十七~二十
十七
まさか夫婦みたいなものと思っていたのか、おまえ?
凪いだ海をすいすいと進むヨットのように快適ではないにしろ、朝目覚めたときには前日に起きた諸所雑多な不快な出来事をすっかりうっちゃることのできる、おおむねリセット可能な日々を紀子は送っていた。それが三か月前の事件によって、見事に水を差され、浸水して歯車は錆びて、空回りどころか逆回転しはじめた。安定剤なら二十年以上前、ディレクター時代から服用していた。だが、このたびは最近開業したばかりの白金のクリニックにはじめて足を運び、年齢の割に慇懃な若い医師相手に、虚実織り交ぜた不幸な女の物語をとうとうと聞かせてやった。ドクター・ドラッグストア氏は、しわひとつないてかてかに輝く広い額に手をあてて苦渋の表情を浮かべつつも、新開発の“ガツン”と効くわりに、依存性も低いという薬をたんまりと処方してくれた。
なるほどよく効いた。要するにただの強い睡眠薬だった。寝起きの吐き気もめまいもないし、これなら合格点だった。唯一の副作用は、あの日以来、すくなくともこちらからはいっさいの連絡を絶った――向こうからは電話とメールが何本かあったが、すべて無視した――浅川竜馬の腹の底できっととぐろを巻いているであろう呪いの言葉、
まさか夫婦みたいなものと思っていたのか、おまえ?
それが頭のなかに七夕の短冊飾りのようにぶら下がったまま離れなくなってしまったことだ。
そのたびに紀子は大声で反論した。
冗談じゃないわ。わたしだってそんなばかじゃない。あんたに対してなんの義務も負っていないし、自己犠牲なんて感覚だってこれっぽっちもない。昭和演歌みたいな耐える女なんて、いまどきどこ捜したって見つからないわ。ずるずると付き合っているのは、愚痴のはけ口がほしかったから。それがいちばんよ。それにおいしいものを見つけたときに一人だと高くつくじゃない。おなじものを食べつづけるより、二つ頼んでシェアしたほうが幸福でしょ。あとは仕事上の先輩としての多少の敬意と生物的なそれなりの欲求。付け加えるなら、せいぜいひまつぶしがしたかったってところかな。
だからはっきり言えば、あんたがなにをしたってかまいやしない。奥さんじゃないんだからね。けど、なにが腹が立つかって、最低限のルールみたいなものってあるじゃない。それをあんたが結果的になんにも感じていなかったってことよ。
あのメールよ。
なんで宛先まちがえるかな。それって、わたしにバレてもかまいやしないって根性が腹の底にあったからでしょ。
そうじゃない?
親しき中にも礼儀ありっていうか、多少は気をつかってくれてもいいじゃない。それが男と女の関係ってものでしょ。
まさか夫婦みたいなものと思っていたのか、おまえ?
そうじゃないわよ。
ぜんぜんちがう。
怒りと不快さにぐしゃぐしゃになりながら紀子は叫んだ。それでいて胸の奥には、その存在を否定しようにも否定しきれない生傷のような赤々とした腫れものがあった。
好きだったんだから――。
あぁ、ついに唱えてしまった。たちまち背中に鳥肌がたつ。だが神さまの目から見れば、まぎれもない事実なのだろう。甘酸っぱいどころか、バレンタインデーに下駄箱の前で待ちつづける小学生並みのピュアな恋愛感情。それがいまだに紀子という女の森の奥深くに居座っていたのだ。だからそれさえ切り取ることができれば、これほどらくなことはない。それが容易でないから困るのだ。
かわりに徹底的に調べた。くやしいくらいスタイルのいいあの若い女のことを。目を真っ赤にしてタレントやモデル事務所のサイトをめくりつづけ、ついに頭の裏側にこびりついたまま消えないその顔を見いだした。横浜出身の二十二歳。高校時代はバレーボール部のキャプテンを務めていたらしい。身長百七十センチと記されていたが、うそだ。たしかにあのときはヒールを履いていたのかもしれないが、それを差っ引いても百七十五はあった。男のなかでは小柄な部類に入る浅川よりもずっと大きい。いったいどんなふうにしてするのだろう。あらぬことを想像し、またしても自己嫌悪に陥った。
童顔ともいえるかわいらしい顔だち以外にも、紀子を呪縛して離さないものがあった。
シャネルだ。
特徴的なペンダントのついたネックレスがあのとき――あのホテルのスイートルームの前で遭遇したとき――胸元で揺れていた。やつがプレゼントしたものであるのはまちがいない。シャネルは浅川のいちばんの好みで、財布からネクタイまでそろえていた。
十年以上前、紀子も贈られていた。あろうことかネックレス、それもおなじタイプのプラチナ製の「Ⅽ」の字を組み合わせたデザインのペンダントだった。そして幻滅もはなはだしいことに、お気に入りのアクセサリーとしていまだにしばしば身に着けていたし、なんの因果かあの晩も紀子の胸でココは微笑みながら揺れていた。
もはや自分を笑い飛ばすしかない。紀子はあのホテルからの帰り道、タクシーの後部座席で鎖を引きちぎり、そのままリアウィンドーから投げ捨てた。
白金のマンションにもどるなり、あの男の持ち物を廃棄した。北欧家具の机は粗大ごみの日まで待たねばならなかったが、衣類から小物類まで手っ取り早くまとめられるものは、スーパーのビニール袋につめて部屋から持ちだした。本当なら火を放ってやりたいところだったが、手近に焼却炉もないし、こんな都心で焚き火をしたらすぐにパトカーがやって来る。やむなく近くのコンビにまでいって、屋外のゴミ箱に押しこんできた。自分のマンションのゴミ置き場にはひと晩でも残したくなかったのだ。最低限の理性が働いたのはパソコンだった。重要なデータが残っているはずで、破壊でもした日にはあとで訴えられそうだった。だからそれだけは宅配便で送り返した。もちろん着払いで。
ほかにやつのにおいのするもの――いっしょにワインを飲んだグラスとかおなじスポーツクラブの入館証とか――も廃棄し、いうなれば微生物レベルまで徹底燻蒸した。もはや浮気された妻のやることに等しかった。愛人、セフレ……つまるところ赤の他人に過ぎない存在でありながら、法的権利を有する者であるかのような憤怒に駆られる。自分のなかに抱えるこの矛盾に気づいていながら、燃え盛る原子炉に制御棒を挿入することができず、炉内温度は上昇する一方だった。
半分は自分をなじっていた。カネのある男がどうして愛人一人で満足できるというのだ。そんな簡単な道理に気づかずにいたというか、目を向けずにいた自分が痛々しく、へたな道化になりきっていたように思えてならなかった。
自分を消し去りたい。
最後はそう思うようになった。もちろん自殺なんかではない。そんなことをしたらやつに負けたことになってしまう。肉体と精神の浄化。現実世界から物理的に距離を置き、頭のてっぺんから爪先まで大自然の霊力を借りて分解と再構成をこころみる。そのために選んだ場所がハワイだった。撮影なんて後付けだ。
だがなぜハワイだったのか。いまにして思えば、自分でもわからない。だって浅川が最近はまっていて、しょっちゅう家族で来ているリゾートじゃない。いや、ちょっと待って。家族と――奥さんと――いっしょに来たって証拠はどこにあるの? シャネルを贈ったあの若い女とのアバンチュールでないと、どうして言いきれるの?
