十三~十六
十三
目が覚めたとき、大海原一面が黄金色に燃えだしていた。
ぼんやりして自分がどこにいるか判然としない。まだ夢がつづいているようだったが、直後、はっとして紀子は体を起こした。いつのまにか横になっていた。頬に鈍い痛みが走る。ブライトリングの腕時計のうえに頬を乗せていた。
もう六時過ぎだった。
長時間の漂流と執拗な船酔いによる疲労がピークに達していた。それに例のクレーマーと思われる謎の女船長からの逃避願望と海が凪いでいたこともある。四時間近く眠ってしまった。疲れはかなり取れている。紙コップはソファのわきのサイドテーブルにのったままだった。まだ二口、三口は残っている。夕陽は水平線のすぐうえでぎらぎらと最後の輝きを見せていた。
弥生がいない。
干しておいた衣類とスニーカーを身に着け、紀子は恐るおそるキャビンに下りていった。
紀子以外の全員がキャビンにいた。やるせない空気は以前よりも濃くなっている。船は漂流をつづけたままで、船長はいらだっていた。アタッシェケースのようなものを操縦席のダッシュボードに広げている。乾電池式だという無線機だった。スピーカーからザーザーいう白色音がずっと流れつづけており、忘れたころになってカレンがコールサインを送り、救助要請を行う。弥生はそれをじっと見つめていた。絶望的な表情からは状況がかんばしくないことが見てとれた。
オーバーヒートやバッテリーあがりが船長によって故意に行われたものかどうかはわからない。とにかくいまは無線にだれかが応答してくれるのを待つほかない。紀子はソファに腰かけた。エリが隣でテーブルに突っ伏していた。ポップコーンの大袋が広げてある。空腹をおぼえ、手をのばした。バターの香りがしたが、恐ろしくしょっぱかった。それでも体が食べものを欲し、手は袋と口を何度も往復した。無理やりそれをとめる。胃袋は喜んだが、口のなかは残りすくない唾液が奪われ、渇きがいや増していた。これ以上食べたら紙コップに残した最後のひと口をあけねばならなくなる。
「あんた、よく食えるねぇ」向かいに座るヤスコがあきれたように言った。さっきよりもやつれた感じで土気色の顔をしている。「喉がいがらっぽくならないかね」両手に握りしめた紙コップには、紀子が残した以上の水が入ったままだった。
「チョコレート出そうか」無線機のマイクを握りしめたまま、カレンが紀子を気づかった。
「いえ、だいじょうぶです。ちょっと口ざみしかっただけですから」
「わたしもなにか食べないと落ち着かないわ」カレンも操縦席からむっくりとした手をのばし、ポップコーンをめいっぱいつかんでそのまま口に押しつけた。「応答がないの。どこかには伝わっているはずなんだけど」
「最低よ」顔もあげずにエリが言い放つ。「なんでこんな目に遭わなきゃいけないの」
「救援隊がこっちに向かっているとは思うんだけど……だからもうすぐよ、かならずたすけに来るわ。見つけるのに手間どっているだけよ」操縦席に腰を落ちつけたままカレンは自らを鼓舞した。
「何時間たってるのよ。ヘリコプターどころか船ひとつ見えやしないじゃない」エリは船長を糾弾した。「こんなのぜったいおかしいわ。雨雲のことなんて気にしないで、まっすぐモロカイ島に向かえばよかったのよ」
「いまさらそんなこといってもしょうがないわ」たしなめたのは弥生だった。「できることを考えないと」
ADにしてはまっとうな意見だったが、エリには通用しなかった。「このままじゃ夜になっちゃうじゃない。そうしたら船のうえで焚き火でもしないかぎり見つかりっこない。これじゃライフベスト着けて漂流してるのと変わりないわよ」
「≪《だったら海にもどったらどうなの》≫」
突如、カレンがそれまでとはちがうすごみのある口調でいった。キャビンに緊張が走る。船長は操縦席から立ちあがり、ポップコーンのかすのついた指を突きつけながら小生意気な娘に近づく。「ほら、いきなさいよ。早く」
エリは一瞬面食らったような顔をしたが、負けてはいなかった。「なによ、逆ギレすんの? 海に突き落とそうっていうの? あぁ、こわい、こわい。人殺しじゃない、そんなの」
カレンの頬がいっぺんに紅潮した。外にある手鉤がそばにあったら、いまにもそれを振りまわしそうだった。
「けんかはやめっぺよぉ」年配者らしくヤスコが割って入った。「せっかく船サのせてもらったんだしよぉ。海に浮かんでるのとは大違いだべや。こだな狭いところでけんかしてると、脳の血管サ切れちまうからよぉ」
それでカレンもわれに返った。両手をあげ、十本の指を大きく広げて、ふっと大きく息を吐く。胸にたまった憎悪の念を霧消させたかのようだった。「これじゃ、まるで短気なアイリーンとおなじだわ。こっちがおかしくなっちゃう。とにかく、なんとかして救助が来るようにがんばる。いまはそれしかないわ」そういってカレンはふたたび無線機のマイクをつかんだ。本気で救助をもとめているようだった。漂流がはっきりしたいま、もはや娘を自殺に追いやった張本人――だと勝手に思いこんでいる相手――のことはとりあえず先送りしてくれているようだった。
サンセットタイムを迎えた蒸し暑いキャビンで、四人の乗客はじっと押し黙り、無線機がわずかでも反応するのを見守った。時折、ブツブツと電気音がするたびにびくりとし、ソファから尻が浮く。だが結果はいつも無情だった。まるで無線機の向こうにいる者たちがしめし合わせて完全無視をきめこんでいるかのようだった。
水平線の彼方に太陽が沈み、残照が雲を紫に彩りだした。息を飲む美しさだった。ちがう状況なら絶景を心ゆくまで堪能したことだろう。だが外部と連絡を絶たれ、潮に翻弄されるだけの高級クルーザーは、祖国を脱出してきた難民たちが密入国ブローカーにだまされて乗りこむ粗末なゴムボートとさして変わりなかった。むしろ水が確保されているのなら、彼らのほうがよほど恵まれていた。
「待つしかないわ」カレンも疲れきっている。自分に言い聞かせるようにつぶやくと、夕陽が落ちたのとは反対側の窓の向こうに目をやった。
一番星が瞬きだし、夕闇が迫りつつあった。海面も輝きが失われ、遠くのほうはすでにタール撒いたようになっていた。キャビンも薄暗くなりはじめている。カレンが操縦席の下からランタンを取りだした。スイッチを入れると、強力なLEDの白色光がテーブルのうえに広がった。紀子は中学のころに参加したキャンプを思いだした。あのときは明かりに巨大な蛾が群がって気色の悪い思いをしたが、ここではその心配は無用だ。それにもしかしたら小魚やイカが集まってきて、食料が確保できるかもしれない。
「きのうとおなじだわ。夜になれば風が強まるし、きっと雨も降る。荒れるんじゃないかしら」
「ハリケーンはもう過ぎたんですよね」弥生が訊ねた。
「低気圧がつぎからつぎへと接近しているわ。エルニーニョのせいよ」ここでも異常気象というわけだ。
「錨を下ろしてみるのはどうですか」
