第百五話 『ナ』に聞こえた音を名前にしなかった人たちは、その音が誰のものかも知りませんでした
朝の管理区域には、昨日より少し強い風が吹いていた。
正面棟の前に並ぶ木々は枝先を細かく揺らし、まだ柔らかな若葉が裏返るたび、緑の濃淡が波のように変わって見える。雲は高く、雨の気配はないものの、開け放した窓から入る風は書類を押さえていなければ端をめくってしまう程度には強かった。
ノルンは管理室へ入ると、窓際に積まれていた紙束の上へ重石を置いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
セレナはすでに席にいた。
昨日とは違って紙袋も持っていない。
「今日は並ばなかったんですね」
「毎日あの店に寄ってるわけじゃありませんよ」
「そうですか」
「昨日の焼き菓子、食べました?」
「帰宅後に」
「何味でした?」
「蜂蜜と木の実でした」
「あ、それ当たりです」
「当たり?」
「三種類あったんです。蜂蜜と木の実、林檎、香草チーズ」
「中身を知らずに買ったんですか?」
「袋を選べなかったので」
「そうだったんですね」
セレナは自分の席へ戻り、ノルンも荷物を置いた。
いつも通りの朝だった。
けれど、昨日閉じた端末の中には、まだ開いていない記録がある。
『参照7関連・自発反応内に反復音列候補』
後世に追加された参照タグは、
『自己識別様反応研究・初期資料』
となっていた。
後世の研究資料だけを先に読んでいた頃なら、その題名だけでいくつもの仮説を考えていたかもしれない。
だが、今は違う。
Gは人ではない。
参照7も人ではない。
一つの番号が一つの個体を意味するわけでもない。
その状態を崩さずに、次の記録を読む必要がある。
「今日は音?」
主様がいつの間にか隣へ来ていた。
「まず現在確認です」
「知ってた」
「なら聞かないでください」
「でも昨日から気になってる」
「私もです」
「お」
「何です?」
「普通に気になるって言った」
「調査対象なのですから、気になるでしょう」
「昨日も同じこと言ってた」
「では驚かないでください」
主様は楽しそうに笑った。
ノルンは九名の現在状態を開いた。
◇
大きな変化はなかった。
ルークは朝食中。
生活記録には、昨日作った紙の鳥らしきものがまだ机の端に置かれていることだけが記されていた。保存を希望したわけでもなく、捨てたくないと強く主張したわけでもない。ただ昨日の夜、『まだ置いとく』と答えたため、そのままになっている。
接続についての新しい発言はない。
ミレイアも通常の日課。
『次回接続:まだ決めていない』
変更なし。
接続について新しい質問も、希望も出ていない。
エリオ。
『次回外出:未定』
こちらも変わらない。
昨夜の盤上遊戯はさらに一戦して負けたらしく、二勝二敗になっていた。
「並んだ」
主様が言う。
「何がですか?」
「盤上遊戯」
「そうですね」
「今日決着かな」
「本人たちが遊ぶなら」
「勝った方が次の外出を決めるとか」
ノルンが黙って主様を見る。
「冗談」
「本人の選択を賭けにしないでください」
「はい」
主様は素直に引き下がった。
フローラは、昨日マリエから届いた返書を受け、南区の菓子店へ一緒に行ってみたいと家族へ伝えている。
ただし、日付はまだ決まっていない。
公爵家の娘として必要な護衛や移動方法について、家族で相談している段階だ。
アーノルドからの接触はない。
他の管理対象にも、緊急対応を必要とする変化はなかった。
世界側の異常なし。
新規の転生兆候なし。
九名の管理状態にも重大な変化なし。
ノルンは確認画面を閉じた。
「では」
主様が期待した顔をする。
「何ですか?」
「音」
「開きます」
◇
最初に表示されたのは、音そのものではなかった。
反応特性別仮分類が導入され、G群を含む複数分類が試験運用され始めた後の観測記録。
恒久参照番号も、すでに導入されている。
参照7。
この時点では一人の個体を意味しない。
主にG群内の反復系列と対応する記録束。
一部のC群旧記録との関連候補もある。
一番号一個体ではない。
発見順でも重要度でもない。
その参照7へ、新しい反応記録が暫定追加されていた。
『自発反応・連続時間二十六秒』
『既知呼びかけなし』
『管理側送信なし』
『外在側と推定される断続反応を観測』
『G群特徴との部分一致あり』
『参照7記録束へ暫定追加』
ノルンは次へ進む。
解析担当者の記録。
『反応中、短い音声様変動が三回確認された。』
主様が少し身を乗り出した。
