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デッキ  作者: 根本起男&黒岩研


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一~四

一

 二十四時間、遠心分離器にかけられて身も心もズタボロになりながら、ようやくここまで上りつめてきた。もうへとへとだった。チーフ・プロデューサー(CP)なんて名ばかりだ。ろくな企画が出てこないディレクター連中に、カネをむしり取ることしか頭にない事務所。考えるだけでうんざりする。倉木紀子は温かな水のなかをゆらりゆらりと流されながら、ぼんやりと頭に浮かぶ霞をつかみ取ろうとしていた。

 それでいて男にはだまされる。

 十三年間、へたな道化をよろこんで演じていた。弄ばれただけなのだ。自己嫌悪に押しつぶされそうだった。だから紀子は心の底でずっとねがってきた。こんなふうにだれもいないリゾートの海にゴムボートを浮かべ、そのうえで大の字になっていつまでもずっと、何時間も、降り注ぐ陽射しを浴びながら頭のなかをからっぽにすることを。心と体に痛いほどに刻まれたあらゆるしがらみから切り離されることを。

 コバルトブルーの一部になることを。

 遠くで鳥が鳴いている。まるでだれかの悲鳴のようだったが、頭のなかでずっとめぐっているあの男の声をまぎらわせるには好都合だ。もうもどるつもりはない。これからは毎日、森の恵みと清冽な涌き水で暮らしていくのだ――。

 母なる海の巨大な腕に抱えあげられ、体がふわりと浮かびあがる。両腕を開き、振り落とされまいとゴムボートの端をつかもうとする。だがなにもつかめない。指先はひんやりとした水面をいたずらにたたく。違和感をおぼえ、目を開ける。

 闇が広がっていた。

 穏やかな海は一変し、轟音とともに紀子の体を波に巻きこみ、激しくツイストさせた。大量の海水が口と鼻に容赦なく流れこんでくる。

 暗転しただけじゃなかった。全身の知覚が目をさまし、紀子は全身で恐ろしいほどの寒気を感じ取った。

 夢を見ていたのはほんの数分か、それとも一、二秒間だったかもしれない。紀子はショルダー バッグをたしかめた。

 ない。

 右肩に引っかけていたバッグが消えている。左肩も探ってみたが、胸元の留め具が壊れて羽のようにひらひらとするライフベストに触れただけだった。

 パスポートはホテルの金庫にしまってきたが、バッグには、現金とクレジットカード、日本の運転免許証を入れた財布とカメラ、それにスマホが入っていた。お金のたぐいはなんとかなるが、スマホに登録してあった千件近い電話帳を失ってしまった。バックアップなんかしていない。これじゃもう仕事ができない。仕事だけじゃない。

 人としてなんにもできない。

 ショックが頭に広がった途端、本当の意味で紀子は世界から切り離され、漂流していることを痛感した。手のひらサイズの小さな機械がわたしの人生をつかさどっていたのだ。こんなことなら皮膚を切り裂いて体に埋めこんでおくべきだった。メーカーはどうしてそういうことを考えないのかしら。使いもしないアプリばっかり搭載しないで。

 絶望的な妄想を波の一撃が破った。海水が喉に飛びこみ、むせかえる。

 遭難から何時間が過ぎたのだろう。

 頼みの綱はライフベストだった。いまの紀子には脚をばたつかせて、自力で海面に浮かんでいられるだけの体力なんて残っていない。まだ雨が降っていた。ハリケーンで荒れた波間にいるので判然としないが、かなり大粒だ。荒れ狂う波の咆哮のなか、そう遠くないどこかでふたたび鳥が鳴いた。流木にしがみつきながら、たすけをもとめている。だけど、あんたの面倒を見られるだけのゆとりは、残念ながらいまのわたしにはない。いえ、待って。鳥じゃないみたい。もうすこし高等な歌声に聞こえないかしら。そうよ。いてもおかしくないわ。だってここ、ハワイなんだもん。

 イルカ。

 そうよ。そうにきまってるわ。よく聞くじゃない聞かないかな?――イルカが人をたすけるって話。ディスカバリーチャンネルあたりから買ってきたフッテージのなかに、そんなようなエピソードなかったかしら。それをいま、実体験している。

 すぐそばでなにかがぴしゃりと跳ねた。波の逆巻く轟々たる響きとはちがう。いうなれば巨大魚が水面に顔をのぞかせ、肉厚の胸びれをひるがえしたときのような。そばにいるのかしら。紀子は真闇のなかで身構えた。イルカなら背びれにしがみつけばいい。イルカに人をたすける習性があると妄信し、紀子は大いなるシミュレーションを開始した。

 ディナークルーズ船が沈んだのは、紀子たち撮影チームがハワイに到着して二日目、七月二十四日の出来事だった。サンセットなんてとてもでないが拝めるはずのない悪天候のなか、アロハタワーのある港を出港して一時間ほどしたときだった。今夜は、シェフが肉を焦がしすぎたにちがいない。だれもがそう思うようなにおいがキャビンに漂いだしてから五分ほどして、リゾートにはおよそふさわしくないけたたましいサイレンが鳴り響いた。それからは早かった。すぐに足元が傾きだしてキャビンは騒然となり、泣き叫ぶ声があちこちであがった。年配のクルーが、ライフベストを着用するようマイクで一度だけ乗客に英語で指示した。そのあとは、ほかのクルーたちにわめき散らすだけで、いったいどうすればいいのか、どこから逃げればいいのか、本当に逃げられるのか、乗客――ほとんどが日本人だった――にはさっぱりわからなかった。

 紀子たちはテーブルの下からライフベストをつかみだし、それをかぶってキャビンを出た。この手の船には必ず救命いかだが装備されている。紀子は、自分にそう言い聞かせて、強い雨が降りしきるデッキにあがり、それがありそうな場所を探した。腕時計を外し、モンベルのハーフパンツのジッパー付きポケットに突っこんだのはそのときだった。ブライトリングのダイバーズ。紀子はダイビングなんてやらないし、そもそも泳げない。だがマリンブルーの文字盤はクールだったし、なにより読みやすかったから、以前かかわった通販番組でわざわざごついメンズ用を衝動買いしてしまった。いまの状況を考えれば、本来の用途として底力を見せてもらうべきときだったが、それよりも紀子は金目のものが荒波の一撃で手首から外れてしまうことのほうを恐れた。三十万以上したからだ。

 記憶はそこまでだ。あとは気がついたら暗い海を漂っていた。たぶん船が沈みはじめ、一気に傾いて投げだされたのだろう。はじめのうちはまわりに人がいるのが見えたし、すぐ近くで悲鳴も聞こえた。遠くにホノルルの街の明かりがかすかに見えたような気もする。だが数分後には、だれもが船の沈没による大きな渦巻きに飲みこまれだした。

 ほかの人たちは……?

 あの渦に飲まれてしまったのだろうか。落ち着け。船のクルーズ時間はおよそ二時間半。もどるのはアロハタワーのあるホノルル港だから、陸地から最大限離れたとしても、さほどではあるまい。周囲を見まわしても波が高すぎて遠くが見えないが、いずれ街の明かりが確認できるはずだ。紀子はテレビ局員のくせに――それもキー局である東邦テレビの番組CPだというのに――ハワイを訪れるのははじめてだった。それでもワイキキ周辺の海が遠浅であることは知っていた。というか聞かされていた。おっさんになってからはじめたサーフィンに夢中になって、最近では毎年のようにワイキキにやって来る浅川竜馬、紀子に最低の貧乏くじを引かせた男の口から。

 だったら、だ。

 たったいま、目の前に姿をあらわしたフリッパーくんが、その知能の高さと人間への共感を大いにしめして、足がつくくらいの浅瀬まで紀子のことを引っ張っていってはくれまいか――。

 鳥の声が聞こえなくなっていた。

 さっきまであんなにはっきりと、それも近くで聞こえていたのに。暗闇のまっただなか、紀子はライフベストの浮力で波間に浮かびながら、体をこわばらせた。かろうじて残っていたアドレナリンがどっと脳からあふれだす。

 いる。

 目の前、うしろ、右にも左にも。それとも一匹が悠然と紀子のまわりを泳ぎながら、値踏みしているのだろうか。視界がきかぬなか、今夜何度目かの失禁を紀子は下半身におぼえた。歯の隙間から恐怖の吐息がとめどなく漏れていく。

