表と裏と裏の裏
小さな音で戸を叩く。周りに響いてしまわないように。
部屋の中から声は返ってこない。いないはずはないから、無視しているのか不貞腐れているか、寝ているかのどれかだろう。そのうちのどれであろうと、私がすることは変わらない。
そっと戸を引いて中へと忍び込み、音を立てないように戸を閉めて陽子の――
「うわっ」
様子を見るまでもなかった。ベッドの上で寝そべってスマホをいじっていた陽子は、私の姿を見るなり声を上げてたじろいだ。その反応に舌打ちしかけて、ぐっと衝動を押しとどめる。
何故だろう。こいつの声を聞くといつも心に波が立つ。ちょっとした言動に過敏に反応してしまう。同じシチュエーションでも、きっと他の人だったらなんとも思わないのに。そこまで考えて、単に陽子と馬が合わないだけだということを改めて認識する。こんな無駄なプロセスを私はこの先どれだけ繰り返すのかなんて、想像もしたくない。そこに時間を割くのは、いまはやめよう。
「昨日、何があったか聞きたいんだけど」
「冴ねえまで――」
騒がれる。そう予感して陽子に駆け寄り、慌てて口を塞ぎにかかった。
「(黙って!)」
押し殺した声で諭しかける。対する陽子は目を見開いて必死にもがくけど、残念ながら私の方が力は強い。とはいえ、これ以上暴れられて下の階や向かいの幸子の部屋まで音が響いては元も子もない。抑えつけたのがベッドの上なのは不幸中の幸いだった。
「あんたいちいち声がでかいの。内緒で訊きたいだけ。別に凛子にチクろうだなんて思ってないから、大人しくしてくれる?」
口を塞がれて話せない陽子は怪訝な眼差しを向けてくる。それでも辛うじて意図は通じたらしく、抵抗する力が弱まった。私はそっと手を引き剥がして陽子を解放してやり、またすぐに掴みかかれるぐらいの距離でベッドの縁に腰掛ける。
「怪しい」
「昨日のあんたのが怪しいって言いたいけど、いまはいい」
「言ってんじゃん」
「うるさい」
「うるさいってなんなの! それが話聞きに来た人の――」
「ああ、もう」
もう一度、陽子をベッドに押し付ける形で口を塞いだ。争うつもりがなくても自然とそういう方向に向かってしまう。普段は関わる必要もないからいいけど、用があって話しに来ておいてこうなるのは、自分でもどうかと思う。いまだけは、私がもう少し大人にならないといけない。
そう自分に言い聞かせて、陽子を解放しながら溜め息混じりに用件を切り出した。
「単刀直入に訊く。魔法を教えてくれるって言った人、どこのだれ?」
それからひと呼吸分の間を置いて、陽子はにやりとした。なんてわかりやすい。
自由を得た陽子は身体を起こしてあぐらをかくと、自分がアニメの主人公にでもなったかのような様子で言った。
「ふぅん? 気になるんだ」
私の思考を勘ぐって、自分が優位に立っているつもりなのが表情に滲み出ている。悪いけどそれは見当違い。おあいにく様。
でも、それはそれで扱いやすいから合わせてやろう。せいぜい良い気分でいればいい。
「そんなに魔法のこと知りたい?」
「もったいぶらないで教えてよ」
それっぽい言い回しで答えてみせる。気になるのは魔法でもあんたのことでもなくて、その師匠にあたる人なんだけど。
そんな言葉を飲み込んで、私はさらに餌をまいた。
「教えてくれたら口裏合わせてあげるから。あんたが魔法を使ってるところを見たり聞いたりしても、ぜったい誰にも言わない。なんなら凛子にバレないようにするのを手伝ってもいい」
悪役にでもなったような気分で反応をうかがう。満面の笑みは音もなく引いて、陽子は少し呆けたような顔をしていた。たぶん私の言葉を噛み砕いて、何かと何かを天秤にかけているところだろう。
ようやく口を開くかと思えば、今度は腕を組んでうなり始めた。
「うーん…………んん~~」
「何をそんなに悩んでんの?」
「悪くない条件だとは思うんだけど……やっぱりこう、冴ねえがこんなこと言ってくるなんてさ。何か裏がありそうなんだけど、でもそれがなんなのかわかんなくて……」
