第百八話 リディアが反応を聞かなかった一年にも、彼女の生活はちゃんと続いていました
翌朝、窓を細かく叩く雨音で、ノルンはいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開けると、外はまだ薄暗い。昨夜から降り始めたらしい雨が建物の屋根を濡らし、向かいの通りでは水を含んだ石畳が街灯の光を鈍く映していた。
(今日は一日、こんな天気でしょうか)
窓辺で空を見上げたあと、ノルンは着替えを済ませた。
机の端には、先日買った旅行本が置いてある。
昨夜も数頁だけ読んだ。
今度は山間部の小さな町だった。古い水路が街中を通り、その脇に小さな店が並んでいるらしい。
まだ行く予定はない。
それでも、栞はその頁に挟んである。
◇
管理室へ着いても、雨は止まなかった。
窓を開けられないため、普段より室内が少し静かに感じる。外から入ってくる風の音がなく、その代わりに窓硝子へ当たる雨粒の細かな音が、一定の間隔で聞こえていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
セレナはすでに端末を開いていた。
机の上には昨日の一覧表示試験の結果が置かれている。
「どうでした?」
「半分成功、半分失敗です」
「どういう意味ですか?」
「『現在:面談予定なし』『面談が必要になった場合:本人確認』にしたら、勝手に面談していいって読む人はいなくなりました」
「それなら改善していますね」
「でも二人、『本人が面談を拒否している』って読みました」
ノルンは椅子へ座りながら、紙を受け取った。
試験協力者は八名。
六名は、
『現時点では面談予定なし。必要になれば本人確認』
と正しく理解した。
二名は、
『本人が現在面談を希望していない』
と回答している。
「やはり出ましたか」
「昨日言ってた通り」
「予想が当たっても嬉しくないですね」
「本当に」
セレナは肩を落とす。
主様が二人の間から紙を覗き込んだ。
「でも前よりいいんじゃない?」
「何をもって『いい』とするかですね」
「間違えた人数」
「誤読率だけなら改善しています」
「じゃあ六人は大丈夫だった」
「今回は、です」
「ノルン厳しい」
「試験ですから」
ノルンは回答欄を見直した。
二人がなぜ『拒否』と読んだのか、自由記述も残っている。
『予定なし=本人が望んでいないためだと思った。』
『本人確認が必要ということは、現在は不同意状態だと解釈した。』
「……状態と理由を一緒にしているんですね」
セレナが言う。
「そう見えます」
『予定がない』
それは現在の状態。
『本人が望んでいない』
それは理由についての解釈。
同じではない。
「また直します?」
「まず、この誤読を記録しましょう」
「本人の記録じゃなくて、試験評価」
「はい」
「もう覚えました」
セレナが少し得意そうに言う。
「ではお願いします」
「褒めないんですか?」
「何をです?」
「覚えたこと」
「仕事ですよね?」
「主様、ノルンさんが冷たい」
「いつものこと」
「聞こえていますよ」
雨の朝でも、管理室の会話はいつも通りだった。
◇
九名にも、大きな変化はなかった。
ルークは雨のため、今日は屋内で過ごす予定になっている。
昨日読んでいた図鑑を引き続き借りており、朝食後には鳥の頁を開いていたらしい。
紙の鳥も棚の上。
接続についての新しい希望なし。
過去名についての新しい質問なし。
ミレイア。
『次回接続:まだ決めていない』
『現時点で接続予定なし』
『本人希望時、再検討可能』
昨日、自分で表示を確認した。
新しい希望も拒否もない。
雨のため洗濯物は予定通り室内へ干されている。
「ちゃんと中に干した」
主様が言う。
「昨日そう話していましたから」
「玉ねぎの次は洗濯」
「日常です」
「うん」
エリオは共有室。
盤上遊戯の相手と朝から昨日の続きをしている。
そして今日、ようやく勝敗記録に名前が書かれていた。
『エリオ三勝、対戦相手三勝。』
「並んだ!」
主様が嬉しそうに言う。
「よかったですね」
「興味ない言い方」
「重要管理事項ではありませんから」
「でも平和な情報」
「それはそうですね」
次回外出は『未定』のまま。
フローラ。
来週火曜日午後二時、南区でマリエと会う予定が正式に決まっている。
公爵家を午後一時半に出発。
大通り付近で馬車を降り、護衛二名と侍女一名を伴ってマリエの家の雑貨店へ向かう。
