滴こぼれて
彼方へ消えた陽子は、ついに昼ご飯の時間になっても帰ってこなかった。携帯にどれだけ連絡を入れても反応がないし、どこにいるかは未だに見当もつかない。心配かと聞かれれば私は首を横に振る。あいつのことだから、凛子たちに心配だけかけさせて好き放題してる頃だ。
しかし事情を聞いた凛子は珍しく落ち着かない様子を見せて、掃除が終わって帰るなり警察と知り合いに連絡を入れて、自転車で出ていった。あまりの必死さに、どうせそのうち帰ってくるよ――なんて無責任なことは言えなかった。
私と幸子は特に指示を受けることも無く、暗黙の了解で留守を任された。凜子と入れ違いで陽子がひょっこり帰ってくるようなことがあれば報せないといけないし、あいつのことだから可能性は十分にある。
魔法なんて使えてもろくなもんじゃないな、と思った。少なくともかりんが夢見るようなものとはほど遠い。空を飛ぶことができても、周りは幸せになるどころか迷惑を被るだけだ。そう、かりんの家へ向かう電車の中で思いを馳せる。車窓から空の様子を眺めてみても怪しい影は見当たらなくて、夏らしくもっちりした雲が浮かぶ青空が平和に広がっている。何の変哲もない、いつもの景色だ。
陽子のために一日をふいにするなんて馬鹿げている。だから念のために陽子を探しに行くという口実をつけて、留守は幸子に任せてきた。腹の中はきっとバレてるけど、別にいい。私が陽子と関わらないようにしようとするのもいつものことだ。幸子はもちろん、きっと凛子も理解してくれる。
到着した最寄り駅から二十分ほど歩いた先の、閑静な住宅街の中ほどにかりんの家がある。高校の通学定期圏内とはいえ、そう近いわけでもない。昨日はわざわざ私の町の花火大会まで足を運んでくれて、その上遅くまで一緒にいてくれたのがほんの少し申し訳なくなる。そのお返しになるかどうかはわからないけど、かりんが喜びそうな話のネタは持ってきた。
「ごめんくださーい」
インターホンに呼びかけるとまもなく玄関の戸が開いた。エプロン姿で顔を見せたのは、かりんのお母さんだ。
「あら冴子ちゃん。どうぞ上がって。かりんなら部屋にいるはずだから」
「はい。お邪魔します」
お互いに慣れたもので、特に用件を交わすこともなく家に上げてもらった。脱いだ靴を揃えて玄関の隅に置き、私は慣れた足取りでかりんのいる二階に向かう。
その時ふと、階段の途中で足が止まった。かりんを訪ねるのに何か引っかかるものがある。ここまで来ておいて何をいまさら、とは思っても、やっぱり何かが私の後ろ髪を引く。私からの第一声を考えて、それからの会話の切り出し方を頭の中でシミュレーションしてみたらその原因がわかった。
どんな話し方をするにせよ、陽子が話題の矢面に立つ。それが気に入らない、いたってシンプルなことだった。陽子のことは気に入らない。だけど魔法の存在はかりんに報せたい。そうしてかりんに喜んでほしい。
喜んでもらえたら、私も嬉しいから。
「ああ、そうだ」
それに、無理にこの話題を持ち出す必要はないんだ。驚かせてやろうと思って連絡もせずに来たけど、だからこそ用意していた話をする義務もない。いつも通り、気の向くままに遊びに来たと言えばいいし、今日はダメと言われればまた出直せばいい。
それに気付くと心が軽くなって、ようやく階段を上る足が動き出した。陽子がどうなろうと私の方は普段と同じ。なんてことは無い。半ば自分に言い聞かせるようにして、突き当たりの扉を開いた。
「かりん、遊びに――――」
どうしてだろう。
キィィ……と開いたドアの軋む音が、やたらと響いて聞こえた。ドアの動きが止まって音が止んでも、耳の奥にざらざらと余韻が残る。小さなノイズは頭の中に張り付いて、いつまでたっても消えてくれない。ドアの音なんて、普段なら気にもかけないことなのに。
「遊びに、きた」
