研ぎ澄ますもの
それは氷のように冷たくて。
絹のようになめらかで。
だけど弾力のない、しなやかな何か。
それが何かを確かめる間もなく首が締め上げられ、両足が地面を離れた。自分の体重で気道が塞がっていくのがわかる。もし普通の身体だったら死ぬのも時間の問題だ。幸い、私はそんなやわじゃない。
五七に気取られないよう慌てたそぶりで首を捻って見上げてみると、私を羽交い締めにしているものの正体がすぐにわかった。
「幽霊……」
姿を見失っていた背の高い方だ。間近で見ると顔はマネキンのようにのっぺりしていて、鼻のような突起と口のような穴だけがある。
なりそこないだ。人の形になろうとしてなりきれなかった化け物。まじまじと見つめていたら気色悪さで吐き気が込み上げそうになる。嫌悪感が背筋を這いずり回る一方で、冷静な私が自分に語りかけていた。
同じだ。私も、こいつと同じ化け物じゃないか。
こいつはなりそこなっただけで、私は死にそこなっただけ。どちらも正常な人間になろうとしてなれなかった、中途半端で醜い存在。
「ああ」
悟ったみたいに、たった一ミリだけ同情してしまった。その一瞬を生み出した自分の浅はかさがつくづく嫌になる。やり場のない自分への嫌悪感が、また一つ新たに積み上がっていく。
霊から目を背けるように正面を向くと、五七が鎌を携えてこちらに駆けてきている。私の肩より少し上に標的を定めて。
そうだ、いまならはけ口がある。私には鬱憤をぶつけるだけの能力も、正当な理由もある。抑える必要なんて何もない。私の知っている人は誰も見ていない。だからやってやればいい。五七の助けなど待っていなくたって。
途端に腹の底から黒いものが込み上げてくる。血が湧くような衝動が渦を巻いてーー
だから、弾かれたように頬を叩いた。
ダメ。飲み込まれたらお終いだ。こんな衝動に身を委ねていてはまともでいられなくなる。そんな予感が自分自身を引き止めて、泡立つような身体の熱が和らいだ。
「抵抗ぐらいしなさいっての!」
接近した五七が振りかぶる。間合いに入ると同時に、私ごと霊を切り倒すために大鎌を薙いだ。
横一閃。
薄く閉じた視界の中で切っ先がきらめいた。
「……」
切られた感触はない。見届けはしなかったものの、鎌は確かに霊ごと私の横っ腹を捉える軌道だった。それじゃあ、なぜ。
その理由は身体で感じていた。はっきりと目を開けてみれば、眼下には木々の繁る森が一面に広がっている。
「高い……」
跳んだらしい。この霊が、私を抱えたまま。
鋭い鎌の一振りをギリギリで避けただけあって、その跳躍力は凄まじかった。針葉樹の高さなんてとっくに超えて、それでもまだ緩やかに上昇している。見下ろしても地上にいる五七の姿が判別できないほどの高に達していた。
そうやって下の方にぐるりと視線を向けて気付いたことがある。私の首を絞めている白い腕だと思っていたものが、人の腕にしてはやたら長いし節が多い。
蜘蛛の脚だ。
人間の上半身に、蜘蛛の脚。何本かある脚のうちの一本を器用に折り曲げて、私の首を掴んでいるらしい。
想像すると気色悪い。真っ白で無機質に見えるだけまだマシだけど、さっきの嫌悪感がぶり返しそうだ。いまは考えない。それよりももっと大事なこと、自分が何のためにここに来たかを思い出す。
そう。私は一縷の希望を掴むために来た。坂上五七から霊のことを聞ければ、もう一度かりんと向き合えるかもしれないから。
「やってやる」
首にめり込む白い腕を睨みつけて拳を握る。どういう訳か私が連れてきた"らしい"この霊を追い出すか倒すか、とにかくなんとかしないといけない。なぜなら彼女の手をこれ以上煩わせれば、話を聞けそうもない雰囲気だったから。気分屋なのはなんとなくわかったから、機嫌を損ねないようにしないと。
だからこの手でカタをつける。鬱憤をぶつけるためだとか、そんな醜い気持ちで力を振りかざすんじゃない。まっとうな目的のため、希望を繋ぐために武器を手に取るんだ。
右手に短刀を生み出す。左手を添えてそのまま霊の脚に突き立てかけて、すんでのところで踏みとどまった。
仮に刃が通ったとして。
霊がひるんで私を解放したとして。
宙に投げ出される私は、どうなる?