なんで、わたし、そんなところに来てしまったんだろう?
十八
「これがキャサリン。アイリーンの一人娘よ」
船長は悲しげな笑みを口元に浮かべた。よりによってシャネルのネックレスにピントが合っているが、顔はピンボケだった。メイクもろくにしていないようだったから、あのときオーディションにやって来た子かどうか判然としない。だがはっきりしていることが一つあった。見た目はエリと変わらない。どこにでもいそうなかわいらしい娘だった。
「美人……ね……」やっとのことで紀子は返事をした。
「もういないわ」
母親のその言葉がずしりと響いた。紀子は緊張のあまり、唇を痛いほど噛みしめていた。
「やってられないわ」船長は大きくかぶりを振った。脂の浮いたショートカットからフケと抜けた髪がまるで涙のようにこぼれ落ちる。「どうしてエリさんみたいな子ばかり、いい目を見るのかしら」
「いい目なんか見ないよ」紀子の口から自然と漏れていた。「遠からず淘汰される。まちがいないわ」
「本当かしら」すがりつくような目で船長は紀子を見てきた。涙を浮かべている。いやでも紀子の胸に突き刺さってきた。そのときだった。カレンがはっと息を飲んだ。
いったいいつ下りてきたのだろう。階段のところにエリが立っていた。見るからに酔っている。自力で立つのもやっとという感じで、階段の手すりを両手でつかんでいる。悪態だけはそのままだった。
「おばさんたち、なにかたくらんでるんでしょ」
ろうそくの明かりが猜疑心にまみれた暗い目つきをぼうっと浮かびあがらせている。濡れた髪がべっとりと頭皮にこびりついたまま乾いたらしく、海藻を巻きつけたまま船にあがってきたゾンビのようにも見える。もはやかわいらしさなどどこかに消えていた。
つかつかと近づいてくるなり、カレンが握りしめる防水ケース入りのスマホを奪い取った。「なに見てたのよ……電波通じるように――」言いおえる前にエリはその場で体をくの字に折り、手にしたスマホに向かって吐いた。電波の圏内に入りさえすれば、携帯式無線機なんかよりずっと信頼できる通信機器――最後の頼みの綱――は、未消化のカマンベールチーズとウイスキーの腐臭を放つエリの吐瀉物をビニールの防水ケースにくらい、いまにも溶けだしてディスプレイまで浸食されそうだった。
「ちょっと!」カレンが声をあげた。防水だから心配することはないが、それでも万が一ということもある。スマホが使えなくなったらたいへんだし、上のキャビンとちがい、下は船長にとっての聖域であるかのようだった。
紀子はしゃがみこむエリに飛びついた。「あんた、なにしてんのよ……」汚いのをがまんして素手でスマホを奪い取り、自分のTシャツでディスプレイを丹念にぬぐう。ためしにケースの上からスリープ解除ボタンを押してみたら、ディスプレイはぱっと輝いた。「いいかげんにしなさいよ」きつい口調でなじりながら肩を抱いてエリの体を起こし、無理やり階段を逆もどりさせようとした。
そのときハーフパンツの尻ポケットになにかが突っこまれた。カレンだった。尻に手をやると、ごつごつしてひんやりとしたものがポケットごしに感じられ、端の部分が外に飛びだしていた。
銃把だった。
紀子はびっくりして振り返った。船長は強い目で紀子を見つめた。一人娘は絶望の末に死を選び、苦労知らずのエリは芸能界入りし、親の七光もあって華やかな未来が待っている。それでいてエリは、漂流者たちが一縷の望みを託したスマホをあやうくただの金属ゴミに変え、わたしたちを死に追いやるところだった。
紀子のなかにも憤怒が燃えあがった。同時にカレンのいう“怖いくらいの自由”を体の内から感じた。結局、船長の通報はアルコール依存症のご友人の夢のなかで霧消してしまっているのだし。
「おみず……お水が……ほしいのよ」腐臭を吐き散らしながらエリはうめいた。
「あんた、どれだけ飲んだのよ。あたりまえじゃない、そんなに飲んだら喉渇くのは」階段を上りながら紀子はささやいた。
上のキャビンは静まりかえっていた。ランタンの明かりも消えている。電池切れだろうか。それでも月が顔を出したらしく、外から入る銀色の明かりにミニボトルが散乱したテーブルがぼんやりと浮かびあがっていた。
風が気持ちいい。
後部デッキのスライドドアが開放され、海をわたるひんやりとした宵の微風がせめてもの慰みのように神に見放された遭難者たちの体をやさしくなでていた。
エリは一人で飲んでいたようで、ヤスコも弥生もソファで横になり、寝息をたてていた。いまは眠るのがいちばんだ。渇きも空腹も死の恐怖も感じずにすむ。
操縦席のわきから、弥生が眠るソファの前を通って、後部デッキにエリを引きずっていく。その間ずっと銃の冷たい鋼を尻に感じていた。
エリはよだれをたらしつづけている。手のかかるプチセレブだ。いまごろ沈没したクルーズ船の乗客名簿に娘の名前があったことを知らされ、国民の税金を食いつくす天下り官僚の父親は狼狽していることだろう。遭難から二十四時間以上が過ぎたが、まだ望みを失うには早い。ライフベストか浮き輪、もしくは船の残骸にしがみついているか、あわよくば救命ボートに娘は収容されて漂流をつづけている。たとえ自力で浮力を生みださねばならないとしても、娘は通り過ぎる船に追いつこうと大胆にも海に飛びこめるほど泳ぎの達人である。サメが人を襲うケースはまれであると話す地元民もいることだし、モデル活動をつづけるかたわら私設秘書としても活躍してくれるしっかりものの愛娘なら、あと一日ぐらい外洋を漂流するだけの余力があるだろう。
ガラスをはめこんだスライドドアを後ろ手に閉め、デッキに出る。外は寒いくらいだった。だが紀子は美しい光景に目を奪われた。ずっと眺めていたい衝動に駆られる。
満月だった。
それが穏やかで慈悲深い光を夜の海に降り注ぎ、群れをなして泳ぐクジラの背のようにところどころ盛りあがりながらうねる水面を、まるでダイヤモンドを散りばめたようにきらきらと輝かせていた。
エリの体が激しくけいれんし、ふたたび吐いた。覚悟していたとはいえ、せっかく乾いたハーフパンツを汚され、紀子はかっとなった。それでもCM出演をひかえる自称モデルの体を力まかせにデッキに転がして発砲したりはしなかった。あと一歩がまんすれば、アッパーヘルムステーションに上がる階段の陰に入る。月明かりがあってもそこならキャビンから見られることはない。“怖いくらいの自由”を感じていても、やはり本能的に人目は避けたかった。なにしろ生まれてはじめての体験に挑むのだから。できることなら銃声だって響かせたくなかった。
「なん……なんなのよ……おばさん」
エリが声をあげた。潮風に正気を取りもどしたのだろうか。前より心なしか声がしっかりして聞こえた。ヤスコたちを起こさないといいのだが。
脚に力を入れ、紀子は最後の一歩を踏みだした。サイドデッキの手すりにエリの体を寄りかからせ、自分もひと息つく。満月が吐瀉物で汚れたエリの胸元を照らしだす。Tシャツはカレンのものだ。洗濯して返すなんてこの小娘はこれっぽっちも考えていまい。紀子は、ぐずるわが子を着替えさせる母親さながらのてきぱきとした手つきでそれを脱がせ、ついでに腰巻がわりのバスタオルも剥ぎ取って、エリをパンティ一枚にした。
