第百四話 『G』は人の名前ではなく、分からない反応を一人にしないための記号でした
翌朝、管理区域の空はよく晴れていた。
昨日まで石畳の隅に残っていた水溜まりもほとんど消え、正面棟の窓から差し込む光は朝から明るい。廊下の端では清掃担当者が窓を少し開けており、乾いた風が紙の端を揺らしていた。
ノルンが管理室へ入ると、セレナはまだ来ていなかった。
珍しい。
始業には間に合う時刻なので問題はないが、普段ならノルンより先にいることも多い。
「寝坊?」
主様が楽しそうに尋ねる。
「分かりません」
「予想しない?」
「昨日と同じやり取りをするつもりですか?」
「覚えてた」
「私も覚えています」
ノルンは荷物を置いた。
昨日までに確認したリディア・フェルンの原記録は三年分。
十三年間のうち、まだ四分の一にも届いていない。
その三年目の終わりに、観測側では重要な方針転換が始まっていた。
それまで。
初回接続時の反応と似たものが現れれば、同じ相手かもしれないと考えていた。
しかし反応数が増え、性質にもばらつきが出るにつれて、
『一人だと思ってまとめること自体が危険ではないか』
という疑問が強まった。
複数の外在反応。
環境由来信号。
同一主体による異なる反応。
そのどれなのか判別できない。
だから四年目から、
『反応特性別仮分類記号』
が試験導入される予定になっていた。
後世の記録で何度も見てきた、反応群G。
その起源へ、ようやく届くかもしれない。
それでもノルンは原記録を開かなかった。
まず現在の確認から始める。
◇
九名に緊急性のある変化はなかった。
ルークは朝食前。
ミレイアも通常の日課。
『次回接続:まだ決めていない』
変更なし。
エリオ。
『次回外出:未定』
こちらも変更なし。
昨日の盤上遊戯については二勝一敗と生活記録の自由欄に残っていた。
「勝ち越してる」
主様が言う。
「そうですね」
「一昨日負けてたのに」
「上達したのでしょう」
「外出より盤上遊戯の方が進んでる」
ノルンは画面から主様へ視線を移した。
「比較する必要がありますか?」
「ない」
「ではしないでください」
「はい」
主様は素直に引き下がった。
フローラには、マリエからの返書はまだ届いていない。
ただし、本人は朝食後から学習へ入っており、郵便物について確認した記録もない。
アーノルドからの接触もない。
他の管理対象にも、それぞれ小さな生活記録はあるが、介入や緊急確認を必要とするものはなかった。
世界側も安定。
神々から新しい誤転生報告もない。
「九人のまま?」
主様が尋ねる。
「現在管理上確認している範囲では」
「最初は一人だったのにね」
「報告上は、です」
「その話もまだ残ってる」
「はい」
なぜ神々の報告は『一名』だったのか。
なぜ実際には九名いるのか。
それも未解決だ。
ただ、今は無理に結び付けない。
ノルンが朝の確認を終えたところで、管理室の扉が開いた。
「間に合った!」
セレナだった。
片手に紙袋を持っている。
「おはようございます」
「おはようございます。寝坊ですか?」
「違います」
主様が少し残念そうな顔をする。
「途中の店で朝の焼き菓子が今日だけ安かったんです」
「それで?」
「並びました」
「理由になってませんよ」
「始業には間に合ってます」
「それはそうですが」
セレナは紙袋を持ち上げる。
「一個いります?」
「いただきます」
「早い」
主様が笑う。
ノルンは小さな焼き菓子を一つ受け取った。
「昼に食べます」
「今食べないんです?」
「朝食は済ませました」
「そこは真面目なんですね」
「そこも、です」
いつもの管理室が動き始める。
ノルンはようやく、四年目の原記録を開いた。
◇
『反応特性別仮分類・試験運用開始』
最初の資料は、リディア個人の記録ではなかった。
観測技術班と管理班の合同文書。
導入目的。
『識別不能反応について、既知個体との同一性を仮定せず、観測上の特徴のみを一時的にまとめるため。』
ノルンはそこで止まった。
「最初から書いてある」
主様も読む。
「はい」
さらに注意事項。
『仮分類記号は個体識別子ではない。』
『同一記号に複数主体由来反応が含まれる可能性あり。』
