悪夢の朝から
目が覚めたら泣いていた。
どんな夢を見たかは覚えていない。ただ漠然と苦しくて、息が詰まって。そんな感覚だけが後を引く。
スマホを見るとまだ八時にもなっていない。何もない休日の私にしては早起きだと思う。悪夢のせいか、たまたまなのか。まあ、どっちでもいい。
腕で雑に涙を拭って身体を起こし、ベッドのふちから脚だけを下ろした。私の背後、カーテンの隙間から差してくる細長い陽光はほんのりと部屋を照らしている。細い光の筋に手をかざすと、かすかに外の熱っぽさが伝わってきた。今日は暑くなりそうだ。
引きこもってしまわないよう、夜通し効かせていたクーラーのスイッチを敢えて切る。伸びをして立ち上がって、それからなんとなしに姿見の方を見た。
この角度からは自分の姿なんて映らない。反射して見えるのは散らかった部屋の中だけ。
とぼとぼと鏡の正面に立つ。当然のように寝起き姿の私が映った。いつもと変わりない、可愛げの欠片もない私。
そこでふと思い立つ。鏡を前に寝間着代わりの体操着をたくしあげて、そしたら脱ぐ途中で満足した。心配しなくても、胸の真ん中の大きなシミは昨日と変わらずそこにある。
私が死んだ証。
私の罪の証。
それが夢では無いという証拠を、儀式のように目に焼き付ける。悪夢で終わっていたらどれだけよかったか。それでも、なかったことになんてできるはずもなく。
心地よい朝の穏やかな心にひと雫の闇を落として、今日という一日に思いを馳せる。考えること、やることは山積みだ。
「……なんだろう」
不意に窓ガラスが揺れる音がした。揺れは徐々に激しくなって、台風の日を思い起こさせる。慌てて手に取ったスマホで天気予報を見るものの、台風の予報も竜巻の警報もない。
遮光カーテンにはシルエットも映らないから、外で何が起こっているのかわからない。二階の窓まで誰かが悪戯をしに来るのは考えにくいし、もしかすると昨日のような黒い影がいるのかもしれない。そう思い当たると途端に緊張感が高まった。
放ったままにはしておけない。開けて、確かめるしかない。
「……」
唾を飲む。死んだ身体でも得体の知れないものは怖い。ただこんなとき、魔法が使えるのはありがたいと思った。不測の事態に対処できるかはともかく、心の支えぐらいにはなる。
右手を左わき腹のあたりに構えて、すぐ応戦できるようにしておく。ギリギリまで刀は出さない。床に散らかしている漫画や小物を足で払いのけながら、カーテンの端ににじり寄った。
イメージする。部屋を傷つけない長さの刀身。立ち回る空間も確保して、準備は整った。
「っ!」
ひと思いにカーテンを引く。その瞬間、朝日の眩しさに目がくらんだ。なんとか薄目を開けて様子を確かめると、窓の外に広がるのはいつもの風景だった。雲一つない青空と、のどかな民家の屋根。それなのに、窓は強風を叩きつけられているかのように音を立てて揺れている。
「なんなの……」
開けろと言われている。何者か、あるいは何かに。
思い当たるとしたら一つだけ。その推測が外れていたらと思うと恐ろしくてたまらないけど、怖気づいてばかりもいられない。私はともかく、こんな異常な光景を凛子に見られたら――。
覚悟を決めて窓の鍵を開ける。そして、一気に窓を引いた。
「わっ!」
一瞬。巨大な扇子で仰いだような風が一回分だけ部屋の中に吹き込んで、あれやこれやと部屋中のものを散らした。後を追って蒸し暑い空気が押し寄せてきたけど、それからはしんと静まり返って何もない。黒い影も、人影も――
「おはよう」
いた。ベッドの上で寝転がる金髪の少女が、当たり前のように朝の挨拶を投げかけてきた。服や髪の乱れ具合からして、いまの風に乗って転がり込んだのは間違いない。きっと風の勢いに思わず目を瞑った、あの一瞬の間で。
「……おはよう」
冷静になってもどう突っ込んでいいかわからず、間の抜けた声で私は応える。どうしてここが、なんてことはいまさら聞く気にもならなかった。昨日の時点で私の素性は知られている様子だったから。
