第百六話 『名前に見える』ようになったのは、音が増えた日ではありませんでした
月曜日の朝、ノルンが管理室へ入ると、机の上には週末の間に回ってきた申し送りが三件と、セレナが置いたらしい薄い資料束が一つ増えていた。
窓の外には朝から穏やかな日差しが落ちており、昨日まで空を覆っていた薄い雲もほとんど残っていない。開けた窓から入り込む風は少しだけ冷たく、紙の端を揺らすたび、まだ人の少ない管理室に乾いた音を立てていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
先に来ていたセレナが顔を上げ、それからノルンの手元へ視線を落とした。
「何も持ってない」
「仕事に必要なものは置いてありますから」
「そうじゃなくて、お土産」
「買っていません」
「旅行の本を買ったんですよね?」
上着を脱ごうとしていたノルンの手が止まる。
「……なぜ知っているんですか?」
「主様」
「主様」
名前を呼ぶと、少し離れた窓際から本人が顔を出した。
「楽しかった?」
「まず、私の休日についてどこまで話したのか教えてください」
「本屋で旅行の本を買ったところまで」
「十分です」
「喫茶店でお菓子交換したのは言ってない」
「今言いましたね」
「あ」
セレナが吹き出し、ノルンは小さく息を吐いた。昨日の時間そのものを知られることが嫌なわけではないが、自分のいないところで細部まで報告されるのは別の話だった。
「主様」
「はい」
「次から、私の休日を勝手に業務共有しないでください」
「業務共有じゃないよ」
「では、なおさらです」
「分かりました」
素直に返事をした主様の顔には、まだ笑いが残っている。
ノルンはそれ以上追及せず、自分の席へ座った。鞄の中には昨日買った旅行本はない。昨夜、寝る前にもう少しだけ読むつもりで開き、結局三つの町の記事を読んでから本棚へ置いた。
(あの市場は、少し行ってみたいですね)
海辺の小さな町にある朝市だった。
写真には魚や野菜だけでなく、焼きたての平たいパンのようなものも写っていた。旅行の予定はないし、美咲と行く約束をしたわけでもない。それでも、気になった場所が一つ増えたこと自体は悪くない。
ノルンはそこで休日の思考を切り替え、端末を起動した。
◇
九名の朝は、今日も静かだった。
ルークは朝食を終え、食器を片付けている。
机の端に置いてあった紙の鳥は、棚の上へ移動していた。職員記録によれば、掃除の際に「捨てる?」と聞かれ、ルーク自身が『まだ置いとく』と答えたため、邪魔にならない場所へ動かしただけらしい。
接続についての新しい発言はない。
過去の名前についても、新しい問い合わせはない。
ノルンは記録をそのまま閉じた。
ミレイアは朝から母親と台所に立っている。朝食の片付けをしながら昼に使う野菜の下ごしらえまで済ませているらしく、生活記録には『本人、玉ねぎを切りながら涙。母親に笑われ、「玉ねぎだから」と返答』とだけあった。
「平和」
横から覗いた主様が言う。
「はい」
「玉ねぎ」
「はい」
「泣いた」
「玉ねぎで」
「記録に必要?」
「生活記録としてどこまで残すかは担当側の判断でしょう」
「接続記録にはいらないね」
「当然です」
ミレイアの接続状態は変わらず、
『次回接続:まだ決めていない』
それだけだった。
エリオは共有室で朝から昨日の盤上遊戯について話している。昨夜さらに一戦した結果、三勝二敗になったらしいが、誰が三勝したのかは記録に書かれていなかった。
「そこ書いてほしい」
「主様のための記録ではありません」
「気になるじゃん」
「本人たちに聞きに行かないでくださいね」
「行かないよ」
次回外出は、
『未定』
変化なし。
フローラについては、マリエへ送った手紙が昨日のうちに南区へ届けられたことだけが確認できた。返事はまだない。
アーノルドからの接触もない。
残る管理対象にも、緊急対応を必要とする変化はなかった。
世界側異常なし。
新規転生兆候なし。
九名の生命・生活上の重大問題なし。
ノルンは現在確認を終え、端末の画面を切り替えた。
「今日は続き読む?」
主様が尋ねる。
「午前の通常業務を終えてからです」
「昨日休んだのに」
「休んだからこそ、仕事の順番を変える理由はありません」
「読みたい?」
ノルンは少しだけ考えた。