「三回」
「はい」
『一回目:音節相当性不明。』
『二回目:一回目と部分類似。』
『三回目:類似構造を再確認。』
『音声変換上、「ナ」または「ア」に近似する可能性。ただし変換誤差大。』
主様の口がわずかに開いた。
「……ナ」
「そう記録されています」
ノルンは、それ以上の意味を付けずに続きを読んだ。
『「ナ」と表記すること自体が聴取者の言語体系による便宜的近似であり、外在反応側の音素構造を示すものではない。』
「最初から注意してる」
「はい」
『反復しているため意味単位である可能性は否定できない。ただし、同一音の反復が自己名、呼称、応答語、状態表示、機械的周期、その他のいずれに該当するか判断不能。』
自己識別。
相手への呼びかけ。
肯定や応答。
接続維持に伴う周期的変動。
環境由来。
変換処理によって生じた擬似的な反復。
当時の解析班は、考えられる可能性を並べている。
どれも排除できない。
どれも確定できない。
「名前も候補には入ってる?」
「自己名という可能性は挙げられています」
「でも、それだけじゃない」
「はい」
主様はしばらく画面を見ていた。
「リディアさんには?」
「この時点では通知されていません」
「反応はあるのに?」
「本人が希望した通知条件を満たしていないと判断されています」
ノルンは会議記録へ進んだ。
◇
技術班と管理班の意見は割れていた。
『反復音声様構造は、これまでの低確度反応より意味性が高い可能性がある。本人通知条件に該当するのではないか。』
それに対する意見。
『反復性が高まったことと、初回接続対象との同一性が高まったことは別。本人希望は「前の相手だって、ちゃんと分かるくらいになったら」であり、現時点では条件未達。』
別案。
『本人へ「意味を持つ可能性のある反復音が検出された」とのみ通知し、詳細聴取希望を確認してはどうか。』
反対意見。
『意味性自体が未確認。「意味を持つ可能性」と伝えることで、本人へ言語としての解釈を誘導する危険がある。』
主様が眉を寄せた。
「何て言えばいいの?」
「それを当時の人たちも考えています」
「『音がありました』じゃ駄目?」
「音と認識しているのは変換後のこちら側です」
「じゃあ『変動がありました』?」
「本人にとって何を聞くことになるのか分かりにくいでしょうね」
「……難しい」
「はい」
最終判断。
『本人通知は現段階では実施しない。』
理由も残っている。
『本人が希望する通知条件である初回接続対象との高確度同一性、または直接接続可能性のいずれも確認されていない。管理側の関心上重要であることと、本人通知上重要であることを分離する。』
ノルンはそこで一度止まった。
研究者にとって重要。
管理者にとって重要。
後世から見れば、さらに重要になるかもしれない。
しかし、それだけで本人が今すぐ知らなければならない情報にはならない。
「リディアさんは、この時まだ『ナ』を知らない」
「はい」
「後で知る?」
「まだ読んでいません」
「でも第一接続者の記録なのに」
「第一接続者だからすべて知らされていた、とは限りません」
「うん」
主様は頷いた。
ノルンは次の記録へ進む。
◇
十一日後。
同様の反応が再び観測されていた。
継続時間十四秒。
G群特徴との部分一致。
参照7へ暫定追加。
音声様変動は二回。
変換候補。
『ナ』
『ア』
『不明』
さらに六日後。
継続時間三十一秒。
今度は音声様変動が五回。
ただし、すべてが同じではない。
『第一候補「ナ」二件』
『第一候補「ア」一件』
『母音のみ推定一件』
『変換不能一件』
解析班の中では、この反応をまとめて『ナ系列』と呼ぶ案も出ていた。
しかし、正式には採用されていない。
『「ナ」系列と呼称する場合、便宜的な変換結果が対象側の固定特性として認識される危険あり。採用せず。』
正式な内部表記は、
『参照7内反復音声様変動A』
となった。
「急に堅い」
「管理用ですから」
「でも、その方が名前っぽくないね」
「それも意図に含まれているでしょう」
その下。
研究員の自由記述に、後世へつながる言葉が初めて現れる。
『反復性から、外在主体による自己識別信号の可能性を検討してもよいのではないか。』
「自己識別」
主様が呟く。
「仮説です」
すぐ下には反対意見がある。
『時期尚早。反復=自己識別とする根拠なし。呼びかけ、応答、周期信号等を排除できない。』
『仮に自己識別であっても、それが個体名に相当するとは限らない。所属、位置、状態、役割その他の可能性あり。』
