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デッキ  作者: 根本起男&黒岩研


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五~八

五

 いつのまにか虹が二つ並んで出ていた。ダブルレインボーはハワイではめずらしくないという。それも機内誌に書いてあった。船はそれに向かって突き進んでいる。波も落ち着きはじめ、キャビンもさほど揺れなくなっていた。太陽が雲の合間から顔を出すや、それまで鈍色だった広大な海をあっというまにコバルトブルーに染めた。デッキに降り注ぐ陽射しは痛いほどで、いやでもここが南国であることを感じさせる。エリの心配も理解できる。日焼け止めも塗らずに外に出たら、たった一分で取り返しのつかぬことになりそうだ。海上だったが、このぶんでは気温もすぐに三十度を超えるはずだ。

 ハワイ到着三日目。

 撮影どころかすべてが暗転し、九死に一生を得たいま、紀子は取ってつけたようなモーニングクルーズの真っ最中で、食欲よりもいちじるしく喉が渇いていた。キャビンのウォーターサーバーをためしにいじってみたが、給水ボタンを押してもうんともすんともいわない。カレンが階下からあがってきた。ペットボトルを一本手にしている。ロケ先で出演者に配るような五百ミリリットルサイズだった。

「ウォーターサーバーにセットするタンクは二十リッターもあるの。さすがに運べないから、とりあえずくんできたわ」カレンは新しい紙コップを取りだし、水を分けた。弥生は紀子の隣で眠りこけていた。彼女のぶんはペットボトルに残し、枕元に置いてやった。弥生にだけは注意しておかないと。いまは眠っているからいいが、目を覚ましたらカレンはもちろん、テーブルをはさんで向かいに座るヤスコもエリもあれこれと質問しはじめるだろう。その前にどこかに連れだして状況を伝えねば。

 それでも水はありがたかった。わずかだったが生き返った心地だった。生ぬるい水がこれほど美味に感じられたのははじめてだ。体はスポンジのように水分を吸収し、なにより頭のかすみが取り払われた感じがした。同時に尿意が強まった。

 弥生が眠っているうちにすませたほうがいい。紀子が最初に手をあげた。船の最後部はデッキよりも一段低くなり、海に突きだした縁側のようになっている。ダイビング時はそこから海に入るのだ。そこへ下りれば、キャビンからの視線は確実に避けられる。ここまで沖に出れば――オアフ島の島影はもはや完全に消え、外洋にいるようだった――ほかの船も見あたらないし、落ち着いて用をたすことができそうだった。だが洗面器を抱えたままそこへ下りていける自信はない。紀子はいったんそっちをのぞいたものの、あきらめて二階へあがる階段の出っぱりの裏側に回った。

 洗面器をセットして、腰に巻いたバスタオルを外してしゃがむ。キャビンのほうに目をやると、首をのばしたようにしているヤスコと目が合った。あわてておばさんは前を向いた。なんなのよ。尿道は一気に縮こまった。船の揺れも落ち着かない。紀子は階段裏に立てかけてあった三十センチほどの手鉤をつかみ、先端の鉤部分をサイドデッキの手すりに引っかけて体を安定させようとした。手鉤はトローリングで釣り上げたカジキマグロなどの大魚を引きあげるさいに使うものだろう。握り部分が魚の脂のようなものでぬるぬるしてどうにも落ち着かない。おしっこが出はじめるまでゆうに三分もかかってしまった。これでは大便をしたと思われてしまう。赤面しながら紀子は立ちあがり、風下に向かって慎重に洗面器の中身を海にあけた。

 エリがそれにつづき、最後はヤスコだった。紀子より時間がかかった。「冷えちまったよぉ」と暗に下痢をしたことを白状した。もうあの洗面器は使うまい。紀子は心にきめた。あと二時間もかからないのだし。

 喉の渇きはどうしようもなかった。三人の視線がカレンに注がれる。だが船長はキャビンの階段を下りようとしなかった。しびれをきらしてヤスコが口にした。「タンク、運ぶの手伝うべか」

 カレンは笑みを浮かべながら、ゆっくりとかぶりを振った。「せっかくのお客さんにそんなことさせられないわ。それに倉庫にはほかにいろんなものが入っているから」それはプライベートに踏みこんでほしくないとの意思の表明だった。それもそうだ。これ以上の歓待を期待するほうが無理というものだ。自分の家でないのだし。

「じゃあ、おばさん、もう一杯おねがいできるかしら」こんなことを口にできるのはエリしかいなかった。「こんなの飲んだうちに入らないわ」

「ちょっと、あなた」あらためて紀子がぴしゃりと言った。

 エリがにらみつけてきた。紀子の闘争心に火がつきそうになった。ふだんなら視界の端にも入らぬガキに無礼な態度を取られたのだ。最上級の辛辣な言葉でひねりつぶしてやりたい衝動がこみあげた。

「これあげるわ」カレンは自分の紙コップを差しだした。「まだ口つけていないから」

 エリは礼も言わずに奪うようにそれを受け取ると、一気に飲みほした。

「あれれぇ……おれもほしかったのによぉ……ねえちゃん、それはないべやぁ」ヤスコが額に手をあててくやしがった。

「だったら飲みたいって言えばよかったのに。てっきりあたしがもらったのかと思ったんだもん」エリは憎たらしく口にすると、ヤスコの隣でソファに寝ころび、ふたたびみんなに背を向けた。

 カレンは冷ややかないちべつをエリに送りつけた。しめた。注意がこの小娘に向くのはありがたい。紀子はポケットから時計をつかみだし、たしかめた。もうすぐ九時になる。昼前にはモロカイ島に着くだろう。弥生がそれまで眠っていてくれたらいいんだけど。

「ごっついのしてるわね」カレンが首をのばしてきた。「メンズかしら。高そうね」

「安物ですよ」紀子は時計を腕にとおし、しっかりとはめた。「このくらい大きいほうが使いやすいんです」

「わたしはスマホが時計がわり。そういえばアイリーンがそういうダイバーズウォッチをしていたわ。泳げもしないのに」

「アイリーン……?」紀子が訊ねた。

「うちの工場の従業員」カレンのハの字形の眉がふたたび真ん中に寄った。「おなじ日系三世なの。頭はいまひとつだけど、力だけはあるの。ああいう子にはそういう時計が似合うのね。あら、ごめんなさい。あなたみたいなキャリアウーマンにもぴったりだと思うわ」

