私はだれのために
背後から燃えるような日差しが差しこむ。夕焼けはかりんの部屋を、私たちを紅く染めた。まるでステージのセットを切り替えたみたいに。
天井に張り付いたオオカミ型の黒い影を見据える。陽射しに照らされても影の色は変わらない。そこだけ世界から切り取られたみたいに、不自然な色で揺らめいていた。
かりんから出てきた、あれはいったいなに?
「はぁ。まあいいわ。あとよろしく。落ち着いたら死体の方も片付けといて」
つまらなさそうに言った女性は身体を起こすこともなく、煙のようなもやをかすかに残してどこかへ消えた。おかげで見当たらなかった遺体の所在にはあたりがついて、少しほっとする。
だけどすぐ、目の前のことで頭がいっぱいになった。
「あれは抜け殻。宿主の感情が形になったもの」
「感情が……じゃああれは、かりんの」
「勘違いしてはダメ。あれは吐き出されたモノに過ぎない。その時点で宿主との繋がりは断たれている。だからあれは、人に害を与えるただの化け物」
化け物。確かにあの女性も言っていた。「化け物」を捕まえると。
おぼろげな輪郭の黒い影は、この世のものとは思えない質感に見える。ぬめりのある毒ガスと言えばいいのか、なんにせよ化け物と呼ぶのにふさわしい様相をしていた。
「そんなもの、あの人はどうしようとしてたの?」
「リラは、」
何かに気付いたシエラが口をつぐんでわずかに身を低くする。
とっさにオオカミの方へ視線を戻した瞬間に、身の危険を感じて鳥肌が立った。
「くる」
少し前まで逃げ腰だったのが嘘のように、オオカミは俊敏に壁を蹴って飛びかかってきた。
シエラは慌てる様子もなく、瞬く間に大ぶりの蛇を繰り出して尻尾の薙ぎ払いで牽制する。
異変に気付いたオオカミは素早い動作で床を蹴り、尻尾をかわして踵を返すように部屋の奥へと戻った。かと思えば、またすぐシエラの蛇に挑みかかる。血の気が多いことは明らかだった。
「リラは、あれを捕まえてコレクションにしようとしてた」
蛇とオオカミの攻防を前に、シエラが悠然と話しだした。
その間にも一方が噛みつき、また一方も噛みつき、互いの傷口から黒い靄が立ち上る。そんな光景が気が気ではなかったけど、幸いにもかなえさんに危害が加わる様子はなさそうだ。
戦闘を蛇に任せて悠長に話すのも気が引けるけど、私は興味を抑えられなかった。
「コレクションって?」
「言葉の通り。しもべにしたり実験したり飾ったり、リラの気の向くまま」
言葉を失った。いくらなんでも趣味が悪い。
たとえあれが危険な存在だとわかっていても、それを許していいとは思えない。
「そんな……ひどい」
「相手が化け物でも?」
「……化け物だって化け物なりの気持ちがあると思う。そうじゃなきゃ、きっとあんな風に争わないよ」
オオカミは執拗に蛇を攻撃しつつも、隙を見て私たちの方に飛びかかろうとする。そんな様子を見ていると、何かの意思に突き動かされているように見えて仕方ない。
私たちを襲おうとする気迫は伝わってくるけど、蛇の方が上手でオオカミの手が届くことはなかった。しかもオオカミを傷付けすぎないよう、蛇は慎重に立ち回ってくれている。そんな様子が見て取れた。きっとシエラの指示だろう。
もしかして、私が「どうしたい」か決めるのを待ってくれているんだろうか。
ちらりと横を向くと、シエラは無表情で争いを眺めていた。
「優しいね」
視線を外すことなく、また色のない声でシエラが呟く。感情が読みとりにくいのは今更だけど、本気でそう思っているのか馬鹿にしているのかわからなくて、少しやきもきした。
でも、もしかしたら深くは考えていないのかもしれない。私が考え過ぎているだけで。
「……本当は、怖いだけなのかも」
「怖い?」
そう、怖い。たぶんそれが本音。
