九~十二
九
「雨雲の下は通りたくなかったんだけど、とうとうつかまっちゃったわね」ステアリングを握りしめる船長の視線は頭上に広がる黒雲にくぎづけになっている。どうやらモロカイ島になかなか到着しないのは、カレンの悪意というより、船長としての職業的判断にもとづく迂回措置によるようだ。
「だいじょうぶなんだべか」ヤスコが訊ねた。
カレンは操縦席に目を落とした。レーダーを見つめている。「もうしばらく西に逃げないといけないみたい。このままだと危険だわ」
危険――。
それが転覆という意味でないことを紀子は祈った。
「あなた、ちょっと下を見てきてくれるかしら」船長は紀子のほうを見ている。先ほど船が大きく揺れたとき、足元で大きな音がした。そのことを言っているようだ。「いま、わたし、手がはなせないから、おねがいしていいかしら。テレビとかひっくり返っているかもしれないし、もっとおかしなことになっていたらいやだから」
船は波に翻弄されて上下に大きく揺れている。だが船長を無視するわけにいかない。たしかにテレビなんかより、船の運航に直接支障をきたす機器が破損している可能性がないわけでないのだから。紀子はソファの背もたれや棚に手をついて立ちあがった。うまくバランスを取らないとよろめいてしまう。重心を低く取りながら操縦席のわきから階段にまわりこみ、手すりをつかんで下りていった。
ステップは六段下りたところで小さな踊り場があり、百八十度曲がってさらに五段下りる。明かりが消え、薄暗かった。紀子は壁をさぐり、スイッチを見つけた。
柔らかなダウンライトに照らしだされたのは、六畳ほどのリビングルームのようなスペースだった。左右のソファは上にあるよりも高級な感じがしてサイズも大きく、奥のほうでU字形につながっている。それに囲まれたテーブルはどっしりとしたマホガニーだ。ソファの向こうは、コンパクトながらゴージャス感の漂うキッチンとなっている。なるほどここなら他人に足を踏み入れさせたくない気持ちもわかる。まるでホテルのスイートルームのようなプライベート空間だった。これもマホガニーだろうか、床も壁も天然木を基調としてシックに彩られている。船首側には閉じられたドアがあった。おそらく主寝室だろう。その手前のドアにはBATHROOMとの札があった。
リビングを見るかぎりなにかが倒れて散乱しているようすはない。薄型テレビは作りつけの棚にしっかりおさまっているし、いくつもある棚の扉もすべて閉じられている。扉を開ければ、グラスが飛びだしてくるかもしれないが、そっとしておけばだいじょうぶだろう。だったらさっきの大きな音はなんだったのだ。紀子は背を丸め、ソファの座面に手をつきながら、U字形の奥へと進んでいった。
右足がずるりと滑った。床に油がこぼれているようで、あやうく転倒するところだった。広いソファとテーブルの下があらかた濡れていた。油ではない。もっとさらりとした透明な液体――水のようだった。それに足を取られぬよう注意しながら、紀子はさらに前進し、奥のソファの座面に両ひざをのせて背もたれの向こう側をのぞいた。
電子レンジをのせたキャビネットの下の扉が開いていた。ソファの死角となって見えなかった場所だ。扉の内側は高さ六十センチほどの物入れとなっており、仕切り板で左右に半分ずつ分かれていた。右側はシリアルやパスタや缶詰などが詰めこんであったが、左半分は白いポリタンクの収納場所だった。だがそれはいま、あたかもキャビネットから脱出を図ろうしたかのように、頭の部分から床のほうに転倒していた。それがカレンの言う“タンク”であることはすぐにわかった。
ポリタンクのキャップが外れて床に転がり、注ぎ口からはいまなおどくどくと水が流出している。だから床が濡れていたのだ。紀子はあわててソファを乗りこえ、タンクを立てた。二十リットル入りのタンクだとカレンは言っていた。もしそれが満タンだったとしても、いまは見るべくもない。残っているのは底から二センチほどしかなかった。
階段のほうを振り返った。だれかが下りてくるようすはない。そっちに注意しながらとっさに紀子はポリタンクをあおった。体は燃え、渇ききっていた。水は喉から食道をとおって胃の底まで一気に冷やし、癒してくれた。目を閉じ、くりかえしもとめつづけた。脳みそまでスポンジのように水気を吸収し、靄のかかった頭がすっきりしていく。全身の細胞のすみずみまで必要なものがいきわたる感じがした。天にも昇らん心地だ。