カレンは苦笑いを浮かべた。「それができるなら、とっくにやっているわ。残念だけど。バッテリーがあがる前にチェックしたときですでに水深一〇〇〇メートルを超えていたの。そこからだいたい南西方向に流されているからね。たぶん三〇〇〇メートルぐらいになっているんじゃないかしら。錨はあっても、海底に届かせる鎖が足りないわ」
エリが鼻を鳴らし、不快な合いの手を入れた。弥生は岩の合間の巣にもどるサンショウウオのように首をすくめ、黙りこくった。
カレンがつづける。「だけど絶海のどまんなかを漂ってるわけじゃないわ。それなりに島に近いから、位置的には救助しやすいはずよ」
来てくれるならね。
紀子は心のなかで舌打ちした。エリはもちろん、ヤスコも弥生もそうだろう。それを察してかカレンがある提案をした。究極の決断だった。
「本当はお葬式用に持参したんだけど、ワインが一本あるの。飲んでみるのはどうかしら。一時的にでも喉の渇きを癒すことができるし、気持ちも落ち着くと思うの」
「ひゃぁぁ、なんだべ、あるんでねえか。ワインなら文句ないべした」ヤスコの顔がぱっと明るくなった。
「だけどね」カレンの声のトーンが一段低くなる。「ウイスキーやラムほどじゃないけど、あとで必ず喉が渇くから。それはみんな、おわかりでしょ。ビール飲んだって、あとで結局、喉が渇くじゃない」
「だけんどよぉ、もう喉がはりつきそうなんだよぉ。なんでもいいからがぶ飲みしてえ気分なんだぁ。それにコップの水サ、チェイサーがわりに残しとけばだいじょうぶだべやぁ」ヤスコの紙コップにはまだ水が半分以上残っている。紀子と弥生のコップにはあとわずかしか残っておらず、エリのは空だった。
「いまの渇きを癒してあとでしっぺ返しを食らうか、それともずっとがまんしつづけるか」カレンは四人の顔を見回した。「どっちがいいかしら」
四人の気持ちは一致した。目先の悦びを選んだのだ。だが階下からカレンが持ってきたボトルに四人とも落胆した。停電している以上、たとえ冷蔵庫に入れてあったとしてももうぬるくなっているはずだ。それでも白ワインなら――それもカリフォルニアのソーヴィニヨン・ブランなら――すっきりとした味で水のようにするりと喉を通りぬけるはずだ。ところが船長が手にしていたのは、ボルドーのカベルネ・ソーヴィニヨン、それもヴィンテージものだった。
それでもだれも拒否権は発動しなかった。それぞれ新しい紙コップにとりあえず半分ほど注いでもらい、全員がひと息で飲みほした。
「こんなふうにしてワイン飲むのはじめてだわ」思わず紀子が口にした。「かなりいいワインね。高いんじゃない?」
ランタンの明かりのなか、カレンは照れ笑いを見せた。「ABCストアよ。それほどでもないわ」
「皮肉なものね。温度もこれくらいがちょうどいいわ。ほんとならもっとじっくり味わって飲みたいけど、しょうがないわ」アルコールが体に入ってきたせいで紀子は、カレンの前でつい軽口をたたいてしまった。
カレンはいやな顔もせずに二杯目をそれぞれに注いだ。
「やっぱりお酒はいいねぇ」ヤスコは二杯目もひと息にあおってしまった。そのせいでみるみる陽気になり、ろれつもおかしくなってくる。空きっ腹だけにアルコールの回りが速いらしい。「疲れが吹き飛ぶ感じがするよぉ。さぁ、みんな、飲もう、飲もう!」
「わたしは一杯でいいです」もうしわけなさそうに弥生がいった。
「え、どうしてだい」
「あまり強くないんです。それにすぐに喉が渇きそうで。あとのことが怖いんです」
「じゃあ、あたしがもらうわ」横から口を出したのはエリだった。「ポップコーンのほかになにかないのかしら、おつまみ。赤ワインで乾きものはないでしょ」知ったような口を聞いたが、カレンはすぐに立ちあがり、階下から皿にのせたチーズを運んできた。こちらも高級そうなカマンベールチーズで、きちんと切り分けてある。
「口に合うかわからないけど。体にもポップコーンなんかよりずっといいわ」
カレンがそれをテーブルに置くなり、エリは観光客に狼藉を働く日光のサルさながらのすばやさでひとかけつまみ取った。「うん、なかなかいけるじゃない」そしてテーブルのボトルを勝手につかんで、紙コップにどぼどぼと注ぎ、水のようにあおる。
カレンはなにも言わなかった。はしたない小娘のことをじっと見つめるだけだった。そのまなざしは聖母マリアのようでもあり、本性を隠したモンスターのようでもあった。紀子ははっとした。あのチーズになにか入っていたら。船長の矛先がいまはエリに向かっていたら――。
デッキで弥生が怖々と指摘したとおり、万が一、カレンが遭難者の救助を通報していなかったなら、自分たちはいまなお行方不明者だ。この船に乗っていることなどだれも知るまい。ついさっきまでの救援要請もこの船とカレンの名前を伝えただけで、四人のことはひと言も告げていない。たとえ死因が毒物による心不全であったとしても、海で見つかれば解剖は行われまいし、そもそも見つかるわけがない。
カレンは、ピンポン玉のように飛びだした大きな目を無理やり細め、口元にはいまや薄笑いさえ浮かべていた。
黒々とした思いに支配され、紀子は言葉を見つけられなかった。あえていうなら、気づいていながら知らぬふりをした。
すでに海は真っ暗で、新月の晩のように星がきれいだった。満点の星空だった。紀子はだまってふらふらと立ちあがり、後部デッキにふたたびもどった。まるでそこが自分の居場所であるかのように。
十四
なにも起こらなかった。
それどころかエリもデッキにあらわれた。「うわっ! すっごくきれい」と星空を見あげて興奮している。遅効性の毒なのだろうか。紀子の妄想は暴走していた。この場は話を合わせて自然に振る舞ったほうがいい。きっとキャビンからカレンが見ているだろうから。
「東京じゃ考えられないわね」
「去年ドバイの砂漠で見た星空よりすごいかも」
「ドバイ……旅行でいったの?」
「まぁ、そんな感じかな。パパの仕事の関係よ」エリは首を九十度曲げて天空をあおぎながらうれしそうに話した。早くも酔っぱらっている。
「商社マンかなにかなの、おとうさま」紀子は冷静な観察者に徹した。そのうちアルコール以外のせいでろれつが回らなくなって、まともに立つことさえできなくなるはずだ。
「ちがうわよ。コンテンツなんとか推進機構とかいうところの理事長なのよ。出張でいったの」
「コンテンツなんとか……?」
「ほら、日本のテレビ番組とかアニメとかを海外に売りこもうとしてるんでしょ。おばさん、スポンサーの人なのにそんなことも知らないの」
ある意味、図星だった。紀子は番組作りはプロだが、その後の二次利用に関してはたいして興味がなかった。だが世間的に日本のコンテンツを海外に盛んに売りこもうとしていることは聞いている。なにを隠そうあの浅川もそれでひともうけしようとたくらむ輩の一人だった。「もしかしてあなたのおとうさまって、どこかのテレビ局の方?」
エリがサイドデッキから身を乗りだし、海に向かって背を丸めた。ついに毒がまわって嘔吐するのかと思ったがちがった。駅のホームにいるおっさんさながらに唾を吐き飛ばしただけだった。「だったら、あたしが芸能活動でこんなに苦労するわけないじゃない。ケイサンショウよ」