『同一主体由来反応が複数記号へ分散する可能性あり。』
『分類は観測精度・基準変更により統合、分割、移動し得る。』
『本人への呼称として使用しない。』
『外在対象への送信情報へ含めない。』
「全部、前に調べたやつだ」
主様が言った。
「後世の注意書きの原型でしょう」
ノルンは試験分類一覧を開く。
A。
短時間、高周波、反復なし。
B。
低周波、長時間、環境変動との相関あり。
C。
複数帯域にまたがる断続反応。
D。
接続開始直前に集中する短波。
E。
観測層移動を伴う反応。
F。
一定間隔を持つが、既知波形との類似低。
そして。
G。
ノルンの指が止まった。
『G群:既知接続反応との部分類似を含む不規則反復群。発生層・継続時間・応答構造にばらつきあり。単一主体由来か不明。』
「G」
主様の声も少し低くなる。
「はい」
「これが最初?」
「現時点で確認した資料では」
G群の下には、試験運用開始時に過去記録から暫定再分類された反応が並んでいた。
二年目。
リディアが聞いた四つの反復反応。
そのうち二件。
三年目。
本人が『もう聞かなくていい』とした低確度反応群。
そのうち三件。
そして、リディアには一度も通知されなかった単発反応が数件。
「全部Gじゃない」
主様が言った。
「はい」
二年目の四反応のうち、一件はC。
一件は分類保留。
二件がG。
三年目の反応群も、G、C、F、分類保留へ分かれている。
「じゃあ『呼んでる?』って言ったやつは?」
ノルンは記録番号を照合した。
「四つ目ですね」
「G?」
「……違います」
「え?」
「C群です」
主様が黙った。
ノルンも、もう一度照合した。
間違いない。
二年目。
リディアが四つの音声変換記録を聞いた。
その四つ目。
『……呼んでる?』
と本人が感じた反応。
後の仮分類では、Gではない。
C群。
「じゃあ、前に見た『Gから自己識別みたいな音』とは別?」
「少なくとも、この時点の分類では別です」
「でも後でGが七と関係するんだよね?」
「主に永久参照番号七と対応するようになります。ただし一対一ではありません」
「……ややこしい」
「だから分類が必要だったのでしょう」
そして、その分類自体も後に物語化された。
ノルンはG群の初期定義をもう一度読む。
『既知接続反応との部分類似を含む不規則反復群』
人ではない。
相手でもない。
七でもない。
名前でもない。
最初のGは、
『似た特徴を持つ反応を、一人だと決めずにまとめるための箱』
に近かった。
「Gって何の頭文字?」
主様が尋ねる。
「ありません」
「ない?」
「Aから順に付けただけです」
「Gさんじゃなかった」
「最初から誰もGさんとは呼んでいません」
「後の資料だと、ちょっと人っぽいのに」
「そこも変化を追う必要がありますね」
◇
四年目の初め。
リディア本人へ、仮分類導入の説明が行われていた。
『担当者:「これまで一括していた不確実な反応を、特徴ごとに仮分類することになりました」』
『本人:「私に関係ある?」』
『担当者:「以前の接続と部分的に似る反応も分類対象です」』
『本人:「分けたら、誰か分かるの?」』
『担当者:「分かりません」』
『本人:「じゃあ何のため?」』
担当者は、誤って一人分としてまとめないためだと説明している。
リディアはしばらく考えた。
『本人:「一人だと思わないために分けるの?」』
『担当者:「はい」』
『本人:「前は一人だと思ってた?」』
『担当者:「可能性として扱っていた時期があります」』
『本人:「今は?」』
『担当者:「一人かもしれませんし、複数かもしれません。環境由来が混ざっている可能性もあります」』
沈黙。
『本人:「じゃあ、前に聞いたのも全部同じじゃないかもしれない?」』
『担当者:「はい」』
『本人:「……そっか」』
また、その言葉。
けれど声色は残っていない。
リディアは続ける。
『本人:「私が『呼んでる?』って言ったやつも?」』
ノルンの視線が止まる。
「本人から言った」
主様も気づいた。
「はい」
過去に正式記録へ残さなくていいとした印象。
だが、本人自身は覚えていた。