罪悪感はなかった。これは下のようすを見てくるよう指示された自分の特権、褒美、インセンティブだ。
それでもタンクを空にすることはできなかった。ほかの乗客への慈愛の気持ちからではない、空のポリタンクを抱えてみんなのところに上がっていくのは、いかにも疑われそうな気がしたのだ。紀子は水をもとめる本能を断ち切り、タンクをおろしてたしかめた。まだ底には一センチほど残っている。五百ミリリットルぐらいにはなる。
「なんだべ!」
ヤスコの声がひびいた。階段から顔だけのぞかせている。
「なして一人で飲んでるんだべさ」
「飲んでないって!」とっさに紀子は口走った。
ヤスコはソファの裏をまわって飢えた野犬のように突進してきた。紀子はポリタンクを奪われまいと胸の前で抱えた。そこに老女が飛びついてくる。痩せて衰弱しているはずだったが、タックルにはそれなりの圧力があり、紀子はよろめいた。
「ヤスコさん、そうじゃないんです。床、見てください」紀子は板張りの床をあごでしゃくった。「棚から飛びだして転がっていたんです。キャップが外れていて中身がこぼれてしまっていた。あわてて元にもどして、いま、どれくらい残っているかたしかめていたんですよ」
それでもヤスコは疑わしい目を向けたまま、タンクに手をのばしてきた。紀子はそれを振り払い、タンクを抱えたまま階段へと急いだ。現金輸送車の運転手の気分だった。
事情をカレンに話した。もちろん一人でぐびぐびと飲んでしまったことはひた隠しにした。
「なんてことなの」ステアリングを握りながらカレンはがっくりと肩を落とした。「転倒防止用のバンドを棚の内側に張っておいたのだけれど、さっき水をくみにきたときに外したままにしておいてしまったんだわ。それにキャップもしっかり閉めていなかったなんて。わたしってなんてこんなにトンマなのかしら。これじゃまるでアイリーンとおなじじゃない。あの子もこういうこと、よくやったのよ。水道を出しっぱなしにするとか、トイレの電気をつけっぱなしにしちゃうとか」苦々しくカレンは口にした。
「水ってこれだけなんですか」紀子が訊ねた。切迫している雰囲気をうまく漂わせることができた。われながら名演技だった。
「だいじょうぶ。心配しないで。倉庫に非常用キットがあるはずだから」
海はだいぶ落ち着いていた。雨雲の影響下から脱したようで、百メートルほど前方では、雲間から顔をのぞかせた陽射しで海面が黄金色にきらめいていた。そこに向かって船を走らせると、カレンはパネルを操作してふたたびオートパイロットに切り替えた。
こんどは全員で階段を下りた。キッチンの奥の棚の前でカレンがしゃがみこみ、格納式の把手をつまみだして引っ張った。
「うそ……」
依然として胸の前でポリタンクを抱える紀子は、船長の絶句に唇をかんだ。開け放たれた扉の内側は空っぽで、薄っぺらな壁を隔てた向こう側に収まるエンジンの轟音が増しただけだった。
「しまった」カレンは額に手をあてた。「こないだ非常用キットの点検をしたんだった。そしたら飲み水も食料もぜんぶ賞味期限ぎれだったの。それでみんな捨ててしまって。補充するのを忘れていたわ」
「だとすると」弥生が恐るおそる訊ねた。「残っている水って、やっぱりこれだけなんですか」
カレンは悔しそうにうなずき、紀子の手からタンクを受け取った。有無を言わせぬ態度だった。「分けるしかないわね」タンクを掲げ、残った水の量をたしかめて言う。「いずれにしてももうすぐ港に着くわ。心配しないで」
「あんたはもういらないべや」ヤスコが紀子のことをにらみつけてきた。「たっぷり飲んだんだからよぉ」
「なに言ってるんですか」紀子は憤然としたようすを取り繕った。「言いがかりはよしてくださいよ」
「言いがかりなんかでねえべよぉ。あんた、飲んだべよ」
見たんですか。さすがにそれは口にできなかった。「そんなことしてませんよ」
「え、なに、おばさん、飲んだの? 一人で」エリだった。
おばさん――。
ヤスコのことをさしたわけではない。紀子のなかで小娘に対する憎悪がまたひとつレベルアップした。「飲んでなんかいないわよ」紀子はエリをにらみつけた。