何はともあれ大事にならなくてほっとした。部屋の中は散々だけど。落ち着いてみると私が自分で思っているよりビビりだということがわかった。手元を見れば無意識のうちに出した刀があるし、その刀身は床に突き刺さっている。情けない。
『冴子ー、だいじょうぶー?』
「わっ」
と、部屋の外、階下から凛子の声が飛んでくる。昨日と比べて声色が明るくなっていて安心だとか、そんなことを考えている場合じゃない。
「(シエラ隠れて!)」
「どうして?」
「(いいから! あと私がいいって言うまで喋らないで!)」
階段を上る足音が近付いてくる。小声で指示を飛ばすとシエラはベッドの陰にするりと隠れた。私は慌てて窓とカーテンを閉めて、散らばった小物や畳んでいなかった洗濯物なんかをかき集める。それで床についた刀の傷はなんとか隠れた。
何かまだ隠してないものはないかとあたふたしているうちに、足音が止んだ。
『入るよ?』
すり足でドアに駆け寄る。そして凛子より先に、私がドアノブを回して押し開けた。首だけ出せるぐらいの幅で。
「おはよ」
一夜ぶりにみる凛子の表情にはいつもの快活さが戻っていた。思ったほど昨日のことを引きずっていない様子でほっとしたけど、私がドアを開け切らないせいか怪訝な顔をされた。
「どうしたの? すごい音だったけど」
「はは、脱ぎ散らかしてた服で転んじゃってさ」
「……ほんとにそれだけ?」
「あと、そのはずみで色々と……恥ずかしいからあんまり覗かないでほしい」
余計なことを言ったなと、直後にそう思った。嫌と言われれば余計に覗きたくなるのが人というもので、凛子は背伸びして私の後ろの方を覗き込んだ。目線からしてちょうど刀傷の上に積み上げた山があるあたり。嫌な汗が背筋を伝う。
それから右に左にちらちらと視線を泳がした後、凛子は小さく溜め息をついて背伸びをやめた。
「ちゃんと日頃から片付けなね」
「肝に銘じておく」
納得したように頷くと、凛子は背を向けて階下へと帰っていく。私はその足音が聞こえなくなるのを待ってから静かにドアを閉めて、力が抜けたように床にへたりこんだ。
「ああ。心臓に悪い」
つい独り言がもれる。「もうないけど」なんて心の中で付け足し、意味もなく胸に手を当てた。そんな風にまた物思いにふけりかけて、首を振って目の前のことを考える。片付けはともかく、自分で開けた床の穴は早くなんとかしないと。無駄に優先順位の高いものができてしまった。
恨みがましくシエラの隠れた方へ目を向けると、ベッドの陰はまだしんとしている。本当にそこにいるのかどうか、疑わしいほど気配を感じない。
「もういいよ」
声を投げてみる。少し間をおいてから、もぞもぞとシエラが顔を覗かせた。特に反省する様子でもない、相変わらずの無表情で。
「あー……」
床の穴対策を真っ先に考えるか、それともシエラの用件をきいておくか。ひとまず今日の予定をふと思い起こして、人との約束がないことを確認した。家事の分担も当たってないし、守るべきは夕飯の時間だけ。そんなに厳密に優先度を考える必要はなさそうだ。
「えと、私に用事?」
ドアに背中を預けたまま、軽い気持ちで私は訊いた。
「藤宮かりんの遺体、返してくるけど冴子も行く?」
ああ、この子は。もう。
毎度のように平然とした様子で言ってくれる。受け止めるこっちの気も知らずに。
完全に気の抜けていた私は思わぬ一撃に目がくらみそうだった。起きる直前まで見ていたような、うっすらと記憶に残る悪夢の中での息苦しさ。それと同じような感覚が空っぽの胸から広がり出す。
それでも私を気遣って報告しに来てくれたのはわかるから、不満を漏らすこともできなくて。
「……ちょっと考えさせて。数分ぐらい」
シエラがこくりと頷いたのを確認して立ち上がり、後ろ手でドアの鍵を閉める。心を落ち着けて、でも脳裏に昨日の出来事を思い浮かべながら部屋の片付けに取り掛かった。
「……」
黙々と手を動かしていると、なぜか昨日よりももっと前のことを思い出す。