『担当者:「同じ対象由来とは確認できません」』
『本人:「あれだけ別かもしれない?」』
『担当者:「可能性はあります」』
『本人:「同じかもしれない?」』
『担当者:「はい」』
『本人:「分かんないんだ」』
『担当者:「現時点では」』
その後、リディアは分類記号の一覧を見たいとは言わなかった。
代わりに尋ねた。
『本人:「分かったら教えて」』
『担当者:「何が分かった場合ですか」』
ここで、当時の担当者は確認している。
同一主体性か。
初回接続相手との一致か。
明確な接続可能性か。
リディアの答え。
『「前の相手だって、ちゃんと分かるくらいになったら」』
担当者。
『「仮分類記号の変化は逐次通知しなくてよいですか」』
『「うん。文字が変わったとか増えたとかは、いい」』
記録更新。
『本人は仮分類運用の逐次通知を希望せず。初回接続対象との同一性が高確度で確認された場合、または直接接続可能性が生じた場合に通知を希望。』
「G知らないんだ」
主様が言った。
「説明時に記号一覧は提示されていません」
「じゃあリディアさんは、自分とGが関係あるって知らない?」
「この時点では、そもそもGという記号を知る必要がないと判断しています」
「後では第一接続者とGってセットみたいになるのに」
「はい」
ノルンは後世の資料を思い出す。
『第一接続者に対して継続的に反応したG群』
『G群は後の第七外在個体へ相当する可能性が高い』
しかし四年目の本人は、
『文字が変わったとか増えたとかは、いい』
と答えている。
分類は管理側の道具。
本人の生活へ持ち込まない。
少なくとも当時は、その境界があった。
◇
午前の終わり頃。
セレナがノルンの机へやってきた。
「一件、ちょっと迷ってます」
「一覧ですか?」
「はい」
表示されたのは、試験入力に協力している別の管理対象者の記録だった。
『必要なら面談してもいい』
現在の試験項目では、
本人発言。
対象条件。
時間条件。
実施条件。
現在対応。
などへ分ける。
「『必要なら』を条件にしたいんですけど、誰が必要って判断するのか書いてないんですよね」
「本人へ確認しましたか?」
「まだ。面談予定自体がないので」
「なら、現時点で確認しなくてもよいのでは?」
「ですよね」
「ただし、『面談可』とだけ要約すると意味が強くなります」
「だから困ってるんです」
セレナは画面を操作する。
『本人発言:「必要なら面談してもいい」』
『条件:「必要なら」の判断主体・基準は未確認』
『現在対応:具体的な面談必要性が生じた時点で確認』
「これでどうです?」
「よいと思います」
「でも後の人が、『必要性があるから面談組みます』ってやらないですかね」
「その危険はあります」
「じゃあもっと書く?」
「書きすぎれば、今度は重要部分が埋もれます」
「昨日からずっとこれ」
「簡単に解決するなら、試験する必要はありません」
「そうなんですけどねえ」
セレナがため息をつく。
ノルンはふと、先ほど読んだG群の注意書きを思い出した。
『仮分類記号は個体識別子ではない』
必要だから分類する。
しかし分類すると、人はその箱に意味を持たせる。
今の一覧も同じ危険を持っている。
本人の言葉を守るために項目を分ける。
分けた項目が、今度は新しい固定観念になるかもしれない。
「ノルンさん?」
「はい」
「今、古い資料とこっち重ねました?」
ノルンは一瞬黙った。
「少し」
「珍しい。止めないんです?」
「同一視はしていません」
「似てるとは思った?」
「はい」
セレナが笑う。
「ちゃんと言うようになりましたね」
「何がですか?」
「似てるって思ったこと」
「思うことと証拠にすることは別ですから」
「それ、主様に言ってたやつ?」
少し離れた場所から主様が手を上げる。
「聞かれてた」
「盗み聞きです」
「同じ部屋」
「仕事してください」
「してるよ」
いつもの調子で会話が終わる。
◇
午後。
フローラのもとへ、マリエからの返事が届いた。
昨日とは違い、侍女が部屋へ入った時、フローラは机に向かって刺繍図案を見ていた。
「お嬢様」
「何?」
「お手紙です」
フローラの手が止まる。