遭難者たちの対立を尻目にカレンは、タンクを抱えてさっさと階段を上がっていった。四人はそのあとについていかざるをえなかった。
カレンは新しい紙コップを四つ取りだし、それにすこしずつ水を分けた。一人あたりごくわずか。ヤクルトよりもすくない。ヤスコもエリも弥生もそれを一気にあおった。紀子もそれにあわせた。喉がカラカラに渇いているようすを演じねばならなかったし、じっさい水分はまだ不足していた。
ポリタンクにはあとわずか、二百ミリリットルほどしか残っていない。ケーキのショーケースの前にへばりつく子どものような狂おしい視線がそこに注がれる。だがカレン船長――どう考えても自殺したモデルの母親、アイリーンでしかないのだが――の言うとおりではないか。あとわずかの間がまんすればいいだけの話だ。港に着いたら、水をむさぼり飲むより先に、この民度の低い疑り深い連中から離れよう。でないと頭がおかしくなる。
「これはわたしが持っていたほうがよさそうね」カレンはそう言ってポリタンクを操縦席の足元にしまいこんだ。
四人ともふたたびキャビンのソファにへたりこんだ。ヤスコは最後のひと滴をすすろうと紙コップを逆さにしてその下に干からびた口を近づけている。エリは紙コップを握りしめたまま、ちらちらと紀子に猜疑心に満ちた視線を送りつけていた。まったく腹の立つ小娘だ。
それでも紀子は階下での自分の行動をリプレイして検証していた。階段のほうにはつねに注意をはらっていた。飲んでいるところを見られてはいない。確信がある。うそはつきとおさないと意味がない。ほかの連中よりも何百ミリリットルぶんか余計にすっきりした頭で考えた。そしていま、自分は“ナカイ・カナ”である。それを肝に銘じた。
途中でばれるうそほど無意味で、愚かしく、はた迷惑なことはない。
あの男がまさにそうだった。
十
きっかけはシンプルだった。浅川からのスマホメールの誤送信だ。三か月前のことだった。
(早く着いたからさきに部屋入ってるね。いつもの704号室。待ってるよ!)
その日、浅川は自宅に帰ると言っていた。家でやることがあるとかなんとか。まさか奥さんとホテルに泊まるのだろうか。それはそれでしかたないが、紀子は直感的に相手は奥さんでないとわかった。だいいち長年連れ添った妻へのメールに、きらきらした星とハートマークを飛び散らせるだろうか。それでいて愛人を三十年も囲うなんて器用なまねはあの男にできるわけがない。
だまっているわけにいかなかったので、紀子はただ一言「?」と打って送信した。返信は期待していなかった。だがすぐに返ってきた。仕事の打ち合わせだという。たいそうな社長だ。ホテルの客室で打ち合わせる話とはなんだろう。さぞかし内密のプロジェクトにちがいない。
ハートマークのデコメが頭のなかで舞っていた。
居ても立ってもいられなかった。だまされていたのだ。もしかするとかなり前からかもしれない。浅川は若い女の話もへいきで紀子の前で口にした。だが一線を越えるわけがない。年齢のせいで性欲も減退している。勝手に紀子はそう思いこんでいた。でも三十年も妻以外の女と遊びつづけている男だ。相手が一人である保証なんてどこにもないではないか。
自分の愚かさを痛感し、それが怒りを増幅させた。紀子は白金のマンションにもどり、浅川のパソコンを開いた。画面ロック解除のパスワードをいくつもためしてみたがだめだった。それからひきだしというひきだしを開けて、証拠をつかもうとした。伝票類をおさめたファイルは、そのまま税理士に提出するもののようだった。領収書が何枚も出てきた。紀子といったレストランのものもたくさんあった。そのなかに汐留の高級ホテルの領収書が何枚かあった。宿泊費らしかった。紀子はただの一度も泊ったことのないホテルだった。日付をチェックし、紀子のスケジュール帳と照らし合わせる。すべて紀子が生理中の期間だった。
タクシーを飛ばして汐留に向かった。客室に向かうエレベーターがなかなか来ずにいらいらした。いっしょに乗りこんできたシャネルのネックレスをした異様に背の高い女がモンスターでも見るような目をちらりと向けてきた。気にならなかった。そのとき紀子は自分が夜叉に変身していることを自覚していた。