「いえ、現場だと……」あやうくプロデューサーの定位置となっているスタジオ端の薄暗がりでも見えるように大きな文字盤が役立っていることを口走りそうになった。「よく提供番組の収録現場を回るんですけど、そういうときに便利なんです。だから今回も――」

「TPOで時計を使い分けるなんてさすがね。でもあの子は力仕事専門だから。エビの養殖場以外でもいろいろ手伝ってもらってるの。元はビッグアイランドの生まれでね。ずるずると長い付き合いになってしまった。もう二十年になるかしら。だけどとうとう先月解雇したの」カレンはさらりと告げた。「先月のことよ。無断欠勤がつづいたの」

 上体を折り曲げてミニバーに手をのばし、スナック菓子の袋をカレンはつかんだ。オレオのビッグサイズだった。袋を開け、テーブルに置く。いつも袋ごと抱えて食べているのだろう。紀子も好物だったが、いまは遠慮したい。喉が渇くからだ。ほかの者たちもおなじだった。カレンだけが黒い塊をいくつも手に取り、いっぺんにほおばった。

「急に勤務態度がおかしくなってね。ほっとくわけにいかないでしょ、そういうの。うちだってそんなに余裕があるわけじゃないんだし、悪いのはあの子なんだから。まったく恩知らずもはなはだしいわ。二十年前、主人とわたしで苦労して養殖場をはじめたころ、ビッグアイランドのヒロから移住してきて、そのままうちの転がりこんできたのよ。幼いキャサリンを連れてね」

「キャサリン……?」カレンは打ち明け話をしたいようだったので、紀子は興味をしめすふりをした。

「アイリーンの一人娘よ。夫はジャンキーで刑務所に入っていたわ。離婚して最初はホノルルに移ったんだけど、仕事がなくてカフクに流れついたのよ。うちは人を雇うほどの余裕なんてなかったけど、なんでもいいから働かせてくれって泣き疲れちゃって。そのころ日系人がやってる養殖場はほかにもあったんだけど、みんな断られてきたみたいでね。うちが最後の頼みだっていうのよ。だけどそんなこと言われたって、雇わなきゃならない義理なんてこれっぽっちもないじゃない」

 日曜の昼下がりに地上波でたまに流れる人情ドキュメンタリーのような展開だった。その意味では、人の世はいずこもおなじだった。だがそれをいまこの場で――赤の他人どうし偶然にも寄り集まった船のキャビンで――聞かされるとは。でもあと二時間弱のあいだ、ほかにすることもないのだ。心の底では船長には到着まで口を閉じていてほしかったが、紀子はエリのような非常識な小娘とはちがう。募るいらだちをおさえ、耳を傾けるようつとめた。

「主人が情にほだされてしまって住みこみで雇うことになったの。住みこみといってもわたしたちの家じゃないわよ。養殖池で使う道具をしまう倉庫を貸したの。最初は池の修繕とか餌やりとか力仕事をたのんだわ。でもお給料なんて支払う余裕はなかった。池のそばの木陰でいっしょにお昼を食べて、あとはあまりものをタッパーに詰めて持っていってあげるくらい。それでも逃げだしもせずに黙々と働いていたわ」

 話している間じゅうずっと手はオレオの袋と口の間を往復していた。見ているだけで喉が渇いてくる。紀子は無理やりつばを飲みくだし、渇きをいやそうとした。

「そのうち養殖から出荷までの手順もおぼえて、二年もすると、そこそこ仕事をまかせられるようになったの。そのころには事業も順調に回りだしていたから、多少のお小遣いを渡せるようになった。倉庫暮らしを抜けだしたのは、まだ何年もさきのことなんだけどね」

「従業員は彼女だけなんですか」

 カレンは紀子の顔をしげしげと見てから微笑んだ。「いまじゃ十四人が正社員。アルバイトは二十人以上いるわ。社員のなかじゃ、もちろんアイリーンがいちばんの古株だった。だからきっと勘違いしたのよ。自分がやり手ですこしぐらいわがままいってもとおると思ったんじゃないかしら」カレンは独り言のようにつぶやいた。言葉の端々に解雇した従業員への怒りが満ちている。「最近はお給料のことでもトラブルがあったの。勤続年数が長いのにほかの従業員よりも薄給なのはなぜだって。だけどうちは年功序列じゃないのよ、日本みたいな」

「日本も最近は能力給ですよ」

「カナさんの会社もそうなの」興味深そうに訊ねてきた。

「そうです」知りもしないのに堂々と答えた。

「カナさんも相当もらっているんでしょう。男たちを押しのけて。てきぱきと仕事ができる感じがするもの」

「ふつうですよ」

「ほんとに優秀な人がたくさんお金をもらうのはぜんぜん悪くないわ。アイリーンに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらい。あの子はすこしなれなれしいところがあって、なんでもわたしや主人にずけずけとものを言ってきたの。権利意識というか、被害者意識みたいのがあって、自分がわたしたちに搾取されていると思いこんでいたのよ。十年くらい前かしら、あの子、エビの殻を粉砕して肥料にする機械に足を突っこんでしまって、足首から下を切断する大けがを負ったの。それをわたしが役所に報告しなかったって言いがかりをつけてきてね。労災隠しだなんて騒いでいたわ。だけど、それって休日に勝手に機械動かしたのよ。労災のわけがないじゃない。まったくなにをやるにもとんまなの。だからあの子のお給料があがらないのは、ぜんぶあの子自身のせい。それに遅刻の常習犯だし、衛生管理もいいかげん。我が強いから同僚との折り合いもよくなかった。協調性ってやつね。いまの企業でいちばんもとめられるところでしょ、そのあたりって」

 紀子はゆっくりとうなずいてみせた。

「カナさんならわかってくれると思うわ。それでね、やむをえず解雇ってことにしたの。会社の経営上しかたない面もあった。リストラね。あの子のもとめるものと、会社がもとめるものにギャップがあった。ただそれだけのこと。けど、いまこうしてみると、あの子にいてほしかったとも思うわ。ちゃっかりしてるけどね、わたし」カレンは肩をすくめてみせた。「二十リッターのタンクなんて、二つぐらいいっぺんに軽々と運べたもの。頭が空っぽなぶん、力だけはありあまっていたのよ」

