第百七話 最初に『名前みたい』と言ったのは、研究者ではありませんでした
翌朝、ノルンが管理室へ入ると、セレナが一枚の紙を机の前に掲げたまま唸っていた。
昨日までの穏やかな晴天から少し空模様が変わり、窓の外には薄い灰色の雲が広がっている。雨が降るほどではないものの、日差しが遮られているせいか室内は普段よりわずかに暗く、朝一番の管理室には紙をめくる音と端末の起動音だけが静かに響いていた。
「おはようございます」
「おはようございます。ノルンさん、これ見てください」
挨拶を返した直後に差し出された紙には、昨日話し合った一覧表示の試作が印刷されていた。
『本人発言:必要なら面談してもいい』
『現在対応:面談開始不可』
『対応条件:具体的な必要性が生じた時点で本人へ確認』
『未確定:本人発言中の「必要」の判断主体・基準』
昨日までの案よりも、現在職員が取ってよい行動が上に出ている。
「分かりやすくなりましたね」
「ですよね?」
「ただ」
「もう来た」
セレナが紙を下ろす。
「何ですか?」
「『面談開始不可』が強すぎるかもしれません」
「私も朝からそこ見てました」
「禁止されているように見えます」
「でも実際、今の発言だけで勝手に始めちゃ駄目ですよね?」
「はい。ただ、本人が今日自分から『面談したい』と言った場合まで不可ではありません」
「ああ……」
セレナは額へ手を当てた。
「また増える」
「項目を増やすとは言っていません」
「じゃあ何て書きます?」
「それは後で考えましょう」
「逃げた」
「朝の確認が先です」
「はいはい」
セレナは紙を机へ置いた。
少し離れたところにいた主様が、ノルンの顔を見ながら笑っている。
「何ですか?」
「昨日、『今やっていいことを中心に』って言ってたのに、もう問題出た」
「試験中ですから」
「便利な言葉」
「セレナさんと同じことを言わないでください」
「私が先に言ったんですけど」
セレナが横から口を挟む。
ノルンは二人を見比べてから、自分の席へ座った。
◇
九名の朝を確認する。
ルークはいつも通りだった。
紙の鳥は棚の上に残っている。
今日は朝食後、共有区域で借りた本を読んでいるらしい。物語ではなく、動物や植物の絵が多く載った図鑑だった。
接続について新しい希望なし。
過去名についての新しい質問なし。
全九名との将来的な面会希望も、以前記録した内容から変更なし。ただし、具体的な面会を求めたわけではないため、新しい対応は発生していない。
ミレイア。
『次回接続:まだ決めていない』
変化なし。
今日はエリスと一緒に洗濯物を畳む予定になっている。
エリオ。
『次回外出:未定』
変化なし。
昨日の盤上遊戯は、勝敗よりも別のことが記録に残っていた。
『本人、対戦相手と駒の動かし方について意見が食い違う。規則書確認後、本人側の誤認と判明。本人「じゃあ俺が悪い」と発言し、盤面を戻して再開。』
「負けたのエリオかな」
主様が言う。
「何がです?」
「三勝二敗」
「まだ気にしていたんですか?」
「だって書いてない」
「重要ではないのでしょう」
「気になるものは気になる」
「本人に確認しないなら、気にするだけにしてください」
「はーい」
フローラについては、昨日マリエへ送った手紙がすでに届いている。
ただし、朝の時点では返事なし。
来週火曜日の午後を希望しているが、まだ最終確定ではない。
アーノルドからの接触なし。
他の管理対象にも重大な変化なし。
世界側異常なし。
新規転生兆候なし。
ノルンは現在確認を終えた。
「平和ですね」
セレナが言う。
「そうですね」
「今日は古い資料?」
「通常業務の後に」
「昨日も言ってましたね」
「順番を変える理由がありませんから」
主様が笑う。
「でも気になってる」
「気にはなっています」
「今日は素直」
「毎回同じ会話をするつもりですか?」
「それは嫌」
「では終わりです」
◇
午前中は、一覧表示の試験案を少しだけ修整した。
『面談開始不可』
という表現は、
『現発言のみを根拠とした面談開始:不可』
へ変更する案が出た。
しかし今度は長い。
「一覧なのに説明文になってます」
セレナが言う。