『現在の変換音「ナ」自体が原信号の安定した音価である保証もない。』
ノルンは三つの記録を並べた。
反復している。
同じような変換候補が複数回出ている。
自己識別の可能性を考えた研究者もいる。
だが。
自己識別かどうか分からない。
自己識別だったとしても名前かどうか分からない。
名前だったとしても『ナ』なのか分からない。
そもそも参照7が一人の主体なのかも分からない。
「後の資料では、もっと名前っぽくなるんだよね」
「第五版では『名称様音列』、第六版では『自己名と推定される断片的音声』という表現が確認されています」
「ここからそこまで行くんだ」
「間に何があったのかを確認する必要があります」
最初は、
『反復音声様変動A』
だった。
◇
午前の調査をそこで区切り、ノルンは通常業務へ戻った。
セレナの試験一覧にも、別の問題が出ている。
「これです」
表示されたのは、
『必要なら面談してもいい』
という本人発言。
現在は、
『「必要なら」の判断主体・基準は未確認』
『具体的な面談必要性が生じた時点で確認』
と表示している。
それでも別の職員が、
『本人は必要時の面談に同意済み』
と申し送りへ書こうとしたらしい。
「止めましたけどね」
セレナが椅子の背にもたれる。
「元の発言も表示してるし、条件未確認って書いてある。それでも『必要な時は面談していい』って読む人がいる」
「その職員は、誰が必要性を判断すると思ったのでしょう」
「管理側です」
「本人側という可能性は?」
「そこまで考えなかったって」
ノルンは画面を見る。
記録内容そのものが間違っているわけではない。
条件未確認も明示されている。
それでも、読む人が自然に主語を補ってしまう。
「本人へ確認します?」
「具体的な面談予定はありますか?」
「ありません」
「なら、今すぐ聞く必要はないでしょう」
「ですよね」
「ただ、今回の誤読は試験評価へ残した方がよいと思います」
「本人記録じゃなくて?」
「はい。本人の意思が変わったわけではありませんから」
セレナは頷き、入力する。
『試験表示上、「必要なら」の判断主体未確認を明記していたが、閲覧者が管理側必要性による包括的同意と解釈。表示改善要検討。本人意思の変化ではない。』
「こういうの、終わりがない気がしてきました」
「終わらせることを優先すると、別の問題が出るかもしれません」
「でも、いつまでも試験ってわけにもいかないですよ」
「試験を終えることと、今後変更しないことは別です」
セレナが少し考える。
「正式運用にしても、問題が出たら直す?」
「その方が自然では?」
「完成版を作るって考え方が違うのかな」
「完全に誤読されない表示を作るのは難しいと思います」
「……それ、ちょっと気が楽です」
「よかったですね」
「でも仕事は減ってない」
「それは別です」
「そこは優しくない」
セレナが笑う。
ノルンも小さく笑ってから、自分の席へ戻った。
◇
午後。
フローラは両親と一緒に、南区への外出について話していた。
「行くこと自体は問題ない」
父の言葉に、フローラの表情が明るくなる。
「本当?」
「ああ。ただし護衛なしというわけにはいかない」
「うん」
「馬車も使う」
「お店の前まで?」
「その方が安全ではあるな」
フローラは少し考え込んだ。
マリエと一緒に、南区の菓子店へ行く。
蜂蜜の焼き菓子を食べる。
手紙を読んだ時には、それだけを想像していた。
けれど公爵家の紋章が入った馬車を店の正面へ止め、何人もの護衛を引き連れて入る姿を思い浮かべると、自分が望んでいたものとは少し違う。
「……目立つよね」
「目立つでしょうね」
母が答える。
「マリエ、困らないかな」
「それはマリエさんに聞かなければ分からないわ」
「でも、『公爵家のお嬢様が普通に遊びに来られるか分からない』って書いてた」
「なら、どんな形なら行けそうか伝えてみたら?」
「どんな形?」
「馬車を少し離れた場所に止めることもできるでしょうし、護衛についてもお父様と相談できるわ」
父が頷いた。
「護衛二名。侍女一名。南区の大通りまで馬車で行き、そこから徒歩なら調整できる」
「二人……」
「多いか?」
「分かんない」
フローラは正直に答えた。
自分にとって護衛二人は珍しくない。
しかし、マリエにとってどう見えるのかは分からない。
「マリエに聞いてみてもいい?」
「もちろんだ」
「嫌だったら?」
「別の会い方を考えればいい」
父の返事は簡単だった。
行ける方法が一つしかないわけではない。
フローラは少し安心して、便箋を用意した。