 自分でクビにしておいて都合のいいことを言う。アイリーンという女性がどんな人物か知るよしもないが、いまの話を聞いたら怒るんじゃないかな。いや、逆上するにちがいない。ある意味、カレンは浅川と同類項だ。みるみる強くなる楽園の陽射しをぎらぎらと反射する海面に目をやりながら、紀子はわが身を振り返った。二十リッタータンクを運ばされはしなかったけど、それとおなじかそれ以上のことをさせられてきた。いまにして思えば屈辱でしかない。水平線の手前で水しぶきがあがり、なにか巨大で黒々とした物体がジャンプする。イルカだろうか。この手のクルーザーが追いまわすにはもってこいのメカジキかもしれない。紀子はあの男への愚かな献身の記憶を浮上させまいと、そっと頭を振った。

 アイリーンがどうだったかは知らないけど、わたしはといえば、半分は自分で喜んで運ぼうとしたタンクだけどね。


六

 瞬間湯沸かし器――。

 四半世紀以上前のことだ。東邦テレビに就職した紀子が最初に配属されたバラエティー番組の現場で、浅川竜馬はスタッフのだれもが震えあがるチーフ・ディレクターだった。有力タレント事務所やプロダクションの社長にかわいがられていたのも強みだったが、いちばんは、視聴率をたたきだすことへの動物的な勘のよさだった。局内の廊下の壁には、高視聴率をたたえる掲示がべたべたとはられているが、浅川の担当番組はその常連だった。浅川は紀子より十歳年上で、純真無垢な新米アシスタントディレクター(AD)にとっては、たとえ傲慢で神経質な手に負えない性格であったとしても、神のようなリスペクトの対象であった。

 働き方改革とやらでいまは変わってしまったが、そのころの現場は徹夜があたりまえだった。紀子は、浅川の一時間ごとのひげの伸び方が観察できるほど一日中いっしょにいた。夫婦でもこうはいかない。秘書でも執事でもない。現場の若手の多くが“奴隷”だった。もちろん紀子も。しかし失われるものより吸収できるもののほうが多いと感じられた。なんてうぶだったのだろう。あのころの自分を思い起こすと、顔から火が噴きだしてくる。

 一年もしないうちに紀子は、浅川と深い関係になった。そのころ紀子には学生時代から付き合っていた彼氏がいたが、多忙をきわめる生活のため破局した。というより、紀子のほうで天秤にかけたのだ。きらびやかな世界へと導いてくれる大人の男と、たかだか二、三年交際しただけで恋人面をし、デートのたびに猿のようにもとめてくるだけの若造とを。

 形のうえでは悪役は浅川が演じた。一九九〇年代後半、まだテレビ業界にバブルの華が咲いていた時代、制作現場の中心にいた浅川には、いつでも使える宿泊先として高級シティホテルがあてがわれていた。もちろん番組経費の一部を裏金として使ってのことだ。浅川はそうした金勘定にもたけていたのだ。彼は言葉たくみにそこに紀子を呼びだし、紀子はまんまと毒牙にかかった。スタジオではクールで辛辣で、いまならパワハラで訴えられること請け合いだった男は、ベッドのうえでは子どものように紀子に甘え、そして猿以上にもとめてきた。本能のみに衝き動かされる昆虫のようでさえあった。

 小娘のようなショックをうけたのは最初だけだった。浅川に組み敷かれながら、すぐに紀子はスタジオの独裁者を独占する歓びをおぼえるようになったし、上に乗っているときにはそれこそ暴力的な動きで逆襲を試み、その首筋にかぶりついては土蜘蛛の毒を注入してやった。

 うわさはすぐに広がった。

 紀子に失うものはなかったが、浅川には妻子があった。子どもは女の子だ。そのころ三つか四つだった。かわいいさかりのはずだ。しかしそれとこれとはべつなのだそうだ。そもそも浅川に罪悪感なんてものはこれっぽっちもなかったし、会社もゆるかった。なにしろ似たような悪さをしながら出世した連中がひしめいていたのだから。

「家に帰らないでだいじょうぶですか」紀子は何度か訊ねてみた。

 そのたびに浅川はぼんやりとした目で「おれはカネ稼いでくればいいだけだから」とめんどくさそうに言った。火遊びはさしづめそのための必要経費というわけだ。もちろん紀子は金銭的な代償を得ていたわけではない。それでは売春婦とおなじだ。しかしいまにして思えばどうだろう。社員だったこともあるが、ADをわずか半年で切りあげて、浅川のプロデューサー昇格とともにアシスタントプロデューサーになり、その後もバラエティー番組畑で順調に出世を遂げていったのは、のちに制作局長にまでのしあがった浅川の庇護があったからだ。その意味では、自らの体をつかってそれなりの対価を紀子も得ていたのである。それをいまさら否定するのがばかばかしいくらい、歳月が過ぎてしまった。

 浅川は年を重ねても髪は豊かで黒々としていた。いまも一見すると四十代そこそこのようだ。だがいつまでも猿や昆虫のように紀子にむしゃぶりついてきたわけではなかった。むしろ性欲に関しては紀子のほうが増していったかもしれない。それは仕事のストレスにくわえ、浅川に奪われた時間の重みをひしひしと感じるようになっていたからだ。婚期を逃し、出産も困難だ。それらもろもろの支出に対する“弁償”を紀子は潜在意識のなかで求めていたのだろう。とはいえ浅川は浅川で紀子にたよっていた。いまもプライベートでは妻子以上にいっしょにいる。浅川は会社を早期退職して自ら制作会社を立ちあげ、紀子の担当番組を作りつづけて利益をあげている。彼の一人娘が広告代理店への就職をきめたとき、身元引受人となったのは紀子だった。そのころにはホテルを借りる裏金は作れなかったが、浅川は白金にある紀子のマンションの鍵を持っていたし、そこには浅川だけがつかう高価な北欧家具のデスクが置かれていた。