「ケイサンショウ……?」
「あら、いやだ、おばさん、知らないの? 経産省、経済産業省。年食ってる割に常識ないのね。そこの次官だかなんとか官だとかいう仕事していたのよ、去年まで。それで退職してそっちのなんとか機構のほうに移ったの」
エリはたしかにろれつが回らなくなっていた。毒のせいではない。その証拠にどんどん陽気になっていく。かわりに紀子のほうが陰気になってきた。この生意気で非常識な小娘がいかにして産み落とされ、育ってきたか看破できたような気がした。高級官僚の娘で、漏れなく天下りした父親は中東のドバイに出張に出かけた。それに娘がついていき、父親が地元の部族長あたりと水パイプを回し飲みしながら商談に励んでいるころ、ひまつぶしにデザート・スター・ゲイジング・ツアーにでも出たのだろう。
気になるのはその費用だ。
「おとうさまの出張に同行したの、あなた」
「秘書よ。だからちゃんとした出張。身の回りの世話とかいろいろ忙しかったんだから。うちのパパ、そういうのてんでだらしないの」
そういうのがどういうのか、はかりかねた。しかし娘の旅費の出どころは怪しかった。紀子はベンチに腰かけた。「じゃあ、あなた、ふだんからお勤めされていたのね、そのなんとか機構ってところに」
「バイトよ。パパが外国行くときだけ、ついていくの」
「それが“秘書”なのかしら。経産省の外郭団体の」
エリが態度を急変させ、紀子をにらみつけてきた。「なにが言いたいの、おばさん」
「あなたがドバイにいく航空運賃、ホテル代。そういうの、だれが支払ったのかしら」紀子はたたみかけた。
エリが憤然として言い放った。「知らないわよ、そんなこと。仕事でいったんだから、出張でしょ。そういうのって――」
「アルバイトの身分の人間を海外出張させるところなんて、どこにもないと思うけど。どうせ、あれでしょ、ぜんぶそのなんとか機構とやらに支払わせたんでしょ」
「マジ、むかつく!」エリは持っていた紙コップを紀子に投げつけた。カベルネの血のような滴が紀子の頬に飛び散った。
エリはキャビンに踵を返した。カマンベールチーズにカレンが毒を盛ったというのは、紀子の勝手な思い過ごしにすぎないようだった。そのぶん、紀子の欝憤は蓄積され、爆発寸前となっていた。制作現場の帝王だった浅川竜馬をのぞけば、他人からものを投げつけられた経験など、彼女の人生のなかで一度としてなかった。
紀子はエリを逃がさなかった。ベンチから立ちあがるなり、どたどたとキャビンにもどり、操縦席のわきに仁王立ちした。まるで溺愛の息子のアレをしゃぶった性悪女を懲らしめようと乗りこんできた母親さながらに凶暴で、殺意さえ感じさせた。LEDランタンがやけにまぶしい。刑事ドラマで取り調べを受ける被疑者役になったかのようだった。紀子は肩を上下させ、ゆっくりと深呼吸した。冷静さはたもたないと。片側のソファを独占してあぐらをかくエリに向かって話す。
「あなた、どうしようもないくらい気が短いのね。けど、知らないのなら教えてあげるわ。経費の私的流用は背任罪っていう立派な犯罪なのよ。しかもそういう外殻団体には血税が投入されている。もし公私混同したのなら、罪は重いわ」
「≪《うぜえんだよ》≫!」
テーブルのワインボトルをつかむなり、エリは残りのワインをラッパ飲みした。紀子は小さく鼻を鳴らし、戦闘モードに入った。中学のころ、むかつく同級生の女子をよってたかっていじめたときの黒い悦びが、空っぽの腹の底に満ちてくる。カレンもヤスコも弥生もあきれ顔で、ちらちらと二人のようすをうかがっている。
「うぜえ……あんた、世間を敵に回すわよ」
「はぁ? なにそれ? おばさんに関係ないじゃん。だいたいパパがしたことだし。あたしの知ったこっちゃないよ。あぁ、気分悪い」
「気分悪いのはこっちよ。あんた、この船でどれだけ他人を不快にさせているかわかっていないでしょ」
「この船なんかどうだっていいじゃん。二度と会わない人たちなんだから、なにしたって関係ないじゃん」
「そうでしょうよ。だれも見ていないんだから、ほんと、ここ、異次元空間みたいなところだから、なにしたってかまわないわ。だけどそういうの、出るのよ。外でね。人間の本性ってものはね、けっして隠せないのよ」
「なに説教してんの、えらそうに」エリは小ばかにするように吹きだした。「おばさん、おっかしいよ。いったいなにさまなの。文句言われる筋合いなんかないよ」
紀子は両手の拳を握りしめた。心のなかではとっくの昔にこのクソガキを殴りつけている。「じゃあ、一つだけ忠告しておくわ」一歩前に踏みだし、テーブルに両手をついて小娘をにらみつける。CPとしての実体験をスポンサーの宣伝部長としての立場に変換して、思いきっていってやった。「わたしね、会社の宣伝担当者としてテレビ局には昔っから仕事で出入りしているの。あんたがなりたがっているCMモデルとかリポーターとか、そういう子たちを選ぶのも、メインの仕事の一つなのよ」
紀子はエリの顔をのぞきこんだ。かすかにおびえたような陰が目の奥に宿っている。紀子はうれしくなった。カレンが――アイリーンが――そばにいることも気にせず、制御不能なサディストと化してたたみかけた。
「だから言わせもらうんだけどね。あんたみたいな若いだけの子なんて、掃いて捨てるほどいるわ。みんな、おんなじ。ちょっとかわいくて、ちょっとスタイルがよくて。男連中にいろんな妄想を起こさせるだけの存在。知性はおろか、大人としてのマナーのかけらもない連中よ。だいたい“モデル”ってなんなのよ。ただのお姉ちゃんじゃない。クラブのホステスとおんなじよ。うぅん、そんなこといったら水商売の方に失礼かしらね。それにモデルと呼ぶにふさわしいちゃんとした人もたくさんいるし、わたしもそういう人はいくらも知ってるわ。だけどあんたが言ってるみたいなタレントもどきの“モデル”なんて、クソよ。そんな連中がリポーターなんてできるわけないじゃない。リポーターの仕事って、あんたが思うほど軽いものじゃないわ。スポンサーはもちろん視聴者に対して重い責任を負っているのよ。とてもじゃないけどあんたみたいのにはまかせられない。だけどね、あんたみたいに勘違いしてオーディションに応募してくるタレントもどきがいるのも事実よ。テレビ局の人たちが毎日毎日、どれだけの応募用紙、見もしないで捨ててると思ってるの? 悪いこといわないから、履歴書出すならべつのところにしたほうがいい。ほんと紙のむだだから。アダルトビデオとか風俗とかいろいろあるでしょ、そういうところ。あんたが向いていそうなところ」
憤然としてエリがソファから立ちあがった。そのいきおいにヤスコがヒッと短く悲鳴をあげる。
「≪《マジ、うぜえんだよ》≫!!」