そう思われるのは普段の関係からしてもっともだと思う。でもそれを私に向けて言ってしまうあたり、素直というか浅はかというか。それが扱いやすいところで、私にとってはありがたいんだけど。
陽子の言うとおり、確かに裏はある。だからといってそれが何かを教えるつもりはない。とは言え真っ向から裏がないというのも、こいつを言いくるめる材料にはならない気がする。
どうして陽子を相手にここまで頭を捻らなきゃならないのかと、ふと我に返りそうになる。そんな自分を押し込めて、私は次の一手を投じた。
「はぁ……バレちゃしょうがないか」
ため息混じりに言いながら、それっぽい表情をつくって陽子から視線を外す。演技派ではないけど陽子になら通用する、と思いたい。
視界の端でちらりと顔色をうかがってみると、どうやらうまく乗せられているようで安心した。
「あるよ、裏。あんたの言う通り。本当に魔法のことが知りたいのは私じゃない。私の友達に、ずっと魔法に憧れてた子がいてね――」
一瞬。脳裏にあの子の面影が映る。
「――その子に、何か些細なことでもいいから教えてあげたくて」
かまをかけるつもりが、それこそ陽子なんかには知られたくない胸の内を晒していた。幸子にも、凛子にさえも言ったことがないのに。わずかに視線をずらして持っていたスマホに自分の顔を映すと、黒い画面の中の私は緩んだ顔をしていた。
ああ、陽子の前で。最悪だ。
「冴ねえ……」
自己嫌悪に苛まれながら顔を上げると、陽子は同情するように私を見つめている。普段見せない私の表情から、声色から、言外のなにかを読み取ったんだろう。その反応はきっと、教科書のお手本のように"正しい"ものだと思う。
でも、やめて。
あんたの同情なんていらない。何も知らないくせに。
もっともらしい優しさの押し売りなんて、私はこれっぽっちも欲しくない。
喉元からせりあがった言葉を必死に押し殺して、私は乾いた息を吐く。
「なんでもない。忘れて」
半分は凛子のため。そしてもう半分は自分のために。そう思って陽子を訪ねた私も浅はかだった。これ以上はいたずらに自分の身を削るだけで、それに見合うだけの対価なんて得られそうもない。考え無しの自分に嫌気がさして立ち去ろうとすると、服の裾が何かに引っかかった。
「ごめん」
引っかかったんじゃない。陽子が裾を引っ張っていた。
しおらしい声で引き留めてきた陽子は動揺しているようにも見える。それが余計に私の神経を逆撫でた。陽子に悪意がないことはわかっていても、自分の失態が責められているようでひとりでに怒りが湧いてくる。余計にばつが悪い。
「いいから。もう。離して」
「ごめん」
「だから、」
「ダメって言われたの!」
強引に袖を引こうとした私の手が止まる。陽子の真剣なまなざしで釘付けにされて。
「昨日も凛ねえに言ったでしょ? 師匠のことは言えないって。……本当は、魔法のことも言っちゃダメだったんだ」
「……それで?」
自己嫌悪が収まりきらないまま続きを促すと、陽子は正しい言葉を探るようにゆっくりと応える。
「口止めは、未熟なわたしと周りの人を守るためだって師匠に言われた。具体的な話はまだできないんだけど……凛ねえに魔法は危ないものだって言われたの、あれは間違いじゃないと思う。いまのわたしは魔法でどんなことができるのか、どうしたらそれを思うようにコントロールできるのか、まだわかってないから」
陽子にしては考えてものを言っていると思う。そのおかげか私のいらだちも多少ましになって、いまは明かせないんだという事実が冷静に受け止められた。
魔法に関する情報の秘匿。そういう話はシエラから聞かなかった。そもそも魔法のことをひけらかすのは自分が死んでいることを明かすようなものだから、考えもしなかったわけで。
だけどあっちの、マギアの世界ではそうじゃない。普通の身体で魔法が使えるということは特技のように、才能のように、人から褒め称えられる理由の一つになるんだ。憧れの対象にも妬みの対象にもなりうる、ある意味では危険な素養に。もちろん、それを人目に晒した場合の話にはなるけど。陽子の口にした"守る"というのは、おそらくそういう意味も含んでいる。実際のところは、やっぱりその師匠という人に訊いてみないとわからないけど。
