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デッキ  作者: 根本起男&黒岩研


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二十一~二十四

二十一

 何発が正確に弥生の肉づきのいい体を貫いたのかさだかでない。いちいち検証するひまもなかった。ゴスロリTシャツは、胸におどろおどろしく描かれた魔女のサバトのごとく一瞬にしてぐちょぐちょになり、あとは見えざる化け物の手に押されて弥生の体は海に転落した。

 カレンとヤスコが絶叫していた。紀子にはそれはどこか遠くの小島で群れをなすカモメのわめき声にしか聞こえなかった。視界に霞がかかり、いま目の前で起きていることがたちどころに幻想世界の出来事に思えてくる。紀子は手にした拳銃に目を落とした。銃口からかすかに煙があがっている。発砲時の反動が腕全体にじんじんと残っていた。肩の関節のあたりには、徐々に痛みのような感覚が広がりだしている。

 二人はステンレスフェンスから身を乗りだして海面をのぞきこんでいた。だが船はずっと流されつづけているし、波も高くなってきていた。弥生の姿はもうどこにも見えなかった。

デッキに点々と赤いものが落ちている。激しい後悔の念が恐怖となって脊髄を這いのぼってきた。それを遮断しようと紀子は、力いっぱい銃を放り投げた。紫外線のきらめきのなかで、それはきれいな弧を描いてコバルトブルーの波間に落下し、消えた。まるでプロデューサーに反抗的な態度を取ったがゆえに銃殺されたあわれなADを後追いするかのように。

「≪《何人殺せば気がすむの》≫」

 それが自分に向けられた言葉だとわかり、紀子は正気づいた。

 ヤスコだった。

 さっきまで弥生が独演会を開いていた場所に踏みだし、紀子と真正面から向き合っている。まるで取り返しのつかぬいたずらをしでかした悪童を呼びだした女教頭のような恐ろしい形相をしていた。

「エリさんだって、あんたが殺したんだべや。みんな黙ってっけど、バレてんだからな。海サ突き落としたんだべ。いっくら気に食わない子でも、あだなことすることないべや」

「ちがうわよ」陸地から隔絶され、救助も期待しえない、だれからも見放された天然の密室だったが、紀子は衆人環視の法廷に立たされたような気分に駆られた。「勝手に海に落ちただけよ、エリさんは。捜したけど、夜だったから見つからなかった」

 だが検察官役のヤスコも、裁判官役らしき船長も芳しい顔はしなかった。それどころか自分に都合の悪い話をされそうになった途端、隠し持っていた拳銃でバンバン!! 被告人はそんな荒っぽいまねをへいきでやってのける女だ。武器を放棄したところで凶暴性が消えるわけがないと思っている。

 紀子は本能的に口にした。「あの子……うちのADなんだけど、ものすごい虚言癖があるの。きっと自分だけたすかろうとして、わたしを陥れようとしたんだわ。だからすこし注意してやろうと思って……つまりね……殺すつもりなんて……なかったのよ。警察官がやるでしょ、威嚇発砲ってやつ。わたしはぜんぜん狙ってなんかいなかった。けど、銃を撃つなんてはじめてだから、思わぬところに弾が飛んでいったのよ」そのとき紀子は、ヤスコが仁王立ちするデッキに銃弾が貫通した穴が開いているのを見つけた。それで確信を深めた。弾が偶然、弥生の体にあたってしまっただけなのだ。つまり火線上にあの子が――最後までトンマなADが――突っ立っていたのがいけないんだ。あの子のほうが不注意だったのだ。

 カレンは大きくため息をついた。それでようやく紀子は口をつぐんだ。なんだか焦げ臭いにおいが鼻をかすめた。うんともすんともいわないエンジンがどういうわけか焼けついているかのようだった。

「もしわたしたちがこの先、運よく救助されて、ここで起きたことを洗いざらいしゃべったとしても、エリさんもヤヨイさんも遺体が見つからないんじゃどうしようもないわ。凶器も海の底だしね。だからあなたが逮捕されるなんて、ぜんぜん期待していないのよ。そんなんじゃないの。わたしが知りたかったのは、オーディションであなたがキャサリンになんて言ったか。ただそれだけ。あの子を自殺に追いやったのがどんな言葉だったのか知りたかっただけなのよ。でももう無理ね。せっかくここまで引きずりまわしたのに」ついにカレンが黒い魂胆の一端を明かした。「でも、あなたを拷問したところで、答えは得られないでしょうね。だって、それを聞かされたら、あなたを生きて帰すわけにはいかなくなるから。だからあなたが口を割るわけがない。絶対にね」

 じゃあ、これからどうなるっていうの。

 この船は?

 あんたは?

 わたしたちは?

 まったくおなじ疑問をヤスコが抱いていた。弥生が流した血のりを片足だけのスニーカーで踏みつけながら口を開いた。しかしそれはあまりにも意外な言葉だった。

「≪《その首輪、超キモいんだけど》≫……最初にそう言ったんだよぉ」

 紀子は慄然とした。

 真実だからだ。

 どうして知っている。このおばさんが。

「あんた、エリさんサ、殺ったあと、ずっと外にいたべ。そのあいだにぜえんぶ、ヤヨイさんが話してくれたんだよぉ。もうがまんできねがったんだべなぁ。強い酒サ、ぐいぐいあおりながらべっらべらしゃべったよぉ。あの子、オーディションの手伝いさせられておったから、一部始終をずっと見ていたんだぁ」

 カレンの表情がおぞましい期待にゆがんだ。焦げつくようないやなにおいが増していた。ことによるとカレンの体臭なのかもしれない。やけに生っぽい感じもした。

「その日のオーディションは最初からいつもと雰囲気がちがっておったそうだぁ。まるで警察の訊問のようだった。まんなかに座るプロデューサーがひっどく酒に酔っていて荒れていたからだぁ。そこにキャサリンが入ってきたんだよ。本人は倉木さんのことサ、よく知ってるから期待に胸を膨らませていたんだろうけど、倉木さんのほうはそれどころでないし、そもそも出入りの弁当業者のことなんて記憶の片隅にもないべや。最初はべつのスタッフの人が質問していたんだけど、そのうち倉木さんが聞くようになっていった。聞くっていうより、いちゃもんをつけてるみたいだったって、ヤヨイさん、言ってたよぉ」