 おなじ軌道を永遠にめぐりつづける宇宙ゴミとおなじだ。地上のセンターからの制御が不能になった人工衛星の行く末を予想するニュースを見ながら紀子は得心した。わたしもこの人工衛星とおなじく、惰性のままに時を過ごし、いずれ最後の審判の日を迎えるのだ。かつては浅川が離婚に踏み切ると本気で信じたときもあった。しかし法律上の結びつきは、想像以上の重しだった。それに過酷な現場仕事から解放されたこともあり、以前にくらべれば浅川も自宅に帰るようになっていた。それにあろうことか奥さんと旅行にいった話を紀子の前でへいきでするようにもなっていた。ここ何年かのハワイ旅行も奥さんとだ。しかもすべて事後報告だった。たがが緩んだというか、こっちのことをばかにしているというか、ようするに浅川のなかでは、紀子は頑として愛人でしかなかったのだ。

 それでもだ。

 紀子としては認めがたい事実だったが、紀子は浅川以外の男性といっしょにいてたのしいと思ったことがない。自己矛盾もはなはだしい現実だった。だからいまでは紀子も余計なことを考えないようにしている。その手のことに悩むのは、もう卒業すべき年代だった。数えはじめたら悩みなんてきりがない。朝起きて、ちょっと不快な気分のまま出社して、適当に仕事をこなしてうまいランチに舌鼓を打ちながら、そこにいないだれかをやり玉にあげて悪口ざんまいにふければ、知らぬ間に精神の平衡状態はたもたれる。やがて訪れる薄暮。ワインが恋しくなる時間だ。そろそろかと思って社内をうろついていると、あの男から電話がかかってくる。

 タレントの売りこみか新しい企画の説明か。理由はなんでもいい。景気のいいころを思いださせてくれる小粋な店に連れていってくれればそれでいい。タクシーでいっしょに帰り、当然のようにやつは白金のマンションに泊る。退廃的なサイクルだったが、相変わらず話は面白いし、とりわけ昔話は懐かしかった。遠からず紀子も退職して、一人になる。覚悟していた。そのときにそばに浅川がいるといないとでは、大きなちがいだろう。それは悟りのような境地だった。

 だからこそだ。

 三か月前に発覚した事実を紀子はすぐには受け入れられなかった。そんなことをしたら自分という存在が風に吹き散らされる砂像のようにみるみる崩れ、消えてなくなってしまう。本能的にそんな危機を嗅ぎとったのだ。


七

 ハリケーンの余波だろうか。一時は旅行会社のパンフレットにあるようなコバルトブルーの海と強烈な紫外線に満ちた抜けるような青空が、船のまわりを覆いつくしていたが、一時間もしないうちに雲行きがふたたびあやしくなってきた。まだ雨は落ちてこないが、前後左右の揺れの振幅が短くなり、それに合わせて内臓全体が上下する。ろくに食べていないし、飲んでいないものの、自律神経が激しく乱れ、胃袋から喉にかけてそろそろ危険水域に達してきた。頬と首筋にいやな寒気も感じる。

 推進力をあげれば航行は安定しそうだった。カレンもそう考えたらしく、うんざりしたような顔でメインキャビンの操縦席に陣どり、オートパイロットを解除した。エンジンのうなりが高まり、腹の底を突きあげるような振動が足元から伝わってきた。紀子はソファにぐったりと背をつけたまま、体調が落ち着くのを待った。飛行機ならシートベルトサインが点灯し、キャプテンから「気流の悪いところを飛行していますが、ご心配にはおよびません」とアナウンスが入るころだ。航行に心配がないのはわかっている。この程度の揺れで沈没する船なんてあるわけがない。しかし船酔いはべつだ。

 弥生はソファのうえで丸くなったまま、まだ眠っている。いずれ揺れが激しくなれば、チーク材を張った床に転げ落ちるかもしれない。紀子はそうならぬよう彼女が着るTシャツの襟首のところをずっとつかんでいた。彼女にはとにかく目覚めずにいてほしかった。

 最初に立ちあがったのはヤスコだった。白塗り舞踊集団の出演者のような顔になっている。ふらふらと後部デッキに出ていくや、階段の向こうに消えた。

 ソファに寝ころんでいたエリがふいに体を起こし、背後の棚に手をのばした。たたんだ純白のバスローブがあった。それをつかみとり、広げてしばらく眺めてから袖をとおした。「寒いよ、ここ」紀子の視線に気づいてぽつりとつぶやく。たしかにさっきより涼しくなっている。エアコンが入っているわけではない。日がかげったぶん気温が下がったようだ。

 操縦席のカレンが振り向く。サイズがやたらと大きい厚手のローブを羽織り、両手で襟元をかきあわせて震える若い女に一瞬、にらみつけるようないちべつを送った。紀子はひやりとした。たとえ遭難者だとしても、カレンはボランティアの救助隊ではない。そもそもここは自分の家でないし、他人の持ち物、それも衣類に勝手に手をつけるのは無礼だ。無神経きわまりないエリの行動は、いちいち紀子の気にさわった。それに毎度はらはらさせられるのも割が合わない。一刻も早く船を下りたい衝動が募った。

「それ、洗ったばかりなのよ。わたしのお気に入り。ふかふかになるよう柔軟剤も特別なものを使ってるの」そのままカレンが操縦席から立ちあがり、たいせつにしているローブをエリの体から力づくで脱がしてしまうかと紀子は身構えた。しかしカレンは表情をやわらげた。「いいわ。着ていなさい。かまわないわ。また洗えばいいから。それよりエリさんが風邪をひいたらかわいそうだもの。それでなくても冷たい水のなかに何時間もつかっていたんだからね」にっこりと微笑みかけてつづける。「それにあなた、よく似合ってるわ。わたしにはちょっと小さすぎたみたいなのよ」

 紀子はカレンからエリに視線を移した。どう見てもぶかぶかすぎる。ローブというよりバスタオルを体に巻きつけているかのようだった。

「だってマジ寒いんだもん」エリは体を震わせていた。「みんなも着ればいいのに」

「ひとつしかないのよ」諭すようにカレンが言う。

「そうなんだ。じゃあ、あたし、着てるから」感謝の言葉はこれっぽっちも出てこない。

 それでもカレンは目くじらをたてない。「セレブみたいだわ、あなた。すてきよ」

 エリはふんと鼻を鳴らし、あらためて襟元をかきあわせた。

「モデルさんなんでしょ。よく似合うわけだわ」カレンは感心したように言った。

 カレンのほうに顔も向けずにエリが言う。「こんなサイズの合わないバスローブなんか着ないけどね」

 カレンは両手を広げ、肩をすくめる。「きれいな人はなにを着ても似合うものよ」

「お世辞うまいのね、おばさん」エリはもういちど鼻を鳴らした。

「お世辞なんかじゃないわ。モデルなんてなろうと思っても、なかなかなれないじゃない。持って生まれた才能がないとね」カレンはふたたび前を向き、ステアリングを握りなおしてから話しはじめた。「アイリーンの娘、キャサリンもモデルだったのよ。こっちですこし仕事していたんだけど、やっぱり白人じゃないから、仕事がそんなになくてね。それで日本での在留資格を取って、おととしから東京で暮らしていたの。すらっと背が高くて、百七十五センチぐらいあったんじゃないかしら。とてもかわいらしい子だったわ」