「読みたいですよ」
「お」
「ですが、今すぐでなくても困りません」
「旅行の本と同じ?」
「何がですか?」
「続きが気になっても、一晩で全部読まなくていい」
「……似ているようで違うと思います」
「違う?」
「こちらは仕事です」
「そこ?」
主様が首を傾げた。
ノルンは笑いをこらえながら、申し送りの一件目を開いた。
◇
午前の通常業務で、最初に確認したのはセレナの試験一覧だった。
先日の、
『必要なら面談してもいい』
という本人発言。
『「必要なら」の判断主体・基準は未確認』
『具体的な面談必要性が生じた時点で確認』
と表示していたにもかかわらず、閲覧した職員が『管理側が必要と判断した場合は面談実施可』と受け取った件について、セレナが表示案を二つ作っていた。
「一つ目がこれです」
画面には、
『本人発言:必要なら面談してもいい』
『未確定:誰が「必要」と判断するか』
『現時点で面談実施への包括同意なし』
と表示されている。
「二つ目は?」
「こっち」
『本人発言:必要なら面談してもいい』
『この発言だけでは面談を開始しない』
『面談実施が必要になった時点で、本人へ確認する』
ノルンは二つを見比べた。
一つ目は情報として正確だ。
二つ目は職員が何をしてはいけないか分かりやすい。
しかし、二つ目だけでは本人の発言に含まれていた条件の曖昧さそのものが見えにくくなる。
「両方?」
主様が言った。
セレナも同じことを考えていたらしく、苦笑した。
「そうすると長いんですよ」
「長いですね」
ノルンも認めた。
「一覧なのに、一件でこれだけ出たら見づらい」
「短くすると意味が落ちる」
「そうなんです」
セレナが机に肘をつきかけ、途中で姿勢を戻した。
「昨日ずっと考えてたんですけど、一覧だけで全部分からせようとするのが無理なのかなって」
「詳細参照を前提にするということですか?」
「はい。ただ、詳細を開かない人がいるから一覧を直してるわけで」
「そうですね」
「戻ってきた」
「戻ってきましたね」
二人で画面を見る。
しばらくして、ノルンは一覧の目的そのものを確認した。
「この一覧で、職員が必ず判断できなければならないことは何ですか?」
「今、何をしていいか」
「では、そこを最優先にしては?」
セレナが視線を上げる。
「本人の過去発言を完全に説明する場所ではなく?」
「過去発言は残します。ただ、一覧上で最も目立たせるものを『現在実施可能な対応』にするという意味です」
「この場合なら?」
「『面談開始不可・必要時に本人確認』でしょうか」
セレナはすぐには入力しなかった。
数秒考え、それから別の試験記録を開く。
『今週は家族への連絡をしないでほしい』
時間条件候補は『今週』。
現在対応は『家族連絡を実施しない』。
別の記録。
『今日は説明を聞きたくない。ただ、明日なら聞けるかもしれない』
現在対応は『本日は説明しない』。
明日については『説明可』ではなく、『本人希望を必要時確認』。
「確かに」
セレナが小さく頷いた。
「過去発言を短く要約するより、今やっていいことを間違えない方を一覧の中心にする」
「ただし、現在対応だけを見て本人の意思そのものだと思われないようにする必要はあります」
「『現在対応』って見出しを大きくする?」
「視覚表示だけに依存しない方がよいでしょう」
「前にも言われた」
「では覚えていてください」
「覚えてますよ」
セレナは笑いながら、新しい試験案を作り始めた。
完成ではない。
これで誤読がなくなる保証もない。
けれど、少なくとも一つの誤読が見つかったことで、次に試せる形は増えていた。
◇
昼前。
フローラのもとへ、マリエからの返事が届いた。
昨日送ったばかりなので、フローラ自身も今日来るとは思っていなかったらしい。侍女から封筒を渡された時、椅子から少し身を乗り出し、差出人を確かめてからすぐに封を開けた。
『フローラへ。
お手紙ありがとう。来てもらえるなら嬉しいです。
護衛の人が二人いても、侍女さんが一緒でも私は大丈夫です。お父さんにも聞きました。お店の人もたぶん驚くけど、困ることはないと思うって言ってました。
ただ、土曜日は市場の日で通りがすごく混むので、できれば土曜日以外の方がいいと思います。
私は来週なら火曜日と木曜日の午後が空いています。