身にまとっていたものをいっぺんに奪われて体温が急激に低下したらしく、エリは両腕で上半身を抱えてしゃがみこんだ。足もとにうずくまるエリを紀子は見おろした。そこはみんなが交代で用を足した場所、勝手に海に飛びこんだあとに流れ着いたエリに対し、紀子がちょっとした悪意をもよおした秘密の死角だった。紀子は息を詰め、念には念を入れてあたりを見まわした。ヤスコがのこのこついてきているようなことはなかった。
「あっち……いってよ、ばばあ」
さっきよりもはっきりと口にした瞬間、エリは手すりもつかまずに海に向かって吐いた。まるでシンガポールのマーライオンのようで、体内に残っていた水分がぜんぶ流出してしまったかのような盛大な量だった。紀子は反射的に体を放していた。エリの背中をひざで押したり、両手で肩を突いたわけではない。ただ彼女のほうから離れていっただけだ。一度釣りあげてサイズと重さを測定したのち、ふたたび沼に返されるナマズのように。
水音は聞こえなかった。
凪いでいたから本当は聞こえたのかもしれないが、すくなくとも紀子の聴覚はそれをシャットアウトした。しかし海面に飲みこまれるエリの姿ははっきりと見て取ることができた。その瞬間、紀子はほっとした。なにより銃を使わずにすんだからだ。きっとこの先、エリが似たような金持ちのドラ息子と結婚して子どもを産み、格差社会を象徴する苦労知らずの女というクローンに育てあげることはない。頭の片すみでそう思ったとき、はじめて紀子は視線を感じた。階段のわきから首をのばしてのぞきみる。
散乱するTシャツとバスタオルの向こう、スライドドアの内側に人影があった。ヤスコだろうか。それとも弥生か。一部始終を見られてしまったかもしれない。
影が一歩ガラスに近づく。
船長だった。
じっと立ちつくしこちらに目を凝らしている。目と目が合ったような気がして紀子は首をすくめた。すっぱいものが喉を這いのぼってくる。だが勇気を奮ってもう一度キャビンのほうに目をやったとき、彼女が小さくうなずいたように見えた。それはまるで紀子がそこでなにをしたか察し、飲みこんでしまう決意をしめしたかのようだった。
影は霊気のようにゆらめきながら踵を返し、操縦席のほうへと移動した。そして下のキャビンにいたる階段を下りていく。
もう疲れたわ。すこし眠ることにするから――。
船長のささやきが聞こえたような気がした。
十九
銃を握りしめたまま、紀子はデッキのベンチに腰かけていた。
キャビンにもどってヤスコや弥生になにか訊ねられるのが怖かったし、それ以上にふたたびエリが船にもどり、自力で這いあがってくる可能性をぬぐえなかったからだ。だがそんなはずはない。あのときもどってこられたのは、まださほど酔っていなかったし、あの子にも余力があったからだ。いまはちがう。泥酔していた。たとえ冷たい水につかったところで、体はもちろん頭もまともに働くまい。冷静に状況を把握する前に海水を肺に入れてしまい、パニックがパニックを呼んで、溺れるのがおちだ。事実、紀子はエリの体が海に引きずりこまれるのを見ている。
いつのまにか横になって眠っていた。
気づいたときには、東の水平線上に太陽が完全に姿をあらわしていた。気温も上昇しており、首筋が汗ばんでいた。
記憶を取りもどすのが怖かった。
だがそれをかろうじて覆っていた霞は、つぎの瞬間にはスクリーンセーバーが消えるように失せてしまった。デッキに突っ立ったエリがむすっとした目でこっちを見ている。そんなブラックジョークも起きていない。目の前を飛びかうハエの大群を追い払うかのように紀子は片手を顔の前で振った。まぶしい朝日も殺人の事実も消えてくれなかった。
ぜんぶ夢であってちょうだい……。
暗い海を漂流していたあのとき以上に強く念じた。だがなにもかもが痛々しい現実だった。いま必要なのは冷静になることだ。紀子は鼻からゆっくりと息を吸いこみ、いったんとめてから時間をかけて吐きだした。ベンチには無造作にリボルバーが置かれていた。それを使ったわけじゃない。
あれは事故だった。それになにより、カレンの友人は通報し忘れている。だからエリは――もちろんわたしたちも――依然として行方不明のままなのだ。漁船かなにかが遺体を見つけたとしても心配することはない。Tシャツもバスタオルも剥ぎ取ったし、解剖によりアルコール摂取があきらかになったとしても、そもそもクルーズ船で大量飲酒していたと結論づけられるだろう。そう思うしかない。でないと正気をたもっていられない。なんでわたしが人殺しを――。いまさらだったが、紀子はエリが海から上がってくることをねがっていた。
時計を見た。
もう七時半だ。
ホテルのモーニングビュッフェを想像する。焼きたてクロワッサンに地元産野菜のサラダ。ブロッコリーを生で出すのがワイルドなアメリカ流か。エッグステーションでは、チェダーチーズとマッシュルームをたっぷり入れたオムレツを頼もう。いや、オランデーズソースをふんだんにかけたエッグベネディクトのほうがいいかな。ジュースは、ハワイならグアバとマンゴーのミックスがいい。酸味と甘さのバランスがたまらない。
飲みもののことを考えた途端、渇きがぶり返してきた。もはや唾液も出ない。口のなかは接着剤でも流しこまれたようにはりついていた。みるみる強くなる陽射しがそれをかきたてる。海面もフライパンで沸騰したオリーブオイルのようにぐつぐつと泡だって見える。頭ががんがんしてきた。きっと熱中症の症状だろう。血がどろどろになっているのだ。地獄風呂のような熱気に押され、紀子はキャビンにもどろうかと腰を上げかけた。
だめだ。
なにか聞かれたとき、なんと答えるか考えてからでないと。あのときヤスコも弥生も眠っていたはずだ。だがたとえ起きていたとしても、月明かりしかなかったし、キャビンからは死角になっていたはずだ。エリが海に落ちるところは見られていまい。だから紀子としてはせいぜい、エリを連れてデッキに出たがそのあと自分はベンチで眠ってしまってわからない――などと、しらをきりとおすしかないのではないか。紀子はふたたびベンチに腰を下ろし、おなじことを反すうした。
体のほうが持たなかった。三十分もしないうちに耐えきれないほどの陽射しとなり、頭痛は最高潮に達し、吐き気ももよおしてきた。紀子は銃を尻ポケットにしまい、シャツの裾で隠した。こんなところに放置してあらぬ疑いをかけられるのは本意でない。それから立ちあがり、スライドドアに手をかけた。
「やっぱりそこのドア開けるとちがうねぇ。風が通るよ」ヤスコがしわがれ声でつぶやいた。両手で紙コップを挟んでいたが、なかはもう空だった。顔のしわがきのうよりも深くなり、目の下のくまが濃い。「ちょっと生温かいけどねぇ。缶詰めになっているよりはいいや」
カレンはいなかった。下の寝室で眠っているのだろう。ふかふかのベッドでもあるのだろうか。船長としてせめてもの特権かもしれない。紀子はヤスコの向かい側、弥生の隣にそっと腰を下ろした。弥生も起きていた。疲れの色が濃い。テーブルに散乱したミニボトルのたぐいをやるせないまなざしで見つめている。酒は飲めないと話していたが、どうやら飲んだらしい。きびしい現実をすこしでも忘れたかったのだろう。