侍女はそれ以上焦らさず、封筒を差し出した。
「マリエ様から」
「もう?」
「南区からですので」
「昨日出したのに」
「お嬢様のお手紙が午前中に届き、すぐにお返事を書かれたのかもしれません」
フローラは封筒を受け取る。
前回と同じ、簡素な紙。
ただ今回は、宛名の横に小さな花の絵が描いてあった。
「……かわいい」
小さく呟いてから封を開く。
『フローラへ。
返事ありがとう。
様を付けた方がいいか迷ったけど、手紙の中では付けなくてもいいって父が言ったので、嫌だったら次から言ってください。
私もまた話したいです。
お菓子屋さんは本当におすすめです。蜂蜜の焼き菓子がおいしいです。もし南区へ来ることがあったら教えてください。一緒に行けたら嬉しいです。
でも、公爵家のお嬢様が普通に遊びに来られるのか分からないので、無理なら手紙だけでも嬉しいです。
マリエ』
フローラは二度読んだ。
それから三度目の途中で、母親が部屋へ入ってきた。
「届いたのね」
「うん」
「嬉しそうね」
「……顔に出てる?」
「少し」
フローラは手紙を隠すように胸元へ寄せる。
「お菓子屋さん、一緒に行けたらって」
「そう」
「南区って、私が普通に行っていいの?」
母親はすぐに答えなかった。
「行けない場所ではないわ。ただ、あなた一人では難しいでしょうね」
「護衛?」
「ええ。公爵家の娘ですから」
フローラの表情が少し曇る。
「護衛いっぱい連れて行ったら、普通じゃなくなる」
「いっぱい連れて行く必要があるかは相談できるわ」
「……行ける?」
「あなたが行きたいなら、まず安全に行ける方法を考えましょう」
「行きたい」
答えは早かった。
言ってから、フローラ自身が少し驚く。
慈善行事への参加を決めた時よりも、ずっと簡単に出た。
「じゃあ、お父様とも相談しましょう」
「今日?」
「今日でもいいわ」
「……うん」
フローラはもう一度手紙を見る。
『無理なら手紙だけでも嬉しいです』
行けないと決まったわけではない。
行けると決まったわけでもない。
けれど今は、
『行きたい』
それだけは決まった。
「返事、今書いていい?」
「もちろん」
「でも行けるって書かない方がいいよね」
「まだ決まっていないものね」
フローラは新しい便箋を出した。
『私も行ってみたいです。家の人に相談してみます。まだ行けるか分からないので、決まったらまた書きます。』
そこまで書いて、少し考える。
『蜂蜜の焼き菓子、楽しみです。』
最後に加えた。
◇
四年目の中盤。
G群の記録数は増えていた。
だが、増えたからといって一人の存在が鮮明になったわけではない。
むしろ逆だった。
分類担当者の記録。
『G群内の一部反応について、F群への移動を提案。一定間隔性が強く、既知接続反応との類似は副次的特徴と判断。』
別の記録。
『G-暫定12、G-暫定18について同一系列とする根拠不足。G内部分割候補。』
さらに。
『C群の一部にG群との重複特徴あり。境界基準再検討。』
「ぐちゃぐちゃ」
主様が言う。
「試験分類ですから」
「Gが一人どころじゃない」
「はい」
そしてここで、後世につながる重要な変更が起きていた。
文字分類だけでは追跡しにくい。
分類が変わるたび、過去との対応が切れる。
そこで、
『個別反応系列への恒久参照番号付与』
が提案される。
「番号」
主様が呟いた。
ノルンも姿勢を正した。
提案理由。
『分類記号は観測特徴により変更されるため、長期追跡上の参照点として不安定。分類とは独立した恒久参照番号を反応系列へ付与する。』
注意。
『番号は発見順・重要度・確度・個体数を示さない。』
『一番号=一個体を意味しない。』
『分類変更後も同一記録系列を追跡するための管理上の参照記号である。』
「七」
主様が言った。
「まだ一覧を開いていません」
「絶対ある」
「あること自体は後世の資料から分かっています」
「じゃあ見よう」
ノルンは一覧を開いた。
参照1。
参照2。
参照3。
番号は順番に並んでいるように見える。
だが注記に、
『番号割当は旧記録整理単位による。観測発生順とは一致しない』
とある。
参照4。
5。
6。
そして。
『恒久参照7』
現在分類。