いまこの場に限ったことじゃない。どこかで誰かに優しくできないと、私が誰にも優しくされなくなる。そうして誰からも見放されるのがひどく恐ろしい。
そんなことを、いつもいつも腹の底で考えている。だからすぐに同調するし、同情する。たとえ相手が化け物でも。
きっと私は、本当の意味では優しくなんかない。
そこまで語るのは気が引けて、肩をすくめてごまかした。
「ところであれ、放っておいたらどうなるの」
「始末せずにわたしたちが立ち去った場合?」
物騒な言葉選びに思わずたじろいだ。でも間違ってはいないから、私は頷いた。
「抜け殻は依り代がないと自然に消えていく。だからおそらく、藤宮かなえの身体を再び乗っ取って身体が壊れるまで暴れる。壊れたら新しい依り代を探してさまようか、影の状態でまた暴れまわる」
「身体が……壊れるまで……」
壊れる。それはきっと死ぬということだろう。血だらけのかなえさんを見れば、シエラの推測が的外れでないのがわかる。私の返り血がほとんどだろうけど、たぶんこれ以上はまずい。
どうにかしないと。ここまで来ておいて何もせずに逃げるなんてできない。そんなことをすればかなえさんが犠牲になるし、私のような犠牲者も増えてしまう。
それに、あの化け物――
「やつらはそういうもの。消えるまで、宿主が望んだように際限なく壊し続ける」
「望んだ……?」
「言ったはず。あれは宿主の感情が形になったものだって」
かりんが、望んだ。
何かを壊したいと望んだ。
いつも笑顔を振りまいていたあの子が。
空っぽの胸が脈打ったような錯覚を覚えた。
どうして。いったい何を望んだの。
わからない。そんなそぶりは欠片も見たことがない。
でも。
私が知らなかっただけで、教えてもらえなかっただけで、笑顔の裏にずっと何かを抱えていたんだとしたら。
否定したいけど、それなら辻褄が合う。首を吊ってしまうだけの理由がきっと、そこにある。
「……ねえ。教えて」
絶え間なく蛇と争うオオカミを見据えたまま、私は震える声を絞り出した。
「あれは本当にかりんから出てきたの?」
「証拠を示すのは難しい。だけど、わたしとリラで確認した」
虚空を見つめ、それから静かに目を閉じた。
信じよう。シエラがそうだと言うのなら。いつまでも自分の理想に囚われていては、きっと真相にたどり着けない。永遠に前には進めない。
だから私は受け入れて、かりんと向き合いたい。
そっとまぶたを持ちあげ、私はオオカミを見据えた。
「あれ、どうしたら倒せる?」
後腐れなく楽にさせてあげようだなんて、口が裂けても言えやしない。これは私の勝手。私の自己満足。それでも、私に判断を委ねられたというのなら。
私なりのけじめをつけよう。
罪悪感が消えるわけじゃない。壊すことがかりんの願いだったのなら、私はそれを、その願いを壊すことになるから。
それでも、私は止める。
「刀で切ればいい。そのうち弱って、消える」
「そう。わかった」
シエラより一歩前に出た。右手に鞘のない刀を持って。
自分の背よりも高く胴を伸ばした蛇の影に迫ると、戦闘の余波が風圧として伝わってきた。ここまで来るとさすがに迫力が違う。
正直に言えば、怖い。たとえ死なない身体だとしても。
「サポートは?」
「……あいつがこの部屋から逃げられないように。あと、かなえさんを保護してほしい」
振り向かずに答えた。左右に刀を軽く振って、刀身の長さを調整するために。
「それ以外は、いい」
自分でも大口を叩いたと思う。刀の扱いもろくに知らないのに。魔法でできるのは刀を出すところまでで、動くのは自分の力。あとは勘だ。
鈍く光る刀身に映る私は頼りない顔をしていた。我ながら情けない。
それでも助けは借りない。これは私のけじめだから。
「もし負けたら、代わりに倒してね」