もし浅川に機転がきくのなら、早々に部屋を出ていたはずだ。しかし七〇四号室――一泊十万もするスイートルームだ!――は在室だった。浅川もまさか紀子がそんなまねをするとまでは思っていなかったらしい。のぞき穴を指で押さえてインターホンを押したので、浅川はドアを開けざるをえなかった。まだ一人だったらしく、いやらしくにやついた顔をのぞかせた。それが一瞬にして凍りついた。電車で捕まった痴漢のような狼狽ぶりに、思わず笑ってしまった。百年の恋とまでは言わないが三十年だ。それがいっぺんにさめたのだから、なんだかおかしかった。でも冷静に考えれば、愛人である紀子がべつの愛人に嫉妬するほうがおかしくないか? しょせんやつの慰み女でしかないのはおなじだった。だがそのときはそこまで頭が回らなかった。
「なんだよ……おどろいたな……」阿呆のように浅川はつぶやいた。
ところがつぎにうろたえたのは紀子のほうだった。やつが待ちかねていた相手が紀子のすぐうしろに立っていたのだ。
エレベーターの女だった。
十一
魔女が杖を振ったかのように一気に雲が晴れ、海が凪いだ。それまでの風雨がうそのようだ。吸いこまれんばかりの碧い海と空。強烈な紫外線が色そのものを輝かせる。それが一面に広がっている。これこそが南国なのだ。いまの苦境がわかっているからこそ、紀子の胸に痛いほどの憧れが染みわたり、焦燥感が増した。
気温もあがってきた。カレンがエアコンを入れた。心地よい風がキャビンに広がる。
あと一時間かそこらだ。
はるか遠くに島影が見えた。船はゆったりとした調子でそちらに向かいつつあった。揺れはほとんどない。島はさっきからずっと等距離にあったのだろう。視界が悪くて気がつかなかったのだ。あれがモロカイ島だ。
キャビンにはいやな空気が漂ったままだった。通勤電車の常客どうしのほうがよっぽどいい。むすっと押し黙っていてもたがいのことなどこれっぽっちも気にならずにすむからだ。テーブルをはさんで対面しているから、いやでも相手の顔が視界に入る。目を閉じて眠るふりをしても頭のなかでは、くりかえしヤスコが疑いの目を向けてきたし、エリが突っかかってきた。
ソファの背後の棚には、脱いだ衣類が広げてあった。そうだ。楽園の強い陽射しを活用しない手はない。一時間でも干しておいたほうがいい。紀子は席を立ち、Tシャツとモンベルのハーフパンツ、スニーカーと靴下を両手でつかんだ。
「焼けるわよ、気をつけてね」カレンが振り返って言った。「でもせっかくならハワイの海、たのしまなきゃね」ブラックジョークだ。紀子は苦笑して後部デッキに出た。
そのまま二階にあがった。胸の奥に依然として重苦しい疲労感をおぼえたが、風が気持ちいい。操縦席わきのL字形ソファの日当たりのいい場所にシャツとパンツと靴下を広げる。靴は中敷きを取りだして別々に日にあてた。靴下と中敷きがいやなにおいを発していた。雨の日の小学校を紀子は思いだした。教室じゅうに似たようなにおいが漂っていた。太陽熱消毒だ。着岸寸前まで乾かしておこう。乾いた衣類に靴。これこそが人間性を確認するうえで欠かせぬアイテムだ。
直射日光を避けて庇の影になった場所に腰をおろし、島のほうを見つめた。もうキャビンにもどるつもりはない。どうして余計な人間関係に悩む必要がある。そんなのばかみたいじゃない。
そうは言っても腹がたつ。だいたいあの小娘が水を飲みたいなんて言いださなければ、カレンがタンクに水をくみにいくこともなかったし、キャップを閉め忘れることも、タンクが転倒しないようにささえていたバンドが外されることもなかった。すべてはあのガキのせいなんだわ。それがなによ。にらみつけてくるなんて。なにさまだと思ってるんだろう。あいつがみんなの調和を乱している。
だがいまはそれを利用すべきだった。船長だっていらだっているはずだ。こっちに対する疑念をそれで紛らすことができれば不幸中の幸いだろう。
咳きこむようにしてエンジンが停止したのはそのときだった。シュノーケリング・ツアーならようやく目指すスポットに到着したというところだが、あいにくきょうは途中停車の予定はない。打って変わって広がった静寂の世界に紀子は落ち着かぬ気分となり、アッパーヘルムステーションから下のデッキに首をのばした。