『G群主要対応。一部C群旧記録との関連候補あり。』
主様が息を呑んだ。
「出た」
「はい」
後世に何度も現れた参照7。
だが、最初の説明は極めて事務的だった。
『参照7:G群内反復系列のうち、初回接続記録との部分類似を継続して示す記録束。過去C群記録二件との連続性候補あり。ただし同一主体性未確認。』
「Cも?」
「はい」
「『呼んでる?』のやつ?」
ノルンは記録番号を照合する。
しばらくして、首を横に振った。
「違います」
「違う?」
「リディアさんが『呼んでる?』と感じたC群記録ではありません」
「じゃあ別のC?」
「はい。二年目の別反応と、三年目に本人へ提示されなかった反応です」
「……また外れた」
「何がですか?」
「なんか、綺麗につながりそうだったから」
「だから危険なんです」
リディアの『呼んでる?』。
G群。
参照7。
第七外在個体。
後世の物語を知っていると、それらを一本の線でつなぎたくなる。
だが原記録では、まだそうならない。
『呼んでる?』の反応はC。
初期Gには別の反応が入っている。
参照7はGを主に含むが、一部Cとの関連候補もある。
そして、そのCも『呼んでる?』の記録とは別だった。
「参照7って一人?」
主様が尋ねる。
「定義上、一人とは限りません」
「でも後で第七外在個体になる」
「そこが、これから確認すべき変化です」
番号。
分類。
個体。
名前。
後世では近いものに見える。
しかし、この時点ではすべて別だった。
◇
午後遅く。
ミレイアはエリスと一緒に刺繍糸を整理していた。
青。
白。
淡い緑。
濃い緑。
似た色をまとめて、小箱へ入れていく。
『これ、青?』
ミレイアが一本を持ち上げる。
『青に見えるわね』
『でもこっちと全然違う』
『青にもいろいろあるもの』
『じゃあ同じ箱?』
『あなたが使いやすいようにしていいのよ』
ミレイアは少し考えた。
濃い青と淡い青を同じ箱へ入れかけ、やめる。
『分ける』
『そう』
『でも箱に名前書くほどじゃない』
『なら書かなくてもいいんじゃない?』
『うん』
二つの小箱へ分ける。
それだけだった。
エリスは接続の分類へ話を広げない。
ミレイアも広げない。
整理したかったのは刺繍糸だった。
作業が終わる頃、ミレイアは昨日直した部分を確認した。
『ここ、もう分かんないね』
『どこを直したのか?』
『うん』
『あなたは覚えている?』
『たぶんここ』
『じゃあ十分ね』
ミレイアは少し笑った。
◇
終業が近づく頃。
ノルンは四年目の記録を途中で止めた。
まだ一年分を読み切っていない。
それでも、今日だけで重要なことがいくつも確認できた。
G群。
その始まりは、人ではなかった。
既知接続反応との部分類似を持つ、不規則な反応をまとめるための仮分類。
一つのGに複数主体が含まれる可能性がある。
一人の主体が複数分類へ分かれる可能性もある。
分類は変わる。
統合も分割もある。
本人への呼称ではない。
外在対象へ送る情報でもない。
リディア本人は、Gという記号の逐次通知を希望していなかった。
彼女が知りたいと言ったのは、
『前の相手だって、ちゃんと分かるくらいになった時』
だった。
そして。
分類が変わっても過去記録を追跡できるよう、恒久参照番号が導入された。
参照7。
後世の第七外在個体へ強く結び付けられる番号。
しかし導入時点では、
『G群内反復系列を中心とする記録束』
でしかない。
一番号一個体ではない。
発見順でもない。
重要度でもない。
七番目に見つかった誰か、ではない。
ノルンは調査メモへ入力する。
『四年目:反応特性別仮分類導入。Gは個体名・個体識別子ではなく、観測特徴上の仮分類。導入目的は、識別不能反応を既知個体へ過剰帰属しないこと。』
『G群は複数主体混在可能。同一主体が他群へ分散する可能性あり。分類は変更・分割・統合可。』
『リディア本人は分類記号の逐次通知を希望せず。「前の相手だって、ちゃんと分かるくらいになったら」通知希望。』
『恒久参照番号導入。参照7はG群主要対応、一部C群旧記録との連続性候補あり。ただし一番号=一個体ではなく、発見順・重要度・確度を示さない。』