野犬がうなるような低いつぶやきがエリの歪んだ口からこぼれでた直後、とてつもない激痛が紀子の下腹部に走った。紀子は一瞬、体が三十センチも床から浮かびあがったような感覚に包まれ、直後、チーク材を張った床に顔面から転がった。紀子の股間をエリが力いっぱい蹴りあげたのだ。
ボール状に硬く縮こまっていた子宮が腹のなかで跳ねまわったあげく、胃袋を下から突き破って、喉に引っかかったようだった。ずきずきする痛みが内臓全体に広がり、紀子は体を丸めてあえいだ。息ができないし、ぎゅっと閉じたまぶたの裏にきらきら星が無数に飛び散っている。
床を乱暴に踏みつける足音が聞こえた。つぎなる攻撃から身を守ろうと紀子は両ひざを胸に近づけ、薄眼を開けた。エリのうしろ姿が見えた。ワインボトルを握りしめてスライドドアを越えるなり、デッキからアッパーヘルムステーションへと駆けあがっていく。衝動的に暴力を振るってしまい動転したというよりは、船長や他の乗客から当然あがる非難には聞く耳を持たないとの鮮明な意思表示のようだった。
「だいじょうぶかい」ヤスコが身をかがめて声をかけてきた。
カレンは一瞬、エリを追いかけようとしたが、舌打ちして紀子のわきにしゃがみこんだ。「出血してるんじゃないかしら。みたほうがいいわ」
たしかにそのとおりだ。陰部の粘膜が切れたかもしれない。だがそれよりろくに息ができない。このままだと呼吸困難で死んでしまいそうだった。
「ひどすぎるわ」カレンがアイスピックで刺すように後部デッキをにらんだ。外は夜の帳が下りていた。もう七時半を回っている。ランタンが消えたらキャビンは洋上と変わらぬ真闇に没する。
ようやくすこしずつ息が吸いこめるようになった。だがこんどは疼きが吐き気に変わり、つぎの瞬間、紀子はどっと吐いた。真正面にいたヤスコは逃げようがなかった。カベルネ混じりのまるで吐血したかのような吐瀉物をもろに顔に受け、腰を抜かして尻もちをついた。
「あ……あぅぅぅ……」痛みと悔しさと憎しみの入り混じったうめきが勝手に喉から漏れる。小娘に対する殺意が煮えたぎっていた。
「わたし、話してきます」弥生がソファから立ちあがった。「暴力はダメですよ」
「待って」後部デッキに向かおうとした弥生をカレンがとめる。「もうすこし待ったほうがいいかも。危険だわ。あなたもなにをされるかわからないわ。あの子、ワインのボトル持っていったでしょう。凶器になるわ」
なるほど。
ふたたび目をぎゅっと閉じて痛みにあえぐ紀子の脳裏に天啓がくだった。弥生にいかせることはない。痛みがひいたら、自分でいくことにしよう。星明かりしかない二階にわたしがあがっていったら、あの子はさらに敵意をむきだしにするだろう。ワインボトルを振りまわすにちがいない。それをかわしながら……。
正当防衛だ。
いや、正当防衛だったとあとで言えばいい。
手順について紀子は具体的に頭をめぐらせた。それが格好の鎮痛剤になった。徐々に痛みが感じられなくなっていく。アッパーヘルムステーションはステンレス製の柵が周囲を取り巻いているが、腰の高さまでしかない。年は倍以上とっているが、腕力ならあんな子どもに負けるわけがない。右舷でも左舷でもいい。横の柵に体を押しつけ、上半身をさらにひと押ししてやれば、真っ暗な海に真っ逆さまだ。
そのときだった。
悲鳴にも似た生々しい叫び声が外から聞こえてきた。
「≪《ヘーーーーーーールプ》≫! ≪《ヘーーーーーーーーーーーーーールプ》≫!!」
ヘルプ……そう聞こえたけど。
カレンが左舷の窓にかじりついていた。「船よ!」
痛みをこらえて紀子は立ちあがり、カレンが食い入る窓に並ぶ。
二、三百メートル先だろうか。船体こそ見えなかったが、あきらかに船の明かりと思われるきらめきが、左側から接近してくる。
「≪《ここよ》≫! ≪《こっち》≫! ≪《ヘーーーーーーールプ》≫! ≪《たすけてーーーーーーー》≫!!」
二階からエリが絶叫していた。それにつられてカレンも後部デッキへと飛びだしていく。弥生もヤスコもそれにつづいた。だが紀子もそっちに足を向けた途端、下っ腹に痛みが走り、ぶざまに床につんのめって、よりによって自分のゲロのなかに倒れた。だが救助をもとめるなら一人でも多いほうがいい。紀子はツンとする腐臭にまみれながら四つん這いになってスライドドアのほうへ向かった。
紀子がデッキに顔を出したとき、相手の船は、クルーザーのちょうど真横に差しかかっていた。距離は五十メートルほどだ。漁船のような細長いシルエットだった。モロカイ島あたりから夜の操業に出てきたか、ひと仕事終えて港に帰るところなのだろう。
紀子の目の前で水しぶきがあがった。イルカがはねたのかと思ったがちがった。エリだった。アッパーヘルムステーションからダイビングしたのだ。
カレンはキャビンからランタンを持ってきて明かりを海面に向けた。左舷のすぐ下に白く細長いものが浮かんでいる。エリが腰巻にしていたバスタオルだ。カレンは明かりを周囲に振り向けた。
白々としたものがひらひらとクルーザーから離れていくのが見えた。無情にも通過していった船の方角に向かっている。エリはカレンのTシャツはまとっているが、ライフベストは着用していない。だがすくなくとも紀子よりは泳ぎが得意らしい。クロールでずんずん進んでいく。ライフベストを着けていないぶん、推進力が減殺されずにすんでいるのかもしれない。
「無理よ!」カレンが叫んだ。「もどってきなさい!」
だがエリは一向に聞く耳を持たない。そもそも聞こえていない。すでにクルーザーから三十メートルは離れている。
急に悔しくなった。
船との距離は百メートルもない。途中であの子が声を張りあげたら、向こうの船員も気づくかもしれない。それで船の向きを変えて、声の主の捜索を開始するのではないか。あの子のことだ。そうなればさらに狂ったように叫ぶだろう。そしてエリは救助される。
こっちのことをちゃんと話すだろうか。あんなことがあった直後だ。不快な気分があの子の腹の底にまだ黒々ととぐろを巻いているだろう。ホノルル港を出港したナイトクルーズ船の遭難者であることは告げても、カレンのクルーザーに救助されたことや、すぐそばに動けなくなったクルーザーが漂流していることなんて口を閉ざすのではないか。
「エリさん、がんばって」
隣で弥生がつぶやいた。紀子ははっとした。エリに自分たちの命運を託しているのだ。あの娘の悪いところばかり目についたし、暴力まで振るわれたが、人として最低限の道徳心は持ち合わせているかもしれない。どうしてそれを信じてやれないのだ。紀子は自己嫌悪に襲われた。下腹部の痛みよりも鈍く、重苦しい感覚だった。
エリの姿がとぎれがちになった。先方の船が作りだす航跡が波となってエリを翻弄しているのだ。それになによりライフベストを着けていない。どんなに泳ぎが達者でも夜の外洋で自力浮揚をつづけるのは困難だ。限界は遠からずやってくる。
「無理よ」ランタンをかざしながらカレンが吐き捨てた。向こうの船は、すでにクルーザーから三百メートル以上離れてしまっている。