『家の人に相談したら、南区へ行ってもいいと言ってもらえました。私も行きたいです。』
そこまで書き、続ける。
『ただ、護衛の人が二人と侍女が一人一緒になります。馬車は少し離れたところに止めてもらえるそうです。そんな感じでも大丈夫ですか?』
少し考えてから、
『大丈夫なら、日にちはまた相談したいです。』
と加えた。
「できた」
「では送ってもらいましょう」
「うん」
フローラは封筒を閉じる。
まだ日付はない。
マリエがどう答えるかも分からない。
それでも、自分が行きたいことだけはもう伝えられた。
◇
午後遅く。
ノルンは四年目の原記録へ戻った。
参照7内反復音声様変動A。
その約一か月後。
反応が再び現れている。
今度は、反復していた変動とは少し違う短い音声様変動が、一度だけ確認されていた。
『音声様変動A終了後、約四・八秒後に別種短変動を検出。』
変換候補。
『レ』
『ラ』
『エ』
いずれも確度は低い。
「レとラ」
主様が言う。
「候補です」
「ナの後?」
「約四・八秒後です。ただし、同一の連続発話とは認定されていません」
原記録にも明記されている。
『反復音声様変動Aとの意味的関連は不明。連続発話ではない。』
さらに、
『二つを連結して表記する根拠なし。』
という注意まである。
「じゃあ、『ナレ』とか『ナラ』じゃない」
「少なくとも原記録上は、そのように扱っていません」
「後では並ぶんだよね」
「教育資料の一部では」
当時の解析班が作成した比較表。
『A系列 ナ/ア』
『B系列 レ/ラ/エ』
『未分類 母音様』
横並びではある。
しかし、時間順の発話記録ではない。
種類別の比較表だ。
『視認性のため同一図表上に配置する場合も、連続音列と誤認されないよう時間間隔を明示すること。』
後の第三教育版にあった、
『視覚的理解を助けるため、複数時点の代表音を横並びに配置。意味上の関連なし』
という注意書き。
その起点に近いものがここにあった。
「最初は、並べてもつなげるなって言ってる」
「はい」
さらに重要な記録。
『自己識別仮説について、本人への提示は行わない。』
理由。
『仮説を提示した場合、以後の本人聴取が名前様音列を期待する可能性がある。』
『期待形成後の主観報告は、独立した識別根拠として扱いにくくなる。』
名前かもしれない。
そう教えられれば、名前として聞こうとする。
『ナ』と聞こえる。
そう言われれば、次も『ナ』を探す。
当時の管理者たちは、それを避けようとしていた。
◇
数日後。
今度はリディア本人から質問があった。
『本人:「最近、何か分かった?」』
担当者は以前の希望条件を確認している。
初回接続対象との同一性は未確認。
直接接続可能性も未確認。
『本人:「じゃあ、まだ分かんない?」』
『担当者:「はい」』
『本人:「前よりは?」』
ここで、担当者が回答に迷ったことも記録されていた。
反応解析上は、新しい特徴が見つかっている。
しかし、それは『前の相手である可能性が上がった』という意味ではない。
最終的な回答。
『担当者:「反応について新しく分かったことはありますが、それが前の相手だと判断できる状態にはなっていません」』
リディアはしばらく黙った。
『本人:「新しく分かったことって、聞いてもいい?」』
担当者は、以前リディアが『分類記号の変化は逐次通知不要』と答えていたことを説明する。
『本人:「文字の話?」』
『担当者:「文字だけではありません」』
『本人:「じゃあ聞きたい」』
担当者は、すぐに再生しなかった。
『現在、意味を持つか不明な反復構造が確認されている。言語かどうかも不明。聴取によって特定の意味を感じる可能性があるが、解析上その意味を保証できない。』
『本人:「前みたいなやつ?」』
『担当者:「以前より反復性があります」』
『本人:「聞く」』
その後にも確認がある。
『名称・自己識別等の仮説を提示しない状態での聴取を推奨。』
『本人:「なんで?」』
『担当者:「先に候補を聞くと、そのように聞こえる可能性があるためです」』
『本人:「じゃあ何も言わないで」』
再生。
一度目。
リディアは何も言わなかった。
二度目。
『本人:「……同じの?」』
『担当者:「解析上、部分的に類似しています」』
『本人:「何て言ってるかは分からない」』
『担当者:「はい」』
『本人:「もう一回」』
三度目。
記録には、リディアが首を傾げたとある。
『本人:「ナ、みたいに聞こえる」』
主様が何も言わずに画面を見る。
ノルンも続きを読んだ。
