マジックタイム
かざした長刀に黒い影がぶらさがる。
力尽きた影からはもうもうと靄が上がっていて、鞄ほどの重みが徐々に失われていく。
私は見つめた。鍔に噛み付くオオカミの頭を。
見送らないといけなかった。自分が納得するために。
「っ!」
その時、力尽きたはずのオオカミの頭部が飛んできた。反応が間に合わなくて祈るように目を瞑る。
今度こそ死ぬんだろうか。それならそれでいい。むしろ、その方がいい。ここで死ねればきっと楽になれるから。
だけど、そんなことが許されるはずもなかった。
顔面を襲ったのは温度のないそよ風だけ。においも無く、ふわりとした風は私の顔に絡みついて、染み付く。それがひどく気持ち悪いうえに、喉の奥が焼けそうなほどいがんだ。
「えほっ……うっ」
煙をまともに吸ったときのようにむせる。静寂が訪れた部屋の中で、息を吐き出す音が自分の耳に刺さった。
やがて喉のいがみが消えてそっと目を開けると、黒い影はもう跡形もない。残された私の刀は何事もなかったかのように、窓から差す夕陽を受けて一寸の曇りもなく輝いていた。化け物が消えて、薄靄も浮かんでいない澄んだ空気を彩るように。
結局、ちゃんと見送ることもできないなんて。
「……はは、馬鹿だな私」
吐きだした自分の言葉で張り詰めていた緊張感が解けた。中空で支えていた刀を下ろして、へろへろと力なくへたり込む。ごとりと刀が床に転がる重い音と一緒に、疲労がどっと押し寄せた。
「おつかれ」
シエラが背後からねぎらいの言葉をかけてくれた。ずっと後ろで、見えないところで支えてくれていた彼女には感謝してもし足りない。
でも、ねぎらいの一言で改めて戦いの"終わり"を実感して、虚しさと悔しさで泣きそうになる。静かに流れかけた涙をぐっとこらえたものの、振り向く気力まで残っていない私は消え入りそうな声で訊いた。
「私、ちゃんと倒せた?」
「うん」
「そっか……倒した抜け殻はどうなるの?」
「わからない。おそらく、霧散してその場で消える。後には何も残らない」
「……そう。なら、安心だね」
安心、なんだろう。これ以上かなえさんや私のような被害者が生まれないという意味では。
ただやっぱり、かりんのことを考えるとかすかな後ろめたさがあった。あの子の想いを潰してしまったような――――
「――冴子」
一瞬、意識が遠のいて視界が暗転していた。シエラの声にはっとして目を開けると、私はいつの間にか床に伏している。
「ぁ……」
身体が動かない。
声もうまく出せない。
慣れないマラソンで完走したばかりのように、身体がどっしりと重い。
おかしいなと、視線だけ動かして自分の腕を見る。すると指の先まで墨で塗りつぶしたように黒くなっているのがわかった。抜け殻の色よりも、シエラが埋めてくれた胸よりも深い黒で、もう自分の腕のような気がしない。
ああ。罰が当たったんだ。
そう思うと逆に気が楽になった。自分が死に切れなかった意味が、少しだけわかった気がして。
ふと、シエラが視界の中に現れる。屈んで私の顔を覗き込みながら、彼女は口元に何かを近付けてきた。小さくて細工の凝った透明のガラス瓶に入った、黄金色で液状の何か。
「飲んで」
状況からしてどうしたいのかはわかる。わかるけどせめて、それが何なのか説明してくれればいいのに。そう心の内で文句を言いながらも、どこかおかしくて笑ってしまいそうだった。悲観的になっていた自分のことを、その一瞬だけは忘れられた。
そもそも、身体の動かない私には拒否権なんてない。シエラは瓶の口を半開きだった私の唇の間にねじ込んで、得体の知れない液体を口の中へと流した。
味も、食感も、ほとんどわからない。なんとなく液体が口の中に入ったような感覚だけがある。気色悪いけどどうしようもできない。為すすべもなくぼうっとしている私の頭をシエラがそっと持ち上げてくれたことで、液体はようやく喉の奥へと降りていった。
「今日はもう、帰ろう」
そっけないのに、シエラの言葉にはどこか力がある。いまさらそんなことを思った。
いまの一言もそう。疲れ果てた私の心と身体に甘く浸透して、気持ちが和らいでいく。だけど私は頷くこともできなくて、シエラの腕に抱かれたまま意識を失った。
風がそよぐ。生ぬるい、けれど寂しい夕暮れ時の風。
気がつくと私は神社の境内で横になっていた。家から歩いて数十秒のところにある小さな神社の、小さなお社の裏手。あたりはもう、日が落ちる寸前の薄暗い青に染まっている。
「あれ……」
ずいぶん長く眠っていたのか、頭の中がまだぼんやりする。眠る前の記憶がイマイチはっきりとしない。
ひとまず起き上がって鞄から携帯を取り出し、時間を確認した。
「まずい」