二人ともカレンのTシャツを脱ぎ、上下とも救助されたときに身に着けていた服に着替えていた。弥生のジーンズのハーフパンツはまだ濡れている感じだったが、ゴスロリバンドのTシャツはもう完全に乾いている。ヤスコのブラウスとスラックスもだいじょうぶそうだった。ヤスコは靴が片足脱げたままだった。
エリの服だけが、もはや帰らぬ主を待ちながら弥生の背後の棚にくしゃくしゃに寄せつけてあった。
二人はなにも訊ねてこなかった。たがいにここへきて急展開した自分の人生について心のなかで振り返っているかのように押し黙りつづけた。それがすべてを物語っていた。やはり二人は気づいているのだ。こんなに狭いボートに乗客四人だ。一人の姿が見えないとなれば、なにかあったと考えるのがふつうだ。だがヤスコも弥生も紀子とおなじだった。エリに対して抱いていた感情は。
「船長は?」ぶっきらぼうに紀子は訊ねた。もはや疲労困憊で大きな声も出ない。全身がだるく微熱もあるようだった。
「上がってこないんだよぉ」断水に音をあげる僻地の村人のようだった。「無線の音もさっぱり聞こえないしぃ」
携帯式無線機は下に持っていったきりだったが、応答があれば特有の音が上にも聞こえてくるはずだった。とはいえあの無線機は役だたずだ。
紀子は塩で汚れた窓に目をやり、晴れわたり凪いだ海を見つめた。水平線のどこを見ても救助船はおろか、島影すらなかった。それでいて船は流されている。おそらく南西方向、ハワイ諸島とは逆の方角へ。どんどん、どんどん。
「もう死にそうです」やつれはてた顔で弥生が紀子に訴えかけた。「喉がカラカラで、頭のなかが燃えてるみたいに熱いんです。なんか、超体調悪い。やけ起こしてお酒飲んじゃったのがまずかったかな」
「二日酔いなんじゃない」
「ですかね。とにかく水飲みたいです。なんか……もう……気が狂いそうで」半べそをかきながら弥生は胸のうちを吐きだした。
「みんなおなじよ」
「でもどうなっちゃうんですか、わたしたち」
「待つしかないわ」
「自分、自信ないです。いつまで正気でいられるか」
「よしてよ、そんなこというの。トコちゃ……」あやうく親しい間柄でしか使わない愛称を口走りそうになり、紀子は口をつぐんだ。
「でもマジで、パニック起こすかもしれないです」だんだんと弥生の口調は鬼気迫るものに近づいてきている。
ヤスコがなだめてくれた。「あれだけしつっこく無線入れてりゃ、だれかがどこかで気がついてるはずだべや。まもなくだぁ。心配しねえでよぉ」
「あの無線機ですけど」弥生はヤスコの顔をまじまじと見つめ、焦燥感に駆られたようにつぶやいた。「壊れているんじゃないすか。でなきゃ、おかしいですよ」
「んだなことないっぺやぁ」
「いえ、そのことだけど」紀子は声をひそめていった。「たしかに故障しているかもしれないわ。それに――」紀子は昨夜カレンとかわした会話を話してやった。彼女は、遭難者を救助したことをオアフ島にいる友人に携帯電話で伝えたのだが、どうやら友人はアルコール依存症で、大量飲酒による酩酊状態にあったらしい。「あんまり考えたくないことだけど……たぶんわたしたち、だれにも知られていないわ」
「やっぱりそうなんですか」
紀子が訴える。「ぜんぜんたすかってなんかいないのよ。クルーズ船から投げだされたあのときから、ずっと漂流してるのとおんなじ。水に浸からずにすんでいるぶん、せいぜい体温が下がらないで長生きできてる程度。延命治療のようなものね。だけどこのままじゃ、遠からず終わりがくる。順番にね、きっと」あの子みたいに。紀子は胸の奥で付け足した。それは二人にも伝わったようだった。「船長のスマホが通信圏内に入るのを待つしかないわ」
紀子は弥生の背後にそっと手をのばし、エリの服をつかんで立ちあがった。病気の母親が診察室に入るのを待合室から心配そうに見つめる子どものように、二人の視線がゆらゆらとついてくる。紀子は振り返りもせずに後部デッキに出て、手にしたものを海に放り投げた。
キャビンにもどってきたとき、弥生が言った。「モロカイ島でお葬式があるってほんとなんですかね。やっぱりなにかたくらんでいるんじゃないですかね」
「なして? なしてそだなことするったな」ヤスコはいぶかしげに弥生の顔を見た。
「だって、つぎからつぎへと悪いことばかり起きるじゃないですか。ありえないですよ、こんなこと」
「やめてくれやぁ、そだなこというの。気分サもっと悪くなるでねえかぁ」
「あやしいですよ、あの船長。あやしすぎる。悪意を感じますよ」それまでにないきびしい口調で弥生は言った。それが紀子の不安をかきたてた。
「なんだべ、悪意って」
「わたしたちに対する悪意ですよ。いじわるや嫌がらせ、そんなようなことをしたくなるようななにかが、わたしたちの側にあったんですよ」
「あの子はいなくなったべや」ヤスコは紀子の顔をうかがいながら口にした。「船長の浴衣サ勝手に着てゲロで汚したし、人の迷惑サ考えねがったから、船長さんも腹サ立てたのかもしれん。けど、もういねえべや」
「あの子じゃないんですよ」弥生はきっぱりと告げた。「もし遭難者を救助したことが当局に伝わっていないのなら、うちらを生かすも殺すも船長しだい。闇に葬ることだってできる。サイテーなのはそこですよ」
ヤスコは押し黙った。紀子はぞわぞわした気分になった。弥生の言葉にはとげがある。スタジオで紀子にしかられて萎縮していたときとは別人だった。
船長が上がってきやしないか階段のほうを気にしながら弥生がつづける。「あの人が不愉快に思っていることがあるなら、わたしたちのほうから先にそのことを謝って、あらためるようにすれば、あの人の気持ちも変わるんじゃないですか」
「気持ちが変わってもバッテリーがあがってるのは事実でしょう」紀子は冷めた口調でたしなめた。弥生の怒りの矛先は自分に向けられている。紀子に原因があると糾弾しているのだ。現場周りで起きていることの細部をいちいち知りうる立場にある末端ADとして。
生意気だ。
じつに。
たまらず紀子は咳ばらいをした。
弥生は眉をひそめ、自問自答するように首をかしげた。「たしかにそうです。けど、非常用の発電機もないなんておかしいですよ。船のなかをぜんぶ捜索したわけでもないんだし、きっとどこかにあるはず。だってそれもないんじゃ、自分が困るだけじゃないですか。だからあの人のなかで、わたしたちに対するもやもやした気持ちが整理されるのなら――」
足音がした。階段を上がってくる。膨張した体を揺さぶり、すこし不自由な足を狭いステップに慎重にのせながら。
とっさに紀子が口走る。「ダメよ、あなた。余計なこといったりしちゃ」
弥生は返事をしなかった。聞こえたのはカレンの野太い声だった。疲労の色が漂っている。「あとすこしの辛抱だと思うわ」
船長は後部デッキへと出ていった。それにつられて三人もふらふらとついていった。「海が荒れていないのがせめてもの救いよ」エリのことをあえて無視しているようだった。
そのときだった。弥生が船長の前にぐいと出た。その肩に向かって紀子がとっさにのばした手は、中途半端に空を切った。