視界に入ったのはいつもと違う、気味の悪いほど綺麗に片付いた部屋だった。いつも化粧道具が雑多に置かれているミニテーブルはまっさらで、賑やかだったCDラックの上にも物がない。
一歩を踏み入れる。クーラーが効いていないおかげで、ねっとりした湿気と熱気が身体に重くのしかかった。それがひどく気持ち悪いのに、身体は何かに誘われるようにまた一歩と引き込まれていく。
衣装ケース。
勉強机。
本棚。
ベッド。
部屋を構成する要素の一つ一つに視線が移る。どれもこれも綺麗だけど、いびつで、いつも見ていたはずなのに見慣れないもののようだった。
心臓が大きく脈打つ。身体は杭で打たれたように動かない。息が苦しい。
あれ、呼吸ってどうするんだっけ。
口の中がカラッカラに渇く。その癖、全身から吹き出す汗は止まらない。
死にそうなほど苦しい。
殺されそうなほど怖い。
逃げたい、帰りたい。それでも。
気付かないふりなんてできるはずがなかった。そんなことをしたら、誰より私が私を許さない。もう、腹を括るしかなかった。
ドアを開けてからずっと、意識的に逸らせていた視線。それをゆっくり、ゆっくりと持ち上げる。
ベランダにつながる大きなガラス戸。カーテンは脇に括られている。そしてカーテンレールからぴんと伸びた綺麗な装飾の紐。その紐の先で陽光を遮っているのは、
膝をついて頭を垂れる、かりんだった。
まるで絵画のようだった。帯締めか何かの紐で首を吊っている姿が、さながらガラス戸の額縁で切り取られたかのようで。下ろした髪や着崩れた浴衣が艶めかしくて、綺麗で、だからこそ酷く現実離れして見えた。
部屋の中ほどに立ち尽くして、私はただ呆然と目の前の光景を眺める。いまは足下まで伸びるかりんの影を踏むこともできない。この先は神聖な空間で、立ち入ることは許されない。そんな錯覚に足を取られた。
でも私は、禁忌を犯してでも一歩を踏み出さないといけなかった。
だって、膝は床についている。まだ生きているかもしれない。だから確かめないといけない。私が、この目で確かめたい。
敢えて影を踏むように、重い一歩を踏み出した。その瞬間に鍵が外れたように重圧が消えて、私は戸惑ってしまう。だけどすぐに自分の背中を押して、すっとかりんのもとへ歩み寄った。
怖い。本当にダメだったら、受け止められる自信が無い。
「……かりん?」
震える声で呼びかける。返事はない。次だ。
すぐそばに立膝をついて、同じぐらいの目線で生気を感じ取ろうとした。
それが間違いであり、正解だった。
ああ、もう―――――
血の気が引いた。立膝では身体の支えが足りなくなって、勉強机の支柱に寄りかかる。それでも目が眩みかけたけど、なんとか意識だけは保った。
意識を保った代償か、楽しかった思い出が走馬灯のようにフラッシュバックした。かりんとの記憶が断片的に、いくつも頭の中に浮かんでは消える。記憶の中で垣間見えるかりんはいつも笑っていた。とびきりかわいい、寸分の濁りもない笑顔で。
次第に目頭が熱くなって、暑いのに胸の奥が寒さで震えて、縋るような思いでかりんの手を取った。
「ひっ」
しなやかで柔らかかったかりんの手はもう冷たくて、硬い。それが酷く恐ろしくて、感傷に浸りかけた気持ちが現実に引き戻された。
どうして。
なぜここで、この姿のままで。
誰かに殺されたのか、それとも自ら命を絶ったのか。
もし、後者だとしたら――――
「きゃあああああっ!!」
耳をつんざく悲鳴に思考が遮られる。直後にガラスが落ちて割れる音。
慌てて振り返ると、かりんのお母さんが部屋の入り口に立っていた。彼女は震える手で口元を覆い、硬直している。足下には割れたグラスが落ちていて、注がれていたであろうオレンジジュースはフローリングにじわりと広がっていた。
「ひ、人殺し……!」
「は?」
悲鳴に続いた第二声に耳を疑った。
私が、殺した?