弥生が声を張りあげた。「エリさん! もどってきて! もう無理だから! もどってきて! 明かりのところよ!」
一縷の望みを託した船が見えなくなるより先に、エリのほうが完全に見えなくなった。無数の星々が頭上にまたたきながらも、ランタンの明かりが届かぬ先は、漆黒の闇が広がっていた。クルーザーの乗客四人のうち、一人がライフベストも着けずに水深三〇〇〇メートルという夜の外洋に飛びこみ、姿を消した。それが客観的な状況だった。
カレンはランタンを高々と掲げたまま、海を照らしつづけた。白々とした明かりを照り返す海面に目を凝らしている。それにこっちで見つけられなくとも、明かりがあればエリはもどってくることができる。船長としてはのこのこキャビンに引っこむわけにいかないのだろう。それにつられて、紀子も弥生もヤスコもカレンと並んで海に目を凝らしていた。
たちまち一時間が過ぎた。
心なしか明かりが弱まったような気がした。ランタンはもちろん乾電池式だ。「明かりはこれだけだからね」カレンが厳しい表情で告げた。夜はまだ長い。残された者にとって肝心なときに明かりが使えなくてはどうしようもない。
風が出てきていた。白波が立ちはじめ、船が揺れだしている。気温もこの一時間で一気に下がっていた。紀子の腕には鳥肌が立っている。
だれがいいだすでもなく、四人は足を引きずりながらキャビンにもどっていった。カレンがランタンのスイッチを操作し、すこしでも長持ちするよう光量を落とした。紀子はカレンからぼろ布をもらい、床に飛び散った自分の吐瀉物を拭った。
口を開く者はいなかった。
なにが起きたかだれもが容易に想像がつく。エリは力尽き、恐怖よりも暗い世界へと引きずりこまれていったのだ。こときれる前に悲願でもあった水を、それこそ溺れるほど飲んだことだろう。そしてさらなる渇きが襲ってくる前に彼女は逝ったはずだ。
カレンはふたたび携帯式無線機のマイクを手に取った。
救援要請を行う船長の声に、一人減った乗客たちは押し黙ったまま耳を傾けた。紀子は不思議な感慨に包まれたが、それをいま口にするわけにはいかなかった。しばらくそれを自分だけの胸にしまっておくことにした。
あの子がいなくなったことで、キャビンの緊張が解け、なんとなくリラックスしたムードが漂いだしていたのだ。紀子はテーブルの紙コップをのぞきこんだ。ワインが残っているものが一つある。弥生が残したのだ。それに弥生が気づき、だまって差しだしてくれた。紀子はそれに口をつけた。気持ちが落ち着いてくる。朝になればきっと救助が来るだろう。なんだかそんな気さえしてきた。カレンだって結局のところ、こっちの正体を見破っていないのだろう。あとは救助を待つだけなのだ。
ふいに尿意をもよおした。これまでにない強烈な尿意だった。ストレスのせいできゅっと引き締まったままだった膀胱の出口がようやく緩みだしたようだ。いまにして思えばそのストレスの源は、遭難したこと自体というより、非常識な小娘の存在だったような気がする。そう思った途端、股間が疼いた。
あれは絶対に許せない。
溺れ死んだのはかわいそうだが、それとこれはべつだ。
紀子はだまってソファから腰をあげ、後部デッキに出た。暗いからキャビンの視線はもう気にならない。紀子は階段の下からおなじみの洗面器をつかみだし、ハーフパンツを下ろしてまたがった。船が左右に大きく揺れる。また雨が降るかもしれない。だったらいまのうちに膀胱は空にしておいたほうがいい。紀子は体を固定するため、例の手鉤をもう一度つかみ、サイドデッキの手すりに引っかけて体を安定させると、おしっこは驚くほどすぐに出た。しかも一度出はじめたら、もうこのままとまらないのではと思うほど、いつまでも流れつづけた。紀子はとてつもない解放感に身をゆだねた。この二十四時間でたまった体内の澱までも濾過されて放出されていくようだった。
だがカレンが用意したトイレットペーパーで局部を拭ったとき、違和感をおぼえた。生理がはじまったときのような感触だった。星明かりのなか、紀子は濡れた紙に目を凝らした。黒っぽい染みが広がっていた。明かりがなくてもわかる。
出血していた。
膣の奥に鋭い痛みが走った。まるでハサミを突き立てられ、ぐりぐりとねじられているかのようだった。屈辱感がぶり返してきた。ソファから立ちあがるなり、力いっぱい蹴りあげてきたのだ。あのガキが。
ハーフパンツをつかんで立ちあがったとき、足もとで水音がした。波音とはちがった。
まさか……。
洗面器も空けぬまま、紀子は左舷の柵から恐るおそる海面をのぞいた。
ひらひらとした白いものが船体にへばりついていた。
紀子はその場にしゃがみこんだ。エリはたすけをもとめて両手をのばしてきた。だがまるで下からサメに食いつかれているかのように、何度も海中に頭まで没する。ライフベストがないため、足で水を蹴って浮力を生みださねばならないのだが、それをつづける体力が失われているのだ。
しかしいくら海面に浮かんで両手を完全にのばしたところで、距離が離れすぎていた。紀子はデッキに腹這いになって手をのばしてみたが、指先どうしが触れる程度だった。
そうだ。
紀子は四つん這いになって踵を返し、用足しにはもってこいの手鉤をつかんだ。長さは三十センチ。これなら十分だ。紀子はふたたびデッキに腹這いになり、鉤のついているほうをエリに向けて差しだした。海面が上下するのに合わせ、エリの体が手鉤に近づいたり、離れたりする。もっとも近づいたときには、顔のあたりまで手鉤が届く。これが釣り上げた魚なら、急所に一撃を加えられる距離だった。
目と目が合った。
天下り官僚を父親に持ち、甘やかされて育ったあげく、国民の血税をくすねて海外旅行を愉しむのを常識と考える小娘の本性が、星明かりのもとでもはっきりと見てとれた。
そのまなざしは、けっしてたすけを懇願してなかった。
たすけてもらって当然なのだ。
だれかが手を差しのべるのが当たり前だと思っている。
教育してやらねばならなかった。
まわりにだれもいない。紀子はあらためてエリとこちらの距離を測り、タイミングを見はからった。
まるでその瞬間だけ満月が出現したかのように、目の前で手鉤の鉤部分がぎらりと冷たく光った。その刹那、ふたたび膣の奥に疼痛が生まれた。傷口からどくどくと血が流れ、腹這いになった股間に広がっていく感じがする。
紀子は手鉤を振りあげた。
エリが口元をゆがめてなにかいいだそうとする。近代法治国家の裁判制度ではないのだ。反論の機会をもうけるつもりはなかった。弥生が言ったとおり、もしカレンが自分たちにうそをついて、そもそも通報なんてしていなかったら、紀子たちは今なお行方不明と思われているはずだ。行方不明なんて期待を抱かせる物言いだが、それは家族に配慮してのあいまいな表現にすぎない。十中八九、死んだものと思われているにちがいない。だったらいま殺したってかまうまい。エリを。この無礼千万な小娘を。
ちょっと待って。
紀子のなかにわずかに残った冷静な部分が反応した。
カレンが本当に通報していたら……?
