失いたくないもの
「陽子、みんな揃ったところで言うことは?」
「……」
食卓に立ち込める空気が一段と重さを増す。食欲どころか箸を持つ気力すら奪われるほどに。
凜子は私に話しかけた時よりもさらに声のトーンを落とした。対する陽子はうつむいたまま、だんまりを決め込んでいる。それは火に油を注ぐだけだと、陽子もいい加減に学べばいいのに。
「何か、言うことはないの?」
凜子がすごむ、その気迫にこっちまで怖気づいた。早くこの場から去ってしまいたいけど、そんなことはできるはずもなく。せいぜい陽子の動向を観察するのがいいところだ。
当の陽子は今にも泣きそうな顔で、必死になって唇を噛んでいる。どうせ泣くんだから我慢しても無駄なのに。そう思いつつ、こればかりは少しだけ同情した。
「百歩譲って掃除をさぼったのは不可抗力でいい。その不可抗力でどこかへ飛んでいって、気を失ったのも仕方ないのかもしれない。問題はそのあと。身の安全を確保して次にやるべきこと、中学生にもなってわからなかった?」
詰問する凛子の鋭い声色に息が詰まる。もう自分が怒られているわけじゃないのに、緊張は一向に解ける気配を見せない。向かいに座る幸子だけは神妙ながらも落ち着いた表情で二人のやり取りを見守っている。末っ子ながら胆が据わっていてうらやましい。今だけでいいから、その胆力を分けてほしい。
その一方で、問い詰められている陽子はうんともすんとも言わない。首を振ることも、顔を上げることさえもしない。それが凛子の怒りに拍車をかけることをわかってしまう自分が、いまはひたすらに恨めしい。
「顔上げな」
陽子がキツく唇を噛む。涙が一筋、その頬を伝った。
「顔上げなって言ってんの!」
思わず私が跳び上がりそうになる。幸子は動じない。陽子はびくっと肩を震わせて、弾かれたように顔を上げた。ここまでくると、怒りが私の方に飛び火しないか恐ろしくてたまらない。
だけど、ああ。
凜子が声を荒げたのはいつぶりだろうか。ただでさえ、よほどの事がないと怒らないのに。そんな凛子が声を荒げるなんて本当に珍しい。そのおかげで、古いフィルムの映像のように昔の記憶が脳裏に残像を残した。
父さんが死んだあの日。
母さんが失踪しかけたあの日。
それから二度ほど、いつの日か。思えばどれも理知的な凛子がパニックに陥るほどの事があった時ばかり。
いなくなった父さんの代わりに、単身赴任でほとんど家を空けている母さんの代わりに、凛子はいつも家族を支える柱になってくれている。普段はその重圧なんて感じていないかのように振る舞っているけど、私たちに見えないところで一人、その重みと闘っているのかもしれない。決して、それを口にはしないけど。
それはどこか、いまの私と似ているような気がした。
「どれだけ心配かけたかわからない? 空飛んだなんて急に聞かされて、何がなんだかわからなかったけど……最悪の場合だって考えた。考えざるを得なかった。これはエゴだってわかってる。自分の気持ちを押し付けるのは間違いだなんて知ってるし、そんなこと本当はしたくない。わかってるけど……でも、その時のあたしの気持ちだって考えて欲しい!」
困惑して、私の視線が泳ぐ。凛子の声が涙の色を帯びて震えるなんて。ホウキで飛んでいったのがそんなに気持ちを揺さぶるほどのことだったのか、それともその後に私の知らない重大なできごとがあったのか。
「死んじゃったらもう、取り返しがつかないの……知ってるでしょ……」
いたい。いたい――――
不意打ちが私に鋭く刺さった。きっと陽子よりも深く。
取り返しがつかない。本当にその通りだと思う。
事故で死んでしまった父さんは戻ってこない。
首を吊ったかりんは戻ってこない。
殺された私の、当たり前の日常は戻ってこない。
自分の胸に手を当てようとして、持ち上げかけた手を必死で押し留める。いまは凛子の言葉を胸に突き刺したまま、こっそり歯を食いしばって耐えるしかない。涙を流してしまわないように。うっかり私のことを悟られてしまわないように。