スライドドアが開く音がして、後部デッキにカレンがあらわれた。二階の操縦席に移るのだろうか。だが紀子のことなど無視してカレンはデッキにしゃがみこみ、床に手をかけた。把手をつかみ、それをゆっくりと引きあげる。
真っ黒い鉄の塊が顔を出した。エンジンだ。車のそれよりもはるかに大きくてごつい。カレンはそれにそっと手をのばし、てっぺんの部分に触れた瞬間、引っこめた。
紀子のほうを見あげて口を開く。「まずいわ」
わけがわからず紀子は怖々と手すりに身を乗りだした。
「オーバーヒートしたみたい」紀子のほうを見あげていう。「前にもなったことがあるの」
ヤスコもキャビンからあらわれた。「どうしたんだぁ」
「しばらく動けないわ」
「なしてだぁ」ヤスコが苦々しく訊ねる。
「エンジン、さまさないといけないのよ」
「直るんだか」ヤスコはエンジンルームをのぞきこんだ。
「直すしかないでしょ」カレンはデッキに両ひざをつき、エンジンルームのうえに四つん這いになった。しばらくして顔をあげる。「海水を使ってエンジンを冷やしているんだけど、海水を濾す網が目詰まりを起こしているみたい。冷却装置の外にぜんぶ水があふれちゃってるわ。見てよ、ほら」エンジンルームの底をカレンは指さした。たしかに十センチほど水がたまっている。
背後で舌打ちが聞こえた。キャビンの入口の陽射しがあたらぬ場所にエリが立っている。
「できるだけ急ぐわ」カレンは立ちあがり、エリを押しのけるようにしてキャビンにもどり、操縦席の足元から工具箱をつかんでもどってきた。「手伝ってくれるとありがたいんだけど」スパナをつかみ、紀子たちのことをぐるりと見まわした。「難しい話じゃないの。底にたまった海水をくみだしてほしいのよ。ポンプがあればいいんだけど、あいにくこの船には置いてなくて。紙コップですこしずつ汲み取るしかないわ。その間に濾し網を下で洗ってくるから。どうかしら。水抜きまでわたしがやるとなると、そのぶん時間がかかるんだけど」
エリはすでにキャビンの奥へともどっていた。エンジンルームの水抜きは、デッキに腹這いになって強い陽射しにさらされながらの作業となる。しかも小さな紙コップで汲むしかなく、きわめて非効率的だった。「年寄りには無理だべや」ヤスコははっきりと拒否した。
「やりますよ、わたし」スパナをエンジンわきに突っこみ、そこに装着した海水濾し器を取り外そうと格闘をはじめたカレンに弥生が言った。
「手伝うわ」反射的に紀子も口にした。すでに十二時半を回っている。一刻も早く島に着きたかった。「水を汲みだせばいいんでしょ」
エンジンから取り外したごつい装置を両手で抱え、カレンは階下に消えた。エリもヤスコもわれ関せずといった感じで、キャビンに引っこみ、スライドドアが閉じられた。紀子と弥生はそれぞれ紙コップを手に、腰にバスタオルを巻いた格好のまま、エンジンルームの両脇に腹這いになった。腕を突っこみ、ひじをのばすとちょうど紙コップで水をすくえる深さだった。しかしエンジンルームは縦六十センチ、横一メートルあり、その底にたまった水をあらかたかきだすまで相当時間がかかりそうだった。
陽射しは過酷だった。首筋がみるみる焼け焦げていく。
拷問だった。
こんなことならさっきまでの曇天のほうがよっぽどよかった。熱を帯びた内燃機関に触れぬよう注意しながら、紙コップですくった水をデッキにぶちまける作業を十回ほどくりかえしただけで大量の汗が噴きだしてきた。よくぞここまで体に水分が残っていたと思うほどだった。それに肩も痛くなってきた。むっとするような油と海水が混じりあった濃いにおいに吐き気がぶり返してくる。しかしこの場で吐くわけにいかない。
「流されてますね」黙々と水を汲みだしていた弥生がつぶやいた。
「流されてる……?」
「船ですよ。海流でしょうね。島から離れている」
「気分が滅入るわ。近づいているならまだいいんだけど」一向に減らぬ水を見つめ、紀子は早くもうんざりしてきた。「ヤスコさんはお年寄りだからしかたないとして、あの子はなんなのかしら。いったい何様のつもりなんだろう」紀子は吐き捨てた。
「まったくですよ。三人でやれば早く終わるのに」エンジンルームに顔を突っこんだまま、弥生は声をひそめた。「だけどなんか妙な感じもしますね」
