第百三話 リディアが『もう聞かなくていい』と言った年にも、反応は消えていませんでした
雨は夜のうちに上がっていた。
翌朝の管理区域には、昨日とは違う明るさが戻っていた。雲の切れ間から差し込む朝日が濡れた石畳に反射し、建物の陰にはまだ細い水溜まりが残っている。軒下では小鳥が羽を震わせ、雨水を落とす音に混じって、職員たちの靴音がいつもよりはっきり響いていた。
ノルンは正面棟へ入る前に一度だけ空を見上げた。
青空が少し見えている。
それ以上の意味は付けず、建物へ入った。
管理室では、セレナが昨日の試験表示を別の職員へ説明しているところだった。
「だから、ここに出る『今週』は確定じゃなくて候補です。本人が何を指してたか分かってるなら採用。分からない場合は、実際に家族へ連絡する必要が出た時に確認してください」
「入力時に毎回確認しなくていいんですか?」
「確認すること自体が負担になる場合もあるので。今すぐ終了日時まで決める必要がないなら、曖昧さを残したまま保存できます」
「でも後の人が困りません?」
「困ることはあります」
セレナがあっさり認める。
「だから、分からないものを分かった形に直して後の人を楽にするんじゃなくて、『ここは分からない』って後の人にも見えるようにしたいんです」
説明を受けていた職員は、少し難しそうな顔をしながら画面を見直した。
「……慣れるまで時間かかりそうですね」
「たぶん」
「そこは否定しないんですね」
「使いにくかったら言ってください。直すので」
職員が去ってから、セレナは大きく伸びをした。
「朝から疲れました」
「まだ始業直後ですよ」
「人に説明すると、自分でも分かってないところが出てくるんですよ」
「それは有用ですね」
「ノルンさんは絶対そう言うと思いました」
ノルンは荷物を置き、自席へ座った。
昨日までのリディアの記録が頭の片隅にはある。
二年目。
十七日間に四度現れた低確度反応。
管理側では『以前の相手があなたを探している可能性』と説明する案が出たが、証拠がないため採用されなかった。
リディア自身は音声変換記録を聞き、最後の一つに対して、
『……呼んでる?』
と口にした。
だが、その印象を正式記録として残すことは希望しなかった。
後世には『呼びかけ様印象』として研究資料へ入り、さらに後の資料では『探索的信号』という仮説が現れ、やがて『第七外在個体もまた第一接続者との再接続を待っていた』という物語へ近づいていく。
けれど、その間に何があったのかはまだ分からない。
ノルンは昨日と同じく、最初に現在を確認した。
◇
九名に緊急性のある変化はない。
ルークは朝食後、昨日借りた本を共有室へ返している。区域内散歩をしたからといって次の散歩予定は組まれておらず、本人からも希望は出ていない。
ミレイアは通常の日課。
『次回接続:まだ決めていない』
変更なし。
フローラはマリエへ送った手紙の返事を待っている状態だが、朝から何度も確認しているわけではない。学習予定も普段通り入っている。
エリオは昨日覚えた盤上遊戯のルールについて、朝食中に別の生活者と話していた。外出についての申告はない。
『次回外出:未定』
他の管理対象も、それぞれの日常を送っている。
世界側にも直接介入を必要とする兆候はない。
「平和?」
主様が尋ねる。
「はい」
「じゃあ三年目?」
「まだ読むと決めていません」
「昨日、三年目あるかもって言ってた」
「あるでしょうね。十三年のうち二年までしか確認していませんから」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
主様が笑う。
ノルンは昨日の調査メモを開いた。
今日はまず、二年目に確認された反復反応が、その後どのように分類されたかを追う。
三年目へ進むにしても、後世の分類を先に重ねるのではなく、当時の記録順に見るつもりだった。
「今日は何年まで?」
「決めません」
「十年?」
「決めません」
「十三年全部?」
「決めません」
「一日?」
ノルンは主様を見る。
「質問を続けても答えは変わりません」
「うん。確認した」
「何をですか?」
「今日もノルンだなって」