怒られる恐怖なんてもう忘れてしまった。いまはこの身体のことがバレて、凛子を苦しませてしまうことの方が怖い。もしも勘づかれてしまったら、どうなるかなんて想像もつかない。そうなったときにかけるべき言葉を、私はまだ見つけられていない。
だから絶対に隠し通そう。少なくとも、いまこの時だけは絶対に。
「ごめん……なさい…………」
聞き取るのがやっとの声で陽子が謝った。いつもは根負けするまで頑なに謝ろうとしないのに。こんなにあっさり反省の色を見せるだなんて。
魔法のせいで陽子も何か変わったんだろうかと、ふと思った。
「魔法使いが何なのかは知らないけど、空を飛ぶのはもうやめて」
「え……?」
「魔法も絶対に使わないって約束して」
いくら凛子でも魔法のことまでは面倒を見切れるはずがない。だから魔法を使わせまいとするのはもっともだし、それはきっと正しい判断だ。凛子のためにも、陽子のためにもそれがいいと私も思う。
だけど、大人しくなりかけていた陽子は色めきたった。
「どうして!? なんでそんなこと言うの!?」
やっぱりいつもの陽子と少し違う。泣き顔なのは変わらずだけど、まさか凛子に反論するだなんて。
凛子も思いがけない反応に驚いた顔をしたけど、すぐに火を燃やした。
「危ないからに決まってるでしょ!」
「魔法のことなんにも知らないくせに、危ないとか決めつけないで! 魔法があれば空を飛ぶだけじゃなくて、人を幸せにすることだってできるんだよ!」
また、私に刺さった。幸せの一言が、やけに痛く。
だからつい考えてしまった。比べてしまった。
こいつの言い分がどこまで正しいのかはさておき、私の魔法は人の幸せからは程遠い。化け物を倒す以外にロクな使い道なんて思いつかない。あの黒い影のように、何かを壊す願いは叶えられるのかもしれない。だけど、それではきっと本当の意味での幸せは導けない。
悔しい。私の魔法にはいいことなんて何もないのに。あれだけのことを豪語できる陽子の魔法がうらやましい。
「危ないことはしない。空を飛ぶのも慣れるまでは高く飛ばないようにする。それならいいでしょ!」
「ダメなものはダメ! 魔法なんて得体の知れないもの、いつ身を危険に晒すかわからないんだから!」
「得体が知れないなら勉強すればいいんでしょ」
「そんなものどうやって勉強するわけ? 魔法の学校でもあるって言うの?」
「学校はないけど、教えてくれる人がいる」
「だれ?」
「言えない」
「言えないようなら、そんな人には任せられない。本当はそんな人、いないんじゃないの」
「だから、どうしてそうやって決めつけるの!? 教えてくれる人は本当にいる! でも秘密にしろって言われたから言えないの!」
やっぱり、いまの陽子はいつもと違う。魔法の存在が後押しをしているのか、凛子との口論でまだ折れていないのは奇跡に近い。
それだけじゃない。認めるのは癪だけど、陽子がほんの少しだけ大人びてみえる。半日会わなかっただけでこうも変わるものかと思ったけど、私だって人のことは言えなかった。変化の度合いなら陽子とは比べ物にならないと思う。
「とにかく、今後魔法を使ってるのがわかったら外出禁止にするから」
凛子はいつも以上に冷静さを欠いていた。いまのは私でも理不尽だと思う。状況が状況だから、それを責めることもできないけど。
「凛ねえのわからずや!」
さすがの陽子も、ついに為すすべなく顔を歪めた。我が家では長女が絶対で、三女に逆らう権利はないから。もちろん私や幸子にもそんな権利はなくて、たとえ助けを請われてもどうしようもない。母さんにチクったところで、家に帰ってくる頃には忘れられている。だからお手上げだ。
乱暴に立ち上がった陽子は足音に怒りを乗せて食卓を去った。ドタドタという音が廊下を抜け、階段を上って遠ざかる。最後には戸が乱暴に閉まる音が聞こえた。