「なに?」
「わたしたちのこと、通報されているんですよね」
「連絡したって言ってたわ」
「それならいまごろモロカイの当局者にそのことが伝わっているはずだし、そろそろ不審に思いはじめているころじゃないですか」
「もういいかげん着いていてもいいころだもんね、ふつうなら」
「こっちの船になにかあったんじゃないかって、無線連絡が入ったり、海峡にヘリコプターが飛んできたりしてもいいころですよね」
紀子は四つん這いの姿勢になり、首をめぐらせて船の周囲に目をやった。「すくなくともヘリは飛んでいないわね」
「船長を疑うわけじゃないけど、どうもわたしたち、あのクルーズ船から救助された乗客として、まだ正式にカウントされていないような気がするんですよ」
「だけどすくなくともあなた以外の三人については、連絡したと言ってたけど」
「そうなんですか」
「確証はないわ。わたしもふくめ、みんな眠っているときだったから」
腹這いの水汲み仕事を再開しながら紀子はいやな気分になった。「連絡していようといまいと、どこかの港まで連れていってくれたら、わたしは文句ないけど」
「わたしもそうですけど」デッキに腹這いになったまま、エンジンをはさんで反対側にいる紀子のことを弥生は上目づかいに見た。「でももしどこにも通報していないとすると、わたしたちって、公にはまだ遭難中ってことですよね」
弥生が言ってることを頭のなかで紀子は反すうした。「たしかにそういうことになる。行方不明者リストにいつまでも名前が載ってるのは、あんまりうれしくないわね」
「船長がすべてをコントロールできることになる」
「生殺与奪権を握られているってことかしら」
「せいさ……なんですか、それ?」
「いいから、気にしないで。とにかくあの人の気分しだいってこと」
「まずいですよ、それ」
「まずいわ、かなり」
「娘さんが自殺したのは事実なんですよね」
「みたいね。ただ、オーディションとは無関係よ。言いがかりだわ」
「そのことを説明してみるのはどうですか」
紀子はかぶりを振った。「火に油を注ぐようなものじゃない、そんなの。とにかくじっとしているのがいちばん」
「その日のこと、おぼえていらっしゃるんですか」
「それがね、あんまりおぼえていないのよ。大きな声じゃ言えないけど、あの日、わたし、超二日酔いだったの。ずっと夢を見ているみたいだったわ」
キャビンのスライドドアが開いた。
「どうかしら」カレンが訊ねてきた。「こっちはきれいになったわ」
よろよろと紀子は立ちあがった。「まだぜんぶは汲み取れていないですけど」
カレンはエンジンルームをのぞきこんだ。「だいじょうぶじゃないかしら」そう言って手にした海水濾し器をエンジンに装着した。
午後一時半を回っていた。
紀子と弥生はキャビンにもどった。エアコンが心地いい。カレンは操縦席の下からポリタンクを取りだした。紀子は死にそうに喉が渇いていた。弥生もぐったりしている。
「あなたたち」カレンが厳しい声をあげ、エリとヤスコにポリタンクをつきつけた。「どうしてこうなってるの」
たしか二百ミリリットルほど残っていたはずだったが、どう見ても空だった。
ヤスコはそっぽを向いて詰問から逃れようとしたが、カレンにすごまれ、責任をエリに押しつけようとした。「この子がよぉ……」
即座にエリが反応する。「なに言ってるの、おばさん。あたしのせいにするの」
「どっちにしたって、あなたたちで飲んでしまったんでしょう」
「なんで」弥生の口から漏れた。
「けどよぉ」ヤスコが言い訳をした。「年寄りなんだし、もうすこしやさしくしてくれてもいいべやぁ」
「命の重さはみんなおなじでしょ」カレンがぴしゃりと言った。「みんなで分けなきゃだめじゃない」
「うるさいよ。だってさっき下でこの人」エリが紀子を指さした。「一人で飲んだじゃない」
「飲んでいないわよ」どこに証拠があるの。そこまでは言わなかったが、紀子は憤然としてみせた。首筋がぞくりとする。
「マジ、うざいよ、みんな」べたついた長い髪をかきむしりながらエリが悪態をつく。「ほんのちょっとしか残ってなかったんだから、飲んだうちに入らないわ。そんなのでガタガタ言わないでよ。エンジン直ったんでしょ。あとちょっとで着くんでしょ。じゃあ、いいじゃない」