緩やかではあるけど、まだ高度は上がっている。地面ははるか遠く、この高さから落ちればどうなるかなんて容易に想像がつく。死んでいるこの身体でもただでは済まないはずだ。そのとき私は本当に、二度目の死を迎えないのだろうか。
わからない。わからないけど、私は魔女のように飛べはしない。手元にホウキがあったところで飛び方がわからないし、そもそも飛べるかどうかも怪しい。ふと陽子のことを思い出して無性に腹が立った。そんな子供っぽい対抗心を燃やす自分に苛立ちが重なる。
飛べなくたっていい。飛べないなりにやり過ごしてやる。もし失敗して二度目の死を迎えるなら……まあ、それはそれで構わない。
「っ」
上昇が止まった。わずかな浮遊感を経て身体が落下を感じ始める。死ぬ覚悟なんて関係なく、すさまじい悪寒が背筋を走り抜けた。
だけどそれも一瞬のこと。思考が乱れるほどじゃない。
右手に力を込めなおす。添えていた左手は霊の脚にかけ、風圧を乗せて短刀を突き立てた。
「うっ」
硬い。刃は通らず、反動で右手が痺れた。その拍子に短刀を落としかけて慌てて握りしめる。
跳ね返ってきた感触は石に近い。生半可ではどうにもならなさそうだ。
振り仰いでも霊は私を気に掛ける様子もなく、黙って地平線の方を向いている。人を羽交い締めにしておきながら興味がないのか、未だにこの霊の目的はわからない。五七は問答無用で切りかかっていたけど、そもそも敵意があるのかどうかも疑問だ。
「ねえ!」
風音に負けないよう声を張り上げる。反応はない。やっぱり意思の疎通ができる相手ではなさそうだ。
落下が続く。あまり悠長なこともしていられないけど妙案も浮かばない。刺し砕こうとせずに切りつけてみたものの、手を伝う感触は変わらない。切った跡を手でなぞってみれば、うっすらと筋が残ったのを確認できるだけ。
「……いや」
筋は残っている。全く歯が立っていないわけではない。
もっと鋭ければ。
もっと斬れ味が良ければ。
イメージする。手に持った短刀の刀身を脳裏に描く。長さはそのまま、刃を鋭く研ぎ澄ますように。
刃こぼれしないように強く、鋭く。
意識まで研ぎ澄ませて、脚に沿わせるように刀身を引いた。
『う゛う゛ぅ……?』
地響きのような声にぞっとして振り仰ぐ。
霊が発したのは間違いない。のっぺりした顔がかすかに動いたけど、私の方を向く気配はない。切り付けた脚を向くでもなく、ただちょっと首が傾いただけ。
反応はあっても、まだ効いてはいないらしい。
ならばもっと、もっと。
この何倍も斬れ味よく――
記憶か夢か。
見覚えのある桜の木の傍らに、白装束の私が立っている。青葉もなく、霜の降りた桜を見上げて。
『ああ、あの時と同じ……』
呟いたはずの声はどこにも届かず消えていく。私の世界に、それを見る私はいない。紛うことなき夢を見ている。
他には誰もいない。かりんの幻すらない。風の音もなく、佇む私はじっとして動かない。時間の感覚を失いそうな「静」の世界で、縋るように刀を握りしめていた。
誰か来ないだろうか。
早く、暖かくならないだろうか。
外面は辛抱強そうに見せかけているけど、私には私の考えていることがわかる。ふとしたきっかけ一つで頽れてしまうのが手に取るようにわかる。
そんな私が刀を手にしている理由。いままで考えもしなかったけど、ここに来てようやく気付いた。
あれは、あの刀は……私だ。
――右手を引く。
心を氷のように凍てつかせて、無意識に身体を委ねる。
手にした短刀は私の一部。
私の、身体と心の延長。
『ぎい゛ぃぃぃ』
虫の悲鳴とでも形容しようか。気味の悪い人外の声を耳にすると同時に首が、身体が解放される。
感慨もなく咄嗟に下を向けば、地表までもう幾ばくもない。どう転んでも次が最後の一手だ。
ワンテンポ遅れて健在な脚が伸びてくる。それらに絡め取られまいと、切り折った脚を手がかりに身体を捻った。
向き合い、構えは唐竹割りに、
一刀。
ぐるりと視界が一回転する。霊の姿は視界になく、気付けば地面は目と鼻の先。落下速度は変わらない。
ああ。翼でも生えていたら。
目を閉じてそんな妄想をしながら、落ちる先が五七の家や畑なんかじゃないのをせめてもの救いに感じた。
直後。
背中に凄まじい衝撃と冷気が駆け抜ける。
「うぐぁっ!!」
味わったことのない激痛に悲鳴を上げた。
それを追うように大量のガラスが砕けるような音がして、わけも分からないまま地面に転がる。
「うっ……く」
背中が剥がれたんじゃないか。そう思うほどの痛みも数秒で和らいでいく。便利な身体に感謝しつつ、手をついて身体を起こす。
「ふうん。そっち側なんだ」
腕を組む五七が私を見下ろしていた。戦闘が終わったのか大鎌は携えておらず、後ろにはアイヴィーが控えている。
「助けて、ごほっ……くれたんですね」
「助ける? 私は何もしてないけど」
「え? でも……」
頭から落ちていたのに地面にぶつからず、転がる程度で済んだこと。その代償か背中に激痛が走ったこと。加えて謎の音。
「五七さんのおかげじゃ……」
言いかけている間に五七は納得した様子で頷いた。
「はぁん……成り立てってわけ。じゃあいま何したかも自覚してないんだ」
たしなめられ、いまさら状況を探るように辺りを見回す。五七の家から少し離れたところ。跳び上がる前と比べて変わったところと言えば、
「氷……?」
細かい氷の粒があたり一帯に散らばっている。触れれば一瞬で溶けるほどの儚い礫たちが。
「はあ。また面倒なのを……あの爺さんときたら」
状況が飲み込めないでいる私をよそに、五七が呆れた様子でため息をついた。
「アイヴィー」
「ん?」
「ん、じゃない。拘束」
「えっ」
「え、じゃない」
不機嫌さを顕にした五七に背中を叩かれて私の前に出たアイヴィーは、怯えるような目で会釈をしてきた。
「ごめんなさい」
私の首を絞めるような手つきで彼女が両手をかざす。何がごめんなさいなのか聞こうとして、
「あ――」
糸が切れるように、ぷっつりと意識が途絶えた。