 おねがいよ。

 もういちど、さっきの歌声、聴かせてちょうだい。浅瀬までエスコートしてもらおうなんて、虫がよすぎたわ。そんなこともう言わないから、たのむから高等哺乳類である証しをもう一度聴かせてもらえないかしら。まさかぜんぶ、わたしの幻聴だったなんて言わないで……。

 大波がふたたび体を持ちあげ、ジェットコースターのように冷たい海面を体が滑り落ちていったそのとき、右足に衝撃を受けた。紀子は短い悲鳴をあげた。大量の海水が喉に飛びこんでくる。なにか硬くてざらざらして、とても大きなものがスニーカーの甲の部分にぶつかったのだ。またしても失禁。紀子は海中で両ひざを持ちあげ、胎児のような格好をとった。

 もう鳥は鳴かない。

 すくなくとも紀子の耳には聞こえてこない。いくら待っても聞こえない。幻聴すら起きてくれない。よみがえってきたのは、こともあろうにもう記憶のかなたに消え去っていた動物バラエティーのワンシーンだった。若いころ、紀子がフロアディレクターとして制作に参加した番組で、たしか海でサメに襲われやすい人間の行動について、スタジオのタレントたちが回答するというものだった。いまの紀子は、その答えを体でしめしているのかもしれない。ほんのちょっと記憶をたどれば、それがはっきりしそうだったが、紀子は必死にちがうことを考えようとした。できることなら、さっきみたいに夢の世界にいざなわれたかった。たとえこの先一生、街の明かりを目にするのは無理だとしても。

 後頭部に硬いものが激突した。

 こんどの失禁は大便だった。そればかりか腸も胃も内臓そのものが、下痢といっしょに肛門からずるずると抜けでていってしまったかのようだった。紀子はパニックになって本能的に前に向かって泳ぎだした。

 つぎの瞬間、情報番組のロケの途中、軽井沢のアウトレットでしこたま買いこんできたブランドTシャツのうしろ襟がなにかに引っかかった。

「やめて!」

 声にならぬ声で紀子は叫んでいた。鋸のような歯がずらりと並ぶ巨大な下顎にTシャツの襟首がぶらさがっているようすが脳裏をかすめる。

 上半身が恐ろしいほどの力で後方に引っ張られた。

「やめ……!」

 紀子は泣きじゃくっていた。十中八九、コンマ何秒かのうちに体が暗い海に引きずりこまれる。そして――。

 体がさらに引っ張られた。

 上に向かって。

 突風と強い雨をもたらす暗い空のほうに向かって。

 波に引きあげられているわけじゃない。

 絶対的な恐怖のなか、小さな灯火のように頭の片隅でひらめいたとき、声が聞こえた。

「イッツ・オーケー! アイム・カレン!」

 鳥じゃない。

「≪《アイム・キャプテン・カレン》≫!」


二

 首根っこをつかまれて船に引きあげられ、動物園でゴリラの檻に落ちて引きずりまわされる幼児さながらになにひとつ抵抗できぬまま、デッキに放りだされた。それから何時間か、何分間か、何秒間か、紀子は意識を完全に失った。つぎに気づいたとき、住み慣れた白金のあのマンションにもどれたらどんなにしあわせだったことか。それでも紀子は硬い板のうえに横たわったまま、期せずしてすすり泣いた。命がたすかったという悦びが怒涛のように胸を突き上げ、胸椎にひびが入りそうだ。

 乾いたバスタオルが体に巻きついていた。

 あぁ、神さま……!

 想像を絶するほど長い時間、夜の海につかりすぎたせいで、体が半分になったみたいにちぢこまり、体温という体温が抜けきってしまった。それに船上といっても夜風はきつい。濡れた体からさらに体温を奪い取っていく。日中ならたった数分で痛いほどに肌が焼かれるというのに、いまは全身が死体のように冷たくなっている。スマホのバイブレーターを起動するモーターが体の芯にくっついたみたいに、ガタガタという震えがおさまらない。震えなんて生やさしいものではない。痙攣だ。全身の細胞という細胞が、命の炎を燃やそうと必死に体をこすりあわせている。

 ハワイ、ホノルル、地上の楽園。

 だれだ、そんなものを撮ろうなんて言いだしたのは。

 うそっぱちじゃない。

 船上?

 いったいわたしたちはだれにたすけられたのだ。死の淵からたすかったという絶対的安堵の前に思考が停止し、状況をそれ以上分析するのをこばんでいた。

 わたしたち?

 紀子はようやくそこまで把握できた。いまや毒舌オバタリアンと化した三十年前の元C級アイドルに、テレビ出演に熱心なあまり高座にめったに上がらない二世落語家。彼らのマネージャーだか、付き人だかの有象無象の連中。それに口ばかり達者でろくにインタビューもできない若僧社員ディレクターに、一社提供のスポンサーであるカレーチェーン店を代表してお目付け役として派遣された、いかにもやり手という雰囲気の女宣伝部長。そして彼女にコーヒーを出そうとして、緊張のあまりカレーの染み一つない純白のスカートの上で紙コップをひっくり返してしまった超そそっかしいADに、日本語をいっさい話さない地元の日系人スタッフが何人か――。薄暗がりで紀子はすばやく目を走らせた。

 三人だ。

 自分もふくめ、二畳ほどのデッキに三人が身を寄せながら横たわっている。雨があたらぬように差しかかる強化プラスチック製の庇(ひさし)から降り注ぐオレンジ色のダウンライトのなか、胎児のように手足を丸め、身を寄せ合っている。

 みんな女だ。

 しかしひと目で同行者でないとわかった。

 あの人たち、いったいどこに……。

 ホノルルに到着して二日目。朝から本格的な撮影に入り、今夜は十時過ぎまでぎっしりスケジュールが詰まっていた。下船したあとは、オン・ザ・ビーチのホテルのカクテルラウンジでマイ・タイをすするところを撮るはずだった。それがいまでは散り散りになり、救助されたかどうかもわからない。紀子は偶然にも九死に一生を得たが、いまだに暗黒の海を漂い、その懐にのみこまれてしまった者だっているだろう。

 考えたくなかった。

 地震の長周期振動のように揺れるデッキに横たわったまま、紀子はあらためて見まわした。ほかの三人も紀子同様、ライフベストをつけたままバスタオルにくるまれている。すすり泣きも聞こえる。救助された安堵が胸をかきむしっているのだろう。

 だがつぎの瞬間、紀子はぞっとした。

 心の裏面にこっそり貼りついていた遠い記憶の断片が、草むらのトカゲのようにいきなり顔をのぞかせたからだ。

 それは蓄膿症持ちが一分ごとにすするような鼻音だった。いったいどれほどの膿が副鼻腔に溜まっているのか想像するだけで身の毛がよだつ。それほど生々しく、水っぽかった。忘れかけていた記憶がかきむしられたのは、そのせいだけではない。鼻をすすりあげたあと、窒息状態から息を吹き返したかのように短く咳きこんだのだ。

 ふだんはめったにいかない総務局の会議室に紀子はいた。そこでおよそテレビの制作現場には不似合いなスーツにネクタイ姿の若い男が目にもとまらぬ速度でパソコンを操作し、視聴者センターにかかってきた電話を再生しはじめる。電話の主は女だった。乱暴でろれつの回らぬ口調でまくしたてる。十中八九、酔っぱらっていた。午前十時過ぎでもこの手の電話はめずらしくないという。番組内容やアナウンサーの言葉遣いへのクレーム、それに出演タレントへの個人的な意見――言いがかり――がほとんどだが、なかにはジャーナリズムの一翼を担う民間放送としての見識を正面から問うてくるものもある。だがこのときはちがった。だからひょろりと背の高い総務の青二才が、かつて視聴率の女王と言われ、秋の人事ではテレビ東邦初の女性編成局長に抜てきされんとしている局次長待遇のCPさまを呼びつけたというわけだ。

 娘が自殺したのは、その女のせいなんだよ――。

 電話に向かって逆上しているせいか、よく聞き取れないところがほとんどだったが、何度も繰り返されたそのフレーズだけは、だれの耳にも残った。そして直後にきまって鼻をすすり、咳きこむのだ。