そこからマリエと合流し、蜂蜜の焼き菓子を扱う店へ行く。
雨天時については、前日に天候を確認して改めて家族で判断する。
アーノルドからの接触なし。
他の管理対象も安定。
新規転生兆候なし。
世界側異常なし。
「今日も平和」
主様が言った。
「はい」
ノルンは九名の現在画面を閉じた。
◇
午前の業務が一段落した頃、ノルンは古い保管層を開いた。
昨日、五年目の入口まで確認した。
参照7関連反応は継続。
A系列の一部には、偶発的な揺らぎより能動的な信号である可能性を高める反復傾向が現れている。
それでも、
誰が送ったのか。
何を意味するのか。
一人なのか複数なのか。
初回接続対象と同一なのか。
どれも確定していない。
そしてリディア本人への定期通知はない。
『本人希望条件に変更なし』
昨日はそこで閉じた。
「今日は生活記録?」
主様が尋ねる。
「はい」
「反応の続きじゃなくて?」
「昨日、リディアさんがその一年をどう過ごしていたか確認していませんから」
「反応を知らない一年」
「正確には、個々の反応について逐次通知を受けていない期間です」
「本人から聞いたら教える?」
「その時点の取り決め次第でしょう。実際の記録を確認します」
ノルンは検索条件を変えた。
第一接続者。
五年目。
生活支援記録。
本人面談。
接続関連記録を除外。
検索結果は、予想以上に多かった。
「多い」
主様が言う。
「一年分ですから」
ノルンは一覧を眺める。
医療記録。
生活用品。
仕事。
住居。
友人関係。
食事。
移動。
趣味。
接続とは無関係な相談。
それらが大量に並んでいた。
「第一接続者の記録っていうより……」
「一人の生活記録ですね」
「うん」
ノルンは最初の月を開いた。
◇
五年目の春。
リディアは住居を移していた。
接続管理上の理由ではない。
『本人希望による居住区域内転居。』
理由。
『以前の部屋より日当たりがよく、共同調理場に近いため。』
「普通」
主様が呟く。
「普通ですね」
引っ越し当日の記録には、荷物の量まで残っている。
衣類。
本。
食器。
青い紐で束ねた小物箱。
鉢植え二つ。
窓辺に置いていた青い紐について、以前の記録では特別な意味を付ける根拠がなかった。
ここでも同じだった。
『本人、旧居窓辺の青紐を荷造り箱の目印として使用。』
「目印だった」
「この日は、ですね」
「象徴とかじゃなく」
「少なくとも記録上は」
新しい部屋へ入ったリディアは、最初に窓を開けた。
『本人:「こっちの方が明るい」』
その日の夕方には、共同調理場で隣室の住人と夕食を作っている。
献立は豆と根菜の煮込み。
翌日。
『本人、味が薄かったため香辛料を追加。入れすぎて辛くなり、同席者と笑う。』
主様が画面を見る。
「これも残ってるんだ」
「生活支援記録ですから」
「後の本にはないよね」
「少なくとも私が確認した教育資料にはありません」
「第一接続者が料理辛くしすぎた話」
「教育上必要なかったのでしょう」
「でもリディアさんにはあった」
「はい」
ノルンは次へ進む。
◇
五年目の初夏。
リディアは新しい仕事を始めていた。
週三日。
居住区域内にある小さな修繕工房。
衣服や布製品のほつれを直し、簡単な仕立て直しをする仕事だった。
最初の一週間。
『本人、作業速度が遅いことを気にする。』
二週間後。
『本人、袖口修繕を一人で完了。』
一か月後。
『本人、依頼者から「前より着やすい」と言われ喜ぶ。』
その日の本人面談。
『担当者:「仕事はどうですか」』
『本人:「疲れる」』
『担当者:「続けたいですか」』
『本人:「今は。嫌になったら言う」』
ノルンは少しだけ口元を緩めた。
「リディアさんっぽい」
主様が言う。
「私たちが知っている記録の範囲では、そう感じますね」
「毎回聞くなって言った人」
「それとこれを同じ性格特徴として固定しないでください」
「はい」
さらに二か月。
仕事は続いている。
遅刻一回。
体調不良による欠勤二回。
仕事仲間と昼食へ行った記録。
針を一本なくして全員で探した記録。
依頼者から礼として果物をもらった記録。
接続についての記述は一度もない。
「忘れてたのかな」
主様が言った。
「分かりません」
「考えてたかもしれない?」
「はい」
「考えてなかったかもしれない」
「はい」
記録にない心情を埋めることはできない。
ただ、少なくともその日々の中には、接続とは別の出来事が大量にあった。