 オーディションのとき弥生がどこにいたのかまったくおぼえていない。だいいち手伝いにきていたこと自体、記憶にない。なにしろあの日、紀子はひどいありさまだった。頭のなかにあったのは、浅川とシャネルをぶらさげたあのエレベーターの女だけだった。

「そのうち倉木さんは、キャサリンが身につけているアクセサリーの文句を言いだした。シャネルのネックレスだぁ」

「シャネル……」カレンがいろめきたつ。「たしかにあの子、持っていたわ。母親からプレゼントされたものよ」それなら紀子も何時間か前にカレンから見せられていた。スマホの写真だ。でもよりによって母親からの贈り物だとは――。

 そのとき紀子は眉をひそめた。デッキから煙があがっていたのだ。銃弾が貫通した穴からだった。銃口からあがるよりも色が濃く、いきおいもあった。まるでいたずら好きの小学生が理科の実験で使うレンズで日光を集め、板切れを炙っているかのようだ。それが焦げ臭さの原因だったのだ。エンジンルームのハッチだ。

「ひとしきりネックレスの悪口サいうと、こんどはキャサリンの体形に文句をつけてきたそうだ。キャサリンは、両親が日系人だけんども、どういうわけか背がすらっと高かった。だからモデルにもなれたんだべや。ところがテレビのリポーターは、それじゃいけないらしいんだ。ヤヨイさんは急ごしらえのオーディション会場になった会議室の端っこで、耳を覆いたくなるような話を聞かされたんだとさ」

「どうして背が高いといけないのかしら」船長は素朴な疑問を投げかけた。「たしかあの子、百七十五センチぐらいあったんじゃなかったかしら」

「顔も小ぶりで完璧な八頭身。腰の位置サ、外人さんみたいにすっごく高くって、いっしょにオーディションやってたほかの男連中はみんなして、短いスカートの下からのびる脚サ眺めてばかりいたそうだぁ。そういうのヤヨイさん、ぜえんぶ見とったんだよぉ。でもなぁ、倉木プロデューサーだけはそうでねがったらしい。ひっでえことサ口にしたそうだぁ」

 船長はわなわな震えながら両手で口を覆っていた。悲鳴をこらえているかのようだった。でも泣きたい気持ちは紀子もおなじだった。なにしろよくおぼえていないのだ。ひどい二日酔いの悪夢のなかで、きっとなにか口にしたのだろう。だがそれは本意じゃない。だったら先にそれを説明しておいたほうがいい。勝手に口が動いていた。「ちがうのよ……」

 そんな小声でヤスコをとめることはできなかった。

「ヤヨイさんにはこだなふうに聞こえたらしい……≪《人に話を聞くときに上からマイク向けたらどう思われるかしら。スタジオで出演者と並んだとき、自分がどう映るか想像できる? そういうのあなた以上に、相手のほうが気にするのよ。テレビは絵柄が一番なの。あなたがそこに入ると、画面を汚すことになるんじゃないかしら》≫……おれにはテレビ作ってる人のことなんかよくわからねえ。だけんど、すらっとした美人がテレビに出ると、なして画面を汚すことになるんだかなぁ。逆じゃねえのかなぁ。きれいな人がテレビ出てたら、みんな喜ぶべやぁ」

「ちがうってば……」こんどは二人に聞こえるだけの声で紀子は告げた。「言ってないって、そんなこと……」

 カレンは聞く耳を持たなかった。「美人でスタイルのいい女の子のほうがいいにきまってるわ」

「だべや。だけんど倉木プロデューサーはそうは思わねがったんだよ……≪《だからあなた、方法は一つしかないわ》≫……」

 紀子はわめきだしそうになった。くっきりとよみがえったのだ。

 記憶が。

 あの日、オーディションで口にした決めぜりふが。

 結局、人間というのはそういうものなのだ。自分が放った言葉を忘れるなんてありえない。ずっと脳細胞のどこかにこびりつき、責任を取らされる日まで証拠として残りつづけるのだ。だから最後は紀子は懇願していた。そうするしかなかった。「やめて……やめて……やめて……やめて……やめて……」

 そんなのおかまいなしにヤスコは断罪した。「それでこう言ったのさ……≪《そのじゃまな脚、切ってきなさいよ》≫――」

 そうよ。そう言ったのよ。

 でもそれを言ったのはわたしじゃない。わたしのなかに巣食う憎しみの魔女よ。あの男への怒りにまみれ、絶対報復を誓った暗黒の使者。それがわたしの口を借りて恐怖の呪文を唱えた。

 ただそれだけなんだから。

 つぎの瞬間、魔王が杖を振るった。だれを責め、だれに味方したのかわからなかった。ボンという破裂音とともにエンジンルームの蓋が吹き飛び、その下から巨大な火柱が怪物の舌のように出現したのだ。


二十二

 気づいたときには紀子もカレンもその場に倒れていた。

 ヤスコは身につけていたものが完全に乾いていたのが災いした。Tシャツの裾に引火し、たちまち燃え広がった。悲鳴をあげながらよろよろと紀子のほうに近づいてくる。火事場特有の炭化したにおいが鼻を突く。紀子はとっさに脚を突きだし、腹を蹴りつけた。ヤスコは炎とともに体をくの字に曲げてあとずさり、ふたたびエンジンから噴きあがる火炎のなかに転がりこんだ。焼き鳥の焼き台にくべられた串のようだった。おぞましい絶叫が火焔のうなりにかき消される。つぎの瞬間、ヤスコの体が視界から消えた。フェンスの向こうに転落したのだ。

「…………!」

 何事か叫ぶと同時に船長が巨体を揺すって飛びだした。濛々たる黒煙をともなう火柱のわきをかすめ、後追い自殺するかのようにフェンスを乗り越えた。殺人鬼と化した紀子による被害者をもうこれ以上増やしたくないとの決意のあらわれだった。紀子は四つん這いになって炎をよけながらフェンスに近づいた。

 二人は消えていた。

 波が高くなり、船はシーソーのように左右に揺れている。潮の流れもある。紀子は首をのばして波間に目を凝らしたが、二人の姿をとらえることはできなかった。

 硬いなにかが破裂したような甲高い爆発音が耳元で響き、紀子は体ごとフェンスにたたきつけられた。火柱はいまや二メートルほどにまでいきおいを増している。燃料が燃えているだけでなく、エンジンルームの周囲の強化プラスチックやデッキに張った木材にも燃え広がっているのだ。