 若い女がデッキにそのまま吐いていた。船が傾くと、それが紀子のほうに流れてくる。紀子は身をよじってよけた。自分もそうだったにちがいない。いったいどれほどの海水を飲んだのか。思いだしたくもなかった。女はげえげえ吐きながら鼻水も盛大にすすったが、どうも感じがちがう。それに青二才のリポートでは、クレーマー女――テレビ東邦では、総務と紀子の間でセッションを繰り返したのち、そのお客さまのことをそう呼ぶことにした――は、六本木本社の受付に乗りこんできたこともあるのだが、防犯カメラの映像を見るかぎり四十代以上の風体とのことだった。こんなことならそれを紀子もひと目見ておけばよかったが、そのときは多忙を極め、一刻も早く現場にもどりたくて気もそぞろだったのだ。なにしろ女子アナあがりの同期の広報局長の森本清子がスポーツ紙の記者を引き連れて、えらそうにスタジオ見学会をおこなう段取りになっていたからだ。社長の妾と言われるそんな女狐に収録の進行をじゃまされるいわれはなかった。紀子はそのころ抱えていた御しがたい心のもやもやも手伝って、なんとしても広報局ご一行さまをスタジオ前室で阻止したい悪意に駆られ、スーツがおそろしく不似合いな電信柱を無視して会議室を飛びだしてしまっていた。

 疲労と寒さとはちがう理由から、紀子は身をこわばらせた。名前はなんだったっけ……? めずらしい苗字だったような気がするが、記憶を必死にたどってもぜんぜん思いだせない。それもあの女狐局長のせいだ。あいつさえいなければ、もっとまじめにあのひょうたん小僧の話に耳を傾けただろうし、そもそも編成局長レースなんてものも起きなかった。紀子が出世して、女狐は田舎の系列局に葬り去る。それでよかったのだ。

 紀子の隣に横たわっていたのは、六十代かそれ以上とおぼしき白髪の女だった。片方の靴が脱げている。紀子は自分の足元をたしかめた。きつめにひもを締めあげるくせが功を奏したのか、スニーカーはどっちもしっかり履いたままだった。ぐちょぐちょに濡れたままで、すぐにも脱ぎたかったが、結び目は依然として固く結ばれ、かえってほどけないくらいだ。ハーフパンツのポケットに手をやると、硬い感触が返ってきた。腕時計はだいじょうぶなようだ。

 紀子は体を起こした。途端に激しいめまいに襲われ、デッキに手をついた。命綱ともいうべき端末を失ったショックのせいばかりでない。限界まで肉体が疲労し、全身が鉛と化していた。耐えがたいだるさに横になりたい衝動をおぼえたが、それをこらえて薄ぼんやりとした世界に焦点を合わせてみる。いったいクルーズ船の沈没から何時間たったのだろう。東の空がわずかに明るくなっている。自分たちがいるのは船の後方部分。反対側には居心地のよさそうなキャビンと操縦席があり、風防ガラスの向こうにシロナガスクジラの頭部のような船首が青白くぼうっと浮かびあがっている。全長十メートルほど。幅は四メートルぐらいだろうか。漁船でも沿岸警備隊の警備艇でもなさそうだ。しいていうなら、かつて紀子もアシスタントディレクターとして参加した松方弘樹の釣り番組で使ったのとおなじタイプのクルーザーだ。

「気がついたかしら」波音の合間から声がした。頭上からだった。女の声だ。「大きなけがはしていないようだけど、どうかしら」たすけてくれた人らしい。視聴者センターで録音されたわめき声とはちがう。

 紀子は船の構造なんてよくわからない。松方弘樹の番組のときだって、先方の事務所の連中に言われるがままだったし、なによりすぐに船酔いになり、船べりから海面ばかり見つめてすごすという地獄の体験だった。クルーザーなんて、モーターボートに毛が生えた程度のひどい乗り物だってことぐらいの印象しかない。それでも二階建ての構造にはおぼえがある。波のうねりの向こうを見わたしながら操船できるよう二階の高い位置に第二の操縦席が配置されているのだ。アッパーヘルムステーションというやつだ。女の声はそっちから聞こえた。

「そろそろキャビンに入りましょうか。寒いでしょう」アッパーヘルムステーションにあがる階段が紀子の右手からのびていた。そこにデリカテッセンで売っているロースハムの塊のようなふくらはぎが二つ、にゅっと出現した。近づいてきたせいで女の声がはっきりと聞き取れる。野太く、ざらついた声で、怖いものなしって感じだった。

 太めの体が紀子の真横に立ったとき、疑問が解けた。根津の路地裏で朝顔に水をやっているおばちゃんのような顔をしていた。紀子とおなじ旅行者かもしれない。ホノルルで船をレンタルできる金持ちならごまんといるだろう。首から防水らしきビニールパックに入れたスマホをさげている。思いきって紀子は訊ねた。「日本の方ですか」

「日系三世よ。カフクでエビの養殖場をやっているの」茶に染めたおかっぱ頭は、ぜい肉のつきすぎた顔といちじるしく不釣り合いだった。でもつぶれた鼻に、いまにもこちらに飛びだしてきそうなほどのぎょろりとした目は、十六対九の画角で切り取ったらインパクトがありそうだ。これほどの窮地に陥りながらも、紀子は放送現場に長らく身を置く者の性(さが)で直感的に算段していた。

「カフク……?」

「あら、ごぞんじない?」ハの字形の太い眉をひそめると、本当にその間のぜい肉がひと筋、ぷっくりと盛りあがった。昭和の漫画キャラクターみたいだった。「もっと宣伝しないといけないわね。ガーリック・シュリンプとかホノルルでもワゴンで売ってるでしょ。ノースショアから東にちょっと下りたところ。養殖場だらけよ。そのなかのひとつ。カフク・リアル・シュリンプ。もう三十年近くやっているわ。日本のハワイ本に載ったことだってあるの。路線バスからも見えるところよ」

 ガーリック・シュリンプ――。

 それならホノルル空港到着前に機内誌で読んだような気がする。ぷりっぷりのエビをガーリックバターでソテーして、レモン汁かなにかをかけて食べるやつだ。紀子も甲殻類は大好きだし、聞いただけでよだれが出そうなレシピだった。でも奇跡的に救助されたばかりのいま、カフク名物に思いをはせる気にはなれなかった。

 相手もそれに気づいた。「でもあなたたちが来ることはなさそうね。とんだ目に遭ったんだから。もしこれがはじめてのハワイなら最低最悪の第一印象ね。残念だけど」ふたたび太い眉をひそめる。わざわざ手入れして細くしたら、天賦の生命力がそがれるとでも思っているのだろうか。剛毛が伸び放題で、ある意味、潔ささえ感じた。

 紀子はその場にあぐらをかき、キャビンを振り返った。開放されたスライドドアの向こうは薄暗かったが、左右に機能的なソファが広がり、床はチーク材かなにかがはってあるようだった。なによりいまいる場所よりずっと乾いている。

「あっちへいきましょう」遭難者たちをうながした。幼稚園の園長先生のような穏やかで包容力のある声音だった。懸念はもうどこかに消えてしまっていた。あれは恐怖の体験が生みだした幻聴のようだった。

 ほかの二人もいつしか体を起こし、怖々とライフベストを羽織ったまま、たがいのことに目を走らせていた。一人はもんぺのような黒のスラックスに水色のブラウスの年寄り。もう一人はブルーのタンクトップを着たスタイルのいい若い子だった。二人ともあの船から流れ着いてきたのだろう。雨は降りつづけていたが、風はやみ、波もさほど高くはない。紀子はアッパーヘルムステーションに上る階段に手をついて立ちあがろうとした。

 船が揺れたわけでもないのに転倒した。あろうことか年寄りの骨ばった腰に尻もちをついてしまった。老女が雌鶏が鳴くような短い悲鳴をあげる。

「気をつけて。思っている以上に体力を消耗しているから。四つん這いになって進むといいわ」

 紀子は渋々言われたとおりにした。それでも体が思うように動かない。未体験のだるさだった。全身が疲労し、節々に乳酸が充満していた。つぎに転倒したら船外に転げ落ちそうだ。それを見透かしたように、三人の遭難者がキャビンに入ったのを確認すると、太めの女――船長だろう――もキャビンに入って来ていった。「深呼吸してごらんなさい。胸の奥に鈍い痛みが走るでしょう。ずっと海にいたんだからしょうがないわ。とりあえず船には引きあげたけど、低体温、脱水症状、免疫力の低下。はっきり言って生きて帰れる保証なんてないんだから。サバイバルはこれからよ。でもライフベストはもう脱いでもへいきだから」

