31話 指輪
まどろみの中で感じる、温かなぬくもり。
目を覚ますと、私の体に孝也さんの腕が回されていた。
規則的な呼吸音。
恥ずかしさの混じる、くすぐったい気持ちが胸に広がる。
体を起こしようと身じろぎをすると、孝也さんの腕がぎゅっと引き留めた。
「まだ……起きないで……」
孝也さんの眠そうな声。
「ふふ。おはよう。昨日のおかず、温めるね」
孝也さんは片目を開けて私を見つめる。
「俺は一穂を食べたい」
「そ、そんな……だって、まだ朝だよ……」
「ふふ。男は朝も元気なんだよ」
孝也さんは、獲物を狙うような目を向けた。
ま、まさか今から「する」の!?
昨夜のめくるめく行為を思い出し、カッと体が火照りだす。
「ふふ、冗談。一穂が動けなくなったら困るから。今日はアパートに荷物を取りに行かなきゃ。その前に、寄りたいところもあるし」
「寄りたいところ?」
「着いてからのお楽しみ」
孝也さんはそう言うと、ちゅっと唇を重ねた。
ううっ!
朝から糖度が高すぎる!
これから毎日、こんな感じなの!?
私……大丈夫かな……。
****
春香ちゃんと佐々木君のおかげで、料理は大好評だった。
「ああ、染みる!実家では、父と二人だったから、大したもの食べてなかったんだ」
「そう言えば、お母さんのご容態は?」
「おかげさまで、ずいぶん安定したんだ!様子を見て、通院治療に変えていいと言われたくらい。でも……、これからは時々帰ろうと思う」
「じゃあ、私も一緒に行きたい」
「ありがとう。母が退院したら、両家の顔合わせをしよう」
「そうだね」
漠然としていた「結婚」が、少しずつ現実味を帯びていく。
昨日までの不安が嘘みたいに、幸せな気持ちで満たされた。
食事のあと、孝也さんが向かったのは、なんとハイブランドの宝石店。
ピシッとしたスーツを着た男性が、にこやかに扉を開けてくれた。
まるで、貴族令嬢にでもなった気分だわ!
こんなお店に入ることなんて、一生ないと思ってた。
孝也さんは平然とした様子で、私の手を引いて歩いていく。
「受け取りの予約をしていた長谷川です」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
店員さんは奥の落ち着いた個室へと案内してくれた。
柔らかなソファに腰を下ろすと、ラテアートが施されたカプチーノが運ばれてきた。
こ、これはVIPルームというやつでは!?
もっといい服を着てくるべきだった!
「す、すごいね!」
パニックになりながら、カプチーノに口を付ける。
孝也さんは、目を輝かせて私を見ながら肩を揺らした。
「ふふふ、一穂を驚かせたかったんだ」
それで、今朝から浮かれてたのね。
可愛い人。
緊張がほぐれた頃、店員さんがトレーに乗った可愛らしい箱を持って戻ってきた。
孝也さんが箱を開けると、そこにはダイヤが埋め込まれた指輪。
「婚約指輪。注文しておいたんだ」
ええ!
いつの間に!?
これ……ものすごくお高いんじゃないの!
驚きのあまり、パクパクと口を動かすことしか出来ずにいると、孝也さんが私に身を寄せた。
「裏には、お見合いの日付を刻印してもらった」
勇者と再会したあの日!
私は胸がいっぱいになって、涙が込み上げてきた。
「ありがとう、孝也さん。一生大事にするね」
満足そうにうっとりと目を細めた孝也さん。
私の左手を取ると、薬指にゆっくりと嵌めてくれた。
この指輪を見る度に、胸が熱くなるだろう。
この先、素直になれない時があっても、あのお見合いの日を思い出しながら、孝也さんの隣で人生を歩んでいこう。
****
お店の人たちに祝福され、恐縮しながら店を出た後、私のアパートに向かった。
とりあえず必要な荷物をまとめてトランクに詰める。
「来週にでも、引っ越し業者に荷物をまとめてもらおう」
「え?自分でできるよ?」
「大変でしょ?色々と手続きもあるし」
「それはそうだけど……。なんだか、贅沢しすぎな気がする」
だって、この指輪に相当予算を割いてるよね……。
指輪を見つめて考え込んでいると、ベッドに座っていた孝也さんに、グッと手を引かれた。
「きゃっ」
ベッドの上に尻餅をついた私に、孝也さんが覆いかぶさる。
「俺は、こういう時間が増える方がうれしいんだけど……」
そう言うと唇を重ねた。
まるで、私の口を味わうような濃厚な口づけ。
孝也さんの手が、ゆっくりと私の体を撫でまわす。
「一穂……して、いい?」
「えっ?」
孝也さんの言葉は、私に許可を求めるものではなかったらしく……。
抗う間もなく、溶かされてしまった。
****
贅沢はダメ……。
そう思っていたのに、まともに歩くことが出来なくて……結局タクシーで帰宅。
手加減しなかった孝也さんが……悪いのよっ!