 燃えているだけではなかった。

 紀子は呆然として立ちあがることができなくなった。

 船が傾きはじめていたのだ。

 波に揺られているわけではない。おとといの夜、クルーズ船で感じたのとおなじ感覚だった。三半規管がアラームを鳴らしている。さっきの爆発のせいだ。エンジンルームの下部に致命的な亀裂が入ったのだろう。船はそのあたりから海にのまれはじめているようだった。

「カレン……ちょっと……船長……」うわ言のように紀子は声をあげた。高度一万メートルでエンジンが停止したジェット機の乗客ほどではないが、最大級に近いパニックの大波が襲ってきた。夢だといってちょうだい。何発か発砲したこと引き金となって、エンジンルーム内に染みだしていたオイルかなにかが燃えはじめ、やがてそれがガソリンパイプかタンクそのものに引火し、連鎖爆発を引き起こした――。ありえないわ。そんなこと。その場から動けぬまま紀子は祈りつづけた。事実を認めたくなかった。

 ふたたび船がぐらりと揺れたとき、紀子はキャビンのほうへ這いはじめた。脚に力が入らず、立ちあがれなかった。

 火を消さなきゃ。消火器ってどこかしら? それよりも爆発で開いた船底の穴をふさぐべきなの?

 やっとのことで立ちあがった紀子は、葛藤をおぼえながら、目ではライフベストを探していた。それがその場で発揮すべき最良の生存本能だとは思いたくなかったが、そうせざるをえなかった。わたしたちが救助されてキャビンに入れてもらったとき、船長はライフベストをどこにしまったっけ……? 頭は混乱し、どこを見まわしてもなにも目に入らぬまま、紀子は下のキャビンへとどたどたと下りていった。

 階段の途中で、地震の縦揺れのような振動が足もとから突きあげてきた。さらなる爆発が起きたのだ。紀子は転がるようにしてカレン船長と語り合ったキャビンにふたたび足を踏みいれた。左右の壁の上部にある窓から入る日差しでかなり明るくなっていた。

 消火器もライフベストも見あたらない。しかし紀子はべつのものを探していた。ようやく現実感を取りもどしたのだ。いま、この状況下で必要なものを確保しておかないと。水でも食料でもない。

 スマホだ。

 だがすぐに気づいて衝撃を受けた。

 あれはずっとカレンが首からぶら下げていた。防水ケースにつながるストラップで。

 それでも紀子は檻のなかをうろつく熊のようにキャビンを探しまわり、なんらかの通信機器がないか調べた。しかしスマホはおろか、使えるかどうかすこぶるあやしい例の携帯式無線機すら見つけることができなかった。

 不気味な水音が聞こえてきた。船尾のほうからだ。船は確実にエンジンルーム付近から沈みはじめている。そのうちいまいるキャビンにも海水が流れこんでくるだろう。ライフベストもスマホもない。いまさら消火器が見つかったところで遅い。どうせどんな炎だって船が沈んだら消えるのだし。

 そのあとのことを考えると思考が停止した。夜の海を漂流していたときのほうがまだたすかる見込みがあった。ライフベストがあったし、沈没したクルーズ船の乗客らの救助活動がはじまっていたからだ。なによりいま紀子がいる場所は、罠のなかにいるようなものだった。このまま船ごと海中に引きずりこまれる危険があった。

 踵を返して階段にもどりかけたとき、主寝室のドアが目に入った。たしかめない手はない。とっさにドアノブをつかんだ。ロックされていなかった。船の傾きにあわせて自然とドアが開いた。

 天井に据えつけた小窓からの明かりが、船首の形を生かした大きなベッドを照らしだしていた。窓の向こうには青空のなかに広がりつつある黒雲が見えた。

 ベッドの枕元に例の携帯無線機があった。スマホを持ったままのカレンと再会できるとはかぎらない。そう思った途端、紀子は部屋に飛びこんだ。無線機は小ぶりのアタッシェケースのような形をしているが、防水加工が施されているわけではない。紀子はあたりを見まわし、ベッドのわきにあるキャビネットを片っ端から開けた。クロークのなかに黄色い塊が見つかった。波しぶきを浴びる荒天のデッキでも使えそうなレインウェアだ。上下セパレートになっている。ごわついた感じから完全防水らしい。紀子はそのパンツのほうに無線機を突っこみ、左右の裾と腰の部分を結んで袋状にした。

 背後で水音が聞こえた。

 ドアの向こう、ついにロウアー・キャビンが浸水したらしい。足を踏ん張らないと立っていられないほど床が傾いている。一刻も早く外に出ないと。しかし海中に潜む巨大獣が喉を鳴らすような、それまでにない恐ろしい音が船尾のほうであがり、絞首刑台の床が抜けたかのように紀子の体はつんのめって倒れ、そのままドアを越えてキャビンのほうへ滑り落ちていった。船の傾きが一気に増したのだ。

 紀子は水のなかにいた。

 キャビンの最後尾、浸水箇所と思われるエンジンルームと壁ひとつ隔てたあたりだった。そこで激しい奔流が起きている。浸水のいきおいで亀裂が加速度的に広がっているのだ。

 水面に顔をだし、紀子は頭上をあおいだ。上のキャビンにいたる階段の手すりまで四メートル近くある。このまま待っていれば急速に増している海水の浮力でそこまでたどり着けそうだった。が、無線機が見あたらない。せっかくレインウェアで包んだものの、主寝室に置きざりになっているのだ。

 紀子は意を決してボルダリングを開始した。キャビネットに足をかけ、壁のフックをつかんでいく。ふだん使わぬ筋肉に力を入れた途端、節々が悲鳴をあげた。それでも紀子は水から体を引きあげ、スパイダーマンのようにして登りつづける。

 主寝室のドアノブをつかみ、懸垂のようにして室内に上がる。無線機を包んだレインウェアのパンツはドアのすぐわきに転がっていた。それに手をのばしたとき、またしても船が大きく揺れた。船体がほぼ直立したことで波の受け方がそれまでと変わったのだ。それが浸水をさらにうながす。もはや海水は主寝室のドアのところにまで達していた。紀子は片手で無線機を抱え、反対の手でボルトで固定されたベッドの脚をつかんだ。

 いまからドアを出て階段に向かうのなら、足元に迫る水に潜るほかなかった。だが階段はまっすぐではない。途中で百八十度曲がっている。そんなところを息をつめたまま通過するなんてできるだろうか。紀子は顔を上げた。主寝室に明かりを導いている小窓が天井にある。四十センチ四方で、コックで内側から開けられる仕組みのようだ。考えているひまはない。紀子は無線機を抱えたままベッドをよじ登りはじめた。