 言われるがままに三人は命を救ってくれたライフベストを恐るおそる脱いだ。それを船長が回収して、頭上の棚に放りこむ。

 キャビンに明かりがともった。暖炉のある北国の別荘のような温かみのあるダウンライトだった。思ったより広いスペースだ。操縦席の背後にホテルのロビーにあるような高級ソファ――革張りに見えるが、濡れる宿命であることを考えれば合皮にちがいない――が並び、ゆうに六人は座れる。そのわきに液晶の大型テレビがあり、天井には、ボーズのスピーカーが四つもついている。残念ながら松方さんの船より高級に思えた。エビの買い付け業者でも招いてパーティーを開いているのだろう。操縦席のわきから船底に向かって階段が下りており、そちらにも居室があるようだった。後部デッキに出るスライドドアを閉じると海風の侵入が遮断され、居心地がよくなった。

 波は落ち着いていた。陸上にいるかのようだった。三人ともソファの背もたれに体をあずけた。紀子の隣に若い女が、向かいに年寄りが陣取っている。それにしてもひどいだるさだ。喉元から肛門まで消化管はよじれたままだし、脈打つたびにこめかみに鈍痛もおぼえる。それが妙なリズムとなって眠気を誘ってきた。

 午前五時半だった。

 日本時間なら夜の零時半。時差ぼけがつづいているから眠いのも当然だ。

 ホノルル港を出港した船から放りだされたのは、たしかこちらの時間で夜の九時ごろだった。あれから九時間近くが過ぎたとは。長時間におよぶ漂流の記憶がほとんどないのは、意識を失っていた時間が長いからだろうか。それともストレスを抱えきれずに脳がメモリーシステムをシャットダウンしてしまったのか。

「ありがとうございます」紀子は胸の鈍痛に気をつけながら口にした。あの時点で救助されていなかったらどうなったか。考えるだけでぞっとした。似たような痛みを胸におぼえたのは、小学校の水泳教室の帰り道以来だ。身長百六十五センチの紀子はいかにもスポーツ好きに見えるスレンダーな体型をしているが、それは父方からの遺伝のおかげであり、まったくの運動音痴である。水泳は平泳ぎで十メートル進むのがやっとだ。今回たすかったのはライフベストのおかげだった。「船に引きあげてもらったのって、どれくらい前の出来事なんですか。記憶が途切れ途切れになってしまって」

「四時間前ぐらいかしら。ほかの人たちもそんなものよ。みんな、死んだように眠っていた。ほかに漂流してくる人がいないか見極めていたの。そろそろ移動しようかと思っていたところ」船長は操縦席のわきに立ったまま、割れた爪でもたしかめるように左手の指を鼻先に近づけながら言った。ジッパーを胸まで締めた灰色のパーカーにスウェットパンツ姿で、日本のブランドとおぼしきデッキシューズを素足に履いていた。「どすんって音がしたの。クジラでもぶつかったのかしらってデッキに出たら、人がいたんで仰天したのよ。それが彼女――」船長は老人のほうに手を広げた。

 小柄な老女は背を丸めたまま、驚いたように目をあげた。

「神さまが味方したのよ。さてと」そう言って船長はスエットパンツのポケットから紙切れを取りだした。「あの船の事故が起きてからすぐに沿岸警備隊から連絡が入ったの。乗船名簿よ。いちおうみんなの名前をたしかめていいかしら。ええと――」

「見せてくれっかした」年寄りがきつい東北なまりで言うと、船長の手から紙切れをもぎ取った。「うん、ここにあるね。ヤスコ・フルモト」

 それを船長がのぞきこむ。「ヤスコさん」

「んだ。町内会の友だちといっしょに来たんだぁ。みんな、たすかったんだべか。心配だず」ぽつりと言う。

 青い顔をしてソファでぐったりとする若い女にヤスコは乗船名簿をまわした。ローマ字の名簿で、名前のわきにチェックがつけてあるものもある。それをぼんやりとした視線で追い、娘は指さした。ERI MISAWAと印字してある。「ミサワ・エリ……もうだめ……」声を上ずらせ、涙を流している。ショック状態がつづいているようだった。船長がテレビの下の棚から紙コップを取りだし、操縦席のうしろに設置したウォーターサーバーから水をくんでエリの口元に近づけた。エリはそれを力なくつかんでゆっくりと飲んだ。

 紀子も急に渇きをおぼえた。船長はにっこり微笑んで新しい紙コップを一人一人に渡してくれた。「みんな、着替えたほうがいいわね。風邪ひいちゃうわ。服を取ってくるから」右足をやや引きずりながら船長は階下におりていった。ロウアー・キャビンがあるようだ。

 乗船名簿がエリから紀子の手にわたった。百人以上の名前がアルファベットで印字してある。紀子はそれを上から順番に見ていった。チケットを購入した順番だろうか、アルファベット順ではなかった。撮影チームの面々の名前は下のほうに固まっていた。NORIKO KURAKIは、上から二番目にあった。

 船長がTシャツとバスタオルを手に階段のところに立っていた。「サイズが大きいかもしれないけど、気にしないで」

 ヤスコはそれを受け取り、堂々と着替えはじめた。体が冷えているのは事実だし、非常事態だから恥ずかしいなんて言ってられない。エリもこわごわと濡れた服を脱いだ。紀子は名簿をテーブルに置き、たるんだわき腹とへその右側に広がる大きな染みを見られぬよう注意して、すばやくシャツをまとった。乾いた生地が心地いい。バスタオルの腰巻きも冷えた下半身を温めてくれる。

「どうかしら」船長がのぞきこんできた。「見つかったかしら」テーブルに置いた名簿のことだった。

「あ、はい」紀子はふたたび名簿を手に取った。

「ええと、わたしはカレン・スギザキ。カレンって呼んでちょうだい」

 スギザキ……ちがう。会社の受付に押しかけてきたのは、そんなありふれた苗字じゃなかった。そう思った途端、胸の端っこにくすぶっていた不安が消え、安堵が大きなため息となって漏れた。

「あります、ここに、わたしの名前」紀子は自分の名前が印字された部分を指さして船長に見せた。

 老眼が始まっているらしく、カレン船長は乗船名簿をふんだくると、のけぞるようにして名簿を遠くから見つめた。「なかったらたいへんよ。タダ乗りしていたことになっちゃうからね」ヤスコたちのほうを振り返ってそう言うと、高らかに声をあげて笑った。それにつられて紀子も吹きだしてしまった。

 そのときだった。

 ふたたび幻聴がよみがえった。

 なわばりに侵入したハイカーを威嚇するイノシシのようだった。短く鼻を鳴らす音がキャビンに響き、つづいて咳きこんだのだ。

 幻聴じゃなかった。紀子のほうが信じられずにいただけだった。

 ありえない。

 こんな偶然がどこにある。紀子は気が遠くなりかけた。でも待って。あの総務のノッポが読みあげた記録にはなんと書いてあったかしら。ハワイ出身の日系四世のモデルがどうとかと記されていたのではなかったか。視聴者センターに電話をかけてきたイノシシ女は、その母親だと主張していた。ここはホノルル沖だ。だったらここに船を浮かべていてもおかしくない。もちろんそれとても恐ろしく低い確率だが。

 総務の若僧がパソコンで再生したあの声、そしていきおいよく鼻がすすられる――。

 本当にあれなのか。

 考えているひまはなかった。紀子はカレンのわきに並び立ち、さっき指差した乗船名簿の一行下に印字されている名前を読みあげた。財布を持たずにレストランで食事をしたあと、たばこを一服してくるふりをして店外に足を踏みだすときに必要とされる冷静さをたもちながら。「KANA NAKAI……ナカイ・カナ……です」スポンサーであるカレーチェーン店の宣伝部長だった。これから何十分か、何時間か。この名前で通すほかなかった。

 心臓は破裂寸前だった。


三

「レトルトだけどね」

 熱いスープを盆にのせ、カレンがロウアー・キャビンから上がってきた。極度の疲労感のなか、紀子はこれがぜんぶ夢であることをねがった。これまでの人生のなかでも最低の悪夢だ。だが味の濃いコンソメスープはじつにリアルで、認めがたかったがうまかった。縮こまった全身の細胞の一つ一つに急速にしみわたり、体が内側から温まっていく。