逡巡が生じた。
ふたたび目と目が合った。
こんどはちがった。エリは恐怖におののいていた。
振りあげた手鉤が急に重くなった。これでは振り下ろせない。それでも紀子は怖気を振り払い、腹這いのまま、もう一度腕に力をこめた。だが手鉤はやはりびくともしない。
「わたしがやるわ」
耳元でささやかれた。カレンだった。いつのまに近づいてきたのだろう。手鉤は振り下ろせないはずだった。柄の部分を背後からカレンががっちりとつかんでいる。
呆然とする紀子の手から力が抜けた。カレンは手鉤をつかみなおすなり、紀子の隣に腹這いになった。
カレンは手鉤を振りあげたりしなかった。
乗客の救助義務を負う船長らしく、そっと海面に向かってのばしただけだった。
十五
エリは体温低下がいちじるしかった。
LEDランタンのともるキャビンで、Tシャツを脱ぎ、カレンが用意した新しいバスタオルを体に巻きつけてソファに横たわっていた。船にもどれたのが奇跡的なぐらいで、体力を完全に奪われていた。
隣には看護師のようにカレンが腰かけ、ようすを見ている。紀子たち三人はテーブルの反対側にいた。
弥生が自分の紙コップに残っていたわずかな水を差しだした。カレンがそれを口元に持っていくと、エリはなにもいわずに飲みほし、さらに水を欲した。紀子はすでに自分のぶんを飲みおえていた。ヤスコは節約しながら飲んでいたので、まだかなり残っているようだったが、かたくなにあたえようとはしなかった。カレンもあえてうながさなかった。自分勝手なのはエリのほうなのだ。
かわりにカレンはミニバーに手をのばし、スコッチウイスキーのミニボトルをつかみだした。喉の渇きを癒してやるより、体温低下のほうを心配しなければならないようだった。キャップをねじ切り、そっとエリの口元に近づける。「すこし飲むといいわ。血のめぐりをよくしないと」
それに応じてエリがわずかに体を起こし、ボトルを手にとってあおった。たちまちむせ返る。
「すこしずつよ。なめるようにね。たくさん飲んじゃだめ。あとでまたつらくなるから」カレンはテーブルに広げてあったカマンベールチーズを皿ごとエリのほうへ持ってきた。
エリはそれには手をつけない。もう一度、ボトルをあおり、こんどは顔をしかめながらもむせることなく喉を通過させた。
カレンが大きくため息をついた。「船を見つけてくれたのはありがたかったわ。だけど波はそれほどでもなかったけど、ここは外洋。しかも真夜中なんだし。死ぬところだったのよ」諭すようにいう。「向こうの船が気づかないからって、自分で泳いでいくことないじゃない。向こうは近づいてくるんじゃなくて、離れていくところだったんだから」
「いいじゃない……」エリがぽつりとつぶやいた。鼻声で震えている。
「よくないわ。船長の責任だもの。たすけを呼びにいきたい気持ちはわかるけどね」
「なにいってんの……べつにたすけを……呼びにいったんじゃないよ」
「え?」
「あっちに……乗りこみたかった……それだけ。もうこんな船、ごめんだから……たすかる見込みなんてないじゃない」言いきるとエリはまたしてもボトルをあおった。
カレンはソファの背にもたれ、あきれたように言う。「どうしてわたしを信じてくれないのかしら。無線はどこかに届いているはずよ。きっと夜だから捜索に出られないのよ。朝になればかならずたすけに来てくれる。それなのにあなた、軽率よ」
逆ギレするだけの元気を持ちあわせていなかったらしい。エリは呪文を唱えるように小声で話しつづけた。「もういいよ。そんなうそっぱちの話。たすけになんか来ないよ。来るわけないじゃん。それを信じるなんてばっかみたい。そのオンボロ無線機は壊れてるんだよ。そんなの見てりゃわかるもん」
「そんなことないわよ」カレンが憤然としていった。
「もういいからさ。こっちは疲れてるの。頭が痛くなるわ、ガミガミいわれると」
エリになじられ、カレンは唇を噛みしめた。だがエリが警戒するような視線を送りつけていたのは、テーブルの向こうにいる紀子だった。「ねえ、おばさん、さっきあたしのこと殺そうとしたでしょ」
薄暗がりのなか、紀子は視線をそらした。「なに言ってるの」
カレンがたしなめた。「たすけてもらっておいて、それはないんじゃないの」
「たすけてくれたのはカレンさんでしょ。この人の目は本物だった。怖かったもん。本物の人殺しの目をしていた。マジ、殺されると思ったわ。カレンさんが来なかったら、絶対やってたはず」
その言葉に押されるようにして隣にいたヤスコが紀子の顔をまじまじと見た。「そうなんだべか、あんた」
「言いがかりはよしてよ」たまらず紀子がいう。「どうしてそんなことしなきゃいけないのよ」
「あたしのこと、きらいでしょ」
きらいよ。大きらい。殺したいくらいよ。
紀子はテーブルの下で拳を握りしめた。やっぱりあのとき、ひと思いに鉤を振り下ろしておけばよかった。なんでできなかったのだろう。喉の奥にいがいがしたものがわき起こり、紀子は無理やりつばを飲みくだした。ぎりりといういやな音が喉元でする。
エリがぶつぶつとつぶやいた。「カレンさんが来なかったら、ずっとだまっていればいいんだもんね。死体がどっかに漂着して外傷があるのがわかったらやばいけど、島も遠いし、海流は反対側に流れてる。見つかるわけがないし、万が一、海のうえで見つかったとしても、傷なんて小魚に食われた痕にまぎれてわからなくなっている。ほかの船に乗せてもらおうと勝手に海に飛びこんで、そのまま流されて行方知れずになってしまった。そういえばいいだけでしょ。それに食料や残りわずかの水を分けるうえでも、人数はすくないほうがいいにきまってる。ねえ、おばさん、そう考えたんでしょ。マジ、怖いわ。スポンサーってもっといい人たちかと思ってた」
「勝手に想像してなさいよ」紀子はにらみ返した。股の痛みが突きあげてくる。
「図星でしょ。人殺し」
「≪《あんたね》≫」紀子は拳をテーブルにたたきつけた。ヤスコと弥生が身をこわばらせる。紀子は鼻から息を長々と吐きだしてからつづけた。「さっきわたしにしたこと、忘れちゃ困るからね」
「さっき?」エリはあごを上げ、見下すような目を紀子に向けてきた。
「とぼけないで」一段低い声で紀子は追及した。「蹴ったでしょう。信じられないわ。出血したのよ。痛かった。とっても」