 波に揺さぶられながらようやく窓まで手をのばせる位置に達した。コックを倒して窓を押し開けてみる。新鮮な外気が悪魔の口笛のようなうなりとともに一気に流入してきた。だが窓は十センチほど開いたところで動かなくなった。明かりと外気を取りこむだけの窓なのだ。パニックになりかけた気持ちを無理やり抑えつけ、紀子はなすべきことをした。抱えていた無線機を窓にたたきつけたのだ。

 強化ガラスは頑丈だったが、四回目のトライでひびが入り、あとはみるみる亀裂が広がった。最後は力いっぱいたたきつけた無線機の角が、ガラスの雨を降らせた。

 丁寧にガラス片を取り去り、四角い穴に頭を突っこむ。もはや水はベッドをも飲みこみはじめていた。もうもどれない。紀子は右肩、左肩と外に押しだし、背中を丸めるようにして窓枠だけになった穴にイモムシのように上体を通した。加齢のせいで乳房がしぼみだしているのが不幸中の幸いだった。だがおなかの前で両手で抱える無線機がじゃまになった。それを手放せば容易に腰骨が穴を通過できる。

 周囲を見まわした。カレン船長ご自慢のクルーザーはすでに九割がた沈んでいる。マッコウクジラの下顎のような舳先が、救助をもとめて手を振る人のように波に揺れていた。

 爪先に冷たいものを感じた。足を踏ん張りつづけるベッドのフレームのところまで浸水してきたのだ。急がないと。せっかく洋上に顔を出したのに、このままだと船ごと海に引きずりこまれてしまう。思いきって紀子は右手を無線機から放して外に抜きだした。これで右手が自由になったが、左手はごつい無線機を指先に引っかけたまま、窓枠と体に――股間に――挟まれている。肉づきのいい尻を上に引き抜くには先に左手を外に出さないとだめだ。

 船ががくんと下に引っ張られた。まるで海中の化け物が船尾に食らいついたかのようだった。それが合図になって紀子は左手を船外に引き抜いた。無線機を手放して。

 あとはスムーズに進んだ。両手で窓枠をつかみ、力を入れて尻を引き抜く。ガラスの破片がちくりとしたが、たいしたけがにもならず脱出に成功した。舳先に飛びついたときには、脱出口となった小窓はすでに海面下にあった。そこからお手製の防水加工をほどこした無線機がなにくわぬ顔をして浮かんでくるのを期待したが、それより先に船のほうが沈んでいった。どこかで浮力がたもたれ、船の沈降がとまってほしかった。それならもはや六十センチほどしか海上に突きだしていない舳先をよすがにできる。だが淡い願望は十秒後にはついえた。

 船が完全に海に没するとき、小さな渦巻きが起きた。それに飲みこまれぬよう紀子は海に身を投げ、必死にもがいた。水は想像以上に冷たく、心臓がちぢこまる。ハワイのイメージはまったくない。ベーリング海にたたきこまれたかのようだった。それでも体中の筋肉を使ってなんとか渦巻きから逃れた。だがこんどはべつの問題に直面した。

 自力で浮かねばねばならなかった。

 待って。

 冷静になるのよ。

 海のなかはプールなんかより浮力が強いはず。それにたとえ泳げなくとも、仰向けになって顔だけ海上に出すくらいならさほど難しくはあるまい。波がきたらそれを飲まないようにすればいい。喉は死ぬほど渇いているんだけどね。とにかくパニックだけは起こさないようにしないと。

 ブライトリングの腕時計を見た。

 まだ八時半だった。

 パラパラと雨が落ちはじめ、あたり一面、小さく泡立っている。さっきよりも急速に暗くなってきていた。明けたばかりの朝が夜にもどってしまうかのようだった。風も出ていた。波は恐ろしく高い。エレベーターに乗せられているみたいだ。力いっぱい足をばたつかせて上体を海面から突きだし、遠くに目をやったが、船影は見えない。しがみつくものがほしかった。まるで洗濯機に放りこまれたかのように容赦なく波が襲いかかる。

 パニックを起こすまで三十秒とかからなかった。


二十三

 頭に硬いものが激突した。

 視界の端に真っ白くて巨大なものがあらわれる。

 恐怖が爪先から脳天まで稲妻のように走り、紀子は大便を失禁した。最初に漂流したあの晩以来だった。アルビノのトドかセイウチかと思ったのだ。

 生きものではなかった。長さ一・五メートルほどの白っぽくて四角いものだった。クルーザーの残骸だろうか。浮力がありそうだった。頭の片すみでそれを理解し、とっさにしがみついた。

 表面には人工皮革のようなものが張ってある。中身は発泡スチロール製かなにかのようだった。ソフトな感触で幅は五十センチほど。厚さも三十センチはあり、十分な浮力があった。それを恋人のように抱きしめ、波しぶきを浴びながら大きく息をつく。

「≪《船のソファよ》≫」

 耳元であがった大声にあらためて紀子は失禁した。肛門が開ききってしまったかのようだった。大海でひとりぼっち。浮き具は見つけたものの、救助活動はおろか、遭難の事実自体、だれにも伝わっていない。高波に翻弄され、冷たい水のなかでいったいいつまで持ちこたえられるだろう。目を背けたくなる恐ろしい現実にムチ打たれるなか、たとえいまもっとも会いたくない相手であっても、たった一人で漂流をつづけるよりはずっといい。

 かげりはじめた理性はそう叫んでいたが、声がしたほうを振り返るなり、本能が拒絶した。カレンは目の前に迫っていた。海面から顔だけだし、紀子が見つけたばかりの浮き具に平泳ぎで近づいてきた。ぷかぷかと浮かぶソファに向かってぐいと腕をのばしてくる。ライフベストはつけていない。紀子同様、体を休ませられる物体をもとめているのだ。

 紀子は必死に足をばたつかせ、離れようとした。どこかに潮の流れがあるのならそのままのってしまいたい。

 ≪《そのじゃまな脚、切ってきなさいよ》≫――

 そんなこと本当に自分が言ったのか判然としない。いや、たんに認めたくないだけだ。しかしそんなのは母親には通用しない。愛娘を死に追いやった張本人が目の前にいるのだ。抹殺するにはもってこいの状況でもある。だれも見ていないし、ちょっと覆いかぶさって一分か二分、水につけておけばいいだけだ。