 カレンは首だけめぐらせて紀子のほうを見た。「ねえ、聞いたことないかしら。たぶん本名で仕事していたと思うんだけど、キャサリン・ヒルダっていうのよ。どうかしらね、カナさん。あなた、テレビ局の人ともお付き合いがあるんでしょう。知らないかしら」カレンはいきなり肛門に指を突っこむようなことを聞いてきた。ジャブというよりストレートパンチに近い。紀子は確信した。視聴者センターに電話をかけ、本社の受付にまで押しかけてきたイノシシ女が、いまここにいる。

 ヒルダ。

 そうだ。

 昼田じゃない。きっと蛭田だろう。高校時代、お坊ちゃん育ちの生徒会長がその苗字だった。蛭という吸血生物を知ったのはそのときだった。「……どうかしら。キャサリンねえ……」かろうじて紀子は返事をした。向こうはこっちの正体を見破っているのだろうか。かえすがえすも弥生の出現が余計だった。あれで“ナカイ・カナ”への疑念が高まってしまった。母親はそれをたしかなものにしようと、あえて他人――自分をクビにした会社のの社長――のふりをして、こっちの警戒を緩めようとしているのだ。

「バラエティー番組のリポーターがどうとかって、母親が自慢していたことがあったわ」カレンはくすくすと一人で笑い声をあげた。「まったく親バカなのよ。話のほとんどはキャサリンのことだったもの。こっちが聞いてないのに勝手にしゃべりつづけるの」

 スライドドアが開き、ヤスコがもどってきた。話が中断され、紀子はほっとした。ヤスコは真っ青な顔をしている。「あぁ、苦しい。胃袋がひっくり返って、なかのもん、みんな出ちまったよぉ」

 しゃべるたびに酸味の強い腐臭がキャビンに広がった。エリが襟元を鼻先まで引きあげ、あからさまにいやな顔をする。

「まだ着かねえんだかぁ、そのモロなんとか島によぉ」

「まだ半分ぐらいしか進んでいないもの」カレンは前方に目を凝らしながら言った。「海はしばらくはこんな調子かしらね。横になってるとすこしはましよ。おなかのもの、ぜんぶ出しちゃうのがいちばんだけどね」

 そのときだった。

 操縦席のまうしろにすわっていたエリがいきなり背中を丸めてうつむくなり、吐いた。口にあてがったローブの襟元に黄色い染みがたちまち広がり、すっぱいにおいが立ちこめる。そしてもういちどえずき、こんどは吐瀉物がキャビンの板張りの床を濡らすぴちゃぴちゃという音がした。

「……だって、おばさんが臭い息吐きかけるんだもん……」嘔吐といっしょに盛大に放出した鼻水をすすりながらエリは泣き声になって弁解した。

 紀子はびくびくしながら船長のほうを見た。カレンはむすっとした顔でじっとエリのことをにらみつけていた。

「なにいってんだべかぁ、ねえちゃんよぉ。おめえのほうがくっせえよぉ。ニンニクでも食ったんでねえのかぁ」船の揺れで自分のほうに流れてきた吐瀉物――固形物はかけらも見あたらず、水のようにさらさらしている――をよけようと、テーブルの反対側で両足を抱えたヤスコが怒りの声をあげた。

「うるさいよ! おばさん。気分悪いんだか――」エリはさらにえずき、両脚の間に顔をうずめた。こんどは床を汚さずにすんだ。いまやナプキンがわりとなったローブがすべて吸収したのだ。

「落ち着いて、二人とも」カレンは操縦席からゆっくりと立ちあがり、エリの背中をさすりだした。「デッキに出ましょう。洗面器なんて使わなくていいわ。海にそのままやればいい。体をささえてあげるから。ぜんぶ出してしまったほうがらくになるわ」

 エリは抵抗しなかった。ローブで口元をおさえたままよろよろと立ちあがり、カレンにささえられて後部デッキへと出ていった。

 紀子はおぞましく濡れた床に目をやり、ヤスコとおなじく脚を抱えて震えあがった。刺激臭が鼻を突く。胃酸のにおいだが、ヤスコが言うように腐ったニンニクのにおいもした。

 後部デッキでは、最後尾の手すりにしがみつきながら、エリが海に向かって半身を乗りだしていた。それをわきからカレンがささえている。船は先ほどよりも激しく揺れるようになっている。ちょっとでもカレンが手を放せば、エリはすっと海に飲みこまれるだろう。

 音もなく。

 自分たち以外のだれからも見られることもなく。

 恐ろしい想像が紀子の脳裏をかすめる。カレンは本当に遭難者を救助したことを連絡したのだろうか。もしそれがうそなら、紀子たち四人はいまなお行方不明のままである。だからカレンが自分たちになにをしようと闇のなかだ。

 カレンの手の動きが妙だった。紀子は思わず身を乗りだした。エリの両肩に手をかけ、ローブを剥ぎ取っているようだった。エリは無抵抗だった。ぐったりとしたまま手すりによりかかり、海のほうに頭を下げている。

 カレンはローブを取り返して小わきに抱えた。そしてエリの背中にふたたび手をやる。

「こわいよぉ」ヤスコが声をあげた。

 Tシャツの背中をぎゅっとつかんだまま、カレンはローブを海に投げ捨てた。

 エリを連れてキャビンにもどり、ソファに寝かせるなり、カレンはミニバーのわきある棚を開けてタオルを何枚かつかみだし、テーブルの下に四つん這いになって黙々と床をふきはじめた。一分が十分間にも感じられるほど気まずい空気が流れた。