でもフローラの都合が合わなかったら、別の日で大丈夫です。
マリエ』
読み終えたフローラは、便箋を机へ置かず、しばらく両手で持ったまま眺めていた。
「よかったわね」
近くにいた母が微笑む。
「うん」
返事は嬉しい。
護衛がいても構わないと言ってくれたことも、具体的に空いている日を書いてくれたことも嬉しかった。
けれど、そのまま「じゃあ火曜日」と返事をする前に、フローラは窓の外へ目を向けた。
(私の予定、どうなってたっけ)
公爵令嬢としての予定は、自分一人では決められないものもある。
「来週の火曜日と木曜日って、何かあった?」
「確認しましょうか」
「うん」
母が予定表を持ってこさせる。
来週火曜日。
午前は家庭教師による歴史と語学。
午後は空いている。
木曜日は午後に来客予定があった。
「火曜日なら行ける?」
「今のところはね」
「じゃあ火曜日がいい」
言ってから、フローラは少しだけ考えた。
「……でも、マリエが火曜日って書いてくれたから選んでるだけじゃないよね?」
母が予定表から顔を上げた。
「どうしてそう思ったの?」
「分かんない。二つ書いてあったから、どっちか選ばなきゃって思ったんだけど、木曜日は駄目で、火曜日は空いてるから……」
自分でも何を気にしているのか、途中で分からなくなったらしい。
フローラは便箋を持ち直した。
「行きたいんでしょう?」
「うん」
「火曜日の午後は空いている」
「うん」
「マリエさんも火曜日の午後なら空いている」
「うん」
「なら、火曜日を選んでも不思議ではないと思うけれど」
母はそこで一度言葉を止めた。
「ただ、今日決めなければならないわけではないわ」
フローラはもう一度、手紙を見る。
蜂蜜の焼き菓子。
慈善行事で一緒に作業した時の会話。
帰宅してから、連絡先を聞けばよかったと思ったこと。
マリエから手紙が届いた時に嬉しかったこと。
それらを思い返してから、フローラは小さく息を吐いた。
「火曜日に行きたい」
「そう」
「今決めた」
「では、お父様にも確認してから返事を書きましょう」
「うん」
父の予定と護衛手配を確認した結果、火曜日午後で問題はなかった。
フローラは新しい便箋を広げる。
『火曜日の午後なら私も空いていました。私もその日に行きたいです。』
そこまで書いて、少し迷う。
『お菓子、楽しみにしています。』
書いた。
さらに、
『マリエと会うのも楽しみです。』
筆先が止まる。
頬が少しだけ熱くなった。
(これ、変じゃないよね)
恋愛めいた意味ではない。
ただ、会えるのが楽しみなのだ。
慈善行事の作業中に話した相手と、今度は仕事ではない場所で話せる。
それを楽しみに思うのはおかしくない。
フローラは消さなかった。
◇
午後になってから、ノルンはようやく古い保管層を開いた。
昨日は一度も触れなかった記録。
四年目。
反応群G。
参照7。
反復音声様変動A。
『ナ/ア』
別系列短変動。
『レ/ラ/エ』
そしてリディア本人の、
『ナ、みたいに聞こえる』
『名前だとは書かないで』
そこまでが、前回確認した範囲だった。
ノルンは先へ進む前に、今日の目的を短く記した。
『確認対象:反復音声様変動が後世の「名称様音列」へ至るまでの初期変化。』
『確認しないこと:後世の名称仮説を前提に原記録を読むこと。』
「確認しないことも書くんだ」
主様が隣から覗く。
「今回は特に必要です」
「だって後で名前っぽくなるの知ってるもんね」
「はい」
「ナとレとラも知ってる」
「はい」
「つなげたくなる」
「だから、つなげません」
ノルンは検索条件を設定した。
反復音声様変動A。
参照7。
自己識別仮説。
名称関連語。
四年目後半。
検索結果は十三件。
最初の三件は技術的な再解析だった。
変換方式を変更した結果、『ナ』候補の確度がわずかに下がり、『ア』候補との差が縮まっている。
別系列の『レ/ラ/エ』も同様で、処理方式によって第一候補が入れ替わった。
『変換方式甲:レ』
『変換方式乙:ラ』
『変換方式丙:エ』
「全部違う」
主様が言う。
「それだけ変換依存性が高いということでしょう」
「じゃあ、音そのものが変わったわけじゃない?」
「少なくともこの記録では、同じ原反応を別方式で変換しています」
ノルンは比較記録を読む。
当時の技術班も同じ問題を認識していた。
『可聴化結果を原信号そのものとして扱わないこと。』
