ある夫婦の物語
母の様子がおかしいと気がついたのは10歳になる息子を連れて里帰りした日だった。
私の息子を見て、拓と弟の名前を呼んだのだ。
母は認知症となっていた。
父の行動は驚くほど早かった。
母の認知症がわかった次の日には会社に辞表を提出していた。
これには、私も母も驚いた。
連日お偉いさんが、家に尋ねてきた。
父が社長に就任したのは20年ほど前のことだった。
誰もが上手く行かないだろうと考えていたプロジェクトだったという。
しかし、父は驚くほど地味な手法で会社を立て直した。
最初の3年は赤字を出したが、その後はギリギリのラインで安定させたのだ。
そこからだった。切り離しをした親会社とメーカーは父の会社に集中的に資本を集めた。
そして、それなりの売上を出す会社に成長させることが出来たのだった。
母はブティックでの仕事をやめ、父についていった。
レシピだけ毎週ブティックに送り、母の監修で学生がお弁当を作るというのが常になった。
そして、月に何度か東京で料理教室を開いたりしていた。
その度に父休日をつぶし母の送り迎えをした。
私が結婚した頃、父の会社はいよいよ軌道に乗った。
東京の本社に相談役として戻り、週に何度か名古屋に出向くスタイルになった。
母はカフェの仕事をしたり、料理本を出したりとまったりとした暮らしを楽しんでいた。
私はというと、結婚して子供を産んでからも精力的に仕事をした。
派手な功績はないが、地道に成果は出している。
父の友人の奥村さんに言わせると、驚くほど父親に似た手法だそうだ。
私も子供を二人出産し、弟も最近結婚した。
今は大阪に転勤となっているが、盆と正月には顔を合わせる。
そんなどこにでもありふれた家族であることを幸せに思っていた。
母も年をとり、物忘れが多くなってきた。
そんな風に家族は感じていた。
いつもにこやかで、料理も自分でつくる母がまさかと思っていたのだ。
母の認知症が発症したとき、私は仕事をやめて介護をするべきか真剣に悩んだ。
ある程度、母の認知症は進行していた。
70歳を過ぎても相談役として活躍していた父だったので、
会社としては出来るだけ勤務時間を考慮するので顧問として就任して欲しいと
何度もお偉いさんが頭を下げにきたが、父は全てを断った。
奥村さんも、何度か父を説得しようとしに我が家に来た。
「奥村、私はね、私がいないからといってどうこうなるような
会社の経営はしてこなかったよ。
今年70だ。もう、若い連中に世代交代するべきだと考えていたときだった。」
父は、現社長と役員となっていた奥村さんに伝えるが二人は引き下がらなかった。
「しかし、ここまであなたが大きくした会社だ。
奥さんも、そこまで認知症は酷くなっていないでしょう。
勤務時間は考慮するので、どうか考え直してもらえませんか?」
しかし、あっさりと父はその意見を却下した。
「もちろん、何もかも投げ出すわけではない。
行き詰ったらいつでも相談に来てくれてかまわない。
でも、役職名がついているかぎり、責任は発生する。
そうなれば、中途半端なことはしたくないんだよ。
私は今の会社に未練はないよ。
そう、未練がないように働けたのも、皆妻のおかげだ。
残りの人生は全部、妻のために使いたいんだ。」
父の決意を感じ取った奥村さんは最期には納得していた。
帰り、私はお二人を駅まで車で送ることにした。
年若い社長は私に言った。
「すごい夫婦愛ですね。
私には、妻のためにメディアにも取り上げられているこの会社を
あんなにあっさり捨てられるとは思えない。」
奥村さんは何かを思い出すように応えた。
「40年夫婦をやっているんだ。
あそこの夫婦は信じられない試練を次々乗り越えたんだ。
君も、有川にいつまでも甘えていないで、優れた経営者にならなくてはいけないよ。」
奥村さんの言葉を実感したのはそれから大分先のことだった。
父は会社を辞めると、母の世話をするようになった。
母の症状には非常に波があった。
普通の生活を送っている日もあれば、私の顔も忘れているときがあった。
落ち込んでふさぎ込んでいるときもあれば、
何かにとても腹を立てているときもあった。
父は母が何度同じ話しを繰り返しても、うんうんと話しを聞き、
理不尽な怒りをぶつけられても、ごめんねと何度も謝りなだめた。
症状が軽いときには、二人で旅行にいったり、
散歩がてら日帰り温泉に言ったりした。
母の病状は、時間をかけてじんわりと進行した。
ある日、母の顔をみに帰った時のことだった。
「よく、恥ずかしくもなく顔を見せられるね!」
鬼のような形相をした母に詰め寄られた。
年をとっているのに、結構な力でたたいてくる。
どうしていいのかがわからず、固まっていると、リビングから父が飛んできた。
「なんで、こんな女なんかかばうのよ!
