26話 緊急帰省
漫画の一巻目を読み終えた頃、インターホンが鳴った。
『帰ったら……続きをしよう』
孝也さんの置いていった言葉が蘇る。
ついに……大人の階段を上る時がきた。
深呼吸をして、玄関に向かうと、青ざめた顔の孝也さんが立っていた。
「お帰りなさい。……どうしたの?」
私を見つめる孝也さんの目には、涙が浮かんでいた。
「母が……倒れた。すぐに実家に帰る。ごめん、せっかく来てくれたのに」
「謝ることじゃないよ!お母さん、ご病気だったの?」
「乳がんで……ずいぶん前に、治ったはずだったのに……」
孝也さんの表情が、病状が深刻であることを物語っていた。
「座って話そう?お茶を入れるから」
「いや、すぐに行かないと……」
「じゃあ……私も一緒に行ってもいいかな?」
「え?」
孝也さんは、信じられないというように目を見開いた。
彼を安心させたくて、ふわりと笑う。
「お泊まりセットもあるし、実家に泊まれるから大丈夫だよ!」
「……いいの?」
そんな顔のあなたを一人になんかできないよ。
私は孝也さんをぎゅっと抱きしめた。
「もちろん!すぐに孝也さんの荷物をまとめよう」
孝也さんの腕に力が入り、強く抱き返された。
「ありがとう」
****
高速で流れていく街の灯を見ながら、孝也さんは、ポツリポツリと話してくれた。
「母の癌が見つかったのは、高校に入学してすぐ。心配させたくなくて、無視されてても、辛くても学校を休まなかった。ようやく落ち着いたのが、俺が高三の時。それからは、徐々に元気になってたんだ」
十代後半の多感な時期に、辛い気持ちを誰にも吐き出すことができなかったなんて、どれほど苦しかっただろう。
闘病中の親を間近に見ていて、どれほど心細かっただろう。
私は耳を傾けながら、孝也さんの手をぎゅっと握り締めた。
「私にできることがあったら、何でも言ってね」
孝也さんは無理に笑みを浮かべながら、私の肩に頭を乗せた。
「一緒にいてくれるだけで十分」
強い人。
沢山の辛い経験を一人で乗り越えて、頼ることができないのかもしれない。
そのままでいいよ。
私が見つけるから。
孝也さんが何を望んでいるのか。
何に悩んでいるのか。
だから、どうか泣かないで……。
そんな気持ちを込めて、孝也さんの手を握り続けた。
****
夜遅くに実家の最寄り駅に着いた私たち。
孝也さんは家まで送ると言ってくれたけど、お断りした。
「もう遅いから、別々に帰ろう」
「気を使わせてごめん。連絡するから!」
「うん。ゆっくり休んでね」
私たちは別々のタクシーに乗り込んだ。
みんなを起こさないように、そっと玄関を開けると、母が寝ずに待っていてくれた。
「寒かったでしょう」と、温かいお茶が目の前に置かれる。
ありがたいな。
温かなお茶を一口飲むと、ホッと肩の力が抜けた。
湯気の向こうに見える母は、心配そうな顔を私に向けている。
そう言えば二人きりで向き合うなんて、いつぶりだろう。
母の温かさに感謝しつつ、孝也さんから聞いた話を伝えた。
「長谷川さんが急に仕事を辞めたから、びっくりしてたのよ。そういうことだったのね」
「孝也さんを一人に出来なくて。ついてきちゃった」
母は穏やかな顔で私を見た。
「あなたたち、順調なのね」
「うん。孝也さんは結婚を考えてくれてて……。家を探そうって」
「一穂はそれでいいの?」
「うん。……早すぎると思う?」
「いいんじゃない?長く付き合ってても、ダメになる人はいるんだし。長谷川さんからね、孝也君のことは聞いてたのよ。初めから、母さんはあなたと合うんじゃないかって思ってた」
「え?ちゃんと考えてたの!」
「当たり前じゃない。大切な娘を、適当な相手とお見合いなんてさせないわよ。長谷川さんと話し合って、過干渉はやめようって言ってたの。親はきっかけくらいしか作ってあげられないからね」
母にとっては、二十九歳の私でもまだ子供なんだ。
ずっと、心配し続けてくれてるんだ。
ありがたさと心強さが込み上げて、鼻の先がツンと痛む。
「孝也君の事、大事にしなきゃダメよ。他人同士なんだし、初めから上手くいきっこないの。
全くかみ合わないパズルのピースが、喧嘩したりお互いに認め合って、だんだんぴったりと合うようになっていくんだから。
離婚するなとは言わないけれど、結婚を決めたからには、それなりに努力しなさいね」
「うん。わかった」
この夜の母の言葉は、深く胸に刻まれた。