 汚れたタオルを海に放り投げてからふたたびキャビンにもどり、ようやく船長は口を開いた。「さて、おつぎはだれかしら。デッキまでエスコートしてあげるから、遠慮しないでちょうだい。ただ、できれば早めに手をあげてもらえるとありがたいわね」

 陽気な口調が怖かった。


八

 四人は交互にキャビンとデッキを往復した。

 胃と大腸はともに消化器官として直結している。スクリューが巻き起こす水しぶきを浴びながら胆汁交じりの胃液をだらだらと吐いたあと、紀子は強烈な便意をもよおした。もはやキャビンの視線など気にしなくなっていた。アッパーヘルムステーションへと上がる階段の裏側へのそのそと近づき、手早く洗面器をつかむ。それから腰に巻いたバスタオルをたくしあげて急いでしゃがんだ。

 下痢だった。

 ろくに食べていないし、体は冷えきっている。栄養を補給すべきだが、いまは食べ物のことは考えたくない。体の重だるさが増している。立ちあがっても一歩をふみだすのがおっくうだった。後部デッキには強化プラスチック製ベンチがあった。紀子は倒れこむように腰をおろした。

庇の向こうには曇り空が広がっていた。気温はさほどでもないが、湿度が高く、全身にじっとりと汗をかいている。大気のなかに水分が満ちているはずだが、体の内側は渇いていた。脱水症状だった。胃酸のすっぱさが喉の奥をひっかく。一刻も早く下船しないと衰弱死してしまいそうだ。でもキャビンにいるよりは気がらくだった。死の漂流を味わわされ、救助されたと思ったら、船長をはじめ見ず知らずの他人とそれこそひざを突き合わせ、いちいち気をつかわねばならない。あげくのはてにゲロまで吐きかけられる始末だ。なにより船長の根深い疑念から逃れつづけねばならない。

 会社にいたほうがずっとましだ。

 三十年も勤めているから、職場の連中のことならすみからすみまで知っているし、向こうは向こうで紀子がどんな人間かよく理解している。おたがい防衛線みたいなものがあって、けっしてそれを侵害しないよう間合いをはかる習性を身につけている。

 いつのまにか紀子はベンチに身を横たえていた。風が心地いい。なにより一人でいられるのがありがたい。キャビンにいるよりずっとリラックスできた。このままここで眠ってしまおうか。弥生のことが心配だったが、彼女はまだ目を覚ますまい。紀子はひざを立てて仰向けになり、Tシャツをまくりあげて右の手のひらをへそのうえにじかにあてがった。

 じんわりとした温かみがおなかに広がる。それに応じて気分が持ち直してくる。海に流されているよりはましだが、悲惨な状況に変わりない。だったらモロカイ島に到着するまでの間、すこしでも現実逃避したかった。紀子は目を閉じた。

 男。

 食欲が失せたいま、やっぱり性欲か。でもあの男のことは考えたくなかった。窮地に陥ったいま、浅川に思いをはせるなんて悔しいではないか。だったらほかにだれがいる? 紀子は若い男にはあまり興味がないから、すぐには頭に浮かばなかった。

 ふむ、しいて言うなら向井くんか。

 現場で委託しているケータリングサービスの新人だ。といっても前任者のことなど、顔すら思いだせない。気がついたらすらりと背が高くて愛想のいい青年が、スタジオの前室にお弁当を運びいれていたのだ。デスクの女の子によれば、あのケータリング会社はおもに都心の外資系企業向けにサービスを行っていて、前任者も英語がぺらぺらみたいとかいう話だった。きっと向井くんもおなじぐらい語学が得意なのだろう。一度も口をきいたことはないが、聡明な印象があった。だからまさかあの会社の社員ではあるまい。腰かけのバイトで、届け先の企業をあれこれ品定めしている就活生。イメージとしてはそんな感じだった。彼ならうちの会社に来ても使えるだろう。自分のルックスには自信があるにちがいない。あわよくばタレントや俳優なんてことも考えているかもしれない。それも悪くないわね。でも語学力を生かすならキャスターとかどうかしら。紀子は勝手に想像した。

 誘惑しちゃおうかな。

 どんよりとした空を見つめながら紀子はひきつった笑みを浮かべた。報道のプロデューサーが女子アナに手を出すのは日常茶飯事だし、例の広報局長の森本は社長を右手で転がしながら、左手で新人記者の男の子をつまみ食いしたといううわさだ。向井くんは社外の人間だし、若いふつうの男の子だ。年上の女にだってそれなりに興味はあるだろうから、一夜をともにしたところ被害者づらをされることもなかろう。だからばれるはずがない。食事をして、しこたまワインを飲ませて、そのままホテルへゴー! 場末のラブホテルはよして。かといって汐留のコンラッドを取るほどでもないか。高輪プリンスかウェスティン恵比寿あたりを予約しておけばいい。ケータリングの会社だから、そういうところに出入りがあるかもしれないけど、泊ったことはあるまい。それもセックスを愉しむだけの目的で。ところで彼、激しいかな……? くだらない妄想だったが、たしかにすこしは気分がよくなった。

「倉木……さん……」

 いきなり声をかけられ、ぎくりとして目を開けた。頭のわきに女が立っている。

 弥生だ。

 紀子はとっさにキャビンを振り返った。カレンがこちらをにらみ返しているわけではなかった。肉づきのいい背中を丸め、相変わらず波と闘っている。それでも紀子は粗相を叱責するように訊ねた。「トコちゃん、もしかして、あんた――」

 弥生は首をすくめ、神経質に小さくかぶりを振った。十時過ぎだった。自力で船にあがってきたときよりも顔に赤みが差している。手にしたペットボトルにはまだ水が残っている。「落ちちゃったんです」

「落ちた?」

「船が揺れて床に」

「だいじょうぶなの」

「痛いです。頭打ちました」ばかでのろまだが、愛嬌だけが取り柄だった。それをすこしは取りもどしていた。それでも目には疲労と困惑が広がっている。「これ、どうぞ」ペットボトルを差しだしてくる。