「出血? 生理中だったんじゃないの。蹴った? おぼえてないよ、そんなこと」
「どこまでうそつきなの、あんた。目撃者が三人もいるのよ。逃げられないわ。警察に突きだして刑務所に入れてやるからね。大人を怒らせるとどうなるか、おぼえてなさい。だからそれまであんたを殺したりなんかするもんですか」
「うぅ、コワ。マジ、怖いよ、この人」独り言のようにエリは口走った。「こんな大人にだけはなりたくないな」
「≪《いいかげんにしなさい》≫!」
「まぁ、まぁ」たまらずカレンが口をはさんできた。「いまはそんなこと言い合ってる場合じゃないわ。これ以上、雰囲気悪くしないでちょうだい、二人とも」
「だって」エリが口をとがらせた。「このおばさんが突っかかってくるんじゃん」
「もういいから」カレンがぴしゃりといった。「あなたもあなたよ。とにかく朝までじっと静かにしていること。騒ぐと喉が渇くし、体力が余計に消耗するだけだからね」
「≪《むかつくのよ》≫」
吐き捨てたのは紀子だった。空気が張りつめる。たまらずカレンが立ちあがり、紀子の腕をつかむ。「あんたたち、すこし離れていたらどうかしら。そのほうがおたがいに気持ちも落ち着くと思うわ。紀子さん、いいかしら」
船長にうながされるままに紀子も立ちあがった。カレンは携帯無線機を抱えあげ、紀子を階下に連れていった。
十六
下のキャビンは真っ暗だった。上階の明かりがわずかに漏れ入ってくるだけだ。カレンは足もとに携帯無線機を置き、手さぐりでソファに近づき、そこに紀子を座らせた。それから船首側にある別室のほうへ近づいていく。錠が外れる金属音がしてドアが開き、カレンの影がそこに吸いこまれる。
しばらくするとカレンはなにかをつかんで別室から出てきた。固形石けんサイズのキャンドルだった。
「よかった。一つだけ残っていたの」ライターで点灯すると、広いキャビンがぼんやりと浮かびあがった。「明かりっていいわね。これで人心地つける。朝までここにいるといいわ。そうだ」カレンは冷蔵庫に近づき、冷凍庫の扉を開けた。「さっき取りきれなかった霜が融けたみたい」声をひそめていい、棚から錫のゴブレットを取りだす。「ちょっといいかしら。冷蔵庫、傾けてちょうだい」
冷凍庫の下の部分にたまった水を集めようというのだ。紀子は立ちあがり、両手で冷蔵庫を抱え、慎重に斜めにした。信じられないことに百ミリリットルぐらい集まった。
「いいわよ、飲んじゃって」
カレンにうながされ、紀子はひと口すすった。停電で霜が融けたあと、さほど温度が上がらなかったのか、ひんやりとした喉ごしだった。それが紀子の生存本能を刺激し、母乳をむさぼる乳飲み子のような獰猛さで半分ほど飲んでしまった。
「おいしい……」
「いいわよ、ぜんぶ飲んじゃって。わたしはへいきだから」
「いいんですか」
「だいじょうぶ。まだ冷凍庫に多少残ってるみたいだから。あとでストローで吸ってみるわ。お行儀悪いけどね」カレンはうれしそうに微笑んだ。
紀子は残りの水を飲みほした。生き返った気分だった。これであと何時間か、もしかしたら丸一日だって生き延びられるかもしれない。上の連中? まるで気にならなかった。
カレン、いやアイリーンに対しては複雑な気持ちだった。こんなに親切にしてくれるということは、娘を死に追いやったプロデューサーが目の前にいるとは、おそらく気づいていないのだろう。紀子はソファに深々と背中をあずけ、肩の力を抜いた。キャンドルの明かりがスタイリッシュなキャビンを幻想的に浮かびあがらせる。
わたしはナカイ・カナ。
モンテ・カレーの宣伝部長。
それを船長も信じてくれている。なんだか気持ちが軽くなってきた。思わず紀子は訊ねた。「すてきなクルーザーですね」
「島の暮らしだからね。車とおなじよ」カレンはキャンディーを口に放りこんだ。甘ったるいバニラのにおいがする。「ところでカナさん、おいくつなのかしら」
年齢ぐらい教えてやってもいい。「先月、五十二歳になりました。ほんと、もうおばさんですよ。おばあちゃんかな。孫がいる中学の同級生もいるくらいですから」
「あら、おどろいた。同い年なのね。わたしも五十二よ」
「え、ほんと……」紀子はまじまじとカレンの顔を見た。もっと若いかと思っていた。太っていて健康的に見えるせいだろうか。
壁の時計は午後九時をさしている。
「きのうのちょうどこのくらいの時間ですよ、船が沈んだのって。まだ一日しかたっていない。なんだかもう何日も前のことのように思えちゃう」
「そうね。予期せぬことばかりが起きてるからね。滅入るわ、わたしも」
「カレンさんが夜のうちにみんなのことを連絡してくれたのって、だいたい何時ごろだったのかしら」
「あなたたちを船にあげてからそんなにたっていなかったわ。一時過ぎだったかな」
「モロカイ島に向かう話もそのときに?」
「えぇ、そうよ」
「じゃあ、向こうの港で待ってくれている人たちも妙だと思ってますよね」
「当然よ。だからこれ以上無線を入れなくても、救助活動ははじまっているはず。ただ、潮の流れとかがあって見つけられないのかも。人工衛星とか使えば一発だと思うんだけどな」
「ですよね」
「ただねぇ」ふいにカレンがそれまで見せたことがない当惑した表情をした。「まさかとは思うけど」
「なんですか」紀子は不安になった。
「友だちがね……」
「お友だちが……なにか……」
「あのとき、まだスマホが圏内だったから、無線じゃなくて電話で伝えたのよ、友だちに」
「沿岸警備隊とかに通報したんじゃないんですか」紀子はつい詰問調になってしまった。
カレンは申し訳なさそうに肩をすくめた。「だってどこに電話したらいいかわからなかったんだもの。だから……ほら……」カレンはいいよどんだが、ようするに救助隊がやって来るには、連絡を受けた友人が警察や沿岸警備隊に通報するというひと手間がさらに必要なようだった。しかし友人はちょっとした個人的問題を抱えていた。カレンの話を聞くうちに、不安はみるみる増大した。まるで暗い海にふたたび突き落とされたみたいになってきた。「寝ぼけてる感じがしたの。それが心配なのよ。たぶん深酒して寝入ったところだったんじゃないかしら。あの人、いつもそうなの。アルコール依存症なのよ。でもそんなに重症じゃないから。たぶん記憶が飛んでるなんてことはないと思う。心配しないで」
記憶が
飛ぶ……?