重苦しい静寂。緊張感はいつしか消えていたけど、後味の悪い気まずさが残された。
最初から最後まで動じずにいた幸子。
額に手を当て、ばつが悪そうにする凛子。
平静を装いながらも、動揺がまだ収まっていない私。
そんな中で、沈黙を破るように席を立ったのは幸子だった。
「ご飯、温め直しますね」
「ああ……ごめんね」
「いえ」
自分の作った料理の大半が手も付けられずに冷めてしまっても、幸子は文句一つこぼさずに一皿ずつラップをかけ、レンジにかけていく。幸子だけはいつも通りで、その姿にこの上ない安心感を覚えた。
無機質なレンジの作動音に耳を傾ける私はまだ口を開くのが億劫で、話題を出す代わりに誰も手を付けていなかった味噌汁を回収し、鍋に戻して火にかけた。そうして熱が均等に回るようにおたまを動かしながら、少しでも重い沈黙から逃げようとして陽子の身にあったことへ思いを馳せる。
ホウキで飛んだのは見た。その先は二人の会話から察するに、気を失ってどこかに墜ちたか、どこかに降りてから気を失ったか。そこから安否連絡もしないで油を売っていたんだろう。連絡云々の話はいいとして、魔法を教えてくれる人がいるっていうのは気がかりだった。きっと私やシエラのようにこっち側の魔法使いじゃなくて、あっち側の魔法使いのことだろうから。
「ねえ」
凛子が重たい口を開いた。私に向けて放ったのか、それとも幸子に声をかけたのか。振り向くと凛子はどっちも見ていなくて、うつろに食卓を眺めているようだった。
「魔法って、なに……?」
弱々しく絞り出された言葉は、答えを得ることなく虚空へと溶けていく。
できることなら、私だってその答えが欲しい。
考えようとして、いま自分で深みにはまるのはまずいと思ったからやめておいた。ようやく場が落ち着いたのに、私がぼろを出して凛子をパニックに逆戻りさせるわけにはいかない。
「魔法なんて、物語の中だけで充分じゃない……」
凛子の独り言がまた行き場を失って消えていく。
ちゃんと受け止めてあげられるのは、もしかしたら私だけなのかもしれない。あの様子だと陽子は一歩も譲りそうもないし、幸子は魔法のことなんてわかるはずもない。一晩眠って明日がきても、今回のことはきっと解決しないだろう。
陽子のことは別にいい。でも次女として、こんなに思いつめた長女のことは放っておけない。
こういう気まずいとき、口を開くのは苦手だ。本音を言えば時間が経ってほとぼりが冷めるまで待ちたい。だけど、今回に限っては時間が解決してくれる問題じゃない。誰かが動かないと、きっと凛子の気持ちは晴れないままだ。
その誰かはいま、私しかいない。
ひとり覚悟を決めたように、鍋の火を止める。あたたまった味噌汁を三つのお椀につけなおして、そのうちの一つを凛子の前に置いた。
「陽子が言ってた魔法を教えてくれるって人、私が探してみるよ」
「……え?」
泣きはらした目を隠しもせずにこっちを見た凛子は、意外そうな顔をした。こんな顔をしていても、我らが長女は顔立ちが整っているからうらやましい。
私はいまどんな顔をしているんだろうか。笑っても悲しんでも怯えてもいない、色のない微妙な表情をしているかもしれない。どこかの誰かさんみたいだけど、いまはそれが正しいと自分で思う。
「陽子のためじゃないよ。凛子のためだから」
私は付け足す。それと、自分のため。何か私にとって、有益な情報を得られるかもしれないから。
そんなことは口が裂けても言えないから、心の中にしまっておく。
「わかんないこと、わかるようになれば少しはマシかと思って。だから今日はご飯食べて、ゆっくりしよう」
温めなおして湯気の立つご飯を三人で囲む。思い返せば散々な一日だったし、これからどうなっていくかもわからない。自分のことも、姉妹のことも。
ただようやく、今日という日が穏やかに終わる気配がした。