「それ、あなたのよ」

「いえ、分けましょう、クラ……いえ“ナカイさん”」

「よしてよ。ほかの人がいないときは、いつものとおりでいいわ。だけどお水、いいの……?」訊ねつつも紀子はボトルを受け取り、キャップを開けていた。

 おいしい。

 こんなにおいしい水は味わったことがない。しかし調子に乗ってるとぜんぶ飲んでしまいそうだった。ふた口だけ飲んで、弥生に返した。「ぐっすり眠っていたようね」

「そうでもないです。半分起きてました。てゆうか起きちゃいました」

「あら、ごめんなさい」弥生は用足しに来たのだ。それで紀子になかに入ってもらいたいというわけか。紀子はあわてて腰をあげた。

「いえ、そうじゃなくて。すわってもいいですか」弥生はベンチを指さした。

 紀子はバスタオルを巻いた尻をベンチの端にずらし、弥生が腰かけられるようスペースをつくった。

「こっちのほうが気持ちいいですね。てゆうか、なかはちょっと」両手を頭上に掲げて伸びをしてから、弥生は声をひそめて言った。

「あそこで吐くのはまずいよね」

「においがこもっちゃって、こっちが気持ち悪くなるんですよ」そこで弥生は顔を近づけてきた。「で、あの……倉木さん――」

 紀子はもう一度キャビンを振り返り、スライドドアが完全に閉じていることを確認した。エンジンと波の音もある。こんどは紀子のほうで弥生の耳元に顔を近づけて言った。「どうしてわたしが名乗れないか知りたいんでしょ」

 弥生は船の後方にあがる波しぶきを見やりながら小さくうなずいた。

「こんな偶然、わたしだってありえないと思ってるわ。だけどいまはどこにも逃げ場がないじゃない。だから緊急避難なのよ」

「ぜんぜんわかんないです」

 紀子は喉にたまっていた唾を飲みくだし、話しだした。「あんた、知ってるかしら。三か月ぐらい前にひどいクレーマーが会社に押しかけてきた話。娘が自殺したのはうちの局のせいだって文句つけてきたってやつ」紀子は本能的に肝心の部分をオブラートに包んだが、ADとして現場に二十四時間拘束され、そこで起きるあらゆる“事件”を見聞きしている弥生には通用しなかった。

「リポーターのオーディションの話ですか。ひどいこと言われたとかなんとか」倉木さんに――。さすがにそれを口にするほどの度胸は弥生にはなかった。

「そのクレーマーなんじゃないかって」

「もしかして……船長がですか」

 紀子はゆっくりとうなずいた。「トコちゃんが来てからはやっていないけど、ものすごいいきおいで鼻をすすったの。その感じが視聴者センターで録音したものとそっくりだったのよ」

「そんなのでわかるんですか」

「気のせいかもしれないけど、怖いくらい似ていたの。それと従業員の娘のことを話していたでしょ。モデルをしていて日本でも仕事をしているとか。三か月前、オーディション受けに来たのは、ハワイ出身の日系四世なのよ。船長はキャサリン・ヒルダって言ってたわ。ヒルダって苗字は、たしかにうちの総務がまとめた資料にも書いてあった。おぼえているわ」

「遠まわしに自分の娘のことを言ってるんですかね」

「あの人、足を引きずってるでしょう。アイリーンはエビ殻の粉砕機に足を突っこんで大けがを負った。そんなことも話していたわ。自分のことなのね」

「なんで本人だって名乗らないんですかね。自殺した娘の母親は自分だって」

「たぶん確信が持てないのよ。わたしの顔写真はまだネットに出ていないみたいだから」エゴサーチなら紀子はしょっちゅうやっている。その点は揺らぎなかった。「トコちゃん、船の操縦なんてできる?」

「ぜんぜんです」

「ボート漕ぐのとはわけがちがうのよ。いまはあの人が船を操縦しているんだし、水だってあの人に頼まないと出てこない。だからあえて自分から敵役を名乗りでる必要はないわ」

「地下鉄に飛びこんだんでしたっけ、その子」

 あからさまに訊ねられ紀子は顔をしかめた。どうしたってキャビンのほうが気になる。カレン、いやアイリーン・蛭田が立ち聞きしているのではないか。ちらりと振り向いてみたが、スライドドアは閉まったままだったし、船長は操縦席に着いたままだった。

「さすがトコちゃんね」いやみのように言った。こんなうわさ話ばかり詳しくてどうする。もちろんそれもADの資質だけどね。でもこの子、どこまで知っているんだろう。「オーディションと自殺に因果関係はないわ。会社でもちゃんと調査したのよ。わたしなんてみっちり事情聴取されたんだから」

「だけどそれがあの人に通用するかわかりませんよね」

「だからなの。あともうちょっとでしょ、港に着くまで。それまでわたしはあのカレー屋の宣伝部長を通すわ。船を下りたらもう無関係だから」

「お礼とかしないでいいんですか。たすけてくれたんだし」

 紀子はかちんときた。CPに口答えしてくるなんて。「そういうのは会社が考えることよ」あんたはわたしの言うこと聞いてればいいの。

「エリさんって何歳ですかね」弥生は話を変えた。

「二十歳そこそこじゃないかしら」

「ほんとにモデルなんですかね。なんか品がないですよね」エリの話をいぶかっている。

「自称モデルならごまんといるじゃない」

「ですよね」弥生は肩をすくめた。「でもスタイルとかもすごくいいし、顔だちもかわいい。育ちもいいんでしょうね」

「どうせお金持ちの娘なんでしょ。甘やかされて育ったんだわ」紀子はぐるりと首を回した。恐ろしいほど凝っている。肩も首もセメントで固めたようだ。海で何時間も漂流したせいだ。たとえライフベストを着ていても、荒波のなかで息を継ぐためには全身の筋肉をフルに使わねばならなかったのだ。

「なんか、こんなふうになってまで、他人のいやなところを目の当たりにさせられるなんて、ちょっと……」

「やりきれないわね」紀子が言葉を継ぐと、弥生はだまってうなずいた。「でもあとすこしの辛抱よ。島に着いたらわたしはさっさとホノルルにもどるわ。できれば飛行機でね。船はもうこりごりだわ」

 弥生は答えるかわりにベンチから腰を上げて、遠くのなにかを探すように船の周囲に目をやった。「モロカイ島って遠いんですか」

 紀子は腕時計を見た。十時半だった。カレンの言うことが本当ならモロカイ島に到着しているころだ。それがいくら目を凝らしても島影ひとつ見えやしない。それでも紀子はこれ以上余計な心配は背負いこみたくなかった。「もうすぐなんじゃないかしら」

