30話 結ばれた夜
こんな時に泣くなんて、最低!
こんなんじゃ……嫌われちゃうじゃない!
「だ、大丈夫、続けよう!」
私は、必死になって孝也さんにしがみついた。
「……一穂さん、どうしたの?」
孝也さんは私を優しく抱きしめながら、そう聞いた。
どうしよう……、雰囲気を台無しにしちゃった。
とめどなく溢れる涙を、どうすることもできなかった。
背中を撫でる孝也さんの手のぬくもり。
それだけが、唯一の救いだった。
けれど、それも長く続かず。
諦めたように、スッと離れていく。
きっと重い女だと思われたんだ。
ああ、これで終わり。
孝也さんは牧原さんの元に行っちゃうんだわ……。
絶望に囚われ動けずにいると、ふわりと孝也さんのコートが肩にかけられた。
え……?
そっと顔を上げたその瞬間、ひょいっと抱き上げられた。
「あ、あのっ」
「ここは寒いでしょ?体を冷やしちゃうからリビングに行こう」
孝也さんは、私を抱き抱えたままリビングまで行くと、ソファーにそっと下ろした。
「待ってて」
孝也さんはそう言うとキッチンに向かう。
迷惑してるはずなのに、気を遣ってくれているのね。
孝也さんの優しさが、今はつらい。
もう帰ろう……。
私みたいな女に、孝也さんはもったいない。
略奪なんて無理だったんだ……。
ふわりと鼻先をかすめるココアの香り。
顔を上げると、孝也さんがマグカップを差し出した。
「熱いから気を付けて」
指先から感じる温かさが、傷ついた心を優しく包み込む。
「夕飯作ってくれてありがとう。どれもすごく旨そうだね」
孝也さんは私の隣に腰を下ろすと、なだめるようにそう言った。
春香ちゃんが、毎日試食してくれたんだよ。
佐々木君もアドバイスしてくれたんだ……。
話したいことは沢山あるのに、言葉が出ない。
孝也さんが、まるで壊れものを扱うように、そっと私の手に触れた。
「ごめんね、驚かせて。もっと、ゆっくり進めるべきだったのに」
どうしてそんなに優しいの?
帰れって言えばいいのに。
もしかして……ここにいてもいい?
ココアの温かさと、孝也さんの優しさのおかげで……、私の心はゆっくりとほどけていった。
「……違うの。嬉しかった。でも、不安になって……」
「不安?」
「……孝也さんに捨てられちゃうかもって」
「はあ!?ど、どうしてそんなことを!!だって結婚しようって言ったじゃないか!!」
「だって牧原さんが……」
私の口から彼女の名前が出ると、孝也さんは急に黙り込んだ。
ああ、やっぱり……。
そう思っていると、思わぬ答えが返ってきた。
「……誰?」
「え……?孝也さんの会社の……」
「もしかして、営業部の係長?」
「そうです」
「えっと……、一穂さんはあの人の知り合いだったの?」
「声をかけられたの」
「はあ?話が読めないんだけど……」
「とぼけてる?」
孝也さんは、腕を組んでうーんと考え出した。
「ごめん、降参。本当にわからない」
私はバッグから、牧原さんの名刺を取り出した。
「会社帰りに、声をかけられたの。孝也さんとは約束し合った仲だって。私とは……体目当ての遊びだから諦めなさいって言われた」
名刺を持つ孝也さんの手が震え出す。
「……あの女」
その声は、氷のように冷たかった。
「全部嘘だ。あの人とは、仕事以外での接点はない。連絡先も知らない」
「ほんとに?」
「スマホを見ても構わないよ」
孝也さんはポケットからスマホを取り出すと、私の手のひらにそっと乗せた。
「こんなことをする人だとは、思いもしなかった」
孝也さんの言葉に、取り繕っているような響きはない。
私は、やっと深く息を吸った。
同時に、牧原さんの異常な行動が、急に怖くなってきた。
「どうして、声をかけてきたのかな?」
「名刺を持っているということは……一穂さんのも渡した?」
「うん」