私とは違う魔法使いたちの世界、その片鱗を垣間見ただけでも私には大きな収穫だった。陽子の後ろに本当に指導者がいることもわかった。できればその人の情報を引き出したかったけど、どうもそこまでは望めそうにない。何よりこれ以上こいつの相手をするのは、私のストレスになる。
「だから魔法が思い通りに扱えるようになるまで待って欲しい」
それがいつになるのか。明日か、来週か、来月かもっと先か。いずれにせよその間、凛子を困らせたままになってしまう。できるだけ早く手をうってあげたいと思うと、結局のところ別の手を打つしかない。
陽子に興味を失った私は適当に相槌をうって、今度こそ部屋を後にする。一言だけ釘を刺して。
「この話、幸子にも凛子にも言わないでよ」
陽子の返事を待たず、私は音を立てないように引き戸を閉じる。
戸の前に立って、虚空を眺めて、小さく溜め息をひとつ。
我ながら子供っぽい。少なくとも家の外ではこんなことないのに。おしとやかとは言わないまでも、クラスではもう少し穏やかなはずだし、先生の前ではまじめで通している。それなのに。
後にならないと自分を客観的に見られないのは悪い癖だと思う。それをこうして反省してみるのに、次に生かせないことも悪い癖。わかっていても難しいことはある。これもその一つだから仕方ないと結論付けて、気持ちを切り替えるべく私は向かいの部屋の戸を叩いた。
『はい』
落ち着いた声音に波打っていた心が少し穏やかになる。引き戸に手をかけようとすると向こうから戸が開いて、幸子が出迎えてくれた。
「ちょっと話したいんだけど、いまいい?」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
「ありがとう」
戸をくぐった瞬間、ほのかに甘くてどこか懐かしい、お香のような香りがした。窓辺でお香を焚いていたような跡が見えるから、その残り香だろう。私なんかと違って部屋は綺麗に片付けられていて、幸子の性格がよく現れている。勉強机と本棚とベッド以外の諸々は、たぶん収納スペースになっている奥の引き戸の中だ。
幸子はその引き戸の中から座布団を二枚引っ張り出してくると、部屋の中央に敷いて手で皺を伸ばした。そこまでしてくれるのがまた幸子らしい。
「これぐらいしかなくて申し訳ないですが」
「ああいや、十分。ありがとう」
私が腰掛けるのを待ってから、幸子は向かい側で正座をした。さっきまでの陽子とのやり取りを思い返すとまるで別世界だ。
「昨日のこと、色々訊きたいんだ。半日ずっと家を空けておいて虫のいい話だとは思うし……こういうこと、ほんとは凛子に訊くのが筋だろうけど。むやみに話を蒸し返してまた困らせるのも悪いと思って」
そうやって本題に入る前から言い訳をするのも、我ながらずるいと思う。つつかれる前に保険をかけておく自分が、また少し嫌になりそう。
対する幸子は昨日の家族会議を思い返すようにちらりと上を向いて、それから穏やかに微笑んだ。その奥ゆかしい笑顔に、私はちょっとだけ許されたような気持ちになる。
「そうですね。賢明な判断だと思います。それで、昨日のことと言うと何を?」
小首を傾げる仕草がまた上品で、あぐらをかく私の背筋も自然と伸びる。ほんの少しかしこまった気分で私は答えた。
「陽子が飛んで消えてから帰ってくるまでの経緯を知りたい。あの時は凛子に横槍入れて訊けるような状況じゃなかったからさ。あいつが連絡もなしにどこかで油を売ってた、ぐらいにしか把握できてないから、なんとなく気になっちゃって」
師匠とやらに行き着くには、昨日の陽子の足取りをたどるのが手っ取り早い。とは言いつつ、有力な情報が得られる気はしていない。昨日の時点で陽子が嘘をついていればそれまでだし、仮に本当のことを伝えていたとしても、師匠の方が居場所を掴まれないような手を打っているかもしれない。
あてもなく近所をうろつくよりも多少は手掛かりがあった方がましだろう。ぼんやりそれぐらいの気持ちで、幸子の答えを聞いた。
「陽子お姉さまの仰った限りでは、空を飛んだ後に気を失って、気付いたら宝文堂の中にいたみたいです。それから、」