カレンは眉をハの字にして憤怒のいちべつをエリに送りつけてから、だまって操縦席につき、エンジンを始動させようとした。突きあげるような低い振動が足もとで何度か起きた。しかしそこでとまってしまった。
「動かないわ」船長の言葉は死刑宣告のように紀子たちの胸に突き刺さった。それから何度かカレンはスタータースイッチと格闘したが、結果はおなじだった。
「どういうことなの」たまらず紀子が訊ねる。
「オーバーヒートはおさまったはず。エンジンの温度は下がっているから」操縦席のメーターの一つをカレンは指さした。その後、スターターを押してもうんともすんともいわなくなった。「バッテリーかしら」
カレンがつぶやいたとき、紀子は天井のダウンライトが消えていることに気づいた。エアコンも停止している。さっきキャビンにもどったときは涼しかった。エアコンは作動していたはずだ。
おなじことにカレンも気づいた。「エンジンがとまっている間、エアコンつけていたのかしら」ずっとキャビンにいたヤスコとエリへの問いかけだった。
「それがどうかしたんだべか」ヤスコはけろりとしていた。「つけなきゃ暑くってしかたないべした」
「車とおなじなんですよ」ヤスコを諭すように紀子が言った。「エンジンが発電機になってバッテリーに充電している。だからエンジンがとまっている間に電気を使えば、バッテリーは減る一方。せめてエンジンが直るまでエアコンとめておいていただければよかったのに」
「暑かったんだよぉ」ヤスコは肩をすくめた。
「なに言ってんの」エリが紀子にすごんできた。「あたしたちが悪いって言いたいの。おかしいわよ、そんなの。最初にエアコン入れたの船長でしょ。だからそういうの船長がちゃんとしなきゃだめでしょ。こっちは乗客なんだから」エリは最後の部分を強調した。
「たしかにそうよ」船長は唇をかみ、苦しまぎれにもう一度、スターターボタンを押した。カチリというむなしい音が響いただけだった。
「エンジン、動かねえんだかぁ。だったらどうなるんだぁ、おれたちよぉ」だれもが思っていることをヤスコが口にした。
車のバッテリーがあがったなら、べつの車にたのんでバッテリーどうしをつないで充電する方法がある。しかし見わたすかぎり周囲にほかの船は見あたらない。自力でエンジンを始動させるほかなかった。
「もっと小さいボートならスターターロープがあるんだけど、このクラスの船だとそんなものもついていないわ」
「ソーラーパネルとか自家発電機とかないんですか」弥生が訊ねたが、カレンはかぶりを振るばかりだった。
「救援要請するほかないわ」カレンは操縦席のマイクをつかみ、無線機のスイッチを入れた。「だめだわ。こっちも死んでる」
「どういうことなの」エリがキレかかった声をあげた。
カレンはスマホを手に取った。「まだ圏外だわ。でも心配しないで。無線は予備機が下にあるの。乾電池式よ。それでなんとかしてみるわ。わたしだってこんなところでもたもたしているわけにいかないもの」そう言い残し、カレンはどたどたと階下に下りていった。
紀子はへなへなとソファにへたりこんだ。喉が激しく渇いていたし、全身が燃えるように熱かった。救助よりもなによりも水がほしかった。体を内側から冷やさないと。外で作業している間に熱中症になったようだ。ミニバーが目に入った。アルコール度数の高いスピリッツ類ばかりだったが、飲むことのできる液体であるのはまちがいない。衝動的にそれらを手にしたくなったが、ぐっとこらえた。いまここでやけを起こすわけにはいかない。
下のキャビンから救援要請を行うカレンの声が聞こえてきた。だが交信相手の声が響いてくることはなかった。エリはふてくされた態度で反対側のソファに横になり、三人に背を向けた。ヤスコは認知症の老人のようにぶつぶつと独り言をつぶやきながらキャビンをうろついている。弥生は操縦パネルの前に立ち、わかりもしない計器類をじっと見つめ、スターターボタンを何度も押したが、もはやカチリともいわない。
カレンがもどってきた。無線は芳しくないらしい。だが手にボウルを持っていた。「バッテリーがあがったことで冷蔵庫のことを思いついたの。冷凍庫は空っぽなんだけど、霜がかなりついていてね。ほうっておいたらむだに融けて流れだすだけだから」ボウルのなかには、かき氷のようになった氷がたまっていた。「これしか集められなかったけど、融けたらそこそこの量になるんじゃないかしら」