「待ちなさいよ!」背後からがなりたててきた。このまま背中にしがみついて、子泣きじじいみたいにして沈めようという魂胆か。

 顔面に大量の海水を食らった。波が真正面から襲ってきたのだ。それでも紀子は浮き具にしがみついていた。

 カレンは真横にいた。「それ、非常時にフロートとして使えるようになっているの。二人ぐらいどうってことないわ。沈まないから。だいじょうぶよ」そう言いながら手をのばし、フロートの端をつかむなり、ずるりと体をのせてきた。途端に浮き具が沈み、紀子は頭まで水につかった。

「ちょっと……!」思わず怒鳴ったが、すぐにソファ――そのマットレス部分――は浮力を取りもどし、二人の大人の上半身をなんとか海上に維持させることができた。

 カレンの胸元で防水ケースが揺れていた。

 スマホだ。

 いまなによりも必要なものだった。だから紀子はカレンを追いやれなかった。冷静に考えるなら、通信圏内に入りさえすれば、確実に救助をもとめることができるのだ。あてもなく一人で漂流するよりずっといい。

「とりあえず溺れないですむわね」カレンは激しくむせ返った。海水を飲んでしまったようだ。

紀子とておなじだ。波は数秒ごとに襲ってくる。そのたびに息をつめ、体をこわばらせねばならない。それほど大量の水分が周囲にありながら、いっさい口にすることができない。拷問だった。へたに喉を通したら最後、渇きは炎となって返ってくる。

 急がないと。

 紀子は意を決してカレンのほうを向いた。「まだ圏外なのかしら」

「圏内に入ったみたい」さらりと口にするとカレンはスマホを手に取った。ディスプレイがぱっと輝く。電波の受信状況をしめすアンテナがしっかり三本立っている。

興奮をおぼえた。「陸地が近いのかしら」

「そんなことはないと思う。たまたま電波の通りがいいんだわ」

「だったら早く通報を――」がまんできなかった。紀子は無理やりスマホをつかんだ。が、そこから先はロックナンバーが必要だった。それを知るのはカレンだけだ。

紀子は言葉を選びながらうながした。「かけてみたほうがいいんじゃないかしら。あなただってこんなところで死にたくはないでしょう」

 カレンは落ち着いていた。あきれた口調で言う。「どうしてあなたに指図されなきゃいけないのかしら。わたしはヤヨイさんじゃないのに」

 胸の奥がずきずき痛みだす。紀子の疲労はピークに達していた。「指図とかじゃないわ。生きて帰るために必要なことを言ってるだけ」

「こんなはずじゃなかったのよ。あなたが発砲しなければ爆発なんて起きなかった」

「いまさらしかたないじゃない」口にたまった塩水とともに紀子は吐き捨てた。

「だけどね」カレンが悔しそうに言う。「予備のバッテリーならあったのよ。それにつなげばいつだって帰れたんだから。ホノルルに」

 衝撃的な告白に紀子はたじろいだ。カレンは無謀に船を走らせていたわけではなかったのだ。

「わたしたちだってあの船をいつまでも使えたわけじゃないの。返さないといけなかったのよ。自分のじゃないんだから」

「やっぱりそうなんだ。エビの養殖なんかじゃ、こんな船持てるわけないものね。盗んだんでしょ」

「人聞きの悪いこといわないで。借りただけよ。社長の船なの。エビの養殖でもうけたお金で買ったのはまちがいないわ」

「社長って……あなた、養殖場をやっているっていったわよね。いったい何者なの……?」

「ただの従業員よ。社長の身の回りの世話とかもさせられていてね。そのうちこの船の操船もおぼえたの。社長はいまタイに旅行中なのよ。けどあしたには帰ってくる。あなたのナカイ・カナ役ほどじゃないけど、われながら名演技の社長役だったでしょ。でもどうしたものかしらね。あなたのせいで船が沈んじゃったじゃない」

 紀子はかっとなったが、ぐっと飲みこんでいった。「いまさらそんなこと言ってもしょうがないじゃない。あなたもたすかりたいのなら、自分で通報するか、ロックナンバーを白状して、あとはわたしにまかせるしかないんじゃないの」

「電話するのは簡単だわ」カレンは決然とした態度で言った。「だけどそれであなたがなに一つ苦しむことなくたすかったら、あの子、キャサリンの苦しみはなんだったのかってことになるじゃない。だからいますぐに電話でたすけをもとめるなんか、冗談じゃないわ」

「なに言ってるの、あんた」紀子はカレンはにらみつけた。

 それを無視してカレンがつづける。「あなたがおなじ苦しみを味わうのをたしかめて、せめてそれを母親であるアイリーンに教えてあげないと。キャサリンは地下鉄に両足を轢かれたのよ。どれだけ痛かったかわかるかしら」

 フロートのバランスをたもつためには、二人してバタ足をつづける必要があった。そのたびにぶよぶよした太ももが紀子の脚にあたる。気持ち悪さをこらえながら紀子は訊ねた。「あなたの娘がキャサリンなんでしょう。それでわたしを恨んでるんでしょう」

「キャサリンはアイリーンの娘。うそじゃないわ。アイリーンとわたしは親友どうしなの。おなじ日系人であの養殖場で奴隷のように働かせられてきた。もう三十年以上になるわ。アイリーンのほうが年上で、姉のようにいつだってわたしの面倒を見てくれた。足を切断したのだって、わたしがやるべき作業を手伝ってくれたからなのよ。それで不自由な体になってしまって……だから彼女のためならなんでもする覚悟なの、わたし。キャサリンだって家族とおなじだった。高齢出産で、しかもシングルマザーだったけど、アイリーンはへこたれなかった。それもこれも娘を育てたい一心からだったのよ。だからキャサリンの自殺はありえなかった。それで真相を探ろうと思って二人で日本に向かったんだけど、結局なんにもわからずじまい。アイリーンは体調を崩して一気に老けこんじゃった。それで働けなくなって会社もクビになってしまった……」

 カレンの話を聞きながら、紀子は絶望感と闘っていた。海のどまんなかで漂流するのは、クルーズ船が沈没したあの夜とおなじだった。余計な想像はすまいと心に誓うが、どうしても考えてしまう。このまま救助がこなければ、また夜になる。そのころにはきっと嵐になっているだろう。