「そうですね」
「『要再確認』だけじゃ駄目ですか?」
「何を再確認するのか分かりません」
「『面談時要確認』」
「本人から希望した場合も?」
「それは……」
セレナが止まる。
ノルンも画面を見つめた。
短くすると、条件が落ちる。
長くすると、読まれにくい。
そしてどれだけ正確に書いても、読む側が自分なりの意味を補う可能性は残る。
「色を変える?」
主様が言った。
「色だけで意味を伝える設計は避けたいです」
「じゃあ印」
「何の印ですか?」
「まだ決めてない」
「決めてから言ってください」
主様が少し不満そうな顔をする。
セレナは笑いながら、別の表示案を作った。
『現在:面談予定なし』
『面談が必要になった場合:本人確認』
本人発言そのものは詳細欄に残す。
「これなら?」
「かなり分かりやすいと思います」
「でも『面談予定なし』と『本人は面談したくない』を混同する人、出ません?」
ノルンは数秒黙った。
「出るかもしれません」
「ですよね」
「では、その誤読が起きるか試しましょう」
「もう正解を作るの諦めてません?」
「諦めていません。実際に読んでもらわなければ分からないと言っています」
セレナは少し考えた後、頷いた。
「試験協力者、昨日と違う人にします」
「お願いします」
今日も完成しなかった。
だが、完成しないこと自体を失敗とは扱わなかった。
◇
昼前。
フローラのもとへ、南区から小さな封筒が届いた。
差出人はマリエ。
昨日より短い手紙だった。
『フローラへ。
火曜日、大丈夫です。
午後二時くらいはどうですか?
お店は大通りから少し入ったところなので、もし分かりにくかったら雑貨店まで来てくれたら、そこから一緒に行けます。
護衛の人と侍女さんも一緒で大丈夫です。
私も楽しみです。
マリエ』
最後の一文を読んだところで、フローラの口元が緩んだ。
『私も楽しみです。』
自分が昨日書いた、
『マリエと会うのも楽しみです』
への返事のようにも見える。
もちろん、そこまで深い意味があるわけではないのかもしれない。
けれど、それでも嬉しい。
(同じだった)
そう思った途端、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「どうだった?」
母に聞かれ、フローラは手紙から顔を上げた。
「火曜日、大丈夫だって。二時くらい」
「では、こちらも最終確認しましょう」
「うん」
父の予定。
馬車。
護衛。
侍女。
南区の混雑状況。
どれも問題はなかった。
「午後一時半に屋敷を出れば余裕があるでしょう」
父が言う。
「雑貨店まで行っていい?」
「ああ。大通り近くで馬車を降りて、護衛二名と侍女を伴って歩く。それなら問題ない」
「お店の中も護衛一緒?」
「一名は近くにいた方がいい。もう一名は外でも構わないだろう」
「分かった」
フローラは頷く。
これで初めて、具体的な予定になった。
来週火曜日。
午後二時。
南区のマリエの家の雑貨店で合流。
そこから一緒に蜂蜜の焼き菓子を食べに行く。
「返事書く」
フローラは便箋を広げた。
『火曜日の午後二時で大丈夫です。雑貨店まで行きます。』
その下へ、
『私も楽しみです。』
と書く。
今度は迷わなかった。
◇
午後。
ノルンは古い保管層を開いた。
昨日、十三件の検索結果のうち九件目まで確認した。
教育用基礎図版の試作。
『「ナ」 「ラ」』
その下には、
『意味上の関連なし』
という注記。
作成側はむしろ二つを連続語と誤認されないよう、引用符を分けていた。
残り四件。
ノルンは昨日の調査メモを開き、最後の一行を確認した。
『「名前に見える配置」と「名前として扱った記録」を区別する。』
「今日は十件目」
主様が隣へ来る。
「はい」
「名前になる?」
「分かりません」
「後でなるのは知ってる」
「後で名称様音列という表現が出ることは知っています。ただ、今日の資料でそうなるとは限りません」
「じゃあ開こう」
「私が開きます」
「はい」
十件目。
題名は、
『外在反応教育用基礎図版・試用後質問記録』
教育用図版を使った研修後、受講した職員から出た質問をまとめたものだった。