「いまのうちに分けとくべや」ヤスコが提案した。カレンはヤスコの意見を受けいれ、集めた霜を紙コップに四等分した。自分はだいじょうぶだという。だが一人ぶんとなると極端にすくなかった。霜だからかさがあるが、融けたら紙コップ半分もなさそうだった。でも一滴もないよりはましだ。
もう汗も出ない。紀子は弥生をうながし、ふたたびキャビンを出ていっしょにアッパーヘルムステーションへとあがっていった。日焼けを恐れるエリとヤスコはなかでじっとしていることを選択した。
午後二時半。
ソファにできた庇の影が濃かった。Tシャツとハーフパンツはほぼ乾いていたが、靴と靴下はもうすこし時間がかかりそうだった。船は海流に流されつづけている。モロカイ島が徐々に離れていく。これが漂流のはじまりだったらどうしよう。紀子は握りしめた紙コップをじっと見つめた。これはたいせつにしたほうがいい。すくなくともひと息にあおるようなばかなまねはしたくなかった。
紀子の隣で弥生はずっと遠い水平線に目を凝らしていた。死の漂流から救ってくれるヘリコプターや船が視界に入らぬか探しつづけているのだ。ADからAPへと飛び級で昇格する道をもとめて。それがどれほど激しい渇望なのか、紀子にはまったくわからなかったのだが。
十二
紀子は夢を見ていた。
ホテルとおぼしき部屋のベッドに全裸の浅川が仰向けで横たわっていた。血まみれだった。ベッドの向こう、カーテンの陰では若い女が倒れている。逃げ遅れたのだろう。
紀子は両手を見た。べっとりと血のりがついている。頭のなかの冷静な部分が凶器はなんだったのだろうと考え、あたりを見まわす。
見たこともない巨大なナイフ、山刀といったほうがよさそうな刃物が浅川の足もとに転がっていた。浅川は腹を裂かれ、内臓があらかた流出していた。首は切断され、目を閉じた頭が胸のわきで、ちょうど自分の乳首を眺めるような向きに置かれていた。股間は血と臓物がY字部分にたまっていてはっきりしないが、性器はあるべき部分にないようだった。
女は女で悲惨だった。両脚ともひざのところから切断されていた。致命傷と呼べる部分はほかになく、どうやら脚からの出血で失血死したようだ。死ぬまでにどれくらい時間がかかっただろうか。ふと紀子は考えた。
山刀は刃が肉厚で重そうだった。それを自分が振りまわしたとは思えない。でもこの場にいて、両手が血濡れているということはそういうことなのだろう。
逃げないと。
はっとして紀子はドアのほうに踏みだし、足をとめた。容疑者は死んだと思われないといけないのだ。紀子はベッドに手をのばし、山刀をつかんだ。体のどこかを傷つける必要があった。だが本当に死んでは元も子もない。時折、頭のなかにマグマのような赤色光がフラッシュする。そのたびに目がくらみ、気がつくと眼前の二体の遺体が微妙に死にざまを変えている。ありえない展開にうすうす紀子は、これが非現実の出来事であると思いはじめていた。それでも山刀を自身に振るわねばならないとの衝動はますます募っていく。
重量感のある刃物を自分のほうに向け、刃先を右耳の上にはわせる。これまで半世紀以上、苦楽をともにしてきた聴覚器官だがこれでお別れだ。紀子はぐいと力をこめ、十秒ほどかけて軟骨を縦方向に断ち切った。
痛みはまったくない。
夢だと気づいた。
それでも目覚めなかった。山刀と切除された右耳をフローリングの床に残し、逃走を開始した。廊下を抜け、非常階段を駆け下り、外に出てタクシーに手をあげる。二台目がとまってくれたので乗りこんだ。「いって、すぐに」と大声で運転手に告げてから、右側頭部にそっと手をやる。
耳はあった。
完全に切断されていなかったのだ。耳たぶの部分でつながり、車の振動に合わせてぶらぶらとイヤリングのように揺れている。
これじゃ死んだと思われないじゃない。
紀子は歯ぎしりしながら、依然として肉体の一部でありつづけようとする片耳を必死に引っ張った。
「どちらにいきましょうか」
信号でとまった運転手が振り向いてもなお、紀子は引っ張るのをやめられなかった。