海を背に弥生がほかの三人と対峙する格好になった。
「本当に救助は来ますか」弥生がそれまでにない毅然とした口調で船長に訊ねた。ダメなADなんかでなく、引く手あまたの主演女優のようだった。「あとどれくらい待てばいいんですか」
カレンはそれでなくとも大きな目をさらにぎょろつかせた。「救助は来るでしょうよ。あれだけ無線を入れてるんだから。だけどいつ来るかはわからない。そういうのは神さまにしかわからないわ」
「マジですか?」
いぶかしそうにカレンは弥生を見返した。「なにが言いたいのかしら」
「だれもいない海にわざと連れだしたんじゃないですか」弥生は一気に言いきった。「スマホの電波も届かない外洋に。モロカイ島のお葬式の話もウソなんじゃないですか」
紀子は船長が怒りだすかと思った。しかしカレンは弥生のことをじっと見つめたまま、口を閉ざしていた。まるで実験動物を観察する科学者のようだった。
船は規則的に上下に揺れながら、音もなく流されつづける。強烈な陽射しがじりじりと首筋を焼き、皮膚がふたたび赤々とむくれはじめる。
鳥は鳴かない。
遠い空にも海鳥一羽飛んでいない。
世界から完全離脱された異空間だった。
弥生は肩を震わせながらいった。「日本でリポーターになりたがっていたキャサリンさんが自殺したんですよね。アイリーンさんの一人娘の。そのアイリーンさんって、船長のことなんじゃないですか」
船長の太い眉がハの字にゆがむ。「いったいなにを言いだすかと思ったら」
「だってアイリーンさんは二十キロの水のタンクを二つぐらい軽々と運べたんですよね。とっても力持ちなんですよね」弥生は船長のことを小さく指さした。「眠ったふりしながら、ずっと聞いていたんですよ。冷静に考えると、あなたがアイリーンさんだってわかったんです」
船長は面食らったような顔をした。「あらいやだ。わたしはただ太ってるだけよ。筋肉なんてぜんぜんないの。それに小柄で痩せていても力持ちの人っているでしょう。人を見た目で決めつけちゃいけないわよ」
「でも……ずっと足を引きずってるじゃないですか。アイリーンさんはエビの殻を粉砕して肥料にする機械に足を突っこんで、切断したんですよね」
「よしてよ、そんなばかげた推理。わたしはカレンよ。ばかげてるというより、トンマだわ。ほら、見てごらんなさいよ」カレンはわきに立つほかの乗客のほうに肉づきのいいあごをしゃくった。「ヤスコさんなんていまにも吹きだしそうじゃない。この子、ついに頭がおかしくなったんでねえのって顔してる」
ヤスコは相づちも打てず、神妙な顔になった。
「わたしが足を引きずっているのは、ちょっと前に階段で足を踏み外してねんざしたからなの。へんな心配かけてごめんなさいね」
「じゃあ」意を決したように弥生は声を張りあげた。「カレンさん、あなたの娘さんなんでしょう、キャサリンさんは」
船長は――カレンは――唇を真一文字にかみしめた。
弥生は得心したように話しだした。「キャサリンさんは、秋に始まるテレビ東邦のバラエティー番組のリポーター・オーディションを受けに来たけど、落ちてしまった。そのあと、日比谷線に飛びこんだ」
「ふゅー、驚いたわ。よく知ってるのね」
「うちの局の話ですからね。そのくらいのことは聞こえてきますよ」
うちの局。
さも社員であるかのように弥生はさらりといった。ただの出入り業者の末端のくせに。でもそれにいちいち腹をたてるのはいまはやめておこう。もっと喫緊の問題についてADが口にしたからだ。
「その件に関して深くかかわっている人間、キャサリンさんが自殺する引き金を引いた人間。この船の乗客のなかにその人物がいるとあなたは考え、確信を深めようと船を沖にだし、オーバーヒートやバッテリーあがりまで起こして時間を稼いだ」
カレンの頬がゆるんだ。「まるで時代劇ね。こっちでもよく放送しているのよ。ずいぶん昔のやつをね。番組の終盤に答えがきれいに出るタイプ。だけどそうだとするとわたしがものすごく悪い人間、悪役ってことになっちゃうじゃない。それっておかしいわよ」
「すいません。船長は悪役じゃないです。問題はだれが……どう引き金を引いたか……ですよね。」弥生はごくりと唾を飲みくだし、ほんの一瞬、紀子のほうに目をやる。だが逡巡はすぐに消えた。ふたたび視線をカレンにもどしてつづける。深呼吸してから弥生は肝心の部分に分け入ってきた。「だれがって点は……ほら、あれですよね……なんていうか……はっきりして……いたんでしょう」
さっきまでの威勢のよさが失せ、初舞台に緊張して失禁寸前の新人女優が吐くせりふのようにたどたどしくなっていた。それでも弥生は最後まで言いきった。いい度胸だ。紀子は胸苦しさをおぼえつつもふしぎと感心していた。だってスタジオで派手にすっころび、スタッフルームではじゃまくさくうろちょろしているだけのハツカネズミに過ぎなかったんだから。紀子はその場で飛びかかってやってもよかった。でも心のどこかで冷めていた。あわてることはない。そう思ったのだ。だって時間はいくらもあるじゃない。ただ、右手は自然と尻ポケットにのび、冷たい鋼の感触をたしかめていた。
カレンが小さく鼻を鳴らす。「キャサリンが自殺したのは、オーディションであるプロデューサーからひどいことを言われたからよ。そのプロデューサーの名前ならわかってるの。いろいろ調べたんだからね。ただ、いくらネットで探してみても顔が出てこなかった。テレビ局まで押しかけていって、待ち伏せとかもしたんだけど、やっぱり顔がわからないんじゃどうしようもなかった」
ついにカレンが正体をあらわしはじめた。紀子は隣にいるヤスコを見た。あんぐりと口を開け、わけがわからないといった顔をしている。そりゃそうだろう。娘を死に追いやった相手を探しに遠く離れた日本にまで談判しにきた母親が、自分が暮らすハワイのこの海でついにその憎むべき相手を――女プロデューサーを――捕らえたというのだ。紀子だって唖然とするほかない。こんな偶然――。
それにはカレンのほうで答えてくれた。「あの晩、クルーズ船が沈没したとき、日本のテレビクルーが乗船していたってニュースでやっていたの。テレビ東邦って言ってたわ。それで問題のプロデューサーがかかわっている新番組のブログを見たら、ちょうどこの時期、ハワイロケにいくって書いてあった。ぴんときて、ホノルル警察の知り合いに調べてもらったら、乗船名簿に名前があったのよ。そのプロデューサーの」
「うそ……」弥生がすっとんきょうな声をあげた。いつのまにかカレンの背後に隠れるように立っていた紀子にも驚きだった。世のなかに偶然なんかない。つまり、モロカイ島の葬式なんてやっぱりうそ八百だったのだ。
「すぐに港に急いだわ。救助がはじまってから何時間もたっていたけど、沿岸警備隊はとにかくボランティアの救助船を必要としていた。ものすごい数の行方不明者が出ているようだったの。それで沖合に出て救助を手伝うふりをしながら、警備艇に接近しては、そのプロデューサーのことを探しまわった。そのうち撮影クルーをたすけた船が見つかったのよ。いろめきたったわ。けど、デッキに転がっていたのは男たちだった。そこで警備隊員からたのまれたのよ、もうすこし沖のほうを探してくれって。たったいまそっちに女性が流されていった。撮影クルーたちの責任者らしい。同僚たちがそう証言しているっていうのよ」