◇
五年目の夏。
リディアは友人二人と郊外へ出かけていた。
目的は川辺での昼食。
管理区域から出るための手続きは必要だったが、接続関係の観測とは無関係。
同行者。
同じ居住区域に住む女性二名。
一人は工房の同僚。
もう一人は共同調理場で知り合った人物。
「名前は?」
主様が聞く。
「記録されています」
一人目。
エマ・ローデン。
二十七歳。
修繕工房勤務。
二人目。
ニーナ・セル。
二十五歳。
居住区域内の食堂勤務。
リディアは当時、二十四歳。
「リディアさん、若い」
「初回接続時から四年以上経過していますから」
「十三年って聞くと、ずっと同じ姿で待ってる感じしてた」
主様がぽつりと言う。
ノルンは画面から目を離さなかった。
「それも、後世の図像の影響かもしれません」
「図像?」
「教育資料の挿絵です。第一接続者は、接続装置の前に座っている姿で描かれることが多かったので」
「ああ……」
「実際には、川へも行っています」
当日の記録。
天候は晴れ。
昼前に出発。
川辺で食事。
エマが持参した果実酒を少量飲む。
ニーナが靴を濡らす。
リディアは笑いすぎてむせる。
帰路で三人とも疲れ、途中の休憩所で予定より長く休む。
『本人、帰宅後「楽しかったけど足が痛い」と発言。』
それだけ。
接続の話はない。
「この日に反応は?」
主様が尋ねた。
ノルンは別画面で日付を照合した。
「あります」
「え?」
「参照7関連の弱反応が一件」
「リディアさんが川にいた日に?」
「はい」
「知らない?」
「通知記録はありません」
主様が画面とノルンを交互に見る。
「後の本なら、どうなるんだろ」
「今は後の本を考えません」
「でも十三年間待ったって……」
「その言葉だけなら、川へ行ったことと矛盾しません」
「そうなの?」
「『待つ』の意味によります」
ノルンは日付を見た。
外在側と推定される弱い反応が観測された日。
リディアは友人と川辺で昼食を食べ、笑い、疲れて帰った。
両方が同じ日に起きた。
片方がもう片方を消すわけではない。
「待ってたら遊んじゃ駄目ってわけじゃないもんね」
「そうです」
「でも、ずっと接続装置の前にいたわけでもない」
「はい」
「……なんか、十三年って言葉が変に見えてきた」
「まだ結論を出さないでください」
「はい」
◇
昼休憩。
雨脚は朝より強くなっていた。
休憩室の窓を水滴が流れ、外の建物が少しぼやけて見える。
ノルンは温かい茶を持って席へ着いた。
今日はセレナも一緒だった。
「生活記録どうでした?」
「川へ行っていました」
「川?」
「はい」
「誰が?」
「リディアさんです」
セレナは少し意外そうな顔をした。
「第一接続者の?」
「そうです」
「何しに?」
「友人二人と昼食です」
「……普通ですね」
「普通です」
「なんか私も、ずっと施設にいたイメージありました」
「教育資料の影響かもしれません」
「待ち続けた人、ですもんね」
「その表現が、どの時期の何を意味しているかはまだ調査中です」
セレナは頷く。
「でも友達と遊びに行ってても、待ってなかったことにはならないですよね」
「はい」
「逆に、遊びに行ってたからずっと待ってたっていうのも変」
「そうですね」
ノルンはカップへ口をつけた。
熱い。
少し置く。
「その日に反応もあったんです」
「え?」
「本人には通知されていません」
「じゃあ、リディアさんは知らないまま川で遊んでた」
「記録上は」
セレナは少し考える。
「それ、後から本人が知ったらどう思うんでしょう」
「分かりません」
「『教えてほしかった』って思うかもしれないし」
「はい」
「『教えなくてよかった』かもしれない」
「はい」
「当時の本人が決めた通知条件だったんですよね?」
「そうです」
セレナは窓の雨を眺めた。
「じゃあ、その日のリディアさんが楽しそうだったから、通知しなくて正解だったって言うのも違うか」
「私はそう思います」
「楽しんでたことと、通知条件は別」
「はい」
セレナは小さく笑った。
「今日の一覧の話とちょっと似てる」
「似ていますか?」
「状態と理由を勝手につなげない」
ノルンは少し考えた。
「確かに、そこは似ていますね」
「珍しく認めた」
「似ているものまで否定はしません」
◇
午後。
ノルンは五年目の生活記録をさらに進めた。
秋。
リディアは一度、接続について自分から尋ねている。
『本人:「最近、何か変わった?」』