対象者は研究員ではない。
接続施設の生活担当者。
事務担当者。
新任観察補助員。
医療担当。
警備担当。
外在反応の専門解析を仕事にしない者も多い。
質問は全部で二十七件。
参照7に関するものは六件あった。
『質問:参照7の「ナ」「ラ」はどういう意味ですか。』
『回答:意味は判明していない。別系列の可聴化代表例であり、連続語ではない。』
次。
『質問:同じ相手が二種類の言葉を使っているということですか。』
『回答:参照7が単一主体を示すとは限らない。また、言葉であることも未確認。』
次。
『質問:「ナ」「ラ」は第一接続者へ向けられたものですか。』
『回答:不明。参照7と初回接続対象との同一性も未確認。』
「ちゃんと全部、不明って答えてる」
主様が言う。
「はい」
四件目。
『質問:これは相手の名前ですか。』
ノルンの視線が止まった。
主様も黙る。
回答。
『名称であるとの根拠なし。自己識別信号仮説は研究上存在するが、自己識別=個体名ではなく、本反応が自己識別であることも未確認。』
「名前って聞いた人がいた」
「はい」
「研究者じゃない」
「研修受講者です」
質問者の所属。
『生活支援部・新任職員』
名前までは記録されていない。
質問の前後に、詳しい事情もない。
「この人が最初?」
「現時点で確認できた記録上では、名称として直接尋ねた最初の例です。ただし、これ以前に誰も考えなかったとは断定できません」
「そっか」
主様は少し考えた。
「でも、図を見て名前に見えたんだ」
「そうだった可能性はあります」
「専門の人はつなげないようにしてたのに」
「専門外の人には、その注意だけでは足りなかったのかもしれません」
五件目。
『質問:「ナ」「ラ」と二つあるなら、名前の一部が欠けている可能性はありますか。』
回答。
『その仮説を支持する根拠なし。二系列を一つの名称断片として扱わないこと。』
「もう一人いる」
「質問者が同じかは分かりません」
「名前の一部って発想が出てる」
「はい」
六件目。
『質問:第一接続者本人は「ナ」「ラ」を聞いていますか。』
『回答:A系列の一部のみ聴取。「ナ、みたい」と主観報告。B系列は同時提示されていない。本人はA系列について名称として記録しないよう希望。』
ここでも、リディアの希望は残っている。
消されてはいない。
少なくとも質問へ回答した担当者は、それを把握していた。
◇
質問記録の末尾には、研修担当者の所見があった。
『図版上の音声様変動表記について、専門外職員が言語・名称として解釈する傾向を確認。』
『「意味上の関連なし」の注記のみでは、名称様解釈を十分に抑制できない可能性あり。』
『次回版では、音声様変動が言語であること自体未確認である旨を図版上部へ追加する。』
「対策した」
主様が言う。
「はい」
改訂案。
『可聴化例は、人間側の変換処理によって音節に近く聞こえるものを便宜的に表記したものであり、言語・名称・呼称を示すものではない。』
大きな枠で囲われている。
「かなり強くなった」
「質問が出たからでしょう」
「じゃあ、名前っぽく見えたことに気づいて、名前じゃないってもっと書いた」
「そうなります」
ノルンは昨日の予想を思い出した。
線が消えた時。
注記が小さくなった時。
説明する相手が変わった時。
誰かが初めて「これは何という名前なのか」と尋ねた時。
実際には、
『これは相手の名前ですか』
だった。
しかし、その質問によってすぐ名称化したわけではない。
むしろ逆だった。
管理側は注意書きを強めた。
「じゃあ、まだ名前にならない」
主様が少し不思議そうに言う。
「はい」
「何回止めるんだろ」
「止めるというより、分からない状態へ戻しているのでは?」
「戻す?」
「人が自然に意味を補った時に、『そこまでは分かっていない』と確認しているように見えます」
「でも後では……」
「はい」
名称様音列。
自己名と推定される断片的音声。
そこへ至る。
ただし、まだではない。
◇
十一件目。
日付はさらに一年近く後だった。
五年目へ入っている。
ノルンは日付を確認して、一度手を止めた。
「四年目終わった?」