『人間聴取上の音節近似は解析補助であり、外在側発話の文字起こしではない。』
『複数方式間で近似音が一致しないため、固定表記は避ける。』
そのため、正式記録上の表記は引き続き、
『反復音声様変動A』
『短音声様変動B』
だった。
「まだ名前っぽくない」
「はい」
四件目。
研究班内の小規模検討会。
『A・B各系列について、人間聴取者による印象比較を実施する案。』
目的は、機械変換だけでなく、人が聞いた時にどの程度同じ印象を持つか確認すること。
ただし、リディアは対象から外されている。
『第一接続者本人は既にA系列を聴取し「ナ、みたい」と報告済み。追加比較への参加は、本人の期待形成および接続関連負担を増加させる可能性があるため除外。』
主様が小さく頷いた。
「研究したいからって、また聞かせないんだ」
「そうですね」
聴取者は十二名。
事前に候補音を提示しない。
同じ反応を三種類の変換方式で聞かせる。
結果。
A系列。
『ナ系近似:五名』
『ア系近似:四名』
『音節判別不能:三名』
B系列。
『レ系近似:三名』
『ラ系近似:四名』
『エ系近似:二名』
『音節判別不能:三名』
さらに重要なのは、その後だった。
『AとBを同一発話内の連続要素と感じたか』
『はい:二名』
『いいえ:七名』
『判断不能:三名』
「二人はつながって聞こえたんだ」
「はい。ただし七名は違うと答えています」
「二人が間違い?」
「そうとも言えません。主観聴取ですから」
「じゃあ、二人にはそう聞こえた」
「はい」
続く注意。
『A終了からB開始まで約四・八秒。信号構造上、連続語を示す根拠なし。聴取者二名の連続印象のみをもって音列化しない。』
ここでも、つなげなかった。
◇
五件目は、教育資料ではなかった。
研究会議の配布資料だった。
題名は、
『外在反応における反復構造の分類案』
本文には複数の事例が並んでいる。
参照2。
参照5。
参照7。
参照11。
それぞれに、反復周期や波形特徴、音声様変動の有無が記されていた。
参照7の欄。
『A:反復音声様変動。可聴化近似例「ナ/ア」』
『B:短音声様変動。可聴化近似例「レ/ラ/エ」』
AとBは上下に並んでいる。
間には線がある。
同じ参照束に含まれるが、別系列であることを示す線。
「これなら別って分かる」
主様が言う。
「そうですね」
次の資料。
同じ研究会議の発表用要約。
紙面が狭くなっている。
『参照7:反復音声様変動(A「ナ/ア」・B「レ/ラ/エ」等)』
「近くなった」
「はい」
まだAとBの記号は残っている。
別系列だと読める。
さらに次。
半年後に作成された、新任研究員向けの内部資料。
『参照7では「ナ」「レ」「ラ」等に近似する音声様反応を複数確認。』
ノルンの指が止まった。
主様も黙る。
原記録では、
A系列の候補が『ナ/ア』。
B系列の候補が『レ/ラ/エ』。
変換方式によって第一候補も変わる。
AとBの間は約四・八秒。
連続発話ではない。
それが半年後の内部資料では、
『「ナ」「レ」「ラ」等に近似する音声様反応を複数確認』
になっている。
「間違っては……ない?」
主様が慎重に言った。
「一つ一つだけを見れば、完全な虚偽ではありません」
「でも、AとBが消えた」
「時間間隔も」
「アとエも」
「はい」
何を残すか。
何を省くか。
紙面を短くするだけでも、見え方は変わる。
ノルンはさらに資料の作成目的を確認した。
『新任研究員向け・代表的外在反応例の概説』
詳細解析を教えるための資料ではない。
各参照束にどのような特徴があるか、短時間で把握させるためのものだ。
「悪意でつなげたわけじゃない」
「その証拠もありません」
「分かりやすくした?」
「おそらく目的の一つはそうでしょう。ただし、作成者の意図まで断定はしません」
ノルンは資料の末尾を見る。
『詳細は原解析記録参照。』
原記録は消えていない。
ただ、概説だけを読む者には、AとBが別系列であることも、四・八秒離れていることも、候補が変換方式に依存することも見えない。
そして。
この時点でもまだ、『名前』とは書かれていなかった。
◇
六件目。
さらに八か月後。
別の研究班が、外在反応の自己識別可能性について横断的な検討を始めている。
参照7だけではない。
参照3、参照9、参照14。