振り返った私は不安をごまかすように笑った。シエラが無言で頷いてくれたのを見届けて、私はまた正面へ向き直る。
まぶたを閉じ、深呼吸をひとつ。吸い込んだ空気が肺に届いたかはわからない。気持ちの問題だ。
右手で柄の感触をしっかりと確かめ、そっと左手を添える。身体の正面を守るように、竹刀のように刀を構えた。
「頑張って」
色のないシエラの一言に合わせて、蛇の影が霧のように消える。オオカミは驚き飛び退いて部屋の奥で身構えた。
「グゥゥ……」
低くうなるオオカミは、目のない顔で私を見つめている。静かに、確かに私を。
何か声をかけたい気持ちになって必死でこらえた。
いまこの場に、余計な言葉は不要だ。
「ッ――」
オオカミが横に跳んだ。
右へ、左へ。壁を蹴って、気付けばもう私の真横にいる。
「ぐっ」
鋭い爪の一閃。脇腹に痛みが走る。遅れて振るった刀は宙をおどった。
痛みを無視して振り向きざまに刀を薙ぐ。だけど、刀はまた空を切る。オオカミが視界の中にいない。
「はっ」
直感的に上を向いた。オオカミの頭部はもう頭上から迫っている。一歩下がるのさえ間に合わない。
反射的に首を傾けて、頭をやられるのは避けた。が、左肩に思い切り噛みつかれた。
「うぅ……」
肩の肉を抉るだけでは飽き足らず、執拗にも噛み付きなおしてくる。突き立てられた牙は鎖骨にぶつかって、ミシミシと嫌な音を立てた。
振り解こうにもあまりの力で振り解けない。身を捩ろうとすると余計に骨が軋む。
痛い。けど、これはチャンスだ。
右手に持ったままの刀、その刀身を調整する。イメージはナイフ。それを逆手に持ち替えた。
「っああ!」
パキンと、音がした。
一瞬の激痛に顔が歪む。持っていた短刀を落としそうになって、慌てて力をこめた。
壊すよろこびに浸ったんだろうか。そこでオオカミにわずかな隙が生まれた。その緩んだ一瞬を私は見逃さない。
「アァーー」
私の骨身を咀嚼しようと離れないオオカミの首に、思い切り短刀を突き立てた。その瞬間、勢いよく黒い靄が噴き出して視界を遮る。
それもつかの間のことで、短い悲鳴を上げたオオカミは跳び退って天井に張り付いた。首には短刀が柄まで突き刺さっていて、その周りからとめどなく靄が上がっている。
部屋の奥、気付けばかなえさんの姿はない。もみ合っている間にシエラが保護してくれたんだろう。
落ち着いて呼吸を整えた。
脇腹や肩の痛みはもう感じない。骨も確実に折れているはずなのに、左腕は普段通りに動きそうだった。なんて自由で、気味の悪い身体なんだろう。
感傷もそこそこに、オオカミへ視線を戻す。私の手から離れた短刀はいつしか消えている。攻撃は効いていたけど、まだ致命傷ではないらしい。恐怖よりも怒りの気配を感じる。びりびりと肌を痺れさせるような気配を。
怒気にあてられたせいか、次の一手を迷う。その迷いを、オオカミも見逃さなかった。
武器を手放した丸腰の私。殴る力もたかが知れる。しかも手負いで、反撃の余地なんてない。そう信じたオオカミが正面から跳びかかってきた。
端から見れば、それが正しい。だけどもう、私に普通は通用しない。
時間が止まったように思考がめぐる。
ああ、ごめん。ごめんね。
私に"魔法"が使えたら、救えたかもしれないのに。
私が弱いから救えない。
弱かったから、救えなかった。
本当に、ごめんね。
右腕で胸を庇いながら、私は懺悔する。
右手に短刀を生み出す。虚空から生み出した刀の刀身を長く、正面へ伸ばす。まっすぐに向かってきたオオカミの喉へと。
「ァァ――――」
声を上げたその一瞬、驚きのような諦めのような気配がかいま見えた。それが余計に悲しくて、視界が潤む。
私は、ただ長い刀身を支えるだけ。
跳躍の勢いを止められなかったオオカミの影は、自ら刀に突き刺さって、終わった。