「検索結果上では、次が五年目です」
「進む?」
ノルンは少し考えた。
昨日まで、四年目の記録を中心に追ってきた。
分類記号。
参照番号。
反復音。
教育用図版。
専門外職員の名称様解釈。
ここで区切ることもできる。
だが十一件目の題名は、
『参照7・反復音声様変動の長期比較』
だった。
「一件だけ確認します」
「お」
「一件です」
「分かってる」
開く。
五年目。
過去一年分の参照7関連記録を、長期的に比較した資料だった。
冒頭。
『参照7関連として管理された反応は、前年後半以降も断続的に観測。』
『ただし、各反応が同一主体由来であることは引き続き未確認。』
A系列。
出現回数が増えている。
B系列。
こちらも少数ながら継続。
新しいC系列も設定されていた。
ただし、これは過去の反応特性別仮分類C群とは別。
参照7内部で音声様変動を区別するための系列記号だった。
「Cが二種類ある」
主様が眉を寄せる。
「はい。混同しやすいですね」
「後の人、大丈夫?」
「それも確認が必要ですね」
資料にも注意がある。
『本資料内A/B/C系列記号は参照7内部の反応型区分であり、旧反応特性別仮分類A〜Gとは無関係。』
「ちゃんと書いてある」
「はい」
新しいC系列の可聴化候補。
『母音様長音。文字近似困難。』
名前に見える材料ではない。
さらにA系列。
『可聴化近似「ナ/ア」傾向継続。ただし変換方式差あり。』
B系列。
『「ラ/レ」傾向。一部変換で「ナ」に近似する例あり。』
「Bでもナ?」
「そうですね」
「じゃあ余計分からない」
「はい」
同じ音に聞こえたから同じ系列とも限らない。
違う音に聞こえたから違う主体とも限らない。
人間の言語へ変換した時点で、元の構造がかなり失われている。
そして、五年目の資料には新しい一文があった。
『A系列の一部に、反応開始直後ではなく、一定間隔後に反復する傾向を確認。外在側による能動的信号である可能性は前年より上昇。』
「お」
主様が身を乗り出す。
「可能性が上がった」
「能動的信号である可能性です」
「自己識別じゃない?」
「そこまでは書いていません」
続き。
『ただし、能動的信号であっても、対象・意味・主体数は不明。』
「やっぱり」
さらに。
『第一接続記録との類似性については、一部特徴で継続するものの、高確度同一性判定には至らず。』
リディアへ通知する条件も、まだ満たしていない。
「リディアさんは?」
主様が尋ねる。
ノルンは資料内検索をかけた。
一件。
『本人への定期通知なし。本人希望条件に変更なし。』
それだけ。
「一年経っても?」
「この資料上では」
「忘れてる?」
「本人が?」
「うん」
「分かりません。日常記録を確認しなければ」
ノルンはそこで資料を閉じた。
「見ないの?」
「今日は見ません」
「気になる」
「私もです」
「じゃあ」
「気になるから全部読む、にはしません」
主様が口を閉じた。
少しして、笑う。
「分かった」
◇
夕方。
洗濯物を畳み終えたミレイアは、エリスと一緒に茶を飲んでいた。
窓の外は朝より暗くなっている。
「雨、降りそうね」
エリスが言う。
「うん」
「明日の分、外に干せないかもしれないわね」
「中でいいんじゃない?」
「そうね」
ミレイアはカップを両手で包む。
少しだけ間が空いた。
「エリス」
「なあに?」
「前の……あの、声のことなんだけど」
エリスはすぐに何のことか理解したが、急いで続きを促さなかった。
「うん」
「今、何か決めなきゃいけない?」
「いいえ」
ミレイアの肩が、ほんの少し下がる。
「そっか」
「何か気になった?」
「分かんない」
ミレイアはカップの中を見る。
湯気はもう薄い。
「決めてないって、ずっとそのままでもいいのかなって、ちょっと思っただけ」
エリスはすぐに答えなかった。
ミレイアが言葉を探しているのが分かったからだ。
「会いたいとか、聞きたいとかじゃなくて……」
そこで止まる。
眉が少し寄る。
(何て言えばいいんだろう)
自分でもまだ形になっていない。
最初の『こんにちは』を聞いた時。
怖かった。
嬉しかったのかもしれない。