「アイム・キャプテン・カレン!」
何時間か前の記憶がよみがえる。九死に一生を得たあの瞬間。船長は待つべくしてあそこで待ちかまえていたのだ。
女プロデューサーのことを。
「だけど確証がなかったんですよね、救助したあとで」弥生がぼそりという。「顔がわからないから」
「そうよ。だけどすぐにわかったわ」カレンは紀子のほうをちらりと見た。「モンテ・カレーはアラモアナにはないわ。カハラモールにはあるけどね」
紀子の尾てい骨まわりにいやな痺れが広がった。AD時代、生放送のスタジオでカメラの前を堂々と横切ったときのみじめな記憶がよみがえる。あのとき以来だろうか。
「だけどそもそもおかしいのよ“ナカイ・カナ”なんて。だってあの乗船名簿にもチェックがつけてあったでしょう。すでに救助されている人にはあらかじめ印をつけておいたのよ。“ナカイ・カナ”はそのなかの一人だった。けど、この人は――」カレンは右手の親指を立てて背後にいる紀子のほうをしめした。「堂々とそこを指さしたんだから」
落ち着いた声で弥生がつづける。「きっと撮影クルーの一員にちがいない。わたしと顔見知りみたいだから、この人のこと、そう思ったんですよね、船長」
「すくなくともモンテ・カレーの宣伝部長ではないだれかだと思ったわ」
「でもやっぱり確証が持てなかった。いまでもそうなんじゃないですか」
カレンは小さくかぶりを振った。「時計よ」
「時計……?」
「そう。ダイバーズウォッチ。キャサリンがよくメールをくれたのよ。あこがれのチーフ・プロデューサーがカッコいい時計しているって。メーカーまでわかっていたわ。ブライトリングっていうんでしょ、それ」カレンは振り返り、大きな目を疑り深く細めて紀子のことを見つめた。
逃げだしたかった。
生きものとしての生存本能だ。だがいまの紀子にはそれができない。砂漠のどまんなかにいるほうがまだましだった。灼熱の陽射しに炙られようと、脚さえ生えていればこの場から離れることができる。でも海じゃだめ。紀子は急に人生の終幕が近づきつつあるのを実感した。せめて泳げるなら。なんでうちの親はスイミングスクールに通わせなかったんだろう。あのころ水泳が得意だった男の子は、近所のスイミングスクールに通っていたから泳ぎをおぼえたのだ。その後、彼が泳ぎを生かした仕事についたかどうかはわからない。でもいざというときには役だつはずだ。たとえば船が沈没して投げだされたときとか、狂女が船長を務めるボートに偶然乗り合わせてしまったときとかに。
脚はデッキにコンクリートづけされたままだった。尻ポケットにまわした手にかすかに冷たい感触が伝わってくる。それだけがかろうじて紀子に正気を保たせていた。
「キャサリンさんのことなら、わたしもおぼえています」弥生は告白した。もはや紀子などいないかのようだった。きっと心のなかで辞表をつきつけたのだろう。でも提出する相手はわたしじゃない。だってあの子は社員じゃないのだから。吹けば飛ぶような孫請け会社から派遣されているだけなのだから。「いつもスタジオにお弁当運んできてくれてましたから」
そろそろタイミングをはかったほうがいいかもね。いまやポンコツ・トーキングマシンと化した非常識きわまりないADのスイッチを切るタイミングを。頭から黒い煙を噴きあげながら紀子は床島弥生をにらみつけていた。
「そうなのよ」カレンはわが意を得たりとばかりに人差し指を立てた。「なんとかキッチンって言ってたわ。テレビ局にお弁当運んでるって」
「ボビーズ・キッチンです」
「そう、そんなような名前だったわ」
「まちがいないです。わたしがお弁当の種類と個数を発注していたんですから」
カレンは得心したようなゆっくりとうなずいた。
「ミックスフライ弁当。ボリュームもあるし、温野菜がたくさん入っているのがありがたかった。みんな、大好きだったんですよ。出演者の方も喜んでくれて。スープをつける人も多かった。コンソメだけどすっごくコクがあって。だけどCPだけはライス抜きで注文していた。カーボン・ダイエットにはまっていたんです」
余計なことを。でもぜんぜん正確じゃない。だからいつまでたっても三等ADなのだ。ライスのかわりにライ麦パンを添えてもらうBセットをいつも注文していた。だからカーボン・ダイエットなんかじゃない。ぜんぜんちがう。
「たまに雑談もしましたよ」
カレンの顔がぱっと明るくなるのが背後からでもわかった。「どんな話をしていたのかしら」いまは亡き娘の痕跡を貪欲にもとめてきた。
「二年ぐらい前から勤めてるって。外資系企業にケータリング・サービスを行っているんだとか。ハワイ出身だとも話していました。向こうでモデル活動をしていたって」
「そうなのよ。だから日本での在留資格も『興行』だったの。だけどじっさいにできることといえば、モデル事務所に登録するぐらい。それじゃ生活費も稼げないから、事務所が気をつかってくれてね。子会社のケータリング会社で“モデル修業”の名目で、なんていうかな、脱法的に働かせてもらっていたのよ。もちろん芸能活動のチャンスをうかがいながらね」
「タレントを目指しているってことは聞いていました。だからボビーズ・キッチンの店長の配慮で、テレビ東邦を回らせてもらうようになったとか」
「どんな感じだったのかしら」
「とってもいい子でしたよ。はきはきして、かわいくて。遠からずテレビに出られるだろうって思っていました。リポーターとかいいんじゃないかなって」
驚きだった。どうしてこんな下等ADに出演の判断ができるというのだ。そういうのをきめるのは局の人間、社員だ。
CPだ。
だがそれにしてもだ。紀子はそんなハワイ出身の弁当屋がスタジオやスタッフルームをうろついていたなんて。ケータリングのことはもちろん知っている。でもそれはあのさわやかな向井くんのことだけだ。向井くんがやって来たのは最近だろう。せいぜい二か月か三か月前。ということは日比谷線にひかれて退いた女性担当者の後任ということか。現場の女王として君臨し、下々の者たちのことなど、表面的に気づかうふりはするものの、つまるところあらゆることに完璧に無関心なCPは、当然ながら知る由もなかった。向井くんは偶然にも男で、しかも倉木紀子の秘めた欲望に合致するタイプだったというだけだ。
「たまに電話すると、よく話していたわ」アッパーヘルムステーションにあがる階段に寄りかかりながらカレンはため息をついた。「チーフ・プロデューサーの女性が現場をてきぱきと仕切っていてすごくカッコいいって。いつかその人の番組に出演したいって。だからケータリングのたびに毎回あいさつをして、お弁当も直接手渡すように心がけている。そう言ってたわ。すこしでも自分に興味を持ってもらおうと、あの子なりに努力していたんだと思う」
