるかも』って考えてた」
「研究者の一部が仮説として検討していました」
「でもリディアさんは知らない」
「はい」
「じゃあ『互いに』にはまだならない」
「その通りです」
リディアが待っている。
参照7が探索しているかもしれない。
二つを後から並べれば、
『互いに探し、待っていた』
という形を作ることはできる。
しかし当時、その二つは別々だった。
一方は本人が自分の状態を表した言葉。
もう一方は本人へ伝えられていない研究仮説。
しかも、参照7が初回接続相手かすら分からない。
「並べると危ない」
主様が言った。
「昨日の話を覚えていましたね」
「覚えてるよ」
「では、そのまま覚えていてください」
「褒めないの?」
「今日は褒めます。よく覚えていました」
「やった」
ノルンは小さく笑った。
◇
午後。
ミレイアはエリスと買い物へ出た。
雨上がりの通りにはまだ湿った匂いが残り、軒下から時折水滴が落ちてくる。食料品店の前には野菜の箱が並び、店員が濡れた地面を布で拭いていた。
「何にする?」
エリスが尋ねる。
「夕飯?」
「そう」
ミレイアは野菜を眺める。
「スープがいい」
「何の?」
「玉ねぎ以外」
エリスが笑った。
「まだ気にしてるの?」
「だって笑ったじゃん」
「ごめんなさい」
「絶対思ってない」
「少しは思ってるわ」
「少しなんだ」
二人で笑う。
結局、じゃがいもと豆、葉野菜を選んだ。
帰り道。
接続の話はしなかった。
ミレイアも、話さなければならないとは思わなかった。
昨日、『まだ決めていない』のままでいいと確認した。
今日は夕食を考える。
それでよかった。
◇
夕方、ノルンは五年目の最後に作成された管理要約を開いた。
ここが、少し気になっていた。
生活記録。
本人面談。
研究記録。
それらが年次要約でどのように短くなるのか。
『第一接続者・五年目年次要約』
生活。
『居住環境安定。本人希望により年度前半に転居。』
『就労開始。週三日、修繕工房。継続希望あり。』
『友人関係形成。生活上の孤立傾向なし。』
『健康状態概ね安定。』
接続。
『初回接続対象との再接続希望を維持。』
ノルンの目が止まる。
「短い」
主様が言う。
「はい」
原面談では、
『待ってる、でいいと思う』
『前の人だったって分かったら、聞きたい。つながれるなら、その時に考える』
『ずっと考えてるって意味なら違う』
『それは向こうが決めるんじゃないの?』
だった。
年次要約。
『初回接続対象との再接続希望を維持。』
「間違い?」
主様が尋ねる。
ノルンは慎重に読む。
「完全に間違いとは言い切れません」
「つながれるならその時考える、なのに?」
「再接続を拒否してはいませんし、前の相手だと分かれば知りたいと希望しています。ただ、『再接続希望を維持』という表現だけでは、具体的な条件や温度が見えません」
「待ってるも消えた」
「はい」
「でも後では待ってるが大きくなる」
「そこも興味深いですね」
さらに下。
『通知条件変更なし。高確度同一性または直接接続可能性発生時に通知。』
ここは正確。
研究。
『参照7関連反応継続。能動反応可能性上昇。主体・対象・意味は未確定。』
探索仮説は要約に入っていない。
「こっちは慎重」
「はい」
この年次要約だけを読めば、
リディアは再接続希望を維持。
参照7は能動反応の可能性が上昇。
まだ両者はつながっていない。
ただ、同じ頁に並んではいる。
「また並んだ」
主様が言う。
「年次要約ですから、同じ対象領域の情報が同じ文書に入ること自体は不自然ではありません」
「でも読む人は?」
「そこが問題ですね」
ノルンは要約末尾を見る。
『次年度方針:本人生活支援継続。接続関連通知は本人設定を維持。参照7解析継続。』
この時点では、まだ明確に分かれている。
本人生活。
本人通知。
参照7解析。
三つ。
◇
その日の業務終了直前。
セレナが一覧試験の新しい案を持ってきた。
「一個だけ」
「はい」
「本人の状態と管理対応を、列で分けるのはどうです?」
画面。
『本人発言:必要なら面談してもいい』
『本人意思:条件詳細未確認』
『現在対応:面談予定なし』
『必要時対応:本人へ具体確認』
ノルンはしばらく見る。
「昨日よりは、状態と対応が分かれていますね」
「でも長い」
「はい」
「絶対言うと思った」
「事実なので」
「試します?」
「試しましょう。ただし前の案も残してください」
「比較する?」
「はい」
「完成しないなあ」
セレナが笑う。
「完成させることを急いで、分からないところを消したら意味がありません」
「それ、今日の古い記録にもありました?」
「少し」
「やっぱり」
「ですが、今の試験は今の試験です」
「全部昔の教訓にしない」
「そうです」