『担当者:「その印象を記録しますか」』
『本人:「他の人は?」』
『担当者:「先に他者の聴取結果を伝えると、本人の判断へ影響する可能性があります」』
『本人:「じゃあ、私が先?」』
『担当者:「あなたへの提示前に解析担当者は変換候補を記録していますが、現在は提示していません」』
『本人:「……私もナって聞こえたってこと?」』
『担当者:「解析候補はまだ伝えません」』
『本人:「分かった」』
少し考えた後。
リディアは言った。
『本人:「私がナって聞こえたのは残していい。でも名前だとは書かないで」』
ノルンの指が止まった。
『本人:「何か分かんないから。ナって聞こえただけ」』
正式記録。
『本人主観聴取:「ナ、みたいに聞こえる」。本人希望により、名称・自己識別等の意味付与なし。』
その後で初めて、解析担当者側の変換候補が提示される。
『解析変換第一候補「ナ」、第二候補「ア」。』
『本人:「同じだったんだ」』
『担当者:「近似結果が一致しただけで、実際の音価や意味が確定したわけではありません」』
『本人:「うん」』
別系列の『レ/ラ/エ』は、その日リディアへ提示されていない。
『同一反応内ではあるが時間的に分離しており、A系列との意味的関連が未確認。複数候補を同時提示することで本人が連結解釈する可能性を避ける。』
「リディアさんも、名前にしなかった」
主様が言った。
「はい」
「『ナ』って聞こえたことは残した」
「はい」
「でも、それ以上は残さなかった」
「正確には、それ以上の意味付けを希望しなかった、ですね」
聞こえたことまで消す必要はない。
しかし、分からないものを名前へ進める必要もない。
その二つは両立していた。
◇
ノルンは四年目の調査をそこで終えた。
まだ先はある。
反復音声様変動が、その後どう分類されていくのか。
『レ』『ラ』に近い別系列が、どのように教育資料で並べられていったのか。
自己識別仮説が、いつ『名称様音列』へ変わったのか。
参照7が、いつ一個体のように扱われ始めたのか。
何一つ、まだ答えは出ていない。
調査メモを整理する。
『四年目:参照7関連記録内に反復音声様変動を確認。初期変換候補「ナ/ア」。反復性あり。ただし意味性、自己識別性、個体名性はいずれも未確認。』
『初期研究段階で自己識別信号仮説が提示されるが、呼びかけ・応答・周期信号・環境由来・変換誤差等を排除できず。仮に自己識別でも個体名とは限らない。』
『別系列短音「レ/ラ/エ」候補が同一反応内の時間的に離れた位置で検出。反復音声様変動Aとの意味的関連は未確認。原記録上、連続音列ではない。』
『リディア本人へ後日反復音を提示。事前に解析候補・自己識別仮説を知らせず聴取。本人主観:「ナ、みたいに聞こえる」。本人希望:「私がナって聞こえたのは残していい。でも名前だとは書かないで」「何か分かんないから。ナって聞こえただけ」。』
『リディアには同時点で「レ/ラ/エ」系列を提示せず。複数候補の連結解釈を避けるため。』
『後世の「名称様音列」「自己名と推定される断片的音声」への変化は未確認。』
そして最後。
『現時点でも、参照7=一個体、第七外在個体等の同一性は未証明。』
そこまで入力し、保存した。
「終わり?」
主様が尋ねる。
「今日の調査は」
「続き気になる?」
「気になります」
「でも?」
「明日は日曜日です」
主様が瞬きをした。
「あ」
「美咲さんとの予定があります」
「二時!」
「覚えていたんですね」
「新しい店!」
「はい」
「本屋!」
「時間と体力が残っていれば、です」
「雨は?」
「今のところ曇り予報です」
「じゃあ行けそう」
「当日の状況次第ですね」
ノルンは端末を閉じた。
四年目の途中。
G。
参照7。
反復音声様変動。
『ナ』
後世から見れば、重要に見えるものがいくつも並び始めている。
それでも明日は休日だった。
◇
その夜。
ノルンは自宅で、小さな鞄を用意していた。
財布。
携帯端末。
折り畳み傘。
薄い布袋。
本屋へ寄った時、本が増えても困らない程度の余裕を残しておく。
服を決めるのには、仕事の日より少し時間がかかった。
仕事着なら迷う必要はない。
休日に美咲と出かけるだけなのに、上着を一度替え、鏡の前で首を傾げ、結局最初に選んだものへ戻した。
「……これでいいですね」
誰に言うでもなく呟いたところで、携帯端末が震えた。
美咲からだった。
『明日、雨大丈夫そう! 予定通り二時で!』
ノルンは短く返信する。
『分かりました。二時にいつもの場所で』