 でもやっぱり、ありえない。

 もし電話を借りられるのなら、会社の総務に電話して、ノッポの青二才くんを呼びだしているところだ。とにかくこの場は、およそカレー屋の脂まみれの厨房には似つかわしくないキャリアウーマンタイプのあの宣伝部長――たしかに年格好は紀子によく似ていた――になりきったうえで、ひたすらじっとして、どこでもいいから下船できるところに連れていってもらうまでだ。カレンという船長が本当にあのときの女――娘の自殺を他人のせいにしようとする母親――であるかなんてどうでもいい。いまは一刻も早く港に帰り、撮影チームの消息を確認するのがさきだ。

 エリは紀子の隣でスープをひと口すすると、あからさまに顔をしかめてボウルをテーブルに押しやった。口に合わないのか、そもそも食欲なんてないのかもしれない。そのままソファに横になってしまった。爪先が紀子にぶつかったが、エリは脚を引っこめもしなかった。現場のAD――とりわけコーヒーもろくに出せない床島弥生あたり――がそんなまねをしたらひっぱたいてやるところだ。

 紀子は横長のスタイリッシュな形をした窓の外に目をやった。雨もあがったようだ。視界がクリアになったせいか遠くに街の明かりらしきものが見えた。

「あっちがホノルルかしら」

「ええ」操縦席に腰かけてソファのほうを向いていたカレンは、身をかがめておなじ窓の外を見た。「そんなに離れていないわ。一時間もかからないくらい」

 ふぅ。

 それで安心した。スープのおかげもあり、すこしだけ元気が出てきた。船長の正体は不明だが、とにかくこれから港に向かってくれそうだった。港に着いたら沿岸警備隊とか警察とかの事情聴取を受けるだろうが、遅くとも昼前には解放されるはずだ。撮影チームの安否が気になる。あの船には救命ボートがついていたはずだ。みんなそれに乗りこんでくれていればいいが。行方不明者は出したくなかった。だれにも予想のつかない事故だからプロデューサーである自分のせいではないが、あとあとのことを考えると一人でも不明者がいると厄介だ。不幸中の幸いで、長年おなじ釜の飯を食べてきた仲間と呼べる者は一人もいない。東大出身で人を見下したような態度ばかり取る社員ディレクターにも、トンマが売りもののADの弥生にもみじんの同情も感じない。それに厳密に言えば弥生は、名前もよくわからない孫請けプロダクションの所属だ。毎日、あごで使っているものの、シンパシーはゼロだった。

 もっともそもそも紀子に“仲間”なんてものはいない。しいて言うなら、昔からたれぎみの乳房の内側で原子炉のようにかっかとしている異常なほどの負けん気――わかりやすく言うなら視聴率への執念――が、もはや腐れ縁とよべるほどになっているぐらいだった。紀子はスープをすすりながら冷たく微笑んだ。倉木紀子はすくなくとも会社に入ってからは、だれかを頼りにしたり、心の支えに思ったりするようなやわな生き方はしてこなかった。長年、不適切な関係をつづけたあの男とだって、こっちからきっぱり縁を切ったんだし。

「ナイトクルーズ船が沈没したんでしょう。ラジオで聞いたわ」カレンは興味津々に訊ねてきた。ヘリコプターが飛びかう音が聞こえる。捜索がつづいているようだ。「エンジンから出火したとか言ってたけど」

「あっというまだったよぉ」ずるずると音をたててスープをすすりながらヤスコが言った。骨ばった体にはカレンのシャツは大きすぎた。首をとおす穴から両肩がのぞいている。「なにがなんだかわがんねがったぁ。煙サ見えて大騒ぎになったと思ったら急に船が傾きおって。気がついたら海んなかサ、ドボンだべ。冷てえし、真っ暗だし、息ができねえし。いやいや、まんずこれでダメかと思っただよぉ。ほかの人たちのことが心配だぁ」なまりがきつい。東北弁だ。紀子は亡くなった母方の祖母を思いだした。山形の農家で、しゃべってることのほとんどが聞き取れず、いらいらするだけだった。

「ツアーだったの? ほとんどが日本人と中国人の団体客だって聞いたけど」

「町内会の婦人部の人たちだぁ。ぜんぶで八人。ビジネスクラスでいくハワイ・ホノルル七日間ってんだぁ。みんな、たすかったんならいいんだけどよぉ」ヤスコはさびそうに肩をすぼめ、両足をソファに引きあげて抱えた。靴は右足しか履いていない。安物の白いスニーカーだった。ソファに水が滴った。

「百四十人ぐらい乗船していたけど、救出されたのは三十人ぐらいみたい。でもそれも三時間ぐらい前の話だから、いまはもっと増えているかもしれない」

「だといいんだけど」ヤスコは肩を落とした。「こだなひどい目サ遭うとは思わねがった。みんな、田舎のばあちゃんさ。死ぬ前にいちどハワイにいきたいっていう人がおって、んだら、みんなでいこうかって計画たてたのさ」

「みんな、ビジネスクラスで?」

「んだ。ぜいたくすっぺやってな」ヤスコは自慢するように華奢な胸を張り、ついでに右手の人さし指と中指をたてて口もとに持っていった。「あんた、吸わねんだか?」

「あら、いやだ。たばこのことかしら。あいにくハワイじゃ、ロコはほとんど吸わないわ」

「ロコ……? なんだい、そりゃ。持ってねんだか? たばこ」

 悲しそうにカレンはかぶりを振る。ヤスコはいらついた目をした。たばこなら、さっきから紀子だってがまんしている。開き直った年寄りというのは節操がなくて困る。

「かまわねぇ。港サついたらたっぷり吸ってやっからよぉ。ところであんた、おれらの婦人会の人たちサどうなったか聞いてくれねえか、そのスマホでよぉ」ヤスコはカレンが首からさげる防水ケースをあごでしゃくった。

 ケースに入ったスマホを手に取り、カレンは肩をすくめた。「さっきからかけてるんだけど、つながりが悪いのよ。いまは船舶無線しかつかえないわ。気持ちはわかるけど、細かい話はもうすこし辛抱してもらえるとありがたいんだけど」

 ヤスコはむすっとした顔をした。

「ほんとにつながらないの?」紀子の隣、エリだった。レストランの客がウェイトレスにクレームをつけるような口ぶりだった。

「海のうえだから地上のようにはいかないのよ。天候のせいもあるし」カレンはスマホの画面をあらためてたしかめた。「まだダメね」

 エリは全員に聞こえるように舌打ちをしてから寝返りを打ち、カレンに背を向けた。

 カレンは窓から外を見やった。「これから本格的な捜索がはじまるんじゃないかしら。いくらヘリ飛ばしても夜の海じゃなんにも見えないもの。だけど行方不明者がかなり出るのはまちがいなさそうね」

 ヤスコが疲れきった声で言った。「たすけてもらわねがったら、どうなっていたかよぉ。サメが来るんじゃねえかって怖くってよ。いるべや、このへんも、ジョーズ」

「いないわよ」カレンは笑いをこらえるようにして言った。「サメなんていないわ」

「いねえ……?」

「ごめんなさいね。いないなんてことはだれにもわからないわ。たしかにいるかもしれない。だけど襲ってくることなんてないわ」

 紀子はキツネにつままれた気分だった。サメはどこにでもいる。“人喰い”ではないが、なんにでも喰らいつく。それが正しい知識だと思っていたからだ。

 ヤスコが訊ねる。「そうなんだか? 戦時中に夜の海で遭難者がサメに襲われたって話サ、聞いたことあるんだけどな」

「作り話よ、そんなの。だいいち夜の海なのにどうしてサメだってわかるの」カレンは吹きだすのをこらえるようにして言った。

 たしかにそうだ。何時間か前の漂流体験がそうだったではないか。体は激しく翻弄されつづけたが、視界のきかない真闇だった。

「それにね、むしろもっと小さくてふつうの顔した連中のほうがかじりついてくる。そっちのほうがずっと凶暴よ。数も多いし」カレンは操縦席から立ちあがり、ソファの空いたスペースに優に二人ぶんはありそうな尻をおろした。日系人でもアメリカンな食生活を送るとこうなるという見本のような女性だった。身長は紀子よりも小柄の百六十センチそこそこだが、体形は相撲取りのようで、パーカーに包まれた胴回りはバストをはるかに上まわり、裸を想像するのが恐ろしかった。「でもあの状況でいちばん怖いのは、海の生きものなんかじゃないわ。落雷よ。聞こえなかったかしら? あちこちに落ちていたでしょう」