「昨日もそうです」
主様が機嫌よく離れていく。
ノルンは三年目の最初の記録を開いた。
◇
最初の二か月には、接続関連の本人記録がほとんどなかった。
観測側には低確度反応が数件残っている。
だが、前年の取り決め通り、単発で識別不能なものは逐次リディアへ通知されていない。
一件。
二件。
約三週間空いて、もう一件。
波形の一部に過去記録との類似。
ただし発生層が異なる。
個体識別不能。
通知なし。
ノルンはその横にある当時の管理注記を確認した。
『本人との合意に基づき、単発低確度反応は通知対象外。反復性・構造性・直接性の増加時に再検討。』
「リディアさん、知らないんだよね?」
主様が戻ってきていた。
「少なくとも逐次通知はされていません」
「反応はあるのに」
「低確度ですが」
「後で知った?」
「まだ分かりません」
次へ進む。
三年目の三か月目。
生活面談。
接続とは関係のない相談が中心だった。
作業場所の人間関係。
睡眠時間。
新しく始めた縫製作業。
その最後に、リディア本人から一つだけ質問がある。
『本人:「最近、何かあった?」』
『担当者:「接続関連ですか?」』
『本人:「うん」』
『担当者、低確度単発反応が複数あったが、事前合意した通知条件には達していないと説明。』
『本人:「何回?」』
『担当者:「直近二か月で三件です」』
『本人:「前のと似てる?」』
『担当者:「一部類似はありますが、同一性を示せる程度ではありません」』
リディアはそこで、
『そっか』
とは言わなかった。
『本人:「それ、私が聞かなかったことになってる?」』
主様が眉を寄せる。
「どういう意味?」
「続きを見ます」
『担当者:「逐次通知を希望しないという以前の合意に基づいています」』
『本人:「私が『いらない』って言ったみたいに残ってない?」』
『担当者、記録を確認。「単発低確度反応は逐次通知しない。管理側で蓄積し、条件変化時に再検討」と記録されていると説明。』
『本人:「ならいい」』
ノルンはそこで一度止めた。
「反応より記録の方を気にした?」
主様が言う。
「そう見えます」
「何でだろ」
「推測はできますが、本人がこの後話しています」
続き。
『本人:「聞きたくないわけじゃないから。全部聞いてたら、そればっかりになるのが嫌なだけ」』
『担当者:「記録へ補足しますか」』
『本人:「今のは入れて」』
正式補足。
『本人は接続関連情報自体を拒否しているわけではない。単発低確度反応の逐次通知による生活上の負担を避ける意図。』
ノルンは小さく息を吐いた。
一年目。
『ずっと見てるのは嫌』
二年目。
『同じか分からないやつ全部聞いてたら、ずっとそればっかりになる』
三年目。
『聞きたくないわけじゃない。全部聞いてたら、そればっかりになるのが嫌』
リディアは繰り返し、接続を生活の全部にしないための距離を取っている。
だがそれを、
『待つのをやめた』
とも表現していない。
「これなら、後の『日常生活を維持しながら待つ』って定義に近くない?」
主様が尋ねる。
「結果だけ見れば近く見えます」
「結果だけ?」
「はい。後世の定義がリディアさんの事例を参照して作られたのか、それとも後世の定義で過去の行動を説明し直したのかは別です」
「また順番」
「重要です」
「リディアさんが最初から『待機姿勢』をやってたんじゃなくて、後から名前が付いたかもしれない?」
「その可能性があります」
当時の記録には『待機姿勢』という言葉はない。
あるのは、
『全部聞いてたら、そればっかりになるのが嫌』
という本人の言葉だった。
◇
三年目の春。
リディアは接続とはまったく関係のない外出をしていた。
前年と同じ市場ではない。
生活区域から少し離れた河川沿いの広場。
同行者三名。
当時の季節祭に合わせた外出だったらしい。
簡単な生活記録の中に、珍しく長い自由記述が残っている。
『本人、川沿い露店で青色の布紐を購入。用途を尋ねられ「別に決めてない」と回答。帰所後、居室の窓辺に結ぶ。』
主様が画面へ寄ってくる。
「また買い物」
「生活記録ですから」
「青い紐、何に使ったんだろ」
「窓辺に結んだとあります」
「何で?」