私よりこの女が好きだから?!最後の恋人だからでしょう!!」
母は信じられない力で暴れた。
母は私の母ではなかった。
一人の女だった。
父は母を抱きしめ、なだめながら怒鳴るように私に言う。
今日は帰ってくれと。
私は車に戻っても震えがとまらなかった。
就職した頃、なんとなく両親が険悪だったのはわかっていた。
奥村さんが大分昔社長に話した言葉がよみがえる。
そして、母が父を許していないことがひしひしと伝わった。
母の病状はどんどん悪化した。
もう、私の顔を思い出さない日の方が多かった。
弟と何度か父に母を施設に預けてはどうかと提案したが、父は在宅介護にこだわった。
時に、母は父に暴力を振るった。
だが、父は母が怪我をしないように、よけることなく受け入れた。
やがて母が疲れてしまうと、母をぎゅっと抱きしめて、何かを祈るように母の耳元でささやいていた。
私たち姉弟はそれを見守ることしか出来なかった。
母は、時々思い出したかのように料理をした。
火をつけっぱなしにしたり、鍋のありかがわからなくなってしまうので
つい手を出したくなったが、私たちが台所に入ることを許さなかった。
父だけがそこに入ることを許された。
料理の途中で手順が抜け落ちてしまうことも多々あった。
しかし、調味料を入れ忘れて、決しておいしくない料理を父は一口も残さず食べた。
おいしい。おいしいと。
母がいなくなったと連絡があったのは、両親の結婚49周年目を祝ってしばらくたったころだった。
ついに、母の徘徊が始まってしまった。
私たちは必死に探し回った。
母はかつて勤めていたカフェの付近で警察に保護されていた。
父は母を抱きしめ、おいおい泣きながら良かった良かったと母を抱きしめた。
ある、夏の暑い日、突然父から、赤い毛糸を買ってきてくれと電話が入った。
ついに、父まで痴呆をわずらったのかと、内心ドキドキして実家に戻った。
父は母の腕に赤い毛糸を優しく巻きつけ、自分の腕にその片方を巻きつけた。
これならもう離れることはないだろうと。
子供のような恋愛を70を過ぎた自分の両親が行なっていることに複雑な感情を覚えながらも、
父の嬉しそうな様子に、それでいいかと心が温かくなった。
珍しくは母意識がしっかりしていて。
「これなら来世も離れることなく仲良し夫婦なんじゃない?」と私がからかうと、
母は「今世かぎりで十分よ」っと笑った。
父はショックを受けてしょぼくれた。
その姿を見て、母と二人で笑った。
父はふてくされてキッチンにお茶を入れに行ってしまう。
私は思いきって、母に聞いてみた。
「お母さんは、お父さんのこと許してる?」
母は穏やかな顔でいった。
「許しているよ。でも、時々意地悪してしまうのね。
あの人、昔言うことに事欠いて最初で最後の恋をしたっていったの。
結婚25年目の浮気でね、相手はお母さんと結婚する前の恋人。
もう、それはショックでね。お父さんのこと許せないと思ったの。」
初めて聞く、両親の恋愛話だった。
「結局お父さんはお母さんのもとに戻ってきたから受け入れたけどね、
腹の底ではずっと許せなかった。
最初で最後の恋よ?真ん中の25年の私は何よって。」
年老いた母だったが、人生と戦った女の顔だった。