担当者。
『反応観測は継続しているが、初回接続対象との高確度同一性、直接接続可能性ともに未確認。』
リディア。
『本人:「前より増えた?」』
『担当者:「一部の反応は増えています」』
『本人:「じゃあ、前の人かもしれないの?」』
『担当者:「それは分かりません」』
沈黙。
『本人:「そっか」』
そこで終わっていない。
『本人:「聞いた方がいい?」』
担当者は、
『それは管理側が決めることではない』
と答えている。
『本人:「聞いたら何か分かる?」』
『担当者:「あなたが聞くことで、相手が誰か判明する保証はありません」』
『本人:「じゃあ今はいい」』
主様が小さく息を吐いた。
「聞かなかった」
「はい」
「でも気にしてなかったわけじゃない」
「そうですね」
リディアは自分から尋ねた。
反応が増えていることも知った。
それでも、今は聞かないと決めた。
『本人:「前の人だって分かるようになったら教えて」』
『担当者:「以前の希望と同じでよいですか」』
『本人:「うん」』
通知条件は維持された。
その三日後。
リディアは工房で冬物の修繕作業をしている。
一週間後。
エマと夕食。
二週間後。
ニーナの誕生日祝い。
一か月後。
体調を崩して二日休む。
接続についての追加質問はない。
「これが一年の中に全部あるんだ」
主様が言う。
「はい」
「気にしてる日もある」
「はい」
「全然出てこない日もいっぱいある」
「記録上は、ですね」
「『十三年間待った』だけだと、こういうの全部なくなる」
ノルンはすぐには答えなかった。
画面には、冬の生活記録が並んでいる。
衣服の修繕。
食事。
体調。
友人。
雪の日に転びかけたこと。
共同調理場の鍋を焦がしたこと。
工房の同僚が辞めたこと。
その別れを寂しがったこと。
接続とは関係のない一日が、いくつも、いくつも続いていた。
「短い言葉で十三年を説明するなら、何かは落ちます」
ノルンはようやく答えた。
「でも、落としたものがあることまで忘れると、別の人に見えるのかもしれません」
◇
五年目の冬。
リディアは、以前一度だけ尋ねた反応について、その後は質問していなかった。
一方、参照7関連の観測は続いている。
ノルンは生活記録と観測記録を横に並べた。
ある日。
『参照7関連反応・二十一秒。A系列三回。』
同日。
『本人、工房勤務。袖丈調整二件。昼食時、エマと翌月の休暇予定について相談。』
別の日。
『参照7関連反応・九秒。分類不能。』
同日。
『本人、休暇。午前中睡眠。午後、共同調理場で菓子作り。』
さらに別の日。
『参照7関連反応・三十四秒。A系列四回、C系列一回。』
同日。
『本人、頭痛を訴え早退。帰宅後休息。』
「並べると変な感じ」
主様が言う。
「何がですか?」
「向こうで何か起きてる時、こっちでは普通に別のことしてる」
「同じ時間に別の場所で別の出来事が起きるのは普通でしょう」
「そうなんだけど」
主様は画面を見た。
「後の話だと、二人がずっとお互いを待ってたみたいになるから」
「まだ二人だと確認されていません」
「あ」
「参照7が一人とも、初回接続対象と同じとも確認されていません」
「そうだった」
「忘れないでください」
「はい」
ノルン自身にも、その注意は必要だった。
リディアの生活記録と参照7の観測記録を同じ画面へ並べた瞬間、それだけで二つの時間が対になっているように見える。
リディアが工房で働く。
その頃、参照7関連反応が起きる。
リディアが友人と笑う。
その頃、外在反応が届く。
それだけで、物語のような形が生まれる。
(並べたのは私です)
ノルンは一度、画面を閉じた。
「どうしたの?」
「並べる必要がある時だけ並べるべきだと思いました」
「見やすかったよ?」
「見やすいからです」
「……ああ」
主様も気づいたらしい。
「昨日の図と同じ?」
「少し似ています」
AとBを横に置けば、一つの音列に見える。
リディアの日常と参照7の反応を横に置けば、互いを待つ二者の同時進行に見える。
比較には意味がある。
だが、配置そのものが意味を作ることもある。
「必要な時は比べます」
ノルンは言った。
「でも、ずっと二つを並べて読むのはやめます」
「うん」
◇
夕方。
ミレイアは今日も接続について何も尋ねなかった。
昨日、自分の『まだ決めていない』が『しない』へ変わっていないことを確認した。
今日は、その確認すらしていない。
