どうしてそんなに―――――
「冴子」
声をかけられて我にかえった。いつしか遠ざかっていたあぶら蝉の鳴き声が現実と一緒に戻ってくる。身体を伝う汗や、小さな窓から差し込む日差しの熱が私の意識を次第にはっきりとさせた。
気付けば蛇口から水を流したまま、手も動かさずに立ち尽くしていた。目を覚ますように首を振って蛇口を閉め、びちゃびちゃに浸ったシャツを引っ張りあげてシエラに微笑みかける。
「ごめん、大丈夫だから」
「?」
シエラがきょとんとする。それもそうかもしれない。
私はどうして謝ったんだろう。訊かれてもいないのに大丈夫と応えたのは何故だろう。自分に言い聞かせるためだろうか。
「わたし、そろそろ行くね」
「行くってどこに?」
「藤宮の家」
藤宮。かりんの家だ。
その一言でゆるみかけていた気持ちがぴんと張り詰めた。あそこに戻ったらいったい何があるんだろう。私が死んだあと、あの場がどうなったのかはわからない。ここで目覚めたのはきっとシエラが助けてくれたからなんだろうけど、かりんのお母さん――藤宮かなえさんや、かりんの遺体がどうなったのかを私は知らない。
確かめたい。あの場に戻って。
「私も行く」
「やめた方がいい。冴子は家に」
「お願い!」
断られることぐらいわかっていた。私のことをあんなに諭してきたんだから。やめた方がいいと言ったのも私のためなんだと思う。その気遣いは素直に嬉しい。
でも、
「いま行かないと私、きっと後悔する。行っても行かなくても後悔するならせめて、行って後悔したい。だから止められても行く」
かりんのことが絡むと、どうしても強情さが表に出てしまう。なんでもいいから、けじめをつける足掛かりが欲しくて。
シエラは少し考えるように虚空を眺める。息巻いて止められても行くとは言ったけど、もしあの黒い影をけしかけられたら押し通れる気がしない。あと一押し、納得させるための理由があれば。
「それに、あの部屋に私のサコッシュがあるはずだから。あれがないと帰れないの」
苦し紛れとはいえ、それっぽい言い訳だと思う。帰れないは言い過ぎだけど、実際にサコッシュはあの部屋に落ちているはず。嘘は言ってない。
いつしか蝉の声は止んで、あたりがしんと静まり返っている。ずぶ濡れのシャツから滴った雫が水たまりに落ちる音だけがこの場を支配した。水のはじける音は時計の秒針のように焦燥感をあおるけど、私はもう返事を待つことしかできない。お願いだからと心の中で祈りながら。
それからどれだけ経ったか、ついにシエラが口を開いた。
「わかった。すぐに出るから服を着て」
「え、あ……うん。ありがとう」
意外にもあっさりとしていた。まだ渋られるんじゃないかと思っていたから、思わず間の抜けた声を出してしまった。
シエラの気分が変わらないうちにと急いでシャツを絞る。少しぐらい濡れていてたっていい。絞ってくしゃくしゃになったシャツを頭から被って腕を通したところで、シエラがぽんと私の頭を叩いた。
反射で目を閉じた、その一瞬。
気がつくと目の前の景色が変わって、私は住宅街を見下ろしていた。
「え――」
「静かに」
声を上げようとしたところでシエラに口を塞がれた。
ほんの数秒前と立っている場所が違う。これもきっと魔法だ。そう理解するのは早かったけど、状況の把握には少し時間がかかった。普段いるはずのない場所に立って、いつもと違う角度で見る景色だったせいだ。わかってしまえばなんてことはない。
ここはかりんの家。藤宮家の屋根の上だ。
「おかえり。ってあんた、連れてきちゃったわけ?」
「仕事の邪魔はさせない」
「そういう問題じゃないんだけど……ま、いっか」
シエラが誰かと言葉を交わしている。会話の内容からしてシエラ側の人だろう。
おそるおそる振り返ると私とシエラの他にもう一人、くすんだ金髪を風になびかせる長身の女性がいた。顔立ちからして見るからに日本の人ではない。それなのに二人とも達者な日本語で話していたのは奇妙な感じだ。
「ハァイ。どうも」
「こ、こんにちは」
女性はにこやかにほほ笑みかけてくれた。それだけなのに、なんとなく怖い感じがした。腹の底が見えないというか、裏に何かを秘めているというか。この状況のこの場にいるからには魔法使いなんだろうけど、そんなことはもはや気にならなかった。
「今からすること、シエラから聞いてる?」
「いえ、なにも……」
気が気でない私はうわずった声で答える。すると女性はあからさまに面倒な顔をして、大きくため息をついた。背筋が凍るような気持ちになったけど、ため息の原因は私じゃなかったらしい。
「あんたね、そういうとこだから」
シエラに人差し指を向けて悪態をつき、女性は長い髪をかきあげる。その動作の流れで髪を後ろにまとめると、かんざしのようなもので髪を留めた。ほっとした私は、美しさを漂わせる一連の動作に思わず見惚れてしまう。
「あなた、えっと……」
女性が再び私の方を見る。驚いて何も言えずにいる私の代わりにシエラが口を挟んだ。
「冴子」
「そうそう、それ。冴子ちゃん。申し訳ないけど詳しい説明は後ね。察しはついてると思うけど、いまから化け物つかまえにいくから」
そう言って彼女が指差したのは屋根の下、かりんの部屋だ。