送信した後、机の端に置いてある仕事用端末へ一瞬だけ目が向いた。
開こうと思えば開ける。
今日読んだ記録の続きも確認できる。
けれど、手は伸ばさなかった。
明日になれば、古い記録が消えるわけではない。
ノルンは部屋の灯りを一つ落とした。
◇
翌日。
午後一時五十六分。
待ち合わせ場所へ着いたノルンは、いつもの癖で周囲を一度見渡した。
休日の人通りは平日より多い。
家族連れ。
買い物袋を持った人。
友人同士らしい若者たち。
少し離れた通りからは、露店の呼び込み声も聞こえてくる。
風は昨日より弱い。
空には薄い雲が広がっているものの、雨が降り出しそうな暗さではなかった。
「ノルン!」
声がして振り返る。
美咲が人の間から手を振りながら歩いてきた。
「お待たせ!」
「まだ二時前です」
「そういう問題じゃないの。待った?」
「四分です」
「数えたの?」
「時計を見ただけです」
「ノルンだなあ」
「昨日も似たようなことを言われました」
「誰に?」
「主様に」
「ああ、なんか分かる」
「何がですか?」
「二人ともノルンの扱いに慣れてる」
「扱いとは何ですか」
美咲は答えずに笑った。
今日は普段より軽い服装で、小さな肩掛け鞄を持っている。髪も仕事の時とは違う形にまとめていて、歩くたびに耳元の髪が小さく揺れた。
「じゃ、行こっか」
「はい」
「新しい店、こっち」
二人で歩き出した。
目的の店までは十分ほど。
美咲は昨日見かけた妙な看板の話をした。
魚料理の店なのに、看板に描かれていた魚がどう見ても怒っていたこと。
最近お気に入りの菓子が少し値上がりしたこと。
知人が旅行先で買ってきた土産が、見た目よりずっと辛かったこと。
「甘そうな箱だったんだよ?」
「中身を確認しなかったんですか?」
「お菓子だと思うじゃん」
「表示は?」
「小さく書いてあった」
「では確認不足ですね」
「そういうところ!」
「何です?」
「普通は『それは騙されるね』とか言うところ」
「騙されてはいませんよね?」
「そうだけど!」
美咲が笑い、ノルンもつられて笑った。
仕事の話は出なかった。
転生者の話も。
古い記録の話も。
歩道の端には昨日の風で落ちた葉がいくつか残っていて、通りを抜ける風に押され、二人の少し前を転がっていく。
角を曲がると、目的の店が見えた。
入口の前に人がいる。
一組。
二組。
窓越しにも何人か見えた。
行列というほどではない。
けれど、空いているとも言いにくい。
「……微妙」
美咲が足を止めた。
「ですね」
「入れなくはなさそう」
「はい」
「ちょっと待てば入れるかな」
「おそらく」
美咲は店を見る。
ノルンも見る。
しばらくして、美咲が横を向いた。
「どうする?」
ノルンはもう一度店内を見た。
来る前は入ってみたいと思っていた。
今も興味はある。
ただ、今日は並んでまで入りたいとは思わなかった。
「私は、今日は別の店でもいいです」
「そっか」
「美咲さんは?」
「私もね、ちょっと迷ってた」
「入りたいなら待ちますよ」
「ううん。また来ればいいかな」
「では、変更しましょう」
「しよ」
あっさり決まった。
美咲が少しだけ振り返る。
「せっかくここまで来たのにって思わない?」
「十分くらいですよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
ノルンは少し考えた。
「また来たいと思っていますから、今日入らなくてもいいです」
「うん」
「美咲さんがもう来たくないなら、少し残念ですが」
「来る来る。私も気になるもん」
「では問題ありません」
「なんかノルン、こういう時すごい楽」
「そうですか?」
「『せっかく決めたんだから』ってならないから」
「予定は予定でしょう」
「うん。それが楽」
美咲はそう言ってから、一本向こうの通りを指した。
「じゃあ、前に行った店じゃなくて、あっちの小さい喫茶店行かない?」
「そこは空いていますか?」
「たぶん。でも混んでたらまた考える」
「いいですね」
「今日は店に入れないまま終わったりして」
「それならそれで、どこかで何か買って外で食べましょう」
「それもいいな」
二人でまた歩き出した。
◇
喫茶店には、すぐ入れた。
店内はそれほど広くない。
木製の小さなテーブルが六つほど並び、壁には古い風景画が掛けられている。窓際の席には先客がいたため、二人は奥の壁側へ案内された。
美咲は甘い乳飲料。
ノルンは温かい紅茶。
それぞれ小さな焼き菓子も頼んだ。
「昨日も焼き菓子食べたんじゃなかった?」
「食べました」
「今日も?」