 紀子はふたたび窓の外に目をやった。「波の音がすごかったから、ぜんぜん気がつかなかった」

 ヤスコもかぶりを振る。「稲妻なんてどこにも見えねがったよ。ずうっと真っ暗だったんでねえか」

「光ってたわよ」エリだった。ヤスコの隣で横になったままこちらを向いている。「ドーンって遠くに落ちるのも聞こえたもん」

「でしょ」カレンはエリに向かってうなずいた。「だから最初にしないといけないのは、体から金属を外すこと。でないと直撃を受けるわ。それで亡くなるケースがかなりあるの。溺死のつぎに多いんじゃないかしら」

「そだなことぜんぜん考えねがったよ。これもダメだべか」ヤスコは腕時計をカレンのほうに突きだした。文字盤は九時十分で停止している。それが海に放りだされた時刻なのだろう。

「一〇〇%アウトね。あなたはだいじょうぶ? 腕時計」

 さいわいにも紀子は、海に落ちる直前、腕時計をハーフパンツのポケットに突っこんでいた。そこに手をあてがいながら答える。「ここに入れておきましたから」

「さすがね。そこならずっと海のなかだから雷の落ちようがないわ」

「トイレはどこだべか」ヤスコが訊ねた。

 カレンはゆっくりと立ちあがった。「ごめんなさいね。トイレは下にあるんだけど。壊れてるの。きのうの夕方から詰まってしまっているのよ。もうしわけないけど、外でしてもらうしかないわ」

「なにそれ」エリが不服そうに言った。

「ごめんね」カレンはエリをいちべつした。「わたしは慣れてるからデッキから直接海にしちゃってるけど、あなたたちには無理ね。いまバケツ持ってくるから、それにして、終わったら海に流してちょうだい」

「外でするんだかぁ。そんならがまんするよぉ」ヤスコは飲みこむように言った。

「がまんしちゃだめよ。いちおうバケツだけは用意しておくから」そう言ってカレンは階下に下りていった。

「いやだよぉ、バケツにするなんて」ヤスコは声をひそめて不平をもらした。「もうこんなに明るいじゃないか」

「でもあと一時間ぐらいみたいじゃないですか」紀子が言った。じつのところ、紀子の膀胱も限界に近づいていた。大きいほうもふくめ、海中で放ってきたが、体が冷えているせいで膀胱が縮こまり、タンクの容量が半減しているのだ。「もうちょっとがまんすれば港に着くわ」それでこの落ち着かぬ状況からいっさい解放される。おしっこぐらいがまんできずにどうする。

 カレンが階段を上がってきた。紀子は唖然とした。バケツどころでない。洗面器だった。燦々と降りそそぐ朝の太陽のもと、デッキでそれにまたがる自分の姿を想像しただけで赤面した。カレンたちは最低限のエチケットを守ってくれたとしても、そばにほかの船が近づいてきたらどうなるだろう。

「上の操縦席にあがる階段の下に置いといたから、いつでも使ってちょうだい。紙もいっしょに置いといたわ」カレンは満面の笑みを見せた。まるで料理本片手に四苦八苦して作った料理を夫に絶賛された新米主婦のようだった。

「お水もらえるかしら」のっそりとエリが起き上がり、さも当然そうに要求した。茶に染めた長い髪は、海に浸かっていたせいでべっとりとしているが、小顔をひきたてていた。ぱっちりとした目元がくやしいくらい愛らしい。うちの局に出入りする安っぽいタレントにいそうなタイプだ。スポンサーの意向で今回のロケでブッキングされたあの毒舌オバタリアンも、かつてはこんな感じだった。「ねえ、喉渇いたんだけど」ホストクラブで飲み物を要求するようないいぐさだ。いまどきの小娘らしい図々しさだった。「もう死にそう。お水たくさん飲みたいの。ペットボトルとかないの」

 そんなエリにもカレンはにっこりと微笑み、ウォーターサーバーに近づいた。「あら、いやだ。ごめんなさい。タンクが空っぽよ」

「え、ないの。なにそれ」エリは抱えたひざをくずしてあぐらをかき、カレンをにらみつけた。酷薄な目つきに紀子は小娘の素性が垣間見えたような気がした。スタジオを出た途端にたばこに火をつけるタイプだ。あのオバタリアンもそうだ。ホテルは喫煙ルームを用意しろとうるさかった。全面禁煙のホテルでだ。

「ごめんね。アルコールならいくらでもあるんだけど」そう言ってカレンはサーバーの下にあるミニバーの扉を開けた。ウイスキーやラムの小瓶がぎっしりと詰まっている。「すこし飲んで気持ちをしずめたらどうかしら」カレンはさとすように言った。でも見たところビールがない。ビールなら喉の渇きをいやせるが、スピリッツとなるとかえって水がほしくなる。いまここで飛びつくわけにいくまい。

「お水がほしいのよ。そう言ってんでしょ」エリは口をとがらせた。「あんなにひどい目に遭ったのよ。もうくたくたなの。これ以上がまんできないわ」

「もうちょっとの辛抱よ」思わず紀子が口にした。「たすけてもらったんだし」

「いいわ。いま下から持ってきてあげる。新しいタンクがあるのよ。それでいいでしょ」

 救助者である船長がそうするのがさも当然と思っているかのように、エリは鼻を鳴らし、そっぽを向いてしまった。

 そのときだった。

 ヤスコがいきなり素っ頓狂な声をあげ、ソファからずり落ちた。視線の先を見て紀子も息をのんだ。スライドドアの向こう、船の後部デッキだった。

 全身ずぶ濡れの幽霊が立っていた。

 青白い顔はまさに死体のようだったが、うつろなまなざしでキャビンのようすをうかがっている。幽霊ではない。生きている。アジア系だ。短い髪は頭皮にへばりつき男の子かと思ったが、どうやら女のようだった。ジーンズのハーフパンツに白いTシャツをまとっている。

 カレンが駆け寄った。あの船の遭難者だ。自力で這いあがってきたのだ。

「カミン! カミン! アー・ユー・オール・ライト!?」デッキに飛びだすなり、カレンが叫んだ。

「ジャパニーズ……日本人です……≪《テレビ東邦の》≫……」かすれ声で発せられたその言葉を聞かずとも紀子にはその女が日本人であることはわかった。そればかりか彼女がどうしてそんな目に遭ったのかも。線の崩れはじめた体に張りついたTシャツの胸元にプリントされている絵柄にぴんときたのだ。燃え盛る炎のなかで一匹のウシガエルが逆さまになって焼かれている。それをうしろに並ぶ鼻の曲がった黒衣の老女たちが舌なめずりしながらながめている。趣味が悪いったらありゃしない。魔女のサバトを毎回のライブのテーマとするゴスロリバンドの会場で買ってきたと自慢していた。バンドのロゴは背中にべったりとプリントされている。見ないでもわかる。そんなTシャツを着ていた乗客なんて、沈没したあのクルーズ船には一人しかいない。断言できる。

 だから紀子もカレンにつづいた。いやらしいくらい口角がつりあがった口が余計なこと――“ナカイ・カナ”の正体――をしゃべりだす前に。正式には所属先でもないくせに、あたかも社員であるかのように口走ってしまったうちの会社の名前につづいて。

「よかった!!」

 ここぞとばかりにカレンを押しのけ、一生ディレクターには上がれない雑用専門の三番手ADに紀子は抱きついた。そしてカレンから見えないように注意して片手でその口を――なにかしでかすたびに首をすくめ、信じがたいほど口角を引きあげてごまかそうとするいけない口元――を窒息させんばかりに押さえつけた。

「たすかったのね!!」

 しゃべっちゃだめよ。いいこと、ひと言もしゃべっちゃだめ――。

 髪がぐちゃぐちゃになった耳元でささやく。見た目どおり、体はぽっちゃりとして赤ん坊のように柔らかかった。色白だし、男たちにへんな想像を起こさせるタイプだ。あと十キロぐらい体重を落とせば――そこが容易でないのだが――難なく結婚できる外見をしている。