かりんが死んでいた場所であり、私が殺された場所。思い出すほどに心が軋む。ほんの数時間前のできごとなのに、遠い昔のようにさえ感じてしまう。それほど記憶の深い部分に根付いてしまったということだろう。
「ところで、化け物っていったい」
「後で。わかった?」
「……はい」
女性は笑顔だったけど、言葉じりは鋭くとがっていた。いまこれ以上きくのはやめよう。
「シエラ準備は」
「できてる」
「よし」
何の準備か、それもきっとこれからわかることだ。
なんの宣言もなく女性は屋根から飛び降りた。位置的にはおそらく二階のベランダに降り立っている。その後に続こうとするシエラが、視線で「おいで」と言ってくれたように見えた。
「うん」
短く応えて二人の後を追う。ベランダに着地して部屋の方を振り向くと、すでに剣呑な空気が漂っていた。
ガラス戸のすぐそばにあったはずのかりんの遺体はどこへやら、視界に入った人影は三人だけ。先に降りた二人はガラス戸のすぐ内側に、かなえさんが部屋の奥に立っている。
どくんと、空っぽの心臓が跳ねた。
自分が死んで、ここでのことは終わったような気がしていた。私を殺したかなえさんがこの場をうまく処理してかりんの遺体を埋葬して、それからしばらくは空き部屋にされてゆるやかに終わっていく。勝手にそんな結末を想像していた。
だけどまだ、終わっていない。
かなえさんの様子は明らかにおかしい。不気味なほどの猫背。獣に引っ掻かれたようにぼろぼろな服。顔から足元までこびりついた返り血。私を殺すときに見せた狂気の色が、収まるどころか濃くなっていた。
「お待たせ。かわいこちゃん」
女性は嬉しそうに、猫撫で声で言い放った。部屋の奥から剥き出しの敵意を向けるかなえさんに対して。
「ウゥゥ……」
獣のような低いうなり声に寒気がする。怖いんじゃない。何かが乗り移っているみたいで、あまりにも気味が悪いから。
「ハッ」
短く息を吐いたかなえさんは攻撃を仕掛けてくるかと思いきや、横っ跳びで開けっぱなしの扉の外に逃げようとした。だけど彼女の身体は見えない壁にぶつかったように勢いを止め、その場にだらりと崩れ落ちる。
それからすぐに起き上がると見えない壁に何度も頭を打ち付け、出られないいらだちを発散させるように自らの身体をかきむしっていた。かきむしる手に刃物でも持っているのか、そのたびに衣服が破れて新鮮な血がだらりと流れる。
まるで檻から逃げ出そうとする猛獣のようだった。あまりにも荒々しくて、痛ましくて、思わず目をそらしたくなる。
「よしよし。結界は問題ないわね」
悲痛に顔をゆがめる私とは裏腹に、女性は気の軽い声で呟いた。満足げに頷くとかなえさんを怖がる様子もなく、ヒールを鳴らして彼女に歩み寄っていく。その様子はさながら獣の飼い主のようで、なぜか無性に腹が立った。
一方のかなえさんは威嚇しながら、逃げ道を探しているように見える。
「どうしてそこまで身体にこだわるのかしら? ……なーんて、あんたらに話が通じるわけないかぁ」
壁の方へ後ずさるかなえさんに向かって女性が手を掲げる。
「グッ……オァッ」
その瞬間、かなえさんが苦しみ悶え始めた。両手で首にまとわりつく何かを引き剥がすような動作をしているけど、ここからでは何も見えない。
見えないけど、明らかに呼吸ができていない。額に青筋が浮かんで顔が赤らみ始めている。
「ちょっと! 死んじゃう!」
「アハ。さっさと楽にしてあげる」
私の方を振り向きもせず、女性は掲げた手を下ろさなかった。見えない何かの力でかなえさんを苦しめている、その手を。本気で殺すつもりなのかもしれない。
止めないと。
「冴子」
駆け出そうとした私をシエラが片腕で制した。
「どうして――」
「ィィ――――!!」
シエラを問いただそうとしたその時、不気味な声が耳をつんざいた。
慌てて部屋の奥へ視線を戻すと、かなえさんの口から黒い影が吹き出している。それはシエラの操る蛇とよく似た質感の影だった。
影を吐き切ったかなえさんは気を失ったように倒れ、代わりに噴出した黒い影はかりんのCDラックの上へ集まって徐々に形を作っていく。
「チッ。ただの抜け殻か」
「グルォ……」
犬――いや、オオカミだ。ラックの上に収まりきっていない図体のせいかわからないけど、なぜか犬ではなくてオオカミだという確信があった。
わずかに予備動作を見せたオオカミ型の影は、凄まじい速さで女性に飛びかかる。それをもろに食らった彼女はオオカミに組み伏された状態になった。
「ッ!」
ところが飛びのいたのは、噛み付こうとしたオオカミだった。オオカミは天井に四肢を張り付けて警戒している。
何が起こっているのかさっぱりわからなかった。ただ漠然と、力関係だけは見えた。
「あー、飽きた。いらない」
床に寝そべったままの女性は気だるげに、どこか怒りを交えた声色で呟いた。
「そうだ、冴子ちゃん。いいこと教えてあげる」
「えっ?」
女性はこちらを向くこともなく、気だるげに天井へと声を投げる。
「この黒いのさ、藤宮かりんから出てきたものなんだよね」
「な――――」
息が。思考が。ぴたりと止まった。
「これ、どうしたい?」