ルークは図鑑を返却し、別の本を借りた。
エリオの盤上遊戯は三勝三敗のまま。今日は途中で別の者が参加したため、勝敗記録そのものが曖昧になった。
フローラは火曜日の外出で着る服を母と相談した。
「普段着でいい」
そう言ったものの、公爵家でいう普段着と南区で目立たない服には少し差がある。
「派手じゃないのがいい」
フローラが衣装棚を見ながら言う。
「でも、無理に町娘の格好をする必要もないのよ」
母が答えた。
「分かってる」
「あなたが普段着ていて、動きやすいものを選びましょう」
「うん」
淡い緑のワンピース。
装飾は少なめ。
歩きやすい靴。
帽子はなし。
フローラは鏡の前で一度確認し、頷いた。
「これがいい」
「そうしましょう」
普通の町娘になりきる必要はない。
公爵令嬢であることを隠す必要もない。
マリエもそれを知っている。
その上で、一緒に菓子を食べに行く。
準備は、それで十分だった。
◇
業務終了前。
ノルンは五年目の生活記録を閉じた。
調査メモへ、今日確認したことを書く。
『五年目:リディアの生活記録を確認。転居、修繕工房での就労、友人関係、外出、食事、体調不良等、接続と無関係な生活が継続。』
『同年中、本人から反応状況を一度確認。「前の人かもしれない」かを質問するが、管理側は不明と回答。本人は詳細聴取を選ばず、従来の通知条件「前の人だと分かるようになったら」を維持。』
『接続への関心が消失したとは言えない。一方、日常生活の全場面で接続を意識していたとも言えない。記録のない心情を補完しない。』
『参照7関連反応は本人の日常と並行して観測されるが、参照7=単一主体、初回接続対象との同一性はいずれも未確認。二記録を並置すること自体が「互いに待つ二者」の印象を作る可能性に注意。』
最後に、
『「十三年間待った」という後世表現を、十三年間の連続した同一心理状態として読まない。』
と記した。
「明日は?」
主様が聞く。
「決めていません」
「五年目の反応?」
「可能性はあります」
「教育資料?」
「それも」
「リディアさんの日常?」
「必要なら」
「いっぱいある」
「だから一つずつです」
主様は少し笑った。
「前なら全部読んでた?」
ノルンは鞄を持ちながら考えた。
「全部読むこと自体は、今後もあると思います」
「変わってない」
「ただ、一度に読む必要があるかは考えます」
「そこか」
「はい」
◇
管理室を出る頃にも、雨はまだ降っていた。
ノルンは建物の入口で折り畳み傘を開いた。
昨日、美咲との外出へ持っていったものと同じ傘。
結局あの日は使わなかったが、今日は必要だった。
石畳に落ちた雨粒が小さく跳ねる。
通りを行く人々も傘を差し、店先では従業員が雨除けの布を張っている。
ノルンは駅へ向かって歩いた。
途中、書店の前を通る。
旅行本を買った店ではない。
それでも窓越しに並ぶ本が目に入り、一瞬だけ足が緩んだ。
(今日は寄らなくていいですね)
そう考えて、そのまま歩いた。
帰れば、まだ読み途中の本がある。
明日になれば、仕事の記録も残っている。
どちらも、今夜すべて終わらせる必要はなかった。
◇
五年目の記録の中で、リディアは待合室の椅子に座り続けてはいなかった。
接続装置の前で十三年を過ごしてもいない。
日当たりのいい部屋へ引っ越した。
料理を辛くしすぎた。
修繕工房で働いた。
針をなくした。
友人と川へ行った。
笑いすぎてむせた。
足が痛くなった。
体調を崩した。
誰かが仕事を辞めることを寂しがった。
そして、ときどき接続について尋ねた。
『前の人かもしれないの?』
分からないと言われれば、その答えを聞いた。
『聞いた方がいい?』
それを管理側に決めてもらうのではなく、自分で考えた。
『じゃあ今はいい』
そう答えた。
その間にも、どこかで反応は観測されていた。
けれど、その反応が誰のものだったのかは分からない。
リディアが聞かなかったからといって、彼女が忘れたとは限らない。
聞きたい日があったからといって、一年中それだけを考えていたとも限らない。
川へ遊びに行ったからといって、過去の接続がどうでもよくなったわけでもない。
十三年という時間は、一つの感情だけで埋まるには長すぎる。
だからノルンは、後世に残された短い言葉だけで、その年月を埋めない。
リディアが何を待っていたのかを知る前に。
まず、その時間の中で彼女が生きていたことを、消さないために。