 結局、振り出しにもどるのだ。

 サメの恐怖も。

 それはないとカレンは言っていた。それを信じるしかないし、事実、テレビでおなじみの三角形の背びれはいまのところ目にしていない。ただの一度も。

 波をまともに食らいながらカレンは話をつづけた。「オーディションのあと、たぶんその足で地下鉄に向かったんだと思う。線路にただ飛びこんだわけじゃなかったのよ。鉄道会社から提供を受けた防犯カメラの映像があるから見ますかって警察で言われたの。見たくなかったけど、どうしてあの子がそんなことしたのか頭が混乱しちゃって返事もできずにいたら、目の前にあったパソコンに勝手に映像が出てきちゃって……あの子、線路の上に脚をのせて、半分体を起こして、まるでカピオラニ公園で日向ぼっこするみたいにして電車が入ってくるのを待っていたのよ。逃げようと思えばできたはず。でもそうしなかった。遺体がどうなったか聞きたいかしら」

「よしてよ」紀子は波の轟音にかき消されぬよう叫んだ。「いいって、そんなの、聞かなくて」

 カレンは許さなかった。「突っこんできた車体にはじき飛ばされてくれればよかったんだけど、そうはならなかった。あの子、最後の最後で体を横にして、線路と交わる格好で寝そべったの。右の車輪が首を、左の車輪が脚を切断した。急ブレーキをかけながら入線したんだけど、線路と線路の間に残った胴体は、車両に引きずられてめちゃめちゃになって最後はただの肉の塊になってしまった。でも脚と首はきれいにその場に残されたままだった。どういうわけでそうなったのかわからないけど、首の切断面の奥深く、ちょうど小脳のあたりに、二十歳の誕生日にアイリーンがプレゼントしたシャネルのネックレスのペンダント部分が食いこんでいるのが見つかったの。遺体を整えてくれた業者が見つけてくれたのよ」

「≪《やめて》≫……≪《おねがいだから》≫……≪《やめて》≫……」

 三か月前。

 汐留のホテルに押しかけた翌日の出来事だ。

 朝まで一人で痛飲し、完璧に酔った状態で出社した。昼までに三度吐き、編成局長に誘われていたランチは断った。だが二時からのオーディションは断れなかった。自分が指定したスケジュールだったし、リポーターを見つけなければならないのは事実だった。

 悪夢かと思った。

 前夜、ホテルの廊下でうしろに立っていたあの女がいる。そんなはずはない。倉木紀子型アルコール性毛様体麻痺のせいで依然として焦点のさだまらぬ目を凝らしたところ、たしかにちがう人間だった。だが容姿はそっくりだし、よりによってシャネルのネックレスをしている。あの女が背中に張りついているとしか思えなかった。

 浅川竜馬も。

 話も聞かずにつぎの応募者に移ることもできた。しかし紀子は自分のなかに生まれた憎悪を発散させずにはいられなかった。それはアルコールのせいではない。持って生まれたサディスティックな性癖だった。

「あなたはそれがどれだけ相手を傷つけるか想像もしなかった」カレンは流氷に上がるアザラシさながらに上体をフロートに乗りだし、迫りくる波に挑むように叫んだ。「なに言ってもいいと思っていたんでしょう」

「そんなこと……ないわよ……」聞こえないとわかっていながら紀子は返事をした。恐怖が増した。カレンと脚を絡ませながらしゃかりきになってバタ足をつづけているが、いったいどこに向かっているのだろう。

 いくあてなんかない。ただバランスを取っているだけなのだ。おなじところをぐるぐると回りながら。

 救助をもとめるほかないのだ。

 背後で雷鳴が轟いた。うしろから迫ってきている。獲物を値踏みしながら追跡する人喰いザメのように。

 カレンは臭い口を近づけてきた。「蔑みの心なのよ……それがあなたたちのなかにずっとあるんだわ」呪いの言葉がどろりと紀子の耳に流しこまれた。体が急に重くなり、もうそれだけで沈んでしまいそうだった。「あなたはエリさんのような非常識な存在をこの世から排除したかったし、じっさいに始末した。でもあなただって似たり寄ったりでしょう。そういう人、一人でも減ったほうが世のなかのためになると思うの」

 紀子は泣きそうな声でいった。「だけどわたしがここで力尽きるのを待っていたら、あなただってたすからないわよ」

「そうかしら」

「そうよ。いつまで通信圏内にいられるかわからないでしょう。連絡するなら早いほうがいいにきまってる」紀子ははっとした。「あなた、カレンじゃないのね。カレンなんて本当はいないんじゃないかしら。やっぱりアイリーンなんでしょう。だから……もうここで死んでもかまわないと思っているんでしょう。わたしを道連れにして。娘のために……復讐のために……」

 この場にはおよそふさわしくない気でも狂ったかのような笑いが起こった。その声音は紀子のことを心底ばかにし、辛辣に非難していた。「よくそこまで考えられるわね。わたしはカレンよ。アイリーンじゃないわ。勘違いされちゃ困るわ。だって、あんなふうにして亡くなったのが、うぅん、殺されたのが、もし自分の娘だったなら、あなたとこんなふうに冷静に接するなんてできないもの。子どもを失うことが母親にとってどれだけ悲しいことか、あなたにわかるかしら。子どもの命を奪った相手のことを母親がどれだけ憎むか、わかるかしら。ただ、あなたの前ではずっとこらえていたみたいだけどね」

 小さな疑念がよぎったそのとき、ライターの炎を押しつけられたような灼熱が右の頬に走った。熱感はたちまち激痛に変わり、顔全体に痺れが走った。

 カレンが銀色のものを握りしめていた。多機能ナイフだ。短い刃が開いている。先端がかすかに赤くにじんでいた。

 フロートはあっという間に鮮血で染まった。紀子は一瞬気が遠くなった。ショックで急激に血圧が低下したのだ。それほどに深い傷のようだった。

「グッバイ! ≪《人殺し》≫!」

 そう叫ぶなりカレンは紀子の腹を猛然と蹴り飛ばした。切りつけられ唖然としていた紀子の手はフロートを放してしまい、たちまちつぎなる波に飲みこまれた。しぶきが口に飛びこんできたとき、鉄臭い味が舌の奥に広がった。人間以上に嗅覚の鋭い生きものならもっと遠くにいてもこの味を感じとれるだろうし、それをたどることだってできるはずだ。そう思った途端、紀子をさらなる恐怖が襲った。カレンはサメなんて来ないといっていた。でも血のにおいが漂っているなら話はべつだ。かつて見た番組でも、わずか一滴の血のにおいを何キロも先で嗅ぎつけるといっていた。