心配するわよ。
冗談じゃないわ。
「お友だちとはその後連絡は?」
カレンは首からさげたスマホにタッチした。依然として圏外のようだった。「その後は連絡を取っていないの。圏外に入ってしまったから。けど、ちゃんと通報しているはずよ。漂流者をたすけたって言ったんだから」
紀子の視線はいやでもカレンのスマホに注がれた。例の携帯式無線機は頼りにならない。だったらこのスマホが圏内にもどるのを待つほかない。海洋の電波状況は基地局との距離に左右されるが、気象条件しだいではかなり遠方でも電波をキャッチできるはずだ。船を押し流す海流の方向が気になるが、待ちつづければきっと圏内に入る。その瞬間に望みを託すほかなかった。
どんよりとした気分を振り払い、紀子は明るい声でいった。「じゃあ、やっぱりモロカイ島の港でだれか待っているはずですよ。それできっといまごろは捜索がはじまっている。朝になれば救助がきますよ」
「そうね。そう思っていたほうがいい。あんまりいやなことばっかり考えてると気がへんになっちゃうからね。だけど、あの子、エリさん、やっぱりちょっと常識外れっていうか……」ゆっくりとかぶりを振りながらカレンは言った。
「思いだすだけで腹が立つわ。結局、天下り官僚の娘なんですよ。苦労知らずもいいところ。なんでわたしがあんなふうに言われなきゃいけないの。暴力まで振るわれて」大声を出したら上に聞こえてしまう。それでも紀子は声を抑えながら冷たい炎のような怒りを噴出させた。
「同感よ。あんな子を雇う会社はないわ。いくら取り繕ってもバレるものよ、その人の本性なんて。会った瞬間にわかるはず。あんな子がまわりにいたら、わたしなら、その場でバシッと言ってやるわ。そのほうが本人のためになるもの」
肩をすくめて紀子は小さくうなずいた。もちろんわたしだってそうするわ。ただ、ときどき八つ当たりみたいになっちゃうことはあるけどね。たとえば三か月前のこと。でも“ナカイ・カナ”には無関係の話だ。
「カナさんはふつうに就職して、がんばってきたんでしょ」
「毎日苦労の連続ですよ。若いころなんて、とくにひどかった。寝る時間もなかったくらい」
「わたしもそう。若いころは大変だったの。だけど世のなか、あの子みたいに一生らくして暮らしていける人間がたくさんいるのよね」
「格差よ」紀子は吐き捨てた。「わたしたちのことをうらやむ連中もいるけど、わたしたちだって、まだまだ下のほうなのよ。世界にはもっとすごいお金持ちが存在する。そういう輩がふつうにまじめに働いている者たちからかすめ取っているんだわ」
「わたし、思うんだけど」スマホをいじりながらカレンがつぶやく。「これからの世界は、そういう格差を根絶しないといけない。どうせあの子みたいなのは、どこかのお金持ちと結婚して、自分みたいな苦労知らずの子どもを再生産するだけでしょ。そうやって地球の資源を食いつくしていくのよ。だからそういうの、だれかがどこかでとめないといけないわ。そうでないとほんとにがんばっている人が報われないもの」
「そうね」紀子はうなずいた。「わたしもそう思いますよ。ああいう子が生き残っていける社会じゃダメ」
「お金持ちの子でもちゃんとしていればいいけど、あの子みたいのじゃ、だめね。生きてる価値なんてないわ」
「まったくよ。虫酸が走る」紀子は粘っこくなった唾を飛ばしながら吐き捨てた。
「でもね」カレンはソファのうしろに手をのばし、棚を開けた。無造作にそこに置かれているものに紀子は寒気をおぼえた。
拳銃だった。
ハリウッド映画で制服警官が握りしめるような回転式だ。これがアメリカの銃社会なのか。拳銃なんて、日本なら警察官以外は犯罪者が隠し持つ禁制品でしかないのに、まるで旅先で購入したお気に入りの置き物か子どもの玩具さながらに、ごく自然にそこに鎮座していた。もちろん護身用なのだろう。
カレンが手に取ったのは、その隣に置いてあった手のひらサイズの長方形の箱のようなものだった。太陽電池式のスマホの携帯チャージャーだ。カレンは防水ケースからスマホを取りだし、充電器を接続しながら弱々しく口にする。「やっぱり生まれ育ちって出るんだわ。エリさんとは逆の意味でね。底辺で生まれ育った人間は、大人になっても垢抜けないし、辛気臭いまま。ピントもずれてるし、ある意味、非常識なのよ。ようするに田舎者なんだわ。キャサリンのことよ。ハワイは世界の楽園だけど、あの子はその陰に隠れた肥溜めにずっと浸かったまま抜けだせなかった」充電器をつないだままスマホを防水ケースにしまう。
紀子は相づちすら打てなかった。肥溜めから這いあがろうとした娘は、日本で成功する夢を抱きながら、あっさり打ち砕かれた。地下鉄の熱を帯びた車輪によって。
その引き金を引いたのは――。
目の前にいる娘の母親は、そのことに気づいていないようだが、紀子は喉を締めつけられた。
「それでいてエリさんみたいなぬくぬく育った子たちが、どんどん夢を実現させていく。やりきれないったらないわ」
「……そうですね」うつむいたままようやく紀子は口にした。
カレンは声を一段低めた。「なんだかへんかこと考えちゃうわ、こんなところにいると」
紀子は怖々と船長の顔を見あげた。カレンは理解をもとめるように話しだした。「わたしたち以外だれもいない海のうえ。たすけも来ないけど、あらゆる法律からも解放されている。なんていうかな、ある意味、無限の自由……怖いくらいの自由、なにしたってわかりゃしないんだから」
充電器を接続したスマホは、節電機能が解除されたらしく、ディスプレイの輝きが増した。それが船長の顔を青々と照らしだす。恍惚とした表情に紀子は空恐ろしさをおぼえた。しかし船長の胸の内はともかく、電波さえ通じるようになれば救助要請ができる。スマホは頼りにならない例の無線機より確実な命綱だった。
「ほら、これ」船長はスマホを首から外し、紀子の目の前に突きつけた。
脳みそのしわの奥に抑えこんできた記憶の断片がかすかに疼いた。
若い女の写真だった。子犬を抱え、カメラに向かって愛らしく微笑んでいる。紀子は過呼吸になりそうだった。はっきりと顔をおぼえていたわけではない。記憶を刺激したのは、彼女の胸元にさがるネックレスだった。
二つのCが絡み合っていた。