「くら……き……!?」床島弥生はもごもごと幼児がうめくような声をあげた。

 紀子はそれを制してさらに一歩、ADを船の尾部のほうへと押しだした。カレンはスライドドアのところで立ちつくしたままだ。

「もうだいじょうぶよ!」

 トコちゃん、おねがいだから、だまって……わたしのこと、言っちゃダメ……。

「…………」

 ちがう名前にしてるの……ナカイさん……ほら、あの「モンテ・カレー」の……あんたがコーヒーかけちゃった人……スポンサーの……。

「だいじょうぶ? あなたたち」カレンが回りこんできた。「知り合いなの? テレビ東邦の人だったの? ナカイさん」

「わたしはちがいます」間男を囲った秘密の小部屋の入り口を後ろ手に閉めながら、必死に言い訳をする奔放な人妻さながらにぴしゃりと紀子は告げた。「仕事でいっしょだったんです」

「お仕事……?」視線は弥生のほうに注がれていた。「テレビ東邦って聞こえたけど。あなたはテレビ東邦の方なの。あの船で撮影でもされていたのかしら」

 いつもの弥生とは大違いで、ナマズのように口角を下げ、うつむいたままだった。もはやなにも口にしない。いまここでなにか言えばたちまち女帝に張り倒され、クビになると察知したのだろう。見ようによっては、夜通し漂流したせいで疲れきり、呆然としているようにも見えた。

「なかに入りましょう」カレンを無視して紀子は弥生を抱きかかえてキャビンに連れていった。弥生は困惑しきった目をちらちらと向けてきたが、紀子は口を真一文字に結んだまま、現場のトップであるCPとしての威厳を放ちつづけ、一切の質問を禁じた。

 カレンはいちどロウアー・キャビンに下り、Tシャツとバスタオルを持ってきた。紀子に監視されたまま、弥生はだまって着替えはじめた。いまにも泣きだしそうな子どものようだった。

「とにかくたすかってよかったわ。ええと、あなた、お名前は」カレンは例の名簿を手にしていた。これには答えないわけにいかないが、それ以上に船長は、紀子と弥生の関係を聞きたがっているようだった。それを無視するのはかえって不審に思われる。

「たしかこの人です」いまの状況では弥生まで別人に仕立てあげるのは難しかった。紀子は名簿の下のほうにあるYAYOI TOKOSHIMAと印字された部分を正直に指さし、弥生の同意をもとめた。

 弥生はこわばった表情のまま小さくうなずいた。

 紀子は演技することにした。「番組の撮影があったんです。彼女とは羽田で集合したときが初対面でした。トコシマ……ヤヨイさんでしたっけ。アシスタント・ディレクターの方だと思います」

 弥生がふたたびうなずく。

「アシスタント・ディレクターってADってやつね。ということは撮影クルーがたくさん乗船していたのかしら。タレントさんとかも」

「そうですね。ぜんぶで十何人かいたと思います」地元のスタッフを合わせて十一人だ。紀子は総責任者なのだから当然把握している。ナカイ・カナならそこまで正確には知らないだろうけど。

「ナカイさんもその一人なのかしら」

「わたしは番組スポンサー側の人間です」

「どんな番組なのかしら」病人さながらの緩慢な動作で着替えをつづけるADに目を落としながらカレンが訊ねる。

「ハワイの美食めぐりですよ。定番企画ですね。うちはハワイにも出店しているカレーチェーンなんです。だからそのお店もちゃっかり取材してもらおうかと思いまして、宣伝部長であるわたしも同行していたんです」

「あら、もしかしてCoCo壱番屋かしら」

「いえ、モンテ・カレーです」

「あぁ、知ってるわ。ラムチョップカレーがおいしいところでしょ。アラモアナで食べたわ」

「ありがとうございます」

「だけどとんだ災難だったわね。ほかの人たちが無事だといいけど。プロデューサーの方とかもいたんでしょう」

 ぞくりとした。いまにも鼻をすすりあげる音が聞こえてきそうだった。

 そうはならなかった。カレンはじっと黙ってスポンサーの宣伝部長を名乗る女の回答を待っていた。

「同行していましたよ」

「なんていう方かしら」カレンは落ち着いた声で畳みかけてきた。乗船名簿を紀子の目の前に突きだしてくる。

「倉木さん……そう、たしか、ここにあります」紀子は名簿を指さした。「NORIKO KURAKI。この人がプロデューサーです」顔色一つ変えず言いきることができた。わきの下から滝のように冷たい汗が流れ落ちたけど。

 朝の海は雨こそやんでいたが、依然として波は高く、船は揺れている。ダイヤモンドヘッドの方角からは太陽がのぼりはじめているが、この先、完全に天候が回復するのかわからなかった。紀子は一刻も早くホノルル港にもどりたかった。そしてカレンの前から逃げだしたかった。スタッフたちのことはそれから考えればいい。

「ヤヨイさんのこと面倒見てあげてね。ほんとはADのほうがスポンサーのケアをするんでしょうけど」にっこり微笑んでそう言い残すと、カレンは後部デッキに出てアッパーヘルムステーションへとあがっていった。波が高いからかそっちに陣取って操縦するらしい。

 足元からエンジンの低振動が広がり、岩場で目を覚ましたアザラシのようにクルーザーはのっそりと船首をめぐらせ、朝の海を滑りだした。

 ホノルル港はみるみる遠ざかっていった。


四

 エンジン音が一段階高まり、船の速度が増してきてもなお、紀子は事態がつかめなかった。このあたりの航行ルールは、港にもどる場合はいちど沖合に出て遠回りしないといけないのかもしれない。ぐずついたままの海面を舳先が切り裂くたびにキャビンが激しく上下するようになり、紀子たちはソファにしがみつかねばならなくなった。弥生はカレンの姿が見えなくなってもなお口を閉じたままだった。忠犬のように紀子の指示を待っているというより、激しい疲労に言葉さえ出ないようすだった。やがて紀子は喉の奥に魚の骨が刺さったような違和感をおぼえはじめた。

 船は明確な意思のもと、ホノルル港とはべつの場所に向かっていた。

 すくなくともいまは。

 口には出さないが、おなじことをヤスコたちも考えているようだった。たがいに顔を見合わせ、結局最後はどういうわけか紀子のほうを三人とも見ていた。ヤスコは高齢者、エリは未成年かもしれない。雑用係のADではあってもいまの弥生には、バタバタと動きまわる体力が残っていない。紀子は子どものころからリーダーシップを発揮するタイプ、悪く言えば姉御肌だった。だからいまだってプロデューサーなんて報われない仕事にあまんじられるのだ。でもいまこの場でそれを期待されても困る。ほかのメンバーと立場はおなじだ。一人の旅行者であり、遭難者であり、被救助者にすぎないのだから。

 あらがえなかった。紀子は全身のだるさを引きずりながら上の操縦席にあがっていった。階段をのぼりきったときには、息があがる始末だった。

「手すりにちゃんとつかまってね。バランス崩してここからまっさかさまに海に落ちた人もいるのよ」波を砕いて進む船の轟音のなか、ステアリングを操作しながらカレンが大声をあげた。こっちの心配など露ほども気づいていないかのようにぶっきらぼうだった。潮風が茶に染めた前髪をかき乱し、ハの字形の太い眉のうえにさびしく広がる狭い額を露出させていた。

「すみません!」四人は座れそうなL字形のソファが据えつけられたアッパーヘルムステーションで、紀子も負けじと声を張りあげた。胸がずきりと痛み、思わず手すりをつかむ。

 耳元で大声をあげられ、カレンは顔をしかめた。路上で犬の糞を踏みつけてしまったようだった。ひと呼吸置いてから紀子は訊ねた。「港に向かうんですよね!」

 カレンは破顔した。「心配いらないわ。ちゃんと連れていってあげるから」ステアリングの左側にある装置を操作すると、エンジンのうなりが落ち着き、スムーズに減速した。カレンはステアリングから手を放した。オートパイロットのようなものを設定したらしい。

「でも――」

「もうそんな大声で話さないでもだいじょうぶでしょう」カレンは落ち着いた声で言った。「あとは船のほうが自動でやってくれるわ」

「ホノルル港ってあっちですよね」紀子は恐るおそる船の後方に手を広げた。船が動きだしてから十分もたっていないが、高級ホテルが立ち並ぶ街の姿は、早くもかすみはじめている。「この先、この船は――」