 頬の傷口に手をやる。長さ五センチにわたってぱっくりと割れた皮膚から、激痛とともにぬるぬるとしたものがとめどなく流れだしている。なんとかしないと。紀子は波にもまれながらTシャツを脱いだ。それを丸めて傷口にぎゅっと押しあてる。

 波に翻弄されながらあたりを見まわしてみる。カレンに奪われたフロートはもうどこにも見あたらない。いまごろあの女は満を持してスマホのロックナンバーを打ちこみ、救助要請を行っているのだろう。せめてそのそばにいたら救助船に見つけてもらえる可能性もあるが、これではどうしようもない。

 絶望だった。

 背後で雷が鳴った。紀子はあわてて腕時計を外そうとして思いとどまった。

 雷に打たれるなら一瞬ですむ。でもサメはひと思いには殺してくれないだろう。腕をかじり、腹をかじり、そして地下鉄に轢かれたあの娘のように両足を乱暴に持っていかれる。それでも死にはいたらず、痛み――想像を絶する激痛――だけがいつまでもつづく。地下鉄は即死だったはずだ。なにしろ首が切断されたのだから。痛みを感じているひまなんてなかっただろう。

 もっというなら母からの贈り物を護符がわりに胸にさげて臨んだオーディションで投げつけられた言葉

 ≪《そのじゃまな脚、切ってきなさいよ》≫――

 そっちほうが切り刻んだにちがいない。

 純真無垢な心を。

 軍の高性能スパイ衛星でさえ発見不能な外洋の波間に一人漂いながら、紀子はいまさらながら痛感し、ブライトリングはそのまま外さずにつけておくことにした。

 つぎに襲ってきた波は強烈だった。全身がツイストしながら海中に五メートル近く引きずりこまれた。そのとき紀子ははっきり見てしまった。

 荒天の海上とちがって水のなかは穏やかだった。なにより抜群の透明度で五十メートルほど先まで見通すことができた。その視界の真下、青が黒に変化する限界域あたりを流線型の生きものが泳いでいた。それがなんであるかいちいち考える必要はなかった。カレンの説明にうそはない。なにもなければそこにいなかったはずだ。ただ、血のにおいを嗅ぎつけてしまったのだ。彼らも生きているのだ。しかたない。

 一匹じゃなかった。

 四匹まで数えて紀子は息がつづかなくなり、海面に浮上した。傷口を押さえるTシャツはもう真っ赤になっていた。

 紀子は泣いていた。

 人生で泣くのはこれが最後にちがいない。だから思いきり大声で泣いた。へとへとになるまで泣いた。そうすれば意識が遠のき、そのうちきっと夢の世界にいざなわれるだろう。

 そうはならなかった。かえって意識は鋭敏になるばかりだ。それもそのはずだ。足もとが気になってしかたない。しみる目をこらえて海面に顔をつけ、あらためて深みのようすをたしかめてみる。

 ぞっとした。

 体長三メートル以上のサメが十匹近く、紀子の足もと約三十メートルのところで円を描いていた。新鮮な血のにおいをさせる頭上の獲物を観察しているのだ。やつらを追っ払うなんて無理だ。紀子はあらためて傷口を押さえる手に力をくわえ、静かにバタ足を再開した。

 あたりが薄暗くなり、雨が強まっていた。雷鳴もやむことがない。

 時計をはめた左腕を突きあげた。

 もうどうなってもいい。早くここに閃光の一撃を食らわせて。らくになれるんだから。

 耳元でなにかがはねた。

 紀子は短い悲鳴をあげて、本能的に水音がしたのとは反対方向に平泳ぎを開始した。だが正面からやって来る波のなかに巨大なネズミ色の影が二つあるのが見えてしまい、その場で泳ぐのをやめた。やつらが浮上してきたのだ。ついに攻撃の最終準備をととのえて。

 そうではなかった。

 波間からの背びれのあらわれ方が妙だった。たんに海面まで浮上してきただけでなく、背びればかりかネズミ色をした背中そのものをあえて海上にあらわそうとしたかのようだったのだ。

 呼吸のためだ。

 それが何度かくりかえされた。紀子から十メートルぐらい離れた海面すれすれのところをぐるぐると高速で回っているようだった。恐怖心をこらえて紀子は水に顔をつけた。

 イルカだった。

 ボトルネックのような鼻先に秀でた額、それになにより知性を感じさせるまなざしが円の中心にいる人間へ注がれていた。五、六頭いる。海中深くにいるサメたちはそのせいで獲物のところまで近寄ってこられないようだった。この奇跡を信じるほかなかった。あと何分、こうしていられるのだろう。もし神さまが味方をしてくれるのなら、このなかの一頭の背びれにしがみつき、どこかの浅瀬まで連れていってもらえるかもしれない。

 望外の期待が胸をかすめたとき、遠くで悲鳴が聞こえた。うしろのほうからだ。絶叫だった。声でわかる。カレンだ。紀子はいま一度、海中を探ってみた。

 サメが消えていた。

 彼らがカレンのほうに向かったのかどうかはわからない。だが紀子はいま、イルカの群れに守られている。それだけで涙があふれてきた。生きているこの瞬間に絶大な喜びを感じ、感謝と畏怖の念をいだいた。

 直後、それが紀子のような人間特有の我欲に満ちた考えだと痛感した。

 息がとまるほどの激痛だった。

 まわりを泳いでいた一頭が猛然と突っこんできたのだ。そして強靭な筋肉の塊である太い尾で背中に一撃を食らわせてきた。

 それから何秒か何分か、意識を失った。目が覚めたのは頭から大波をかぶって溺れかけたからだった。背中が激しく痛む。脊髄を損傷したかもしれない。脚の感覚が失われていた。もしかすると気を失っているあいだに食いちぎられたのかもしれない。優しげな眼をしたあの高等生物に。

 潮でかすむ視界の隅に白い塊があらわれた。紀子は身をこわばらせたが、それが人造物であるとすぐに気づいた。カレンがつかまっていたフロートだ。腕はまだ動く。背中の痛みをこらえて即座に紀子は抱きついた。神経質にまわりに目をやる。高等生物の仮面をかぶった襲撃者が狙っていそうで怖かった。