「駄目ですか?」
「いや。なんか珍しいなと思って」
「甘いものを食べないわけではありません」
「知ってるけど」
注文した菓子が届く。
美咲の方は果実入り。
ノルンの方は薄く焼かれた木の実の菓子だった。
「一口交換する?」
「いいですよ」
皿を少し寄せる。
ノルンは美咲の菓子を一口分もらい、自分のものも同じくらい渡した。
「どう?」
「少し酸味がありますね」
「そこがいいの」
「こちらは?」
美咲が木の実の菓子を食べる。
「香ばしい」
「そうですね」
「……なんか普通だね」
「何がです?」
「いや、ノルンとこういうことしてるの」
「前にも食事はしていますよね」
「そうなんだけどさ」
美咲はストローを指で動かしながら笑う。
「仕事の途中じゃないからかな」
ノルンは少し考えた。
確かに今日は、戻る時間を細かく決めていない。
本屋へ行く予定はある。
けれど何時までに行かなければならないわけではない。
「そうかもしれませんね」
「今、何時?」
ノルンは反射的に時計を見ようとして、途中で止めた。
美咲が気づく。
「あ、見ないの?」
「急ぐ必要がありますか?」
「ない」
「では、まだいいでしょう」
「おお」
「何です?」
「成長」
「そういう評価をしないでください」
「はいはい」
美咲が笑う。
ノルンも紅茶を飲んだ。
店内には小さな音楽が流れている。
隣の席では年配の夫婦が昼食を取っており、反対側では一人の女性が本を読んでいる。食器が触れる音と、入口の扉が開くたびに鳴る小さな鈴の音が、ときどき会話の隙間へ入った。
「本屋で何見る?」
美咲が尋ねる。
「旅行関係を少し」
「どっか行きたいの?」
「まだ決めていません」
「海とか山とか」
「どちらも特に決めていません」
「温泉」
「悪くはないですね」
「食べ歩き」
「それは少し興味があります」
「そこなんだ」
「何ですか?」
「ノルンって観光名所より食べ物なんだ」
「そうとは言っていません」
「じゃあ両方」
「それなら」
美咲は楽しそうに、自分が以前行った町の話を始めた。
海が近く、朝の市場があり、魚料理がおいしかったこと。
ただし風が強く、髪がずっと顔に当たって大変だったこと。
泊まった宿の布団が思った以上に柔らかく、朝起きたくなくなったこと。
ノルンは聞きながら、時々質問する。
「市場は何時頃からですか?」
「朝早かったよ。六時とか」
「早いですね」
「旅行先だと起きられるんだよね」
「普段も起きてください」
「嫌」
「なぜですか」
「仕事だから」
「理由になっていますか?」
「私の中では」
また笑う。
話は次々に別の方向へ流れていった。
旅行から食べ物。
食べ物から料理。
料理から、美咲が以前作って失敗した菓子。
そこから、なぜか幼い頃に好きだった味の話になる。
どの話にも結論はない。
何かを決めるためでもない。
ノルンは途中から、時間がどれくらい経ったのか分からなくなっていた。
それでも困らなかった。
◇
店を出た時、空はまだ明るかった。
「本屋、行けるね」
美咲が伸びをする。
「はい」
「疲れてない?」
「大丈夫です」
「私も。じゃあ行こ」
本屋までは歩いて五分ほどだった。
休日らしく人は多いが、店内が身動きできないほど混んでいるわけではない。
「旅行は二階」
美咲が案内板を見る。
「行きましょう」
二階へ上がる。
旅行関係の棚は思った以上に広かった。
国内。
海外。
温泉。
食。
鉄道。
徒歩旅行。
写真集。
地図。
「多い」
美咲が呟く。
「そうですね」
「どれ見る?」
「端から全部見る必要はありませんよ」
「ノルンに言われるとは思わなかった」
「私を何だと思っているんですか?」
「資料棚を端から全部見る人」
「仕事なら必要に応じて見ます」
「ほら」
「今日は仕事ではありません」
ノルンは目についた一冊を手に取った。
海辺の町を集めた旅行案内。
表紙には、白い建物と青い海が写っている。
「海?」
「表紙が目に入っただけです」
「行きたい?」
「まだ分かりません」
「じゃあ見よう」
二人でページを開く。
写真。
食事。
宿。
小さな市場。
海沿いの道。
「ここいいね」
美咲が指を差す。
「朝市ですか?」
「食べ物」
「やはりそこですか」
「ノルンもさっき食べ歩き興味あるって言ったじゃん」
「少しです」
「少しね」
次の本。
山間の温泉地。
その次は鉄道で巡る小さな町。
一冊を見るたびに、
「ここ行ったら何食べる?」
「そこからですか?」
「大事でしょ」
「景色も見ましょう」
「じゃあ景色見ながら食べる」