マンションのエントランスで、ノーダメージの孝也さんは、「抱き抱えようか?」と嬉しそうに聞いてきたけれど、丁重にお断りした。
「一穂の荷物は、こっちの部屋に置くね」
孝也さんは、水のストックしか置かれていなかった部屋に荷物を置いた。
「結婚式が終わったら、家を探そう」
孝也さんはそう言って私を抱きしめた。
「そうだね。本がいっぱいおける家が良いな」
「だったら、戸建てにしようか?」
「わあ、素敵ね。マンションだと、子供の声にも苦情が来たりするらしいしね」
「子供か……、今から作る?」
「ち、ちょっと待って!だって、さっき……」
「一穂が可愛すぎて……ずっとしていられそう……」
孝也さんはそう言って、唇を塞いだ。
角度を変えて深まる唇に、危うく溺れかけたけれど、私は孝也さんの胸をそっと押し返した。
「だ、ダメよ!明日から仕事なんだから。……動けなくなっちゃう」
「ふふ。じゃあ、週末なら手加減しなくていいってことだね?」
「え!?そ、そう言う意味じゃなくて……」
「ふはは。一穂は本当に可愛いな」
その夜、孝也さんは何度も「週末は覚悟してね」と私を脅かし続けて、眠りについた。
求められすぎて困る……。
こんな苦労があるなんて思ってもみなかった。
****
一週間の始まりの朝。
ぐっすりと眠る孝也さんを起こさないように、そっとベッドを抜けた。
手早く身支度を整えて、キッチンへ。
一人暮らしの時から、食費を浮かすためにお弁当を持参していた。
そのついでに、朝ごはんも作っちゃおう。
「副菜を作り置きしておくと便利よね」
立ち上る味噌汁の香り。
じゅうと音を立てる卵。
フライパンを持つ手に、きらりと光る指輪が目に入って、顔が緩んだ。
まるで新婚みたい。
きっとこの初々しい気持ちは、この先の忙しい日常の中に消え去ってしまうだろう。
だから、今は存分に浸らなきゃね!
いつか、年老いて過去を振り返った時に、大切な思い出となるように……。
ピーッとご飯が炊きあがった合図が鳴る。
グリルの魚も焼き上がり、準備は整った。
「そろそろ起こしていいかな?」
寝室に行くと、孝也さんはまだ眠っていた。
「孝也さん、朝ごはん作ったけど食べる?」
「ううん……、一穂……もう一回、一緒に寝よう?」
そう言って、腕を伸ばして私の腰に抱き着いた。
「ふふ。遅刻しちゃうもの。ご飯冷めちゃうよ?」
「え?朝ごはん!作ってくれたの!?ありがとう!」
やっと目を覚ました孝也さんは、布団を跳ね飛ばして私にキスをした。
実家以外で、誰かと食卓を囲むなんて初めて。
本当の幸せって、こういうことかもしれない。
目の前に座る、寝ぐせのついた孝也さんを見ながら、ふふっと肩を揺らした。
****
一緒に電車に乗って通勤。
嬉しいはずなのに、心は曇っていた。
牧原さんを警戒して、私の会社の前まで送ってくれた孝也さん。
「帰りは連絡するから、それまで会社の中で待ってて」
歩いていく彼の背中を見つめながら、釈然としない気持ちを抱えていた。
孝也さんは一週間も出社していない。
きっと、仕事が溜まっているはず。
それなのに、私に合わせて退社するなんて……大変よね。
何も悪いことしていないのに、どうしてこんなことになってるんだろう。
幸せだった気持ちがしぼみ始めた頃、
「先輩!略奪成功ですね!!」と春香ちゃんの元気な声が聞こえてきた。
「おはよう。春香ちゃんのおかげで、料理は大好評だったよ!」
「お役に立てて良かった!ところで……その指輪!エンゲージリングですよね!?女子憧れのハイブランドじゃないですか!!」
「そ、そうなの。なんだか、気後れしちゃって……」
嬉しいのに、なんだか恥ずかしい気持ちが湧き起こって、スッと手を引っ込めた。
「長谷川さん、男らしいなー」
「え?ハイブランドだから?」
「いいえ、一生に一度の記念に、ドカンとお金を使える懐の太さです。だって、そのくらい先輩を大切に思っていますよって誠意でしょ。羨ましいです!」
「そっか……」
指輪に込められた孝也さんの深い思いに、改めて気づかされた。
私だって、何かお返ししたい。
「指輪のお返しって、どんなものがいいのかな?」
「それに見合うものと言ったら……時計じゃないですか?」
「時計か。そう言えば孝也さんが付けてるところ見たことないかも」
「スマホがあるから、付けない人多いですよね。でも、同じブランドの時計だったらお揃いになりますよ」
「え!メンズの時計もあるの!知らなかった」
「ふふ。バレンタインの贈り物はそれで決まりですね!」
「そうだね!」
私も孝也さんみたいに、サプライズしよう!
でも、平日は孝也さんが送迎するというし……。
牧原さんに怯える生活がいつまで続くの?
彼女の勝手な思い込みのせいで、安心して生活できないなんて……。
春香ちゃんのおかげで紛れていた不満が、再びふつふつと湧きあがってきた。