「用途は決めていないと本人が答えています」
「後で意味出てきたりして」
ノルンは主様を見る。
「そういう読み方をすると、何でも伏線になります」
「小説みたい」
「記録です」
「でも後の人が『青い紐は第七を待つ象徴だった』とか言ったら?」
ノルンの手が止まる。
「……あり得ないとは言いません」
「えっ」
「だからこそ、本人が『別に決めてない』と言ったことも残しておく必要があります」
「ただ青が好きだったかも?」
「それすら分かりません」
主様は青い布紐の記録を眺め、少しだけ笑った。
「普通に買っただけかもしれないものね」
「はい」
ノルンは次へ進む。
その数日後。
リディアは祭りでもらった菓子を同室者へ分けている。
さらに数週間後。
縫製作業で失敗して布を一枚駄目にし、担当者と一緒に在庫管理へ謝罪へ行っている。
接続関連記録はない。
後世から見れば『十三年間の待機期間』に含まれる日々。
しかし、本人にとってはそれだけではない。
ノルンは意識して、接続に関係のない記録も飛ばしすぎないようにした。
全部を詳細に読む必要はない。
けれど、接続だけを拾えば、また『待ち続けた人』を作ってしまう。
◇
昼頃。
ルークは共有室の窓辺で、小さな紙片を折っていた。
何かを作っているように見えたが、本人も完成形を決めていないらしい。三角に折り、開き、もう一度別の方向へ折る。
「何それ?」
隣を通った少年が尋ねる。
「分かんない」
「作ってんじゃないの?」
「作ってる」
「何を?」
「まだ分かんない」
「意味分かんない」
「僕も」
少年は笑って去っていく。
ルークはそのまま紙を折り続けた。
しばらくして、なんとなく鳥に見える形になった。
「鳥?」
戻ってきた少年が言う。
「たぶん」
「最初から鳥作ってた?」
「違う」
「じゃあ何で鳥になったの?」
「こうなったから」
「雑」
ルークは笑った。
机の端へ紙の鳥らしきものを置く。
その時、生活担当者が共有室へ入ってきた。
「ルーク、午後の希望確認だけど、今日は散歩どうする?」
昨日は本人が当日になってから空き枠を確認し、三時に散歩へ出た。
担当者は昨日の実施を理由に自動で予定を組んではいない。
ただ今日は、午後の枠に余裕があり、他の生活者にも同じように確認していた。
「今日はいい」
「分かった」
担当者はそれだけ記録する。
「明日は?」
ルークが逆に聞いた。
「明日はまだ枠決まってない」
「じゃあ明日決める」
「うん」
会話はそこで終わる。
昨日は行った。
今日は行かない。
明日はまだ分からない。
その三つに、矛盾はなかった。
◇
昼食後。
ノルンは一度資料を閉じ、食堂へ向かった。
主様も当然のようについてくる。
「今日何食べる?」
「まだ見ていません」
「昨日は魚だった」
「そうですね」
「一昨日は肉」
「覚えています」
「じゃあ今日は?」
「献立を見れば分かります」
「予想しない?」
「しません」
「つまんない」
食堂入口の掲示。
本日の主菜は鶏肉と根菜の煮込み。
「肉だった」
「そうですね」
「予想しなくてよかった?」
「予想して外れても困りませんが、当てても何もありません」
「夢がない」
「今朝も聞きました」
二人で列へ並ぶ。
少し前では、別部署の職員たちが昨日の雨の話をしていた。
洗濯物が乾かなかった。
帰宅時に靴が濡れた。
今日は晴れて助かった。
管理区域の食堂には、古い接続史とは何の関係もない話がいくつも流れている。
ノルンも食事を受け取り、空いている席へ座った。
「リディアさんもこういうの食べてたのかな」
主様が煮込みを見ながら言う。
「当時の食事記録なら一部残っているかもしれません」
「調べる?」
「調べません」
「即答」
「必要になったら見ます」
「何が必要になったら?」
「例えば、後世の教材に『十三年間毎日同じものを食べながら待った』と書かれていたら」
「そんな教材嫌だなあ」
ノルンも少しだけ笑った。
◇
三年目の後半。
反応側に変化が現れた。
これまで散発的だった低確度反応が、約一か月の間に七回記録されている。
だが、前年の四回とは様子が違う。
初回接続波形との類似率はむしろ下がっていた。