セレナは頷き、新案を保存した。
◇
帰宅前、ノルンは今日の調査メモをまとめた。
『五年目末、リディア本人が現在状態を「待っている」と表現した記録を確認。』
『本人自身が「ずっと考えてるって意味なら違う」と明示。日常生活を送りながら、高確度で初回接続対象と判明する反応または直接接続可能性が生じた場合に知り、その時点で自身の対応を考えたい状態として説明。』
『相手側への応答義務・再接続要求なし。「それは向こうが決める」と本人発言。無反応理由についても本人は推定を拒否。』
『同時期、研究側では参照7について「特定対象探索信号仮説」が検討されるが、本人面談より前の研究であり、本人へ通知されず、教育資料にも掲載されていない。参照7=初回接続対象、探索対象=リディア、いずれも未確認。』
『後から「本人は待っていた」「参照7は探していた可能性」を並置することで相互待機物語を作らない。両情報の証拠状態・当時の共有範囲を維持する。』
『年次要約では本人状態が「初回接続対象との再接続希望を維持」と圧縮。完全な虚偽とは断定できないが、本人が示した条件・日常との両立・相手側判断尊重が省略される。』
最後に一行。
『本人が使った言葉であっても、後世が同じ意味で使っているとは限らない。』
保存する。
「今日は大きかったね」
主様が言う。
「そうですね」
「待ってるって本人が言った」
「はい」
「でも、思ってた待ってると違った」
「主様がどう思っていたかは知りませんが」
「ずっと窓見てる感じ」
「昨日の教育図像ですね」
「たぶん」
「実際のリディアさんは仕事をして、友人と出かけて、生活をしていました」
「それでも待ってた」
「本人の言葉では」
主様は少し考えてから尋ねる。
「じゃあ、待つって何?」
ノルンは鞄へ資料を入れる手を止めた。
「一つではないのでは?」
「一つじゃない?」
「誰かが戻るまで毎日考え続けることも、条件が整った時には知らせてほしいと頼んで自分の生活を続けることも、本人が『待つ』と呼ぶなら、どちらもその人にとっては待つことなのかもしれません」
「じゃあ記録には?」
「本人がどういう意味で使ったかを残します」
「言葉だけじゃなく」
「はい」
◇
管理室を出ると、雨上がりの空には夕方の光が戻っていた。
厚かった雲は西から少しずつ切れ、建物の壁や濡れた道路が淡い橙色に照らされている。
ノルンは傘を開かなかった。
駅へ向かう途中、小さな水たまりを避けて歩く。
携帯端末が一度震えた。
美咲からだった。
『この前入れなかった店、平日の夕方なら空いてるらしいよ』
続けて、
『別に今すぐ行こうって意味じゃないけど(笑)』
ノルンは立ち止まらずに読んだ。
(今すぐ行こうという意味ではない)
それを勝手に誘いへ変える必要はない。
ただの情報かもしれない。
少し行きたい気持ちを含んでいるかもしれない。
今はまだ、そこまで決めなくてもいい。
『情報ありがとうございます。今度行けそうな時に行きましょう』
送信。
少しして、
『うん!』
と返ってきた。
日付は決まらなかった。
それでも、また行く可能性は残った。
◇
五年目の終わり。
リディア・フェルンは、確かに言った。
『待ってる、でいいと思う』
その一文だけを取り出せば、後世の物語は簡単に作れる。
最初の接続相手を忘れず、いつか再びつながる日を信じ、十三年間待ち続けた第一接続者。
けれど、そのすぐ後にリディア自身が続けている。
『ずっと考えてるって意味なら違う』
仕事をしている時は仕事をする。
友人といる時は普通に話す。
毎日、反応が来ないか見続けるわけではない。
前の相手だと分かるものが来たなら知りたい。
つながれるようになったなら、その時に自分がどうするか考える。
そして相手がどうするかは、
『それは向こうが決めるんじゃないの?』
だった。
同じ頃、研究者たちは参照7の反復を見ながら、
『何かを探しているのではないか』
という仮説を考え始めていた。
しかし、その仮説をリディアは知らない。
研究者たちも、参照7が誰なのか知らない。
探している対象があるのかさえ知らない。
二つの記録を後から一枚の頁へ置けば、互いを求め続けた二人に見えるかもしれない。
けれど、その時代の二つは、まだ互いへ届いていなかった。
リディアの『待っている』は、相手を縛る言葉ではない。
参照7の反復も、まだ誰かの『探している』ではない。
分からないものは、分からないまま残っている。
少なくとも、五年目が終わるまでは。
そして次の一年にも、リディアには生活がある。
参照7には、まだ名前がない。
ノルンが知りたいのは、その二つがいつ物語の中で一つになったのかだった。
けれど、その答えもまた、先に決めてから探してはいけなかった。