でも、すぐに次を決めたいとは思わなかった。
その後も、決めていない。
誰にも急かされていない。
だからこそ、ときどき自分の方から『このままでいいのか』と思う瞬間がある。
「決めてないことが、決めたことみたいになってないかなって」
ようやく出た言葉に、エリスはゆっくり頷いた。
「『決めていない』が『もうしない』みたいになっていないか、ってこと?」
「……うん。たぶん」
「記録は確認できるわよ」
ミレイアが顔を上げる。
「今?」
「見たいなら。見たくないなら、今じゃなくてもいい」
少し考える。
「見る」
「分かった」
エリスは管理記録の本人確認用表示を開いた。
そこには、
『次回接続:まだ決めていない』
とある。
その下。
『現時点で接続予定なし』
さらに、
『本人が希望した場合、再検討可能』
と表示されていた。
ミレイアはしばらく画面を見た。
「『しない』じゃない」
「うん」
「予定がないだけ」
「そう」
ミレイアは小さく息を吐いた。
「じゃあ、このままでいい」
「分かった」
「今日、決めたって意味じゃなくて」
「うん」
「まだ決めてないままでいいってこと」
「そのまま残す?」
「うん」
エリスは記録内容を変更しなかった。
代わりに、本人確認を行ったことだけを管理側の履歴へ残す。
『本人より現表示確認希望。』
『「次回接続:まだ決めていない」「現時点で接続予定なし」「本人希望時再検討可能」を本人確認。』
『本人:「まだ決めてないままでいい」。新規接続希望・拒否いずれもなし。』
ミレイアは画面が閉じられるのを見てから、冷めかけた茶を一口飲んだ。
「雨、本当に降りそう」
「そうね」
「明日、中に干そう」
「そうしましょう」
話は洗濯へ戻った。
◇
その記録が管理側へ反映された時、ノルンはちょうど帰宅準備をしていた。
通知内容を確認し、手を止める。
「ミレイア?」
主様が尋ねた。
「はい」
ノルンは記録を読む。
接続希望ではない。
拒否でもない。
『まだ決めてないままでいい』
現在状態は変わっていない。
けれど、本人が現在表示を見て、『決めていない』が『しない』へ固定されていないことを確認した。
「何か変わった?」
「状態は変わっていません」
「じゃあ何もなし?」
「何もなかったわけではありません」
ノルンは少し考える。
「ミレイアさんが、自分の『まだ決めていない』が今も『まだ決めていない』として残っていることを確認しました」
「それだけ?」
「それで十分でしょう」
主様は数秒考えてから頷いた。
「うん」
ノルンは通知を閉じた。
今日、二度目の接続予定は生まれなかった。
けれど『未定』が『拒否』へ変わってもいなかった。
明日も同じかもしれない。
違うかもしれない。
今は、それ以上を決める必要はない。
◇
古い保管層には、今日確認した研修記録が残っている。
『これは相手の名前ですか。』
最初にそう尋ねた記録上の人物は、研究者ではなかった。
専門的な解析を仕事にする者でもない。
教育用の図を見た、一人の新任職員だった。
その問いに対して、当時の担当者は、
『名称であるとの根拠なし』
と答えた。
次の版では、名前ではないことをもっと大きく書いた。
分からないものを、分からないまま渡そうとした。
それでも、質問は生まれた。
人は並んだ音を見ると、そこに言葉を探す。
繰り返す音を聞けば、意味を探す。
相手がいるかもしれないと知れば、その相手を呼ぶための何かではないかと考える。
それ自体を間違いとは言えない。
ただ、その自然な想像と、確認された事実は同じではなかった。
五年目に入っても、参照7は一人ではない。
『ナ』は名前ではない。
『ラ』も名前ではない。
二つをつないだ言葉も、まだ存在しない。
そしてリディアは、その一年の間も、少なくとも管理記録上は通知条件を変えていなかった。
前の相手だと、ちゃんと分かるくらいになったら。
その時に教えてほしい。
それまでは、自分の生活を続けていた。
ノルンは明日、必要ならその生活記録も読むことになる。
ただし、反応を待つ人の物語を探すためではない。
十三年の中にあった、一人分の日々を失わないために。