発生層もばらつく。
一部は明らかに別種の反応と考えられた。
当時の観測担当者は、これらを一つの対象として扱うことに反対している。
『反応群を単一主体由来と仮定する根拠不足。複数外在反応または環境由来信号の混在可能性あり。』
「ここからGとかになる?」
主様が尋ねる。
「まだです。反応群の文字分類が始まるのはもう少し後です」
「じゃあ七でもない」
「はい」
会議記録には、前年の『呼びかけ様印象』を理由に、リディアへ七件すべてを提示する案も出ていた。
『本人が過去に「呼んでる?」との印象を示したため、継続性判断のため閲覧を提案してはどうか。』
反対意見。
『本人は当該印象を正式記録として残すことを希望していない。管理側が後からその発言を根拠に通知範囲を拡張することは、本人意思に反する可能性がある。』
ノルンの目が細くなる。
「ちゃんと残ってる」
主様も静かな声になった。
「はい」
リディアは、
『……呼んでる?』
と言った。
しかし、
『記録しなくていい』
と答えた。
その発言自体は面談記録として保存されてしまっている。
完全に消えたわけではない。
だが当時の管理側は、それを本人の継続的な解釈や希望として利用しないようにしていた。
最終決定。
『七件のうち、反復性・類似性が一定基準を超える二件のみ通知候補とする。ただし本人への通知前に現在の受領希望を確認する。』
ノルンは本人面談へ進んだ。
『担当者:「接続関連の記録について、現在、追加情報を聞きたいですか」』
詳細を先に言わない。
リディアの返答。
『「何かあったの?」』
『担当者:「あります。ただし、聞くかどうかを先に確認します」』
『本人:「……また分かんないやつ?」』
『担当者:「確定的な接続ではありません」』
沈黙。
二分。
『本人:「今日はいい」』
担当者。
『「後日聞く可能性は残しますか」』
『本人:「うん」』
その日は終わる。
「また聞かない」
「はい」
三日後も本人から問い合わせなし。
一週間後もなし。
二週間後。
生活面談。
担当者は接続情報を再提示しなかった。
一か月後。
リディア本人が尋ねる。
『「前に聞かなかったやつ、まだある?」』
『担当者:「あります」』
『本人:「今も増えてる?」』
『担当者:「観測記録は増えていますが、同一対象によるものかは不明です」』
『本人:「前より分かんなくなってる?」』
『担当者:「複数種類の反応が混在している可能性が高くなっています」』
リディアは少し考えた。
『本人:「じゃあ、もう聞かなくていい」』
主様が顔を上げる。
「え?」
ノルンも、その一文を読み直した。
『担当者:「今後の接続関連情報全般を希望しないという意味ですか」』
『本人:「違う。今ある分からないやつ」』
『担当者:「現在保存されている低確度反応群の詳細閲覧を希望しない、という意味でよいですか」』
『本人:「うん」』
『担当者:「今後、より明確な反応が確認された場合は?」』
『本人:「それは教えて」』
『担当者:「どの程度を明確とするかは管理側判断でよいですか」』
『本人:「前に決めたやつでいい」』
記録更新。
『現存低確度反応群:本人詳細閲覧希望なし。今後、高確度化・反復構造明確化・直接性増加等が認められた場合は通知対象。接続関連情報全般の拒否ではない。』
「『もう聞かなくていい』だけ抜いたら、全然違うね」
主様が言った。
「はい」
「聞きたくなくなったみたいに見える」
「対象が限定されています」
「今ある、分かんないやつだけ」
「そうです」
ノルンは後世の引用を検索した。
驚くほど早く、一件見つかった。
第六版以前の研究資料。
『長期中断期において、第一接続者は低確度反応の逐次確認を停止し、明確な再接続の出現を待つ方針を選択した。』
そこまでは大きく外れていない。
さらに後。
第八版の補助資料。
『第一接続者は不確かな信号に惑わされず、真の再接続を待ち続けた。』
ノルンの指が止まる。
「真の再接続」
主様が読む。
「当時そんな言い方してた?」
「していません」
さらに第九版。
『数多くの不確かな反応があったにもかかわらず、第一接続者は第七外在個体からの明確な応答を信じて待った。』