汗に濡れる手でリボルバーの銃把を握りしめながら、紀子はひとり首を横に振っていた。ちがう、ちがう。ぜんぜんだめ。そんなんじゃぜんぜんわからないわ。いったいどれだけの出演者予備軍が、スタッフにまぎれて現場をうろついていると思ってるの? みんな、隙あらば自分を売りこもうと必死になってるの。あいさつするぐらいじゃだめ。もっと狡猾にやらないとダメなのよ、テレビに出るってことは。とくに地上波キー局はね。頭の高い新聞社がつくるちんけなニュース解説番組もどきじゃないんだから。
「似たような境遇かもしれないです。わたしとキャサリンさん。けど、彼女のほうが向上心があったかも。わたしなんて、肉体的にはきついけど、いまのままでいいって思ってましたから。薄給だけどへんなことされるわけじゃないし」
へんなこと。
抜き差しならぬ状況にあったが、紀子のなかのぎりぎり冷静な部分がそこに引っかかった。
二十
「ぜんぜんテレビのことなんて好きじゃないです」弥生は吹っ切れたように紀子の前で堂々と言い放った。「雇ってもらった会社がたまたまテレビ関係だったってだけです。だけどとにかく、わたしみたいなおバカでもこなせて、そこそこのお給料もらえる仕事ならなんだってよかったんです。結構追い詰められてたんですよ、マジで」
熱中症のような症状を訴えていたくせして、弥生はカンカン照りの陽射しなんてものともせずに、まるで懺悔でもするかのように自らの半生を語りはじめた。三十路に差しかかりながらそそっかしく、とてもでないが嫁にはやれないコロコロした女が札幌出身であることを、紀子はそのときはじめて知った。履歴書に書いてあったのだろうが、記憶にないし、そもそも紀子はそんなもの見やしない。ADなんて昆虫以下の存在、微生物だった。
ところがその微生物がこの船のデッキでは主役に抜てきされていた。「小学校一年のとき、父親がススキノのホステスに入れこんじゃって両親が離婚したんです。それで母親が親類を頼って、姉とわたしを連れて東京に出てきて暮らすようになりました。母ははじめは町工場に勤めていましたが、わたしにも遺伝したとおり不器用なもんで、すぐにクビになってしまいました。あとは定職につけないまま、生活保護費が家族三人の糧になりました。マジつらかったです、そんな生活。学校じゃ貧乏人あつかいだし、友だちもできないし。そのうちわたしも学校に寄りつかなくなっちゃった。でもこんなこと言うと笑われちゃうかもしれないですけど、わたし、勉強、好きだったんです。だからやっぱりこのままじゃいけないって思っていた。そしたら、その手の厄介な事情を抱える子どもたちに手を差しのべてくれる神さまみたいなグループの人がやって来て、勉強教えてくれたり、相談に乗ってくれたりといろいろ面倒見てくれたんです。それでなんとか公立高校に入学して、推薦枠で大学にも進学できたんですよ。短大じゃないですよ。ちゃんとした四年制。懸命に勉強して奨学金もらいました。社会学部だったんで、卒論は『超高齢化社会における福祉政策の盲点と広がる格差』われながらやるもんだと感心してましたが、いまとなってはお笑い草ですよ。まるで自分の将来を予言していたみたいじゃないですか。だから大学時代がいちばん輝いていた時代かもしれないです。卒業したら、あとは坂を転げ落ちましたから」
就職氷河期は去ったといわれはじめた時代とはいえ、やはり就職は容易でなかった。弥生は七十社の面接を受けたが、ただの一社からも採用通知を受けなかった。それもわかるような気がする。大学までは進学できたとしても、社会人として必要とされる常識やマナーを弥生が身につけていたとは到底思えない。それに採用面接のとき、多少のはったりでもきけば就職に有利に働いただろうが、いまのようすから想像するにむなしいばかりだ。
「結局、世田谷の老人ホームの食堂でパートで働くようになったんです。だけど世間ってマジきびしいです。こっちの事情なんておかまいなしに卒業と同時に奨学金の返済を迫られた。まあ、世間的にはあたりまえのことですけどね。でもこっちとしちゃ、晴れて正社員として就職後、ぼちぼち返済する計画だったんです。だって総額五百万ですよ。それを卒業後十五年で返さないといけない。稼いだお金、ぜんぶ費やしたってムリですよ。パートなんだから。時給七百円なんだから。マジ、違法ですよ。全都道府県でもそんなに低くない。最低賃金違反だったんですよ」
殴りつける先のない拳を握りしめてしゃべりながら、弥生は半べそをかいていた。なんだか親に見放された小学生の女の子が救いをもとめているかのようだった。「返済期間を圧縮するには、月々の返済額を増やすほかなかった。けど、そうするとバイト代の大半がそっちにいっちゃって、あとは雀の涙ほど。そのころには母は体調を崩していたし、姉だって一時はバス会社に正社員で就職したものの、三年勤めて心を病んで辞めちゃった。その後はずっと引きこもり。血がつながってるからがまんしてるけど、マジ、働けよって言いたかったですよ。母にも、姉にも」
そんな肉親より衝撃をあたえたのは、高校の同級生たちだった。
「三年前、同窓会があったんですよ。女子はほとんどが結婚して、子どもを連れてきた子もいた。資格を取ってバリバリ働いている子もいた。そんなにハイレベルな高校じゃなかったけど、みんな、それなりに社会に出て、それなりに家庭を持って、それなりにしあわせになっていた。それなりじゃないのは一人しかいなかった。なんかもうつらくて、つらくて……」
弥生は両手でショートカットを激しくかきむしりながら訴えた。まるで家が火事になっているのにだれも見向きもしてくれないし、消防車が来る気配も一向になく、業火の前で一人、途方に暮れているかのようだった。だがそこで弥生は燃え盛る人生の消火器を見つけた。使用期限が切れているかもしれず、うまく噴射できるかもわからなかった。それでもたった一本そこに、あった。
「パートでお世話になってる老人ホームって、世田谷の高級住宅地のどまんなかにあって、わりとお金持ちの人が入ってるんです。スケナリさんもその一人でした」
レアメタルをあつかう専門商社の社長だったスケナリという老人は、二年前に妻に先だたれ、離れて暮らす息子たちの進言で、長年暮らした戸建ての家を売りに出し、ホームに入所したという。いささか足が悪く、糖尿病も患っていたものの、八十四歳という年齢にしては頭はしっかりしていたし、なにより話がおもしろかった。弥生が高級マンションの一室のようなスケナリの部屋を一人で訪ねるようになるまで、ひと月もかからなかったという。
「催眠術にかけられたというより、まるで見えない巨大掃除機に吸い取られるように、気がついたらわたし、自分のことを洗いざらい打ち明けていたんです。たぶん子どものころから父親がいなかったせいで、大人の男性、とくに包容力があってしっかりした人になんとなく憧れみたいなものがあったんです。スケナリさんはわたしの話の一つ一つにじっと耳を傾け、そのたびにわたしの気持ちをらくにしてくれるアドバイスをたくさんしてくれたんですよ。それで自分に自信を持てるかもしれない。希望の光みたいなものが見えたんです」
いつのまにか空に雲が広がってきていた。
灰色の雲だ。
遠からずスコールのような雨が降ってくる。海が荒れなければいいのだが。弥生の話を聞きながら、紀子はほかの船影が見えないか大海原に目をやった。せつないほどの空の高みをジェット機が飛んでいた。だが海にはなにひとつ浮かんでいない。