反復する音声様信号を持つ複数の記録束が比較されていた。
『自己識別信号仮説』
そこには、最初から慎重な但し書きがある。
『本項でいう自己識別とは、外在主体が自身を他対象から区別するために用いる何らかの信号を仮定した研究上の概念であり、人間社会における個人名と同義ではない。』
「ここ大事」
主様が言う。
「はい」
参照7については、
『同一または近似する反復要素が複数時点で確認されることから、主体側が一定の機能を持たせている可能性を検討する価値あり。』
しかし、すぐ後に、
『参照7自体が単一主体を保証しないため、同一主体による反復であることも未確定。』
とある。
「仮説の前提から分からないんだ」
「そういうことになります」
『仮に同一主体による反復であった場合も、自己識別、相手識別、接続確認、状態表示、周期同期その他を区別できない。』
ノルンはその一文を記録した。
さらに読み進める。
研究会議の質疑応答。
『質問:参照7の可聴化結果「ナ」「レ」「ラ」等を、仮の識別音列として利用できないか。』
回答。
『不可。複数系列・複数変換候補を恣意的に連結することになる。現時点で一つの音列として扱う根拠がない。』
「はっきり書いてる」
「はい」
『質問:便宜上の呼称として研究班内のみで使用する場合はどうか。』
『回答:呼称化によって解析者側の期待が固定されるため推奨しない。参照番号を使用すること。』
ノルンは小さく息を吐いた。
参照番号を名前にしないための注意。
音を名前にしないための注意。
当時の人々は、かなり意識して線を引いている。
それでも後世では、『名称様音列』になる。
(どこで変わったのでしょう)
直接的な疑問が頭の中に浮かび、ノルンは検索結果の残りへ視線を移した。
七件。
まだある。
だが、一度に全部読む必要はない。
「休憩する?」
主様が尋ねた。
「そうですね」
「珍しい」
「昨日休んだからといって、今日休憩しなくてよくなるわけではありません」
「それもそうだ」
◇
休憩室には、午後の日差しが斜めに差し込んでいた。
窓際の席では二人の職員が遅めの昼食を取っており、奥では別の職員が湯を沸かしている。ノルンは紅茶を淹れ、空いている席へ座った。
少し遅れてセレナも入ってくる。
「進みました?」
「少し」
「名前でした?」
「まだ名前ではありません」
「まだ?」
セレナが聞き返したので、ノルンは言葉を選んだ。
「後世では名称のように扱われる資料がありますが、今確認している時点では、研究側がむしろ名称化を避けています」
「へえ」
「複数の音声様変動を一つにつなげる根拠がない、と明記されています」
「じゃあ後で何か見つかった?」
「分かりません」
「まだ読んでないんですね」
「はい」
セレナは自分の飲み物を一口飲んだ。
「気になる」
「私もです」
「主様と同じこと言ってますね」
「気になるものは気になります」
「でも、先に後の資料読んでると難しそう」
「難しいですね」
「だって『後で名前っぽくなる』って知ってるんでしょう?」
「はい」
「そしたら途中の音、全部名前の材料に見えそう」
ノルンはカップを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「そうならないように読んでいます」
「できてます?」
「そのつもりです」
「厳しい」
「自分で確認しないと危ないので」
セレナは頷いた。
その時、近くで昼食を取っていた職員が立ち上がり、食器を返却口へ運んでいった。椅子の脚が床を擦る音がして、また静かになる。
「そういえば」
セレナが言う。
「昨日、楽しかったですか?」
ノルンはカップを置いた。
「主様から聞いたんでしょう」
「旅行本を買ったところまで」
「その言い方まで同じですね」
「で?」
「楽しかったですよ」
「即答」
「楽しかったので」
セレナは少し笑った。
「次も行くんですか?」
「新しい店には、また行ってみたいと話しました」
「予定は?」
「決めていません」
「じゃあ、そのうち」
「そうですね」
それで会話は終わった。
セレナは誰と行ったのかを細かく聞かなかったし、ノルンも説明しなかった。
休憩時間が終わる頃、ノルンは空になったカップを片付けた。
◇
午後遅く。
フローラの手紙が南区へ送られた。
火曜日。