「欲張りですね」
ノルンは呆れながら笑った。
結局、一時間近く棚を見ていた。
買ったのは一冊だけ。
最初に見た海辺の町の案内ではない。
各地の小さな町を集めた薄い旅行本だった。
「買うんだ」
「見ていて面白かったので」
「行く?」
「分かりません」
「行かなくても買う?」
「本ですから」
「それもそうか」
美咲は自分用に菓子店を集めた本を一冊買った。
「結局食べ物じゃないですか」
「いいの」
◇
外へ出ると、夕方の光が通りの建物を少し橙色に染めていた。
「今日は楽しかった」
美咲が言った。
「私もです」
「新しい店、入れなかったけど」
「はい」
「本屋は行けた」
「はい」
「また新しい店行こうね」
「そうですね」
「いつにする?」
美咲はそう言ってから、自分で首を振った。
「あ、今決めなくてもいいか」
「私は今でも構いませんが」
「え?」
「予定を確認すれば」
「いや、今日は決めない」
「分かりました」
「また行きたくなった時に連絡する」
「はい」
「ノルンからでもいいよ?」
「分かっています」
「本当に?」
「連絡できます」
「じゃあ待ってる」
美咲はそう言ってから、すぐに笑った。
「いや、ずっと待ってるって意味じゃないからね?」
ノルンは一瞬だけ目を瞬かせた。
古い記録の言葉が頭をよぎりかける。
けれど、それを口には出さなかった。
「分かっています」
「今なんか考えた?」
「少しだけ」
「仕事?」
「今日はやめておきます」
「えらい」
「評価しないでください」
「難しいなあ」
二人で笑う。
別れる場所まで、あと少し。
美咲は途中で見つけた雑貨店の窓を覗き、ノルンも足を止めた。
入るほどではなかった。
けれど数分だけ、並んだ小物を眺めた。
「これかわいい」
「鳥ですね」
「ノルン、こういうの持たないよね」
「持ってはいません」
「欲しい?」
「今日はいいです」
「今日は、なんだ」
「今後も買わないとは決めていませんから」
「なんか今日のノルン、柔らかい」
「そうですか?」
「うん」
美咲はそれ以上説明しなかった。
ノルンも尋ねなかった。
◇
別れ際。
「じゃあ、またね」
「はい。また」
「明日仕事?」
「はい」
「私も」
「頑張りましょう」
「急に現実」
「明日は来ますから」
「それはそうなんだけど」
美咲は笑いながら手を振った。
ノルンも小さく手を上げる。
一人になってから、買った本の入った袋を持ち直した。
予定していた新しい店には入らなかった。
代わりに別の喫茶店へ行った。
本屋にも行った。
一冊買った。
美咲とたくさん話した。
それで十分だった。
何かを学んだ休日。
成長した休日。
管理の考え方を確認した休日。
そんな名前を付ける必要もない。
ただ楽しかった。
ノルンは駅へ向かって歩いた。
◇
帰宅後。
買った旅行本を机へ置く。
鞄から折り畳み傘を出し、財布を戻し、薄い布袋を畳む。
仕事用端末も同じ机にある。
明日になれば、また開く。
四年目の続き。
反応群G。
参照7。
『ナ』に近い反復音。
『レ』『ラ』『エ』に近い別系列。
それらが後の資料で、どのように並べられ、どのような意味を与えられていくのか。
確認すべきことはまだ多い。
だがノルンは仕事用端末ではなく、今日買った本を開いた。
最初の数ページだけ読む。
小さな港町。
古い石橋。
朝市。
山間の宿。
どこへ行くかは決めない。
そもそも行くかどうかも決めていない。
それでも、ページをめくるのは楽しかった。
机の端で仕事用端末の通知灯が一度だけ点いた。
定時同期の通知。
緊急ではない。
ノルンは確認しなかった。
◇
同じ夜。
古い保管層では、四年目の記録が変わらず保存されていた。
そこにあるのは、後世の完成した物語ではない。
人の名前でもないG。
一人とは限らない参照7。
意味の分からない反復。
『ナ、みたいに聞こえる』
という、一人の女性の主観。
そして、その女性自身が続けた言葉。
『名前だとは書かないで』
『何か分かんないから。ナって聞こえただけ』
その時点で分かっていたことは、それだけだった。
誰が発したのか。
何のための音なのか。
自己識別なのか。
呼びかけなのか。
そもそも言葉なのか。
まだ、どれにも答えはない。
だから当時の人々は、その音を名前にしなかった。
ノルンもまた、まだ名前にしない。
答えが先にあるからといって、途中の分からなさまで消してしまわないために。
そして翌朝になれば。
机の上には古い記録と、昨日買ったばかりの旅行本が、別々のものとして残っている。