 その刹那、腕が引っ張られた。

 紀子は絶叫した。


二十四

 それはモロカイ島の純朴な漁師の船だった。もちろん日本語は通じない。それでも紀子にとっては神仏そのものだった。いまや全身の感覚が失われつつあったが、紀子は感謝と神をたたえる言葉をひらすらくりかえした。

 沿岸警備隊の船が到着するまで三十分もかからなかった。その間、紀子はたっぷりと水を飲み、脳細胞のすみずみまでよみがえった。背中の痛みは激しく、息をするのもやっとだったし、体を起こすことができなかった。それでも脚は失われていなかった。ずきずきと痛む頬のけがもあるし、肉体的には限界だったが、地獄から脱したよろこびは何物にも代えがたかった。紀子は手さぐりでハーフパンツのポケットから腕時計を取りだした。

 九時二十分だった。

 ホノルル港を出港したクルーズ船の事故からほぼ三十六時間。その間の出来事を思うと吐き気がする。だがもうだいじょうぶだ。ふたたび陸地を踏むことができる。船体に「U.S.COAST GUARD」と書かれた全長二十メートルの純白の船がさっそうとあらわれたときには、涙があふれてきた。

 動きやすそうなつなぎの制服を着た若い白人の隊員が船首からずっとこっちをカメラで撮影していた。記録を採る必要があるのだろう。担架にのせられたまま船室に通され、保温シートにくるまれた後、話しかけてきたのはおなじ制服ながら年かさの隊員だった。キャプテンのようだった。こっちが日本人で英語が不得手であることを伝えると、可能なかぎりゆっくりと質問し、被救助者のプロフィールを作成していった。その間、若い隊員はずっとカメラを回しつづけていた。

 紀子はカレンのあの船で起きたことは口にしなかった。いまは一刻も早く帰りたいだけだった。おとといの夜、沈没したクルーズ船から投げだされたことだけを告げた。流された距離にキャプテンは驚いていたが、へんに疑ったりはしなかった。彼によると、百四十人余りが海に投げだされ、いまのところ半数ほどが救助されているという。しかし過去二十四時間では、一人も見つかっていない。つまり約七十人が絶望視されているという。撮影チームがどうなったか、キャプテンが手にするリストを見ればわかるが、紀子は怖くて見られなかった。カレンの話では、モンテ・カレーの宣伝部長であるナカイ・カナはすでに救助されているらしいが、ほかにたすかったのは紀子だけかもしれない。

 沿岸警備隊は捜索領域をモロカイ島沖にまで広げていたわけではない。別件でホノルルから緊急出動していたのだ。べつの漁船から漂流者を救助したとの連絡が本部に入ったらしい。紀子が救助されたポイントから南西に七キロのところだった。その後、紀子を救助した漁船が近くにいるとの連絡が本部から入ったのだ。さきに救出された漂流者は女性だった。カレンだろうか。サメに襲われたと思っていたのに。

 そうではなかった。

 頼んだわけでもないのに撮影担当の若い隊員がカメラの映像を見せてくれた。紀子は横たわったまま凍りついた。背中の激痛も吹き飛んでいた。

 衣服も皮膚も黒ずみ、ボロボロだった。頭皮がむきだしで、赤黒く血がにじんでいる。ひどいやけどのようだった。カメラは下半身に向かい、爪先までなめるように撮影をつづける。両脚ともはだしだったが、右足は妙だった。

 それについてキャプテンは、なんらかの事故で大やけどを負って海に落ちたのち、サメに襲われた可能性を指摘した。だがそうでないことを紀子は知っていた。右足が足首からないのは、以前に負った大けがのせいなのだ。スニーカーをかぶせた義足でずっとそれを隠していたのだが、漂流中に取れてしまったらしい。

 まるで死体のようだったが、うつろながらも目は見開かれ、念仏のようにうわごとを発していた。救助してもらったことへの感謝の言葉なのか、いまだつづく漂流の恐怖におののいているのか、それともカレンのあの船で明かされたことを伝えようとしているのか、カメラのマイクの感度がいまいちのため判然としなかった。だが震える口元をカメラがクローズアップしたとき、盛大に鼻をすする音がはっきりと録音されていた。その直後につづいた短い咳も。

 紀子は悲鳴をあげかけたが、かろうじて動く両手を口にあててそれを必死にこらえる。だがあのときの記憶があざやかに脳裏によみがえっていた。視聴者センターにかかってきた電話とおなじだった。

 急を要する状況だったので、ヘリを呼んでホノルルの病院まで搬送する手続きを取りました。それであなたの救助に向かうまで時間がかかってしまい、まことにもうしわけなく思います――。キャプテンはそんなようなことをまるで子どもに言い聞かせるように明瞭な言葉でゆっくりと伝えてくれた。

 サンキュー・ベリー・マッチ、ミスター・キャプテン。

 でも正直、複雑な気持ちだ。わたしをたすけてくれたのはありがたいが、よりによってあの人まで救助されたとは。

 彼女はすべてを知っている。エリ、弥生、そして彼女自身に対して倉木紀子が行ったことすべてを。

 それだけじゃない。

 そっちのほうが深刻だった。

 オーディションでの紀子の暴言をついに知ってしまったのだ。

 そのせいで自殺した娘の母親として。

 キャプテンは、古き良き時代の映画で描かれるアメリカ人そのものといった感じの、すこぶる親切な態度と人の好さそうな微笑みをたたえながら、ホノルルに到着したヘリが取って返してこちらに向かうだろうから、紀子は担架ごとそっちに乗り換えて病院まで搬送される段取りだと教えてくれた。入院して精密検査を受ける必要があるし、歩けるようになるまで時間がかかるかもしれないという。そしてこちらから訊ねる前にキャプテンはこう付け加えてくれた。先ほどの女性とおなじ病院ですよ――。

 痛みのことなどそっちのけで頭をめぐらせた。どの程度のやけどなのだろう。命に別状がないとなるとまずいことになる。エリも弥生も流されてしまっただろうし、クルーザーは深海の闇に葬られた。凶器の銃だってそうだ。刑事告発なんて不可能だ。でもそんなこと、はなから考えていないだろう。

 私刑だ。

 だったらこっちはなにをしたらいい。紀子は気が遠くなるほど脳みそを絞り、考えて、考え抜いた。なんとかしてうまい方法を見つけないと。

 だって向こうで待ちかまえているんだから。

 東北なまりの女性を演じたアイリーンが。

 あのおばさんが。

(了)



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