午後。
護衛二名。
侍女一名。
馬車は大通り付近まで。
そこから徒歩。
公爵家側の条件も決まり、マリエ側が問題ないと答えれば、初めて具体的な予定になる。
ただし、まだマリエの最終返事は届いていない。
ノルンはその記録を確認しただけで、外出確定とは扱わなかった。
ルークにも変化はない。
ミレイアにも。
エリオにも。
何も起きない時間が続いている。
それは停滞ではない。
少なくともノルンは、そういう名前を付ける必要を感じなくなっていた。
◇
業務終了まで少し時間が残っていた。
ノルンは古い記録へ戻った。
検索結果の七件目。
日付は、先ほどの自己識別信号仮説検討から三か月後。
題名。
『外在反応教育用基礎図版・試作』
「教育用」
主様の声が少し低くなった。
「はい」
ノルンも画面へ視線を固定する。
研究資料ではない。
新任研究員向けの概説でもない。
より広い職員向けに、外在反応の特徴を説明するための図版だった。
最初の頁には、
『外在反応には、一定の反復構造が観測される場合がある。反復は意味・言語・個体識別を直ちに示すものではない。』
と書かれている。
注意は残っている。
次の頁。
波形例。
参照3。
参照9。
そして参照7。
そこに、可聴化例が文字で添えられていた。
『A系列:ナ』
『B系列:ラ』
候補が一つずつになっている。
ノルンは原資料を横に開いた。
A系列。
『ナ/ア』
B系列。
『レ/ラ/エ』
試作図版では、各系列から一つだけが選ばれている。
「なんでナとラ?」
「説明があります」
図版下部。
『視認性確保のため、各系列の代表的可聴化例を一件ずつ掲載。代表例は複数変換方式・複数聴取者における出現頻度を参考に選定。』
「一応理由はある」
「はい」
『代表例は原信号の確定音価を意味しない。』
「注意もある」
「あります」
そして、AとBの間には十分な空白がある。
縦に別々に配置されている。
まだつながってはいない。
次頁の説明。
『参照7に見られるように、一つの参照束内で複数種類の音声様変動が観測される場合がある。これらが同一主体由来か、意味的に関連するかは個別検討を要する。』
ノルンはページを閉じなかった。
「これが第三教育版?」
「いいえ。その前段階の試作資料です」
「じゃあ、まだ先がある」
「はい」
検索結果八件目。
同じ図版の改訂案。
AとBはまだ別。
ただし、紙面構成が変わっていた。
横長の一枚へ複数事例を収めるため、参照7の欄が狭くなっている。
『参照7』
『ナ / ラ』
A、Bの記号が消えていた。
「……消えた」
「はい」
下部には、
『複数系列の代表例。意味上の連続性を示さない。』
という注記がある。
「注意は残ってる」
「残っています」
しかし、見る順番は変わる。
大きく表示された、
『ナ / ラ』
その下に、小さな注意。
元の研究記録を知らない人間が見れば、二つの音が同じ対象から出た何らかの組み合わせに見えても不思議ではない。
さらに九件目。
試用した職員からの意見。
『図版が分かりやすい。』
『反復構造の違いを比較しやすい。』
『参照7の「ナ/ラ」が何を意味するか質問が多かった。』
回答案。
『意味不明。音声様変動の代表例であり、名称等ではない。』
別の意見。
『「ナ/ラ」が一つの語か二つの語か分かりにくい。』
修正提案。
『「ナ」「ラ」と引用符を分ける。』
採用。
「つなげないために直したんだ」
「そう見えます」
次の試作では、
『「ナ」 「ラ」』
になっている。
その下。
『意味上の関連なし。』
ノルンは画面を見つめた。
後世で確認した第三教育版には、
『視覚的理解を助けるため、複数時点の代表音を横並びに配置。意味上の関連なし』
という注意があった。
その起点が、ここに見えてきた。
「じゃあ第三版の人たちは、つなげたかったわけじゃない」
「少なくとも今確認している資料では、逆です」
「つながって見えないように直してる」
「はい」
主様が少し困った顔をする。
「でも、後で名称様音列になる」
「そうですね」
「どうやって?」
「まだ分かりません」
その答えを急がないために、ノルンは十件目をすぐには開かなかった。
◇
時計を見ると、業務終了時刻を少し過ぎていた。
「続き」
主様が言う。
「明日にします」
「ここで?」
「ここだからです」