「でもね、金婚式を目前にして思うのよ。
あの人、結婚前をカウントしなければ50年のうち49年、私だけを愛してきたのよ。
一年くらいの余所見、許してあげようと思ってね。
あんなに、許せないと思っていたのにね、
もう最近何に腹を立てていたのか思い出せないことが多いのよ。
忘れてしまえるって本当に幸せね。
お父さんには悪いことしちゃっているけどね。
何十年も前のことをこんなに責められてしまっているのだから。」
腕に絡まる赤い毛糸を嬉しそうになでながら、母は言った。
そして、それが母との最後の会話になった。
いよいよ母の症状が重くなった。
娘のことも、息子のことも忘れてしまった。
時には父のことも忘れてしまっていた。
私たちが触ることも近づくことも嫌がることが増えた。
だが、父だけは嫌がらずに触れさせた。
怒りをぶつけるのも、笑うのも、父にだけ。
付きっ切りで看護をしていた父だったが、
ある日、出かけたいと電話をしてきた。
母を弟夫婦に預け、私は父を連れ出した。
父は迷わずデパートの有名宝飾店に足を運ぶ。
そこで何個も指輪を見て、シンプルだが非常に質のいい金の指輪を購入した。
金の価格が高騰する現代で、何のためらいもなくキャッシュで。
帰りの車の運転は、いつも以上に慎重になった。
金婚式に母に渡すのだと張り切っていた。
しかし、母が生きているうちにその指輪をはめることはなかった。
数日後、母は実にあっさりと天国に旅立った。
5年にわたる壮絶な介護の割には、実にあっさりとした旅立ちだった。
父の嘆きは想像以上だった。
葬儀の間、母が父のことを連れて行ってしまうのではないかと不安に思った。
それ程父は打ちひしがれていた。
母の葬儀は偶然にも金婚式のその日だった。
火葬場で、父はその金の指輪を母に持たせようとした。
これには親戚一同あせったが、父は指輪を生前渡せなかったのだからせめてと譲らない。
結局、葬儀場の人がやめてくださいと冷静に伝えてきて、事なきを得た。
火葬場で、煙となって昇る母を見つめて父は奥村さんに言った。
「私が馬鹿なことをしてしまったせいで、銀婚式を祝えなかった。
金婚式だけでも祝いたかったんだがな。人生ってやつは上手く行かないものだな。」
奥村さんは父の方に手をおいて伝える。
「あんなにいい奥さんに出会えただけでも、
お前の人生はこれでもかというほど上手くいったってことだよ。」
母の死後、父はしぼんだ風船のようだった。
そんな父の元に弟の6歳になる娘が近づく。
手にはあんまりおいしそうではないおにぎりを持って。
父は可愛い孫娘に目を細める。
「おばあちゃんがね、言ってたの。
おじいちゃんがね、哀しそうにしていたら、お弁当をはいって渡してあげなさいって。」
父は、おにぎりを持ったまま泣いた。
50年連れ添った夫婦だけがわかる言葉で、母は父を許したのだろうと思った。
普通の夫婦だった。
25年間愛をはぐくみ、子育てをし、仕事をした。
25年目に、誘惑に負けてしまったり愛する人を傷つけたり、新しい才能を開花させたりした。
26年目からはよりかたくなった夫婦の絆で困難を乗り越えた。
40年目からは献身的な愛を捧げた。
ただ、それだけの、夫婦の物語。