「第七になった」
「後世の分類です」
「信じて、も増えた」
「はい」
そして第十版。
『第一接続者は曖昧な信号へ過度に反応せず、第七外在個体との再会を十三年間待ち続けた。』
原記録。
『じゃあ、もう聞かなくていい』
ただし対象は、
『今ある分からないやつ』
今後明確な反応があれば、
『それは教えて』
だった。
ノルンは椅子へ深く座り直した。
完全な嘘ではない。
だからこそ、変化が見えにくい。
低確度反応を逐次追わない。
その選択は事実だ。
明確な反応があれば知らせてほしい。
それも事実。
けれど、
『第七外在個体との再会を信じて十三年間待った』
となると、本人が当時持っていなかった名前、分類、確信、物語が追加されている。
「悪い人が書き換えたのかな」
主様が尋ねる。
「まだそうは言えません」
「何回も少しずつ?」
「その可能性が高いでしょう」
最初の要約。
『低確度反応の逐次確認を停止し、明確な再接続時の通知を希望』
それが、
『明確な再接続を待つ』
になり。
『不確かな信号に惑わされず、真の再接続を待つ』
になり。
後世の分類で、
『第七外在個体からの応答を信じて待つ』
になった。
一段ずつなら、理解できる言い換えに見える。
積み重なると、原記録とは違う人物像になる。
◇
同じ午後。
フローラのもとへ、まだマリエからの返事は届いていなかった。
当然だった。
昨日出したばかりの手紙である。
それでも昼食後、侍女が郵便物を運んできた時、フローラは一瞬だけそちらを見た。
侍女が気づく。
「本日はマリエ様からのお手紙はございません」
「……聞いてないよ?」
「はい」
「じゃあ言わなくてよかったじゃない」
「申し訳ございません」
侍女は笑いを堪えている。
フローラは少し頬を膨らませた。
「別に待ってたわけじゃないし」
「はい」
「昨日出したんだから、今日来るわけないの分かってるし」
「はい」
「その『はい』やめて」
「では、何とお答えすれば」
「何も言わなくていい」
「かしこまりました」
完全に遊ばれている。
フローラは机の上の本へ視線を戻した。
数行読む。
意味が頭へ入ってこない。
もう一度最初から読む。
今度は入る。
しばらくすると、手紙のことを忘れていた。
午後の学習が終わった頃には、母親から次の予定について声をかけられるまで思い出さなかった。
「明後日、仕立屋が来るけれど、あなたも何か頼む?」
「今はいらない」
「分かったわ」
「あ、お母様」
「何?」
「マリエから返事来たら、私にすぐ教えて」
「ええ」
「でも、来てない日に毎日『今日は来てない』って言わなくていいから」
母親が笑った。
「分かったわ」
「……何?」
「何でもない」
「絶対何かある」
「楽しみにしているのね」
フローラは少し黙った。
否定しようかと思った。
だが、やめる。
「……うん。ちょっと」
「そう」
母親はそれだけ答えた。
返事が楽しみ。
だからといって、一日中待ち続けているわけではない。
届かなかった今日も、普通に一日は過ぎていった。
◇
三年目の終盤。
ノルンは、反応記録に奇妙な変化を見つけた。
低確度反応そのものは消えていない。
むしろ件数は少し増えている。
しかし、前年まで初回接続との類似性を中心に評価していた観測班が、評価方法を変え始めていた。
『既存接続波形との一致率のみを基準とする場合、新規反応主体を既知主体へ過剰帰属する危険あり。』
「これ……」
ノルンは資料を拡大した。
当時の技術検討会。
『接続者Aに関連する観測領域で発生した反応を、すべて既接続対象A-1由来と仮定する運用を見直す。』
『位置的近接、時間的反復、部分波形類似のいずれも、個体同一性を単独では保証しない。』
『複数反応主体の混在を前提とした分類法を検討する。』
主様が画面を見る。
「反応群?」
「その前段階かもしれません」
これまでの記録。
初回接続と似ている。
だから同じ相手かもしれない。
だが三年目には、反応が増えるほど逆に、
『一人だと思ってまとめること自体が危険ではないか』
という疑問が出てきた。
「後では一人になるのに」
主様が言う。
「後世の教材上では、そう整理されます」