「あと四件」
「検索結果は十三件ですが、その四件だけで答えが出るとは限りません」
「確かに」
「それに」
ノルンは保存用の調査メモを開いた。
今日確認したことを、後世の結論から離して書く。
『四年目後半:反復音声様変動A・短音声様変動Bは、変換方式によって近似音候補が変動。可聴化結果は原信号の文字起こしではないと明記。』
『人間聴取比較でもA・Bを連続要素と感じた者は少数。信号構造上の連続語根拠なし。』
『研究段階の自己識別信号仮説は「個人名」と明確に区別され、参照7が単一主体かも未確認。複数系列を仮識別音列として連結する案は明示的に却下。』
『後の内部概説でA/B区別・時間間隔・一部変換候補が省略され、「ナ」「レ」「ラ」等という近接表現が生じる。ただし名称とは記載されない。』
『教育用基礎図版試作では視認性のためA「ナ」、B「ラ」を代表例として選択。後の紙面圧縮でA/B記号が消え「ナ」「ラ」が横並びとなるが、作成側は「意味上の関連なし」を明記し、連続語と誤認されないよう引用符分離も実施。』
『現時点では、教育資料作成者が名称化を意図した証拠なし。むしろ初期段階では連結・名称化を避ける対応が複数確認される。』
最後に一行。
『「名前に見える配置」と「名前として扱った記録」を区別する。』
保存。
「名前に見える配置」
主様が読む。
「はい」
「名前じゃない」
「少なくとも、この時点では」
「でも見た人が名前だと思うかもしれない」
「その可能性はあります」
「じゃあ、その人がまた誰かに説明したら?」
「それも、これから確認します」
ノルンは端末を閉じた。
◇
管理室を出る前、携帯端末に短い通知が届いた。
美咲だった。
『昨日見てた本、私も結局ちょっと欲しくなった(笑)』
その下に、
『でも買ったお菓子の本もまだ全然読んでない』
と続いている。
ノルンは立ったまま返信を考えた。
『先にお菓子の本を読んだらどうですか』
入力してから、一度消す。
代わりに、
『旅行の本も面白かったですよ。お菓子の本を読み終えてからでも困りません』
と打った。
送信。
数秒後。
『その言い方、今日仕事でなんかあった?』
ノルンは画面を見つめた。
「……鋭いですね」
「美咲?」
「はい」
「何て?」
「秘密です」
「昨日、休日を共有するなって怒られたから聞かない」
「学習しましたね」
「評価しないで」
昨日、自分が言われた言葉を返され、ノルンは少し笑った。
美咲には、
『少しだけ。でも今は仕事の話はしません』
と返した。
『了解。じゃあまた今度!』
それで終わった。
ノルンは携帯端末を鞄へ入れた。
◇
同じ頃。
フローラの手紙は南区へ向かっていた。
マリエの返事が届けば、来週火曜日の外出が決まるかもしれない。
決まらないかもしれない。
ルークは紙の鳥を棚へ残したまま、一日を終えた。
ミレイアは昼に使った玉ねぎについて、夕食時になって母親からもう一度からかわれた。
エリオは盤上遊戯の勝敗を巡って相手と言い合いになり、五分後には次の対局を始めていた。
誰も、古い記録の中にある『ナ』を知らない。
誰も、『ラ』を知らない。
リディアだけが、かつて一つの音を聞いて、
『ナ、みたいに聞こえる』
と答えた。
それ以上の意味を付けないでほしいとも言った。
◇
古い保管層には、今日ノルンが閉じた図版が残っている。
『「ナ」 「ラ」』
その下には、小さな文字で、
『意味上の関連なし』
と書かれていた。
音が増えたから、名前になったわけではない。
誰かが突然、嘘の名前を書いたわけでもない。
むしろ、この時点の人々はつながらないように線を引き、注記を足し、引用符を分けていた。
それでも、後世には別の形が残っている。
ならば確認すべきなのは、音そのものだけではなかった。
線が消えた時。
注記が小さくなった時。
説明する相手が研究者から職員へ、職員から学習者へ変わった時。
そして、誰かが初めて「これは何という名前なのか」と尋ねた時。
どこかで、分からないものを分かりやすくするための小さな選択があったはずだった。
ただし、それが一度だったのか、何度も積み重なったのかは、まだ分からない。
ノルンはその答えを、今日のうちには読まなかった。
明日も記録は残っている。
そして、記録の外にいる九人の今日もまた、明日へ続いていく。