「牧原の件は、明日、上司に相談する。彼女はすでにうちの部を混乱させた件で、営業部長から厳重注意を受けているんだ。
もしそのせいで追い詰められ、一穂さんに接触したのなら……このまま諦めるとは思えない」
「え!怖い」
孝也さんは、私をぎゅっと抱き寄せた。
「変なことに巻き込んで、ごめん」
「孝也さんのせいじゃないよ」
孝也さんは体を離すと、触れるだけのキスをした。
「ねえ、ここで一緒に暮らさない?こんな状況で、一人で帰すなんてできない」
「……いいの?」
「もちろん。帰りも会社まで迎えに行くから」
「それはさすがに……」
「大丈夫。時間を合わせる」
こんなにも優しいのに……。
一瞬でも疑った自分が恥ずかしくなった。
「ごめんね。孝也さんのことを疑って」
「ふふ。だから、キスしてくれたの?」
「そう。略奪しようと思って」
「ええ!り、略奪!?……それで、そんな服を着てるの?」
その時ようやく、首元が大きく開いたニットのことを思い出した。
急に恥ずかしくなって、首元をぎゅっと手で覆った。
「誘ってくれてたんだ。……可愛すぎる」
孝也さんはかすれた声でそう言うと、ずいっと詰め寄ってきた。
「さっきの続き……してもいい?」
孝也さんの真剣な目。
その奥に揺らめく情熱から、目をそらすことが出来なかった。
言葉が出なくて、コクンと頷くと、孝也さんは私の体を抱き上げた。
細く見えるのに、そんなに力があるなんて……。
そんなことを思いながら孝也さんの首にしがみつく。
ベッドにそっと下ろすと、孝也さんが覆いかぶさってきた。
「一穂……愛してる」
愛おしそうに私を見つめ、唇を重ねる。
孝也さんは優しく、甘く……時間をかけて、私を溶かしていった。
初めての快感に身を任せることしか出来ず……
孝也さんの愛に包まれながら、私たちは一つになった――。
****
――暗い部屋に、二人の息遣いだけが響く。
わずかに感じる痛みは、喜びとなって、私は目を潤ませた。
それに気づいた孝也さんは、心配そうに私の顔を覗き込む。
「大丈夫?!」
「違うの。嬉しくて……」
そう言うと、孝也さんはぎゅっと私を抱きしめた。
「俺も……」
私たちは、喜びの余韻に浸りながら、強く抱き合った。
孝也さんの汗ばんだ背中をそっと撫でる。
心地よい気だるさに抗えず、そっと目を閉じた。
「一穂?」
「うん……」
「待って、まだ寝ないでっ!体をきれいにしなきゃ」
「ううん……」
まどろみながらそう答えると、体の下に手が回され、ひょいっと抱き上げられた。
「ひゃっ!?」
「お風呂に行こう。きれいにしてあげる」
「は、恥ずかしいよ!一人で大丈夫だからっ!」
「ふはは。あんなことしたのに?」
「それとこれとは……」
「一穂は本当に可愛いな」
孝也さんはうっとりと私を見つめると、優しく口づけをした。
****
湯船から溢れ出すお湯が、もうもうと湯気を立てて流れていく。
きれいになった体をお湯に沈め、孝也さんの胸に背を預ける。
温かなぬくもりと倦怠感のせいで、また眠気が襲ってきた。
「まだ髪を乾かしてないから、ダメだよ。体は……痛くない?」
孝也さんは甘やかすようにそう言って、私を抱きしめた。
「大丈夫。三つのSのおかげだね」
そう言うと、バシャッと音を立てて孝也さんが体を滑らせた。
「は!?ど、どうしてそれを!!」
「ふふ、本を読もうとしてパソコンの前に座ったら、画面が出てきて……」
孝也さんは片手で顔を覆った。
「開きっぱなしだったんだ……。俺一人だから、パソコンにロックもしてなかったんだ」
「ふふ。いっぱい考えてくれて嬉しかったよ。ありがとう」
「ああ……、マジで恥ずかしすぎる」
私は振り返ると、孝也さんにそっとキスをした。
「孝也さんの可愛いところも、全部大好き」
そう言ってぎゅっと強く抱きしめた。