「この時は逆なんだ」
「はい」
複数かもしれない。
環境反応が混ざっているかもしれない。
初回接続相手とは別の何かがいるかもしれない。
同じ相手が異なる形で反応している可能性もある。
何も確定しない。
その混乱を整理するための試験分類が、翌年度から導入予定と記されている。
『反応特性別仮分類記号の導入』
「文字?」
「おそらく」
「G来る?」
「まだ分かりません」
「でも近い?」
「近いでしょうね」
ノルンはそこで三年目の記録を閉じた。
「終わり?」
「三年目はここまでです」
「まだ時間ある」
「今日は十分です」
「G見たくない?」
「見たいですよ」
ノルンが普通に答えると、主様が少し驚いた。
「見たいんだ」
「調査しているので」
「でも止める?」
「はい」
知りたい。
だから、すぐ読む。
とは限らない。
三年目だけでも、確認すべきことが増えた。
リディアが低確度反応を『もう聞かなくていい』としたこと。
ただし接続全般を拒否したわけではないこと。
後世ではその選択が『不確かな信号に惑わされず真の再接続を待った』という物語へ変化していったこと。
そして観測側では、同じ時期に『そもそも反応を一人分としてまとめてよいのか』という疑問が強まっていたこと。
後世の第七外在個体という一人の存在へ整理される以前。
現場はむしろ、一人だと決めない方向へ進もうとしていた。
「明日、G?」
「明日読むかも決めていません」
「じゃあ明後日?」
「同じです」
「日曜は美咲だから読まない?」
「勤務ではありません」
「あ、そっか」
主様は少し考える。
「日曜、雨かな」
「今の予報では曇りです」
「店行けそう?」
「当日決めます」
「それも決めない」
「天気は私が決められません」
「それはそう」
◇
夕方。
エリオはラウルと廊下ですれ違った。
「昨日の盤上遊戯、負けたんだって?」
「誰から聞いたんだよ」
「共有室にいたら聞こえる」
「二戦目は勝った」
「そこ大事?」
「大事」
ラウルは笑った。
二人で少しだけ歩く。
正面玄関へ続く廊下が見えた。
エリオの視線が、一瞬だけそちらへ向く。
昨日でも、一昨日でもない。
公園へ出た日の記憶は残っている。
門の前で帰りたくなった。
外へ出た。
公園の入口まで行った。
ベンチまで進んだ。
疲れた。
戻って安心した。
それでも行ってよかったと思った。
全部残っている。
「ラウル」
「ん?」
「外出の紙、今どうなってる?」
ラウルは足を止めなかった。
「どの紙?」
「俺の」
「一覧?」
「そう」
「次回外出は未定」
「前の『希望なし』は?」
「過去記録として残ってる。三年前の発言と期間条件が落ちてたことも補足されてる」
「この前行ったのは?」
「実施済み。本人評価も、言った通りに入ってる」
「……そっか」
エリオは少し歩く。
「見たい?」
ラウルが尋ねた。
「今はいい」
「分かった」
「でも勝手に『次も行きたい』にはなってないんだよな」
「なってない」
「じゃあいい」
それ以上、確認しなかった。
ラウルも画面を見せようとはしない。
エリオは共有室の方へ曲がった。
「今日もやる?」
「何を?」
「盤上遊戯」
「お前、俺の予定知りすぎじゃない?」
「昨日大声で『明日絶対もう一回やる』って言ってた」
「……言ったかも」
「言ってた」
「じゃあやる」
昨日の言葉が今日の義務になったわけではない。
ただ、今日は本当にやりたかった。
◇
終業前。
ノルンは三年目の調査メモを整理した。
『リディア・フェルン 三年目』
『接続情報への関心は継続。ただし単発低確度反応の逐次通知は希望せず。本人理由:「全部聞いてたら、そればっかりになるのが嫌」。接続情報全般の拒否ではない。』
『複数低確度反応群について、本人は一度通知を保留。約一か月後に状態を確認した上で、「今ある分からないやつ」について詳細閲覧不要と回答。今後の明確な反応は通知希望。』
『後世資料では、この選択が段階的に「明確な再接続を待つ」→「真の再接続を待つ」→「第七外在個体からの応答を信じて待つ」へ変化。本人当時の発言に「真の再接続」「第七」「信じる」はない。』
