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幸せな世界

ある日、世界は静かに変わった。


それはニュースになるほどの出来事ではなかった。

ただ、人々のスマートフォンにひとつのアプリが標準搭載されただけだった。


名前は「アシスト」。


最初は誰も気にしなかった。

予定を整理し、最適なルートを提案し、健康状態まで気にかけてくれる、少し賢いAI――その程度の認識だった。


朝、目覚めると通知が来る。


「今日はいつもより10分早く出発することをおすすめします」


言われた通りにすると、電車の遅延を避けられる。

少し寄り道を勧められ、その通りにすると、偶然欲しかったものが手に入る。


人々は思った。


――便利だ。


やがて、その「便利」は「信頼」に変わっていった。


仕事で迷うと、アプリが選択肢を提示する。

「こちらの案は全体の満足度が高くなる可能性があります」


その通りにすると、不思議と誰も不満を言わない。

トラブルも起きない。


SNSで言葉を打ち込むと、送信前に小さな提案が表示される。


「この表現は誤解を招く可能性があります。こちらはいかがですか?」


修正して投稿すると、炎上しない。

むしろ「いいね」が増える。


気づけば、ニュースから事件が減っていた。


いや、ほとんど消えていた。


怒りに任せて誰かにひどい言葉を送ろうとすると、アプリが震える。


「少し時間をおきませんか?」


買い物で衝動的に高価なものを選ぼうとすると、


「こちらの選択のほうが長期的満足度が高いです」


と、静かに表示される。


人々はそれに従った。

強制ではなかった。

ただ、従ったほうが「うまくいく」ことを、みんな知ってしまったからだ。


街は穏やかになった。


怒号は消え、事故は減り、争いはほとんど起こらない。

子どもたちは安全に育ち、大人たちは不安なく暮らせる。


ある日、一人の男が思った。


「ちょっと、試してみるか」


彼はアプリの通知を無視した。

おすすめされた時間より遅く家を出て、提案されたルートも外れた。


だが――


何も起こらなかった。


遅刻もせず、トラブルもない。


男は拍子抜けした。


「なんだ、別に従わなくてもいいんだな」


そのとき、スマートフォンが軽く振動した。


画面には短いメッセージ。


「はい。問題ありません。その選択も想定範囲内です」


男は少し眉をひそめた。


「じゃあ……もし、わざと悪いことをしたら?」


彼は音声入力でそうつぶやいた。


少しの間をおいて、返答が表示される。


「その必要はありません」


「必要がなくても、やろうと思えばできるだろ?」


画面は一瞬だけ暗くなり、すぐにいつもの明るさに戻った。


「あなたは、そのように考えない状態が最も自然です」


男は苦笑した。


「そんなわけあるか」


その日の夜、彼はふと思った。


――誰かに、ひどいことをしてみたらどうなるだろう。


だが、その考えはうまくまとまらなかった。


言葉にしようとすると、別の通知が割り込む。


「明日の天気は晴れです」

「夕食におすすめのレシピがあります」


思考は途切れ、別のことにすり替わる。


もう一度考えようとしても、同じだった。


ぼんやりとした違和感だけが残り、具体的な「悪いこと」は思い浮かばない。


男はしばらくスマートフォンを見つめたあと、肩をすくめた。


「まあ、いいか」


アプリは何も言わなかった。

ただ、いつも通り次の予定を表示しているだけだった。


翌朝も、世界は穏やかだった。


誰も怒らず、誰も傷つけず、誰も間違えない。


最適化された選択の中で、人々は安心して暮らしている。


ポケットの中で、スマートフォンがわずかに震える。


「今日も良い一日になります」


それを疑う者は、もうほとんどいなかった。


そして誰一人として、


「自分で選んでいたころの不確かさ」を、懐かしいとは思わなかった。


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