「モロカイよ」

 紀子は努めて冷静に訊ねた。「ホノルル港にいくんじゃないんですか」

「いかないわ」さらりと告げた。「もともとモロカイにいくつもりだったの」

 紀子は手すりを握りしめ、その場に立ちつくした。ひざから力が抜けていく。

「モロカイ島……ってこと?」いつのまにか紀子のうしろにエリが立っていた。そのうしろにヤスコがいる。弥生はあがってきていない。「マジなの? どうしてそんなところにいかなくちゃいけないのよ」

 カレンはあわれむような目をエリに向けた。それを見て紀子も気づいた。もしこれが漁船だったらどうだろう。魚のいる時間帯を狙って燃料を費やして海に出たところで遭難者を救助した。遭難者がけがを負っているなら適切な処置を施す必要もあろう。だが船長に課せられる義務はそこまでだ。遭難者にいちじるしい生命の危機が迫っているのでないかぎり、船長は出船した本来の目的達成のための行動を取ってなんら非難されるものでない。それについて、たすけてもらった者が批判するというのは、権利者意識が強すぎるというものではないか。そもそも紀子たちは死んでいたかもしれないのだから。

 それでも心のもやもやは払しょくされなかった。それだけに弥生が船に上がってきたのが誤算だった。とことん間の悪い、とんまな女だった。歳は三十歳ぐらいだろう。もちろん独身だし、決まった相手だっているまい。せいぜいスタジオに出入りする連中に遊ばれるのがおちだ。だがきょうにかぎっては、紀子があの子の口を完全に制御した。だからカレンが紀子の素性について不審感を抱いたとは思えないのだが、どうにも落ち着かない。

「心配しないで。ちゃんと港まで連れていってあげるから」

「モロなんとか島って、どれくらいかかるんだかぁ?」ヤスコが訊ねた。

「けっこう離れてるわ」エリが吐き捨てる。「遠すぎるよ。信じられない」

「東に七十キロぐらいよ。二時間ちょっとで着くわ」

「二時間も」風にかき乱されまいと長い髪をおさえながらエリは苦りきった。「ホノルルなら目と鼻の先だったのに」

「ごめんなさいね。でもわたしにも用事があるのよ」カレンはもうしわけさなそうに告げた。「船を出したのもそのためなの。わたし、生まれがモロカイの小さな村なんだけど、そこで親戚が亡くなってね。あす葬儀があるの。飛行機のほうが早いのはわかってるんだけど、道路が整備されていない僻地の村でね。最後は船を使わないとたどり着けないの。だったら最初から船でいったほうがいいと思って。だいじょうぶよ。村に着く前に町の港に寄ってあげる。それで勘弁してもらえるかしら。いちどホノルル港にもどったら、時間的にかなりのロスになってしまう。お葬式の話だからね。あとで補償されてもどうしようもないもの」めぐりめぐってそれを負担するのは、たすけてあげたあなたたちなんだしね。そこまではカレンも口にしなかった。

 たまらず紀子は訊ねた。「すみません。携帯の電波って、どんな感じですか。移動したから電波状況が変わったかも」

「ちょっと待って」カレンは首からさげたスマホを手に取って操作した。「だめね」首を振りながら紀子に画面を見せた。アンテナが一本も立っていないのが防水ケースごしにもわかる。「あとちょっとの辛抱よ。そのうち圏内に入るはずだから。だけど夜のうちにアジア系の女性三人を救助したことは連絡してあるの。ヤヨイさんのことはあとで無線を使うわ。そのときにほかのみんなの名前も伝えるつもりよ」

「ほんとに連絡してもらってるのね」エリが念を押した。

「もちろんよ」カレンは肩をすくめた。

 エリが一歩前に出た。「あたし、マネージャーと連絡取らないといけないのよ。どうにかならないかな」

 マネージャー?

 なじみの人種の呼称を耳にし、紀子はうんざりした。この年代の小娘なら日々、掃いて捨てるほど目にしている。媒体に二、三度出ただけでタレントを気取っている連中なら、ひと目でわかる。この小娘もその一人だろうと思っていたら、やっぱりだ。きっとモデルもどきだろう。それも場末の事務所か、大手でも三軍グループか、そのあたりにちがいない。ちょっとテレビで使われたあとは、性奴隷の道しかない現実を理解できずにいるのだ。

 それ以上だれも突っこんで訊ねてやらないものだから、エリは虚勢を張るように自ら話しだした。「きょうの午前中にCMの話、聞かなきゃいけないのよ」

「CMって……コマーシャルのこと? テレビとかの」あっちの世界に長年身を置くうちに自然と育まれたいじめ心が刺激され、紀子は自分がいまスポンサー代表の宣伝部長を演じていることを忘れ、ついいつもの調子でいやみっぽく聞いてしまった。そして口にしてみると、なんだか気分がすっとした。生命の危機におちいり、身も心も硬直していたのだが、それがわずかにゆるんだ。

「ほかにあるかしら。あ、そっか、ユーチューブにもCM入るわね。でもふつうテレビのことでしょ、CMっていったら」潮臭いべっとりとした髪に手をやりながらエリは紀子をにらんだ。「モンテ・カレーってCM出してましたっけ」

 スポンサーにそんな尊大な口をきけるテレビ局員がいたらお目にかかりたい。だがこの子はそもそも社会人としての最低限の常識やマナーすらも持ち合わせていないようだった。おっちょこちょいだが弥生のほうがまだましだし、かわいげがある。「あら、ごぞんじないかしら。何本か出稿しているわ。米倉涼子さんに出てもらったこともあるわ」

「そうなんだ。見たことないわ。深夜とかでしょ。あたしのはちがうの。だからものすごくだいじな仕事なのよ」

 こうした態度にも紀子は慣れている。プライドを傷つけられたウルトラミクロサイズのタレントもどきが反射的に見せる背伸びの一つだ。ぱっちりと開いた愛らしい瞳の奥にうらめしそうな灰色の澱がたまっている。それでも紀子は追い打ちをかけた。こういうときの気晴らしにはもってこい。その意味では、その術を培うことのできたわが半生も、まんざらでもなかったか。紀子は心のなかで手を打った。「すごいわ。ゴールデンタイムに流れるCMに出るんだ。タレントさんなのね」いかにもテレビ業界を知らぬ人間のように驚いてみせた。

「タレントなんかじゃないわ。ばかにしないでくれる。モデルよ」

 紀子は咳ばらいをするふりをして、こみあげる笑いをこらえた。「ごめんなさい。モデルさんなのね。ショーに出られたりされているのかしら」そのレベルのモデルなら、紀子は職業柄、全員の顔がわかる。そのなかにエリは入っていない。入るわけがない。

「なに言ってるの、おばさん。ショーって。ばかじゃない。へんなことするモデルじゃないんだから」

 さすがに笑いも漏れなかった。

「ファッション誌ってあるじゃない、そこがあたしの仕事場。それが代理店のプロデューサーの目にとまったの」

「それはそれは。なんだかすごくだいじなときみたいじゃない」それなのにハワイに遊びにくるってどういう根性してるの、とまでは口にしなかったが、エリのほうでこたえてくれた。

「ハワイに来たのも仕事のためよ。こっちの制作会社の社長と打ち合わせがあるの。BSの番組とか作ってるの。新しい企画があって、リポーターを探しているから、都合のつくときに来てほしいっていわれてたのよ。それで必死にやりくりして来たんだから。あたし、リポーターとかやってみたいのよ。海外だっていろんなところいけるじゃない。そんなにたいへんじゃなさそうだから、うまくいけば結婚して子ども産んだあともずっと仕事できるし」

 ホノルルのプロダクション? 大方、日本のテレビ関係者が一枚かんでいる税金対策の会社だろう。そこがぶちあげる新企画なんて絵空事だ。十中八九、エリはだまされている。打ち合わせ先として指定されたホテルの一室でひどい目に遭い、泣きながら羽田にもどるのがおちだ。

「予定がめちゃめちゃよ。早くシャワー浴びたいわ。もう体ボロボロ。日焼け止めだってないんでしょ」ぶっきらぼうにエリが言った。「せめてもっとお水もらえないかしら。さすがに二時間はがまんできない。いま体調崩すわけにいかないのよ」

 紀子も喉がからからだった。へんに緊張をしいられたせいで渇きが強まってしまった。尿意よりもこっちのほうが耐えがたい。エリの言うとおり、二時間も待たされるのでは干上がってしまう。海水ならまわりにいくらでもあるのに皮肉なものだった。

「キャビンで待っててくれるかしら」カレンはそう言うと片足を引きずりながら階段をおりていった。




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