「モロカイ島ってオアフ島のすぐ隣なんですよね」紀子の頭にはないハワイ州の地図がADにはインプットされているようだった。

「詳しいのね」

「いちおうADですから。リサーチしました。こんなに遠かったかなぁ。島影ぐらい見えてきてもおかしくないと思うんですけど」

「たしかにそうね」紀子は空をあおいだ。曇っているがだいたいの太陽の位置ならわかる。「方角的には南東に向かっているのかしらね。それってモロカイ島があるほうなのかしら」

「だと思います」弥生は紀子のほうに顔を近づけてきた。「あっちでもその話をしていました。GPSを設定してあるから、それにしたがえばだれが操縦しても着くって言うんです」

「カレンさんが」

「はい、そうです。カレンさんがそう言うんです」

「じゃあ、GPSの設定がまちがっているのかしら」

 弥生は首をかしげ、しばらく思案してからさらに声をひそめて告げた。「なんかいやな予感がしちゃって」

 古い油で揚げた天ぷらを食べたあとのような重苦しさが胃の底に広がった。弥生がなにを言いたいか紀子にも理解できた。「まさか。わざと船をちがう方角に走らせているっていうの。わたしのせいで?」

「わかんないです。でもこれだけ時間がたっているのに着かないのって」

「そうだけど、船の速度とかもあるかもしれないし……」自分で口にして説得力のなさにめまいがした。「だけどトコちゃんの言うとおりかもしれない。ちょっと意地悪したい気持ちになったのかしら」

「ちょっとならいいんですけど」げんなりした声で弥生が漏らした。

「よしてよ。あんた、わたしが悪いって言いたいの」

「ぜんぜん、ぜんぜん。すみません」いつもの調子であたふたと弁解をはじめた。

「いいこと、トコちゃん。ここを乗り切れるかどうかが、生きるか死ぬかの分かれ目かもしれないわ」

「マジですか。そこまでですかね」

「いつだって最悪のケースを想定しておけば失敗はないわ。わたしの仕事はいつもそう。出演者の急なキャンセル、スポンサーのクレーム、それに数字。いいことなんて一つもありゃしない。そういうのを覚悟して乗り切るの。そう、まさに乗り切るのよ。ここでもそうなんだからね」

「了解です」弥生は背筋をのばして言った。

「あんた、うちのチームに入ってどれくらいになるのかしら」

「おととしのいまごろ派遣されてきました」

「その前はなにしてたの」

「福祉関係です」

「福祉……? この業界にいたんじゃないの」

「へへ、転職組です」

「あんた、いまいくつ?」

「三十になりました」

 紀子は記憶をたどった。三十歳は入社して八年目、もうとっくにラインのプロデューサーになっていた。もちろん浅川の後押しもあったのだが。

「きつくない? 三十歳でこの仕事。もしかして先輩ADってみんな年下なんじゃないの」

「そうです。でもしかたないです。雇ってくれるのいまの会社しかなかったから」

「どこだっけ」

「ゼットンって知ってます?」

「へえ」本来なら知っていないとまずかったが、正直、聞いたことがなかったので生返事でごまかした。

「福祉の仕事は長かったのかしら」

「まあまあかな。六年弱です」

「どんな感じの仕事」

「老人ホームのパートです」

「肉体的にどうだったの?」

「けっこうきつかったです。だからADもできるかなって」

「あんたねぇ……」それ以上は紀子も言わなかった。まったくいまどきの子だ。将来を見据えてじっくりなにかに取り組むなんてことは考えもしない。いつだって刹那的にその場しのぎで動こうとする。とはいえ紀子とは人種がちがうのだからしょうがない。「だけどもしこの場を乗り切るのに協力してくれたら、AP(アシスタント・プロデューサー)にしてあげる」率直なところ、この子にディレクターは無理だ。せいぜい現場からデスクワークに切り替えてやって、不毛をきわめる編成打ち合わせの発言録でもまとめさせればいい。それもAPの重要な仕事だし、給料だってちょっとはあがるだろう。月に二千円ぐらい。

「マジですか。わかりました。がんばります」

「がんばることはないわ。だまっていてくれたらいいの。あんた、口を開けたらわたしの苗字を言ってしまいそうだから」

「口にチャックですね。でもやっぱり……喉渇きますね」弥生は空になったペットボトルを見つめた。

 紀子も急激に渇きをおぼえた。まるで一瞬にして全身の水分が消失したかのようで、脳の血管が詰まっている感じさえする。船がバウンドし、ベンチのある右舷から波しぶきが頬に飛んできた。皮肉なものだ。海水ならいくらもあるというのに。しかしそれをひとたび口にすれば、かえって渇きが増すし、癒しをさらに海に求めるなら、数時間で腎障害を引き起こす。

「水はないわけじゃないのよ。下にタンクがあるって言ってたもの」

「勝手に持ってくるわけにいかないですよね」弥生はうつむいた。

「そうねぇ」弥生の隣で紀子も背を丸めた。「へたなことはしないほうがいいわ。けど限界までがまんしたらおねがいする。きっと頼めば持ってきてくれるわよ」弥生を励ますように紀子は言った。

「それまでがまんするしかないですね」

 いつしか顔に雨がかかるようになっていた。それがみるみる大粒になっていく。空はさきほどよりも暗く、ずっと低くなっていた。紀子はキャビンを振り返り、その先に広がる海に目をやった。後部デッキにいるからわからなかったが、巨大な丸太のようなうねりがつぎつぎと押し寄せてくる。強まりつつある風に向かって走っているのだ。

 嵐がくる。

 うんざりする予感がした。

 島影はあいかわらず見えないし、視界自体がかすみだしている。いくら目を凝らしても鈍色の海、死の世界が広がっているだけだった。

 二人はベンチから腰をあげ、キャビンにもどった。それが合図となったかのように船の揺れが激しくなった。速度はそれほどでもないが、波が高い。ジェットコースターに乗せられたようだった。カレンは操縦席で口をへの字に曲げ、ステアリングを握りしめている。紀子も弥生も立っていられなかった。倒れこむようにソファに腰をおろし、固定式のテーブルの端をつかんだ。

 階下で大きな音がたてつづけに起こった。なにかが倒れたようだった。カレンが大きく舌打ちした。



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