『リディアが二年目に「……呼んでる?」と感じた反応は後のC群。現時点で参照7との直接対応なし。』
最後の一行は特に重要だった。
ノルン自身が、つなぎかけたからだ。
「今日はGまで来たね」
主様が言う。
「はい」
「七も」
「はい」
「でも誰も見つかってない」
「その通りです」
「後の資料だけ知ってた時より、分かんなくなってない?」
ノルンは少し考えた。
「正確には、分からない部分が見えるようになったのだと思います」
「それって進んでる?」
「進んでいます」
「そっか」
主様は満足したようだった。
ノルンは端末を閉じようとする。
その直前。
四年目後半の未読記録一覧に、一つだけ目を引く件名があった。
『参照7関連・自発反応内に反復音列候補』
ノルンの手が止まった。
主様も気づいた。
「音」
「はい」
「自己識別みたいなやつ?」
「まだ分かりません」
件名の横には、後世に追加された参照タグがある。
『自己識別様反応研究・初期資料』
「見る?」
主様が尋ねる。
終業まで二十一分。
開けば、概要くらいは読めるだろう。
ノルンはカーソルを動かさなかった。
「明日以降にします」
「二十一分あるよ」
「昨日より三分増えましたね」
「そうじゃなくて」
「分かっています」
ノルンは未読のまま記録を閉じた。
Gを人にしない。
参照7を一人にしない。
後世の『第七』を先に置かない。
その状態を一度保ったまま、次の記録へ進みたかった。
反復音列が何であれ。
先に、
『第七外在個体が自分の名前を伝えようとした』
という物語を置いてはいけない。
「ノルン」
「はい?」
「今、聞きたい?」
「かなり」
「我慢してる?」
「区切っているだけです」
「それ、我慢って言わない?」
「違います」
「そうかなあ」
主様は笑った。
◇
管理室を出る前。
セレナが朝持ってきた紙袋をノルンへ差し出した。
「そういえば、食べました?」
「まだです」
「昼に食べるって言ってませんでした?」
ノルンは黙った。
「忘れてた?」
「……はい」
「珍しい」
「調査していたので」
「そればっかりになるの、嫌じゃないんです?」
セレナが何気なく言った。
ノルンの手が止まる。
リディアの言葉。
『全部聞いてたら、そればっかりになるのが嫌』
セレナがすぐに気づいた。
「あ。今、なんか古い記録と重なりました?」
「少し」
「じゃあ今食べます?」
「帰ってから食べます」
「傷まないやつだからいいですけど」
紙袋を受け取る。
主様が横から覗く。
「何味?」
「まだ知りません」
「見ない?」
「帰ってからです」
「それも後で?」
「これはただ持ち帰るだけです」
ノルンは少し笑った。
古い記録を読んでいると、日常の何でも同じテーマへつなげられそうになる。
だが、つなげなくてもいい。
焼き菓子は焼き菓子だ。
日曜日には美咲と出かける。
晴れれば外の店。
雨なら駅の中。
混んでいれば別の場所。
時間と体力が残れば本屋。
それも、今のところただの休日の予定だった。
◇
その夜。
古い保管層には、四年目の分類表が残っていた。
A。
B。
C。
D。
E。
F。
G。
どの文字も、人の名前ではない。
誰かの順位でもない。
誰かが七番目に見つかったという意味でもない。
分からない反応を、分からないまま扱うため。
似ているものをまとめながら、それでも一人だと決めないため。
当時の管理者たちは文字を置いた。
そして分類が変わっても記録を見失わないために、別の番号を置いた。
参照7。
その時点で。
七は人ではなかった。
Gも人ではなかった。
Gと七が完全に同じものだったわけでもない。
リディア・フェルン自身は、そのどちらも知らなかった。
彼女が求めていたのは分類名ではない。
『前の相手だって、ちゃんと分かるくらいになったら』
教えてほしい。
それだけだった。
だが。
四年目の未読記録には。
その参照7へ関連付けられた反応の中に、初めて繰り返す音が現れていた。
まだ名前ではない。
言葉ですらないかもしれない。
誰が発したものかも分からない。
それでも。
後世の研究者が『自己識別様反応』と呼ぶことになる最初期の記録が、そこに残っていた。




