16話 春香ちゃんの変化
どうやって自分の部屋に入ったのか、いつの間にお風呂に入ったのか分からない。
気が付いたら、ベッドの中にいた。
握り締めたスマホに、表示されたメッセージ。
「今、家に着きました。おやすみなさい」
鼻の奥に残っている、孝也さんの匂い。
手に残る、孝也さんの胸の鼓動。
驚いたけど、嬉しかった。
ずっとあの腕の中にいられたらいいのに……。
切ないため息を漏らし、そっと目を閉じた。
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現実は容赦ない。
今日も今日とて満員電車に揺られ出勤。
初めてのハグの余韻に浸っていたいけれど、オフィスの扉を開けた途端、仕事スイッチが入る。
すでに出勤していた春香ちゃんが、浮かない表情で挨拶してきた。
「お、おはようございます。昨日、長谷川さんは大丈夫でしたか?」
「おはよう。楽しんでたみたいだよ」
「良かった。気になってたんです……」
心からホッとしたように息を吐く春香ちゃん。
どうしたのかな?
「だいじょうぶ?少し元気がなさそうだけど」
春香ちゃんが、きりっと表情を変えた。
「大丈夫です!先輩、私、仕事頑張るんで!」
「う、うん」
ちょっと様子がおかしいと思うのは、気のせい?
「おはよー」
眠そうな声の主は、佐々木君。
「杉野さん、昨日はありがとう。おかげで、気がまぎれた」
佐々木君が話し始めると、
ガタンと、春香ちゃんが立ち上がる。
「私、新入社員用の配布資料のセットを作ってきます!三階の会議室押さえてあるんで!」
「じゃあ、荷物運ぶよ」
佐々木君の言葉にかぶせるように、
「一人で大丈夫です!台車あるんで。ちゃちゃっと終わらせます!」
ときっぱりと言い放たれた。
あれ?
いつもは、「誰か手伝ってー」と明るく声をかけるのに、一人で作業するなんて珍しい。
大きな段ボールを台車に乗せて、オフィスから出る春香ちゃんの足取りは、軽やかだった。
佐々木君がクスクスと笑いながら、閉じた扉を見つめていた。
「春香ちゃん、どうしたんだろうね?」
「やる気スイッチが入ったんじゃない?僕も頑張ろうっと」
佐々木君はそう言うと、パソコンを開いた。
なんだか吹っ切れたような二人の姿。
私も、浮かれてないで頑張ろう!
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お昼休み、休憩室に入ってきた春香ちゃんは、いつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
「お疲れ様。一人で大丈夫だった?」
「大丈夫です!ばっちり終わりました」
「それなら良かった」
「先輩って、長谷川さんのどの辺が好きなんですか?」
急に来た、ストレートな質問。
飲んでいたお茶をむせた。
「どう、どうしたの急に」
「昨日、二人を見てたら羨ましくなっちゃって。あ、でも、しばらく誰とも付き合うつもりはないんです!ただ、今後のために聞いておこうと思って」
告白した日のことを思い出して、自然と頬が緩んだ。
「孝也さんは、自分の好きなことを好きって堂々と言える人なの。年齢が上がるにつれ、年相応でいなきゃとか、世間の目とか気にしすぎてた私には、彼が眩しかった。お見合いのあとも色々話して……守ってあげたいって思ったの」
「守ってもらいたいじゃなくて?」
「重い荷物を一人で持つのは大変だけど、二人で一緒に持てば軽くなるでしょ?」
「一緒に……か」
春香ちゃんはため息を吐いた。
これまで、彼氏とお別れしても、引きずってるような素振りは見せなかったのに。
「春香ちゃんはモテるから、また見つかるよ」
「モテるわけでは……ないんです」
目を伏せた春香ちゃんが、幼い少女のように小さく見えた。
「私、誰と付き合っても、本当の『好き』が分からなくて。夢中になれる人がいなかったんです」
今まで羨ましいと思ってきた春香ちゃん。
こんな悩みがあるなんて、思いもしなかった。
大切な物が増えると、どれが「一番大事」なのか分からなくなるように、恋愛経験が増えると「好き」な気持ちの温度に鈍感になるのだろうか?
夢中になれる人。
彼氏がいなかった私は、比べる物差しを持っていない。
けれど、今、孝也さんに夢中。
そう思える人に出会えたのは、奇跡なのかもしれない。
シュンとしていた春香ちゃんが、スッと背筋を伸ばした。
「やっぱり、今の私にはまだ難しいのかも。だから、仕事に打ち込むことにしたんです!
」
「え!すごい。かっこいい!」
「えへへ。先輩ってキャリアコンサルタントの資格持ってましたよね?」
「うん。就職の時に有利かなって、大学時代に取ったんだよ」
「難しいですか?私、スクールに通うか迷ってて……」
「講座に通うのもアリだけど、春香ちゃんは人事に入って、今年で四年目でしょ?新入社員のメンター面談もやってるし、スクールに行かなくても『実務経験三年』で、受験資格はクリアしてるよ」
「えっ!? 本当ですか!? じゃあ、もしかして独学でいける?」
その時、休憩室の入り口に佐々木君の姿が見えた。
「佐々木君、ちょっといい?」
「おう?」
「入社後、キャリアコンサルタントのスクールに通ったって言ってたよね?テキストとか、残ってない?私は、処分しちゃって」
「あるよ。捨てようかと思ってた」
「主任、それ、譲っていただけませんか?」
「もしかして、受験するの?」
「はい。本気で仕事を頑張ろうと思って!」
佐々木君は、温かな眼差しを春香ちゃんに向けた。
「オッケー。今度持ってくる」
「ありがとうございます!」
はにかんだように笑う春香ちゃんが、いつもより輝いて見えた。
お読み下さりありがとうございます!
本日は孝也視点のサイドストーリーを【幕間】として公開いたしました。そちらもお楽しみいただけますと幸いです。