なんでもないいつかの昼休み、内容も忘れるほど他愛のないことを話して笑いあった記憶。
文化祭のために放課後遅くまで居残って、その帰りに二人で食べたハンバーガーの味。
ふとどこにしまったかも忘れていた球技大会用のハチマキを見つけて、手に取って。コートの外から応援してくれたあの日の姿を思い出して。
うるみ始めた視界を閉じると、なぜかカラオケで聴いた可愛らしい歌声を思い出す。
いつしか手は止まっていた。空けたばかりの床の穴に視線を向けながら、見ているのは眩しかった過去の記憶ばかり。他のことを考えようとしてもまた別の記憶がよみがえる。
それほどに、一緒にいたんだ。
「昨日はさ……慌ただしかったから」
空っぽの胸では抱えきれなくて、気付けばぽつりと言葉を漏らしていた。
「だから忘れられてたのかも。なんていうか、思い出したいような、思い出したくないようなこと。ずるいよね」
心の中を打ち明けるのは苦手なのに。弱いところを見られるのは嫌いなのに。シエラに見られているのがわかっていても、いまは抑えられそうにない。
「ちゃんと向き合うって決めたはずなのに。救えなかったの、私のせいなのに。どうしたら許されるのか見当もつかなくて、答えなんて永遠に見つかる気がしなくて、いっそ逃げたいって思う。すぐにはダメでも、時間が経てばこの罪悪感は消えていくんじゃないかって思いたくなる。悲しいし、辛いけど、綺麗な記憶だけ残してさよならできたらいいのにって。そう思う自分がいる」
かりんからもらったイヤリングを拾い上げて、私は懺悔した。
口にしたところで逃げられないことはわかっている。たとえ宥められたとしても、それが気休めにすらならないことも。同じ空間にいるシエラもそれをわかっているのか、そもそも興味がないのか、どちらにせよ下手に声をかけてこないのはありがたかった。
「わがままで、最低だ、私」
すすり泣く私の声だけが部屋の中を埋める。せき止めきれずに吐き出した言葉は、他ならない自分の頭の中で幾度も反芻された。そうしてしばらく、声を上げないよう唇を噛んで自分の中に閉じこもる。数分でカタのつく話ではなかった。
それでもしばらくして落ち着くまで、シエラは何も言わずに待っていてくれた。そのことに胸の内で感謝しつつ、何度か大きく呼吸する。
「……ふぅ。ごめん、待たせて。私、やめておく」
「いいの?」
いまだにベッドの陰から頭だけを出して、シエラが確認する。その一言にまた少しだけ迷って、覚悟を決めるように頷き返した。
「かなえさんに合わせる顔もないし。お別れはまた落ち着いたら、ちゃんと行くから」
幸か不幸か、改めて見なくたって最期の姿は目に焼き付いている。だからお別れはまた一人で、お墓に出向いたときに。
「状況だけさ、また教えてほしい。かなえさんのことも含めて」
「わかった。こっちの用件が済んだらすぐに連絡する。もし何かあったら、いつでも呼んで」
「ありがとう」
業務連絡みたいな口ぶりなのに、また言い知れない心強さを感じた。もしかすると、シエラのことを多少なり心の拠り所にしてしまっているのかもしれない。見た目は陽子ぐらいの歳だけど、魔法使いとしては先輩だからだろうか。死んだ時とかわらない姿のままだとしたら、それからどれぐらいの時間を過ごしたんだろう。
そんなことを考えながらふと、あることに気付いた。
「あ、呼ぶってどう――」
声をかけようとしたものの、すでにシエラの姿はなかった。きっと昨日のように瞬間移動か何かの魔法を使ったんだろう。
「……それなら、わざわざ窓から入ってこなくても」
あの派手な登場に意味があったのか考えかけて、無駄なことを考えるのはやめておいた。また問いただせばいいことだ。連絡手段は聞きそびれたけど、適当に呼んだら来てくれるような、そんな気がする。
持っていたイヤリングをなんとなくつけてみる。また涙がこぼれかけて歯を食いしばって、体操着のまま部屋の片付けを再開した。それだけでも、何かが前に進み始めた気がした。