「ドキュメンタリー番組の話をしてくれたのもスケナリさんです」ふいにテレビ関係の話をされ、紀子は弥生の告白に引きもどされた。「大学の奨学金返済に困って風俗産業でアルバイトをする女性の話です。年齢もわたしとおなじくらいで、就職に失敗したとか、両親が離婚していて生活保護にたよってきたというところもそっくりでした。それでユーチューブで検索してその番組を見つけたんです。見ず知らずの男の人にいやらしいことをされてお金をもらう。でもしかたない。将来恋人ができたり、結婚することになったら、ぜったいに秘密にしておかないといけない。モザイクのなかで涙を流していました」
スケナリ氏はそこで弥生に訊ねた。
あなた自身はどう思うかな――。
それが老人の巧妙な誘いであったとは、その手の経験が乏しかった弥生にはわからなかった。
問題は“見ず知らず”というところだろうね――。
舞台俳優さながらの朗々としたそれまでの声音とは打って変わって、スケナリ氏はしわがれ声で苦しげにつぶやいた。紀子には、それがどんなふうだったか想像がついた。東南アジアの場末の賭博場でサイコロの動きに息をひそめ、なにごとか呪文のような言葉を唱える追い詰められた勝負師。さながらそんな調子だったにちがいない。
深夜でせいぜい二%。
ゴールデンじゃ無理ね。
逃亡者・弥生を主人公にしたドラマが頭をよぎった瞬間、反射的に却下していた。だが現実はみるみる進行した。
「これくらいで……」そういってスケナリは骨ばった指を三本立てた。「なにもしないから……ちょっと触れて……くれれば……いい」
ある春の日の昼下がり、多くの個室で午睡の寝息があがりはじめるころだった。弥生は契約をかわしたわけでも、明確に承諾の意思をしめしたわけでもない。レースのカーテンをひいた応接間の一人掛けのソファにただ座り、変わりゆく老人の態度に戸惑いをおぼえただけだった。それなのにスケナリは、ローテーブルをはさんだ向かいのソファからせいたように腰をあげ、起毛したスリッパを踏みつぶして弥生の前にやって来た。
「いきなり手をつかまれたんです。その日はスケナリさんはスエットパンツでした。腕を引っこめようとしたんですけど、年寄りとは思えないほど力が強くて」
とにかく早く終わってほしい。
最初の奉仕のとき、ずっとそう思っていたという。
「怖くてつぎの日はバイトを休みました。でもスケナリさんからメールが来て、あやまりたいと書いてあった。バイトを休みつづけるわけにはいかないし、翌日、しかたないからホームにいったら、スケナリさんに食堂で会いました。ばつが悪そうにしていましたけど、わかれぎわ『また来てください』って言われたんです。わたしもそこまでばかじゃないから意味はわかりました。でも頭の片すみには返済金のことがいつもあったんですよね。それにあたりまえだけど、もっと生活費がほしかった。こんなふうにハワイにも来たかったですし」
弥生はネットを検索しまくった。サイバー世界の住人たちに質問もしてみた。すると賛否両論あったが、最終的には「割り切って考えたほうがいい」「いまだけの試練」との意見が目立ったように感じた。
「割り切るなんて無理です。気持ち悪いだけだから。でもお金もほしかった。だからいくらいやでもつづけちゃったんですよね。自分にできたのはがまんすることだけ。へんに騒いだり、ホームのだれかにチクったりしたら、きっとわたしのほうが追いだされる。あの人、表向きは紳士だし、お金持ちだから施設もありがたがっていたんですよね」
予想するまでもなく、エスカレートした。ベッドに押し倒され、パンティーに手を入れられたとき、さすがに弥生も目を覚ましたという。
「それで辞めたんです。もういいかげん自分の人生、変えたかった」弥生は目の前にいる観客たちの顔を交互に見た。「どう思います……?」
カレンが答えた。「いまさらそんなこと聞いてどうなるの? 考えるだけむだじゃない」
弥生は唇をかみしめながら大きくうなずいた。「そうですね。はは、おっかしい。けど、これだけは言ってもいいですか。これもいまさら言ってもしょうがないことなんですけど」
「言ってみなさいよ。すっきりするわ、きっと」人質を取って立てこもる銀行強盗と対話を試みる交渉人さながらに、ゆったりとした口調でカレンがうながした。
広がりつつある雲をちらりと見あげてから弥生が吐き捨てた。「結局、おとうさんが浮気なんかしなければよかったんです。それがすべてのはじまりだったんだから」
紀子はぞっとした。浅川竜馬には娘がいる。紀子はその男と長年不倫をつづけてきた。いまから浅川が離婚するはめになったとしても、娘が極貧に突き落とされることはあるまいし、慰謝料だってたんまりふんだくれるだろう。しかし状況は弥生とおなじだ。紀子は浅川の妻よりも娘に対して罪悪感をおぼえた。
「すみません。すっきりしました。たぶんこれでもう自分の生まれを恨むことなんてしないと思います。前向いて生きるつもりです。それしかないんだし。それにたとえ奴隷みたいな立場だとしても、変態の相手するよりはずっとマシですから。だから――」
弥生はそれまでにない決然とした表情で紀子のこと見すえていた。こんな顔は見たことがない。いつもおどおどして叱られないよううつむいてばかりいた。それがいまは職場の、いや、人間としての上下関係から完全に離脱したかのようだった。だから自然の成り行きとして、リボルバーのグリップを握りしめる紀子の手にも力がこもる。マニキュアのはがれた人差し指は、中学生がかわすはじめてのキスのように冷たい引き金にそっと触れていた。
そんなこととは露知らず、弥生は言いきった。「たとえ上の人の不倫をまのあたりにしたとしても……それが破局したことで、八つ当たりをくらう人が出たとしても、自分はいちいち腹なんか立てないです。いまの仕事をだまってつづけるだけです。だけど……これから先もたいせつなその仕事、自分という存在をしっかりと感じ取れる仕事がつづけられなくなるのはいやです。はっきり言って困ります。奨学金のこともありますし。だからもしわたしのこと、たすけてくれて、どこかの港まで連れていってくれるのなら、しゃべりますよ、あの日のこと。オーディションでのこと――」
拳銃は短銃身のくせに鉄球さながらの重量感だった。グリップをしっかり握っていないとデッキに取り落としてしまいそうだ。そんなことになれば暴発して自分の足を撃ち抜きかねない。それでなくとも体が弱り、気持ちも萎えているときだけには、そんなへまはしたくなかった。だが正直なところ、この先、弥生がなにか重大なことを口にしそうになったとき、いったいこの右手をどう動かすべきか、紀子はさっぱりわからなかった。
「それが知りたいんですよね。そこにいる≪《倉木さんが》≫……どう引き金を引いたかってこと」
「そうね」船長はうしろにいる紀子にかろうじて聞こえるぐらいの声でつぶやいた。
それは裏切り者のADがとんでもない暴露をはじめる合図とはならなかった。
立てつづけに三回、紀子に生まれてはじめて銃の引き金を絞らせただけだった。