「ちょ、待って待って。えっと……気を失ったって、空中で?」
「そうみたいですね」
そのことに幸子が平然と答えるのも少し驚きだけど、それはいい。
「で、宝文堂ってあの宝文堂? 川高の裏手のあの本屋さん?」
「ええ。落ちたのがそのあたりだったのか、お店のおじいさんに介抱してもらっていたみたいですね」
「ははぁ……で、そこから帰ってきたの?」
「いえ。それから神社へホウキを返しにいって、どこかで落としたスマホを探し歩いて、なぜか川高のテニス部員さんにスマホを見つけてもらって談笑していたそうです。それで帰ってらしたのが、十八時頃だったでしょうか」
「……ちなみに、この話は凛子も?」
「もちろんです。むしろ私よりよく知ってらっしゃるのではないかと」
突っ込みどころが多くて、相槌のうちかたを忘れてうんうんと頷くしかなかった。
端的に言えば想定外だ。私の見込みはあっさり崩されて、陽子が嘘をついていないとすれば目指す先は大きく絞り込める。凛子にも通っている話であれば、信憑性は高いと考えてもよさそうだ。
「なんていうか……改めてだけど、凛子の気持ちがよくわかった。スマホ失くしたのは仕方ないにしても、さすがに――」
不意に、幸子が左手で私の頬に触れる。やわらかくて温かいてのひらは、優しく、何かを確かめるように私の感触を噛みしめているようだった。急なことに頭の処理が追い付かない私は、言葉を失ったまま幸子を見つめ返す。
「お姉さま」
独り言のようだった。色を失った、冷たく寂しい声。
まるで目の前にいる私を、手で触れているはずの私を見つけられないとでも言うように。
いつも日向のように温かい顔からも、表情がすっぽり抜け落ちている。生まれて初めて見る幸子の様子に、背筋が凍った。
怖い。凛子とはまた違う、言いようのない、何か。
私が死んでいること。
私がかりんを見殺しにしたこと。
私が魔法を使えること。
何もかも見透かされているようで、それでいて幸子の方は底が見えない――――
――――と、感じたような気がしたけど、目の前の幸子はいつもの物腰柔らかな幸子だった。
いまのはいったい、なに?
「大丈夫ですか?」
頬に添えていた手を下ろして幸子は心配そうに私をじっと見る。私が言うのもおかしな話だけど、生気のある温かな表情で。
「ん、何が?」
何かに映る自分の表情を確認してしまいそうで、でもそれが嫌で。私はとっさに笑ってごまかした。
本当に笑えているのだろうか、私は。わからないけど、よくわからないままの気持ちでその場を取り繕ってみせる。陽子ぐらいならごまかせるだろう。
でも、目の前にいるのは幸子だ。あいつには通じる手も、幸子には通じない。この子はわかっている。口にはしないけど、人の心の機微を、胸の奥に秘めているものをわかっている。それは私がよく知っていた。だから笑ってごまかしたのは、他ならない自分のため。
「私は、何があってもお姉さまの味方ですから」
幸子が私の手を両手で優しく包む。そこで自分の手がかすかに震えていたことに気付いた。
空っぽの胸がどくんと脈打つ錯覚を覚える。気付いているのだろうか。もしそうだとしたらいつ、どのタイミングで?
着替えるところは見られていないし、さっき床に穴を空けた以外で大きなヘマはしていない。昨日は掃除の後ずっと家にいたはずだから、あの場を見られることもない。たとえ赤の他人には目撃されていたとしても、幸子に伝わるようなことはよっぽどないはずだ。
確かめようか。唾を飲み下して、渇いた口から声を絞り出す。
「……ありがと。たまには家族の、凛子のために頑張ってみる」
せめてもの強がりだった。幸子が気付いているにせよ、そうでないにせよ。私にはこの場で正しそうな言葉を選ぶことしかできなかった。
こみ上げそうになった涙を抑えつけるように幸子の手を強く握り返して、私は立ち上がる。
「じゃあちょっと、出かけてくるね」
「お気をつけて」
遺言のような言葉を残して、逃げるように幸子の部屋をあとにした。幸子の言葉は胸の中で何度も何度も反響して、私はしばらく自室にこもらざるをえなかった。