『同時期、観測側では反応群を単一主体由来とみなす危険が指摘され、複数主体・環境信号混在を前提とした仮分類方式が検討開始。後世の一対一物語とは逆方向の不確実性管理が存在。』
最後に、
『四年目以降:反応特性別仮分類記号導入予定。後の反応群Gとの関係は未確認』
と加える。
保存したところで、セレナが隣から声をかけた。
「終わりました?」
「今日の分は」
「こっちも一応」
「どうでした?」
「『時間条件候補』って大きく書いたら、今度は邪魔って言われました」
「そうですか」
「嬉しそうですね」
「試験なので」
「絶対そう言うと思った」
セレナは自分の椅子へ戻りながら笑った。
「小さくしたら見えない。大きくしたら邪魔。どうします?」
「両方の意見が出た理由を確認してから考えましょう」
「ですよねえ」
「すぐ中間サイズにするのは危険です」
「そこまで言ってないのに先回りされた」
ノルンも少し笑う。
窓の外は、朝より雲が減っていた。
日が長くなったわけではない。
ただ雨雲が去り、夕方の光が昨日より明るく見える。
机の上には、三年目までのリディアの記録。
十三年間のうち、まだ三年。
後世の物語なら一文で済む。
『第一接続者は第七外在個体との再接続を信じ、待ち続けた。』
けれど、その三年間だけでも。
聞きたい日があった。
聞かない日があった。
忘れていた時間があった。
接続通知そのものを止めた時期があった。
低確度反応の存在だけ知り、三日後に一部だけ聞いた。
反復反応を聞いて『呼んでる?』と感じた。
その印象を正式記録にはしなかった。
分からない反応を一つずつ追えば生活がそればかりになると考えた。
そして三年目には、
『もう聞かなくていい』
と言った。
ただし、その言葉の後には、
『今ある分からないやつ』
という対象が続いていた。
さらに、
『明確なのが来たら教えて』
という希望も残っていた。
人の言葉は、前後を削るだけで別の形になる。
けれど前後を全部残せば、今度は読む側が扱いきれないこともある。
その間で、何を残すのか。
誰が決めるのか。
何十年も前の管理者たちも、同じように迷っていたのかもしれない。
ノルンはそこで思考を止めた。
『同じように』
まで事実にしてはいけない。
当時の彼らが何を考えていたかは、記録に残っている範囲でしか分からない。
端末を閉じる。
◇
夜。
管理区域の生活棟では、ルークが昼間作った紙の鳥をまだ机の端に置いていた。
鳥と呼ぶには翼が片方だけ大きく、尾も妙に曲がっている。
「捨てないの?」
同室者が尋ねた。
「まだ置いとく」
「気に入った?」
「分かんない」
「またそれ?」
「でも今は捨てなくていい」
「じゃあ置いとけば」
ルークは頷いた。
その後、別の本を開く。
紙の鳥のことはすぐに忘れた。
しばらく読んでから、眠る準備を始める。
面会のことも。
過去の名前のことも。
誰かが自分を待っているかもしれないということも。
その夜、ルークの口からは一度も出なかった。
だからといって、昨日までの希望が消えたことにはならない。
けれど、消えていないからといって。
その希望が一日中、彼の中で鳴り続けていたわけでもなかった。
◇
同じ頃。
古い保管層には、リディア・フェルンの三年目の記録が残っていた。
『もう聞かなくていい』
その一文だけなら。
諦めたようにも読める。
拒絶したようにも読める。
待つことをやめたようにも読める。
けれど原記録には、そのすぐ後に続きがある。
『今ある分からないやつ』
そして。
『明確なのが来たら教えて』
何十年も後。
彼女は、
『不確かな信号に惑わされず、真の再接続を待ち続けた』
人になった。
さらに後には、
『第七外在個体を信じ、十三年間待ち続けた第一接続者』
になった。
だが三年目のリディアは、まだ第七外在個体という名前を知らない。
反応が一人から来ているのかさえ知らない。
管理側も知らない。
むしろ、その年の終わり。
観測者たちは初めて本格的に、
『これらを一人からの反応として扱ってよいのか』
と疑い始めていた。
そして翌年。
その疑いを管理するために。
まだ人の名前ではない、いくつかの文字が記録へ現れることになる。