「ちょっと、何を」
話し合いの余地もなく、彼女の瞳の色が急速に変わる。我が子の死を目の当たりにした悲しみが、またたく間に激しい怒りと憎悪で塗りつぶされた。
その矛先は他でもない、私。
彼女はすっと屈んで、ガラス片から大きいものを掴み取った。そして顔を上げて私を見据えると、疑問を抱く余地もなく突っ込んでくる。
「殺ス……ッ!」
彼女の言葉に迷いは見えない。
「ご、誤解です!」
吠えたところで止まるわけがなかった。
距離が詰められる一瞬の間に思考をめぐらす。かりんの遺体と勉強机に挟まれて逃げ場はない。膝をついているから立ち上がるのも間に合わない。
どちらかの腕を犠牲にしても受け止めないと、やられる。
「くっ……」
彼女の動作が大振りなのに助けられ、振りかぶった右手の一撃は腕を掴んで止められた。だけど怪我を免れた安心感なんてない。腕の重みを通して伝わってくる殺意が恐ろしくてたまらない。ありったけの力でガラス片を握る彼女の右手からは血が滴り、私の手まで生温かさを伝えてきた。
「殺ス!」
「うぐぅっ」
腕の重みが増す。凄まじい力で、押し負けるのも時間の問題だ。とてもじゃないけど押し返せないし、できたところですぐに次の攻撃が来る。
なんとかして逃げるしかない。
左右はない。力をいなして前に抜けるのは厳しそう。そうなると手近なもので応戦するか、後ろの大きなガラス戸を開けるか壊すかしてベランダから飛び降りるか。
「死ネ!」
真っ赤なガラス片が喉元に迫る。もう迷ってなんかいられない。
私はなけなしの力を振り絞ってほんのわずか腕を押し返し、同時に立て膝を崩した。
「ウッ」
「ぐっ」
私が後ろに倒れたことで、相手も体勢を崩して半身で私に覆い被さる。その拍子に左足が変な捻り方をして、ガラス片が首筋をかすめた。痛い。けど致命傷じゃない。
間髪入れずに捻っていない右脚でみぞおちに膝蹴りを食らわせ、身体をどかす。そうして怯んだ相手の手からガラス片がするりと床に落ちた。
「コ、ノ……」
彼女が起き上がる前に、私はそれをすかさず拾って部屋の入り口へ放る。すると私に注がれていた彼女の視線は、一瞬だけそっちに向いた。
チャンスだ。
この機を逃すまいと、今度は捻った方の脚で顔面を蹴飛ばした。
「アアァァァァ!」
苦悶の悲鳴にふと罪悪感が脳裏をよぎる。だけど今はそんなことを考えていられない。目を覚ませ、私。
左足の痛みに顔を歪ませながらもなんとか立ち上がり、ガラス戸に手をかけ――
「……は、がっ」
意思に反して自分の口から嗚咽が漏れた。
全身が痺れるような痛みが後を追って、口の中に血の味が広がる。
口元から滴る血のゆくえを追うように視線を下に向けると、服を突き破って胸から黒い何かが突き出ているのがわかった。
本当に何かよくわからない、何か。だけどそれは私の心臓を貫いているらしかった。
「ぉ、あぁ……」
熱い血と、掠れた声が漏れる。
痛い。痛い、痛い痛い痛い熱い。嫌だ、苦しい。
飛びそうになる意識をつなぎ止めて、この場から逃げようとする。だけど私の足は地についていなくて、両腕には力が入らなかった。
私の胸を貫く何かから、私は逃れられない。
「ハ、ハハハハハッ!」
背後から声がする。さっきまで呻いていたはずの、かりんのお母さんの声が。本当に人の声なのかと錯覚するほど恐ろしい声で、彼女は笑っていた。
「殺シタ、殺シタ!」
こんなにも狂気に満ちた声を聞くのは、人生で初めてだ。そしてその人生は、いまここで幕を下ろそうとしている。
そんな。そんなことってない。こんなに突然、こんな死に方をするはずがない。
いや、やめて。
嫌なのに、怖いのに、後がないとわかってしまう。それが何よりも怖い。
ああ。もしかしたら、かりんも同じ気持ちを味わったんだろうか。
いまでは知る由もないけれど。
「…………いい気味」
なぜだろう。
最期に耳に届いた声は、かりんの、声に――――