晩御飯の時間まであと十分もない。連絡もなしに遅れたら凜子がなんて言うか。
慌てて立ち上がり、早足でお社の前の階段を下る。鳥居をくぐって車道を渡って、閉店した薬局の前でふと立ち止まった。
ガラス戸にうっすらと自分の姿が映る。いつもとほとんど変わらない、可愛げのない自分の姿。そこに違和感を感じて、急がないといけないのに立ち止まらずにはいられなかった。
ガラス越しに見る自分の姿はあまりにもいつも通りで、自然で。
だから、おかしい。
「……」
そっと胸に手を置く。表面だけの空っぽの胸に。
霧がかっていた、眠る前の記憶が鮮明になる。私は死んだ。かりんも死んでしまった。それなのに私だけ死に損なって、こうして当たり前のように立っている。いつものように、家族の待つ家に帰ろうとしている。
怖い。このまま普通の日常に戻れそうな気がしてしまうのが。
怖い。死んだことがバレて、二度と日常に戻れなくなってしまうのが。
そんな簡単に泣くような人間じゃなかったはずなのに、また涙を流してしまいそうになって空を仰いだ。ちらりと視界の端に入った薬局の軒先にはツバメの巣があって、何羽もの雛たちが私の気も知らないで肩を寄せ合っている。
「かわいい」
思わず顔がほころんで、そんな自分に少しだけほっとした。
私は変わった。普通の人間の枠からは外れてしまった。
だけど私の周りの世界は、きっとほとんど変わっていない。たとえどんなに私が変わろうとも。
だからこうして穏やかな光景を見て、心が安らぐ時もある。それはきっといままで通りで、これからも変わらずにあるものなんだと思う。
大丈夫だ。少なくともいまは、いつものように振る舞えばいい。もしも何か不都合が生まれたら、それはその時に考えればいい。
そんな風に自分で自分を勇気づけて、私は帰るべき場所へと急いだ。
「ただいま」
玄関の靴が目につく。幸子はもとからお留守番だったけど、凛子も陽子もちゃんと帰ってきているのがわかった。きっともう、みんな食卓にいる。
二階の自室に駆け上がってベッドに鞄を放り投げ、踵を返すように食卓へと急いだ。
「おかえり」
食卓で待っていた凛子が言う。その一声で背筋が凍りそうだった。
死ぬよりも恐ろしいものを思い出したかのように。
表情をうかがったり周りを見たりしなくたってわかる。普段と違う凛子の声のトーンが、食卓の空気を重くしていた。
「……遅くなってごめん」
「手、洗った?」
「あ、あぁ。そういえば」
この場はもう、凛子に支配されている。自分の意思を持つことさえ許されないほどの緊張感に喉が干上がりそうだ。
自分の身に起きたことなんて記憶の隅に追いやられて、夕食ギリギリに帰ったことへの反省ばかりが頭の中を埋める。私は水道で手を洗いながら、思いつく限りの言い訳を考えた。
四人がけの食卓には既に三人が揃っていた。凛子、その向かいに陽子。陽子の隣に幸子。いつも通りの席順。
私は平静を装って席についた。怒られる予感と、恐怖を必死で隠して。
「いただきます」
「「いただきます」」
「いただきます……」
消え入りそうな陽子の声につられて余計に気が小さくなる。箸を持ったはいいけど、何から手を伸ばせばいいかわからず目の前の茶碗を手に取った。普段はおかずと一緒に食べる白いご飯をまじまじと見つめて、おもむろに一口分を口に運ぶ。こんな空気で食欲が沸くはずもなく、一口を飲み下すのにすら抵抗がある。
「冴子、今日はなにしてたの?」
あえていつもどおり"風"に言うのが怖い。慌ててご飯を飲み込んだけど、私は凜子の方に視線を向ける勇気がなくて手元を見たまま答えた。
「ちょっと、友達の家に……」
「ふぅん。そう」
食卓の真ん中に置かれただし巻き卵へと、凜子の箸が伸びる。その後を追うように幸子もだし巻きを一つさらっていった。普通に食事を進められる二人がうらやましくて、恨めしい。自業自得だから、そんなことを考えるのもおこがましいけど。
凜子が怒っているのは帰りが遅くなったからなのか、それとも陽子をろくに探さなかったからなのか。どちらかわからないせいで自分から口を開けない。だから謝ることしかできなくて、それが少しもどかしい。
「あんまり遅くならないようにね。ご飯冷めちゃうでしょ」
「ごめん。気をつけます」
「あとせめて、連絡の一つぐらいはよこしなさいよ」
「はい……ごめんなさい」
でも、それだけだった。キツく掘り下げられるのを覚悟していたけど、私に対する説教はそれでおしまい。
凜子が箸を置く。何かを察したように陽子も箸を置いた。怒られる恐怖から少し解放された私はそっと顔を上げると、いまになって陽子が半泣きなのに気付いた。
本命の、怒りの矛先は陽子だ。




