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Bad Apple  作者: 遠山千佳
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もしも烏が泣いたなら

 声も出せず、突き刺さった刀をまじまじと見つめる。病人のように青白い、少女の腿を抉った私の短刀を。

 少女は微動だにしない。悲鳴もあげない。

 人の声も風の音もない無限のような静寂に、私の方が嗚咽を漏らしそうになった。


「満足した?」


 声につられて顔を上げる。少女は涼しい顔で私を見つめていた。怒りどころか、痛みすら感じていないとでも言いたげに。

 沸騰していた心が鎮まっていく。右手に残る肉を抉った余韻が、罪悪感をふつふつと掻き立てて消えてくれない。


「あ……」


 意識が塗り変わると同時に、短刀は空気に溶けるように消えていった。それで傷痕まで一緒に消えるはずもなく、深く切れ込みの入った少女の肌は追い討ちのように私の心を抉る。


「あぁ、いや……」


 絞り出された声は、我ながら情けないものだった。

 もしも"魔法"が使えたら、治すことができたのかもしれない。過ちが許されるわけではないけど、せめてもの償いはできたかもしれない。

 でも、悔しいけど、私に"魔法"は使えなかった。


「わかった?」


 少女は平淡な声で言う。そんな何気ない一言は無数の針になって身体中を突き刺した。

 いや、本当に針が降り注いで傷だらけになった方が、まだマシだったかもしれない。

 私は何も言い返せない。呼吸をすることも忘れて、ただ懺悔するように傷痕を見つめるので精一杯だった。


「わたしのことはいい。ただ、死なないからって蔑ろにするのはダメ。身体も、心も。冴子にはまだ、帰る場所があるんだから」


 少女が無機質な声で、いまにも壊れそうな私を優く包む。

 いっそ壊してくれたらいいのに、と思う。

 そしたら少しは楽になるのに。

 そうしてくれないのは、中途半端が一番苦しいとわかっているからだろうか。


「今日は帰って、ゆっくりした方がいい」

「帰る……なんて、」


 家に置いてきた幸子の顔がふっと浮かんだ。

 妹を探しに出た凛子の姿を思い出す。

 ついでに、いけ好かない陽子のことも。

 いまこの瞬間にはバラバラの場所にいるけど、きっと夜にはみんなが家に帰って、同じ食卓を囲むだろう。今日の晩御飯は幸子が担当で、それを凛子か陽子の話を聞きながらみんなで食べる。思い浮かべた食卓の風景はいつもと変わらない。

 聞き上手の幸子は静かに相槌をうって。

 時たま突っかかってくる陽子と私が衝突して。

 凛子がみんなの仲を取り持つ。

 今日もそんな、いつもの時間がやってくるはずだった。


 だけど、いつも通りだった私はもういない。


 いくら普段通りに振る舞っても私の身体は死んでいる。幸か不幸か死に切れなくて、おかげで魔法を使えるようになった私は、今までの私に戻ることができない。

 ずっと、永遠に。


「……ない」


 確かめるように視線を落とす。胸元の破けた薄手のネイビーのシャツ。その穴から血で汚れた下着がちらりと見えて、さらにその下は言葉にするのもはばかられる有様だった。正面から覗けば、きっと反対側が見える。そんな状態なのに血は止まっていて、衣類の紅いシミはもう黒ずみかけていた。

 わけがわからない。それなのにこの状況を受け入れかけている私は、もう壊れて狂っているのかもしれない。


「……帰れない。こんな姿で。こんな私で。かりんにどころか家族にも、もう――」

「服の問題? 身体の問題?」


 拍子抜けするような声で、少女が私の言葉を遮って問いかける。

 違う。そういう問題じゃない。そうじゃないから、わかってくれようとしなくていい。

 どうせ他人のことなんてわからないんだから。

 だけど、そんなことを言える立場ではなかった。反応のしかたに困って俯いていると、少女はおもむろに私のシャツの襟元を引っ張りあげた。


「きゃ!」


 ぬるりとした何かが上半身を這う。あまりの気持ち悪さに身体がこわばって、抵抗する間もなく服を脱がされた。

 ボロボロのシャツは黒い影と一緒に少女の手元に収まり、私はあられもない姿になる。


「や、ここ、人が」

「人払いしてるから。気にしないで」

「いやでも――」


 だからそういう問題じゃない。この子は肝心なことをわかってくれない。天然なのか箱入りなのか、どこか普通の感覚とズレていると思う。あくまで私の基準での話だけど。

 両腕で下着を押さえながら説得の方法を探っていると、少女はシャツを黒い影に預けるや否や私の腕を解きにかかってきた。


「え、なに。やだ、あなたそういう――」

「シエラ。わたしはシエラ」


 脈絡もなく名前を告げた少女の眼は、不思議な光をたたえていた。

 真っ直ぐで、綺麗に澄んでいて、でもどこか影があって。

 そんな言い様のない瞳の説得力に気を取られた私は、ついに青空の下で下着まで脱がされてしまった。


「じっとして」

「……うん」


 半ば放心状態で頷いた。少女は――シエラは私の胸の空洞に両手をあてがうと、何かを呟き始めた。何をしているのかはわからないけど、ぽっかり空いた穴の中を埋めようとしてくれているのは想像がついた。そんな馬鹿な。とは思っても、いまさら抵抗する義理もない。

 私はシエラに身を委ねながら、黒い影の方を眺めた。蛇の形になった黒い影は、シャツの破れた部分に細かく牙を立てている。おそらく穴を広げるためではなく、縫い付けるために。黒い影を糸代わりにして、その蛇は修復作業に当たってくれていた。

 奇妙な光景だ。何もかも。

 この数時間でがらりと世界が変わってしまったようで、何に思いを馳せるべきかわからなくなる。


「……疲れた」


 ぽつりと言葉が漏れた。

 警戒する相手も、気を遣う相手も、思いやる相手も、いまは目の前にいないからだろうか。

 疲れたけど、少しだけ落ち着いた。それは少なからずシエラのおかげだと思う。でも、素直になれない私はありがとうと言えなかった。


「選択肢はいろいろある」

「え?」


 よく聞き取れない独り言を呟き終えたシエラの両手が、ぼんやりと温かく発光する。


「これからどうしたいか、選ぶのは冴子」


 両手を私の胸にあてがったまま、シエラが意味ありげなことを言う。何が言いたいかはわかった。

 だけど、


「選ぶだなんて」

「できるよ」


 できない。そう言おうとした私の言葉に被せて、シエラはきっぱりと言い放った。

 一言。たったの一言が波紋のように拡がって、私の中で反響する。

 本当に私の望む選択肢がどこかにあるような、そんな気さえしてくる。

 平淡な声色の彼女の言葉にどうしてそれだけの説得力を感じるのか。私を見つめるその目をじっくり見返して、なんとなくわかったような気がした。

 同じとは言わない。けど何か、彼女も似たようなものを背負っている。確証なんて全くない。これはただの直感。実際はどうなのかなんて、そんなことを聞くほど私はデリカシーのない人間じゃない。


「はい」


 治療の終わりを告げるようにシエラの手が離れた。すかさず胸を隠して、その感触でもうわかった。


「すごい……」


 ぽっかりと空いていた穴が塞がっている。感触にも違和感はない。

 ちらりと視線を落としてみると、残念ながら見た目は元通りじゃなかった。大きなかさぶたのように黒い影が胸元の傷口を塞いでいる。不気味でないと言えば嘘になるけど、十分な処置だった。どうせ他人には見えない部分なんだから。


「ひゃ」


 シエラのいたずらごころなのか、二匹に増えた黒い蛇はわざわざ私の身体をぬるりと這って目の前に現れた。一匹は下着をくわえて、もう一匹は穴の部分を縫い合わせたシャツをくわえて。


「ありがと」


 シエラではなく、蛇にお礼を言って下着を受け取る。下着は変わらず血まみれだけどどうしようもない。諦めてさっと身につけてシャツも受け取った。

 赤黒いシミが胸元から広がって、かぴかぴになったシャツ。こっちは地が紺色だから、洗えば多少はごまかせるかもしれない。


「ねえ。洗いたいんだけど、これって水に濡れたり擦ったりしても平気?」

「縫い目の強度は保証する。元の服のは知らない」

「そう」


 それならもみ洗いもできそうだ。高い服でなくて良かったと、この期に及んでそんなことを思った。

 私は納得したように頷いて周りに人がいないか警戒しながら改札内のトイレまで歩いた。どうやら本当に人払いをしているらしくて、目の届く範囲では人影に怯えずに済んだ。もしここが無人駅じゃなかったら駅員さんはどうしていたんだろう。


「っと」


 あまり手入れの行きとどいてない手洗い場の蛇口を捻る。綺麗じゃないとか、この際文句は言っていられない。シミのできた部分を流水にさらして、できるだけシミが広がらないように注意してシャツを擦った。

 血を洗う水は紅く染まり、手洗い場を汚していく。固まっていた血が溶けたせいか、忘れかけていた生臭い鉄のにおいがつんと鼻を抜けた。

 ああ。私はいったい何をしているんだろう。

 ふと顔を上げてトイレの外を見る。夕暮れ時でも衰えない日差しの差す、駅のホームと田舎の景色が視界に広がっていた。こうしてみると、普段と何も変わらない日常が目の前にある。トイレの中は血のにおいが充満する非日常だけど、シャツを洗い終えて一歩外に出れば元の世界が待っているような気がした。

 でもそれが幻であったらと思うと、怖くて怖くて仕方がない。

 一歩を踏み出す勇気が出ない私は、紅い流水が透き通ってもなお無心でシャツを洗い続けた。

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